春の強い風と、沸き上がるような陽気。
 俺は春の日差しを身体に染み込ませながら、庭を歩いていた。最初はゆっくり歩いているつもりだったが、いつの間にか足取りは早まっていき、森の中を進む頃には小走りになっていた。
 なぜそんなに気をはやらせているのか……わからない

 もしかすると、今こうやって急がないとあの桜の花は風に揺られ、散らされてしまうかもしれないという強迫観念にも似た思いがあったからかもしれない。
 春の驟雨も花散らしの風もないのに、なぜ俺はそんなに気を逸らせているのか――

 わからない。

 俺は木々を潜り、桜の木を目指す。
 ひらり一片の桜の花びらが、森の空気の中に舞う。俺は手を伸ばすとその柔らかい花びらを手に取り、風の吹いてきた方向を見つめる。

 そう、この花が俺を誘うかのように――

「…………」

 俺はその光景に、言葉を失っていた。

 天からの光は木々の青葉に遮られ、幾筋もの光線を斜めに照らしている。俺の視界の中にはそんなライティングに照らされた、神々しいまでに咲き誇る桜の樹がある。
 そしてその根元に――

 翡翠が背を幹に預けて、眠っていた。

「…………」

 俺は脚を止め、まるで野山を彷徨う猟師が不意に天女の降臨を見つめてしまったかのように、息をするのを忘れて翡翠の姿を見つめる。
 翡翠はメイド服姿のまま膝の上に竹箒を起き、横座りになって眠っていた。瞼は落ちて閉ざされていたが、寝息をかすかに立てる口元も僅かに開かれていた。

 リップもルージュも引いていない筈のに、翡翠の唇は紅かった。
 そう、まるで桜の花びらがそこに載っているかのように。

 俺は――ただ翡翠の唇に見入っていた。
 何度もその唇を奪ったのか、唇どころか舌まで絡ませて味わった筈の翡翠の唇だったが、ひどく清純で美しく、それに触れるためならばなにを犠牲にしても惜しくないような気すらする、不思議な官能を満たした唇。

 俺は、足音を殺して桜の木の下に向かった。
 翡翠が目覚めてしまえば、あの唇に触れることは適わない。なぜかそう思って疑えない。桜の樹の根本で夢現の境にいる翡翠は、この世の存在ではなく天からの稀人にすら思える。驚かせれば羽衣を翻して逃げてしまうのではないのかと。

 愚かな考えだった。が、俺はただ足音を殺して森の中を進んだ。
 一歩一歩ゆるやかに、だが確実に森の中の草を踏む。音を立てることを禁じ、己の息さえも殺せることならば殺してしまいたい。

 俺はいつしか手を伸ばせば触れるほどの間まで、翡翠に近寄っていた。
 俺の目の中に映るのは、翡翠の柔らかい唇だけだった。ここに己の唇を印すことが出来るのであれば、魂は身体から彷徨い出てきっと至福の園に召されるに違いない……俺は吐く息を感じるほど顔を近づける。
 翡翠は目を瞑って微睡みの淵にいる。
 俺も目をそっと閉じた。眠ってる女の子にこんな事をするのは卑怯かも知れない。だけど、こんな姿の翡翠を見せられて我慢できる訳がない。
 なぜこんなに、翡翠が魅惑的に見えるのか……春の萌え上がるような空気のせいなのか、ひらりと舞い落ちる桜の花のせいなのか……

 ――わからない

 俺はかすかに唇で翡翠を触れたような気がした。背中が知らずに震える。
 後少し……もう少しで……

 ピィーッ!

「!」
「!!」

 空を横切る雲雀の鋭い鳴き声。
 俺も翡翠も、まるでブザーのように響き渡ったその声で目を開く。
 ジェイドの光の眼が俺の瞳を覗き込む。翡翠の目はきっとラピスラズリのような俺の瞳が写っているにちがいない、だが……

「し、志貴さま!」
「あ……翡翠、御免、起こしちゃったな」

 俺はすかさず身体を引いて、どすんと桜の木の根本に腰を下ろす。翡翠も俺と鼻の先をくっつけるほど顔を近づけていたのに気が付くと、背中をずるっと幹から宙にずらしてのけぞる。
 俺達は二人、桜の根本で腰を下ろし、胸を高鳴らせながら向かい合っている。口は息を吸うが言葉を吐き出せず、心臓は胸郭の中で暴れる。どくんどくんと熱い血が胸から項に流れ込み、俺は生唾を飲んで翡翠の顔を覗き込む。

