冬木市は4月のなかばを迎えていた。
三週間前まであれほど弱々しかった太陽が、力強く熱と光を発散している。桜はすでに大半が枯れてしまったが、ほかの木々は大きく枝を広げ、文字通り春を満喫している。2月に街を襲った怪事件の影も、冬の寒気とともにほぼ完全に拭い去られていた。
俺の通う穂群原学園においても、卒業と入学のあわただしさが去り、今は春めいた、少し弛緩した空気が流れている。ただし、卒業を控えた3年生だけは、進路相談や受験勉強が本格化して緩むどころではないのだが。
で、その3年生の一員である俺は、ただいま自宅の土蔵にこもって一思案していた。
ちなみに俺は、就職も大学受験も予定していない。
その代わりに、もっと厳しい試練を課せられていたりする。
「時計塔、か……」
倫敦に古くからある魔術協会本部であり、また、多くの若い魔術師がそこで学ぶことを目指す最高学府である。俺もまた、一年後にここに入学することを目指して勉強中なのだ。
もっとも時計塔というところは、魔術師見習いに過ぎない俺には本来近づくことさえ許されない場所だ。そんな俺が編入試験までこぎつけることができたのは、すでに時計塔への入学が決まっている超一流の魔術師が、俺を弟子として認めてくれたからである。
あ、いや、順序が逆か。
俺はその超一流の魔術師――遠坂凛という名の女の子と離れたくなくて、時計塔を目指しているのである。
2月に街を襲った怪事件の正体、聖杯戦争。あらゆる願いを叶えるという聖杯を手に入れるため、7人の魔術師と7騎の英霊が、最後の一組となるまで殺し合いを続ける儀式。俺はその戦いに偶然巻き込まれ、遠坂を始めとする三人の人間に助けられることで、なんとか生き残りを果たしたのだ。
その遠坂凛は、俺と同じく穂群原学園に通う三年生。学園一の優等生で、俺もかつてアイドルとして憧れ、廊下ですれ違うだけでちょっとどきどきしたものだった。……ただし過去形でだが。
前述したとおり超一流の魔術師であった彼女は、聖杯戦争で勝ち名乗りを上げるために俺と共闘し、普段の優等生っぷりがいかに擬態であったかを俺に思い知らせつつ戦い抜き、最後まで生き延びた。聖杯を得ることはできなかったけれど、あの戦争の勝者となったことで彼女は魔術協会から認められ、時計塔への入学を許されたのである。
戦いのさなかに生まれた彼女と俺との師弟関係は、(物覚えが悪いと罵倒されたりしながらも)今でも続いている。そして彼女への俺の想いも、いまだに途切れていない。ただし、学園のアイドルとしてではなく、遠坂凛というひとりの女の子への想いとして、だ。
俺が時計塔を目指しているのも、遠坂に惚れた弱みがあるから、というのが主な理由だったりする。
「うーむ。そういう未来の決め方は、男として少し情けないかもしれない……」
つぶやいた俺に、どこからともなく、そんなことないさ士郎、惚れた女のために一生を捧げるのも男の生き方だよ、という返答があった。ああオヤジ、そう言ってくれると気が休まるよ。でもそうすると、赤いあくまの尻に敷かれ続けるのが俺の未来ってことになるのか? それはちょっと嫌だぞオヤジ。
頭を振って、死んだ養父の幻影を打ち消す。俺は思案を続けた。
俺を助けてくれたもう一人は、セイバー。小柄な、白磁のような肌と金髪碧眼を持つ少女で――そして、英霊と呼ばれる、人間よりもさらに高次の存在である。
聖杯を得るために彼女は冬木市に現れ、俺と契約した。そうして俺のサーヴァントとなって聖杯戦争に参加した彼女は、サーヴァントという立場を超えて、何度も俺たちの危機を救ってくれたのだ。
その後いろいろあってセイバーは遠坂のサーヴァントとなり、戦いには勝ち抜いたものの、結局聖杯を手に入れることはできなかった。だが彼女は、俺たちの行く末を見届けたいという理由で、戦争が終わった今でもこの世界にとどまり、俺の剣術の師匠となってくれている。
彼女もまた、俺たちとともに倫敦に渡る予定だ。
最後の一人は、アーチャー。遠坂凛のサーヴァントとして聖杯戦争に参加した、無数の武器を投影して戦う凄腕の戦士。彼の正体は――未来の俺自身、だった。
正義の味方になることを誓い、すべての人々を救おうと願った衛宮士郎は、それを可能とする力を得るために世界と契約し、英霊となった。しかし、生前も、英霊となったあとでも、衛宮士郎の願いは果たされることはなかった。100人を救うために10人の人間を殺す。彼はその繰り返しを永遠に強いられる羽目になったのだ。
無限に続く地獄の光景の果てにアーチャーの精神は磨耗し、やがて、正義の味方になることを誓ったかつての自分自身を憎悪するに至る。アーチャーは過去の自分を抹殺するために無数の時代をさまよい、そしてこの冬木市で、ようやく俺にめぐり会った。
郊外の森の中の城で、俺はあいつと対峙した。俺の理想を否定し憎悪するアーチャー。理想の果てを見せ付けられ、それでもなお自分の理想を押し通そうとする俺。二人の戦いは、俺の勝利で、終わった。
俺の強さがあいつを上回ったわけではない。アーチャーの技は、今の俺が憧れ、目指している到達点なのだから。未熟な衛宮士郎が完璧なアーチャーに勝てたのは、アーチャー自身に迷いがあったからだと思う。かつての自分が目指した理想は、結局かなうことはないと思い知った理想は、養父からの借り物でしかなかった理想は――それでもなお、限りなく美しいものではなかったか、と。
彼がこの世界から完全に立ち去った今となっては、それも推測でしかないが。
あの戦いから二ヶ月がたったが、今でも俺は、この三人とともにある。
遠坂凛は、魔術の師として。あと、あまり自信はないけど、恋人として。
セイバーは、剣術の師として。
アーチャーは――俺が乗り越えるべき目標として。俺はいずれ、強さであいつに追いつき、追い越さなければならない。そうしなければ、あいつとは違う別の未来をつかむことはできないのだから。
「さて、遠坂たちがくる前に……もういっちょ、試してみるか」
俺は、傍らに置いてあった鉄の棒を拾い上げた。
遠坂とセイバーがうちを訪ねてくるのは、たいてい夕餉の時間になる。うちの居間でみんなして食事をとったあと、腹ごなしも兼ねてセイバーと剣術の訓練をし、休憩後に遠坂の魔術講義を受ける、というのが、この二ヶ月間ほどの俺たちの生活パターンだ。よって、学校から帰宅した直後は、少しだけだが暇な時間がある。
