Dawn/fantasm voyage
「牀前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷
―――牀前月光を見る 疑うらくは是地上の霜かと 頭を挙げて山月を望み 頭をたれて故郷を思う」
盛唐の詩人「詩仙」李白 静夜思より
煌々と月が輝く。遮る雲も無く、欠ける事も無く、ただ煌々と輝く。
冬の帳が冬木を、未だ閉ざす。されど、月はそれすら感じさせぬほど、やわらかな光を放つ。
「良い月だな」
ふと、柄にも無く言ってみる。隣に座った少女も、
「ええ、良い月です」
と、彼に合わせて言う。いつもなら、こんなゆっくりと月を見ることは出来なかった。
それが何故か、今日は月の光に誘われて、二人は庭に留まる。
「月を美しいと思った事は、何度もあります。でも、これほどまでに月を美しいと思ったことは、ありません」
「俺もだ。どうしてか、今日は月がゆっくり見たくなった。本当なら、こんなことをしている場合じゃないんだけどな」
そう。二人には、限られた時間の中で「聖杯」を手に入れるために、他のマスターとサーヴァントを見つけなくてはならない。
だが―――
「でも、今夜は何も起こらないと思う。だって、今夜は―――」
「月が美しいから」
先を少女に言われて、衛宮士郎は苦笑する。普段なら、こんな確証の無い事を聞いたら、彼女は怒り出すはずであった。
だが、今日は彼女も月に見惚れている。それは、士郎が土倉の中で、はじめてであった時以降、まったく見た事の無い表情で、彼女は月を見ていた。
「だからと言って、向こうから襲って来ない確証はありません。ひょっとしたら、もう、この家に入っているのかもしれない。ですが―――」
間を置いて、彼女は微笑みながら言う。
「たとえどんな卑劣な相手でも、こんな良い夜に襲ってくるほど、無粋ではないでしょう」
「そう、だな。きっと、そうだよな。セイバー」
そうしてまた、月を見る。月は、微塵も欠けることなく、そのままの姿でいた。
ただし、舟を漕ぐような水音を除いて。
「良い月ね」
部屋の中から、月を見上げた彼女が言った言葉に対し、赤い外套の騎士は眉を顰める。
「そんな悠長な事を言っている場合か?」
「あら。連日、気分を張り詰めたまま夜を過ごすって言うのは、良くないわ。偶には、風流に月を観賞してもいいんじゃない?」
彼女の言葉に、赤い騎士はなお、困った様子で額に手を当てた。
「まあ、良いだろう。生憎だが、私は風流を感じる気分ではないのでね」
素っ気無く言う赤い騎士に対し、遠坂凛は、さほど残念そうでもなく、
「そう。それは、残念ね」
と、言っただけであった。
「過去にあなたに何があったかは、よくはわからないけど、随分現実的な思考のようね」
「美しいなどという感情は、一時のものに過ぎん。今夜の月とて、いずれ忘れてしまうくらいなら、見ぬほうが良い」
「それって、かなり人生を損しているんじゃない? アーチャー」
アーチャーはため息を吐き、付き合ってやるかと言う表情で窓辺に乗り出すと、凛は彼に笑いかけた。
「見ないんじゃなかったの?」
「君にああ言われて、簡単に引き下がるようでは、私自身が納得できないからな」
憮然とした表情で、アーチャーは言う。とは言え、彼もまんざらではないといった様子だ。
「確かに、美しいな」
「ええ」
月に焦点を合わせたまま、凛は思ったままのことを口にする。今だけしか見られないから、だからこそ、この目に焼き付けておきたいのだ。
しかし、彼女は気付いてはいなかった。
アーチャーの表情は、外見上こそ変化は無いものの、更に険しくなった目で、その月の向こうから来る何かを、じっと見つめていた。
ふと、アーチャーの鼻腔を何かが刺激した。それは、塩気の無い真水の臭いであった。
「良い月だ」
「……はい」
男は、顔にこそ出していなかったものの、再び心の底から美しいと思える事に、心をほころばせていた。
その彼に寄り添う女は、月と男の顔とに目を往復させ、どこか落ち着かないようだ。
「どうした? キャスター」
「い、いえ! ただ……宗一郎様の口から、そのような事を聞いたのは、初めてでしたから」
