消毒薬の匂いがする薄いカーテンの向こう。日に透ける窓ガラス越しに、午
後の静寂がこの保健室内にも満ちている。時折、どこかの教室から聞こえてく
る遠い声以外は何の音も無い。
 かと言って人の気配が無いわけもなく、たくさんの生徒たちが居るのに保た
れる静けさは、授業中独特のものだ。どの教室でも囁かれている筈の低いざわ
めきも私語も、教室の外に出る前にかき消されて、扉の外の廊下はひっそりと
静まり返っている。

 なのに。
 この部屋の中だけ、そんな雰囲気とはかけ離れて響く濡れた水音。

「ん……んぅ、あ……ん、ダメ……っ!」
 触れ合った遠坂の唇は熱かった。横たわったままの彼女の顔を、真上から覗
き込むようにして、強くその口を吸い上げる。
「ふ……う、ん……んむ……」
 高熱の所為で、全然体に力が入らないのだろう。こちらを拒もうとする遠坂
の動きは緩慢で、抵抗の真似事にさえなっていない。それをいい事に、滑らせ
た片手の親指を彼女の唇の間に割り込ませる。つぷ、と粘つくものが引き剥が
される感触がして、二枚の花弁のようなその合わせ目が大きく口を開けた。
「……あっ……」
「──遠坂」
 一度唇を離して、その名前を呼ぶ。目を開いて彼女を見下ろすと、遠坂はき
つく眉根を寄せて、俺の親指に唇を割られたまま、荒い呼吸を繰り返していた。
細い首筋の辺りに、しっとりと汗が浮いているのが見える。
「……ん……ぅ……」
 そのままもう一度、今度はゆっくりと唇を重ね合わせた。こちらも唇を開き、
彼女のそれと互い違いになるように、深く顔を覆いかぶせていく。
「あ……あ、……ん……しろ……ぉ、」
 ひちゃり、という水音。自然と落ちる瞼に狭められていく視界の隅に、皺に
なって縒れるシーツの白さが焼きついて離れない。
「ん……」
 奥に縮こまったままの彼女の舌を見つけ出すと、乱暴にそれを根元から自分
の舌先ですくい上げた。上手なキスのやり方なんて分からないけど、ただもっ
と遠坂の熱に触れたくて、いっそすべて飲み込んでしまいたくて、めちゃくち
ゃに彼女の舌を吸い立てる。もがく遠坂の額から、濡れたタオルが滑り落ちて
いく。
「ふぁ……あ、あ……んん……」
 制服の袖に、遠坂の指が立てられた。苦しいのか、もっと欲しがっているの
かは判然としない。というより、正直考えている余裕が無い。俺の方が、もう
どうあっても止められないほど、全身で遠坂の熱を欲していたから。
「……あ、ん……士郎……」
 気がつくと。
 最初は緩慢ながらも嫌がる挙措を見せていた遠坂は、いつの間にかこちらの
口づけを受け入れ、ぎこちない動きではあるけれど、自分から舌を絡ませてき
ていた。注がれる唾液をこくん──と喉を鳴らして飲み干しては、満ち足りた
ように微かな吐息を漏らす。まるで、甘いミルクを求める仔猫のように、こち
らの口の中を一生懸命その舌先でまさぐって、俺の体液を飽きずに啜り上げる。
「……ん、ん……は、あ……」
「んむ……う、あん……ん、あ……」
 どのくらいそうしていただろう。最初は随分と差のあったお互いの唇の温か
みが、同じ温度になるまでキスを交わしていた俺たちは、どちらからともなく
ゆるりと顔を離した。
見下ろす遠坂の瞳は、透明な水の膜が下りたように潤んでいる。さっきまで蒼
白だった面に血の色が戻ってきているのが見えて、僅かながらの安堵を覚えた。
「ダメよ……士郎、学校でこんなことなんて……大体、三年になるまでは、必
要以上に親しくしないって言ったじゃない……」
 切れ切れに呟かれる遠坂の声は、掠れていて全然迫力が無い。僅かに苦笑し
て、俺は彼女の頬を撫でてやる。
「大丈夫だよ。俺たち以外、ここには誰も居ないんだし。
 それにさっきの遠坂、すごく積極的だったけど?」
「──っ! そ、それは……だ、だって士郎も知ってるじゃない? 魔力の感
応はどの体液でも起こるし、わたし今全然魔力無くてっ、だから士郎のキスが
すごく気持ち良くて──じゃなくて、ああっもう──」
 ほんの少しからかっただけで、おろおろと取り乱す遠坂。こんな状況は滅多