その時間は普通、学校の宿題を片付けたり、日用品の買出しに行くことで潰れるのが常なのだが、たまに予定が入らないことがある。俺はそうやって空いた時間を、とある魔術の習得のために使っていた。
トレース、オン
「――――同調、開始」
俺の魔術回路と鉄の棒を「繋げる」ために、集中を始める。
遠坂に弟子入りしたおかげで、俺は以前に比べればはるかにスムーズに魔術回路を作動させることができるようになった。だがそれ以外のこと、たとえば自分以外のものにパスを通すなどとといった作業は、やはりそれほど滑らかにはいかない。
それでも、2秒ほどで鉄の棒に俺のパスが行き渡る。
トリガー、オフ
「――――同調、装填」
土蔵の中にある、適当な的――とりあえずあの古雑誌の束がいいか、近くに貴重品もないし――に狙いを定める。そこに手中の鉄棒が突き刺さる様をイメージ。射道八節で言えば「」がこれにあたるだろう。弓道とは違い、こちらのほうは百発百中とは行かないのだが。
セット
「――――全工程完了」
ナインライブズブレイドワークス
俺が習得しようと試みているのは、「射殺す百頭」。無数の宝具を飛ばし、キャスターを串刺しにしたあの奥義だ。
今の俺が満足にできるのは強化と投影くらいで、何かを高速で飛ばすという魔術には手をつけたばかり。しかし、無数の宝具は無理でも、一本の棒くらいなら……
俺はパスを通じて、鉄に魔力を流し込んだ。
ブルズ・アイ
「是、射抜く一矢」
と同時、鉄の棒は俺の手を離れてまっしぐらに飛翔し、
「……あ」
目標から2メートル右にすっ飛んでいくと、修理途中のビデオデッキに直撃してくれやがりました。
……ガッデム。
跳ね返って地面に落ちた鉄の棒と、もうどの電器店に頼んでも無意味なほどにひしゃげたビデオデッキを交互に眺めて、俺は深く嘆息した。
「また失敗か。どうやってもうまく行かないなあ」
「そりゃそうでしょ。あんた、剣を創り出す以外のことにかけてはからっきし才能ないもの。念動なんかに手を出したって、うまく行くわけないでしょうに」
「だってアーチャーの奴は、呪文も唱えずに何本も剣を飛ばしてたんだぞ。なら、俺にだって少しは才能あるはずなのに」
「あいつが飛ばしてたのは、自分で投影した剣だけでしょ?」
「あれ、そうだっけ? でも、自分で創り出した剣とそれ以外のものとじゃ、何か違うのか?」
「…………」
「…………」
ひとしきり沈黙、したのち。
周囲の空気が帯電したかのように緊張感をはらむに至って、俺はようやく、自分の失態に気づいた。
師匠に無断で魔術の練習をしたり、師匠から教わったことをちゃんと覚えていなかったり。
そして何より、そういったミスを、あの師匠に悟られてしまったという失態に、だ。
ぎぎぎ、と、油の切れた歯車のような軋み音を立てつつ、俺はゆっくりと首を動かし、
「……と、遠坂……?」
土蔵の入り口を振り返る。
そこには果たして――いつのまにか、仁王立ちのあくまが。
「衛宮くん」
彼女はにっこりと、満面の笑顔を浮かべて。死ナす目線で俺をなで斬りにした。
「ほんの三日前に2時間もかけて教えてあげたこと……まさか、忘れたわけじゃないでしょうね?」
「ああ、ええと……」
声を振り絞ってそれだけつぶやき、俺は必死で頭を回転させた。
ええと、三日前はたしか術者が創造したものとそうでないものの違いについて学んだような、でも投影したものだけじゃなく人造精霊とかホムンクルスとかいろんなものの特徴を一気に聞かされたので細かいところは覚えてないし、ああでも今詳細に思い出さなければ俺を待つのは死の運命のみだ衛宮士郎なんとかしろー!
俺の脳内、ライブでパニック中。金ピカ野郎に無数の宝具で狙われた時だってもう少し落ち着いていたように記憶しています。
あせるばかりでちっとも思考のまとまらない俺を、普段かぶった猫の皮を完全に脱ぎ捨てたあくまは冷たく一瞥し、そして――
ぷしゅう。
「ま、それは後回しよ」
「へ?」
「士郎、大事な話があるわ。夕食を食べたあとで説明するから、とっとと居間まで来なさい」
呆然とする俺をよそに、遠坂は風船から空気が抜けるように急激に怒りを静めると、すたすたと土蔵を出て行った。
……なんか知らんが、助かったようだ。幸運にも、かつて憧れた学園のアイドルによって八つ裂きにされる事だけは免れた。そんな事態をかなり本気で恐れなければならない現状そのものが不幸なような気もするが、まあそっちは今さら気にしても始まらないし。
三分の喜びと七分の諦観を噛み締めながら、俺も土蔵を出ようとすると、
「ただの鉄の棒と、投影した剣との違いは、今夜みっちり復習してあげるからね? 衛宮くん」
にゅっと首だけ土蔵に戻して、あくまがそう釘を刺した。
俺は十分の諦観を胸に、のろのろと足を引きずって土蔵を出たのであった。
「チェコ?」
「そう」
夕食が終わり、桜と藤ねえが帰った後。
普段ならすぐにセイバーの授業が始まるのだが、今日は3人とも居間にとどまって、遠坂の大事な話とやらを聞くことになった。で、彼女の第一声が、「チェコに行かない?」だったのである。
「チェコって海外だろ。たしかドイツの東隣にある」
「そうよ」
「遠いよな」
「まあ、遠いわね。ただ行くだけでも12時間以上はかかるわ」
遠坂はなにか他に考え事でもあるのか、こちらの質問に淡々と答えるだけだ。特に興奮も期待もしている様子はない。しかし俺のほうは、ちょっとどきどきしていた。
「……そんな所に、いつ行くんだ? ゴールデンウィークか?」
「そうなるでしょうね」
遠坂はあっさり肯定した。
むう、ゴールデンウィークに旅行! しかも遠坂と! 海外に! それってわりと人生の一大イベントじゃないだろうか。これに匹敵するイベントって言ったらハネムーンくらいなものだろういやいや何を先走ってるんだ俺の思考。
でもハネムーンとまで行かなくても転機には違いない。見知らぬ町並みを二人して歩き、見たこともない建造物や美術品に歓声を上げ、異国の食べ物に舌鼓を打つ。そして夜はホテルの一室、窓から見える夜景をバックに二人は
「衛宮くん? 鼻の下伸ばしてるとこ悪いけど、チェコには単に魔術研究のために出向くつもりなんだけど?」
満面に怖い笑顔を浮かべて、赤いあくまはきっぱりと俺の喜びを打ち砕いてくれやがりました。
ああ畜生、そんな顔するなよ。春休みが終わった後は俺の特訓で忙しくなって、ここ最近ずっと恋人らしいことしてないじゃないか! ちょっと妄想が突っ走ったって、俺だけの責任じゃないぞ!
