月光<蒼> 第一話〜さようなら〜
窓際の席でつっぷし、夕焼けで朱に染まった空と雲を、ただ、ぼーっと眺め続けている。
グラウンドではサッカー部の元気な掛け声が、休むことなく続いている。
地面のそこここで、ボールが跳ねたり飛んだり。
誰かの怒鳴り声。
また、ボールが跳ねたり飛んだり。
立ち昇る埃。刺すような太陽光線。間断なく続く人の声。
西の空に浮かんだ太陽と、そのせいで朱色に染まったグラウンドと、駆けまわっている人間のコントラストが、何故かは分からないけど、ひどく非現実的に見えて、落ち着かなかった。
落ち着かないのだけれど、自分は今、この光景から目を逸らせないでいる。
別に好きでこうしている訳じゃない。
待ってる間、特にやる事がないのでこうしてだれているだけだ。
しかし、待つだけなら本を読むなり、宿題をするなり、やる事が無いわけではない。
だけど、今は何をやる気にもならなくて、ただ惰性でこうしている。
ずきんと胸が痛んだ。
よくある事だ。いい加減に慣れた。
八年前、俺はもう一人のオレに胸を貫かれて一度死んだ。
手術の末、遠野志貴は何とか奇跡的に生き残ったらしい。
よく、憶えてないが……
漢字も書けないガキの頃に「君は奇跡的に助かったんだ」と言われてもピンと来ない。
だけど、今になってその「奇跡」が少しだけ分かるような気がする。
この「奇跡」を思えば、頭痛や胸の疼きなど軽いものだった。胸を貫かれて、生きている代償とすれば安い物である。
そう、痛みなど本当に軽い。
俺はゆっくりと眼鏡を外した。
ズキン
軽い頭痛。
できるだけ目を細めているので、それほどきついものではない。
狭い視界の中、目の前の机の上にさっきまでは無かった、黒い落書きのような線が見える。
死の線。
ズキン
少し頭痛が強くなってきたので眼鏡をかけ直した。
視界からゆっくりと死の線が消えていく。
直死の魔眼
死を視る事が出来るこの眼はそう呼ばれるらしい。
誰かがこの落書きのような物が、死というものが具現化したものと言っていた。 けったいな物だ。
この眼のおかげで、俺は人生の中で色々な物を諦めなければいかなくなった。
死の線を視えなくしてくれるこの眼鏡が無ければ、俺はとっくに発狂していただろう。
これに比べれば、胸や頭の痛みなど本当に軽い物だ。
外を見る。
時間は5時と少しなのに、太陽はもうかなり傾いていて、校庭に植えてある木の影がやたらと長く伸びている。
今はもう12月。
期末のテストも終わって、二学期が終わるのも目と鼻の先だ。
今年の冬は例年より寒いようで、いつもはうるさいカラスの鳴き声も、今は遠慮がちに聞こえる。
家に帰る生徒が見える。
サッカー部の邪魔にならないよう、グラウンドの脇を歩いていく生徒のほとんどが、コートや防寒具に身を包んでいる。
その誰もが、服や髪の毛を手で押さえていた。
ガラス越しではよく分からないが、外は結構、風が強いようだ。
風は嫌いではないが、こういう寒い日は遠慮したい。
あいにく今日はコートの類は持ってきていない。
もうすぐ、自分も外で寒さに身を震わせるのかと思うと、正直あまり良い気分ではなかった。
カツカツ
誰かの足音。
廊下には人がいなくて、その音がはっきりと聞こえた。
カツカツ
段々と近づいてくる。
誰かは分かっていたが、何となく億劫(おっくう)で、俺は机でじっとしている事にした。
カツカツ
せめて帰る準備くらいはしておこうと、ノートや教科書をカバンに詰め込んで、もう一度、机に寝そべった。
カツカツ
………………
ガラッ
「お待たせしました、遠野くん。帰りましょう」
扉の前には茶色いコートを羽織った、のほほんとした笑顔のシエル先輩が立っていた。
「ああ、帰ろう」
俺はカバン片手に立ち上がり、先輩に微笑み返した。
自然に手と手はつながった。
廊下を先輩と肩を並べて歩く。
口から出てくるのは一般的な世間話や、下らない雑談ばかりであるが、遠野志貴の1日の中でこの時間が何より充実していて楽しかった。
シエル先輩。
肩口まで伸びた青い髪、端整な顔立ち、割と大きい丸めがね。