に見られるもんじゃない。普段はこちらに対して圧倒的優位に立つ赤いあくま
も、こういう時には普通の──いや、普通よりもずっと奥手なひとりの女の子
なんだな、と思うと、その可愛らしさに我知らず唇の端がほころんだ。
「ち、ちょっと何笑ってるのよ士郎!」
「あ、ごめん。遠坂があんまり可愛かったもんだから、つい」
「な──」
「とにかく、さっきので少しは楽になれたんだよな?」
 念を押すように尋ねると、彼女はちらり──と上目遣いに視線を走らせて、
「ん」
 こくん、と小さく頷いた。
 うん、それなら一安心だ。知らず緊張したままだった両肩の力を抜いて、遠
坂に笑いかける。
「よし。じゃ、続き」
「続きって──ちょ、まさか、士郎──って、あ、あんた何して……っ!」
 上擦っていく遠坂の声を聞きながら、カーキ色の制服に手をかける。合わせ
目を一息に引き開けると、無造作に袖を抜いて、さっきまで自分が座っていた
椅子の上に放り投げた。真下で、遠坂が小さく息を飲む音が聞こえる。
「や、ちょっと……待ってよ、何考えてるのよ士郎……」
「何って。そんなの、決まってるだろ」
 乱暴に靴を脱ぐと、彼女が横たわるベッドの上に這い上がった。細いパイプ
ベッドが、二人分の体重を受けて微かに軋む。シャツのボタンを片手で緩めな
がら遠坂を見下ろすと、その唇が引きつっているのが目に飛び込んできた。
「い──いやよ! 士郎、ここが何処か分かってるの?! こ……こんな場所
で、そんな真似出来るわけないじゃない……!」
「─────」
 先刻キスをした時とは違って、遠坂は本気で嫌がっているようだった。
 それはそうだろう。大体まだ授業中なのだし、同じ校内にはたくさんの人間
が居る。そんな場所で、素肌をさらして体を重ね合うだなんて、潔癖な遠坂に
は、想像も出来ない痴態に違いない。
 ああ──だけどこっちだって止まらない。ほんとを言えば、今の自分はかな
り頭に来ている。こんな状態になるまで俺に異変を黙っていた遠坂に対しても、
それ以上に、彼女を気づかってやれなくて、遠坂にあんなつらい思いをさせて
いた自分に対しても。
 ──だから。
「これ、邪魔だな」
 遠坂の体を覆っていた薄手の毛布を引き剥がすと、適当に畳んで隅の方に押
しやった。そうすると、更衣室で倒れていたままの、体操着と赤いブルマに包
まれた彼女の肢体があらわになる。
 いつもの黒いニーソックスは、体育の授業には邪魔になる所為か、今は三つ
折りの白く短い靴下を代わりに履いている。そのお蔭で、すらりと伸びるしな
やかな両足が、余すところなくこちらの目の中に飛び込んできた。
「……遠坂……」
「やだ……やだってば、士郎……お願いだから、」
 太股をよじり合わせ、両手で胸を抱くようにして、遠坂が言い募る。
 そんなことを彼女が意図している筈も無いのは百も承知だったけれど──そ
の姿は、凶悪なまでに煽情的だった。ただでさえ脆くなっていた理性が、一瞬
でひび割れる。
 だって、信じられない。二人の恰好は普段着でもパジャマでも無く、こちら
は制服で、彼女は体操着。俺たちにとっては、この恰好をしている時は絶対必
要以上に近づかない、という暗黙の了解が常にあった。その戒めに背くことは、
とんでもない悪事を働くようにひどく背徳的で──

 ──それ以上に、ひどく刺激的だった。

「……遠坂」
 半分くらいまでシャツのボタンを外すと、彼女の脇についた両肘を折るよう
にして、ゆっくり顔を近づけた。保健室特有の消毒用アルコールの匂いに、遠
坂の甘い体臭が混じり込んでいる。鼻孔から侵入してくるそれが、麻酔みたい
に脳を溶かしてゆく錯覚。
 さっきまでの体育の授業で汗をかいた所為だろうか。やけに喉が渇いて、俺
は立て続けに生唾を飲み込んだ。ごくり、という音が、耳の後ろから頭の奥へ
と抜けていく。
「やめて……やめ、なさい、士郎……」
「いやだ」
「……っ! わ、わたしなら、さっきのキスでもう大丈夫だから……あれだけ
で家に帰るくらいまでは持つし、だから、」
「そんなの、今はどうだっていい。俺は遠坂を抱きたいんだ」
