──その時必要だったのは、多分『きっかけ』という奴だったんだと思う。

 お互いに分かっていても言い出せなくて、拒まれたらと思うとそれが怖くて、
堂々巡りな自問自答を繰り返しながら、時間だけが空回りする。
 初めて誰かを好きになった子供みたいに、その横顔を視線でずっとおいかけ
て、気がつけばいつも、この視界の中に彼女は居たのに。

 そこから先の一歩を踏み出せないまま、もう随分と時が過ぎていた───



 『僕たちのSECOND』

                        RIKU




 その日の五時間目の授業は、三クラス合同の体育だった。大体学年末のこの
頃になると、主要五教科から外れたこういう科目というのは生徒たちに取って、
半分息抜きを兼ねたものになる。準備運動を終えると、球技だの器械運動だの
といった一応のカリキュラムに沿ってはいるものの、生徒が自主的にやりたい
ことをやって良し、的な雰囲気が先生の側にもあった。
 という訳で、今日は準備室から引っ張り出されたボールが乱舞する『決戦!
 ボールの数・種類に制限無しのバトルロイヤルドッジボール』なるものが男
女混合で行われた。バレーボールならまだしも、バスケットのボールに直撃を
食らえば結構なダメージだ。最後には殆ど敵も味方も区別出来ないまま『動く
者には投げつけろ』という状況に陥っていた気がする。
 ──いや、それより何より、この球技の最大の欠点は。
「……はぁ。誰だよ、こんなアホな提案したの」
 ボールの手数が多いほど有利になるルールのため、各陣営は体育用具室から
ありったけのボールを引っ張り出してくる訳で──まぁ、言わずと知れた結果
なのだが、終わった後の体育館の惨状は無残の一言に尽きた。あちこちに転が
っているボールを全員で拾い集め、倉庫にしまっているうちに、もう次の授業
の時間が迫っている。
「他の者は全員教室に戻ったぞ。俺たちも急がねば」
「ああ、うん──でももう一つ、このボール入れを奥にしまってからでないと。
 普段使われてないの引っ張り出してきたみたいでさ、ちゃんと元の位置に入
れとかないと、後で使う奴が困るだろうし」
 俺の横で、最後まで一緒に片付けをしていた一成が、眼鏡を押さえてため息
をつく。
「まったく。生徒会の雑用を頼んでいる俺が言えた義理でもないだろうが、衛
宮は少し人が良過ぎるぞ。これほど手間がかかると分かっていれば、他の者に
も残らせて手伝わせたものを」
「いや、後これだけだし、俺一人でも何とかなるよ。
 それより、次の時間HRだったよな? お前がいなきゃまずいだろ。これしま
ったら俺も戻るから、一成は先に教室に帰っててくれ」
「む、しかし──」
「いいって。どうせ奥は狭いし、一人じゃなきゃ入れないからな」
 重ねて俺がそう言うと、一成は渋々と言った様子で頷いた。すまんな、と言