この人と話すだけで、和んで、癒されていく気がする。
俺はこの先輩を愛している。
先輩に愛されている自信もある。
毎日顔をあわせるし、今もこうして一緒に歩いている。
……肌も重ねあった。
先輩と過ごす時間。交わす会話。二人を包む空気。
その全てが大切で、遠野志貴の人生の中で一番輝いている瞬間。
だけど、いつも思う。
ヒドク不安になる。
今のこの幸せが、崩れていきそうな気がしてならない。
いつか。何てものじゃない。
今すぐ。一秒後にでも足元から崩れていきそうなアンバランス。
どんなに楽しくても、どんなに満たされている時でも、心の片隅でいつも小さな不安が付きまとう。
気のせいである。
気のせいのはずだ。
だけどその思いは、先輩と過ごす時間と比例して大きくなって……
「ちょっと、遠野くん。聞いてますか?」
横から頬を膨らませたシエル先輩が、いかにも不服そうに聞いてきた。
「……ごめん。少し考え事してた」
「体の具合悪いんですか?」
先輩は立ち止まり俺の額に手を当てながら、心配そうに顔を覗き込んできた。
じわりと自分の顔が赤くなっていくのが分かる。
「いや、体調は良い。大丈夫。本当にちょっと考え事をしてただけなんだ」
「そうですか。それならいいんですけど…」
歩き出した。
軽い沈黙が流れた。
……何か妙だ。
今日の先輩はいつもみたいに、テンションが高くない。
声のトーンも気持ち低い。
それは俺のせいかもしれないけど、それでも妙だった。
「先輩……」
「はい、何ですか?」
……思い違いかもしれない。
先輩はどこも変わらない。
いつもと違うと感じたのは、自分が妙な不安を抱えてるからだ。
「いや、何でもないんだ」
「? どうしたんですか? 遠野くん、やっぱり体調が優れないんじゃ……」
「いや、ゴメン。本当に何でもないんだ」
自分の彼女に体調を心配されるのが、何か情けなく感じて、俺は今までの考えを頭から追い出す事にした。
先輩は、まだハテナ顔で心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。
可愛く、愛しい。
俺は突っつくように軽く口付けをした。
「っ……! と、遠野くん!」
真っ赤な先輩の顔は、驚いたようでもあるし、怒ったようでもあるし、戸惑っているようにも見えた。
「ハハ、びっくりした?」
「もう!」
玄関まで、俺たちは短い鬼ごっこを楽しんだ。
外は思ってたより寒かった。
びゅうびゅうと音をたてて木枯らしが吹きすさぶ。
「遠野くん、寒くないんですか?」
寒いに決まっている。
今すぐ、走り出したかった。
だけど、好きな人の前でそんな情けない事が言えるはずなかった。
ついつい、
――全然、平気だよ。
なんて意地を張ってしまう。
「いいえ、寒くないはずはないです」
シエル先輩はそんな事を言いながら、自分が付けていた可愛らしい手袋を、すぽっと抜いて俺に差し出してきた。
「いや、いいって……」
「良くないです!」
拒む俺の手をぐいっと引き寄せ、シエル先輩は無理やり手袋を俺の手につけた。
「うわ……」
あったかい。
震えるような寒さがかなり緩んだ。
手袋には先輩の温もりが、まだ消えずに残っている。
寒さが消えた事より、そっちの方が嬉しくて顔が勝手ににやけた。
「ありがとう。あったかいよ」
「どういたしまして」
とても満足そうな先輩の顔。
ドクン
一瞬だけ、さっきの不安な気持ちが少しだけよみがえってしまった。
学校の正門を出た。
俺の家はこっちじゃない。
別に道を間違えてるわけじゃない。
最近では真っ直ぐ家に帰ることはまれになった。
先輩と二人で、少し先にある公園で寄り道するのが日課となっていた。
公園は人がいなく閑散としていた。
いくら冬とはいえ、子供の一人や二人はいても、おかしくないはずなのだが。
誰一人としていない。
人がいない公園というのは寂しい感じがして、少し落ち着かない。
ともかく、立ちっぱなしなのも癪なので、すぐそこにあるベンチに二人して腰掛けた。
また、妙な気持ちが湧いてくる。
先輩が不自然だ。
