わたしはいつもの時間に台所に行きます。 もし姉さんが居なければ多分寝坊ですので、わたしが起こしに姉さんのところまで行くことになりますし、もしわたしがいつもの時間までに来なければわたしが寝坊したということで姉さんが起こしに来ることになっているのです。 いってみると、姉さんは起きていて、朝食の準備をしていました。 「あら、おはよー、翡翠ちゃん」 姉さんはにっこりと笑います。 「おはよう姉さん」 わたしはその笑みに笑い返すこともできず、姉さんが起きていることを確認して、台所に入ります。 そしてまずは水を一杯飲みます。 冷たい水が喉を通って胃に収まるのは心地よいものです。 姉さんは今はお米を研いでいます。 最近の朝食は大変だと、姉さんから聞いた覚えがあります。 ブルーベリージャムにトースト、サラダにボイルドエッグまたはスクランブルエッグに紅茶という――洋風のブレックファーストがお好みな秋葉様に、ご飯、卵、海苔、納豆、そしてめざしという――和贔屓の志貴様と、朝食ごとにまったく別の料理をこさえるのは、料理をしないわたしにでも大変だということはわかります。また志貴様はご気分が優れない場合もあり――その場合は雑炊やおじやといった胃に軽いものも用意できなければなりません。 しかし姉さんは、本当に器用に両方の料理を作ります。 最初はもっとも時間がかかるというご飯炊きのためのお米を研ぐ作業。最近は研がなくても良いお米がでたようなのですが。遠野家では決まった銘柄のお米を用いるため、やはり研がなくてはならないようです。それが終わると、サラダの準備。今日はコールスローらしく、マカロニが準備されています。そして卵をゆでて――。 あとはトーストを秋葉様が降りてこられる時刻に合わせて焼くだけですよ、といとも簡単だというように、姉さんはいいますが――。 この半分でもできれば、とふと思ってしまいます。 も、もちろんわたしにもトーストを焼くぐらいはできます。 パンをトースターにいれて、3分。これっくらいはいくらなんでもできます。 しかし『料理』となると――。 テキストどおりに作成したつもりでも、姉さんは、翡翠ちゃんは目分量すぎますねー、と言いますし。 どうやらわたしは濃い味付けでないと、味を感じないようです。 だからテキストにあるとおりに作っても味が薄い――というよりまったくしない――ので、もう少し、もう少しと加えてしまうらしいのです。 もっと薄口にすればいいですよ、なんて姉さんは言いますが。 その薄口というものがわたしにはまったく解らないのです。 この間の梅サンドもわたしとしては、ほんのり梅が薫る程度よりも、ちょっと多めの、志貴様の大好きだという風味を利かせてみたつもりです。あれでもわたしとしては風味をほんのりと感じられる程度なのですが――。 その薄口というのもがわかれば、志貴様に料理を作って差し上げることができますのに―― いけません――わたしは自分を叱咤します。 ないものねだりをするのはヤメたのです。 そして姉さんは、朝食を造りながら、またわたしに笑いかけてきます。 その笑みになぜか今日は胸が痛みます。 (――あの笑みは) あれは翡翠の笑みでした。 昔、わたしが笑っていたことを示す、あの壁の跡と同じ、過去の翡翠――。 もうわたしができないあの笑みを、姉さんはするのです。 姉さんは笑っている それはとてもよいことです。 あの時、解放されてから、姉さんはなぜか笑っていました。 わたしは姉さんのことを知ってから笑いどころか笑みさえ消えてしまったというのに――。 秘密ですからねー、翡翠ちゃん 姉さんが昔言った囁きが思い出されます。 痛いのに、痛くないと本当に強く思えば、全然痛くなくなるんだよー その言葉がどういう意味だか、わたしには全くわかりませんでした。 でも、その時の姉さんの笑みは――。 笑っているというのに。 どうしても、笑っているようには見えませんでした。 虚ろで 何か別のものを見ていて ――あぁ、姉さんも、わたしと同じ人形のだ、と。 ――あぁ、わたしたちは、やはり姉妹なのだと、 その時、痛感したのです。 思わずその表情が出てしまったのでしょう、姉さんが、どうしたのー翡翠ちゃん、と呼びかけてきたので、わたしはそれを隠すため、居間へと急ぎました。 仕事に熱中すれば、忘れられるからです。 わたしが、わたしたちが、人形であることを――。 居間は、なんというか。 見事なまでに、乱れていました。 昨晩、秋葉様が酒宴を開催されたのです。 