葛木宗一郎のサーヴァントであるキャスターは、今はローブを纏っておらず、葛木の婚約者として、この柳桐寺に住み込んでいる一人の女として、彼の側にいた。
「そうか」
さほど、気を悪くしたようでもなく、葛木は言った。背広こそ脱いでいるものの、着ているワイシャツは喉元までしっかりとボタンを留めている。
キャスターは、短いながらも、彼と過ごしてきた夜の中で、ここまで美しいと思った事は無かった。それだけに、月明かりは、煌々と二人を照らす。
「あの……宗一郎様」
「む?」
顔を伏せ、気恥ずかしそうに言うキャスターに対し、葛木は目線を少し動かして答える。
「私、前にも言いましたよね……? 此処にいる時だけは、サーヴァントとしてではなく……一人の女として扱ってもらいたいと」
「そうだったな。あの時、お前は、此処にいる時だけは、クラスではなく真名で呼んでほしいと」
葛木の問いかけに、キャスターは頷く。
「だが、私が真名を言うたびに、お前は表情を曇らせる」
葛木の指摘に、キャスターは力無く頷く。
「お前が良いと言うのであれば、私はお前の真名を呼ぶ。だが、それでお前の心を締めつけるならば、呼ばぬほうが良いはずだ」
事実、キャスターは、彼女の真名を葛木に呼ばれる度に、彼女がしてしまった罪を思い出してしまい、苦しんでいた。
葛木の、彼なりの心遣いは、確かに嬉しかった。けれども、同時に彼女は、本当はその名前で呼んでほしいと哀願する。
それが、彼女には辛かった。彼女自身の心が、ではなく、自分が求めている事と否定している事とを気遣っている葛木の姿が。
「キャスター……」
「はい」
「今夜ばかりは、自分に素直になっても良いぞ」
それを聞くと、彼女の心を押しとどめていた堰は切れた。葛木に寄りかかり、彼の胸に顔を埋める。
それを見下ろす月の光は、なぜか、とても冷たく感じた。
「中々、良い月だ。この時代にも、こんな月を見れるとはな」
「ああ、そうかよ」
大橋下の公園で、月明かりに照らされる黄金と青の人影。金髪の青年の感銘に、青い騎士はぶっきらぼうに応じただけであった。
「素っ気無いな。お前も見たらどうだ?」
「天体観測には、まったく興味が無いので」
青い騎士は、金髪の青年といるのが不愉快だとでも言うかのような口調で、言った。青年は、肩をすくめ、視線を月に戻す。
「ウルクで見た月も美しかった。だが、今宵の月に適う月夜は、過去未来、いくら探しても見つかるまい」
「月だの星だの……あんなもの、岩の塊じゃないか」
「英霊らしくも無い言い草だな、ランサー。俗世に毒されてでもしたか?」
「それはお前だろ、ギルガメッシュ。オレは、戦場以外での良い思い出なんか、ほとんど忘れてしまったものでね」
ランサーの言葉は、前回のアーチャー=ギルガメッシュの興味を引くには、少しばかり足りなかった。相変わらず月に目を向けたまま、ギルガメッシュは言う。
「それにしても、本当に今宵は素晴らしい……余計なものさえ、入らなければな」
「ああ、まったくだ」
ギルガメッシュとランサーの視線が、同じ位置で交わる。それは、大橋の真下、丁度影になって、目を凝らさねば何も見えないところであった。
「出て来い。我(オレ)を王と知っての、無礼か?」
ギルガメッシュが傲慢とも採れる言葉を、そこへ投げかける。と、底に潜んでいたものが動く気配があり―――それは、いつの間にか、二人から二歩離れたところに立っていた。
「こんばんわ、英雄王に、狗」
前者はともかく、後者は明らかに侮辱しているとしか思えない言葉を、その老人は言った。老人は、上質の檜で作られたやや低めの下駄を履き、落ち着いた色の上物の着物の上から、黒色のインバネスを羽織っており、白くなった髭と頭髪の生えた頭には、中折れ帽子が乗っかっている。
所謂、戦前のご隠居だとかが着ていそうな装いなのだが、目の前にいる二人はそれを知るよしも無い。
杖を手に持った老人は、一見人のよさそうな笑みを浮かべていたが、その目の奥には明らかな敵意が浮かんでいる。
「何者だ?」
「さて、誰でしょう?」
ギルガメッシュの問いに、老人は、コメディアンさながらのおどけた口調で、逆に問い返した。一瞬、ギルガメッシュは呆気にとられてしまったが、すぐに威厳を取り戻して、再び尋ねた。
