花咲く庭に

阿羅本 景


 俺は机の上に載ったベルボックスに手を伸ばすと、ボタンを短く押し込む。  カチリと言う金属の手応えがするが音は鳴らない。俺はすぐに手を離すと再びシャーペンを取って春期講習のテキストに向かう。

 午前の予備校の講習から戻ってきて、復習がてらに問題を解いている。選択科目の日本史だが、大体憶えているような憶えていないような……これだから年号を憶えるのはいやなんだ、と思うが仕方ない、他のモノよりこの教科が出来るのだから仕方がない。

 ルーズリーフのノートに書き込みながら、俺は翡翠か七夜さんがやってくるのを待っていた。机の上のベルは一階のキッチンに繋がっていて、聞きつければどちらかが俺の部屋にやってくるはずだった。七夜さんだったら手間は省けるけど、きっと翡翠だろうな……

 俺はしばらくテキストに向き合い、ちらりと時計を見る。午後2時過ぎ、外は麗らかなぐらい晴れており、窓から差し込む光も温さを感じる。
 こんな時に花見にでも行ければ気持ちいだろうな……とぼんやりと思った。

 最後に花見に行ったのは……有彦とだった。春休みにいつものことで有間家から逃げ出していた俺は、休日に一子さんに誘われて公園まで花見に行ったものだった。
 で、持ち合わせは焼酎とスルメだけというなかなかにハードコアな花見酒が繰り広げられた。どうも一子さんの美意識では花を愛でるのにお重にお弁当というのは邪道であり、ビールに焼き鳥にカラオケなぞ以ての外だった。結局俺がべろんべろんになって夜中までベンチで倒れていた……らしい。
 まぁ、有彦の奴が言うんだから間違いないだろう。あいつはあいつで服を脱いで池に飛び込んだらしいが……止めない一子さんも一子さんだ。

 遠野家で花見に行ければ面白いだろうな――
 もっとも俺は受験をどうしても意識しなければいけないこの時期、そんな贅沢を言えば秋葉の奴は怒り出すだろうけど。

 秋葉は秋口の傷もようやく癒えて、右腕のリハビリも順調らしい。俺が何かをするとそれを見つけて小言を言うのもまぁ、あいつなりのリハビリの一環だろう。
 七夜さんも時々寂しそうな顔をすることもあるが、概ね安定している。
 それに俺と翡翠はあの時から……コホン。

 に、してもベルを押してから時間が経つのに、どっちもやってこない。
 いつもならすぐに飛んでくるのだけども、台所に誰もいないのだろうか?そろそろ喉が渇いてきて一服欲しいところ……

 俺は丁度問題の章を書き終えるところだった。論述の一題で、これが終われば自己採点……一区切りが付ける。
 しばし意識から花見とか雑多なことを追い払って問題に向かう。そして書き終えると……

「……休憩。さて」

 テキストにシャーペンを挟み込んで閉めると、俺は軽く伸びをしてから立ち上がった。どうもこうやって座りっぱなしだと、骨と筋がかたくなってしまうような気がする。もっとも俺の身体に心配するほどの骨も筋も備わっているかどうか怪しいけど。

 とりあえず、翡翠も七夜さんも来ないのなら仕方がない。
 秋葉のように使用人の主の心得として、不動の忍耐心で待ち続けるのも性に合わない。

「久しぶりに自分でお茶を煎れるか……」

 俺は部屋を後にして、一階の台所に向かう。
 天井の高い遠野邸の廊下にも、春らしい暖かい空気が満ちていた。冬はとにかく冷え込むこの屋敷、春の訪れは有り難い。窓から見える庭の木々にも緑の息吹を感じる。

 俺がそんな窓の外を見つめていると――
 森のような遠野の庭の中に、薄墨色の点が浮かび上がる。

「ん?」

 俺は足を止め、窓に寄って目を凝らした。
 眼鏡と窓硝子越しに見つめると、浅緑の色を帯びはじめた森の中に、ただ一本だけの……満開の桜の木があることが分かる。

「……桜……あったんだ」

 俺はそう、誰に聞かせるわけでもなく呟いた。
 考えてみれば、これだけ広い遠野家の庭には桜並木の一つや二つあってもおかしくはなかった。春先には綺麗だろうが、幼少の記憶にも昨今の記憶にも遠野家に桜の覚えがない。
 なんでだろう……と俺は思う