 翡翠は腰を抜かしたようにしゃがみ込んでいたが、俺の視線に気が付くとがばりと大仰な、らしくない慌てた素振りで立ち上がった。

「申し訳有りません志貴さま、この様なところで無様な姿をお見せいたしました。まだ庭掃除の最中ですので失礼いたし……」
「あー、翡翠、待って待って」

 胸に竹箒を掻き抱いたまま逃げ出そうとする翡翠の腕を、俺は慌てて取る。
 俺に触られた翡翠はびくん、と身体を竦ませて振り返る。身体を鋭く返して俺の手を振り払おうとする――これはいつもの翡翠らしい潔癖な仕草だった。

 だが俺は翡翠の動きを先読みして、向かい合ったところでぽん、と両肩を握る。

「いや、翡翠を探していたんだ。だから落ち着いて座って……いい?」
「は……はい、志貴さま……」

 俺がぐっと力を入れて翡翠の身体が逃げだそうとするのを抑える。翡翠と俺の中でも、お日様が高いうちの翡翠の反応は昔と変わらない。だから、こうやって俺の身体で翡翠を押さえ、ならして行くしかない。  しばし翡翠の身体は勝手に俺から逃げようとするが、翡翠の心と俺の腕はそんな身体の高ぶりを鎮めてきた。その代わり翡翠は真っ赤になって俯いてしまう。
 俺はそんな翡翠に諭すように話しかける。

「じゃぁ……一緒に座ろうか?」
「はい……」

 前髪に瞳を隠した翡翠が、ぽすんと地面の下生えに腰を下ろす。
 俺はその後を追って、翡翠と隣り合わせに座り込んだ。軒のように満開の桜の枝が被さり、この一角だけ暗い遠野の庭の中で嘘のように華やいでいた。

 俺は翡翠と桜に見とれ、何を言う気にもなれず……陶然として口をつぐんでいた。
 やがて、俺の傍らの翡翠はしびれを切らしたように……

「その……志貴さま、私に何か御用でしょうか?」
「いや……用と言えば確かに用だな。翡翠が庭にいるんじゃないかと思って探しに来た」

 俺はそう言うと、草の上に落ちた五弁の桜花をそっとつまみ上げる。
 それを目の高さにまで掲げていると、翡翠もそんな俺の指先を見つめていた。
 ふっと息を吹きかけると、くるくると回りながら花は宙を舞う。

「それに、窓からこの桜の木が見えて……庭はこんなに広いのに、一本だけしかないんだな、桜」

 ひらひらと舞いながら落ちる花弁を俺の、翡翠の目は追っていた。ぽとりと地面に再び落ちる頃には、翡翠も落ち着いている様子だった。
 翡翠はスカートの中に脚を隠すように横座りになっていたが、俺に向かってそれでもすっと背筋を正して口を開く。
 俺はそんな翡翠の様子を微笑ましく思いながら、耳を傾けた。

「志貴さま……憶えてらっしゃいませんか?」
「……何を?」

 翡翠はそっと桜の幹に腕を添えながら話を続ける。
憶えている……?いや、俺の記憶はどれもこれもひどく曖昧だ。親父の暗示は俺の記憶をどれもこれもズタズタに引き裂き、今に至る。そのためにどれだけ秋葉を、琥珀さんを、そして翡翠を傷つけたのか……

「私たちがまだ稚い子供の頃、あの広場の木の他にも……春先はここによく来たんです」
「へぇ……そうだったのか。御免、翡翠……よく憶えていなかった……」

 俺はすまなさそうにそう呟く。翡翠は俺に首を振って、自分を責めることはない、といいたそうな顔をしていた。確かに過ぎ去った過去の事、今更思い悩んでも仕方ない。

「最後の春には……志貴さまも、秋葉さまも、そして四季さまもここで……」
「…………」

 俺も翡翠も、四季の名前が出ると途端に口をつぐんでしまう。その名前は忘却の内に消され、そして琥珀の名もまた深い忘却の淵に消え入ろうかとしているのだから。
 俺は黙ってしまうとどうしようもない気まずさを感じると思って、話題を変える。

