「二人、初めての」

 作:しにを










「どうしたの、士郎?」

 傍らの恋人の様子に、凛は問い掛けた。
 疑問系だが、咎めるような硬い口調ではない。
 むしろその声は柔らかい。あるいは訊ねる事にためらいが混じっているだろうか。
 普段の凛とは違う声の調子。もっと単刀直入に切り込む響きこそが、ずっと彼女
らしい。
 彼女らしいのだが、それも状況によって変わるのも確かだった。
 強気で胸を張るいつもの姿は、今はむしろそぐわないのかもしれない。
 こんな情況にあっては。

 夜更け過ぎ、二人の他は誰もいない士郎の部屋。
 魔術師の師弟としての緊張感漂う時間も、いつになく早く終えていた。
 時には夜遅くまで指導が続くというのに。
 それでは就寝の姿かと言えば少々異なる。
 身に纏うものは……、極めて微少。
 凛はかろうじてまだ全裸になっていない姿。
 最後に残っているのがニーソックスでないのは珍しいかもしれない。ショーツも
すでになく、白いお尻が見えている。かろうじて胸だけが隠されていた。
 一方の士郎の方はとうに全て脱ぎ捨てている。 
 寝るまでの時間を恋人同士として過ごす、そんな二人の思いが一つになっている、
そんな今現在の有り様。


 そもそも服を脱ぐ動作自体が、凛はゆっくりとしている。ぽいと脱いだ服を放っ
ている士郎のような真似はしない。それはあまりにも優雅さに欠ける。
 落ち着いて、簡単にではあったが着ていたものを畳みさえしている。
 ただでさえ着ているものは凛の方が多いので差がつくのは当然だが、より士郎が
所在無げに待つ時間は増えてしまう。
 だが、そんな凛の仕草は、士郎の目には好ましく映るのが常だった。
 白い肌が少しずつ現れていく様も魅惑的だったし、極めて自然に服を揃える様も
然り。
 見つめすぎて赤い顔になった凛に怒られる事もあったが、それでもちらちらと視
線を向ける。
 今も、そうだった。半裸で布団に正座をするようにしている凛。下半身の秘めた
部分を視線から閉ざしているが、薄い茂みだけはさすがに隠し切れない。そんな姿
に目を向けていた。
 いつもと変わりはない。
 だから、士郎のそんな様子に、凛が疑問を呈したわけではない。
 他に特に何かがあった訳でもない。士郎にしても凛にしても普段通りに、互いの
生まれたままの姿を晒そうとしているだけ。
 しかし、凛は下着を外す手を止め、士郎に顔を向けた。
 何かが違う。
 どうとは言えないが、何か士郎がいつもと違う。
 事に及ぼうとしている今この瞬間になっての疑問ではなかった。
 もっと前。
 湯上りの姿で士郎に対した時、食事を共にしていた時。いや、二人一緒での学校
からの帰り道。
 その時から、何かしらの違和感がなかっただろうか。
 会話の受け答えに変な事は無かった。食事を作ったり片付けをしたり、そんな時
も普段と振る舞いは同じ。
 だけど言葉にはできない微妙なものがあり、妙に気になりかけていた。
 もう少しはっきりとした何かがあれば、すぱっと訊ねていただろう。しかし、僅
かに境界に及ばない。
 訊ねられるべき相手も、いつもより反応がおとなしい。

「うん」

 さらに何かを言うかと思えばそれだけ。
 凛の眉がぴくりと動く。
 しかし、普段ならそれに小動物の如く着目しただろう士郎は黙ったまま。

「ねえ、士郎?」
「ああ」

 またも上の空のように返答。
 凛はしおらしい態度を半ば捨て去り、声を鋭くする。
 
「うんとか、ああじゃなくて。なんだかわたしを見る目がいつもと違うじゃない」

 言って、凛は自分で自分の言葉になるほどと思う。
 向けられている視線が違うのだ。
 クラスメイトでも、魔術師と弟子でも、ただの友達でもない、そんな関係のひと
時。
 熱っぽくはあっても、こんな奇妙な色を湛えた眼で見られる理由がない。
 何を考えているのだろう、凛の洞察力をもっても、推測する為の材料が少なすぎ
た。
 ようやく、士郎が反応し始める。
 沈黙は同じだが、何か考えている様子に、凛は大人しく士郎を待った。
 
