ロンドンのヴィクトリア・コーチ駅からバスで二時間半ほど揺られるとブリストルに着く。そこからローカルバスに乗り換えれば、グラストンベリまでは残り一時間と少しであるらしい。
ぱたん、と、聞こえよがしにガイドブックを閉じる。
丁度そのグラストンベリへのローカルバスの車内である。まばらな車内に響き渡る乾いた本の音が空気を震わせた。
観光という観光はあらかた終わり、もはや頭の片隅からも消えかけていた程度の用事を済ますのに片道四時間近くも浪費してしまうというのは、もったいなくもあり、また楽しくもある。
車窓の外を流れる景色は、見ていて飽きない。
同じような山林。同じような石造りの建物。同じような人の営み。
どれも似たようなものではあるが、しかしそれ故に差異を見つけることができ、そうした些細な変化が目を潤す。
さらに、道のりの大半は石畳すら敷いていない剥き身の悪路だったが、体に伝わってくる不規則な振動は揺り椅子を思わせ、悪い心地はしない。
この国を観光してわかったことが二つある。一つは食事が酷く雑であるということと――もう一つは、それを差し引いても守るべき伝統と華美(気品と言い換えてもいい)が、未だ脈々と受け継がれている、ということだ。
「ふむ……悪くない」
この国にきて何度目かの同じ台詞を吐息とともに吐き出して、その男は小さく唇の端を歪ませた。
旅は道連れ 序幕〜ギル様悠々イギリス紀行〜
悪くはない景色を眺めながら、左腕を胸元に寄せる。メッキか本金かは知れないが、過度に光沢を放つ腕時計の文字盤の上では、同じく黄金色の短針と長針が丁度重なっていた。
見れば日も真上にさしかかっている。
男は黒いスラックスに胸元を開いたワイシャツで、その上に黒地に白いラインが両腕に入っている薄手のジャンパーを羽織っている。黒いライダーブーツが、バスの振動に合わせて小刻みに床を叩いている。
ラフな格好だったが、鋭い、抜き身の刃を思わせるこの男にはむしろ似合いすぎると言ってもいいだろう。事実、寂れたバスに乗り合わせた乗客たちも奇異の目は向けてはこない。
(さて、どうしたものか……)
声には出さずそう呟いて、男は再び流れる景色に視線を戻した。
さして目的があるわけでもない――と言えば嘘になるが、実際のところ目的などないと言ってしまってもいいほどに、この予定外の観光は重要性を持たなかった。
少なくとも彼が「興味本位でレストランで一番高い食事と一番安い食事を食べ比べ」たり、「興味本位でパントマイマーのショウを立ち止まって見」たり、「興味本位でビッグベン・タワーを見物し」たりすることよりは、彼にとってはどうでもいいことだった。
それは例えるなら、朝起きて居候先の家主が作った朝食がすでにテーブルに並んでいるように、”すでにそこにあるべきもの”を確認するだけの作業に他ならなかった。
彼自身がそれを確かめるためだけに大層な時間をかけてロンドンのホテルの滞在期間を一日延ばすことを考えれば、正直言って重要ではないどころか無駄な作業であると言ってもいいくらいだった。
だが、だからなのだろうか。元より予定表の隅にも書かれていなかったグラストンベリ観光などを不意に取り決めたのは。
人間は有限の生を生きるが故に、無駄な時間や空間を好む。それは長く暮らしてきた国――日本での年月や、ほんの二間ほどではあるが滞在し、観光してきたこのイギリスでも感じたことではある。
彼自身、華美であればそれが無為無味なものであろうと好む習性であったので、それがわからないわけではない。
一ヶ月ほど前に日本を出て、何とはなしに行き先はイギリスと決めていた。日本に居場所がないわけではなく――もちろん、大手を振って街を歩けるというわけでもなかったが ――、久しぶりに世界を見て回ろうと思ったのだ。
どこと国を決めていたわけではないので、縁あればこの国にも足を運ぶことになろう、と最初は考えていたのだが……
(自身、未だ断ち切れていないというわけか)
こつこつ、と窓枠を叩く。依然、車窓は果てのない風景フィルムを回し続けている。
実を言うと、グラストンベリは最も避けていた土地だった。ウィンチェスターよりもティンタジェルよりも、このグラストンベリはその存在を想起することすら無意識下で拒否していたと、自分でも思えるほどだった。
行けば必ず思い出すだろうし、行かなくてもいずれはそこで起きるだろうことは伝わってくる。自らはそういう位置にいる存在だし、それに興味がまるでないということもない。
むしろその逆で、決して忘れることのできない記憶の類がそれであった。ただ、今すぐにそれと向き合う気にはなれないと、そういうことだ。
だというのに、この高揚はなんだというのか。明らかにわかりきった結果を心待ちにしている自分がいる。
無論、そんなことを例え空想の中でも認める彼ではなかったが、十年来感じていなかったこの高揚感は誤魔化しようもない。
焦がれた、というほど欲していたわけではないが無視を決め込めるほど価値のないものでもない。
(つまり、あれだ)
男は流れる景色を目で追いながら、ようやく認めた。
つまりは、そういうことなのだ。
(存外と俗な感情ではあるが――)
なんとはなしに、前を見る。
と、計ったかのようにバスが速度を落とし始める。同時に、窓の景色に石造りの建物が増え始めた。ようやく到着らしい。
ネットの上に上げていたリュックを下ろし、座ったまま肩にかける。
やがてバスは止まり、わずかにいた乗客が降り始める。男はその一番最後にバスを降りた。
(俗な感情ではあるのだが――)
空想で呟いた言葉を、もう一度繰り返す。
(要するに、野次馬根性というわけだ)
酔狂なことよ、と付け足す。バスは背後でドアを閉め、足早に走り去って行った。後には、散っていった乗客の残りと、通りを行き交う数人の人影が残るのみだ。
男はリュックをかけなおすと、歩き出した。石畳の感触がブーツの底を通して伝わってくる。
滞在時間は長くはない。目指す場所は決まっていた。とりあえず、と足を踏み出す。
歩きながら、独りごちた。
「まったく。男を待たせるとはたわけた女だ」
古く、アーサー王の眠る地として伝えられるグラストンベリの通りを、男は歩く。
喧騒はないが、にぎやかな町だ。そう男は思った。
頭上に太陽を掲げたグラストンベリは、精一杯自己主張しているように見えた。石積みの家屋はその肌の荒れを隠すように白い光で照り輝き、通りには古めかしくも着飾った商店が軒を連ね、その気品ある華美を誇っている。
柔らかな日差しを受けて、石畳も照っていた。ゆっくりとそこを歩けば、人によってはヴァージンロードを歩いているような錯覚を覚えるかもしれない。
雑踏、と呼ぶにはいささか寂しいが、人通りもそれなりにある。静かながらも活気のある空気だ。
「わざわざ、この我に足を運ばせるとはな」
本気とも冗句とも取れないような口調で言う。
正午を過ぎたグラストンベリの緩やかな風が、男の金髪を揺らした。
皮肉げにつりあがった目には、紅玉を思わせる真紅の瞳。ゆるく両端を持ち上げている剃刀のような印象を抱かせる唇。それらは自然、一つの感情を表しながらその行く先を見つめていた。
「もっとも、我はそこが気に入っているのだがな、セイバー」
金色の魂を持つ男、英雄王ギルガメッシュはゆっくりと、伝説の眠る町の石畳を踏みしめていった。
/
「道を尋ねたい」
通りにある古びたパン屋に入ってきた男は、その若い外見に似合わず尊大な口調で問うた。問い掛けられた老婦人は、初めこそ驚いたものの、やがて平静を取り戻し、「何」と穏やかな表情を向けてきた。
古びた内装のパン屋で、店番はこの婦人独りだけである。小さな丸眼鏡をかけたしわだらけの顔が柔和に撓んだ。男が差し出した菓子パンを、なれた手つきで紙袋に詰める。
「グラストンベリ寺院には、どう行けばいい?」
問いかけのそれと変わらない尊大な声で、男――ギルガメッシュが問う。
「こちらには観光に?」
「ああ……いや、知己がいてな。それを訪ねて来た」
老婦人の言葉に首肯しかけて、言い直す。その様子に婦人は少し首を傾げたが、
「寺院へは、そこの角を右に折れればすぐに案内の地図が出てるはずよ。そう大きい町でもないから、すぐわかるでしょうけど」
「そうか、邪魔をした」
それだけ言うと、ギルガメッシュはポケットから札を出して婦人に手渡した。
「釣りはいらん」
「あらあら」
婦人はおどけたように手の中の、明らかに不等価な額の紙幣を見て言った。
気をよくした婦人が尋ねる。
「寺院のお知り合い……ということはその方は神父様かしら? それともシスター?」
早々に歩き去ろうとした男の背中に、婦人が声をかける。
ギルガメッシュは入り口の手前で立ち止まり、体をひねって振り向いた。
肩越しに見える口元にきゅ、とつりあがった笑みを浮かべて、
「惜しいな」
と答える。
「アレは、聖職者ではない。尊いという点では、似ているかも知れんがな」
「あら。じゃあ、誰かしら?」
「……王だ」
皮肉をそのまま表情にしたような顔をしたまま、金色の男は出て行った。
後には店番の老婦人が残るばかり。ドアが閉まると、そこは再び元の静寂を取り戻していった。
違和感を感じなかった。それこそが違和感である、と気づいたのは後のことだ。
「これは何の冗談だ?」
声に含まれるものが、苛立ちよりもむしろ焦燥であることを認め、ギルガメッシュは寺院を見上げた。
老婦人の案内を受けて十数分、ギルガメッシュの目の前にはグラストンベリ寺院があった。
それは、かの英雄アーサー王の伝説を持つにはあまりに貧相に見えた。無論、そのたたずまいが示す神性は世界各地にある名だたる教会・寺院に比しても遜色ないものではあったのだが。
「これは何の冗談だ?」
もう一度、ギルガメッシュは呟いた。彼が見上げているのは寺院ではない。
いや、寺院を見ていることは間違いないが、正確にはそこに存在する霊的な気配をこそ、ギルガメッシュは見出していた。
本来、寺院とは霊的に非常に安定している。それは、寺院であるからこそ安定した霊地である、と言うもできるし、安定した霊地であるからこそ寺院が建立された、と言うこともできる。グラストンベリの寺院の場合は、その両方と言ったところか。
(何故だ――?)
