ぐつぐつと鍋が煮える。
湯気がたち、おいしそうな香りが漂ってくる。

「できましたよ、イチゴさん」

と声を掛けると、ん、と素っ気のない挨拶をかえしてくる。
鍋を食卓まで運び、ふたをとる。
 魚のアラ、白菜、人参、椎茸、豆腐、エノキダケなどなどなど――昆布だけで味付けした鍋である。

「ふぅん、有間しては上出来だな」

有彦の姉は煙草の火を灰皿でもみ消し、箸と取り皿をとる。

「あ、ダメですよ」

いきなりすくろうとする不精な女の人をとめる。

んー、という目でこちらを見る。

「まずは――」

そういって手を合わせる。

「いただきます」
「いただきます」

彼女は口だけいって、素早くアラとかをどんどんすくいとる。

「イチゴさんったら……」

 しかし気にせずに、はふはふと、それてとてもおいしそうに食べていて。
思わず、微笑んでしまう。
 年上なのに、不精で、面倒くさがりで、無造作に束ねたポニテールとくわえ煙草がシンボルで、素性不明なお姉さん――それが乾一子である。
 俺はイチゴさん、と呼んでいる。




















月姫18禁SS
或る夜




















 俺は呆然としていた。
 木枯らしが吹くような季節ではなかったが、俺的には吹いていた。
 それも、凍てつくような木枯らし。
 すべては有彦のせいだった。
 有間の家に居づらいから、つい乾家に休日ごとに入り浸る日々。
 あいつはそれをわかっていて、今日学校で行くといったのに。
  ――有彦はいない。
あったのは家の扉の前に張り紙がひとつ。

「親友へ。男有彦は恋に生きる。では」

これだけである。
どうやらナンパに成功したらしく、その結果がこれ――。

 ――わからない。
 これから自分がどうすればいいのか、わからなかった。
すでに有間家には泊まってくる旨を伝えてあり、今更戻るわけにはいかない。
いや戻ってもよいのだが、あの有間家には居づらかった。
 有間の人間になろうと思った。
 向こうも受け入れてくれた。
 ――なのに。
 啓子さんをお袋とは呼べず――。
 都古ちゃんを妹とは呼べなかった。
 やはり親父は槙久であり、妹は秋葉だった。
 居づらかった。
 だからついつい乾家に入り浸る。
 悪いとは思っているのだが――。
 この仕打ちはあんまりだ、と思う。
 あいつはよく親友とかマブダチとかいうが、本気でそのあたりについて今度問いたださなくては、と思った。
 でも問題は……現状。
 出てきた俺はどうすればいい。
 ………………
 …………
 ……
 …
 わからない。
 どうすればいいのか、まったくわからなかった。
 しばし呆然――。
 が、すぐに気を取り直す。
 どこかゲームセンターにいき、夜は24時間営業のコインランドリーで過ごせばいい、と決めてカバンを背負おうとすると。

「――有間、どうした?」

背後から声。
その声は――。
振り返ると、そこに、ヨレヨレのワイシャツにジーンズ、そしてくわえ煙草の世捨て人――ではなく、この家の主、一子さんがいた。

「あ、いちごさん」
「ん」

挨拶なのだか、なんだかわからない挨拶をすますと、鍵を開けてくれて、入れてくれた。
 どうやら外で寝ないでよいらしい。
 その代わり、食事を作らされて――冒頭シーンに繋がるわけである。
 まぁいくら俺でも、鍋というか、水炊きというか、ダシ昆布をひいて、水をいれて、具を適当に切って火に掛ければでき上げるものぐらい作れる。あとはぽん酢と薬味をちょっと用意するだけ。
 この程度ならば作れる。あとは麺類ぐらいか。
 材料費は一子さんもち。