「我(オレ)を愚弄するか、老人。何者だ?」
「ケッ、せっかちな王様だ」
自分のユーモアが通用しなかった事に不満だったのか、老人は口を尖らせた。しかし、すぐにギルガメッシュに目を戻して、愛敬たっぷりの笑顔で名乗る。
「わしの名は、斎丸玄之丞。大陸じゃあ、一昔前まで名の知れた、妖術師だ」
「妖術師? 魔術師ではないのか?」
「あんな、聖杯戦争なんぞと言う、馬鹿げた遊戯を始めた御三家と一緒にするでない!」
自分から妖術師と名乗っておいて、魔術師ではないのかと問えば、馬鹿げた遊戯を始めた御三家と言って罵倒する。ギルガメッシュはもとより、ランサーも、この老人には首を傾げてしまった。
「まったく、大陸はもとより、日本へ住み着くと言うのなら、元締めのわしに挨拶するのが此処での礼儀。だと言うのに、あいつらは、悪趣味だとか陰湿だとか好き勝手に貶して、勝手に住み着きおって、えーい、思い出しても腹が立つ!」
まだ、その時のことが許せないのか、玄之丞はステッキを振り回して、捲くし立てた。
「それで、三回目の聖杯戦争の折に、懲らしめの意味でライダーのマスターになったと言うのに、アインツベルンの小娘が余計なものを呼び出したものだから、聖杯は泥まみれだ、わしは大陸へ逃げねばならんわ、散々だったぞ。まあ、遠坂は土着だったから、別に構わんけどな」
その言葉を聞いていた二人の目の色が変わった。今、玄之丞は三回目の聖杯戦争と言ったか。
「ゲンノジョウとやら、貴様、聖杯戦争に参加したのか?」
「ああ、したとも。もっとも、サハロフのバーサーカーに、わし自らぶった切られちまったんだがね」
「ならば、何故生きている?」
その言葉を待っていたかのように、玄之丞は大きく笑い出したかと思うと、ギルガメッシュに向けて右腕を出し、こともあろうに中指を立てた。
「亜米利加式の罵倒の印だ。何が言いたいかは、わかっておろう?」
「よかろう。望み通りにしてやる」
と、ギルガメッシュが腕を頭上に上げると、彼の背後から無数の武器が現れる。「王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)」、バビロンの宝物庫にある世界中の武器の原型を、空間を越えて呼び出す宝具だ。
「ほうほう、それが宝物庫の中身か。眼福眼福」
自分の運命を自分で宣言したはずなのに、老人は恐れるどころか、その無数の武器を前にして、両手を合わせて拝みだしたのだ。
「良い心がけだ」
ギルガメッシュが老人を褒め、そのまま指を―――鳴らす。一斉に、宝物庫の中身が、老人目掛けて飛び出す。
老人はそのままの姿勢で、よけようともしない。それどころか、顔はまったくの無表情であった。
瞬く間に、老人の体に、剣が、槍が、矛が、矢が、ありとあらゆる武器が突き刺さり、老人の体は無残にも鮮血を撒き散らす、奇怪なオブジェへと成り果てる。
しかし、ギルガメッシュは動かなかった。それどころか、険しい表情でランサーに向かって、言った。
「ランサー、この老人、貴様の槍でも無理だ」
「なに?」
魔槍ゲイボルクを構えたランサーは、ギルガメッシュを見やり、次いで玄之丞の「死体」を見て―――絶句する。
「んー、ちと痛いかな」
まるで自分の様子がわかっていないかのように、玄之丞は呟いた。すると、どうであろう。
玄之丞の体に突き刺さっていた武器は、腐食し始め、一様にして老人の足元へ転がり落ちると、塵となって砕け散った。刺さっていた本人には、何の変化も見られない。
さらに追い討ちをかけるかのように、懐から短刀を出して自分の顔を剥ぐと、それを二人に見せ付けた。断面には、骨も脳味噌も無く、ただ乳白色の中身が覗いているだけだ。
「いかに英雄王とは言えども、年寄りの一人も、殺せぬようでは返上せねばならんな」
顔の無い玄之丞の手に握られた顔が、笑いながら言った。
「……貴様、不死者か」
ギルガメッシュの言葉を聞いて、ランサーは一瞬驚いてから納得し、玄之丞の顔は肯定するかのように笑う。笑いを止め、玄之丞はギルガメッシュの言葉を補足する。