恨みがましくそんなことを考えていたら、座って茶をすすっていたセイバーにまで冷たい視線を向けられた。
……あんまりだ。
「いいから真面目に聞きなさい士郎。わたしね、父の知り合いだった魔術師と、こないだ電話で話をしたの。で、聖杯戦争に生き残ったことを伝えたら、取引をしないかと持ちかけられたのよ」
「……魔術師? 取引?」
「そう。その魔術師と父は、ともに時計塔に所属していて、お互いの技術を情報交換したこともあった仲なの。父が死んでからは遠坂家とは疎遠になっていたんだけど、三日前に連絡がついたのよね。で、お互いの消息を報告しあっているうちに、聖杯戦争に話題が及んだってわけ」
「なるほど。……で、取引って? その話の流れからすると、聖杯戦争と関係があるみたいだけど」
遠坂はこくんとうなずくと、右手の人差し指をぴんと立てて説明モードに入った。
その魔術師とやらが知りたがっているのは、聖杯戦争の詳しい体験談、なのだそうだ。
聖杯戦争というのは、各方面から注目されている儀式である。なにしろ人の手の届かない英霊という存在が7騎、その総力をかけてぶつかるのだ。聖杯を降ろすという結果のみならず、過程そのものも貴重な研究資料となるのである。そういうわけであの戦争は、魔術協会やら聖堂教会といった大きな組織からフリーの魔術師に至るまで、さまざまな人間があらゆる手段でその経過をモニターしていたのだという。
ただ、あらゆる手段でと言っても、戦争を妨害しない程度の方法だけだとやはり限界はある。結局、一参加者が体験したことをそのまま聞いたほうが、情報量は多いのだそうだ。
「要するに」
俺はここで口をはさんだ。少し腑に落ちなかったからだ。
「遠坂から詳しい話を聞きたいから、チェコまで来いって言ってるのか、その人。……なんか、一方的な話だな」
「魔術研究のために行くってさっき言ったでしょ? その人はね、遠坂家にはない高度な技術をいくつか持っているの。それを伝授してもらう代わりに、聖杯戦争の情報を提供するわけ。おまけに旅費も滞在費も向こう持ちだしね」
魔術の基本は等価交換よ? と遠坂が笑った。そういえばそうだ。一方的な話を持ちかけられて、ウチの師匠が受けるはずがない。チェコまでわざわざ出向くのはかなりの負担だが、情報量の多さや機密保持の観点から言って、魔術師同士の情報交換に電話や手紙や電子メールは不適当だ。直接会って話し合うのも致し方ないだろう。
「でも、なんで俺まで? 俺、固有結界のことを除けば、遠坂以上の情報なんて持ってないけど」
「……あんた、散々あれだけ戦っといて能天気なものね。士郎自身が自覚していなくても、一流の魔術師にとってみれば、あなたが体験したことそのものが知識の宝庫なの。少しでも多くの話を聞きたいと思うのは当然でしょうが」
う。遠坂、俺がへっぽこ魔術師であることを言外で述べないでほしい。それに関しては自覚はあるんだから。
「ともかく、向こうのご指名は、聖杯戦争の勝者全員なのよ。つまり、わたしと士郎、そしてセイバー」
「え、セイバーも? 大丈夫なのか、それって」
英霊であるセイバーは、人間にとって未知な部分だらけの存在である。そこらの魔術師から見れば、俺や遠坂などよりはるかに興味深い研究資料なはずだ。
俺は心配になってセイバーを見た。が、先ほどから一言も発していない彼女は、平然としたまま茶菓子を口にしている。
「ま、確かに10年前に顔を合わせただけの仲だけど。あの人に関しては悪い噂も聞かないし、たぶん心配いらないわ。それにいざとなったら、セイバーは自分で自分の身くらい守れるし」
遠坂も平然としたものだ。
それもそうか。セイバーは最優のサーヴァントと呼ばれた存在。現界するのに聖杯の力を借りられない今は本来の力を発揮できないが、それでも人間には及びもつかない強さを誇る。彼女が切り抜けられない危機などそうそうないだろう。
「むしろ心配なのはあんたよ、士郎」
じとりとした目で遠坂が睨んでくる。あう、矛先がこっちに向きました。
「魔術師としてはへっぽこ、剣士としてもへっぽこ。魔術に関する知識も足りなければ、この世界での処世術もろくに知らない。おまけに気も緩みまくり。これじゃあ、先方にいいように利用されても文句も言えないわね」
嘆息しながら言葉のナイフを振りかざす遠坂。うわあい滅多斬りですよ。
今日のこいつは、なんかいつにも増してあくまっぽくなっている。当社比125%というところか。
劣勢の状況を挽回すべく、さっきからずっと傍観していた騎士に救援を求めてもう一度視線を向けると、
「……そうですね。今のシロウでは少し心配です」
口を開いたセイバーは、あっさりと俺の敵に回ってしまった。なんてこった。
周囲から楚歌でも聞こえてきそうなほどの孤立無援っぷりである。
「無論、今は平和な時期です。緊張感がなくなるのも仕方ない。しかし貴方とリンは、いまや時計塔にも名の知れた魔術師。私欲のために貴方たちを利用しようとする者が、いつ現われたとしてもおかしくはない。その危険性をきちんと認識すべきだ」
いつになく厳しい表情で、セイバーが語る。
「リンが会おうとしている魔術師は危険な人ではないようですが、見知らぬ土地に乗り込むのです。これを好機と襲いかかってくる悪漢がいないとも限りません。油断は禁物です、シロウ」
「……う、よく分かった。悪かったよ、二人とも」
俺は素直に頭を下げた。
確かに、聖杯戦争が終わり、平和な日常が戻ったことで、どこかに気の緩みがあったのかもしれない。だが俺はこれから、一般世間から隔絶した世界、魔術師の領域に足を踏み入れようとしているのだ。そこはある意味、あの戦争より危険な世界である。
アーチャーの魔術を見様見真似で習得しようとしたり、遠坂の授業内容をど忘れする、などといった悠長は許されないのだろう。
「私の言葉を聞き入れてくれて、ありがとうございます。
リン、そろそろシロウを許してあげてはいかがですか?」
「分かったわ、セイバーに免じて今日は許してあげる。で、返事はどうなの? 士郎」
許してあげると口では言いながら、なぜか遠坂は不機嫌な表情のままで、チェコへの旅に同道するかどうかを尋ねてきた。
遠坂、いったい今日は何故こんなに剣呑なんだろう。
……俺についてきて欲しくないんだろうか?
一瞬そんな疑念がよぎったが、俺は自分の心に正直に答えた。
「行くよ。俺もその人に会いに行く」
「……わたしはともかく、士郎にとっては大してメリットのない話だと思うんだけど? 危険性がないわけじゃないし」
妙に念押ししてくる遠坂。まさか、本当に俺みたいなへっぽこ魔術師を連れて行くのは嫌なのか?
