「それで……何が見えたの?」
「……秋葉さんが、その……誰かに連れ去られる光景です」

 志貴は、自分の古傷のあたりが竦み上がるのが分かった。胸の中がぎゅー、
と締め付けられるようになり、古傷の下の内蔵が疼きだし、そのまま頭の血が
下がっていって気絶しそうになるほどの心痛の感覚。
 秋葉が、誰かに連れ去られる。それは、未知の情報だった。

「……周りの光景とかは、見えたの?」
「ちょっとだけです。すっごく明るい光を出して燃える車があって、下が雪の
積もった草原で」

 その話を聞いて、志貴は自分の唇が乾くのを感じる思いがした。晶の話には、
彼女がもし未来視に寄らず別の経由で知ったとしても、この事故に関しての重
要な違いがある。
 晶はそれが、雪の草原だという。だが、あの事故現場は舗装道路だ。

 晶が見たのは、志貴が迷い込んだあの、謎の空間と同じだった。
 おそらく、晶は重要な何かをを知っている。志貴は、知らず流れる掌の汗を
拭い、聞いた。

「それで……誰が、秋葉を?」
「……その、知らない男の人なんですけども……黒い男の人でした」

 黒い男。それが何を意味しているのかを志貴は分からなかった。だが、あの
場にいた白い女性と一対の対象を為す、興味深い話であった。あの女性のこと
は知っているのか――と尋ねようかと志貴は思ったが、無理せずに晶に話を続
けさせる。

「短い白髪を短髪にした三十ぐらいの人で、こう、瞼がないみたいに目をかっ
と見開いていて……それに、コートの前を空けていたんですけども、そこから
見える身体が……真っ黒なんです。それに、すっごく怖い感じがしました、ま
るで大きな狂犬みいたな」

 そこまで言うと、晶はさも恐ろしいことを思いだしたかのように身震いをす
る。志貴はその言葉を聞き、何とかその男を想像しようとした――狂犬のよう
な黒い男。それが、秋葉を連れ去った

「それで、晶ちゃん……」
「その男の人が、遠野先輩を抱えて、ものすごい勢いで走り去っていくんです。
そこまでしか見えなかったんですけども、凄く悪い予感がしたから、先輩に……
先輩に帰り道に気を付けて下さいって言ったんです。
 でも、先輩はそのまま……私がちゃんと言っていれば……」

 そこで感に堪えかねたように、晶は涙ぐんでしまう。

「晶ちゃん、晶ちゃんは悪くないよ……それに、せっかく来てもらって、話を
聞かせて貰ってすごく感謝している。有り難う」

 志貴の暖かい言葉を掛けられて、え、と晶は顔を上げる。そして、目の前の
蒼く優しい瞳が自分に向けられているのを知り、ぽ、と頬を赤らめる。
 志貴は、表情こそおだやかに保っていたが、その内心は穏やかではない。そ
れも、晶の未来視の話を聞いてからは余計に焦慮が深まる。

 秋葉が黒い男に連れ去れた。誰だか分からないが、これが警察などに知られ
ればきっとまずいことになる……志貴はそう思う。普通に考えれば誘拐脅迫な
どの犯罪だろうが、志貴には、自然と単純な営利目的の犯罪には思えなかった。

 それは、あの雪の草原――あの不可思議な世界と、白い女と黒い男。普通の
犯罪にはあまりにも不似合いの、異様な存在があるのだから。
 かつて、志貴の先生はこういった。特異は特異を呼び寄せる、と……秋葉の
遠野という血が呼び寄せた、怪異の気配を色濃く感じられる。

 志貴はそのまま、おだやかな様子を保ったままで晶としばらく言葉を交わす。
やがて、晶が時計をちょっと眺めると、すまさなそう頭を下げる

「すいません、志貴さん……私の話を聞いて貰って。でも、志貴さんに『有り
難う』っていわれて、すっごく嬉しかったです」
「いいさ。俺に出来るのはそれぐらいだからな……翡翠、ちょっと」