「と言っても、吸血種とは違うぞ。大陸には神仙―――仙人と言ったほうが良いか―――と言うのが、いてな。わしは、その中で最も格下の屍解仙なのだが、これがどうして、なかなかしぶとい体になっての」
まるで、孫に昔話でもするような優しい声で老人は言う。しかし、目の前の二人は、依然として険しい表情のままだ。
「食わずとも飲まずとも一睡せずとも、死なぬ。唯一の糧は、星の精気だけ。槍兵、おぬしの槍とて、星の精気で作られたこの体は貫けぬぞ」
「……心臓すら所有しないと言うのか。とんでもないお茶目な爺様だ」
老人に合わせて、ランサーは軽口を叩く。しかし、その額には脂汗が滲んでおり、老人がいかに強敵であるかを物語っている。
「さて、大陸から帰ってきて日が浅いが、お前さん達。まだ、聖杯をねらっとるのかね?」
顔を貼り付けながら、玄之丞は尋ねる。切断面を指でなぞると、何事も無かったかのように消え、老人は首をゴキゴキと鳴らした。
「ならば、どうだと?」
「悪い事は言わんよ。あんなもん、現世に留まる連中が手を出して良いもんじゃない。英雄王、おぬしならば、往々に承知しているはずだ」
「ふむ、確かに……だが、生憎、言峰も我(オレ)も聖杯を手にする理由はある」
「ふん、欲張りめ」
老人は、機嫌を損ねたらしく、杖を打ち鳴らす。不意に、3人の頭上が翳った。
何事かと思い、ギルガメッシュとランサーは頭上を見上げ―――その驚く様を、老人は卑しい目つきで笑う。
「あれは……舟か?」
月を遮り、月光に照らされた冬木市を影で閉ざしたもの。それは、夜空に浮かぶ月をすっぽりと覆い隠してしまうほどの、巨大な櫂船であった。
「“終焉運び行く浮舟”(ゲッターデメリング)」
二人の背後から、老人とは別の声が浴びせられる。振り返った先には、エジプト風の、紅白冠を被り、黒と金を基調とした軽装鎧の浅黒い肌の男が立っていた。
「あれは、この世に終焉を運び、時を渡り行く舟。我が宝具は、最後の時を運ぶ舟なり。故に、我は舟を駆る騎兵なり」
「そこにいるのが、わしのライダーだ。おそらくは、ギルガメッシュ、おぬしにも匹敵しようぞ」
「なるほど。上下エジプトを統一し、ホルスの加護の元、神の化身として世を平定した王。されど、その姿、真偽混じりて、今は無し……」
まるで、謳うかのようにギルガメッシュは言う。そこにいるのは、間違いなく、自分に匹敵する世界最古の「統一王」であろう。
その姿を映したとされている石版(パレット)には、罪人を槌矛で殴りつける彼の姿が描かれている。その一方で、サソリ王のメイスと呼ばれる品にも、その姿は描かれている。
しかし、未だにそのどちらが真実なのか、はたまた、本当に彼は実在したのかは計り知れない。
しかし、サーヴァントは所詮、伝説上の英霊・反英霊を現世に呼び出すもの。だとすれば、彼のような実在が疑われている存在がサーヴァントであっても、可笑しくは無い。
「さてと、お返しせねばならんな」
言い終わると同時に、ギルガメッシュに向かって、何かが老人の手から飛び出す。慌てて気づいたものの、新たに武器を取り出そうとしたときには、その飛び出してきた奇怪な魚影に腕を噛まれたような気がして動かなかった。
「鮫か!」
「ご名答。もっとも、こちらの古い言葉では、鰐と言うのだがね」
玄之丞の右隣で空中に停止した鰐は、ギルガメッシュの右腕を咥えていた。しかしその腕からも、食いちぎられたギルガメッシュの本体からも、血は流れていない。
何故ならば、鰐が咥えていたのは、ギルガメッシュの腕の影だったからだ。
「コイツはおかしな特性を持っていてな。本体を食う事も出来るのだが、影を食いちぎる事も出来るのだよ」
そう言って、玄之丞は鰐の頭に手を置く。それに気分を良くしたのか、鰐は咥えていたギルガメッシュの腕の影に力を加えた。
「そして、影の痛みは本体に直結する」
玄之丞の言葉の通りであった。ギルガメッシュの腕は、鰐に噛まれている影と同じ箇所から血が流れており、表情は威厳を保ちながらも、苦しそうであった。
ランサーは、鰐に向かってゲイボルクを構えたが、その反対側にもう一匹の鰐が現れると、身動きが取れなくなり、舌打ちした。