俺はむきになって、少し強い口調で告げた。
「行くよ、危険性が少しでもあるなら尚更だ。だって、俺が遠坂を守らなきゃ」
「――!」
「俺なんかじゃ足手まといになるってのなら、話は別だけど」
「ば、そんなわけないじゃない!」
なぜか、遠坂は一気に真っ赤になってしまった。彼女らしからぬ慌てぶりでぶんぶんと手を振っている。反応に困ってセイバーを見やると、こちらは知らんぷり。なんだってんだよ二人とも。そんなにおかしなことを言ったか、俺。
遠坂に視線を戻すと、彼女は「あーもう、士郎のバカ」とかなんとかつぶやいて、
「じゃ、決定。今度のゴールデンウィークは、みんなでチェコに研修旅行よ」
会議をそう締めくくったのであった。で、またぶすっとした表情に戻って、
「ふん、今夜は緩んだ士郎を鍛え直してあげるんだから。さあ、部屋に戻って魔術講習の準備をしなさい」
「え? セイバーの鍛錬は?」
「そっちは休講。今日は魔術の復習に時間がかかりそうだから。ほら、ぼけっと突っ立ってないでとっとと戻りなさい!」
俺を部屋から追い出してしまった。
ぴしゃりと閉められてしまった居間の戸を、俺は恨みがましく見つめる。
「……なんだよ。ついてきて欲しくないなら、はっきりとそう言えばいいのに」
そりゃ、俺はまだ半人前だし、能天気だったけれども。
俺のことを遠坂がここまで疎ましく思っていたとは、正直ショックだ。
一抹の寂しさを感じながら、俺はとぼとぼと自室に戻った。
――以下は、少年が部屋を追い出されてからの、少女二人の会話。
「……リン。所要が済んだら、余った時間をプラハでの観光にまわす予定だったのでしょう? というよりむしろ、今日伝えるべき事項はそちらだったのではないですか?」
「だって、士郎が鼻の下を伸ばしてるのを見たら、なんとなくからかってみたくなったんだもの」
「遊びすぎて本題を忘れては本末転倒だ、マスター」
「そりゃそうだけど、セイバーもフォローしてくれればいいじゃない。なんで途中からわたしに加勢して士郎をいじめるのよ?」
「シロウの気がいささか緩んでいるのは事実だったので、まず釘を刺しておこうと思ったのです。彼はきちんと反省してくれましたが。それに観光の話は、私ではなく貴方が伝えるべきことでしょう?」
「だ、だって、面と向かって『守りたい』とか言われて、気が動転しちゃって。他のことなんか頭から吹っ飛んじゃったのよ」
「はあ……相変わらず不意打ちに弱いですね、リン。
ともかく、あのようなぶっきらぼうな言い方ではシロウも傷つくと思います。貴方にも反省を求める」
「う、わ、分かったわよ。フォローしてやればいいんでしょ?」
その夜少年は、いつになく優しい口調で教えてくれる師匠に目を白黒させることになるのだが、それはまた別のお話。
すべてが終わった柳洞寺に、夜明けの光が差し込む。久しぶりに見るその光景は、紅い色で満たされていた。
胸が詰まりそうなほどまぶしい視界の中。あいつはずたぼろの姿で、こちらを見下ろしていた。
赤い外套をまとったそいつは、聖杯戦争に参加するためにわたしが召喚したサーヴァント。
最後までほかの誰かのために戦い、最後まで誰にも理解されず、赤い夕日の丘で死んだ騎士。
ほかの誰かの笑顔を見るために死後も戦いに身を投じ、そして誰の笑顔を見ることもできず、自分の理想にすら裏切られた英霊。
自分自身の過去を憎んで。自分自身を殺そうとして。結局はそれも果たせなかった男。
……今はもう、わたしの手の届かないところに行ってしまった大バカ者。
だから、これはユメ。最後まであいつに何もしてやれなかったわたしの後悔が生んだ、一時だけのユメ。
あいつはやっぱりあの時と同じように、皮肉げな、やさしい瞳で私を見下ろしている。
いくつかのやり取りを交わして、あいつはいつもどおりに、こう頼んできた。
「私を頼む。見た目どおりの頼りない奴だからな」
私もいつもどおりに応えるはずだった。精一杯の、感謝と決意を込めた声で。
――でも、今日はあの時とは違う。聖杯戦争の終結から3ヶ月もたっている。遠坂凛が3ヶ月もの間ぼやぼやと日々を過ごすはずがなく、今のわたしはあのときのわたしとはまったく違うのだ。
わたしは胸ではなく、腰に両手を当てて。決然と背筋を伸ばしてみせた。
「いやよ。その頼みだけを引き受けるわけにはいかないわ」
「……」
赤い騎士の表情がこわばる。
自信に満ちたわたしの表情に、何を感じ取ったのか。アーチャーはなにやらため息をついて、深くうなだれた。
「……そうか。君にすら見捨てられたか。救いがたい男だな、衛宮士郎は」
「ちょっと、何わけのわからない勘違いしてるのよ。あいつはわたしがきっちり幸せにするわ。あんな大バカ者、わたし以外の誰が幸せにできるってのよ」
騎士の胸元20センチにまでずかずかと踏み込んで、わたしはうなだれたアーチャーの顔を直視する。
「そうじゃないの。士郎だけを引き受けて、それ以外の大バカ野郎のことは知らぬ存ぜぬを決め込む。わたしが真っ平ご免なのは、それよ」
「……む?」
「貴方のことを言っているのアーチャー。あんただって見捨てるつもりはないの、わたし」
「!?」
アーチャーの目が見開かれた。かなり意表を突かれた様子だ。へへん、見事に出し抜いてやった。こいつを驚かせるのは容易なことじゃないので、わたしはちょっとした満足感を味わう。
「貴方が絶望したのは、貴方の望みが一度も叶えられなかったから、なんでしょ?」
「……うむ、そうだが」
すぐにアーチャーはふだんの平静さを取り戻す。さっきの無防備な表情はなかなか可愛いのでもう少し見ていたかったのだが、まあ仕方ないか。
アーチャーの、衛宮士郎の望み。それは、すべての困っている人を救い出すこと。悲しみにとらわれたすべての人が笑顔を取り戻すこと。ほかの誰かの笑顔を見ることだけが、英霊エミヤの願いだった。
しかし、英霊という不自然な存在がこの世に召喚されるのは、よほどの非常時のみ。人類が絶滅しかねないような、そんな地獄がこの世に現出したときに、彼らは都合よく引っ張り出される。死したのちも人類のために戦う彼らが見ることができるのは、人類自らの手で引き起こされた、もはや人類ではどうしようもできない惨状だけだ。
たとえ戦い抜き、危機を退けようとも、英霊は人々の笑顔を見ることもなく、この世界から立ち去る。「霊長の抑止力」というシステムの、それが定め。
その定めに、ほかの誰かの笑顔を見るために英霊となった男は絶望したのだ。
だが――