い残して男子更衣室に消えていく奴の背中を見送ると、俺はみっしりとボール
の詰まったかごを引っ張って、埃っぽい用具室の中に引きずっていく。
「う──やっぱ、黴臭いよなぁ……」
 うっすらと黴の臭いがする倉庫は薄暗く、マットや跳び箱と言った器材が所
狭しと詰め込まれている。その中を足元に注意しながら進み、やっとの事で一
番奥にかごを押し込むと、俺は急ぎ足に更衣室へと向かった。
 ──誰もいない男子更衣室はがらんとしている。その所為か、先程までの喧
騒の反響が、ぼんやりと消えずに残っている気がする。そう広くもない雑然と
した室内に、置き去りにされているのは自分の鞄だけで、それが余計にこちら
の気を焦らせた。
「急がなきゃな」
 タオルを取り出して、顔や手をざっと拭いた。特に両手は埃まみれになって
いたので、ごしごしと念入りに汚れを落とす。
「まぁ、随分古いボールまで使ってたからなぁ……」
 A組の三枝さんなんか、ボールを投げた瞬間、空気が抜けてたせいで思い切
り空ぶって、そのまま危うく床に激突するところだったっけ。あの時側にいた
遠坂が支えてやらなければ、怪我のひとつでもしていたかも知れない。
「う」
 ──遠坂。
 考え事の中に、無意識に出てきたその名前に、思わず着替えの手が止まる。
 三クラス合同授業だから人数は結構なものだし、第一今日みたいな馬鹿騒ぎ
では敵も味方も判別するのは大変だった筈なのに、気がつけば自分の視界の中
にはいつも、彼女の姿があったような気がする。
 いや、決して目で追ってたわけじゃない。そりゃ、ブルマから覗くすらっと
した生足は大層魅力的だったし、運動神経抜群の彼女が投げるボールの軌跡は
鮮やかで、一際目立っていたことは確かなんだけど──ずっと遠坂ばかり見て
たら、それこそ俺は変態じゃないか。遠坂を毛嫌いしてる一成あたりに勘づか
れて、問い詰められてもおかしくない。
 ──む。
 って事は何か、俺は別に彼女を意識して見てたわけじゃないにも関わらず、
視線の方が勝手に彼女を追いかけていた、ってことか?
「──病気だなぁ……こりゃ」
 制服の上を羽織りながら、はぁ、と苦笑交じりの吐息が漏れる。
 遠坂と個人的に親しくなる前から、俺は学園のアイドルだった──既に過去
形だ──彼女のファンだった。こうしてたまに授業が重なったり、廊下ですれ
違ったりするたびに、ドキドキしながら何となく眺めていたりはした事もある。
 だけど、その正体を知ってから改めて学園での彼女を見ていると、そのあま
りに完璧な優等生の偽装っぷりと、素顔のギャップに今でも悩まされることし
ばしばだ。
「まぁ、それが遠坂らしいって言えば、らしいんだけどな」
 ジャージを詰めた体育鞄を取り上げると、更衣室を後にする。時間はぎりぎ
りだ。急ぎ足で教室に戻れば、何とか間に合うだろう。
 そう思って、足早に体育館を横切ろうとしたその時だった。

