自分に言い聞かせるような声。
 その声に、呟く様子に、凛は軽い居心地の悪さを感じる。あるいは若干の違和感
を。
 不快ではないが、むず痒さにも似た変な感覚が生じていた。 

 士郎の呼ぶ自分の名前を、凛は他人の名前のように頭で繰り返してみた。
 遠坂凛と。
 生まれた時からの当たり前の名前。
 その名前を呼ぶ時の表情を、響きを、心で味わう。
 まるで別人の名前みたい。そう感じた。

 単なる幻想、独り善がりのイメージの押し付け。そんなものであれば、凛はそん
な偶像でしかない遠坂凛像を叩きつけ、粉々に砕いただろう。
 完璧なる笑顔を浮かべながらぐりぐりと破片を踏みにじり、仕上げにニコリと笑
ったかもしれない。
 ただ、今はそうはしなかった。士郎の頭にある少女を、彼の憧憬の想いを打ち払
えはしなかった。
 士郎は遠坂凛という存在を知り、理解しようとし、そして今では誰よりも大切な
存在と認めている。
 それは日々接している凛こそが、一番良く知っていた。
 欠点も、目を背けたくなる部分も、ありのままに受け止めている。
 それら全てが遠坂凛なのだと。
 もちろん、理解の外にある部分も多く、幾分かの誤った認知もあるにしても。
 でも同時に、それでなお、昔の遠坂凛を大事にしているのだ。
 彼の胸の中にある少女を忘れてはいない。
 それはある意味、遠坂凛がいちばん壊してはいけないものかもしれない。
 思い出を汚す権利はない。

 とは云っても、と凛は考える。
 この変な状況をどうしたものだろうか。
 睦みあう前の状態、生まれたままの姿を晒しあおうとしている状態。
 しかしいつもの如く触れてくる士郎の指や唇は、距離を置いている。
 では気分が乗らぬから止めようかというのも、違う。
 進むに進めず、退くに退けない、停滞状態。
 このままだときっと、しばらく進展はない。
 くすぐったい視線に晒されているのは甘美ですらあったけれども、せっかくの夜
の時間。
 二人きりでいる事は多い。二人きりでなくとも見えるところ、手の届くところに
いる事は多い。
 けれども、それだけに境界線ははっきりとさせている。
 学校で過ごしている間に、魔術師としての修行の時に、他の家人がいる一時に。
恋人らしい会話を交わし、軽く触れ合い、唇をそっと触れさせる事はある。
 ごくごく稀な事として。
 ほとんどしないからこその、妖しい禁忌の快美を感じつつ。
 しかし、凛にせよ、士郎にせよ、本質的に真面目だった。あるいは怠惰に身を遊
ばせる事を良しとしない共通点があった。
 だから、やるべき事がある時には、それをきちんと行う。勉学にせよ、魔術の修
練にせよ。
 ここしばらくいろいろと立て込んでいて、軽いじゃれ合いはともかく、本格的に
睦み合い、気の済むまで相手を堪能する暇はなかった。
 それ故に士郎にしても、凛を改めて新鮮な目で顧みたのだろう。
 でも、そんな心理状態だと……、多分手を出してこないわね、と心中で凛は呟く。

 こちらから誘惑してみようか。
 その衛宮士郎が高嶺の花としていた憧れの美少女が、微笑みかけてベッドに誘い。
 妖艶に男の愛撫を求める。
 小悪魔のように、あるいは天使のような表情のままで……。
 ダメねと凛は却下。
 それは何だか、士郎を傷つける気がする。
 驚きと、なんだか夢から覚めたような顔。その士郎の姿を克明に思い浮かべられ
る。
 ならばと考え、凛は答えを得る。
 軽い提案。どう転んでも良いような、悪戯心も混ぜた言葉を士郎に。
 自分の照れを転嫁するような言い方になっている。
 