「さて、どうする? お前の主に、聖杯を諦めるように言うか?」
「巫山戯るな、下郎。貴様のような奴に、指図される謂れは無い」
「えぇい、強情な奴め。尋、もう離して良いぞ」
すると、ギルガメッシュの腕の影を咥えていた鰐が、ギョロギョロと4つの目を動かして、怪訝そうな声で老人に尋ねた。
「良いのか、翁?」
「構わん。もう、こやつらには別の手段を投じてある。彦も戻れ」
尚も怪訝そうな表情で鰐は腕の影を咥えていたが、やがてそれをギルガメッシュの足元へ放り出すと、もう一匹の鰐と共に、老人の袖の中に戻っていった。
「そこまで言うなら、見せてやる。いや、飛ばしてやるぞ」
すると、月を覆い隠した櫂船から数本の帯が垂れてきて、ギルガメッシュとランサーの体に巻きついた。
その帯が二人の動きを封じると、赤みを帯びた光を放った。すると、段々、二人の肉体が透けてきた。やがて帯には、那時候傳送到愚蠢主和追隨者和那方向(愚かなる主従の契り結ぶもの、時の彼方へ誘う)と言う意味の漢文が浮き上がってきた。
「おい、何だ、これは!?」
「貴様、消すつもりか!?」
「まあまあ、そう驚かんと。ただ、ちょいとばかり、お前さんの主と一緒に、過去へ飛んでもらうだけの事だから。な?」
玄之丞の余りの好々爺ぶりに、ギルガメッシュとランサーは自分の体が消えかけている事も忘れ、その体が舟に向かって吸い込まれていくまで、終始呆れた表情を浮かべていた。
「向こうに行っても、時の流れと地脈の関係で、こっちの聖杯と重複することは無いからな。まっ、それまで、聖杯の真実見てきなさいな」
「一つ、申してもよろしいか?」
舟を見上げながら、のんびりと言ってのけた玄之丞に向かって、ライダーは咳払いをしてから声をかけた。
「今回の監督役、あの二体のマスターでもあるぞ」
それを聞いた玄之丞は、目を白黒させ、腕を組んで唸り、更にはライダーの周りを時計回りに回り始め、三回ほど回ってもとの位置に戻ってきてから、素っ気無く言った。
「まあ、良いか。いてもいなくても、聖杯には関係ないし、これで協会の連中に大陸の仙術と日ノ本の呪術が魔術には劣っていないと、証明できる事だし」
「それで良いのか、マスター。幾ら舶来の魔術が基準になった昨今とは言え、それではただの僻みにしか、思えんぞ」
「仕方なかろう。200年前まで、遠坂の魔術は排除される側だったのだからな。それなのに、どいつもこいつも、急に魔術へ鞍替えしやがって……」
愚痴を言いながら土手を登ろうとした玄之丞は、ふと足を止めて、ライダーに振り返り、
「何をしとる?」
「愚痴は勘弁願う」
無表情で言われたものだから、玄之丞は苦虫を噛み潰したような表情になったが、やがて諦めたような表情になった。
「わかったよ。しゃあない、臓硯の所にでも、茶をせびりに行くか」
「向こうでの監視はどうなさる?」
「鰐どもを、向こうに送った。何か拙い事さえあれば、上手く処理してくれるさ、あの子達は」
「では、貴殿の意志に従い、私も行くか」
そう言って軽装鎧から黒の紳士服に着替え、フェルトの帽子を浅黒い禿頭にかぶせてから、ライダーは玄之丞の後を追い始めた。
さあ、乗客は揃った。真実を追って、幻想の舟は航海へと乗り出す。
そこにあるは、絶望か。それとも、希望か。さあ、錨を揚げろ。
船出だ。海図も無く羅針盤も無く、当て所なく彷徨う航海は、今始まったり。
後述
色々と、練り直しながら書いたので、一部おかしい所があるかもしれません。
「舟……?」
余りにも、非現実的――セイバーですら、出会った当初は非現実的であったが――な光景に目を奪われた士郎は、突如として庭に降り立った二人分の足音にも気付かなかった。
「何者!?」
セイバーの声でハッと我に返り、月を覆い隠した舟からそちらへ目を向けると、奇妙な二人組みが、こちらを見ていた。
一人は分厚いメタルフレームの眼鏡に、地味な紺色の背広に黒いネクタイにスラックス、極めつけは側部を残して退行した頭髪と、冴えない中年サラリーマン風の男。
もう一人は、目を背けたくなるほど汚い長髪と髭面で、何かソースのようなものがこぼれてできた染みだらけのセーターに、でっぷりと太った腹ではちきれそうなジャージと、ホームレス風の男であった。