 ──どさり、と。

 何か柔らかいものが打ち倒れるような音が、がらんとした空間にこだまする。
何だろう、と辺りを見回しても、そこには自分以外誰の姿も無い。
「……何だ?」
 その音は、俺が今まで居た男子更衣室の反対側──女子の更衣室の中から聞
こえてきたようだった。
「まだ、誰か残ってるのか?」
 気掛かりを感じて、俺はそちらの方へ歩いていく。授業には間に合わなくな
るかも知れないが、まあ適当に一成が繕ってくれるだろう。それに万が一、泥
棒の侵入だったりしたら大変だ。
 ──普段は間違っても近寄ることの無い、女子更衣室の前に立つ。部屋の作
りは男子のものと同じなのに、そこは絶対に足を踏み入れてはいけない禁断の
地だ。いきなりドアを開けることは流石に出来ないので、こん、とノックする
と、中に向かって誰何する。
「誰かいるのか?」
 ─────。
 返事は無い。
 もう一度ノックして、中から答えが帰ってくるのを待つ。何の応答も無かっ
たが、ひょっとしたら男子の声がした事で、警戒されているのかも知れない。
「もう次の授業始まるぞ。急がないと、遅れるぞ」
 そう告げると、
 ──がたん。
 また、鈍い物音がした。
 間違いなくこの中からだ。良く耳を済ますと、苦しげな息づかいのようなも
のが扉の隙間から聞こえてくる。ドア越しに響くそれはくぐもっていて、中で
何が起きているのかは良く分からないが、只事でないのだけは確かだった。
「おい、大丈夫か?」
 反射的に扉に手をかける。鍵はかかっていないようで、抵抗なく数センチを
滑る重い引き戸。そこまで開けてしまってから、ようやく俺は、ここが女子更
衣室だったことを思い出す。どんな事情があれ、いきなり男子が入っていって
いい場所では無いだろう。
「あの──ごめん、C組の衛宮だけど。その、中で声がしたから……もし、体
調とか悪いなら、すぐ先生呼んでくるけど──」
「……し……ろう……?」
 しどろもどろに告げた俺の言葉に、思ってもみなかった声が、細い隙間から
返される。
 その声色を聞いた瞬間、あらゆる思考が吹っ飛んだ。一気に扉を全開までは
ね開けると、後先も考えずに部屋の中に飛び込む。
「遠坂?! 遠坂……っ!」
 更衣室の片隅で、棚にもたれるように倒れていたのは、紛れもない遠坂その
人だった。俺の姿を認めると、彼女は信じられないものを見たような瞳で、二、
三度緩慢に瞬きをする。
「……士郎……」
 青ざめた唇から、頼りなく俺の名を呼ぶ声がこぼれた。
「大丈夫か、遠坂?」
 大股で一足飛びに彼女に駆け寄ると、棚に押しつけられたその背中を抱き起
こす。
「─────っ!」
 その肌に触れた刹那、震えるような悪寒が背筋を走り抜けていった。
 ──熱い。燃えるような熱が、彼女の皮膚をじりじりと焼いている。着替え
る力さえ残っていなかったのか、体操着とブルマという薄着姿のままの所為で、
その体温は一層ダイレクトにこちらの肌にも伝わってくる。
 そんなにも高熱に苛まれているのに、彼女の顔は血の気を失って蒼白だった。
下瞼の回りだけが、ほんのりと朱を帯びて赤い。半開きの唇も白く、ぜいぜい
と荒い呼吸を繰り返している。
 尋常でない事態なのは、糺すまでもなく一目で分かった。
「遠坂──お、まえ」
「……ん……」
 こちらの腕に抱き留められると、彼女は僅かに安心したような表情を見せて、
そのまま全体重を柔らかく俺の胸に預けてきた。小さな頭が、こつん、と鎖骨
の辺りに当たる。
「遠坂?」
 それが限界だったのだろう。見下ろすと、彼女は既に意識を手放していた。
苦しげな息づかいは変わらないが、まるで親に抱かれた子供みたいに無防備な
顔で、深い眠りに落ちている。
「……どうすりゃいいんだ」
 誰も居ない更衣室で、体操着姿の遠坂を抱き抱えながら、俺はため息をつい
た。
 病院に連れていくにしても、この状況ではどうしようもない。そもそも、魔
術師である彼女の体調の異変に、普通の治療が通用するのかさえ、俺には皆目
分からない。
 彼女の家に連れ帰るのが一番なのだろうが──ブルマな遠坂を抱えたまま堂々
と外を歩いていたら、下手をすれば110番ものだろうし、第一遠坂がそんな
事を許すとも思えない。更衣室に最後まで居残っていたのも、自分の醜態を他
人に見られるのがイヤだったからだろう。実際、授業の最中はそんな様子をお
くびにも出していなかったのだから。
「……ほんと、何処まで意地を張れば済むんだよ」
 そんな彼女が、自分の前ではこうして弱さをさらけ出してくれることは素直
に嬉しかったけれど、今はそれどころじゃなかった。眠りの中にも時折漏れる
苦痛の声が、痛々しくてたまらない。
「とにかく、ここに居ても仕方ないな」
 よっ、と掛け声をかけて立ち上がる。抱き抱えた遠坂の体は酷く軽く、ぷら
ん、と垂れ下がる白い脚線美は、はっきり言って目の毒だ。なるべくそちらを
見ないようにしながら、棚に置かれたままの遠坂の鞄を、俺のと纏めて片手に
持つ。
 更衣室を出ると同時に、次の授業の開始を告げるチャイムが鳴った。──こ
れで、移動中他の生徒に会うことは無いだろう。
 静寂に満ちた廊下を、靴音を立てないように注意しながら、俺は目的の場所
へと足早に急いでいった。