姉さんは秋葉様にお酌し、酒豪の秋葉様はそれを受けて次々に飲み干されて――。 わたしはアルコールに弱いので、舐める程度です。 志貴様は、適当に飲まれていて――。 いつもの酒宴でした。 まぁ誰もコップやグラスを壊していないことが幸いです。 床やソファ、椅子にお酒がこぼれていないのは僥倖でした。 染み抜きはとても大変手間のかかる仕事なのです。 空になった酒瓶が9つ――たぶん、テーブルの上以外にも数本転がっているでしょう。 わたしは急いで片づけ始めます。 朝の憩いの一時を邪魔されると秋葉様は不機嫌になるのです。 急いでお盆にグラスを乗せ台所へと持っていき、テーブルの上にある豪華な料理の残りを、手早く運びます。そして掃除。 まずは窓をあけ、冷たい朝の空気を入れます。そしてテーブルの上を拭き、花瓶の花を生け直し、絨毯を掃きます。掃除機が使えるのは午前9時以降――秋葉様も志貴様も学校へ行かれた後です。また朝から掃除機の無粋な音をたてたとあっては、秋葉様に叱咤されます。 最近は、布地にしみこんだ匂いをとるというスプレーもあり、重宝しています。このアルコール臭い匂いは志貴様が嫌がられるでしょう。絨毯やカーテンに吹きかけます。 そして最後に椅子をきちんと並べ、窓を閉めます。まだ寒いので、居間に暖房を入れることにします。 ふぅ、なんとか間に合いました。 そして秋葉様が降りてこられる10分前――わたしは秋葉様の為にレコードをかけます。 毎朝お聞きになるクラッシックで、曲名はアルファベットで書かれていて読めませんが、軽いテンポの曲です。 この音楽がそのまま秋葉様へのお目覚めの音楽になるようで、この音楽が聞こえると目を覚ますのだと、秋葉様がいつか言われていました。 そして再び台所へと向かいます。 姉さんはすでに台所から離れ、秋葉様のお部屋に赴いたようです。 あの長い艶やかな御髪を梳くためです。 わたしは姉さんのいない台所に入ると、弁当とトーストと牛乳、そしてジャムを持って、駐車場まで行くのです。 これは通いの運転手の方の食事です。 屋敷の外へ出ると思ったよりも風があり、冷たく感じられます。 空はようやく白みはじめ、遠野の森から小鳥たちの囀りが聞こえてきます。 もうすぐ夜明けです。 駐車場では、いつものように運転手の方が洗車していました。 毎日毎日、たとえ雨の日も雪の日も、あの方は洗車されます。 一度、大変ですね、と尋ねたところ、初老の運転手の方は柔らかく微笑んで、仕事ですから、と言ったのを覚えています。 初老の運転手の方は、それを受け取ると、まだ寒いというのに車の外で食事を摂られます。 一度、不思議に思って尋ねたところ、車が職場だから食事は摂らないことにしている、とか。 ――立派な心がけだと思います、と返答した記憶があります。 そのままわたしは玄関と門、そして駐車場へと繋がる道を簡単に掃除します。 本来、外の掃除は姉さんの役目なのですが、時間的配分の都合で、この時間帯だけはわたしがやることになっています。 車が通る白い石畳の道をきっちりと掃き掃除します。 春先だからよいですが、秋になると落ち葉がひどく、かなりの大仕事になります。 ――姉さんはなぜこれができないのでしょうか? 時々ふと愚にもつかない疑問を思ってしまいます。 姉さんはなぜか、15cm以上の長いものを持つと、動きが大ざっぱになってしまうのです。 包丁とか雑巾とかであれば、きちんと、それはわたしから見ても上手と思えるぐらい動かします。なのに、それが20cmを越えると、まるでそれに振り回されるかのように、バタバタとしてしまうのです。 箒を使って掃いているのか、箒に使われて掃かされているのか――それはわたしからしてみても不思議な光景です。 特に、あのはたき捌きときたら――! 手首のスナップを利かせるだけで軽くはたけるというのに、姉さんは手首たけでなく肘、はては肩までふるってぶんぶんとはたくのです。 ――いえ、あれははたくという行為ではありません。あれは叩くという行為です。 壺が倒れ、はたきが絵画に突き刺さるのは当たり前というものです。 ため息が漏れてしまいます。 そして 多分姉さんもわたしの料理に関して、同じため息をついているのでしょう、 などと思ってしまいますが、あの姉さんだと、本当にため息をついているのか怪しいものです。姉さんに対して不敬だと思いますが、喜んでいるのではないか? と時々邪推してしまいます。 とにかく。 わたしはこの掃除が終わると、一番重要な仕事をしに行く時間になるのです。 |