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 心のどこかから響いてきたその声に、私は身を震わせて自分の両肩を抱きし
めた。
 自分の心の中で、私ではないもう一人の自分が目を覚ます異様な感覚。
 それは、「反転」と呼ばれる衝動だった。

「ちょっと、聞いてるの!?」

 無視されたのかと思ったのか、少女が強く私の肩を突いた。
 急なことで姿勢を崩し、仰向けに寝台に転がってしまう。
 左右の取り巻きが歓声を上げた。私の股間を見て口笛を吹く。

「うわ、気持ち悪ぅ」
「親の因果が子に報いって? やぁねえ、もう」

 ――――気持ち、悪い?これが? 
 そんなことは、ない。だってこれは、兄さんのものなのだから。
 顔が強張るのが自分でも分かった。
 私を侮辱するのはかまわない。嫌悪されるのも我慢しよう。
 だが、これを侮辱するのは許さない。
 これは兄さんの一部、兄さん自身。私が兄さんと一つになれたその証拠。
 それを侮辱するのは兄さんの侮辱するのと同じこと。
 そんなことは許さない――――許せるわけがない!
 黙ってしまった私をどうとったのか、中央の少女が侮蔑もあらわに口を開い
た。

「そっかぁ、なんで学院に戻ってきたのかと思ったら……お兄さんにそれがば
れて逃げ出したってわけなんだ?」

 左右の取り巻きが追従の笑いを上げる。
 ああ、なんてことだろう。
 これで、私はあなたたちに何の遠慮もすることが出来なくなった。
 する必要が、なくなった。

 だって、あなたたちは、私の兄さんを侮辱したのだから――――! 

 誰かが息を呑む声がした。
「な……、なによ、その髪……?」
 赤く染まった私の髪がそんなに怖いのか、震えながら指を差してくる。

 あ、は――――

 笑い声が唇から漏れた。
 ああ、私はなんて馬鹿なんだろう。最初からこうすればよかったのだ。そう
だ、昔から言うではないか。“死人に口なし”って。
 ああ、なんておかしいんだろう。おかしくておかしくて堪らない。私は、な
んて馬鹿だったんだろう。

「笑うなぁっ!」
 
 眼鏡の子が、一声叫んで横の机の上に置いてあったコップを投げた。
 明らかにそれは私の顔を狙ってはいたのだけれど、それが的に命中すること
はなかった。
 私の鬼種としての異能、檻髪が空中でそれを捉えたのだ。

「ひっ……!」

 青ざめた顔をした少女たちが揃って一歩退いた。
 そうか、私の檻髪は不可視だ。きっと彼女たちには、コップが空中で浮いて
いるように見えるのだろう。
 ふうん、じゃあこうするとどうかしら。
 ほんの少し力を入れた。空中で支えられたコップが音を立てて割れていく。
少女たちは今にも泣き出しそうだ。
 あら、どうしたのかしら。さっきまではあんなにも元気がよかったのに。変
わった子たちねえ。
 笑いながら寝台を下り、膝の辺りにあった紺の布切れを引き上げる。

「な、なによあんた!なんなのよ!」

 耳障りな声に顔をしかめる。なぁんだ、まだそこにいたの。さっさと逃げれ
ばいいのにねぇ。
 笑いながら彼女たちに近づく。少女たちが更に一歩下がろうとして、何かに
触れたように飛び上がった。
 残念ねぇ。あなたたちは檻髪で作った箱の中にいるのよ。そう簡単には出れ
ないわよ?

「ご、ごめんなさいっ!」

 細目の子がいきなり跪いた。土下座して許しを乞おうとでもいうのかしら。
 ああ、なんて無様なんだろう。
 ぞくりと背筋を何かが走った。なんだか奇妙に喉が渇く。
 彼女の身体はふくよかで、肉も柔らかそうだ。檻髪でその皮膚を引き裂いた
ら、一体どんな感触がするだろう。横目でもう二人を睨む。
 眼鏡の子は駄目ね。骨と筋ばかりで固そうだわ。ああ、でも柔らかいだけよ
りは歯ごたえがあるほうがいいのかしら。そうそう楽しめるものでもないし、
慎重に決めないと。
 ――――歪んでいるな、そう思う。
 心の片隅で、まだ正気を残している私が呟いた。反転しかかっているな、と。
 反転、そうか反転か。じゃあ、それを鎮めないと。琥珀はここにいないけれ
ど、新鮮な血液を呑めばこの渇きも癒えるだろう。 
「う、ふ――――」
 微笑みながら細目の子を立たせてあげる。許されたと思ったのか喜色がその
表情に浮かび、次の瞬間には消えうせた。糸のような細い目が、限界まで見開
かれて私を見つめている。
 その瞳の中に、見知らぬ少女がいた。赤い髪、赤い瞳の鬼女がこちらを見て
いる。
 私が微笑むと、その赤い鬼女も微笑んだ。楽しそうな、けれど背筋が凍りそ
うなその微笑。

「ひ、い……」

 震えだす少女の身体を抱き締める。大丈夫、何も怖いことなんてないのよ?
 舌を伸ばし、そっと首筋に這わせた。彼女の震えがますます大きくなってい
く。
 ああ、けれどこれはいい。鼓動が早くなった所為で、血管がどこを通ってい
るのかよく分かる。動脈と静脈、間違えてはいけない。動脈を傷つけてしまっ
たら、血で服が汚れてしまうから。