「……ふう」
 蛇口から流れる水は、まだ冬のなごりを残していて、身が引き締まるほどに
冷たい。両手をばしゃばしゃと洗うと、流水で汚れを落としたタオルをがっち
りと固く引き絞る。
 薬品の匂いがする純白のカーテンを開けると、清潔なベッドの上で、目を閉
じたまま横たわる遠坂の姿があった。呼吸は大分落ちついていたが、顔色は更
に悪く、殆ど紙のように白い。
 艶のある黒髪をかき分け、額にうっすらと浮いた汗をタオルで拭ってやる。
頬を撫で、首筋の辺りまでタオルを滑らせたところで、彼女の瞼がぴくり、と
微かに震えた。
「遠坂……?」
「……う……ん……」
 小刻みに睫毛が揺れ、ゆっくりと瞳が開いていく。青ざめた虹彩は最初、ぼ
んやりと天井辺りを所在無く眺めていたが、やがて俺の気配に気づいたのか、
彼女は首だけを捩ってこちらに向けた。
「あれ……士郎? わたし……どうして……」
「大丈夫か? 遠坂」
「ん──ここ、どこ……?」
 舌っ足らずな口調の合間に、聞き苦しい呼吸音が混じる。手に持っていたタ
オルを額に乗せてやると、俺は側にあった椅子を引き寄せ、彼女の顔を覗き込
んだ。
「保健室だよ。覚えてないのか? お前、更衣室で倒れてたんだぞ」
「あ───」
 その時のことを思い出したのだろうか。遠坂は小さく瞬きをして、そっか、
と独り言のように呟いた。
「……そう言えば、士郎が来てくれたんだっけ。びっくりしたわ」
「バカ、びっくりしたのはこっちだ。どうしたんだよ、一体」
 俺の問いに、遠坂は答えなかった。彼女はしばらく黙り込んだ後、俺を見上
げて尋ねてくる。
「先生は……?」
「ああ、部屋に居なかったから勝手に使わせてもらってる」
「他の人に、見られてない?」
「大丈夫だ。俺たち以外誰もいないよ」
 実を言うと、遠坂を保健室に運び込んだ後、中から施錠して、鍵の噛み合わ
せに簡単な『強化』の魔術を施しておいた。万が一この場に誰かが入ってきた
ら、俺は構わなくても、弱った自分を見られることを彼女の方が嫌がりそうだ
ったし。
 遠坂はまだ何処か焦点の合わない目でこちらを見ていたが、やがて力無く笑
った。
「ありがと、助かった。こんなところ、士郎以外の人に見られるのごめんだか
ら」
 一成辺りに見られたら、たまったもんじゃないわ──と、遠坂が小さく毒づ
く。いや、いくら奴だって先刻の状況を目の辺りにすれば、人情として助ける
くらいはすると思うんだが。とは言え、俺としても他の奴にこんな遠坂の姿を
見せるのはお断りなので、あの場に残っていたのが自分だったことは紛れもな
い幸運だった。
「……熱、高いな。なんか薬飲むか?」
「ううん……いい。少し、すれば……落ちつく、から」
 俺の言葉に、彼女は軽く首を振ってそう答える。白い枕に黒髪を散らし、マ
ットに全体重を預けて、はぁ、と彼女は熱っぽい息を吐き出した。

 静寂が訪れる。
 カチカチと時を刻む秒針の音だけが、静まり返った部屋に、やけに大きく響
いている。

 一時の不安と焦燥が鎮まってくると、その代わりに困惑を伴った動揺が浮か
び上がってきた。
 家ではそれなりに親しく接しているけれど、学園に居る時は、回りに怪しま
れない為にも必要以上に近づかない──と、遠坂にきつく言い渡されている。
 俺のクラスはC組で、彼女はA組。クラスメイトでもないし、遠坂は相変わ
らずの学園のアイドルで、男連中にとっては高嶺の花だ。聖杯戦争が終わって
からと言うもの、学園内で彼女と言葉を交わしたことなど、ほんの数える程で
しかない。
 ──なのに。
 紛れもない学園の一室で、彼女と二人きり、こんな近くで時を過ごしている
なんて、あまりに非現実的で実感が沸かない。別に悪いことをしている訳でも
ないのに、まるで酷く許されないタブーを犯してしまったかのように、心は背
徳感で一杯になっている。
 遠坂の息づかいが皮膚をくすぐる。遠坂の体温を肌で感じる。手を伸ばせば
すぐ触れる距離に、遠坂の体がある。