「人が自ら招く地獄、手遅れの召喚。そういったものが貴方を絶望させたのなら、それをどうにかすればいいのよ」
「凛、本気で言っているのか? 君は、世界の根幹の改変に挑もうとしているのだぞ」
「そんな大げさなことに手を出す気はないわ……今のところはね」
「いったい何をやろうとしているのだ、凛」
「んー……」
その質問には答えられない。今はまだ、何をやるべきかを見極めるために色々と動いている段階に過ぎないから。今回のチェコ行きにしても、その一環である。うまく行けばひとつの解決策を得られるかもしれないが、無駄足に終わる可能性も十分あった。
だから、わたしは別のことを彼に伝えた。
「……わたしの力じゃ、根本的な救いを貴方にもたらすことはできない。でもね、だからって、何もせずに済まそうなんて気にはなれないの」
「凛、君は私のことまで気にかける必要はない。衛宮士郎を助けてくれるなら、それで充分だ」
「いいえ、貴方にはたくさん借りがあるわ。その借りを何一つ返さないままじゃ、わたしの寝覚めが悪いじゃない」
こいつには二度も命を助けられた。たしかに、こいつの勝手な行動にはさんざん振り回されたけれども。
ああ、それに。
こいつの背中に抱いた、憧れと――思慕。たとえわたしがこれからどんな人生を歩もうと、それはきっと忘れられないだろう。だから。
じっと、厚い胸板の上にある顔を見つめて。わたしは精一杯の感謝と決意を込めて、告げた。
「わたし、頑張るから。貴方の望みを、一回だけでも叶えられるように」
今まで厳しかったアーチャーの表情が、ふと、ほころんだ。
そして彼は、誰かさんにそっくりの笑顔を浮かべて、わたしにつぶやきかける。
「遠坂、そろそろターボル駅に到着だぞ」
「……!?」
わたしはがばっと跳ね起きた。いちおう目も開けたのだが、寝起きに弱いわたしの脳は視覚情報をうまく処理できないでいる。うすぼんやりとした視界の中にあるのは、夕暮れの境内ではなく夜の電車の車内だ。対面には、青いシャツに白いスラックスというちょっとラフな格好のセイバー。そして彼女の前隣に立ってわたしを見下ろしているのは、
「……アーチ……じゃなくて」
「ん?」
もう彼の姿は、赤い外套ではなく白い上着。背も縮んでいるし、髪の毛も銀ではなく赤。だから彼は彼ではなく――
「ううん、なんでもない」
どうにもぼやけたままの頭を少しでも明瞭にしようと、わたしは頭を振った。ついでに、士郎とアーチャーを取り違えたことを誤魔化す。きっと士郎にとってそれは愉快なことではないだろうし、あいつと問答する夢を見たというのは、わたしにとっても気恥ずかしい。
いや、ほら。なんか未練がましいじゃない。
「大丈夫か? コーヒーでも飲むか?」
寝ぼけたままのわたしを見かねたのか、士郎がバッグから水筒を取り出す。わたしは素直にそれを受け取って一口飲んだ。ようやく思考がクリアになる。
「……ええと、今、何時?」
「もうすぐ夜の11時です、マスター」
セイバーも気遣わしげにこちらを見ている。……むう、今のわたし、そんなにひどい顔をしているのだろうか?
わたしは左の手の平で顔を覆いつつ、二人から視線をそらした。床を凝視して現状を確認する。
本日はゴールデンウィーク初日。今日中に目的地に着くべく、かなり詰め込んだ旅程を組んで出発したんだっけ。
朝5時に冬木市を出発して国際空港まで電車で向かう。これに1時間。飛行機に搭乗、ウィーンへ。待ち時間なども含めてこれに14時間。ちなみに機内は予想以上に狭かったし、機内食はとてもまずくてセイバーが終始不機嫌だった。旅費が向こう持ちだから贅沢は言えないのだが。
で、ウィーンでレシプロ機に乗り換えてプラハへ。これに1時間。やたらと古臭いレシプロ機は、国際便以上に過酷な旅をわたしたちにプレゼントしてくれた。わたしの従者は怒りを通り越して諦め顔だった。「おのれオーストリアめ、この屈辱はいつか晴らしてみせよう」とか何とか物騒なことを言っていたが、聞かなかったことにしよう。
最後に、プラハ駅から最終の急行列車に乗ってターボル駅へ。これに掛かったのが1時間30分。チェコの列車は日本よりも広くゆったりとしていたので、わたしたちはようやく人心地つくことができた。で、一安心したわたしは、疲れも手伝って、ついうとうとと眠りこけてしまったのだった。
「……それはいいけど、何故そこでアーチャーが出てくるのかしら」
「おーい、遠坂?」
あー、いかん。周囲の状況を忘れて自分の思考にふけってしまった。わたしの悪い癖だ。
「リン、やはりもう少し余裕のある日程で臨むべきだったのではないですか?」
こちらがよほど参っていると勘違いしたか、セイバーはそう言ってきた。わたしは顔を起こすと二人を見上げ、笑顔を作ってやる。
「大丈夫だってば。それにゴールデンウィークは5日しかないし、一日たりとも無駄にするつもりはないの」
よっと掛け声をかけて、わたしは椅子から立ち上がった。うむ、だいぶ目が覚めてきた。これなら宿まで歩くくらいわけはない。チェックインがだいぶ遅くなってしまったが、ホテルにはすでにその旨を伝えてあるから大丈夫だろう。
今のところ、万事はすべて順調に進んでいる。明日からの交渉もそうなるよう願いたいところだ。
「さ、行きましょ。二人とも」
窓の外に流れる光景はすでに駅の構内。目的地であるターボルに到着したのだ。わたしは二人を促しつつ、ボストンバッグを背負った。
「あー、重かった」
チェックインを済ませて予約していた一室にたどり着き、ベッドの脇に荷物を下ろすと、思わずそんな感想が漏れた。
ボストンバッグに入っているのは、わたしの着替え一式……ではない。それはわたしの弟子に持たせてある。たったの3着分なのだから文句は言わせない。ちなみに足りない分は洗って使いまわすつもりだ。
わたしが持ち歩いていたのは、聖杯戦争に関するレポートのコピー。以前魔術教会に提出したのと同じもので、明日からの交渉に使う。そして、相手方がそれに満足しなかったときのための、遠坂家の秘伝を記した書をいくつか。まあこちらを使うことはないだろうが、念のため、である。
しかし、わたしのボストンバッグを重くしている主原因はそれらではない。護身用の魔術に使うための宝石その他だ。強力な道具類は聖杯戦争でほとんど使い切ってしまったが、それでも、この3ヶ月でちまちまと魔力を貯めた宝石や、戦争で使うことのなかった武器が残っている。一戦やらかすくらいなら問題はない程度の装備は整えていた。
「そんなにたくさん持ってくるなんて、なあ」