その、霊的に「安定しすぎた」寺院をにらみつけながら、ギルガメッシュは立ち尽くしていた。
安定しすぎている――それこそが違和感だった。
どこを見ても、寺院を中心としたこのグラストンベリは霊脈の流れに乱れがない。それはこの町に入ったときから感じていたことだ。
しかし――
(それではおかしいのだ)
と、胸中でつぶやく。
霊的に安定している。霊脈の乱れがない。安定している。乱れない。
何も、起こらない。
グラストンベリの町は、わずかな雑踏を除けばおおむね平和だった。
それは通常の、魔術や秘蹟と何のかかわりもない生活を送る人間にとっても、そして魔術や秘蹟に常から関わるものにとっても、何の変化も起こらない平和な町、だった。
それがギルガメッシュを焦らせる。
あるべきものがない、起こるべきことが起こらない、というそれは、まるで足元がガラスの回廊に変じたような焦燥を募らせる。
(この地にある魔力の流れは、通常の寺院教会にあるものと大差ない……何故だ?)
黙考する。
本来ここにあるべき事象が、事実ここにはない。
(では、だからどうだというのだ?)
最も有力な仮説は、ここにあるべき事象がここでは起こらず、どこか別の場所で起こった、ということだろう。
その事象の性質を考えれば、それが「起こらない」という可能性は考えられない。とすれば、ここで本来起こるはずの「何か」はどこか別の場所で起こっている、ということだ。
(ならば、それはどこか――)
円卓の在る町、ウィンチェースターか。それとも伝説の眠る地、ティンタジェルか。
答えはどれも否、だった。
起こるべきことは起こるべき場所で。
今、この地でそれがないというならば、もっと別に起こるべき場所がある。
それはどこか。
ならばそれはどこか。
それは――
王の記憶が最も新しく残る場所――
「――日本か!」
口の中で噛み潰すように言ったその言葉に、黄金の英雄王ははっと気づいたように、普段通りの鋭利な笑みを浮かべた。
序幕:終
運命がカードを混ぜ、われわれが勝負する
byショーペンハウエル
その日、衛宮士郎の目覚めは夜明け前に訪れた。
目を開ければ見慣れた天井。どうやら土蔵での鍛錬後そのまま眠ってしまったわけではないらしい。
軽く頭を振って、意識を覚醒させる。
ぼやけていた視界が徐々に輪郭を取り戻し、数秒も経たないうちに完全な世界を作り上げる。
窓から差し込む光は蒼白く、まだ夜明け前か直後といった感じだった。
時は四月。早朝の空気は鋭くはあったが、身を刺すほどの寒さはもうない。元より冬木の土地は、冬もさほど寒くはならない土地なので
上半身だけを起こした姿勢のまま、ぼんやりと差し込む光の束を見つめる。
光の加減から、五時半くらいか、とあたりをつける。
疲れが溜まっているせいか、体調の具合から推測するのは心もとないように思えた。
どちらにしろ、普段より早く起きることはあってもその逆はあるまいとは確信していた。
身体が時間を覚えている。
ぽりぽりと、することもないので頭をかきながら目の前の空間を見る。
見慣れた部屋である。必要最低限の調度品しか――ことによれば必要最低限の調度品すら――ない、閑散とした和室。これが私室だと言ったところで、少なくとも同年代の人間にとっては信じられないだろう。
(そういえば、あいつも最初は驚いてたな……)
ぼんやりとした頭でそんなことを思う。そして――無理やりその思考を意識の奥に押し込めた。
ゆっくりと布団をはがして立ち上がり、伸びをする。
多少の疲労を溜め込んだ身体は、その動作にわずかな軋みをあげるがそれもすぐに収まった。
朝の空気が思考をクリアにしていく。
自分の足と――目の前の壁と――天井と。順に見やり、そして最後に隣室との境目にある襖を一瞥する。
使われない部屋。
住人のいなくなった隣室へ続く襖を開けたことは、この二ヶ月でただの一度もなかった。
そこは二ヶ月前から時を閉じ込めたような――むしろ意図してそうしようとしたかのように、不可侵の気配を孕んでいる。
記憶の中にしまいこんだ思い出を、現実の風にさらして風化させたくなかったのか……それとも、思い出は思い出のまま薄れていくのを待とうとしたのか。
その意味では、土蔵で寝入ってしまわなかったのは僥倖と言えた。
二ヶ月前の、一切合財の思い出の詰まったあの場所で見る夢は、大抵決まっていたから。
(セイバー……)
胸中でつぶやき、かぶりを振る。
浸っている暇はない。思い出すまいとしているわけでもないが、かといって思い出に逃避するほど磨耗してもいない。
「さて、桜が来る前に飯の準備でもしておくかな。いつも起こされてばっかりだし――」
言って、部屋を出る。
背後にわずかな未練を残しながら、衛宮士郎は後ろ手に入り口を閉じた。
旅は道連れ〜ギル様悠々衛宮家奇行〜
第一幕「王様、旅から帰る」
とんとん、と軽快な音が台所を満たしている。
メニューは白米に味噌汁、サワラの照り焼き、ヒジキの和え物。和食である。自然、和食派の士郎にとっては力を入れる場面だ。
使い慣れたエプロンを、鎧でも着込むような気概で装着し、まな板と包丁を用意すればあとは食材を刻んで焼いて盛り付けるだけ。
照り焼きに使うタレも、出来は上々だった。
「うん、これはいいな。これならアイツも……」
喜ぶだろう、と言いかけて、やめた。
タレの入ったパットを奥に押しやり、嘆息する。
その嘆息すら、次の嘆息を招く呼び水になりかねないと感じながらも、それをするのはもはや日課になっていた。
そして、それがもたらす憂鬱にも似た空気を振り払うことから、士郎の一日は始まる。
未練がない、と言った言葉に嘘はない。
それだけは自信を持って言えた。たとえそれが虚勢の上に我慢を重ねた結果出た言葉だったとしても、偽りだけは含んでいない。
しかし、言葉で感情が御せるのなら人生に煩悶など起ころうはずもなく――
つまりは、彼女のいなくなったその空間と、それを認めざるを得ない衛宮士郎の心にぽっかりと空いた空隙。そこを満たす寂しさという名の感情だけは、未練とはまた違う痛苦を日々、彼の心に強いる。
正直に言えば、衛宮士郎はその感情を恐れていた。
毎夜思い出す彼女の顔、言葉。そしてそれらが二度と得られないと認識する瞬間。
何よりも、その喪失感が自らの心を砕いてしまうのではないか、という確信にも似た予想が、士郎を土蔵や隣室から遠ざけていた。
渇望が、狂おしいほどの後悔が、封じ込めていた心の奥底にあったのだとしたら。
あの時、本当は彼女の腕を取り、その場から逃げ出してしまえばよかったのではないのか。
それはしてはいけないと、確かにそのときは思った。そしてそれは正しいことだったと信じている。
だが、正しいということは、納得できるということと等号では結ばれない。
未だ彼女を求めるこの心は偽りでない。自分のしたことにも後悔はしていない。
しかし、自分の心を裏切ったことに対しても後悔していないと言い切れるだろうか?