一見すると、とても共通点があるとは言い難く、世間の目から見れば、哀れな存在ぐらいにしか思われない姿であった。
ただし、共通するところはあった。それは、両者共に、魚のように目が横にずれており、鼻面が尖っているところであった。横から見ると、鮫に似ているかもしれない。
「此処におわす魔術師は、いかなる人にあらせられるか?」
サラリーマン風の男が、もはや古文の授業でしか聞かないような口調で、二人に尋ねる。しかし、返事が無いと見ると、頭をかいて隣のホームレス風と顔を見合わせ、一歩踏み出してきた。
思わずセイバーが身構えるが、男は手をひらひらさせて、攻撃するつもりはない、と意思表示した。
「そこの少年、お前が魔術師か?」
今度は現代語で聞いてきた。
「あ、ああ」
反射的に答える。またもホームレス風と顔を見合わせた男は、二人して肩を震わせたかと思うと、明らかに人を馬鹿にした笑い声をあげた。
「ハハハハハハハハッ、こ、こいつが、こいつが、ハハハ、魔術師だと!?」
「そ、それも、ヒヒッ、セイバーのマスターか、ウヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!!」
腹を抱えて笑う二人にまたも呆気にとられ、どうしようか考えていたところ、怒って鎧に着替えたセイバーが、ずかずかと二人の前に大股で歩いていった。
「それ以上、私のマスターを侮辱するな!」
セイバーの一喝で、二人は笑うのをぴたりと止め、まだ笑い泣きの表情で、サラリーマン風が弁解しながら、言った。
「いやいや、すまない。何しろ、馬鹿正直に答えて、しかも魔力すら低いと言うのに、セイバーのマスターであるのだから、余りにも可笑しくてな」
「一体、お前たちは何者だ? 何の用があって、此処へ来た?」
セイバーの問いに対し、サラリーマン風が答えた。
「私は鰐の一族の輔(すけ)。で、こっちの太ったほうが、実(さね)と言う。ああ、鰐と言っても、アフリカのあれじゃあない。この国の古い言葉で、鮫だな」
輔と名乗ったサラリーマン風と実と呼ばれたホームレス風が、揃って口を大きく開いて見せ付ける。どちらも、鋭い鮫の歯で、人間の臼歯や門歯にあたるものが無かった。
そう言えば、どこか生臭く、肌もザラザラしているように見えた。
「さて、二つ目の質問に答えよう。我々の目的は、二者択一。単刀直入に言えば、聖杯戦争から降りるか――」
「ここで死ぬか」
「そうそう。実を言うと、我々の主が聖杯を求めていてな。ただ、そのためには色々と下準備が必要だ。そこで、主は考えた」
「俺たちを使ってマスターの資格を捨てるか、サーヴァントもろとも死ぬか、どっちかに決めさせよう。無論、資格を捨てたならば、マスターの命だけは残しておくぜ」
自慢らしい己の歯を見せつけながら、実が言う。夜風に乗って流れてきた息は血生臭く、セーターの染みは少なくとも、すぐ近くで彼に食われた犠牲者の返り血だとわかった。
「生憎だが、降りることは出来ない。俺には聖杯を使って叶える望みなんか無いが、そいつを使ってとんでもない望みを叶えようとしている奴から、守らなくちゃならない」
「そういう事だ、鰐の一族よ。おそらく、そちらの主も邪な望みを叶えるために、聖杯を狙っているのでしょうが、そのような望みのために聖杯戦争から降りることは出来ません」
きっぱりと言い放った士郎とセイバーに、輔は大げさな身振りで天を仰いだが、その目に殺気を帯びさせて戻ってくると、同じような目つきをした実に向かって言った。
「やるか」
「やろう」
何処からか取り出したのか、三叉の金属銛を手に持った二人。相手の正体が鰐なだけに、使う武器もそれ相応のようだ。
歯を剥き出しにして一歩踏み込み、セイバーが戦う意志を見せるかのように、風王結界で隠蔽された剣を握り締める動作をとると、輔は上から、実はそのまま直進して、襲い掛かってきた。
太っているとは思えないほどの速さで、実がセイバーの首筋を狙う。だが、素人にもわかるほど単調な動きで、セイバーはそれほど苦とも思わずに、身構えた。