どこかそわそわして落ち着かないし、なんというか、浮き足立ってるというか……
「遠野くん」
先輩はそんな俺の考えを見透かしたように、じっと覗き込んできた。
先輩の顔にはいつかみたいに、感情が無かった。
何かを言いたげな表情。作り出した無表情。
「遠野くん」
もう一度、先輩が俺の名前を呼んだ。
やはり、能面のような顔。
だけど何故かカタカタと震えている指先を、俺は見てしまった。
「コーヒーで、良いですか?」
近くの自動販売機を指差して先輩は言った。
顔は笑顔に戻っているが、指はまだ、カタカタと音を鳴らし続けていた。
ああ、と俺が気の無い返事を返すやいなや、先輩は駆け足で自動販売機へと向かった。
今すぐ帰りたくなった。
このままここにいれば、何か嫌な事が起こりそうな気がする。
嫌な事って何だ。
それが分からなくて俺は今、無性に不安でイライラしている。
後から後から、湧き上がってくる不安を、俺は寒さに身を震わせて紛らわした。
「お待たせしました」
気付くと、目に前には缶コーヒー片手に息を切らしている先輩の姿があった。
受け取って、飲み口を指であけた。
ほう、と湯気が空気に溶けていく。
「先輩、少し歩こうか」
ベンチに腰掛けようとしていた先輩にそう告げ、俺は出口に向かって歩き始めた。
「ま、待ってください」
俺はその声を背中で聞いた。
アスファルトの道を先輩と肩を並べて歩く。
一般的な世間話や、下らない雑談も二人の口からは出てこなかった。
遠野志貴の1日の中で、一番楽しいはずのこの時間が、今ばかりはひどく残酷な時間のように思えた。
先輩はうつむいている。
俺はそんな先輩をじっと見ている。
先輩が何かを告げようとしているのはよく分かった。
それが何の話なのか、多少の好奇心もある。
よくない話だとは分かっているが、聞かないわけにはいかなかった。
俺は警笛を鳴らす理性を無視して、口を開いた。
「先輩、俺に話があるんだろ」
ぴたりと、二人の足が止まった。
先輩はうつむいていた顔を上げ、ゆっくりと俺のほうを見た。
綺麗な顔だな、と俺は何故かその顔が、今日で見納めのような気がして、心に焼き付けようと必死に先輩の顔を覗き込んだ。
「気付いて、たんですか……?」
「まあ、ね」
「そうですか……」
失敗したなぁ、って先輩は苦笑して言った。
「ありがとうございます。遠野くんがそう言ってくれなかったら、私、逃げちゃう所でした」
なにから、とは聞かなかった。
「黙って消えるのは、卑怯ですからね」
黙って消える。
先輩は確かにそう言った。
問いただそうとした俺の口を、先輩の人差し指が制した。
「私、フランスに帰る事になっちゃいました」
遠くから悲鳴のような犬の鳴き声が聞こえてきた。
公園の時計は、5時30分ジャストを指している。
太陽はもう半分以上もその姿を隠していて、辺りは少しずつ、薄暗くなっていく。
昼間は終り、夜が来る。
月が出てくる時間。
俺の手から、飲みさしの缶コーヒーが滑り落ちていった。
カラン
「私が日本に来たのは、実は教会の命令でもなんでもないんです。私の勝手で来ちゃったんです。それで何日か前に上の人から今すぐ戻れ、って命令が届いたんです。卒業まで、って頼んだんですけどやっぱりダメで。今ならまだ、目をつぶってやるからって」
残念です。と付け加え、先輩はばつが悪そうに笑った。
精一杯の作り笑顔で笑っている。
俺の頭は先輩の話が理解できなくて、ごちゃごちゃといろんな単語で埋まっていった。
「短い間でしたけど遠野君に会えて、本当に楽しかったです。幸せでした」
先輩はまた笑った。
この笑顔は、作り物じゃない自身が俺にはある。
先輩は右手を差し出した。
お別れの握手。
「………………」
やっぱり、俺の頭は先輩の話を理解できない。
だけど、体は勝手に動いていた。
「………え?」
このまま、離れられるわけ無い。
俺は先輩の右手を左手で握った。
強引に、力任せに、引き寄せる。
先輩は何も言わない。
黙って体を預けてくれた。