未練などない、と言い切ることでその感情を押し込めていたのだとしたら。
そして、それが何かの拍子で溢れてきてしまえば……衛宮士郎は壊れてしまうかもしれない。
忘れたくないのに、思い出したくない。
矛盾する願望と逃げ場のない焦燥。それらを――
「困ったことに、まだ断ち切れてないってことなんだろうな……」
皮肉げに笑い飛ばし誤魔化すことしかできなかった。
/
定刻通り、と言っても間違いではないくらいいつもと同じ時間に、後輩である間桐桜は衛宮邸にやってきた。
そのままあがりこんでもいい、と言うのにいつまでも呼び鈴を鳴らして入ってくる少女に苦笑しながら、それを迎え入れる。
「珍しいですね、先輩が先に起きて、しかも朝ごはんまでもう用意されてるなんて?」
「そうか?」
もう八割方準備の終わった朝食を前にして、桜はそんなことを言ってくる。
淡い紫色の長髪をした、穏やかな笑顔の少女である。制服を着込み、型にはまったようにきちんとした身なりが、もはや個性といってもいいほどに似合っている。
ともすれば実年齢より高く見られるような色気のある容姿をしていながら、その実纏う空気は明らかに年下のそれ、というアンバランスな魅力を持っているのが間桐桜という少女だ。
はい、と、少し不満気な声で桜が答える。リボンがふわり、と揺れた。
「少し前までは、私が先輩を起こして一緒に朝ご飯を作る、っていうのが日課でしたから」
なんだかさびしいです、という最後の言葉だけはもごもごと口の中で消化する。無論士郎には聞こえない。
「そうだったかな……でも、いいじゃないか。俺が土蔵で寝てたりすると桜、怒るだろう?」
「う……それはそうですけど」
「それに、いつまでも桜に迷惑かけてばっかりじゃ先輩としての威厳もなくなっちまうからな。せめて起きて飯作るくらいはやらないとさ」
「うー」
なにやらうめく桜を尻目に、士郎は出来上がった朝食を居間に運んでいった。
茶碗も箸も四人分。五人目の分を用意しようとしてふと、彼女の顔が浮かんではそれを振り払う、といったことも最近ではなくなってきている。
「今日は和食なんですね」
と、盆に四人分の魚の照り焼きを乗せて運んできた桜が言った。
「ああ、今日は遠坂も来ないし、洋食派はいないだろ」
「そうですね。遠坂先輩、朝弱いですから」
「イリヤは、和食でも洋食でも関係なしだしな」
「育ち盛りなんですよ。それに、先輩のご飯はおいしいですから。和食でも洋食でも関係なし、です」
くすりと笑いながら応える。
二ヶ月前の聖杯戦争を経て、衛宮家では大きな変化が起こった。
そのうちの一つが、士郎の魔術の師である遠坂凛の半居候化であり、もう一つが士郎の父・衛宮切嗣の娘という触れ込みで士郎の家族となったイリヤスフィール・フォン・アインツベル――イリヤの存在である。
遠坂凛に関しては、こういう関係は聖杯戦争が終わればきっぱりなくなるものだと思っていたが、どうやら凛にとっては違うらしかった。
年頃の女子が男の一人暮らしの男の家に泊まりこむとは何事かー、というのは士郎の姉代わりでもある藤ねえの言だが、最近ではお目付け役として、凛が泊まりに来るときには桜に連絡をつけて同じように泊まらせるというのが通例になっている。
曰く、「最大の譲歩」であるらしい。
藤ねえの「年頃の女子」の範疇に桜は入っていないのか。そのあたりは甚だ疑問ではあるが、桜も文句ひとつ言わず(むしろ嬉々として)やってくるので、士郎ももはや口の挟めない状態だ。
それはともかくとして、凛が泊り込んだ翌日はたいていが洋食で始まることになる。
何故なら、家主の意向などまるで無視して我が物顔で衛宮家を占拠する遠坂凛こと通称「赤い悪魔」が洋食派だからである。
そんなわけで、遠坂がいない朝は極力和食にしよう、というのが士郎の考えだった。彼女は朝に極端に弱く、早朝から衛宮家に押しかけてくることはほとんどないので、彼女が泊まりにきていないということは自然、朝は和食ということになる。
たまにイリヤがメニューの要望を(半ば強制的な勢いで)出してくることもあるが、頻度としてはたいしたことはない。
「さて、これで準備は完了だな」
「そうですね。でも、先輩……」
桜が、目の前に並べられた朝食を目線で指して言ってきた。
「うん?」
「これ、一人分多くありません?」
「? なんでさ。四人分であってるだろ。遠坂がいないんだから、俺、桜、藤ねえ、イリヤで四人……あ」
指折り数えて、そこで気づく。
「そうか、今日は藤ねえ……」
「はい。早朝の職員会議で、朝ご飯はいらないって昨日」
「あちゃあ。そういえばそうだった。昨日の晩飯の時そんなこと言ってたなぁ」
と、額をぱしんとたたく。
まがりなりにも教師であった藤村大河という人物を再認識する。裏を返せば、普段はそんなことをまるで意識していないということなのだが。
「うーん。どうしようか。捨てちゃうのももったいないしな……」
「お弁当にでもしますか?」
「いや、それもなぁ。照り焼きって、さめると不味いぞ」
渋い顔で返す。
と――
ピンポーン
呼び鈴が鳴った。
士郎と桜が目を合わせる。
「誰だろう……遠坂かな?」
「さあ……藤村先生が職員会議サボってきたんじゃ――」
「ありそうで怖いな」
言いながら、士郎が居間を出る。
「俺が出るから、ちょっと待っててくれるか」
背中に肯定の返事を受けながら、士郎は玄関へと続く廊下を歩き出した。
いつもと変わらない朝の風景を背に、廊下を進む。
いつもと変わらない風景。
そう。風景はいつも変わらずそこにある。変わったのは世界ではない。
彼女のいなくなった風景。それを見る自分。
彼女がいなくなった世界。それを認める自分。
そして――その世界を寂しいと感じてしまう自分。
そんな自分もいつか当たり前のように認めてしまえる時が来るのだろうか。
「…………は」
自嘲気味に吐息する。
人は変わる。それは仕方のないことだ。
この心の空隙も、いつかは埋まるのだろう。
でも、その空隙を作り出した彼女と過ごしたわずかな時間。それは後悔でもなんでもなく、ただひたすらに輝いていた。
宝石のような、時間。
それさえ忘れなければ、きっと彼女がここにいた意味はあったのだと、そう思う。
忘れることはできない。でも、乗り越えていくことはできる。
そう信じて、衛宮士郎は理想に向かって歩いていくのだ。
ピンポーン
知らず、足を止めていたらしい。
自分の部屋の前で彼女の――セイバーの姿を空想していた士郎を、二度目の呼び鈴が現実に引き戻す。
ピンポーン
「はいはい、今行くってば」
足早に歩きだす。程なく、玄関が見えた。かすりガラスの扉ごしに、背の高い痩躯の影が見える。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポンピンポンピンポンピンピンピピピピピピピピ――
「だぁぁぁぁっ! 今出るからやめてくれ!」
半ば叫ぶように言って、士郎はがらりと戸を開けた。
そこには――
「久しいな、雑種」
神々しいと評しても何ら遜色のない――
「あ……」
「ん? どうした。顔色が悪いぞ、ちゃんと朝飯を食っているか? 朝飯は一日のスタートダッシュに欠かせぬものだからな。欠かさず食っておかねば学業にも支障が出よう。白米に味噌汁、ヒジキの和え物などが定番だな」
黄金の髪と真紅の瞳、整った顔に皮肉げな笑みを浮かべた――
「サワラの照り焼きなどがメインであれば、我としてはモアベターだが……ん、そういえば良い匂いがするな。どうせ貧相な食卓を囲んでいるのだろう。どうしてもというなら邪魔してやらんでもないぞ」
英雄王が立っていた。
第一幕:終
世の中の人は何とも言わば言え。我が成すことは吾のみぞ知る。
by坂本竜馬
旅は道連れ〜ギル様悠々衛宮家奇行〜
第二幕「王様、訪問する」
「久しいな、雑種」
鷹揚な声でそんなことを言われて――
とりあえずできたことは、何故かまだ手に持っていた包丁を突き出すことだった。
「うお! 何をする!」
当然のようにあがる抗議の声。
ギルガメッシュは顔面の中心を狙って突き出された刃先を右下にかがんでかわしていた。
すばやくバックステップで距離をとる。
「ちっ」
「ちっ、ってなんだおい雑種! 貴様、本気で殺すつもりだっただろう!」
「やかましい! お前こそ一体なんのつもり……いや、そもそもなんでお前がここにいるんだ!?」
油断なく包丁を握る手に力をこめながら、士郎は目の前の男を凝視した。
純金をそのまま加工したと言っても通用しそうな、逆立った金髪。
切れ長の眼窩に、真紅の瞳。触れれば切れる剃刀を思わせる、整ってはいるが怜悧な容貌。
一目で上質の生地とわかる黒いスラックスとジャンパーを着込んでいる。服装こそ普段着ではあるが、その身から立ち上る威圧感とも言える空気が、視界を歪ませているようにも思える。
何故か右手に下げている紙袋に目が奪われそうにはなるが、目の前の男は間違いなくギルガメッシュだった。
人類最古の英雄王にして、二ヶ月前に打ち滅ぼしたはずの宿敵。
向けられた包丁の先で、その宿敵は重々しく口を開く。