「ねえ、衛宮くん?」
「あ、なんだ、遠坂」

 士郎でなく苗字をもって呼ばれた事に違和感はないらしい。
 改まった様子、よそ行きの笑顔に対しても。
 やはり、いつもと違う士郎だと凛は見て取る。

「じゃあ、初めてだと思って……その…、してみない?
 憧れの遠坂凛に告白して、OKを貰ったの。
 それでデートを重ねて、今ここで初めて結ばれるんだって」

 冗談めかして、いや完全な冗談として凛は提案した。
 それでいて、深刻に受け止められない程度には真摯な口調。
 頷けばそれでいい。
 何を馬鹿なと否定されれば、逆に何が不満なのよと返す。そんなつもりで。

「遠坂と、初めて……」

 士郎の顔は冗談と捉えていなかった。
 まじまじと凛を見つめている。
 なるほどね、と凛は内心で頷き、口を閉ざしたまま士郎を見つめる。
 見開いた士郎の瞳を受け止める。
 
「わたし達の今までの関係はちょっとだけ忘れて。
 別の形で二人が出会って、別の形で惹かれあって……。
 でもまだ、キスしたりする程度。衛宮くんの家にお泊りするような関係にはまだ
なってない。
 そんな架空の関係を今だけ本気で演じてみるの。どうする?」

 まだ理解し切れていない顔で、凛の問う瞳を見つめる。
 そしてようやく光が射したように理解の色を浮かべ、士郎は頷いた。
 はっきりと強く。
 肯定。その意思表示を見て僅かに凛は微笑み、すぐに消し去る。
 後は士郎のリードを待てばいいだろうかと考え、ダメだろうと判断。
 それはフェアではない。もう少しフォローをしないといけない。
 そもそも緊張をしているのは士郎の方、心理的抵抗を減らしてあげないと。

 どうしようかと考え、動けないでいる士郎の手を取る。
 何をするのかという説明はせずに、手の甲を掴んだ手を引き寄せる。
 士郎が戸惑っているうちに、凛の手は胸の膨らみに当てられた。
 正確に言えば、士郎の手の平が凛の左胸にあてがわれた。

「と、遠坂、何をッ」

 悲鳴に近い声。
 反射的に身を引こうとする。
 その決して弱くない動きを、凛は両手でしっかりと封じた。

「いいから。そのまま」

 言い聞かせるような言葉。
 その言葉に士郎は素直に従う。
 薄い布越しの弾力ある膨らみの感触。
 凛の手が両手で抱くようにして押えているので、そのままでいるしかない。
 否応無く集中させられる。
 凛の呼吸に応じて、小さく起伏の動きを伝えてくるのがわかった。

「ねえ、わかるでしょ?」
「うん」

 鼓動。
 手の平に伝わる規則的な刻み。
 それは見た目と違って凛が平静でない事を、正直に伝えてきていた。

「わたしも衛宮くんにドキドキしてるんだから」

 その後は言葉にせずに、凛は士郎を見つめた。
 頼るような瞳。
 男としては、奮い立たずにはいられない訴えかけ。
 凛の手が、柔らかい拘束を解いた。
 胸に触れていた手が、離れる。
 接触が無くなった。
 続けるのなら、どちらかが動かなければならない。
 この場合は……。
 
 意を決したように、士郎が動いた。
 凛の体を引き寄せるように自らの体に招き入れる。
 触れた手が僅かに震えているのを、凛は感じた。

 顔が近づく。
 意図を察して凛はじっとしている。
 ほんの少しだけ顔が上を向く。
 唇が重なった。
 ぎこちないキス。
 けれど触れるだけではない。
 口腔でのねっとりとした愛撫には程遠いが、強く合わせあっている。
 震えが伝わるキス。
 受け止める凛もまた、同じように緊張をするキス。

 それでも、蕩けるように甘い唇だった。
 夢見るように士郎は唇を触れさせていたし、凛はうっとりと受けている。
 止めていた息が動く。
 吐息が重なる。 
 その動作で少し唇が擦れる。それもまた甘美。