 落ち──つかない。

「その──遠坂。
 俺……戻った方がいいかな。人がそばに居たら、お前、ゆっくり眠れないん
じゃないのか?」
 恐る恐る、そう尋ねてみる。彼女は閉じていた瞼を重く持ち上げ、視線だけ
でこちらを見た。
「そっか……わたし、士郎に授業さぼらせちゃったのね。ごめん」
 こんな時でも、謝るべきと思えばちゃんと頭を下げるのが遠坂だ。俺は慌て
て、彼女の謝罪を手で遮る。
「いや、そんなのは全然まったく一向に構わないんだけど」
 なんていうか、やっぱり今の遠坂の姿は心臓に宜しくない。
 保健室のベッドの毛布は、家で使っているそれよりずっと薄手のもので、彼
女の体の丸みがふっくらと浮き上がっている。その下に納まっている筈の、白
い体操着と赤いブルマに包まれた遠坂の肢体が、まだこの目に焼きついている
ようだ。
「……………」
 まずい。
 さっきはそんな余裕も無くて意識していなかったけれど、今になって、彼女
を抱き抱えた時の肩の細さとか、太股の柔らかさの感触とかがリアルに両手に
蘇ってきて、喉がからからに渇いていく。
(──何考えてんだ、俺……)
 しかし、こんなに具合の悪そうな遠坂に対して、そんな感情を持つことは失
礼だろう。頭をぶん、と振ってピンク色の残像を追い出すと、俺はぬるくなっ
たタオルを裏返して、彼女の額にもう一度乗せ直す。
 弾みで掠めた指先が、その柔らかな頬に触れた。
「……ん」
 その瞬間。
 瑞々しいその張りに息を飲むより、漏れた遠坂の切ない吐息に心臓が跳ねる
よりも、さっきよりもまだ熱くなっている彼女の体温に、ぐらり──と痛みを
伴った目眩がする。
 こんな高熱。筋肉も関節も負荷を受け、酷く軋んでいるだろう。きっと、た
だ横たわっているだけで相当に苦しいはずだ。それなのに、一瞬でもその姿に
欲情めいたものを覚えた自分が、許せないほど腹立たしい。
「バカ、遠坂……! 何が少しすれば落ちつく、だよ! お前、凄い熱だぞ?!」
「……う……」
「先生呼んでくるから待ってろ。とにかく、病院行かないとまずい」
 そう言って。
 椅子を蹴って立ち上がろうとした俺の袖を、白い指先が引き止めた。
「──遠、坂?」
 見れば、ほっそりした彼女の指が、懸命にこちらの制服の袖を引っ張ってい
る。毛布から伸びた腕の細さが、痛いほど頼りない。
「いい……大丈夫、だから。病院、行っても、しかたないし。
 こんなみっともない所……外で、さらせるわけ無いじゃない」
 切れ切れに訴えてくる遠坂の言葉に、かあっと脳が沸騰する。彼女の事情も、
その強がりの理由も十分に分かっているけれど、そんな事を言っている場合じ
ゃないだろう……!
「このバカ、いい加減にしろ……! そんな熱で何言ってんだよお前! 強が
りも程々にしないと、取り返しのつかない事になるぞ?!」
「な……何よ、さっきからバカバカって! 大体、元はと言えば士郎が───」
 むっ、と眉をひそめ、強い口調で言い返してきた遠坂は、そこではっとした
ように口を噤んだ。視線を逸らし、きゅっと唇を結んで、明後日の方向に面を
背けている。その横顔には、『しまった』という表情がありありと現れていた。
「俺が──何だよ」
「……………」
 遠坂は答えない。怒っている──というよりは、どこか拗ねたような面差し
だ。熱の所為か、そっぽを向いたその双眸が酷く潤んでいる。
「……とにかく、大丈夫だから。心配してくれるのはありがたいけど、今は放
っといて。
 ほら──わたしって魔術師だし、こういう症状には普通の治療って効かない
のよ。病院に行っても無意味なの」
「……遠坂」
 ………………。