 志貴は、翡翠を呼び寄せてから屈んだ翡翠の耳元に小さく告げる。

「タクシーを呼んで欲しい。それに瀬尾さんを駅まで送って行く……しばらく
出掛けるから」

 その言葉を聞くと、翡翠は僅かに眉をひそめる。そして、志貴に向かって晶
に聞かれないように低く囁くように言い返す。
 声は、志貴の耳だけに伝わる。

「志貴さま……その、件の男をお捜しになられるのですか?」

 翡翠の指摘を受け、志貴は苦く黙ってしまう。部屋に同室して、志貴と一緒
に晶の話を聞いた翡翠には、次に志貴がどのような行動をのかを見通していた。
さらに、志貴との短からぬ関係から、その推測に対して自信を持っている。翡
翠の目には、薄く非難の色があった。
 痛いところをつかれた志貴は翡翠をじっと見つめると――頷いた。

 二人の間に、沈黙が流れる。だが、折れたのは翡翠だった。

「畏まりました。志貴さまの外出の支度も致しますので」
「……済まない。翡翠」

 翡翠は頷くと、応接間の中で不思議そうな顔をして二人のやり取りを眺めて
いる晶にお辞儀をして部屋から去っていった。晶は、しなやかな動きの翡翠に
も見入っていたようだったが、そんな翡翠の後ろ姿を見送る志貴の視線にも気
が付いていた。
 愛しい人を見つめる瞳の、蒼い優しい光。その目に、晶は羨ましそうに息を吐く。

 志貴は、そんな晶の態度に振り向いた。何気なく、晶の口から問いが漏れる。

「志貴さん……あのメイドさんの事、好きなんですか?」
「……好きとか嫌いとかじゃなくて、翡翠は俺が生きて行くためには欠かすこ
との出来ない存在だよ……七夜さんも秋葉もそうだ。晶ちゃんも、そのうちそ
うなると良いと思っている」

 そう言われて、あややや、と晶が頬に手を当てる。志貴は無意識のうちに晶
を口説いていたが、それに気が付いていない志貴はタチが悪い。この場に秋葉
がいればきっとこんな、女性につい気を持たせる志貴の態度を叱責していただ
ろう。
 
 しばらく二人の間に無言の時間が過ぎる。お互いに紅茶とテーブルを挟んで
言葉少なだった志貴と晶だが、やがてタクシーがやって来たことを七夜に告げ
られ、志貴は一足早く部屋に向かって支度を整えようとした。

 屋敷を小走りに走り、部屋に戻り志貴はセーターとコートを着込む。そして、
あのナイフを手に取ると、コートの隠しに差し込む。
 部屋を出た志貴は、迎えに来た翡翠と戸口の前で鉢合わせとなった

 志貴は、戸口の前にいる翡翠を見つめた。一度出掛けたまま病院に運ばれた
志貴が、再び出掛けようとする事に対しての非難の色を浮かべているのを感じ
取る志貴ではあったが、ここで謝って家に留まろうとする志貴でもない。

 声を先に掛けたのは翡翠であった。目を閉じた翡翠は、深々と頭を下げて志
貴にこう告げる。

「……志貴さま。僭越ではございますが、どうかご無理だけはお控え下さい」
「わかって……いる。御免、翡翠、俺は秋葉に繋がる何かを、なんとか調べ
なきゃ居ても立ってもいられないんだよ……」
「いえ、私も同じ気持ちです、志貴さま。一刻も早く秋葉さまにお戻り戴く
ためでしたら、姉さんも私も粉骨砕身の労を厭いませんが……」

 そう悲しそうな顔の翡翠に言われると、志貴も胸が痛む。秋葉のことを心
配をしているのは、志貴一人だけではない――今更ながら、それを知って志
貴は唇を噛む。

「翡翠……じゃぁ、出掛けてくる。秋葉を連れて戻ってくるから……」
「志貴さま……きっと、ご無事でお戻り下さい」

 志貴はそういう翡翠の背中をそっと抱くと、身体を離して足を階下に向ける。
 翡翠は、その場で己の身体に宿った志貴の身体の温かさを、惜しむように
己の身を抱きしめる。窓の外に雪はない。だが、夜が――深く暗く、異形と
異変を蔵する夜の闇がこの街に迫りつつあった。

(To Be Continued....)