つぶやいたのは、士郎。スーツケースの中からわたしの着替えが入った袋を取り出しつつ、ボストンバッグを眺めている。ただしそれはぼやきではない。彼の表情は引き締められていた。
「……やっぱり、危険な交渉なのか。遠坂」
心配そうにこちらを見る士郎。その気遣いはありがたいが、やはり少し見当違いである。魔術師ならば他人のホームグラウンドに赴くときは、これくらい重武装をしてもおかしくないのだ。もっともこのターボルの地は、わたしの取引相手――カール・マティウスの本拠地ではないのだが。
「その人と戦いになる可能性は、ま、ないとは言い切れないけど。気の回しすぎよ、士郎」
「でも、俺はその魔術師のことをよく知らないし。どれくらい気を回せばいいのか分からないぞ」
「……あれ? 彼のこと、説明してなかったっけ?」
その問いに、わたしの弟子が首肯する。
そういえば、荷物の準備だのパスポートの取得だのホテルの予約だのでドタバタして、取引相手のことは詳しく話していなかったような。「未成年が女の子ふたり連れで海外旅行だなんて許しません! ていうか、わたしも連れてけー!」と暴れまわる虎の説得にも多大な時間と労力を費やしたし。なんだかんだで、彼に説明するのを忘れてしまっていたようだ。
「じゃ、説明するわ。ただし、眠る準備を済ませてからね」
荷物を片付け、部屋に警戒用の結界を張ってから、セイバーと交代でシャワーを浴びて旅の垢を落とす。ちなみに士郎は別室である。同室のほうが安上がりなのだが、「いや、ほら。色々と刺激が強いから、それはやめよう?」と士郎が必死の形相で訴えたので、二つ部屋を取ることになったのである。
ま、わたしが滞在費を払うわけじゃないからそんなに気にすることはないのだが、なにか釈然としない。他の女の子もいるのにムラムラ来ちゃうわけ、男って?
それはともかく、寝巻きに着替えた士郎がこちらの部屋に戻ってきたときには、すでに時計は12時30分を回っていた。明日のことを考えると、あまり夜更かしはできない。すでに取引相手のことを知っているセイバーには、一足早く就寝してもらうことにした。部屋に備え付けの椅子に士郎を座らせ、わたしはベッドの上であぐらをかく。少々品のない格好だけど、わたしにとってこれが一番楽な姿勢なのだ。
「二度説明する気はないから、ちゃんと聞きなさいよ?」
「わかった」
そしてわたしは話を始めた。
今からわたしたちが会おうとしている人間の名は、カール・マティウス。名門の出でもなければ膨大な魔力量を誇るわけでもないが、ふたつの分野において優れた才覚を示したために、そこそこ名の知られている魔術師である。
彼の得意とする分野のひとつは、召喚術。彼は過去の文献と最新の研究結果をつきあわせて、召喚術の効率性と安全性を飛躍的に高めることに成功したのだ。もっとも、召喚術そのものがあまりメジャーな魔術ではないため、こちらのほうは高い評価を受けていない。
かつては非常にもてはやされた召喚術が、現在は廃れているのには理由がある。近世以降の学問の発達と教育の普及のためだ。それ以前ならば、ちょっと火を吐くのが得意なトカゲを飼っていても「はるか東の絹の国にはこういうのがいっぱいいるんです」と誤魔化すことも可能だったのだが、そんなトカゲは自然界にはいないという常識が浸透してしまってからは、さすがに一般人の疑惑の目から逃れることができなくなった。
魔術師は一般人から神秘を秘匿しなければならない。また、わざわざ召喚されたものに頼らずとも、ほとんどの仕事は他の魔術でも代用できる。それゆえ、不自然な存在を呼び出し使役するための術は、時代がくだるとともに廃れていったのである。
ただ、わたしの父がマティウスと知り合ったのは、この評価の低いほうの分野が理由だった。
知ってのとおり、遠坂家はアインツベルン家、マキリ家と並んで、聖杯戦争のシステムを作り上げた御三家である。しかしこの御三家は、3回目までの聖杯戦争でははかばかしい戦果を得られず、そろって序盤での敗退を繰り返してきた。
マキリ家は、日本に移住した後に、魔術回路が少しずつ衰退していったことが原因である。
アインツベルン家の場合は、扱う魔術の特性が戦闘に向かないことが敗因だった。
そして、魔術回路の衰退もなく――むしろ、その数の多さは世界でも有数であろう――、魔術の特性も戦闘や情報収集に適していた遠坂家が、聖杯戦争で苦戦を続けた理由は、召喚術を不得手にしていたことであった。
いかにマスターが強力でも、呼び出されるサーヴァントが弱ければどうしようもないのである。
東洋では西洋ほど召喚術が流行らなかったことを考えれば致し方のないことではあるが、このへん、なんでもソツなくこなすくせに肝心な部分が抜けているという我が家の遺伝子がよく現れている。
そんなわけで、第4回の聖杯戦争において、わたしの父は遠坂家の唯一にして致命的な弱点を克服するため、召喚術のエキスパートに協力を求めることにした。で、父が助言を請うたのが、時計塔でいちど挨拶を交わしたことのあったマティウスだったのである。
魔術師というのは、基本的に閉鎖的で没交渉な連中である。大きな権勢を誇る家や派閥同士の技術交換ともなれば尚更で、それはそれは複雑な挨拶だの儀礼だの手順だのを踏まなければならないらしい。父にしてみれば、名門出身でも強力な派閥を率いているわけでもないマティウスは、まだしも交渉しやすい相手だったのだ。マティウスにとっても、応用範囲の広い遠坂家の魔術を代償として伝授されるのだから文句はなかったのだろう。
等価交換の基本に従い、マティウスは父に自らの召喚理論を教え、代わりに遠坂家の秘術のいくつかを得た。それが10年前のこと。わたしもこのとき、彼と顔を合わせている。父よりやや年下の、細身で温厚そうな紳士だったと記憶している。
そのころのわたしはまだ幼く、ろくに会話も交わさなかったので、彼の人柄はよく知らない。ただ、カール・マティウスの魔術の腕は確かである。彼が理論化し父がアレンジを加えた魔方陣は、サーヴァントと密接につながる依り代を持たないわたしですら、最強のクラスであるセイバーの召喚を狙えるほどの完成度を誇っていたからだ。
……遠坂家に古くから伝わる「肝心なところでヘマをやらかす」の法則のおかげで、結局はまったく違うサーヴァントを召喚してしまったのだけれど。いや、別にあんたに文句があったわけじゃないけどね、アーチャー。
ともあれ、遠坂家と彼との縁は、そんな経過で生まれた。
そして今、その縁を頼ってわたしたちが彼に会いに行く理由は――彼の二番目の特技にある。