「なんでここに、一本だけ桜の木があるんだろうな……もしかして、知ってるか?」
「いえ、詳しくは……先々代か三代前の奥方様が実家の縁として植樹されたという話を聞いたことがあるのですが。ただ、歴代の当主の方はこの桜を疎ましく思われ、槙久様も晩年にはこの木に斧を打ち込むこともありました」

 そう言われて俺は振り返ると、たしかに幹の一角に深く鋭い傷が付いていた。だがその傷跡もこの木の治癒力により内側から盛り上がり、もう数年も経てば消えることだろう。
 親父がこの樹を切り倒していたら、この庭の春はもっと味気ない物になっていたに違いない。俺は胸中で安堵の息をつく。

「物騒だね、ずいぶんと……」
「いえ……でも秋葉さまはこの木が好きだとも伺いました」
「……ふーん、秋葉の奴にもそう言う俗な風流があったか」

 翡翠の言葉に俺は頷く。俗な風流、と言われると秋葉の奴は怒るかも知れないが、何となくあいつには桜の慎ましやかな色合いは似合わない。敢えて言うなら全山燃え上がるような紅葉か、あるいは寒中に朱を印したかのような紅梅か。

 むしろ、翡翠や七夜さんの方が桜の花に似合っているかも知れない。
 俺は翡翠の顔をつと見つめていた。端正なその顔は、俺の瞳を疑うことも知らないかのように見つめている。

「……花見をしたら面白いかな?ここで。まぁ秋葉の奴が頷くかどうか」
「いえ……きっと秋葉さまも……悪い顔はされないと思います。
 一度、志貴さまとゆっくりこういう場を楽しまれたいと……姉さんから伺いました。秋葉さまがそう仰っていたと」

 俺はそうか……と頷くと首を上げて、桜花の天蓋を見上げる。
 吉野のように山の全てが桜で咲き誇るのも豪奢だと思うが、この森の中で一本だけ満開の花を付ける桜の元にいるのも、また豪華なものだと思う。それに、傍らには愛する女性がいて、こうして穏やかな時間を一緒にいられる……

 俺は時間を忘れて、しばし桜の花に見入っていた。
 風に揺れる花は姿を万華鏡のように変え、俺の目を楽しませる。舞い落ちる花は風雅な雨の如く、俺は……春期講習やら進路やらを忘れ、見入っていた。

 ああ……ずっとこうして花を見つめて過ごせるならば。

「志貴、さま……」

 微かな翡翠の声が俺の耳に響く。
 俺が振り返ると、翡翠は……いつの間にか正座になって、俯いて俺の前にいる。
 俺は身体を起こして翡翠に向く。翡翠の唇は小さく動いて……

「先ほどは、その……私の眠っている間に……」
「あ……あれは出来心なんだ。悪い、翡翠……あんまりにも翡翠がかわいいものだから」

 先ほど、俺が足音を偲ばせて翡翠の唇を奪おうとしたこと。俺は慌てて手を振って翡翠に謝る。だが翡翠は怒っているみたいではなくて、どちらかというと恥ずかしがっているような……
 微かに紅い翡翠の頬に、俺はぎゅっと胸が締め付けられるような思いになる。

「……怒ってない?翡翠」
「いえ……続きを……して下さらないのですか?」

 翡翠はそう囁くと、目を閉じる。
 俺の目の前には再び、あの柔らかく蠱惑的な翡翠の唇がある。
 ああ、これは……なんで翡翠は俺を誘うかのような事をするんだろう。

 わからない

 宿り木の下ではキスをしてもいいけども、この満開の桜の木の下でも同じなのかも知れない。俺はそっと手を伸ばすと、膝の上できゅっと組まれた手を握る。
 翡翠の手は小さく、握りしめれば冷たい感覚が心地良い。

 翡翠は目を瞑り、俺を待っている。
 俺も目を開いているわけにはいかない。同じように目を閉じて、また翡翠の顔に近づける。
 顔と顔、唇と唇が触れ合わなくても、相手がそこにいるのが分かる。空気がお互いの気配にぴりぴりと震えるような、不思議な感覚。

 俺は意を決して唇を――

「…………」

 翡翠の唇は柔らかくて、まるで……なんと言えばいいのだろう?
 俺の唇をこのまま翡翠の唇に融かしてしまいたくなるような、そうすれ薄い粘膜越しよりももっと深くて甘い翡翠を味わえるのに、というもどかしさ、俺はただこの唇に、翡翠を感じながら――

「あーっ!志貴さんと翡翠ちゃんがエッチなことをしているー!」

 ――!!