「ふん。この我を前にしてそれだけの口を叩くとは、な。相変わらずだな、雑種」
す――とギルガメッシュの目が細くなる。それと同時に、それまでたわんでいた空気が一気に凝縮された。
ずん
「なっ――――!?」
心臓を鷲掴みにされたような重圧が士郎の動きを封じる。
目の前に悠然と立つ男……ほんの数メートル前にいる男の視線に射すくめられる。
圧倒的な殺気。下手をすれば物理的な衝撃さえ錯覚させるそれは、一直線に士郎の体を射抜いた。
「ふむ。どうやらこの屋敷の結界も、一度中に入ってしまえば機能はせんようだな」
「何を……しにきた」
かろうじてそれだけの言葉を搾り出す。
何がおかしいのか、唇を吊り上げて周囲を見回す英雄王に対してできるのはその程度のことだけだった。
(く、そ……腕が)
力を込めようとする意思すら身体が拒んでいるようだった。刃を握る掌が、固定されたように静止している。
冷や汗は際限なく流れてくるというのに、首から下がまったく動かない。
叩きつけられたプレッシャーに神経が麻痺を起こしているのだろう、と、頭の隅のほんのわずかに残った冷静な部分が分析する。
それも、ただどうしようもない、という現実を認識することしかできなかったが。
(心臓が……握りつぶされる、感、覚…………)
魔力を流し込まれているわけではない。ただ一睨みされただけで、まさに蛇ににらまれた蛙のように身動きが取れないでいる。
理性が本能に駆逐され、全身を支配する感覚が全力で赤色警報を鳴らしてくる。
二ヶ月前の聖杯戦争以来、久しく忘れていた死の感触――
極寒の吹雪の中にいるような感触が全身を撫でていた。
「俺を……殺しにきたのか。聖杯はもうない……んだ、ぞ」
「ふむ。あの毒の壷か」
肩をすくめながらギルガメッシュが言った途端――かかっていたプレッシャーはきれいに霧散した。
「――――え?」
「あんな下手物にいつまでも執着するほど、我も見苦しくはないつもりなのだがな」
やれやれ、といった具合に肩をすくめる。
士郎は思い出したように自分の身体をぺたぺたと触りだす。
先ほどまで感じていた重圧はまるでなくなり、身体のどの部分も思い通りに動くようになっていた。
「ギルガメッシュ――」
「そう呆けた顔をするな。別に貴様らを皆殺しにしに来たわけではない。……まあ、やろうと思えばできんこともないがな。ためしにこのあばら家ごと消して見せようか?」
「…………」
無言。
さすがにやってみろ、などと強がりはいえない。
内臓を絞り上げるような重圧こそ消えたものの、目の前の男の放つ剣呑な気配は消えていない。
かつて最強のサーヴァント・セイバーをすらあしらったこの男がその気になれば、言葉通り、ほどなくやってのけるだろう。
駆逐殲滅などという言葉すら生ぬるい、まさしく視界を根こそぎ消し去るような……文字通りの『滅亡』を。
……ギルガメッシュの威圧を士郎がかろうじていなす、という一方的な視殺戦は一分ほど続いた。
士郎に張り詰めた緊張の糸が後数秒で切れようかという限界を見計らったように、ギルガメッシュはふとその視線を外した。
「そう構えるなというのだ。別に貴様らを取って食おうというわけではない」
あきれたような声。
今度こそ、何の敵意もないといった風な様子で、下げた紙袋を目線の高さまで持ち上げた。
「? ……なんだそれは」
「土産だ。イギリスでいい酒を見つけてな。飯でも食いながら一献いこうではないか」
「はぁ?」
あまりといえばあまりの言葉に、士郎は思わず肩をこけさせた。
チチュン、と雀が頭上を飛んでいくのが聞こえた。
と。
「なぁぁぁぁにわけのわかんないこと言ってんのよぉぉぉぉぉおおおおおおおおお!!」
怒声と共にひゅ、と耳元を通り過ぎる風切り音。
通り過ぎた後の耳たぶが徐々に熱を帯びてくる(かすったらしい)のとその重苦しい音を重ねて考えると、どうも重量のある何かが背後から猛スピードで通り過ぎていったらしい、ということはわかった。
が、その思索も無駄に終わる。
半秒を待たずして、その耳元をかすっていったものが視界に入ってきた。
瞬間に視界の半分をさえぎったそれ――引き戸のようなものが側面にある――は士郎が声を上げる間もなく一直線に進み、そのままギルガメッシュに衝突した。
「へぶっ!?」
奇妙な悲鳴だか怒号だかを上げて、ギルガメッシュが仰向けに倒れる。
奇妙なほどスローモーションに、きりもみなどしつつばたん、と盛大な音を立てて。
そこでようやく気づいたのだが、それはどうやら玄関に置いてある靴箱のようだった。
無論、軽々しく空を飛ぶようなものではないので、その全容が見えるまでそれが靴箱だとは想像もできなかったのだ。
衝突のショックで粉砕された靴箱が木片となって飛び散る。
それが雨のように降り注ぐ中、木片と一緒に宙を舞う靴の中にお気に入りの一足があったのは見ないことにして、士郎はようやく背後に向き直った。
「あー、その、なんだ」
言って、黙る。
散乱する木片と靴に、その最中で大の字で倒れている英雄王。なぜか紙袋だけは大事そうに胸で抱えている。
そして、自分。
朝も早い時間から、包丁片手に玄関先に立ち尽くす人間というのも中々に猟奇的な絵ではあった。
包丁片手にさまようのに適切な時間があるのかどうかはさておいたとしても。
とりあえず、頭の中で整理だけはしておく。
「その……イリヤ。靴箱は投げるものじゃない。というか、むやみに家のものを投げるな。壊すな」
「えー?」
現状で出来る限りの整頓をした頭がひねり出した、実に適切なその一言に、開け放した玄関の正面に立つイリヤはなにやら不満顔でそんな返事を返した。
/
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
イリヤ。
藤村イリヤ。
悪魔っ子。
ロリブルマ。
幼女。
妖女。
……誰がどう呼ぼうが、それが彼女を指していることを考えれば呼び方などどうでもいいようには思えた。
問題は、呼ぶ側がどんな意思でその呼び名を使っているか、だろう。
例えば士郎は、藤村大河を親しみと、ほんのわずかな、蚤の毛先ほどの敬意を以って「藤ねえ」と呼ぶが、そこに悪意はない。
むしろ愛称であるからして、そこにはありったけの親愛の情が込められている。
さらにいえばその呼称は本名と、彼自身にとって姉代わりであるという意味合いも含めているのだから実に似合った呼び名であろうとは思う。
要は似合っていればいいんだ。
と、士郎は自分に言い聞かせる。
そして、声をかけた。
「なあ、スーパーイリヤ」
「誰がよっ!」
がーっ、と諸手を挙げて抗議してくる。
「いや、だってスーパーだから。靴箱とか投げるし」
「わけわかんないわよっ! レディに向かってスーパーだなんて。戦闘民族じゃあるまいしっ! 魔術で筋力強化して投げただけじゃない!」
本人は真剣に怒っているつもりなのだろう。
が、無視して続けた。
「その右手は?」
「決まってるでしょ、シロウ」
言って、こちらを見る。
気がつけばイリヤは右掌だけを倒れたギルガメッシュに向けていた。
その構えに覚えがあるというわけでもないが――士郎は唐突に思い出していた。
イリヤとギルガメッシュの間に面識がないわけではない。
二ヶ月前、聖杯戦争において一度顔をあわせている。
キャスターの襲撃の折、月夜にあったほんの一瞬の邂逅。
黄金の鎧を着た王は自ら以外の全てを睥睨し、その視線が銀の少女と交わったのはほんの一瞬だったはずだ。
射殺すような視線と、敵意に殺意を塗り重ねた瞳。
それに相対して、彼女がとった行動は――
「まさか……」
冷や汗が流れる。
イリヤの掌が蒼白い靄のようなものに包まれ始めた。
それは瞬時に収束し、色をなくす。凛のガンド撃ちによく似た挙動。
攻撃魔術の発動。
「やめろっ!」
士郎は飛び出していた。わずか数歩の距離を一足飛びで縮め、イリヤの腕を取る。
瞬間、掴んだ腕が爆ぜた。
「がっ……!」
思わず悲鳴を上げようとして、喉の奥まで出掛かったそれを噛み潰した。
腕を吹き飛ばしたのは、衝撃波としか言いようのない力の塊だった。
不可視のそれは、おそらくは狙いをはずして門の脇の壁を穿ち、着弾地点を中心にして土壁が盛大に崩れ落ちる。
右腕から数瞬遅れで這い上がってきた激痛を全て奥歯に追いやって、士郎は崩れかかった身体を立て直した。
「シロウ……なんで?」
震える声でイリヤが聞いてくる。
痛みでにじんだ視界でははっきりと見えないが、どうやら怒っているのではないらしい。
どちらかと言えば哀願してくるような、弱々しい声だった。
「なんで……じゃない! イリヤこそ何するつもりだったんだ!?」
「決まってるじゃない。そいつを殺すのよ」
痛む腕よりも、平然とそう言ってくる少女に対して頭に血が上るのを感じる。
「殺すって……お前、何考えてるんだっ」
「シロウこそ何なごんでるのよ!? そいつが誰だかわからないの!?」
「わかってるよ。ギルガメッシュだろう。俺が言いたいのはそんなことじゃない」
「わかってるんならどいてよ! 今のうちに殺しておかないと――」
ぱぁん!