「言えない」
「え?」

 しかし頭を捻った挙句の士郎の返答に、凛はきょとんとした顔にさせられた。目
が丸くなる。
 彼女らしからぬ表情だったが、しかし、それは一瞬。
 すぐに険しい顔で士郎を強く見つめる。
 言葉なく、しかし言えと詰め寄るような雄弁な眼。
 抗し切れる事無く、士郎は追い詰められた顔をする。
 微かに、ほんの僅かに、凛の眉が動いた。
 吊り上がる方向へと。
 実際にはそんな動きは無かったかもしれないが、士郎はそう認識した。
 認識した以上はそれは危険信号。真偽がどうかは些細な問題に過ぎない。

「言うと、遠坂に叱られるから」
「叱られるって……」

 真顔で言われ、またも凛は表情を戸惑ったものに変えた。
 まだ会話らしい会話もしていないのに、二度も困惑させられた。
 珍しい事だった。それ故に迷った。
 多少ポーズで怒るべきか、あるいは呆れるべきか。
 結局、小さく溜息をつくにとどめ、言葉を促す。
 どうにも、心身の親密さを確認しあう前の会話としてはそぐわない。
 何をしているのだろうと頭の片隅で凛は思った。

「改めて考えると、すごく不思議で。それで不思議だと思っていたら、昔の感覚が
戻って来た」
「不思議って?」

 やはり、今日は何かおかしい、凛はそう思った。士郎の考えている事がわからな
い。
 不思議なのは士郎の方だ。
 何を言っているのだろうと首を傾げざるをえない。
 幸い、言葉を選びつつ士郎は何かを言おうとしていた。

「遠坂とこうしている事」
「こうしてってって、その……士郎とこうする事?」

 うん、と士郎は頷く。
 直接的な単語も、身振りも伴わないが、二人で間違う事なく意味するところを共
有していた。
 つまりは、体を重ねる事。
 愛撫し合い、体を一つとし、思いつく限りのいろんな事をして、最後にはクライ
マックスを迎える。
 時には一度ならず、何度も。
 恋人同士の秘め事。
 そうそう毎日毎夜、繰り返す事は出来ない。
 けれども、それだけに想いが重なった時には、信じられないほど幸せになれる行
為。
 
「何を今更。……とは言ってもまあ、わからないでもないけど。
 わたしも時々似た事思うわ」

 今も下着姿を士郎の視線に晒しているのを、凛は強く意識する。 
 普段着ているものとは少し違う。
 今日こうなるのを予測しての、選択。
 すぐに脱がされるとは言え、少しでも見栄えがするものをあれこれ選んだのだ。
 実用本位では駄目。かといって過度に肌の露出部を増やしているようなものも、
どんな印象を与えるかわからない。
 毎回新しいものを着けて見せるのも誤解を招くかもしれない。
 でも、士郎はそもそも、下着の違い等にそれほどの違いを認識しているのだろう
か。
 観察力はあると思うけど。だったらもう少し……。
 ふと我に返って、下着を床にいくつも撒き散らしている自分の姿に赤面する凛だ
った。 

「本当に不思議なんだ。俺の傍に遠坂がいる。
 遠坂と話して、遠坂と同じ部屋にいて。
 それで、遠坂が恋人になってくれて……。
 ほんの少し前までは、言葉を交わした事だってほとんどなかったのに。
 知らなかった訳じゃない。遠坂の事を意識してた。
 時々、廊下ですれ違ったり、部活してたら帰る姿が見えたりして……。
 目についたんだよな、遠坂の姿。なんて綺麗なんだろうって。
 本当に、あの頃の、……いや、今も遠坂は魅力的だぞ」
「はいはい」