 きっぱりと。
 言い淀む彼女の言葉を遮って、俺はそう強く告げた。呆然と目を見開く彼女
の表情は、信じられないものを見たような驚きに満ちている。
「まったく、こんな事なら遠慮なんかするんじゃなかった。
 ──いいか遠坂、俺だって健康な男の子なんだからな。ずーっと我慢してき
た挙げ句、お前のそんな恰好見せられて、今更止まれると思うなよ」
「な……! そんな勝手な言い分──大体、わたし士郎に我慢しろなんて言っ
た覚え無いわよ……!」
「そっか。じゃ、遠坂のお許しも出たことだし、我慢しない」
「う───」
 これ以上問答を続けている気は無い。言い合っているうちに、二人の顔は唇
が触れそうなくらい近づいている。だんだんと遠坂の瞳も熱っぽく揺れてきて、
吐息が艶を帯びていっているのが分かる。
 求められてるんだ、と。直観に近い部分で、理性よりも先に肉体がそう悟っ
ていた。
「誰も来ないから。安心してろって」
 固く体を強張らせる遠坂を落ちつかせるように、一度その頭を優しく撫でて、
俺はその頬に、濡れた唇を押し当てる。途端、ひくりと小さく彼女の肩が揺れ
た。
「いや……」
 泣き出しそうな声が、彼女の唇から漏れる。その言葉に、僅かながら嫌悪の
色が滲んでいるのを感じ取って、俺は思わず顔を起こした。
「……遠坂。そんなに嫌か?」
「……………」
「その──こんな事になるまで、俺がはっきりしなかったから、ひょっとして
遠坂、俺のこと……嫌いになった、とか──」
 そう言いかけた俺の唇を、そっと。
 触れるだけで、遠坂の人指し指が押し止めた。
「ばか……士郎のことなんか、どうやったって嫌いになれるわけないじゃない。
……このばか」
 そんなふうに毒づいて、遠坂は俺の肩に頭を埋める。薄いシャツ越しに、さ
らさらとした黒髪の感触が心地良かった。一度言葉を切って、彼女はぽつぽつ
と後を続ける。
「さっきの授業、体育だったから、わたし……汗、かいちゃってるし、こんな
場所じゃシャワーも浴びれないし……だから、このままで士郎に触れられるの、
イヤなの。……士郎に、汚いって思われたら、わたし──」
「なんだ、そんな事か」
 あんまりにもあっけない理由に、肩透かしを食らった気分だった。な、と絶
句する遠坂を尻目に、中断していた愛撫を再開する。舌を滑らせて、頬から耳
の後ろへと唾液の線を引いていった。さっき濡れタオルで拭いてやったけれど、
まだその皮膚にはほんのりと彼女のかいた汗の味が確かに残っている。
「や──だ、ちょっと士郎、人の話聞いてたの?!」
「ん、ああ、聞いてたけど。俺が、遠坂のこと汚いなんて思うわけないだろ。
大体汗かいたのはこっちも同じだし、お互いさま」
「こ……このっ、ほんとどうして士郎ってばそうデリカシーが無いわけ?! 
女の子にはちゃんと準備する時間が必要なんだから、少しくらい気を使いなさ
いよ!」
「まあ、デリカシーが無いのは謝るけど。ごめん、こっちにももう余裕無いし。
 それに、俺はどんな遠坂でも好きだからさ。第一そんな心配しなくても、お
前全然汚くなんかないぞ。十分キレイだと思う。うん」
「……う」
 熱せられた頭が、ストレートな言葉を口にさせる。後で冷静に立ち返れば、
随分こっ恥ずかしいことを言った気もするけれど、俺にとっては紛れもない事
実だから、撤回する気はさらさら無かった。仄かな汗の味でさえ、最初の時よ
り少し濃く感じられる甘やかな体臭でさえも、こちらの興奮を煽り立てる芳醇
な媚薬に他ならない。
「……しろ──あ……んむ……っ、」
 まだ何かを言い返そうとする遠坂の唇を、キスで封じた。柔らかく蠢く舌の
感触が、じんわりと口元の筋肉を痺れさせる。口づけるというより、遠坂自身
を咀嚼するように唇を動かしながら、白い体操着に包まれたままの胸元へ両手
を滑らせていく。
「ん……んん……」
 遠坂の体温と汗を吸い込んだ布地は、しっとりと湿っていて温かい。柔らか
なぬくもりが、掌にほんのりとした熱を灯す。
「……んぁ……あ、や……あ……っ!」
