「秋葉」と呼ぶ声。 「兄さん」と答える声。 兄と妹の笑いさざめく声。 昔、そのやり取りを、何度もわたしは聞いた。 それを今また、耳にしている。 年月の隔たりはあれど、同じく。 仲の良い兄と妹の。 兄と妹……? でも――― 『children #3.琥珀』
作:しにを
声が聞こえた気がして、窓を見ると志貴さまと秋葉お嬢様の姿があった。 随分とお部屋が静かだと思っていたら。 いつの間にか外へ出ていたのね。 秋葉さまに志貴さまは腕を取られて、林のほうへ二人で歩いて行く。 何だろう? 後で三時のおやつを作って様子を見に行こうかしら。 美味しそうな苺があるから、それで何かこしらえて。 飲み物は何がいいかしら? もう声は聞こえない。 ただ、窓から二人の姿がちらちらと見えるだけ。 ふと、気がつく。 ガラス越し。 外にいる志貴さまと秋葉さま。 中からそれを眺めるわたし。 遥か昔を思い出させる構図。 僅かに、胸に疼くような痛みを感じる。 でも、それは薄く広がって、静かに消えて行く。 既にそれを思い出として、わたしはお二人を窓から見ていられる。 そして、痛みを痛みとして素直に感じている。 今のわたしは、微笑みをもって、外を眺められる。 過去を過去として、目を背けずにいられる。 お二人が生まれてからの、わたしの変化。 わたし自身が変わったのか、変えられたのか。 自分でも不思議。 そして、もうひとつ不思議な変化。 お二人のお世話を始めてから、不思議な事にわたしは部屋の片付けが出来るようになった。当たり前のように。 それまでは最小限の処置だけで、定期的に外から業者を呼んでいたのに、今では少しはマシなレベルになっている。 片づけを始める前より崩れ去った部屋の有り様に溜息をついたり、壊れた花瓶を慌てて拾い集める真似を今はしていない。 あくまで主だった部屋だけを対象としているのだと言っても、昔とは違う。 時にわたしの掃除する姿をじっと眺めている視線、それを感じる事がある。 不思議なのだろうか。 それとも何かわたしにはわからない感慨があるのだろうか。 秋葉さまのその視線。 いずれにせよ、わたしは顔を合わせない。 秋葉さまも、ほんの短い間佇んでらして、そして何も言わず踵を返す。 お部屋の片付け、掃除、整理整頓。 必要だったのだ。 床をはいはいする志貴さま。 目についたものを口にしようとする秋葉さま。 放っておける訳が無い。 お二人の安全を保つ為には、子供部屋をきちんと保つ必要があった。 それでもまだ可愛く這い回られている頃は良かった。 でも、そんな時は短かくて。 成長する姿を見せてくれた喜びには、幼児の活動範囲の広がりに対する苦慮が付随していた。 ころころ転びながら歩き回る子供が、どれだけ好奇心旺盛にあちこちへ遠出をするものか、わたしも秋葉さまも想像もできなかった。 ぶつかったら危ないもの、手に触れさせてはいけないもの。 そんなものを廊下や部屋を回って探して手を打っていく。 こんなにこのお屋敷が広いものだとは、常日頃はわたしは忘れていた。 気をつけねばならない空間は幾らでもあった。 そして、いつしかわたしは部屋の掃除が出来るようになっていた。 当たり前のように片付け、整理し、きちんとした状態にする事が出来るようになっていた。 何故、今まで出来なかったのかが不思議なくらい。 もちろん、翡翠ちゃんみたいには手際良くはいかないけれど。 ……。 翡翠ちゃん。 今のわたしを見たらびっくりするだろうか? 志貴さまと秋葉さまのお姿も見せたいけど。 でも……。 さて、おやつを作ろう。 可愛いお二人の為に。 本当に良い子達。 小さい頃の志貴さんにそっくりで。 小さい頃の秋葉さまにそっくりで。 お二人が子供に戻ったみたい。 それをわたしがお世話しているのは、時々不思議な心持ちになる。 それにお二人が、わたしの事を「琥珀母さま」と呼んでくれる事も。 幼い頃はともかく、もう物の道理をある程度はわかっているけど、変わらずに「母さま」と呼んでくれる。 秋葉さまも、それを別に咎めだてるどころか違和感すら持っていないように見える。 いちどお話してみたら、事も無げに「だって、琥珀も子供たちの母親でしょう?」とむしろ不思議そうに言葉を返された。 そして黙ってしまったわたしに秋葉さまは仰られた。 「それとも、琥珀は志貴と秋葉から母親を奪おうとするのかしら?」 その時がわたしが秋葉さまの前で涙を見せた、数少ないうちの一回。 ぽろぽろと泣き出したわたしを見て、秋葉さまは狼狽してハンカチを当ててくれた。 わたしも自分でも驚いて必死にこぼれる涙を止めようとしたけど、不慣れで止める術がわからなかった。 それから今に至るまで、私は志貴さまと秋葉さまのもう一人の母親だった。 このわたしが……。 わたしなんかが……。 よし、できました。 苺とカスタードのクレープ包み。 