「――――――――!」

 ああ、熱い血潮が私の喉を焼く。なんて美味しいんだろう。
 鉄の味が口内に溢れる。なんて甘いんだろう。
 一息に呑んで、そっと腕の力を抜いた。完全に意識を失った少女がその場に
崩れ落ちる。
 あら? 貧血になるほど呑んではいないはずだけど。
 顔を覗きこむと、完全に白目を剥いている。どうやら恐怖で気絶したらしい。
 
 湿った水音がした。そちらに目をやると、眼鏡の子が床に座り込んでいる。
その真下には黄色い水溜りがある。
 やぁねえ、あなた。高校生にもなって。
 ああ、でもこれで彼女の血を呑む気はなくなった。鼻を摘み、辺りに漂う異
臭に顔をしかめる。私はこう見えても美食家なのだ。こんな匂いの中で食事を
とる気にはとてもならない。
 それに、そろそろ生徒会の時間だ。
 手を伸ばし、お嬢様風の少女の頬に触れる。彼女は尚も虚勢を張ろうとして
いたが、成功しているとはとても言い難かった。 

「美味しそうね、あなた」

 顔を引きつらせる彼女を残し、そっと出口へと歩き出した。

「ああ、そうそう……」

 振り返り、面白そうにこう言ってやった。

「別に、誰かに話してもいいわよ。“遠野秋葉は血を吸う化け物だ”ってね。
……最後まで、言えたらね」

 そっと視線に力を込める。檻髪で切り裂かれた胸元を押さえて震えだす少女
に、私はむしろ優しく声をかけた。

「そろそろ生徒会の時間よ、遅れないでね?」





 結局、彼女は生徒会には来なかった。
 それから数日を待たずして学院を辞めてしまったのである。取り巻きの二人
も同様だ。噂では、黄色い救急車が迎えに来たらしいが詳しくは知らない。ど
うやら、かなり錯乱状態にあったらしい。
 彼女たちがいなくなるのと時を同じくして、奇妙な噂が学院に流れだしたら
しい。
 疑問系で言うのは私がその噂を詳しくは知らず、周囲の人間も私に遠慮して
いるのか教えてくれないからである。 
 だが、みなの視線を感じていれば大体のことは解る。おそらく錯乱状態にあ
った彼女たちの言葉を漏れ聞いた者がいたんだろう。
 だが、だからどうだというのだろう。私は何も変わらないし、噂ごときで見
る目を変えるような友人など持った憶えはない。
 その証拠に、羽ピンや蒼香は以前と変わらず私に接してくれるではないか。
 あの日の出来事を通して私も学習した。要は、定期的に溜まっているモノを
処理しておけばよかったのだ。そうすれば、あんなことにならずにすんだだろ
うに。
 処理の場所は大体が自分の部屋だ。最近は羽ピンが手伝ってくれるので助か
っている。蒼香は薄々察していると見えて、消灯前の一時間ほどは席を外して
くれるようになった。
 羽ピンは優しい。彼女の指や唇が柔らかくそれを包み込み、私は声にならな
い呻きを唇を噛んで堪える。
 手や口で、時には胸で私を誘ってくれる彼女だけど、なぜだか最後の一線を
越えたことはない。彼女はいつまでも純潔なままだ。
 不思議に思って尋ねると、

「秋葉ちゃんのお兄さんは、秋葉ちゃんだけのものだから」

 という答えが返ってきた。
 ああ、彼女はいつも優しい。こんな時でさえ私のことを考えてくれる。
 そして今日も彼女は優しく私を包み込んでくれる。
 顔にかかった白いそれを指でなぞりながら、お兄さんの匂いだねと笑いかけ
てくれた。

 そうなのだろうか、私にはワカラナイ。
 私が兄さんと結ばれたのは一夜きりで、彼は私の中で果てた。だから、私は
兄さんのそれの匂いなど憶えてはいないのだ。
 でも、羽ピンがそう言うのならばそれはそうなのだろう。
 彼女は正しい。愚かな私が常に間違えるように、彼女の言うことは常に正し
いのだ。
 そっと手を伸ばし、彼女を胸に抱き寄せる。
 柔らかな髪の感触が素肌に心地よい。
 彼女の温もりと兄さんの匂いに包まれながら、私は静かに目を閉じ、心の中
であの人の名前を呼んだ。
 こうすると、懐かしいあの人の夢を見ることが出来るのだ。
  

 ――――――――愛しているわ、志貴兄さん。







<後書き>
 ええ、初めての方は初めまして。そうでない方はこんばんは。
 真と申します拙いSS書きでございます。
 
 お読みいただければ解るとおり、この作品は本編の秋葉ENDから歌月の宵
待閑話の間に位置する時間軸の作品です。ですからタイトルが「宵待“前”話」
なのですね。
 
 ところで、文中で秋葉が言ってますが、果たして志貴くんは女性体なのでし
ょーか。すると宵待閑話の後で戻ってきた彼(彼女)に、秋葉は一体どんな反
応を……
 まあ、この辺りは誰かに書いてもらうとして(猛爆)

 +凸なのに18禁というわけでもなく、むしろシリアスになってしまった作品
ですが、お楽しみいただければ幸いです。