と。
血だらけの手でイリヤを打ってはじめて、士郎は自分の腕がまだかろうじてではあるがつながっていることを知った。
わざわざ傷だらけの腕で殴ることもなかったろうが、無事な左腕でやれば加減を忘れていたかもしれない。
「イリヤ。やめるんだ」
返り血に塗れた頬を押さえ呆然とするイリヤに向かって、士郎は同じ目線になるまで腰を落として言った。
じっと目を見る。
「俺が今殴ったわけ、わかるな?」
「シロウ……わたし……」
ルビー色の瞳が不安げにこちらを覗いている。
一瞬、生まれかけた憐憫と義務感とを秤にかける。答えはすぐに出た。
「イリヤは人間だ。魔術師かもしれないけど、人間だ。人間として生きていくんなら、簡単に殺すなんて言っちゃだめだ」
「でも、でもシロウ……あいつは!」
「イリヤ」
語気を強める。
有無を言わせぬほどのものではないが、こちらが本気であることがわかればいい。
「ごめんなさい……」
うつむきながら、一言だけイリヤがこぼした。
「わかればいいんだ。さ、家に戻ろう。俺の腕も手当てしたいしな」
「うん……」
「待て」
イリヤの肩に手を回し歩き始めたところで背後から声が上がった。
忘れていたわけではないが、忘れたかったことでもある。
が、結局は忘れることはできても無視することはできない。
「…………」
士郎はゆっくりと振り返った。
仰向けにひっくり返って目を回していたギルガメッシュが、いつの間にか起き上がって士郎の目の前まで来ている。
額をこすりつつ、不平の声を漏らす。
「むう。何故かいきなり巨大な靴箱の直撃を食らったかのような理不尽な痛みが」
「ような、じゃなくてまんまなんだが……」
「そんなはずはあるまい。靴箱は空を飛ばん。したがって我はリアルシャドーを無意識に行っていたという説を採りたいのだがどうか」
なにやら大げさに驚いているギルガメッシュに、士郎は嘆息しながら答えた。
「いや、好きにしてくれていいんだが……お前、そんなキャラだったっけ?」
頭を抱えながら半眼で睨むように、というのはやってみれば意外に面倒なしぐさではあった。
ギルガメッシュはつぶやくように言ったそれを耳ざとく聞きつけたようで、
「うむ。それについても色々とあってな。とりあえず――」
どたどたと、ギルガメッシュの言葉を遮るように家の中から足音が聞こえてきた。
小刻みに、しかし力強いそれは徐々に近づいてくる。
程なく、足音の主が姿を現した。
「先輩? なんかすごい音が――ど、どうしたんですかその腕!?」
そんな声はまるで耳に入っていないような口調で、ギルガメッシュは続ける。
「当面の用事はこれだ」
言って、無造作に――どこからか――取り出した刀を、
とす
「え?」
玄関から出てきた桜の心臓に突き立てた。
第二幕:終
幸せは去ったあとに光を放つ。
byイギリスの諺
彼女が始めて笑ったのはいつのことだったか。そんなことを考える。
思えば、出会ってすぐの彼女の顔にはどこか無理をした表情しか見なかったように思う。
何かを溜め込んでいるような、それを表に出したいのにそのやり方を知らないような。
重苦しい何かと必死で戦っている。そんな顔だった。
人生是戦い、などと気取るつもりもなく――しかし、自らは常に戦っている自覚はあった――、そうでなくても彼女が時折見せる、暗い陰のようなそれは見る者の心を締め付けた。
庇護欲と呼んでよかったかもしれない。
打ち捨てられた小動物に抱くのと大差ないその感情はしかし、やがて自分の中でより高次な何かへと変質していった。
なにか劇的な切っ掛けがあって、というわけではない。
時間が一瞬という点のつながりでできる線であるなら、その線こそが切っ掛けであっただろうとは思う。
何にせよ、自らの生活に入り込んできたその小動物のような赤の他人は、ほんの一年半の年月を経て家族となった。
取るに足らない日常を共に過ごすことだけがそれを成したと考えるのは、まだ自分が幼かったからで――今でも幼いからだろう。
その日常の中で彼女が笑った日は、未だに思い出せない。
もう随分と前になるのか、それともほんのつい最近なのか。
わかったところでどうということもない。
ただ、彼女の顔を思い出すとき、以前のような陰鬱な表情はなく、その笑顔だけが脳裏に閃くように通り過ぎるということだけは自覚していた。
くすんだ面が無数の笑顔で上書きされる。それで過去をなかったことになどできまいが、それでも積み重ねていけばかなうのだと、信じた。
古ぼけた屋敷。傷だらけの梁。くすんだガラス窓。土蔵に転がったがらくた。年季の入った箪笥。居間に鎮座する食卓。使い慣れた包丁。擦り切れそうな畳。隅だけ汚れた洗面所の鏡。
そんなありふれた景色の中にいつのまにかその笑顔は入り込んでいて、それを心地いいと思ったことはあまりなかったと思う。
なぜなら、ありふれたそれはありふれた光景に紛れ込み、その意味を一段、高次のものへと昇華させたから。
ありふれた光景の中に溶け込んだそれは、楔となってこの家に穿たれていた。
その笑顔が消えれば、この家は死ぬ。
そんな「不可欠な」ありふれたものとして、それは存在していた。
そして。
――自覚はしていなかったが。
失ってはならないものは、失った時に初めてその価値を認識する。
旅は道連れ〜ギル様悠々衛宮家奇行〜
第三幕「王様、かく語る」
無音の世界。
飄々と吹く風があれば話も違っただろうが、それすらもない。
わずかな衣擦れと耳鳴りのような雑音が地平のかなたへと消えていく。
閃きは信じがたいほどに眩く、朝の蒼白い光さえも比して陰に見せるほどだった。
眩暈さえおこしそうな一条の輝き。
脳がそれを理解したくなかったのか、その正体を最期まで――最期、まで――理解することはできなかった。
金髪の男が取り出したそれは、無音のまま翻り、そのまま男の目の前の空間に吸い込まれていく。
殺気も敵意もない、当たり前のような動作。
食卓のパンをむしるような気軽さで突き出されたそれの動きが止まるまで、士郎の目は呆けたようにそれを追うしかできなかった。
そしてそれが動きを止めたとき。
聴覚が復活した。自らの怒声を聞くためだったのかもしれない。
「テメェ――――ッ!!」
聴覚が戻ったのは一瞬だった。すぐまた無音の世界に引き戻される。
世界が収縮し、鮮血にも似た深紅に塗りつぶされる。
赤い視界の中で、やけにゆっくりとした時が流れていくのを感じた。
距離にして数歩。踏み出せば一足で飛び越えられる空間を、士郎の足はなぜかもどかしいほどの遅さで進んでいる。
フィルターのかかったような網膜を通して、目の前の男が見える。ギルガメッシュ。
手に持った片刃の剣。その先端が突き刺さっている。深々と。桜の胸に。
■■だ。そう思った。
まだ届かない。
気が狂うような速度の中で、拳を握ることだけは容易にできた。
容器に押し込められた挽肉のように、体中の筋肉がギチギチといやな音を立てているのがわかる。
肉と骨を握りつぶさんばかりに作られた拳が、肩を支点に弓のように引き絞られる。
背後でイリヤがなにか叫んでいるようだった。
聞こえないが、それはわかる。
無視して足を踏み出す。あと一歩。
見れば、ギルガメッシュは驚いたような顔をしてこちらを見ていた。刀を持っていない方の手で――こちらの動きを制するつもりなのか――掌をこちらに向けようとしている。
止まれない。
目の前のそれが、宝具を打ち出す合図だったとしても――
こちらの拳が早く届く、という目算があったわけではない。
ただ、結果だけを強烈にイメージする。この拳を届かせる。
後はそのときに考えればいい。
と。
「後ろだ」
不意にギルガメッシュの声が響いた。
どんっ!
振り返る暇もあらばこそ――士郎は強烈な爆音を聞いて、吹き飛ばされた。
(え……?)
