寒い。寒い。ここはあまりに寒すぎる。
身も凍るような寒さ。それから逃れるために目の前のものを切り裂いた。
ぐちゅりっとした粘着質の音がする。ぎちっ ぎちっ びしゃあっ、硬くなりかけた肉を裂く音が暗闇に木霊する。爪を立て皮膚を切り裂き、肉を引きちぎり、引き裂いた肉片を口に運ぶ。骨を噛み砕き中の髄を噛み締める。指先から肘に沿ってたらたら流れる血を舌でなめとる。
噛み締めた肉片は水気が多い。
顎を上下させるたびに生々しい咀嚼音がする。
寒さに耐え、目の前にある肉を喰らう。
硬い肉も柔らかい内臓も、全身にある骨も筋も、冷え切ってしまい固まりかけた血も。
最後の一片まで咀嚼する。
暗いその空間にいつまでもいつまでもその音は響く。
肉を裂く音、肉を喰らう音、血を啜る音。
何をしているのか分らない。何がしたかったのかわからない。ただただ、なにかに急き立てられ、なにかから逃れるために、喰らう。
精神の隙間に宿る 空白 空白 空白。
何をしているのだろう。なんなのだろう。これは悪い夢か。
時折つながる意識の断片。
それは戯れのように正気と狂気をつなぐ糸。
床に這いずり流れ落ちた血を一滴残さず啜る。ズルズルとジュルジュルと。
意識の隙間に宿る 空白 空白 空白。
死の匂いが漂う。どこからか、誘うように。
自らの奥、魂の底からこみ上げる捕食衝動。
……さあ、夜に出かけよう。夜は……
内から響くこの声。
なにもわからない。なにもわからない。なにもわからない。
音もなくその影は夜空を駆けていた。黒い裾の長い法衣が夜風になびく。編み上げブーツの足が音も立てず屋根をけるたびに影は宙を滑るように進んでいく。昏い新月の闇を駆ける闇よりも黒い影。
住宅地を縦断して移動していた影の主は、しばしその動きを止めた。
ほぼ一直線に移動してきた影、その目の前にはオフィス街と住宅地を隔てる境界のような形で大きな公園が存在している。夜もふけたこの時間、そこには誰の気配もない。
影はしばしその動きを止めた後、再び屋根を蹴ると公園内にポツリポツリと存在する街灯の上を飛び石をはねるように進んでいった。
夜に閉ざされた公園の中に広場がある。そこにあるいくつもの街灯が広場を中心に小さな光の世界を作り出していた。
闇を祓う小さな人工の結界。その一端に影は姿を現した。
それは美しい少女だった。
脆弱な光の結界を跳ね返すような漆黒の法衣、ブーツ。さらされた頭部と指先だけが白く光を跳ね返している。わずかに青みがかった髪と青い瞳が白っぽい蛍光灯の明かりを映し、神秘的な輝き作り出していた。
背中と袖元には深紅の十字架、埋葬機関の証でもある血の十字架を持つその少女 −シエル− は硬い能面のような無表情をその顔に貼り付けながらゆっくりと広場へと進んでいく。
ちょうど広場の中央に来たあたりでシエルはそっと地面に跪いた。片膝をついたシエルは白い指先を伸ばし、湿った土の感触を確かめるようにゆっくりと指先を這わしていく。
ほんの一月ほど前、ここで一人の少年が死にかけた事を知る者は少ない。彼はここで死に瀕するほどの傷を負い、一つの世界を壊し、そしてはじめて自らの意思で殺人を犯した。彼には力があり、その力はかろうじて日常に留まっていた彼を違う世界へと導いた。
出会ってから一月にもならないほんの短い時間。しかしその少年はシエルにもっとも大切な人になっている。死に瀕する経験と異常な能力、彼はその二つを触れながらも日常という世界を生きていこうとしていた。自分が喪ってしまってからずっと望んでいた世界を生きていた彼のことを思う。
血を流しここに立っていた彼。あるきっかけを境に日常を超えてしまった彼に悲しみ覚える反面、シエルはそれにかすかな喜びを感じていた。彼が自分と同じ世界に位置してしまったという事。彼と出会えたということに。
シエルの身に蛇のように絡み付いていた呪わしい鎖を、彼はそのナイフで切り裂いてくれた。