それとお砂糖を入れない紅茶も用意して。 半分に割って余った苺も召し上がって貰いましょう。 口の周りを拭くタオルもお盆に載せて、と。 何処まで行ったのかしら、お二人は? 喜んでくれて良かったこと。 美味しそうに食べてくれるのを見るのは、料理した事に対する最大のご褒美ですからね。 それ以外にも、お二人を見ていると微笑ましくて、自然と笑みが浮かぶ。 秋葉さまの好物だと知っていて、苺をより多く秋葉さまにわける志貴さま。 小さなレディぶりを見せて、志貴さまの口元を拭う秋葉さま。 本当に可愛いお二人。 このまま元気に成長なさって欲しい。 遠野の血を引くお二人だけど。 志貴さまも。 秋葉さまも。 ううん、きっと健やかに大きくなられる。 このまま仲の良い兄妹として大きくなられると思いたい。 兄妹として……。 兄と妹として。 あにといもうと? ……。 体が少し震えていた。 僅かに顔が強張っているのがわかる。 この事を考える時、この事を思い出す時、時々こんな風になる。 恐慌にも似た……。 今でもあの日の事は、はっきりと憶えている。 事細かに、克明に説明することが出来るほど。 お子が生まれ、白い柔らかいお布団に寝かされた。 火のついたように泣いている赤ちゃんは、皺だらけで真っ赤で、でもとても可愛かった。 秋葉さまと志貴さんの赤ちゃん。 男の子と女の子。 二卵性の双子。 順番を間違えないように、第一子を右に、第二子を左に寝かした。 息も絶え絶えになって、一時的に意識を失っていた秋葉さまの声がした。 わたしを呼ぶ。 話すのも苦痛な様子で、それでも必死に子供の事を訊ねる。 懇願するような目の色。 「志貴さまですよ」 男の子が産まれたら志貴と名づける、そう秋葉さまは決められていた。 嬉しそうに、秋葉さまは手を伸ばされた。 志貴さまの体を秋葉さまの傍らに横たえた。 重たげに小さな顔を曲げて、食い入るように我が子を見つめる。 安心したような、うっとりとしたような笑顔。 息の止まるほど見つめ、ふっと力を抜いて視線をこちらに向けられた。 あの時の瞳をきっとわたしは忘れられない。 誇らしげな表情を、わたしは忘れられない。 疲れた顔ではあったけれど、とても輝かしく見えた。 「もうひとりは女の子です」 「……」 こちらにも愛しげな瞳を向ける。 志貴さまを見るのとはまた違った優しい顔。 ああ、とわかる。 母親の目。 お仕えして長いけれど、こんな秋葉さまのお顔は初めてだった。 それに気をとられたからだろうか。 わたしが言葉を重ねる前に、秋葉さまが口を開いた。 「妹ね……」 激しい感情の色を湛えた秋葉さまの呟き。 そして、秋葉さまは、娘に秋葉と名づけた。 同じく決まりきった事のように。 不変の真理を語るような秋葉さまの「志貴の妹は秋葉」という言葉はまだ耳に残っている。 そして、この屋敷に志貴という名の男の子が戻り、秋葉さまが二人となった。 それで何の問題も無く、数年が過ぎた。 けれど、お二人の子供を小学校に通わせるようになる少し前。 正確には、秋葉さまはこの家には一人しかいなくなってしまった。 秋葉さまの法律上での名前は、今では秋葉さまでは無い。 親子で同じ名前は持てない。 今まではどうしていたのかはわからない。 でも正規に戸籍を整える必要が生じ、何の躊躇も無く、秋葉さまは自分の娘に名前を譲られた。 あくまで「志貴」の妹を「秋葉」にする為に。 同時に、父親である志貴さんの名前も、子供である志貴さまのものとなってしまった。 それらはあくまで戸籍上だけの事てはあったけど。 それ以後も秋葉さまは秋葉さまであり、志貴さんは志貴さんである。 実のところ、本当の名前をわたしは知らない。 調べればわかる事だけど、それを知る事は、わたしの仕える秋葉さまと、思い出の中の志貴さんが、消え去ってしまうようで躊躇われた。 少なくともこの家の中では、秋葉さまと志貴さんの双子の子供達が、志貴さんと秋葉さまである。何も問題は無い。 自分が秋葉で無くなったという事実が多少の影響を秋葉さまに与えていたかもしれないけれど。 その心の中の動きまでは、わたしには窺い知れない。 何もないとは思う。 だから、これで良かったのだと思う。 でも……。 わたしは時に一人で考える。 ひとつ、わたしは秘密を持っている。 秋葉さまも、志貴さまも、秋葉お嬢様も、誰一人知らない秘密。 わたしが行ったこと。 誰にも知られていない行為。 双子が誕生した時の、衝動的にした行動。 それが正しかったのか、どうか。 もしそれを成さなければ、今のこの家の様子は変わっていただろうか。 わからない。 些細な影響しかないような気もする。 何かが大きく変わっていたような気もする。 誰にもわからないだろう。 秋葉さまにも、子供のお二人にも。 少なくともこの秘密を誰にも話すつもりはない。 