驚愕は一瞬。そして疑念は数秒。
その数秒の間に、士郎は身体ごと地面に投げ出されていた。
荷物よろしくごろごろと転がっていくのを体中の筋肉を突っ張ってこらえながら、起き上がる。
――起き上がろうとした。
四肢に力が入らない。
「な……イリ、ヤ…………?」
顔の半分を地面にこすり付けた姿勢のまま、傾いだ視界に両腕を突き出したイリヤの姿があった。
魔術で攻撃されたのは明らかだった。
後頭部に鈍痛がある。頭の奥で徐々に大きくなる痛みと反比例するように意識がどんどん遠くなっていく。
「シロウ、動かないで。取り返しがつかなくなるわよ」
「ほう」
その言葉に反応したのはギルガメッシュだった。
「アインツベルンの聖杯よ。貴様は中々に分別があるようだな」
「イリヤよ。なんとなくだけどね……わかるのよ、それ。あなたがやらなくても、いずれ私かリンがやらなきゃいけないことだったし……まあ、あなたが代わってくれるならいいわ。私たちよりはずっと上手くできそうだしね」
「ふん。別に貴様ら雑種どものためにやっているわけではない。我には我の考えがあってのことだ。勘違いするなよ」
「わかってるわよ。別にあなたを信頼したわけじゃないわ。でも、信用はしてあげる。さ、早いとこ殺してくれる?」
「な…………っ!」
物騒な台詞に、ぼやけかかった意識が一瞬だけ鋭さを取り戻す。
動かない手足をどうにか動かそうとしながら、しかし視線だけで目の前のイリヤとギルガメッシュをにらみつけた。
心臓に刃をつきたてられた桜は身じろぎすらしない。ただ恐怖に身をすくませているようにも見えた。
「殺す……って、そんなこと…………っ!」
「シロウ、黙ってて」
「そうだぞ、雑種。まあ見ていろ、すぐに済む。コレを殺し終えたらゆっくりと土産話でも聞かせてやろう」
「待っ―――――」
ひゅ、と刃が翻る。
白刃というにはあまりにも純白で光そのものにさえ見えたその刃は、出現したときとは違いその鋭い風切り音を残して引き抜かれた。
二閃、三閃と、一瞬を置くごとに白刃が格子状の光跡を残したが、それが何を刻んで行ったのかは見えなかった。
刃が桜の胸から引き抜かれた瞬間に、士郎は自らの意識を手放していた。
/
「で、結局どういうことなんだ?」
あからさまに不機嫌な顔をして士郎は聞いた。
眉間に必要以上に力が入っているのがわかる。
口元は微妙につりあがっているようだったが、はたかれ見れば今にも怒号を吐きそうな笑顔、という風にでも写っただろう。
実際、こちらを見るイリヤの顔は引きつっていた。
「あ、あのね、シロウ……」
「飯の最中に騒ぐな。みっともないぞ雑種」
と、抑揚のない声が聞こえる。
衛宮家の居間。見慣れた風景にあるたった一つの異物。
英雄王ギルガメッシュ。
なぜか堂々と正座などして、目の前に並べられた朝食に箸をのばしている。
「落ち着けだって? これが落ち着いていられるかよ!?」
悲鳴じみた声。
……だが、結局それだけだった。
卓を叩くことも、それ以上言い募ることもできない。
つまりはそこまで。そこまでが自分にできる限界ということだ。
ただわめきたてるだけが。
「…………ふん」
浮かせかけた腰を落ち着ける。
さほど大きなものでもないテーブルを前にして士郎は胡坐をかいていた。
その右脇にはイリヤ、正面にはギルガメッシュがいる。
そして桜が、そのギルガメッシュの隣に座っていた。
なぜか甲斐甲斐しく空になった茶碗におかわりをよそったりしている。
その笑顔が自分やその家族に向けられるのと何ら遜色のない喜色をたたえていることに対して苛立ちがないといえば嘘になるだろう。
(なんなんだ……)
三人の視線の中で頭を抱えるわけにもいかず、士郎はぐったりと胸中でつぶやいた。
悪い夢でも見ていたのだろう――そう片付けるには現実的過ぎた記憶だった。
目の前の金髪の男は、確かに桜を殺した。完膚なきまでに。
心臓を刃で貫いたのだ。たとえそれが爪楊枝だったとしても、心臓を貫かれたなら即死する。人間はそういう風にできている。
しかし現実に、桜は目の前で普段どおりに甲斐甲斐しく家事にいそしみ、その表情に翳りは見られない。
むしろ普段よりも溌剌(はつらつ)としていると言ってもいいだろう。
そして、その桜を殺したはずの本人は目の前で、平然と食事を貪っている。
妙に礼儀正しく、しかも箸の使い方もよどみないことが逆に士郎の神経を逆なでする。
「ふむ。馳走であった」
「お粗末様です」
「…………」
まるで自分が毎日繰り返しているサイクルを他人の目で見ているような錯覚。
桜はいつも通りに食器を下げ、流しに入れてから居間に戻ってくる。そのままギルガメッシュの隣に腰を下ろした。
あまりにも普段通りな光景。不意の闖入者があろうとも、それだけは変わらない不変の世界のように思える。
そこにいるはずの自分がなにやら不機嫌顔で、外様であるはずの男が自分以上にその光景に馴染んでいるという不可思議を除けば、そこはまるで理想どおりの場所ではあった。
奇妙だが可笑しくもあるその様子を見て、士郎は嘆息した。
ばかばかしくなって、肩から力が抜ける。
「で、説明はしてくれるんだろうな?」
「せっかちな奴だな」
「せっかちで結構。こっちはわけわかんなくてショート寸前なんだ。いきなり押しかけてきて何をやるかと思えば、桜を殺して――ああ、殺したんだ。俺ははっきりと見た。お前は剣で桜の心臓を――」
言葉は途中で遮られた。
文字通り、物体で声が遮断されるように。
「…………っ」
「これか」
面白くもなさそうにギルガメッシュが言う。
士郎の鼻先に突きつけた白刃をすっと引いて、テーブルの上に置いた。
「驚くほどのからくりというわけではない。そこのアインツベルン……イリヤとか言ったか。貴様ならわかっていよう?」
「そうね。初めてそれを見たときから、大体の見当はついてるわ。その銘も、わかる……と思う」
「…………?」
「それ、宝具よ」
「へえ、そうなんですか」
ぽつりとつぶやいたのは桜だった。
と。
「え?」
「何間抜けな声出してんのよ、シロウ」
「いや、でも……桜? 桜がなんで宝具なんて知って――」
「それはそうだろうよ。その娘も魔術師だからな」
言ってきたのはギルガメッシュだった。
「桜が魔術師だって?」
「うむ。それは間違いなかろう。なあ、イリヤよ?」
「気安いわね。まあいいけど。……そうね。シロウが鈍感だから気づかなかったって言うより、サクラが隠してたからわからなかったんでしょ。実際私もすぐには気づかなかったしね。まあ……」
「特に大した問題でもない」
と、ギルガメッシュが割り込む。
途中で話を切られたイリヤは不満げに唇を尖らすが、金色の男はかまわず続けた。
「話すべきことがあればそこの女が自分から話すだろうしな」
「む。誰もお前に教えてくれなんて言ってないだろ。後で桜に聞くさ」
「そうしろ。我も一々解説する気にはならん。さっきのことにしろ、別に恩を売ったつもりではないのでな」
言って、朝食の変わりに卓におかれた煎餅に手を伸ばす。
ばりばりと音を立てて食べる様子が、なぜか以外にさまになっていた。
「そうだ。桜のことは置いておくにしても……ギルガメッシュ。さっきお前、何をやったんだ? 俺が見たものが幻だったっていうんでもない限り、今こうして桜がぴんぴんしてることの説明がつかないんだが」
「ああ。ようやく本題か」
言って、刀を持ち上げる。
磨かれた鏡よりもなお鮮明に風景を映す刀身が士郎の目をひきつけた。
「あまり刀身を見すぎるなよ。対魔力の極端に弱い貴様なら刀に魅入られかねん」
「刀に……魅入られる?」
「ああ。これは呪いの刀だ。刀身に込められた魔力であらゆるものを切断することができる」
「アヌビス神の呪い刀って、聞いたことない、シロウ?」
「いや、そういうのはあんまり……」
聞いてくるイリヤには首をひねって返すしかなかった。
「簡単に言うとだな。この刀は刀身そのものでなく、刀身が纏う魔力で斬るという代物なのだ。切断の瞬間、刀身は空間を捻じ曲げて目標にいたるまでのあらゆる物質的障害を無視する。バナナの中身だけを切断することも可能なわけだ。後世ではエジプトに渡り、冥界の神アヌビスの呪いといわれたそうだがな」
その呪いの由縁となったのが、刀身のあまりの美しさと切れ味に我を忘れ、持ち主は全て狂戦士となり殺戮の限りをつくしてしまう、という伝承のせいらしい。
たかが刀一本が放つ魔力に人間の精神を狂わせるほどの力があるかどうかは疑わしかったが、それが宝具であるというのなら話は別だ。
『王の財宝(ゲートオブバビロン)』――
古今のあらゆる宝具の原典となる武器を持つという英雄王・ギルガメッシュの所有物。
それだけでいわくとしても十分ではある。
「つまりその刀で斬ったのは、桜自身じゃなかったっていうんだな? だったら何を――」
「蟲だ」
「虫? 虫ってあの、ブンブン飛んだりもぞもぞ這ったりするやつか?」
「違うわよシロウ。蟲。つまり……タチの悪い呪いだったの。それがずっとサクラの中にいて――ギルガメッシュがそれを殺してくれたってわけ」
ちら、とギルガメッシュを見る。
「そうなのか、桜?」
問うと、桜は静かに頷いた。
ふう、と息が抜ける。
「つまり――お前は桜を助けてくれたってことか」
「シロウが邪魔しようとするから、失敗するところだったんだけどね」
どうやらあの魔術攻撃は、こちらの動きを止めることが目的だったらしい。
確かに、あのままギルガメッシュの刀を奪っていたら確実にその呪いだかなんだか以外を傷つけていただろう。
所在なげに後頭部を掻く。
「まあ、そうなるな。結果としては、だが」
ギルガメッシュが煎餅に手を伸ばす。気がつけばもう五枚目だ。
「? 妙な言い回しをするな」
「その娘を助けるためだけに我がわざわざこんなところまで足を運ぶとでも思っているなら、貴様は二ヶ月前のことをまるで覚えてないということになるな。我は我のためにしか動かん。今回も、別に貴様らを助けたわけではない」
ギルガメッシュがにやり、と唇を歪ませる。
一見ひきつっているように見えなくもないその表情が笑みであることに気づいたのは、ギルガメッシュが言葉を接いだ時だった。
「助けたわけではないし、恩を売ったわけでもないのだが――まあ、結果的にそうなってしまったことは間違いないわけだな。しかもおあつらえ向きに、ここにいるのは全員魔術師ときている」
「何が言いたい。ギルガメッシュ」
「何、簡単なことだ。魔術師の基本は等価交換、だったな? ならば我に助けられた分、貴様らも我に手を貸せということだ」
「…………。何に」
慎重に聞く。
脳裏にちらちらと見え隠れする違和感があった。
特に何と特定できないものだが、予測とも予感とも違う。
こめかみに紙片が引っかかる程度の違和感。感触。
そんなものに気を取られている間に、ギルガメッシュは早々と次の言葉を接ごうと唇を開くところだった。
に、と。
ギルガメッシュの顔の笑みが深まる。
意図してのことか。彼は全員、と言っておきながら――
(俺しか見ていない……?)