 いきなり森をつんざく七夜さんの叫び。
 俺と翡翠は文字通り跳ね退き、慌てて二人の間を取る。
 狼狽しながら俺は声の主を捜す。俺が来た方向には……いた。

「な、七夜さん……に、なんで秋葉まで?」
「あら? この花は私も好きなんですよ、兄さん? まるで私がここに来るのが悪いかのような仰りよう、心外ですわ」

 和服姿の琥珀さんの後ろには、薄いショールを肩に掛けた秋葉が居た。
 きっと一部始終を見ていたのだろう、口の端には「面白いものを見させていただきました、兄さん」という余裕の笑いが浮かんでいる。
 七夜さんもいかにも楽しそうに笑っている。ああ、見られてしまったか……

 俺が首を巡らせると、哀れ翡翠は恥ずかしさのあまり桜の幹の後ろに身を隠してしまっている。俺はあたふたしながら、なんとか秋葉に誤魔化そうと……

「い、いいのか秋葉、お前外出して」
「冬の寒風は体を蝕んでも、春の薫風が身体を害するとは聞いたことがありません。兄さん……そんなに私がここに来るのが嫌なのですか?」
「いや、そう言う事じゃないけども……」

 俺はしどろもどろに答える。ああ、わからない……
 そんな俺と琥珀、桜の木の元に七夜さんがバスケットを抱えてやってくる。かしゃかしゃという食器の立てる音がするが、俺も翡翠もこの音を聞き逃すほどお互いに夢中になっていたのかと思うと……恥ずかしいものだ。
 忸怩たる思いに頭を掻く俺の元に、七夜さんは朗らかに笑いながらやってくる。

「秋葉さまのご提案で、お花の下でお花見をしながらお茶をしようと言うことになりまして……はい、用意しますからちょっと待ってて下さいねー」

 七夜さんはバスケットを広げ、敷物をを敷いてやおらピクニックのように準備を始める。俺は秋葉の顔をちらりと見るが、秋葉はうっすらと笑いを浮かべながら……

「兄さん……そんなに恥ずかしがらなくても良いじゃないですか。翡翠と兄さんの仲なら私も認めていますから」
「そういうもんだけじゃなくて、一応デリカシーというものがね……ま、いいか」

 俺はふぅ、と溜息を吐くと腕を伸ばして、桜の樹の後ろで縮こまっている翡翠に手を伸ばして引っぱり出した。可愛そうなぐらい翡翠は萎縮してしまって、ずーっと俯いて桜の根本を見つめている。俺はぽんぽんと翡翠の肩を叩いてリラックスさせる。

「翡翠、ほら座って……一緒にお茶にしよう」
「ええ、兄さんも早くお座りになられては」
「はいはい、準備できましたよー」

 翡翠はゆっくりと顔を上げると、俺と秋葉、それに七夜さんに花がほころぶように微笑んで……

「はい、姉さん……秋葉さま、志貴さま……」


あとがき
 どうも、【Moongazer】のSS書き、阿羅本と申します。こちらのページでは初めまして、でございます。
 瑞香さんの『機械仕掛け』さまが開設されると言うことで、月姫SSを寄稿させていただきました。つたないSSでございますが、お楽しみ頂ければ幸いでございます。

 さてこの『花咲く庭に』ですが……これを書いている3月末には一足早く桜が咲き始めていて、今の季節ネタで1本……ということで書いてみました。それ以上に翡翠を可愛く書いてみたかったという内心の思いもありましたので、なかなか爽やかでラブラブに仕上げてみました。
 書き終わってから眺めてみると……いやぁ、自分が書いたと思えないほど爽やかで何か気恥ずかしくすらあったりもします(笑)。

 翡翠は……こういう受動的な行動形態だとすごーく可愛らしくて、何ともいえませんな……やはりメイドさんは良いものです(笑)

 皆様もこちらのSSをお楽しみ頂けましたでしょうか?
 また、これからも【Moongazer】も併せてよろしくお願いいたします。

 でわでわ!!

20002/3/23 阿羅本 景

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