すると、実は、少し銛を手前に突き出せば届くと言う所で、急に顔が膨らみ、呻き声と共に胃液塗れの白い塊が、セイバーに向かって降りかかった。あまりにも、予想外だったので、セイバーはまともにそれを受けてしまった。
汚らしい胃液塗れの塊から片腕で顔を守り、転がったそれに目を落としてみる。それは、ひび割れていたり砕けていたりはしているが、人骨であった。
その怯んだ隙をついて、実が文字通り、首筋に向かって食らいついてきた。咄嗟に、剣をその牙だらけの口目掛けて叩き込む。
しかし、実は回避する様子も見せず、長さも幅もわからないその剣を歯で受け止めた。慌ててセイバーが引き抜こうとするが、がっちりと刀身に食い込んだ牙が、それを許そうとしない。
その光景にしばし呆然としていた士郎であったが、屋根に登った輔が、三叉銛をセイバーに向けて投げ下ろそうとしているのが目に入り、思わず自分のサンダルを脱いで投げつけた。
軽い音を立ててサンダルは輔の顔に当たり、そちらに気を取られている隙に、セイバーは剣を思いっきり上下させて、無理やり実の口を開かせ、その体を蹴って、向き直った輔の銛を両断した。
「チィッ!」
舌打ちして銛を投げ捨て、人骨で作ったらしい鉤爪を取り出して走り出す。セイバーに蹴られて倒れていた実も、軽々と起き上がり、銛を持って飛び上がった。
着地すれば瓦が砕けそうなその体が屋根に触れる前に、実の銛はセイバーの心臓目掛けて放たれた。
しかし、直感でそれを掴んで実に投げ返し、分厚い腹に突き刺さって落下する実には目を向けず、輔の鉤爪を軽々と弾くと、剣を思い切り輔の背に叩きつけて、落下させる。
頭から真直ぐに地面へとめり込んだ輔と実の姿は、コメディアンさながらの滑稽さではあったが、油断は出来ない。土で汚れた上半身を引き抜いて起き上がり、再び地上へ戻ってきたセイバーを見る二人の目は、怒りに燃えていた。
「サーヴァントが、その辺りの使い魔などとは格が違うとは聞いていたが……これほどまでとは」
「しかし、俺たちもやられっぱなしじゃ、癪に障る。第二ラウンドは、俺たちのホームグラウンドでやろうぜ」
一瞬、何を言っているのだろうと、士郎は思った。相手が鰐なら、そのホームグラウンドは水中だ。だが、この付近には彼らが入れるような水場は無い。
しかし、その疑問も一瞬にして晴れた。なぜなら、不意に体が水の中にいるような感覚になり、吐いた息が気泡となって上に昇っていったからだ。
水へと変化した庭の空気が、口の中に入る。まるで、海水のように塩辛く、いや、実際それは海水であった。
「俺たちの固有結界は、如何なる場所にでも、海を呼び出すことが出来る。それがたとえ、物理的に水の停留が不可能な空間でもな」
水の中でもはっきりと聞こえる声で、実は言った。既にその姿は、ホームレスから口の周りに無数の触手を蓄えた鰐の姿になっており、同じように輔も頭の上下に口を持つ鰐に変貌していた。
「サーヴァントが、果たして水の中で持ちこたえる事が出来るかは知らんが、そこの魔術師は、5分も持たないだろう。もっとも、何処までが海かは、私にもわからんがな」
必死で空気を求める士郎をあざ笑うかのように、輔は言った。そして、二匹の異形の鰐は、マスターの危機に向かって駆けつけようとしているサーヴァントに向かって、その顎を向けた。
「凛、君は此処で待っていろ」
いきなりアーチャーが、月を隠した舟から目を離し、一階へと向かっていくのを見て、凛は驚いた。
「ちょ、ちょっと、どういうことよ!? 説明しなさい、アーチャー!」
「君が、最低7分以上、息を止める事が出来たらな」
その謎の言葉に、凛は首を傾げたが、一階から漂ってくる潮の臭いに眉を顰めると、仕方ない、とでも言いたそうな表情で頷いた。
「アーチャー、水中戦は大丈夫なの?」
「経験はある」
それもそうか、と一人で納得した凛は、部屋へと戻り、鍵のかかる音と結界が張られた気配を背に、アーチャーは一階への階段を下りた。
一段一段、少しずつ一階へ近づくに連れて、潮の臭いが強くなってくる。
「――――I am the born of my sword.(我が骨子は捻れ狂う)」
小さく呪文を呟き、アーチャーの右手に集った光が、異形の剣へと形を変えていく。