 士郎にしては長い述懐、そして慌てての物言いに、凛は苦笑する。
 しかし、士郎はそんな凛の様子に気付かない。
 自分の世界に没入したような、夢見る表情に変わる。
 目の前の凛を見ていて、同時に違う何者かを見ている眼。

「俺、憧れてたんだ、遠坂の事。
 自分の恋人にしたいなんて大それた事は考えなくて、遠くから見るだけで……」

 頭の中で、その過去の遠坂凛を思い浮かべているのだろう。
 柔らかい、微かな表情の変化。
 凛は無言のままで、士郎の顔を見つめる。
 士郎の述懐に肯定的でもなく、否定的でもなく、どうしたら良いのかわからない
様子で。
 別の女性に士郎がそんな思慕の念を示せば、激しく嫉妬心も出てきたかもしれな
い。
 見た事ないような優しい顔。
 けれども、その相手は自分自身。
 士郎は言葉を止め、物思いするように黙り込む。
 しかし、再び口を開いた時には、今の遠坂凛の顔を見ていた。

「遠坂が恋人になってくれて、俺、嬉しいよ。本当に、心の底から嬉しい。
 でも、それが自然の事みたいに過ごしていて、改めて考えるととんでもない事な
んだよな。
 うん、信じられない。俺なんかの傍に、遠坂がいるなんてさ」
「……何を言うかと思えば」

 ようやく凛は口を開いた。
 ほんの少し頬に赤みが差している。
 それが何によるものか。
 自分の内に起こった感情を正しく露わにしたものか、あるいは別の形に偽装した
のか。
 表面的には凛の言葉は軽い叱責めいたものであった。口調が伴っているかはとも
かくとして。

「不自然だと、言いたい訳?
 士郎とわたしがつきあってる事が、もしかして間違いだって言うの?」

 疑問ではあったが、否定を表す言葉を、凛は期待していた。
 少なくとも、自分の言葉に対して慌てた受け答えがある事を。
 だからあえて「間違っている」という強い言葉を使った。
 しかし、即座に否定めいた言葉が出てはこない。
 沈黙。
 それは答えに窮していると云うより、消極的であれ肯定を示しているようであっ
た。
 軽い驚きを凛が顔に浮かべた時、士郎はようやく答えた。

「間違いなんかじゃない。そんな事は思っていない。
 ただ、俺じゃなくて、むしろ遠坂が自分をわかっていないんだ」
「わたしが?」

 怪訝な顔に対し、士郎は真面目に頷く。
 いつもの士郎でない目が自分を見つめるのを、凛は感じる。
 どこか口を挟ませない力を秘めている。

「遠坂が、どんな風に他人に見えるのか、皆にどう思われているか。
 いや、他の奴はどうでもいい。
 とにかくだな、遠坂は勉強でも、運動でも何でも出来て。綺麗で堂々としていて。
 魔術師としても俺なんかと比べ様のない凄い才能があって。
 才能だけじゃない。そうなる為にいつも努力しているのも知ってる。むしろ、そ
れだけ何でもやり切ろうとしている遠坂を尊敬している。
 俺にとって遠坂は……」

 士郎の手が、凛の髪に触れた。
 そっと触れるだけ。けれども今日初めての接触。
 感覚を持たぬ凛の髪が、士郎の手を感じている。
 触れられているという事実が、凛に士郎を強く意識させていた。

「俺にとって遠坂は、本当に凄い奴なんだ。
 でも、その遠坂にこうやって触れる事も出来る。
 遠坂が応えてくれる。それって、どう控え目に見ても、とんでもない夢みたいじ
ゃないか」

 軽く触れて優しく撫でる。
 手にしたものが不思議なものでもあるかのように。
 触れているという事実を自分でも信じられないように。

「遠坂なんだよな、今ここにいるの。
 あの遠坂凛なんだよな」

(To Be Continued....)