「マティウスは、魔力濃度の高い土地を見つけ出す技術を持っているの」
「魔力濃度が、高い? それってたとえば冬木市のような?」
士郎が首をかしげた。まあ、このへんのこみいった魔術事情は、まだ彼には分からないか。
「冬木みたいにあからさまな場合は、特に高度な技術がなくても、霊脈さえ調べればすぐわかるわ。何百年も安定して高いマナを保ちつづけるような場所は、とっくの昔に誰かに見つかって占拠されているものなのよ」
冬木市しかり、倫敦しかり、教会総本山しかりね、と言うと、そこで士郎もぴんときたようだった。
「……つまり、一時的に魔力濃度の高くなっている場所を見つける技術、ということか」
「そ。正解よ士郎」
実のところ魔力濃度は、普通かなり不安定で変化しやすいものなのだ。というのも、魔力濃度を決定する要因が、非常に複雑で多岐にわたっているからである。
冬木市のように龍脈と直接つながっているような土地は安定したマナを供給しつづけるが、これはむしろ例外。
たとえば京都は、都として栄えていたころは冬木市をも上回る魔力濃度の土地だった。しかし日本の中心としての機能を喪失し、霊的に計算され尽くしたかつての土地配置を区画整備によって失った現在では、さほど大きなマナを持っていない。たとえ霊脈の中心に位置する土地であっても、その魔力を保っていた要因がいくつか崩れれば、昔日の魔力濃度は失われてしまうのだ。
逆もまた然り。それまで何の変哲もない土地が、何らかの変化によって一気に高い魔力濃度を持つこともある。それはたとえば霊脈の流れの変化であったり、火山の噴火などの自然現象であったり、建築物の増減などの人的要因だったりする。
ちなみに、もっともありがちな例は、多くの人間が同じ場所で同じ時期に無念の死を遂げること――つまり、戦争の舞台となることだ。100以上の霊魂が成仏できないまま留まっているだけでも、その土地のマナはかなり上昇する。また、多くの生存者の記憶に深く刻まれた土地は、それだけ多くの想いを集めているということでもある。宗教上の聖地が高い魔力濃度を誇るのと同じ理由で、古戦場もまた大きなマナを放出しつづけるわけだ。
無論それは、長い年月ののちに死者の霊があるべき場所に還り、戦場の生き証人がこの世を去るに連れて、自然に失われていく類のものなのだが。
「魔術師にとって理想的な『安定してマナを供給してくれる土地』は数少なく、おまけにそのほぼすべてが、どこかの名門や団体によって管理されている。これ、強力な後ろ盾を持たない魔術師にとってはやりにくいことこの上ないのよ」
「というと?」
「マナは一度使ってしまうと、回復にかなり時間がかかる。何度も連続で魔力を消費することは不可能なのよ。だから、他の誰かが管理する土地に住み着いた魔術師は、何らかの実験をしようとするたびに土地の管理者に事前に連絡を入れなくちゃならないの。マナの消費量が多すぎると判断されれば、実験を中止させられることもあるしね」
「え? 俺の親父もそうだったのか? たしか、遠坂家にはなんの断りもせずに冬木市に住み着いたと聞いたけど」
「あなたのお父さんは魔術教会に属してないし、そもそも魔術師としては異端だもの。実験なんかそっちのけで人助けばかりやってたじゃない。そんなのにまでいちいち目くじらは立てないわよ、こっちとしても」
「ああ、なるほど」
「まあそういう例外はともかくとして、マナの高い土地の不足という事態は、魔術教会にとっても長年の懸念材料だったわけ。後ろ盾のない魔術師にとってはもちろん、名門出身の連中にとっても頭の痛い問題だから」
「え、なんで?」
「自分の土地にいろんな魔術師が住み着いてごらんなさい。そいつらを把握するだけでも大変よ? ひどくなると、魔術研究に使う時間よりも自分の土地の管理に時間を割かれて、魔術師やってるんだか不動産屋やってるんだか分からなくなっちゃったところもあるもの」
「ううむ、そりゃ大変だな」
「だから、一時的にせよ魔力濃度の高まっている土地を見つける方法を、魔術教会は長年模索してきたわけ。閉鎖的なこの世界にしては異例の共同研究チームまで組んでね。そして5年ほど前に、その方法をある程度理論化することに成功したの。その立役者が」
「カール・マティウスというわけか」
士郎が納得したようにうなずいた。今日は珍しく勘が冴えている。こりゃ、明日は雨かもしれないわ。
もっとも、マティウスが立役者というのは少し違う。彼もまた研究チームに加わり、召喚術の研究によって得た知識をいくつか提供した。その知識は重要なものではあったが、技術の確立にもっとも多大な貢献があったとまでは言えない。やはりその功は、研究チームのチーフであり理論化の大部分にかかわった、とある名門の長に帰せられるべきだろう。たしかエーデルフェルトとかなんとかいう名前だったか。
貢献度は大きくなかったかもしれないが、マティウスが研究チームの一員だったことには変わりない。チームに協力した報酬として、彼は開発された技術のすべてを受け取ったのだ。
「遠坂の目当ては、その技術の入手なのか」
「違うわ。わたしにはもう冬木市という土地があるし、わたしの管理する土地に入り込んでいる魔術師の数なんて、今のところ高が知れているし。技術そのものを手に入れたいわけじゃないわよ」
「……じゃ、何が目当てなんだ?」
今日の彼は勘が冴えているが、それでもさすがにわたしの目的まではわからないようだ。
わたしは姿勢を改めると、士郎の目をじっと覗き込んだ。
「……士郎。『霊長の抑止力』って言葉、覚えてる?」
「……ああ」
士郎の表情も改まった。彼にとっても、その言葉は非常に身近で切実なものだ。
「英霊が担う役割、だろ。セイバーや、……アーチャーにとっての、本来の役目」
「そう。人類が自らの手で滅亡の道を歩むとき、それを強引に阻む容赦のない盾。強大な力が世界を滅ぼそうとしたとき、より以上の強大な力によって世界を守る、いわば世界の意思」
「それと……今回の件と。なにか関わりがあるのか?」
「あるかもしれないし、ないかもしれない」
「……?」
「つまりね、士郎。滅びの地獄がこの世に現出するとき、世界は英霊を召喚する。そして、英霊を召喚するには、わたしたちが経験したとおり、膨大な魔力が必要になる。龍脈と直接つながっている冬木市が、60年をかけてようやく貯蔵できるほどの」
「うん」
「逆に言うなら、英霊が召喚される場所には、今まさに滅びの地獄が現われようとしている。そして、英霊を召喚できるほどの魔力も集まっている、というわけよ」