初めて会ったときから彼は優しかった。残酷とも言える優しさで彼は自分に接してくれていた。
いつしかじっと自分の指先を見つめるシエルの頬にはやさしい微笑が浮かんでいた。
シエルはそっと立ち上がると夜空を見上げた。
今夜は新月、夜空に君臨する月は無く、星達の輝きも街の光に閉ざされている。
そのままどれほどの時間が過ぎただろうか、シエルは唐突に後ろを振り返った。
シエルは夜の公園の一端を凝視する。夜の闇と淡い光、その中でシエルは並び立つ木々の隙間からわずかに漏れ出す気配を捉えていた。
彼女にとってもっとも馴染み深いその気配をシエルはかすかに感じとる。自分が常に刈り続けて来た血と腐敗の匂い。一度はわが身にも宿した忌まわしいそれを。
「……まだ、 いたんですね」
シエルそういうと木々の立ち並ぶ奥へと足を進めていた。
一歩進むごとに光はその力を失い、闇がその色を深めていく。そんな中、彼女の纏う法衣は闇よりも暗く犯されざる孤高の色を保つ。
まばらに生える木々の間を縫い。シエルは無造作に進んでいく。しかし下草を踏みしめながらも彼女は物音一つ立てなかった。やがて音無き影はそこにたどり着いた。
闇を見通す彼女の瞳には数メートル先に一人の人影といくつかのモノが転がっているのが見えた。
闇の中にかすかに赤く光る人影の瞳。人影は手にとったモノを口に運んでいる。
響く咀嚼音。
転がるモノから漂う血の匂い。人影から漂う腐敗臭。
次の瞬間、シエルは行動を起こしていた。己が内に潜む力を呼び出し形となす。手の中に瞬時に現れた針のように細い数本の長剣をシエルは捻り込むように投擲する。
風切り音さえ鳴らさずに打ち出された剣は目の前の人影を異種運にして背後の木に磔にしていた。
「……っ!!」
磔となった人影は声を出すことも出来ない。それもそのはず、人影の喉には長剣が刀身半ばまで突き刺さっている。同時に投擲された剣は人影の喉、腰、胸、両肘と両膝を見事に縫い止めていた。明らかにこれは致命傷だ。しかし人影はびくりびくりと痙攣を起こしながらも必死に身を捩じらしている。赤く光を放つ両眼は必死に加害者を探す。
「もう動けませんよ、それはあなたに解けるようなものでないのですから」
シエルはそういうと数メートルの距離を詰めながらゆっくりと剣を待たない左手を持ち上げた。指先を複雑に動かし、口の中で一言二言小さくつぶやく。するとぴんと立てた指先からピンポン球位の大きさの光の固まりが飛び出した。街灯の明かりよりもまだ白い光を放つそれは人影の周囲の闇を切り裂きその姿をさらけ出させた。
「……死者? いえ、 屍喰鬼ですか……?」
目の前に磔にされたそれを目の前にシエルはそう言った。
それは基本的には人の形だった。しかしその骨格は大きく捻じ曲がり、どこか獣じみたフォルムを作り出す。全身を覆っているはずの皮膚は大きく腐れ落ち、赤い肉が剥き出しになっている。顔の皮膚は半分ずれ瞼の無くなった右目の眼球は信じられない位の大きさでこちらを睨んでいた。顎から頬の肉は無残にも削げ落ちそこから白い牙を覗かせている。半身の皮膚を取り去った肉の塊。それは捻じ曲がった骨格のため、理科室の人体模型と言うよりは毛皮を剥ぎ取られた獣のように見える。
実際、痙攣を続けながら虚空を睨むその瞳は人間の、知性を持ったものの瞳では無かった。
その赤い瞳は底なしの狂気を孕み爛々と輝く。
「つらいですか」
シエルはそう人影に問い掛けた。その変わり果てた姿からは人影の生前の姿を思い起こすことは難しい。
ただわずかに膨らんだ胸元からそれが女性であることを見抜いていた。
彼女は答えようともせずに喉から息を漏らす。かすれたその音が風に混じった。
もがき続ける彼女をシエルは断罪者の瞳で見据えている。
「ずいぶんと殺したものですね」
周りに転がる大量の血肉はまるで奇妙なオブジェのように木々を飾っている。
答えが返ってくる事を期待もせずにシエルは言葉をつむぐ。