「俺、先輩とは離れられない……シエル先輩がいないなんて耐えられない……遠野志貴には先輩が必要なんだ」
胸の中で、こくんと頷く感触。
「俺もフランスに行く」
口が勝手に動いていた。
もう俺にはそれしか考えられない。
この人を失うくらいなら、俺は日常を捨て去る方を選ぶ。
秋葉も、有彦も、学校も、日本も、遠野志貴と言う名前でさえ、今の俺には小さい事に思えた。
腕の中の先輩の温もりを、もっともっと、感じていたくて、俺は先輩の背中に回している腕の力を、少しだけ込めた。
「愛してるんだ」
何の躊躇も、何の恥じらいも、無い。
自然にこの言葉が口から出ていた。
今の遠野志貴の、全てが詰まった単純な言葉。
「…………ありがとうございます。遠野くんなら……きっと……そう言ってくれると思ってました」
途切れ途切れの、聞き取るのも難しい弱い声。
胸の中の、先輩の手がぶるぶると、震えた。
「でもね、ダメなんです……あなたと……一緒には、行け……ない」
なんでなんだ。
そういう前に、口がふさがれた。
キス。
唇と唇を、ただ、合わせるだけの可愛らしい子供のようなキス。
何故か、しょっぱい味がした。
「私、一生遠野くんのこと、忘れません……あなたと過ごした短い時間が、私がはじめて人間でいられた時間でした……」
先輩はうつむいていて、その綺麗な顔が見えない。
ただ、俺の胸にある、しっかりと握られた先輩の両手は、まだ、震え続けていた。
「私も……あなたを愛しています。離れ離れになろうとも……忘れ去られても……私は死ぬまで、あなたの事を……想い続けます」
不意に、先輩は顔を上げた。
さっきまでの、綺麗なだけの顔ではなく、涙に濡れた、感情に満ちた、顔。
何の涙なんだろう。
悲しいのか、悔しいのか、怒りからなのか。
……多分、全部のような気がする。
「さようなら、です」
先輩の目が、怪しく光った。
とても綺麗な瞳。
俺は吸い込まれていきそうな錯覚を覚えた。
……マズイ。あの目は
意識が遠のく感じ。
……見ては
頭がぼんやりとしていく。
……いけ
視界が段々と白くなっていく。
……な、い……
俺は何をしているんだ?
アスファルトなんかで、うつ伏せに寝転んで。
……訳が分からない。
俺にそんな趣味は無かったはずだ。
ズキン
頭が痛い。
いつもの頭痛とは少し違う。
鉄バットで殴られたような感じじゃなく、脳の中を何かがよぎるような、流れていくような、そんな痛み。
まあ、どんな痛みだろうと関係ない。
痛いのには慣れている。
とにかく、俺は体を起こそうと腕に力を込めた。
……ピクリとも動かない。
何の冗談か。
こんな寒い中、頭痛に悩まされながら、ずっとこうしていなきゃならないのか?
誰か、誰かいないか。
助けを求めて、俺はなんとか首だけを上に持ち上げる事に成功した。
上を向く。
視界は激しい光の逆光にぼやけて、よく見えない。
ただ、人がいることは分かった。
助かった。という気持ちより、自分を今まで助けてくれなかった怒りの方が強かった。
そいつは黙って俺のことを見下ろしている。
倒れてる俺に手をさしのべようともしない。
「遠野、くん?」
柔らかい女性の声。
……ただ、聞き覚えは無い。
俺の事を遠野志貴と知ったうえで、『遠野くん』と呼ぶからには面識があるのだろう。
しかし、やっぱり聞いた事が無い声だった。
口はなんとか動く。
声も多分出るだろう。
俺は、聞いた。
「あんた、誰だ?」
その瞬間、何故かは知らないけど、とんでもない過ちを犯したような気分になった。
何故だろう。気分が悪い。
ふと見ると、俺は異様な光景を目にした。
目の前の女が泣いたんだ。わんわんと。
そして、何も言わずに走り去っていった。
……訳が分からない。
俺が何かしたんだろうか。
混乱する。
ズキン
流れるような頭痛。
同時に眠気も襲ってきた。
耐えがたい睡魔。
今は12月半ば。冷たい風が容赦なく吹きすさぶ。
そんな中、俺はコートも着ずに、アスファルトの床に馬鹿みたいに寝転んでいる。
体の方も一向に動く気配は無い。
その上、強烈に襲ってくる睡魔。
……風邪、引かないだろうな。
<つづく>