 呼吸に揺れる小振りな胸を、両手ですっぽりと包み込んだ。刹那、遠坂の背
中がぴくんと反り返るように跳ね上がる。
「やっ……士郎、どこ触って──」
「どこって。胸」
「………っ! だ、ダメって言ったのに……」
 キスの合間に、涙声で哀願してくる遠坂の言葉は、その語彙を裏切って、も
はやただの誘惑の響きしかこちらの耳に残さない。構わず、手のひらの肉厚な
部分で、押し上げるように布越しの乳房を揉みほぐす。
「う、あ……あ……ん、や……」
 ざらざらとした感触は、下着に散りばめられた細かなレースのそれだろうか。
直にあの瑞々しい肉の手触りを味わえないのは焦れったいが、互いに服を着た
まま、校内の一室で交わす秘め事は、ただ抱き合うよりもいっそう濃厚な陶酔
をもたらした。
「ふぁ……あ、士郎……ん、う……」
 敢えて体操着も下着もずらさないまま、執拗に遠坂の胸を愛撫する。
 清潔なベッドの上で、声を殺しながら身を捩る遠坂の姿がたまらない。この
校内にいる限り、どんな男も寄せつけない高嶺の花の優等生の彼女を、思いの
ままに籠絡し、いけない悪戯をしている倒錯めいた興奮。すぐそばに、遠坂に
憧れているたくさんの男たちがいるのに、その肢体に手を触れることを許され
るのは俺一人だ。
 ──ああ、なんだ。意外に自分は独占欲が強かったんだな、なんて、そんな
ことを今更のように気がついたりする。
「ん……しろ、う……あ、……ん……」
 時間をかけて、指先を馴染ませるように乳房を揉みほぐしているうちに、次
第に遠坂の声からも拒絶の色が抜けていく。彼女はするりと指先を伸ばし、こ
ちらのはだけた襟元を遠慮がちに辿っていった。
「……遠坂……?」
「……なんか、変な感じ……」
 はぁ、と途切れ途切れの吐息に溶かすように、甘く漏れる遠坂の声が首筋を
くすぐる。
「いっつも……私服の士郎ばかり見てるから、制服姿の士郎が、こんな近くに
いるのって、なんか……すごく、不思議」
「ん──俺も。クラスが別だと、機会も少ないしな」
 白い指先が、シャツの合間から覗く喉元を滑る。喉仏から、鎖骨の形を確か
めるようにゆっくりと。
「ふふっ……そういう恰好してると、士郎って結構色っぽいのね」
「は?! な、なんでさ?!」
 思いも寄らない遠坂の言葉に、俺はあっけに取られて彼女の顔を見下ろした。
十八年間生きてきて、『猪突盲進バカ』だの『人外魔境のお人好し』だの言わ
れたことはあるが、『色っぽい』なんて形容詞をつけて呼ばれたことは、神に
誓ってただの一度も無い。これはやっぱりアレだろうか、保健室なんていう禁
断の場所で、強引に遠坂を求めている俺へのささやかな意趣返しなのだろうか
──?
「遠坂。あのな──」
 文句を言おうとした俺は、彼女の視線と出会った瞬間、その言葉を奪われる。
 遠坂は別にからかってる風でも無くて、どこか眩しいものを見るような瞳で
まっすぐに俺のことを見上げていた。
 ──コイツはずるい。
 そんな目を向けられたら、衛宮士郎は遠坂凛にどんな真似をされたって、許
さずにはいられなくなってしまうのに。
「お、お前な。男に向かって『色っぽい』なんて普通言わないぞ。それ、褒め
言葉じゃないし」
「そう? でも、そう思ったんだもの。
 貴方は綺麗よ。そうね、時々──」
 恐くなるくらい、と小さく呟いて。
 遠坂は首を伸ばし、俺の唇をそっと塞いだ。
「ん──」
 ついばむようなキスを繰り返しながら、彼女の体操着をまくり上げていく。
下着のホックを外す時だけ、彼女は小さく身を震わせたけれど、逆らいはしな
かった。ぷるん、と果肉のたわむ感触がして、張りつめた乳白色の乳房があら
わになる。
「……あぁ……ん、こんな……学校の中で、ダメ……なんだから……」
 もう分かっている。遠坂はイヤがっている訳じゃない。俺が覚えているよう
な後ろめたい刺激を、彼女もまた感じているのだ。あえて口に出して言うこと
で、自己暗示のように興奮を高めているのだろう。
 だからこちらもはやる思いのままに、そのふっくらとした乳房を両手で抱き
上げた。


(To Be Continued....)