その視線によって生まれた逡巡。その隙をこじ開けるように、男の言葉は届いた。
「この国で――」
一拍。
「セイバーが復活する。それに手を貸せ」
音も立てずに、世界は凍りついた。
第三幕:終
問題なのは人生ではなく、人生に対する勇気だ。
byサー・ヒュー・ウォルポール
キン――
金属音が聞こえる。
甲高い――鋭い――軋むような――苛むような――
キン、キン――
剣戟が聞こえる。
遠雷のように小さく、しかしそれが刃同士の削りあう音だということだけははっきりとわかる。
(聞こえる……)
祈るような声音で、呟く。
誰にも届いてはいないだろうが。
キン――!
(誰の……)
耳慣れた音ではあった。
剣戟はむしろ歌うように、鳴り響く間隔を保っている。
かつて傍らにあった、懐かしい音。
だがそれは、例えば故郷に吹く風のようにやさしくはない。
身を削り、魂を砕く。断罪の声。評決の宣告。
目の前には何もない。黒か白かもわからない場所。
同様に、自分の身体も浮いているのかそれとも埋まっているのかもわからない。
立っているのか、寝ているのかも。
五感が全て奪われているというわけではないらしい。耳だけは、遠くに聞こえるあの剣戟を聞いている。
肌を裂くような氷風を思わせる、刹那の激突。
それは徐々に大きくなってきているようだった。
ふと思い出す。おぼろげな、磨耗した記憶でありながらそれは確かな手ごたえを持ってよみがえろうとしていた。
何が。
誰が。
どこから。
自分を。
(呼ぶのは……誰だ!?)
ぐらり、と――
旅は道連れ〜ギル様悠々衛宮家奇行〜
第四幕「王様、説明する」
ぐらり、と――
その言葉がもたらした眩暈に視界がかすんだのは、そう長い時間ではなかったらしい。
数瞬後には、かすんだ視界も凍った聴覚も戻っていた。
焦熱の熱波を受けたような、極寒の冷気を受けたような感覚。
脳裏を一瞬、蹂躙したそれが熱かったのか冷たかったのか、それすらもわからないままに我を忘れたらしい。
肌が粟立つような感覚を覚えながら、とりあえず戻った視界を確認する。
金髪の男、ギルガメッシュ。
胡坐をかいた姿勢のまま、テーブルの向こうからじっとこちらを見ている。
もともと180を越す長身の彼は、ただ座っているだけでも威圧感のある高さを感じさせるが、今また目の前で、ぴんと張り詰めたような姿勢を見せていると余計に際立って見えた。
黄金の神像を思わせる居住まいである。
「どういうこと?」
険しい声が聞こえてくる。イリヤだった。
少女はほとんど表情を変えることなく――しかし瞼をやや下げて半眼になりながら言った。
「セイバーは……」
「帰ったな。聖杯が壊れたのだ。サーヴァントが現界していられる道理はない」
我以外はな、とギルガメッシュが即答する。
口元は引き絞ったまま、目尻だけを面白そうにゆがめながらこちらを見ている。
何かを促すような瞳。
それに誘われたというわけではなかったが、士郎は無意識に言葉を紡いでいた。
「サーヴァントが現界する絶対条件は二つ。聖杯という楔と、その聖杯とサーヴァントを魔力で繋ぐ媒介の役目を果たすマスター。この二つだ」
「マスターがいなくとも、単独行動のスキルを持つアーチャーやライダーならば数日ほどは現界できような。単独行動のスキルがなくとも、蓄えた魔力に余分があるなら、他のサーヴァントでも三日ほどなら永らえよう。しかしその例外が通用するのはマスターの不在という一点に尽きる。サーヴァントを現界させる大元である聖杯がなくなれば、いかなアーチャー、ライダーとて即座に消えうせるだろうよ。単独行動のスキルのないセイバーならなおのことだ」
「それにセイバーは……俺の目の前で消えた。自分の時代に帰って……帰ったはずだ」
かすれた声で言い直す。
目の前で消えていった少女。永遠に失われた――
未練も躊躇もすべてかなぐり捨てたはずのその別れが閃光のように一瞬、脳裏をかすめた。
「だから、もうセイバーは現れない。ついで言うと、聖杯は叩き壊したんだからどの英霊だろうがもう聖杯戦争なんて馬鹿げた殺し合いに――」
「どこの誰だろうが、いつの人間だろうが」
ギルガメッシュがすっと目を細める。
それに伴って、心持肩も下がる。
「それが有用であるならいずれ誰かに召喚はされる。聖杯に限らず、その手の魔術儀式は各地にあるからな。それに――貴様、まさか聖杯があの程度のことで無くなったなどと、本気で考えているわけではないだろうな?」
「……なんだと?」
「よく考えてみろ。あれの本質とはなんだ? 聖杯戦争と名のついた大掛かりな――しかも回りくどい儀礼術式を用いてようやく完成する聖杯とは何か、考えたことがあるか?」
「それは……」
思わず口ごもる。
が、ギルガメッシュはお構いなしという風に続けた。
「アインツベルンがかつて召喚せんとしたものは確かに聖杯の中身を汚染した。だがそれはあれの中身の質を変えたにすぎん。水を入れたグラスに墨を垂らしたからと言って、グラスが変わるか? 水をこぼせばグラスは消えるのか? そうではないだろう。水は依然水のままあり、器も然りだ」
「つまり、俺が……俺と彼女がやったことは、ただ水こぼしただけだと言いたいのか?」
自然と声が険しくなっていくのがわかる。
が、ギルガメッシュは動じるどころか、さらに皮肉めいた笑みを深めて言ってきた。
「まるっきりそうとも言い切れんがな。悔しいが、セイバーの宝具の力は絶大だ。あの一撃を受けては聖杯もただでは済むまい。穢れた毒は押し戻され、同時に器となる土地と霊脈も無傷とはいかんだろう。結果だけを言うなら、後数十年はこの地で聖杯を呼ぶことなどかなうまい。貴様らの望んだ通りにな」
「……何か言いたそうだな」
「聡いな。さすがは聖杯戦争の勝利者」
「…………」
「結局のところ、聖杯は消えた。だが、残ったものもあったのだ。その一つが、我だ」
と、親指で自らの胸を指す。
ギルガメッシュの刃のように細まった紅い瞳が、まっすぐにこちらを射抜いている。
ギルガメッシュは、自らを示したまま続けた。
「我は十年前に聖杯の泥をかぶった。それは言ったな?」
「ああ。そして二ヶ月前、お前はセイバーにその泥を飲ませようとしたんだろう」
皮肉というよりはほとんど毒のような言葉ではあった。
が、無視して続けてくる。
「結果、我は受肉した。元々多くのサーヴァントの望みは第二の人生を歩むこと――厳密に言えば、生前の未練を成し遂げるチャンスを得ることだがな。そのためか、あの泥の『中身』がそういうものなのかは知らんが、聖杯の力は受肉というものに非常に効果的な性質を持っている。故に、十年前に受肉した我はサーヴァントという霊的な存在ではなくなったわけだ」
「そういう、ことか……」
受肉。つまりは半霊的存在であるサーヴァントが、肉体を持った生命として変質したということである。
基本的に、霊的要素を本質とする存在は物質界への影響をほとんど持たない。
低級な動物霊や人工精霊などなら、精神と物質の仲立ちをする力――すなわち魔力を媒介にすることによって一時的にではあるが物質への影響力を得ることができる。
だが、それが意思を持つ人間の魂であるならそうやすやすとは行かない。
ましてや英霊などといった、既に神格すら備えかねない膨大なキャパシティを持つ魂を戦闘行動すら可能なレベルにまで物質的干渉力を高めるとなると、莫大な時間と緻密遠大な術式、そして膨大な魔力が必要となる。
実際、士郎が聖杯戦争で目にしたサーヴァントの力というものは、まさに超人のそれだった。
あまりにも冗談じみた力。
地は裂け、海は割れ、山が砕ける。
荒唐無稽を絵に描いたような破壊を鼻歌交じりにやってのける。それがサーヴァント。
それほどの英霊を七対も一度に召喚し、維持し続けるとなれば、それこそ奇跡にでもすがるしかあるまい。
だが、仮にその奇跡とも呼べる魔力と技術があったなら。
その具現が聖杯戦争だった。
聖杯という楔のもと、霊体であるサーヴァントは肉を持った存在となる。
ならば受肉という現象は、つまり――
「受肉したサーヴァントは聖杯から切り離される――」
確信はなかった。
だが、そう考えれば辻褄は合う。それに何より――目の前の男の目は肯定の色を示していた。
「明察だ。肉を持ったサーヴァントはもはや霊体ではない。完全な生命として存在する。この点は、腐っても聖杯といったところだろうな。まあ、とはいえ受肉したからとて能力が落ちることも上がることもない。魂が蓄えられる魔力の限界値は変わらんからな。存在し続けるだけならば魔力はさほど必要なく、逆にサーヴァントであった時のように自在に霊体になれん所が不便であるとは言えるが」
「お前がここにいるのも、そういう理由か」
「そうだ。セイバーは我を倒しはしたが、殺しはしなかった……もっとも、致命傷に近い傷は与えてくれたがな。苦労したぞ。聖杯が破壊され、傷を癒すにもただ魔力があればいいというわけではない。人間よりも治癒が早いのはよいが、それでも一月は寝たきりだった」
「…………」
逃げたのだろう、と士郎はふんだ。