 ん?
 何だろう。
 今、頭の中で──何かが。

(……魔術師? 魔術師───)

「あ」
 その言葉をゆっくりと二度、頭の中で繰り返すと、不意にかちり、と、何か
の嵌まる音がした。
 更衣室からこっち、ずっと引っかかっていた違和感が、霧が晴れるように一
気に明瞭になっていく。
 何で気づかなかったんだろう。──遠坂は魔術師だ。魔術師という人種は、
十分な魔力さえあれば、体力を消耗してもすぐに回復する事が出来る。そして
それは逆に言えば、いくら体力が残っていても、魔力を失えば即、肉体に悪影
響を及ぼすという事なのだ。
「……遠坂……おまえ、まさか」
 俺の言葉に、何かを悟ったのか。彼女は首筋まで真っ赤に染めながら、頭を
枕に深くうずめた。バカ、という小さくくぐもった声が、背中越しに耳に届く。
それがまるで、今にも泣き出しそうに聞こえて、酷く胸が痛んだ。
 ──間違いない。遠坂のこの現象は、魔力の著しい不足によるものだ。
 聖杯戦争後も、聖杯無しで英霊であるセイバーを現界させているのだ。いく
ら遠坂が優れた魔術師でも、彼女にかかっている負担は生半可なものじゃない。
その上、俺たちはあの日からまだ一度も体を重ねていない。徐々に削られてい
った魔力は、結局限界を超えて倒れるまで、彼女を追い込んでいたのだろう。
「……遠坂。ごめん」
「……………」
「ごめんな。その……俺の、せいで」
「……………」
 彼女は答えない。
 そっと手を伸ばして、その黒髪を撫でる。指を滑る艶やかな感触はあの夜以
来で、それが酷く懐かしかった。飽きずに彼女の黒髪をまさぐりながら、ごめ
ん、ともう一度告げると、彼女は震える声で小さく呟く。
「……謝らないで」
「遠坂……」
「謝られたら……わたし、よけい惨めじゃない。
 士郎に触れてもらえなくて、わたしと、……したくないのは別に仕方ないけ
ど、それを謝られるなんて、そんなの──」
 だんだん彼女の声が潤んでいくのがたまらなくて、俺は慌てて遠坂を遮った。
「ちょ、ちょっと待て遠坂。誤解するな。
 俺はずっと遠坂のこと、その、なんだ……抱き、たかったぞ。ただ、なんて
いうか、俺……」
 言葉が突っかかってしまって、巧く喉から出てこない。
 あの夜から、もう一度彼女を抱きしめることを考えなかった日なんて、一日
だって無い。なのに、その手に触れられなかった原因はいろいろあるけれど─
─でも、それもこれも結局、ただの俺の優柔不断の言い訳だ。
「だから、謝ってるのはそんなことじゃなくて……遠坂がこんなになるまで、
俺、気づかなくて……無理させてて、」
 ──こちらの心を誤解させて、こんなに泣きそうになるほど、つらい想いを
させていた。
「……だから、ごめんな、遠坂。もっと早くこうしてれば良かった」
「え……?」
 一瞬、戸惑ったように声を上げて、遠坂がこちらを見る。
 その細い両肩に手をかけて、遠慮なくこちらを向かせると、遠坂の同意すら
得ないまま、血の気を失った彼女の唇に強く自分のそれを押しつけた。


(To Be Continued....)