「む。ということは」
少しだけ考え込んだ士郎が、ぱっと顔を上げた。
「魔力量の変化を予測できれば、滅びの地獄の出現を先回りして知ることができるかもしれない……?」
そう――わたしの目的はそれだ。
不安定に変化する魔力濃度。その一因の中に、「英霊を召喚できるよう、世界が強引にマナを放出している」というものがあったなら、わたしたちは滅びの出現を予測することができる。手遅れになるまで何もできず、尻拭いをすべて英霊に押し付けてきた今までとは、まったく違う手を打てるようになるかもしれないのだ。それは、正義の味方を目指す士郎にとっても喜ばしいことに違いないし――
「アーチャーの魂を、少しは救うことができるかもしれない。手遅れの地獄ばかり見せ付けられてきた彼を」
もし、人間と英霊が協力することができれば。アーチャーは人の死に様だけでなく、人々の笑顔を見ることができるかもしれないのだ。
「そうだな。あいつを……手助けできるんだな」
士郎は複雑な表情を浮かべた。納得しているような、承服しかねるような、彼らしくないあいまいな表情。
彼にとってまだ、アーチャーの存在は消化しきれていないらしい。それはわたしも同じだけど。
わたしは彼の内心に気づかないふりをして続けた。
「すべては仮説の段階だから、まだわからないけどね。魔力濃度の高い土地をどういう方法で見つけているのか、わたしは詳しくは知らないもの。そもそもマナの変化の予知なんて可能なのかどうかもわからない。でも、マティウスなら見当がつくはず。彼は5年前に得た技術を、ずっと資金集めのために使ってきたから」
「資金集め?」
「お金はあるけどいい土地を持っていない魔術師とか、大きな実験をやりたいけど適当な場所が見つからない研究チームとかに、見つけた土地の情報を教えているのよ。結構いいお金になるそうよ? もっとも、ひとついい土地を発見するためには、それこそ世界中を飛び回らなければならないそうだけど」
「……簡単じゃないんだな。家の中で地図とにらめっこするだけじゃ駄目なのか」
「そこまで飛躍的に進んだ技術なら、とっくの昔にマティウス家は名門の仲間入りをしてるわよ。まだまだ未完成の技術ってこと。大まかな予測は立つらしいけど、正確な位置を割り出すには、実際にその場所に足を運んでいろいろ調べる必要があるみたいね」
ドイツに本拠を構える彼が、現在このチェコにいるのもそのためだ。なんでも、このあたりの魔力濃度が最近妙な高まりを見せているので、使えそうな土地が新たに生まれたかもしれないと、数々の観測道具を持って出張ってきたのだそうな。わたしたちは、その出張中のマティウスのもとにお邪魔しようとしているわけである。
「そんな未完成の技術だけど、5年間それを使いつづけた彼は、今やこの分野のトップと称しても過言じゃないわ。彼の経験に学べば、できることとできないことの区別もつくはずよ」
「なるほど。不確かだけど、希望の灯は点っているってことか」
士郎はそこで不意に、こちらがどきりとするような笑顔を見せた。
「やっぱり、遠坂はすごいな。正義の味方を目指してるわけじゃないのに、俺よりもずっと正義の味方の仕事をしてる」
「え!? ちょっと、急に何よ」
「改めておまえのこと尊敬するよ。俺はすごい師匠を持った」
本当に心底から嬉しそうに、士郎が笑う。そのあまりに直截的な笑顔に、わたしの心臓がなぜか早鐘のように鳴り始めた。いかん、顔も熱っぽくなっているような気がする。
この男は、不意打ちとか直接的な表現にわたしが弱いことを知っててやっているのだろうか。いやたぶん天然なんだろうけど。
「遠坂、頑張ろうな。俺もできる限り手助けするから」
「そうね、頼りにしてるわ。わたしのこと守ってくれるんだもんね」
それでもまあ、誉められて悪い気はしないわけで。にっこりと微笑んでやるくらいなら……ってちょっと、なんであんた椅子から立ち上がってこっちに歩いてくるのよ?
「ああ、守りきってみせる。それが弟子の役割だし」
男前っぽい表情で、男前っぽい台詞をはく士郎。それは素直に嬉しいし、ありがたい。ありがたいけど、なんか近すぎない、その距離? わたしベッドの上で逃げ場がないのに。
先ほどから、胸の早鐘はうるさいくらいに鳴りっぱなしだ。顔もトマトのようになっているのは間違いない。それを自覚すればするほど、ますます真っ赤になってしまう。
なぜ今日に限って、わたしはこんなにおかしいんだろう。きっとベッドの中にいるのが悪いのだ。たぶんパジャマ姿というのもよくない。それに、士郎の顔がこんなに近くにあるのは、きっと一番よくない……
脳のどこかで、明日の予定とか交渉の段取りとかを理性が訴えているが、その声もすぐに感情に押し流されてしまった。のぼせ上がった思考がぐるぐると回転するのをよそに、わたしの口が勝手に言葉をつむぐ。
「士郎……」
妙に上ずった口調で。
……て、待て待て。それじゃ誘ってるみたいじゃない!?
「遠坂……」
士郎の顔も上気している。すごくすごく上気している。それを見ているうちに、なんだか彼の顔以外のことはどうでもよくなってきて、わたしはすっと手を伸ばし――
「では、話もまとまったようですし、明日に備えて早く寝ましょう」
――とてもナイスなタイミングで待ったをかけられ、わたしと士郎は反射的に飛びのいてしまった。
「あ……う。セイバー、起きてたのか?」
「ええ、まあ」
冷や汗を掻きながら尋ねる士郎に、わたしの従者はとっても冷え冷えとした口調で答えた。う、すごく怒ってる。
まあ、彼女のことを忘れて暴走してしまったこちらが全面的に悪いのだが。
「ああ、ええと、そうね。もう午前2時を回っちゃったし、早く寝ましょう。さあ士郎、とっとと自分の部屋に戻りなさい」
従者の視線から逃れるように、わたしは慌てて士郎を促した。士郎もうなずき返すと、そそくさと部屋を出て行く。彼と別室であることが今はありがたい。こんな心理状態で同室だったりしたら、わたしでも再び暴走してしまうに違いない。
「じゃ、セイバー、お休み」
「お休みなさい、マスター」
布団にもぐりこんでなんとか心臓を落ち着け、わたしはセイバーと就寝の挨拶を交わした。彼女の表情は先ほどよりは険が取れているが、やっぱりちょっと怖い。うう、明日までこの不機嫌が続かなければいいが。
とっとと眠ろうと、シーツをかぶって羊を数える。そんなわたしには、何故セイバーがこんな時間まで起きていたのかという理由にまでは頭が回らなかった。