セイバーが、敵を倒しきったのか見届ける前に戦いをやめるはずはなかった。
となれば、決着はつけられなかったのだ。
おそらく、宝具の力でサーヴァントが消えていくようにでも見せたのだろう。
口には出さなかったが。
出したところで、英雄王を自称するこの男は決して認めはしないだろう。
「つまり……」
が、押し黙った士郎の代わりに口を開いたのはイリヤだった。
なにやら目を細め目じりを上げ、唇は奇妙にゆがんで――つまり、あからさまに面白がるような邪悪な微笑で、告げる。
「逃げたんでしょ」
びしり、とギルガメッシュの表情にひびが入る。比喩ではなく乾いた音でも聞こえてきそうなほどに。
なにやらパクパクと金魚のように口を開け閉めしているギルガメッシュをよそに、イリヤは続けた。
「おかしいと思ったのよね。さっきから偉そうに聖杯がどうとか言ってるけど、要するにセイバーに負けて逃げ帰ったおかげで消えなかったっていうだけじゃない」
「いや、あの……」
「なーにが英雄王よ。威張るだけ威張っといて、結局負けたらだらしなく逃げ帰るんじゃない。これならバーサーカーの方がよっぽど強かったわ。何せあなたを倒したセイバーを何度もピンチに追いやったんだから。そういえばギルガメッシュが最後まで残ってたのって、サーヴァントがあらかた減ってから出てきたからよね――」
「その、な……いや、それは言峰がだな」
なにやら言い訳じみたことを言おうとはしているようだった。
正当な抗議は正当な説得力を持つ。それは確かだろうと士郎は思った。
ただ、それを言うギルガメッシュの顔が際限なく冷や汗を張り付かせていなければ。
イリヤは徐々に顔をひきつらせていくギルガメッシュなどもはや見ようともせずに、演説でも打つようにまくし立てていた。
「――は。人類最古の英雄王、ねえ? 本当に強いの? 宝具なかったらただのもやしっ子じゃない」
「待て、それは……」
「なによ、負け犬」
がしゃん、と。そんな音がしたような気がした。
今度こそ完全に、ギルガメッシュの怜悧な容貌が崩れ去る。
酷薄な笑みを浮かべていた顔面の筋肉が、なにやら奇天烈に歪み、服笑いの出来損ないのような形になっていた。
怒っているようにも見えるし、笑っているようにも見える。
こうした表情については、士郎は概ね理解することはできた。
これがどういう表情かといえば説明する自信もある。
なぜなら、多分自分も似たような表情をしたことがあるからだった。
つまりは、「あかいあくま」に対峙した時のような表情を。
(ギルガメッシュが泣きそうな表情をしている……)
それはそれで貴重といえば貴重だったが、話が進まないので助け舟を出すことにした。
「イリヤ、言いたいことはわかったから落ち着け。ギルガメッシュ、お前もだ。さっきからわけのわからんことばっかりいいやがって――いや、お前がなんでここにいるのかはわかったが」
「わかればいいではないか」
「まあ、要するにみじめったらしく逃げ帰ったから命だけは助かったんだろ」
かろうじて見れる顔に戻ったギルガメッシュが士郎の一言で再び歪む。
今度はなにやら顔面の筋肉がつったのか、ぐぎぎ、などと奇妙なうなり声を上げ始めたが。
「で、結局何が言いたいんだ。桜を助けてくれたことには礼を言うけど、セイバーの復活なんていう言葉の説明がまだだろ。協力しろとか言ってたけど」
「う、うむ。そうだな。我としたことが、心無い言葉の一刺しでうかつにも我を忘れてしまったようだ。不用意な一言というのは殊の外、心をえぐるものだな」
「いや、それはどうでもいいんだが」
半眼になってうめくように言う。
が、ギルガメッシュは無視して再度――何とか――持ち直した顔面を整えてこちらに向き直った。
冷や汗が実際に出ていたのだろう、額を袖でこすってから士郎を見る。
「では、本題に入るとしようか――」
「えらく遠回りだったなおい」
「シャラップ。黙れ雑種。真面目に話しているのだ」
じろりとにらまれて士郎は文字通り口をつぐんだ。
「二ヶ月前セイバーに勝ちを譲った我だが」
「だから、逃げたんだろう」
「勝ちを譲った我だが! ……先にも言ったように、深い傷を負った。受肉したサーヴァントは人間よりも高い霊格と強靭な肉体を持つ……サーヴァントとして存在していた頃と変わらぬ強さでな。だが、存在し続けるのに魔力が必要というわけでもない。傷を負い魔力が減退したところで消え去るわけではないということだな。もっとも、セイバーに負わされた傷は生半可なものではなく、サーヴァントの治癒力をもってしても、完治までに一ヶ月の時を必要としたがな」
調子を取り戻したのか、淡々とした口調でギルガメッシュは語りだした。
イリヤも、その場に座りなおして黙ってそれを聞いている。
桜は元よりじっと押し黙ってこちらの会話に聞き入っていた。
時間はとうに弓道部の朝錬の時間だったのだが、切り出すチャンスでも逃したのか、それとも最後まで聞く義務でもあると思ったのか、立ち上がろうともしない。
話が進むのはありがたかったが、その行き着く先がどこなのか……それがわからなかった。
いや、わかってはいる。
『セイバーの復活』
先ほどギルガメッシュ本人が言ったこれこそが、彼の目的であることは明らかだろう。
しかし、どうやって?
そもそも、なぜセイバーは復活するのか。
そしてなぜそれをギルガメッシュが知っているのか。
セイバーの復活。アーサー王の復活……
「傷が癒えて後、我はブリテンに向かった」
ギルガメッシュは可能な限り抑揚をなくした声で言ってくる。
「暇だったのでな。まあ、それでも行くべきところには行った。ウィンチェスター、ティンタジェル、カムロン……」
「…………」
それらの地名に覚えがあるわけでもなかったが、士郎は何か胸がざわつくのを感じた。
ギルガメッシュの言おうとしていることが、わかる。
しかしそれを先んじるにはまだ彼には何かが足りなかった。
「ウィンチェスター、ティンタジェル、カムロン……」
ギルガメッシュの言葉をなぞるように、イリヤが繰り返す。
吟じるようなその声は、しかし止まらずに次の言葉を紡ぎだした。
「そしてグラストンベリ、かしら?」
「ふん。聡いな」
「バカにしないでよ。全部アーサー王縁の地じゃない」
心臓が高鳴る。
無理やり搾り取られるような勢いで、血流の速度が倍化していくのを感じる。
声が、出ない。
「セイバーの……アーサー王の伝説は知っているだろう。最後の戦の後、王は湖に剣を返還し、眠りにつく。《全て遠き理想郷》にて傷を癒し、いずれ来る復活のときを待つ。最も、我の訪れた地のいずれにもその兆しはなかったがな」
と、ギルガメッシュは手元に引き寄せた湯呑みから一口すすった。
依然変わらずこちらを見ながら、金色の男はにやり、と口元を歪めた。
「いずれ復活するアーサー王。その復活の時期が今この時を軸にしてそう遠い話ではないことはわかっていた」
「なんでよ」
「王自身がそれを望むからだ」
即答する。一瞬だけイリヤに視線を向けるが、その一瞬後にはすぐにこちらに瞳を向けてくる。
最初からこの英雄王は、衛宮士郎たった一人に話しかけている――
「英霊にならず、人の身のままで眠りについたアーサー王は、抑止力として遣わされるような存在にはなりえん。ならば復活の条件とは、王の傷が癒えきった時か――王が甦ることを望んだ時しかあるまいよ。そして、王の伝説が語り継がれる地においてそれがなされないのなら、どこで王は復活する? アーサー王……セイバーの復活はどこで行われるのだ?」
どくん。
心臓から伝達したその衝撃が胸板を揺らすのがわかった。
傍目から見ても、そのときの自分のうろたえぶりは滑稽に映ったのだろうと思う。
滑稽であることはいい。
滑稽であることに罪はない。痛みもない。
何より――恐怖もない。
だが、それをこの男は自分に投げかけようとしている。
「王としてのセイバーは、伝説の戦いを駆け抜けることで死んだ。さてここで問題だ。セイバーのマスターよ。セイバーは、どこで復活する? 何のために復活する?」
面白がるような顔。
無邪気といえなくもない瞳に覗き込まれ、士郎は言葉を失った。
いや、最初から言葉など持ってはいなかったのだ。
未知のものに対して、人は何をすることもできない。
抗うこともおどけることも、まるで知らないものに対してはできることではないだろう。
未知に対してできることは、ただ恐怖することだけだ。そう思う。
(恐怖……怖がってる……俺が?)
自問するが、誰も答えはしない。
ただ、はっきりとわかることがあった。
それは歓喜であり、愛しさであり、しかし焦燥でもある。
様々な感情がない交ぜになって、わけのわからないまま膨れ上がっていくのがわかる。
それらは概ね未知であり、未知の呼び起こすものが恐怖であるというのなら――
この狂ったように笑い出しそうなほどの感情もまた恐怖なのだろうと、そんなことを士郎は考えていた。
「セイバーは貴様に会いに戻ってくるのだ」
ギルガメッシュの声だけが、冷えた鼓膜を貫いて脳髄まで焼いていくのがわかった。
第四幕:終