もはや、元に戻す事は出来ない以上は。 暗がりから明かりに晒しても良い事は何も無いのだから。 あの時。 秋葉さまが、生まれたばかりの娘に眼を向けられた時。 あの呟きを、「妹ね……」という呟きをこぼされた時。 ここで何故だろう。 わたしは自分でもわからない事をした。 難しい事ではない。 それを耳にして、 それをきちんと認識して、 それをはっきりと理解して、 そして、私は―――それに頷いただけ。 正しく問い掛けを聴いて、それでも首を縦に振っただけ。 いえ、志貴さまのお姉さまですよ。 その言葉を呑み込んだだけ。 ただ、それだけ……だった。 頷いてわたしは秋葉さまの空いた側にそっと寝かせた。 先程まで、志貴さまの右隣りで眠っていらしたお嬢様を。 本当は秋葉さまの第一子であったのに。 本当はお姉さんだったのに。 この瞬間から、その事実は消え去った。 わたしが否定しなかったから、姉弟であったお二人を兄妹にしてしまった。 それがどのように影響したかはわからない。 秋葉さまに。 そして双子の赤ちゃんのそれからに。 どれだけ運命を変じさせたのかは、わからない。 もしもお嬢様に別の名前がついていたら……。 いえ、それは考えても詮無いこと。 これが、誰にも言わない、わたしだけが知っている……、 きっと死ぬまで誰にも明かさない……、 そんな―――、秘密。 《了》
―――あとがき いちおう締め括りで、まとめてこちらであとがきを。 もともとは、瑞香さんのサイトの10万HITおめでとうございます作品だったのですが、ですが……。 いろいろ書くのが遅れたり、リテイクしたり、その間にサイトが移転したりで、2万HIT記念と言う事で。 一応はお祝いですので、一言。これからも素晴らしい、そして読み手を猛烈に刺激する作品を書かれる事を、一読者として期待いたします。 蛇足ながら本作品の説明。 発端は、瑞香さんが書かれた「遠野の鬼」(MoonGazer様寄贈作品)でした。 異様な迫力。そして読後に猛烈に刺激される創作欲。 掲示板などでその後の展開は……、というやり取りもあり、私は非常にインスパイアされた「腕に抱く卵」(西奏亭収録)というお話を書きました。 怒られるかなとも危惧しましたが、寛大にも瑞香さんに許容して頂き、なおかつ当方のリクエストで「ボクのお母様」を書いて頂きました。 これも瑞香さんらしい素晴らしいお話なのですが、あとがきにも書かれている別の輝きに満ちたプロットが存在しています。 西奏亭の掲示板に瑞香さんが書かれたものです。 以下転載。 昼のお母様と夜のお母様は違う。 昼のお母様はとってもやさしい。 微笑んで、綺麗で、僕は一生懸命お母様を喜ばせるんだ。 でも夜のお母様は少し、嫌い。 だって……。 ううん、嫌いというより、なんだかイヤ。 横で寝ているお母様はそっちと僕の体を撫でる。 やさしくやさしく。 だからお母様と寝ていると気持ちいい。 うとうととしてくすぐったくて、暖かくて、ポカポカして。 でも、なんだかヘンな気分になっちゃうんだ。 お母様は僕の体を撫でてくれる。 背中からはじまって、首筋、頭、耳、鎖骨、胸、太股、そして……。 気持ちよいんだけど怖い。怖くて、わけがわかんなくて…… ……そんな時お母様の顔を見ることはない。 一度だけ見たとき、そこにいるのはお母様じゃなかった。 知らない『誰か』。 僕の名前を呼んでいるけど、でも違う人の名前。 ……わからない。 気持ちよくて喘ぐのに、心は少しだけ冷え冷えとする。 お母様…… …… …… …… ……僕の名前をちゃんと呼んで…… これがまず一つ。 そして男の子でなく、女の子だったらのバージョン。 産まれた子供が女の子でも男装させて、志貴、と名付けるんですよ。 坊や。 昼のお母様はボクをそう呼ぶ。 女の子なのに。 どうして。 そして夜のお母様は、ボクのことをシキとよぶ。 どうして。 ボクの名前もたしかにシキだけど……違う。 お母様――――――――――――どうして。 琥珀お母様はわらって、いいんですよっていう。 どうして。 そう尋ねると、そっと笑うだけ。 お母様、ボクの名前をシキにしたんですか……。 ――……どうして……。 という具合に(笑) これに、やられました。 ええ、ばっさりと。 凄い、こんなの書きたいよと、のた打ち回るような刺激。 さらに「ボクのお母様」でもガツンとやられて書くしかないなと。 でも瑞香さんのプロットでいくらなんでも書けないし……。 じゃあ、双子。それも志貴と秋葉にそっくりな男の子と女の子。 そういう経緯で書き始めたのです。 そういう成り立ちなので、なんと言いますか「ボクのお母様」の模造品みたいな印象なのは、人の褌で相撲を取る所業というのは、自分がいちばん認識していますので、はい。 お読み頂きありがとうございました。 by しにを(2003/7/22) |