 しかし、これは単に始まりに過ぎない。
 普段であればキスをするという一事だけを取っても、ドキドキとしながらタイミ
ングを図る一大事となり得ていた。
 それが、何とも贅沢にも今は違う。
 性交の前の単なる前座。これから先こそが問題となる。
 それは士郎も正しく理解していた。
 唇に酔いつつも、頭の中で次をと考えていた。
 しかし、手順を一々考える前に、凛の背に手が回った。
 自然にぎゅっと士郎は柔らかい体を抱きしめていた。
 キスに助けられたように。
 もっとと目の前の愛しい相手を求める。
 凛のふたつの膨らみが、下着越しに士郎の胸板にその存在を強く伝えていた。
 例えようのない感触。
 押されても屈さないで抵抗する。それでいて柔和な感触を余す事無く伝えてくる。
 

「柔らかい」

 感に堪えないような声。
 あまりに率直過ぎる言葉が、逆に感動の深さを伝えていた。
 少し背に回された腕に力が加わる。
 より強く凛の体が引き寄せられ、強く二人の体は密着する。
 腕に、胸に、腹に、接触する。
 薄い下着と肌の感触が染み入るように、士郎に伝えられる。
 思わず声を洩らすほどの感動。
 士郎の顔は、幸せそうな表情と高揚を露わにしていた。
 
 凛にしても、そうして士郎と強く接触していて、平然としてはいられなかった。
 背こそそう高くないものの、体つきは鍛えている事を示している。
 胸が潰れて、それを受け止める胸板。
 強く抱きしめられて身動きが出来ないのも、軽い束縛される喜びを感じさせる。
 ひとりの男の腕にすっぽりと収まっている。
 士郎の熱を帯びた腕に抱かれている。
 それは、普段の凛からは意外なほどの安らかな感情を抱かせた。
 精神だけでなく、胸の先がちりちりとした何かを伝えていた。
 直接そこだけを責められた訳ではない。摘まれたり押されたりといった局部への
愛撫はない。
 けれど、乳房ともども先端の突起は胸板に押し付けられ、士郎と凛の呼吸の動き
に伴って軽く擦られていた。
 
 わかってしまうだろうか。
 何もされていないのに、胸の先端に感じた徴を示している事を。
 軽く突き出た様を、士郎はどう思うだろうか。
 そんな微かなる危惧にも似た気持ちを抱いた時に、士郎の抱擁が解けた。
 急に投げ出されたような錯覚。
 実際には、背に回された手が外され、僅かに士郎が体を引いただけだったが、劇
的な変化に思えた。
 喪失感すら凛は感じていた。
 
 密着していた凛の胸と士郎の胸の間に、空間が生まれる。
 まじまじと見つめる士郎の目を、そこに感じる。
 士郎は黙ったまま、手が伸ばした。
 胸の丘陵、その側面に手が触れる。
 さっきの受身の状態でではなく、自分の意志で。

「遠坂のここ、本当に柔らかいな」

 指が沈むほどには力を入れていない。
 そっと触れるだけ。なのに、士郎は感嘆に震えていた。
 高価な陶磁器の表面に軽く触れるような仕草。
 撫でるのでなく、あくまで触れるだけ。
 先ほど、胸を押し潰すように抱いていたのとはあまりに違う。
 微かな刺激が胸のあちこちを走る。
 むず痒く、そして内側から熱を持つような痺れ。
 そのまま士郎の愛撫に身を任せていればよかった。
 しかし、その甘い疼きに、凛はうろたえていた。

「でも、わたしの胸小さいし」

 だから、言わずともいい事を言う。
 意外そうな士郎の顔。

「小さいかな」
「小さいわよ。そんなに小さすぎはしないと思うけど……、小さいでしょ?」

 小さいを連呼するのは狼狽からだろうか。恥じらいを含んだ声に、士郎はふむと
そこを注視する。
 確かに有り余るほどの豊かさを誇ってはいない。
 下着の中に慎ましく収まっているというのが正しい表現だろう。
 とは言え、見るからに女らしい曲線。
 二つのなだらかな丘となっていて、見る目を惹きつけている。
 まだ、最後までは姿を現していないのに。
 だったら……。
 ほとんど機械的に士郎の手が動いた。
 白い胸がまろび出る。
 ブラジャーに直接手を掛け、ずらすようにして乳房を露わにしていた。

「きゃっ」
「綺麗だ、遠坂の胸。こんなに形が良くて、可愛くて」

(To Be Continued....)