貴女は悪くないですよ」
シエルはそう言うとわずかに表情を歪ませる。
「ただ、 運が悪かっただけ」
晧々と白く輝く光の世界。そこに散らばる引きちぎられた手足、引きずり出された内臓、割られた頭蓋、つぶれかけた眼球が夜空を見る。
「死んでください」
彼女は狂い惜しく手足を動かし、身を捩る。
吐き出されない叫びが虚空に響く。
……死にたくない……
シエルは驚いたように彼女を見つめた。
彼女はただ剥き出しの歯茎を懸命に動かし、口を開く。
……死にたくない……
……死にたくない……
……死にたくない……
「……驚きました。まだ意識があるんですね」
屍喰鬼に理性はない。それは今までのシエルの常識だった。屍喰鬼となったものにあるのは自己保存の本能のみだったはずだ。死肉を喰らい自らの崩壊した肉体を再構成することがそのすべてであるはずである。しかし目の前の存在は狂気に犯されながらも自らの意思で言葉を伝えようとしていた。
骨の剥き出しになった指先で懸命に磔にされた木の表面を削る。肉が裂ける事さえかまわず身を捩る。
腐敗した脳を無理矢理に活動させ彼女は訴えつづける。
「……っ」
シエルはそんな彼女の様子を見かねたように右手に持った長剣を突き出した。
すとんと音を立て額に突き刺さる長剣。
次の瞬間、剣は発火。爆発的な炎は瞬時に死者を焼き尽くす。柄を握り締めたままにも関わらず。
数秒後、炎は木々に焼け焦げ一つ残さず消える。
もうそこに彼女の存在はない。
灰すらも残さず消えた少女の残したものは磔にされた気に残る爪痕だけだった。
シエルは無感情な瞳で彼女の最後に残したものを見つめていた。
「……私も」
伸ばしたシエルの右腕は業火に巻き巻き込まれ黒焦げになっていた。その右手からは刺すような痛みが走る。ゆっくりとうつむいたシエルはその痛みを感じていないかのようにつぶやいた。
シエルはゆっくりと右手を引き戻し傷口を覆うように左手を当てる。
「死ぬわけにはいきません」
シエルはそういうと傷口に手を当てたまま一言二言つぶやいた。かすかな光が傷口を抑えて手のひらから漏れ、次の瞬間には惨い火傷が塞がっていた。
かつてシエルには『死』が存在しなかった。この世界において限りなく不死に近い、真祖よりも死から遠い存在だった。世界から終わりを許されなかったもの。それがシエルだった。
しかしもうその世界の矛盾点を内包した少女は存在しない。ここにいるのは血を流し傷つき用意に死に至る一人の少女だった。
そして彼女には生きる希望がある。共に生きたいという彼がいる。
「……すみません……」
小さく口の中でつぶやいたシエルはくるりとそこに背を向けた。
闇から消える闇よりも黒い影。
ゆっくりと遠ざかっていくシエルその背後で白い光球がはじけると、あたりに光の雨の様に降り注いだ・
きらきらと降り積もる光の欠片。それはそこにあるすべてを浄化していく。
そこに散らばる引きちぎられた手足、引きずり出された内臓、割られた頭蓋も大地に広がる血の痕も光の中へと消え去る。
後に残るのは静寂のみ。
一本の木に残った爪痕だけが、そこで消えた生命達の最後を刻み込んでいた。
<Fin>
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また投稿させてもらいました。数野です。
どうかよろしくお願いします。
とりあえず今回の話はシエル先輩です。
一応これも、全員ハッピーな感じのエンド(『太陽』か『月茶』あたり)から『月蝕』までの間に位置する妄想です。
すべてが終ったと思っている中、一人ロア&四季の置き土産を始末するため毎日夜のパトロールに出かける先輩の話です。
色々とがんばりましたがこれが限界でした。
なんかまたストーリーのない展開で悲しいです。
最後まで読んでくださった方、どうもありがとうございます。
指摘、感想、添削などありましたら、どうかよろしくお願いします。