  鍋が食べたい。


 家主であり、路頭に迷うところ(?)を救ってくれた恩人に、逆らうことはできなかった。
 というわけで鍋である。
 鍋はいい。
 いや有間の家でも食べた。
 啓子さんがとってくれて、都古ちゃんが騒いでいる。
 でも、それはなんというか、居心地がよいくせに、座り心地の悪い――不可思議な空間だった。
 こうして、気兼ねなしに食べることができる乾家の食卓が――もしかしたら俺の本当の意味での食卓なのかもしれない。
 ふと、置いてきた本当の妹――秋葉のことを思い出す。
 ちっちゃくて、可愛いリボンをつけていて、そしていつもついてこれなくて、でも必死に泣き顔になりながらもついてきた、儚くて可愛い妹。
 そして親父。怒りっぽくいつもイライラしていた親父。
 でも時々は大きな手で俺を撫でてくれて――やさしい時もあった。
 お袋は秋葉が生まれたときに死んだ――のだと思う。子供の時に死に別れたので、はっきり覚えていない。
 もし家族4人でこういう風に鍋を――。
 あり得ない光景を思い浮かべて頭をふった。
 遠野の家では躾が厳しかった。
 当主として、遠野グループの一員として、厳しく育てられた。
 遊ぶことなどなかった。
 けれども、よく抜け出しては遊んだ。
 秋葉と――たぶん家政婦さんの子供の女の子と。
、あの庭で――。
 あの森で――。
 みつかって怒られるまで遊んだ。
 みつかって怒られても、次の日遊んだ。
 囚われているような秋葉をどうやって連れ出すか、それがゲームだった。
 そんな日常がいつまでも続くのだと思っていた。信じていた。

 しかし、大事故にあい、俺は有間の家に引き取られた。
 あれから6年――。どうしているんだろうか。

 「……」

 残した秋葉のことだけが心残りだった。
 もう俺も中学3年。今は有間の家にお世話をかけているけど――。
 高校を卒業したら、出ようと思っている。

「……有間」

いつの間にか自分の考えに浸っていたらしい。あわてて返事をする。

「どうした、有間らしくないな」

 片目をつむりながら、食後の一服を吸っているお姉さん。
 暇だったのか、100円ライターを掌で弄んでいる。
 ピンク色のライター。
 一子さんはなぜか、100円ライターはピンク色しか使わない。
 だから、よくこの家で転がっているライターはみなピンク色だ。
 あとは銀色のジッポー。
 有彦も俺もこっそり煙草を吸う時には、使用させていただいている。
 が、あまり吸わない。俺はどうやら合わないらしい。
 有彦は、普段吸わなくてイザという時に吸うからいいんだよ、とワケがわかるような、わかんないようなことをいっていて。
 とにかく、俺達はほとんど煙草を吸うことはない。
 しばし弄ばれるピンク色のライターに見とれる。
 一子さんの細くしなやかな指が、軽やかに動き、ライターをくるくると回している。
 時には縦、時には横と、ライターは素早く姿を変え、一瞬だけ火がついたりと、忙しい。

「なぁ有間」
「なんです、イチゴさん」

しかしそれ以上何も言わず、冷めた鍋の向こうで、だた見つめてくるだけ。
 俺もつい黙ってしまう。
 聞こえるのは時を刻む時計の音だけ。
 密やかな時間。
 もしここに有彦がいれば、バカ騒ぎやら今日学校があった話やらなんやらして、場をわかしてくれるのだろうが――今はいない。
 でも――。
 こんなたゆんだ空気は有間家ではなかった。
 いやあったのでろう。
 でも拒否してきた。
 有間の家がどうしても自分の家だと思えなかった。
 だから、どうしても過敏になってしまって。
 確かに本気で笑って、本気でうれしがって、本気で怒ってくれた。
 有間の人々は本気で俺を家族にしようとしてくれた。
 俺も本気で努力した。
 ――でも。
 でも、やはり家族にはなれなかった。
 もしかしたら、こんな雰囲気に憧れていたのかも知れない。
 家というもの、家族というもの、そういったものに象徴される『何か』――それに強く憧れているのかも知れない。
 だからこそ――秋葉のことを思い出すのだろう。
 だからこそ――有間の家の一員になることができなかった。

 胸を締め付けられる何かがこみ上げてくる。
 渇いた胸をつつくような、そんな痛み――。
 鋭いくせにニブく、そしてかなしい痛み。

「――なぁ有間」

再び、イチゴさんは呼びかけてくる。

「お前……女をしっているか?」

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