 ――遠野の宿りし杜は深く、血の朱と闇の黒以外はない

 ふっと俺の頭の中に、親父の書き記した書き付けの文章が浮かんだ。遠野……この数奇な家柄はいまでこそこの南杜市に住んでいるが、古の世には光ささぬ闇の森の中に息づいていたと。この庭の森はそんな遠野の血が求めた、母の懐のようなものだとしたら。

 桜は華やかすぎ、儚すぎて似合わない……

 しかし、なんで俺はこんな事を思い出したんだろう? わからない。
 あの一本だけある桜が、そんなにも気になるのか……

「あれ?志貴さん、お部屋にいらっしゃらなかったのですか?」

 俺は背中からそう呼ばれて、慌てて振り向いた。
 そこには、和服と割烹着姿の七夜さんが俺を見つめていた。手ぶらで窓の外を見つめていた俺を、きょとんと眺めている。

 俺は七夜さんに向かうと、こつこつと窓硝子を指で叩きながら聞く。

「いや、ちょっとね……俺の部屋に来る途中だったの?」
「はい、志貴さまの部屋でお呼びになられていたと……遅くなりまして申し訳ありません。ちょっとお庭の掃除をしていまして」
「庭……そうそ、じゃぁ聞いて良いかな? 七夜さん」

 俺はコツ、と爪を窓硝子に当てて指を止める。
 その先には、緑中の紅一点であるあの桜の木があった――

「庭に一本だけ桜の木があるって、知ってた?」
「はい……あー、そうですねぇ」

 七夜さんは俺の脇に並ぶと、指さしている方向の庭を仰ぎ見る。

「もっと沢山桜の木があってもいいんですけども、なぜか一本だけなんですよねー」
「ああ、俺もそう思った……秋葉に相談して今度、門から玄関まで桜並木にするかな」
「いいですねー、でも秋口は銀杏並木がほしくなりますよー、志貴さん」
「違いない」

 俺と七夜さんは顔を見合わせて、くすくすと笑う。
 ああ、あの苦しみの中にあった琥珀さんが、生まれ変わってこんなに柔らかく笑えるというのは……幸せなことだ。そんな彼女の妹である翡翠も、もっと笑ってもいい筈なのに……

 俺は翡翠の端正できまじめな顔が思い浮かび、ふと七夜さんに尋ねる。

「そういえば、翡翠はどうしてるの?」
「翡翠ちゃんですか?一緒にお庭の掃除をしていましたけども……まだお庭にいると思いますよー」
「そっか……じゃぁ、散歩がてらに探してくるか……」

 俺は軽く七夜さんに会釈をすると、階下に向かって歩き出す。
 七夜さんは俺の背中に、遠慮がちに尋ねてきた。

「あの、志貴さん……御用は翡翠ちゃんのことですか?」
「いや、お茶を煎れて貰おうかと……今はいいや、戻ってきたら七夜さん、午後のお茶にしてくれるかな?」
「分かりました。バナナマフィンがあるので秋葉さまの分もご用意しておきますよー。お茶はオーソドックスにディンブラでいいですね?」
「その辺はお任せするよ、じゃ」

 そう嬉しそうに俺に告げる七夜さんは、ぱたぱたと絨毯の上を足取りも軽やかに走っていく。
 俺は琥珀さんに追い越されたが、足取りもゆっくりと廊下を進んでいく。玄関ホールの高いヴォールトの空間と、帝王階段の手すりの見事な曲線に指を触れながら、俺は一階へ、そして玄関から外へと向かう。
 翡翠が庭にいるという。無性に翡翠を探したくなった。
 いつもなら、あの離れの手入れのために広場に向かっていると考えることだろう。だが、今日だけはあそこには居ない……俺の中での確信があった。

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