「――――“偽・螺旋剣”(カラド、ボルグ」
螺旋を描くように自分で改良した、さる英雄の剣を手に、アーチャーは、一階への扉を開けて、中へ踏み込んだ瞬間、扉を閉じた。
塩辛い海水が口の中に入り、少しだけ鼻で吸い込んでしまった。一階は、今や海の底であり、軽い家具や花瓶などが、浮かんでいた。
「ようこそ、俺の故郷へ」
この異常な空間を作り出した張本人は、厚顔無恥にも、いつも凛が座っている椅子に腰掛けていた。外見は、鉢巻にシャツ、大きく膨らんだズボンと、鳶の格好だ。
ただし、顔つきは魚類のそれであり、横についた目と牙の並ぶ口がついた顔の真下では、呼吸のためのえらが動いている。
「確かに、この空間は貴様の故郷だ。しかし、此処は私のマスターの家。不法侵入は、許しがたいな」
アーチャーは、水中にいる事が苦しくもないと言った様子で言ってのけた。意外そうな顔をして、くぐもった口笛を吹いた男は、椅子から腰を下ろす。と、その椅子も他と同じように、浮き上がる。
「俺は、鰐の一族の麿(まろ)だ。お公家さんのような名前だが、笑わないでくれ」
いつも他人に名乗るときは、そう言っているのか、苦笑しながら麿は名乗った。
「俺の目的は、遠坂の魔術師を燻り出し、聖杯を諦めるか、あの舟に乗せて過去へ行ってもらうかを、決める事。2階だな?」
「ああ。だが、わかっていような?」
アーチャーが、難なくカラドボルグを突きつけ、麿もそれに答えるようにして、かえしの付いた銛を手に取る。
両足を揃えて麿が浮き上がり、魚そのものの泳ぎで、アーチャーに迫る。水圧を苦ともせずにアーチャーは床を蹴り、カラドボルグを振る。
しかし、充分届くと思ったカラドボルグを、敵はいとも容易く交わし、銛ではなくその牙を剥いて、アーチャーの首筋に食らい付いた。
血の吹き出す傷口を押さえて、治癒を促進させる魔術を唱えているアーチャーから離れた麿は、噛み千切った首の肉を咀嚼していた。
「ふむ、中々良い味だ。英霊の肉が、こんなにも美味いとは思ってはいなかったぞ」
「お褒めに預かり、恐縮する。お返しに、貴様の顎を裂いてやる」
怒りのこもった低い声音でアーチャーは言い、再生した首の傷から手を離して、麿に向かって泳いだ。
アーチャーの肉を食った事で歓喜に打ち震えているのか、麿の体から人間らしい部分が消え、鋭い棘に覆われた鰐の姿に戻ると、一本の尾に変化した両足を左右に動かして、アーチャーに向かってその牙を向けた。
自分と違い猛スピードで向かってくる麿の顎に対して、カラドボルグを水平に構えたアーチャーは、それで麿の口を塞ぎ、血が流れるのも構わず、麿の口の上下に手を入れて、こじ開けようとした。
麿もそれに気付いて、アーチャーの手を食いちぎろうと顎に力を込めるが、カラドボルグが邪魔で閉じる事が出来ず、アーチャーを壁に押し付けながら、暴れまわった。
やがてアーチャーも、こじ開けるのが無理とわかったのか、両足を曲げて思いっきり振り上げると、それを麿の腹に叩き込んだ。
無防備な腹に一撃を食らった麿の体は、窓を突き破る。それによって、彼の固有結界が解除されたのか、その割れた窓から、一気に水が押し出される。
人間の姿になり、腹を押さえながら立ち上がった麿の首に、アーチャーは短剣を当てる。押しても引いても、どちらでも殺せるようにするためだ。
「殺すつもりか?」
「その通りだ」
「生憎だが、それは無理だな」
苦痛に顔を歪めながらも歪んだ笑顔で言った、麿の謎めいた一言に機を取られていたのが、拙かった。
突如として空中から伸びてきた帯に、アーチャーの体は絡めとられ、その体が消え始めた。
「お前もお前のマスターも……過去へ行き、聖杯の真実を見ろ……」
腹を押さえながらアーチャーを突き飛ばして離れた麿は、消えていくアーチャーの姿と二階へと伸びた帯を見ながら、一人ごちた。
「これで、過去へと行く乗客は揃った。後は、翁がこの時代に残したマスターとサーヴァントを始末していくのみ……」
帯が夜空に浮かぶ舟に戻り、誰もいなくなった事を確かめた麿は、再び鰐の姿に戻り、空中を泳いで、間桐の家に向かった。
彼らの主、斎丸玄之丞はそこにいた。