灰の剣 M:凛 傾:シリアス


メッセージ一覧

1: Theophile (2004/04/20 18:23:24)[theophile at mail.goo.ne.jp]

 灰の剣


 
 炎に包まれて、タバコはフィルターまで燃え尽きた。灰は燃え尽きない。もう燃焼を経たものだから、燃え尽きない。大きなガラスの灰皿に親指ほどの灰の山。閉め切った部屋の中をもう一つの副産物である煙が大きく弧を描いてたゆたっていた。
 
 

 
 衛宮士郎は大学を卒業して、日々アルバイトをして暮らしている。本当は仕事をする必要などなかった。養父が残した豪邸と資産は物に大した執着を持たない青年を一人、この世に生かしておくくらいなんてことはない。だから彼は無為の暮らしを送る。
 彼に関係の深い人物は今でも時々家を訪ねてくる。子供の頃姉代わりだった藤村大河は今も高校教師を続けている。三十代になっても在りし日の若さを失わない彼女だったが、近頃やはり疲労を見せることがある。元気の塊で間違っても沈むことなどなかろうと思っていた女性の、思いも掛けない生活感に彼は時々戸惑う。その原因の一端が自分であることを知っていればなおさら、複雑な胸中は重い。
 もう一人の知己、間桐桜は高校を卒業して短大に進んだ。地元の小さな女子短大でなにを学んだのか彼はしらない。ただ彼女のことだからさぞ真面目に通ったのだろうと、適当な憶測をするのみだ。藤村大河を姉とすれば、妹分ともいえる桜も、今や大学をでて大人になっていた。どこかの飲食店で働きながら家事手伝いをしているらしい。そういえば昔、はるか昔のようだがそう遠くもない昔、彼女に母性を垣間見たこともあった。ふくよかな、しかし清廉な容姿と柔らかい笑顔が促した印象。もちろん五年やそこらで人の芯は変わらないのだから、笑顔も容姿もそう変わらない。ただ、彼自身の変化だけがある。
 
 高校二年生の冬、彼は一人の少女に出会い、別れた。不完全な心像に歪な夢をつめた少年は、その冬すべてを失った。少女は彼に愛の味を教えた。一人の人間に執着することを伝え、自らも愛し、そして消えたのだ。
 聖杯戦争。冬の事件はしかるべき界隈ではそう呼ばれているらしい。人工的に作り出した受け皿に人類の血潮を流し込む。世界に齟齬をもたらすそれは願望機と呼ばれ、手にした者にすべての願いを叶えるという。受け皿は少年の姉、血潮は想い人。そして彼は受け手として状況に巻き込まれた。
 彼「の」少女は人間ではない。英霊と呼ばれる精神体である。しかし肉体からの乖離は不完全なままで、彼の目の前で剣を捧げ持つ彼女には肉体があった。その小さな金髪の少女は、滑らかな肌と深緑の瞳、輝く金髪を纏わせて立つ。初めて彼女を眼前に捉えた彼は少女を女神と取り違えそうになった。異常な状況に現れた異常な少女。彼女は少年の剣となり、少年の望みを助けてその身を振るった。死闘と呼んでもよい戦いの末に、そして彼女は消えた。青空を背負ったその身の甘さを、まだ彼の身体は覚えている。

「シロウ、貴方を愛している」

精神はこの言葉を覚えていた。いや、覚えていた、とは正確な表現ではないかもしれない。「覚えている」とは格納された記憶を指すものだからだ。彼の頭の中に、この言葉は「刻み込まれていた」。何時に食事をして何時に寝るべきか、そんな卑小な日常の一こまから、大上段に構えたいつもの理想を想うときまで、いつも声が、言葉が、かんばせが、匂いが、感触がある。手の届くところに、ではない。その言葉は彼だった。彼そのものだった。
 あのころの理想がどうなったかは知らない。少年は平凡な人間だ。だから理想は肉体に転化を始めている。否、もう変容を終えてしまったのかもしれない。"あの"甘い肉体に。
 



「聖杯戦争・・・か」

呟いた声は存外に大きく、六畳のがらんどうな和室によく響いた。懐かしい夢を見た。彼は自嘲混じりの笑みで気恥ずかしさをごまかそうとしてみる。しかし試みは失敗だ。なぜなら自分自身が、決して騙されてくれない。
「おれはまだ、求めてるのかな」
あのとき、聖杯を求めて禁忌を犯すやつばらを彼は呪った。のろい、憤った。しかし、と彼は考える。あのときの自分は、"ただ知らなかった"だけなのだ、と。この想い。燃え立ち、決して燃え尽きない。お陰で自分の心のほうが先に燃え尽きてしまった。たとえばこの、灰皿の灰のように。
 枕元の灰皿に二本の吸い差しと一握りの灰が溜まっている。いつのまにか火をつけたまま寝入ってしまったらしい。これでは一歩間違えば全焼だ。しかしこれが日常。ちょっとした火事さえ恐れる。あの冬おれは腹さえ裂かれた。しかしちっとも怖いと思わなかった。今驚くほど死を恐れている。
 なぜ恐れるのか。自らの消失を想像して背筋をさむからしめ、彼はもう一本、タバコに火をつける。甘くも苦くもない。ただ目と鼻腔を刺激する。口を窄めて一気に吸い込と口腔の粘膜に沁みる。たぶん口内炎かなにかだろう。
 なぜ恐れるのか。どんなに口内炎について考えたところで、この問はやってくる。どこからともなくやってきて、並み居る敵を蹴散らして、見事心の真ん中の、一番きれいな場所を取る。まるで彼女のようじゃないか。彼女、セイバー。
 そう士郎が恐れているのは死ではない。死という事象に付随する一つの結果。それは可能性の喪失である。セイバーと再び相まみえる可能性を失うこと、それは事実彼の死であった。なぜなら彼の中にはもう、彼女の一節しか詰まっていない。
「シロウ、貴方を愛している」

 愛は出会いによって始まり、不在によって育ち、非在によって死ぬ。
 
 セイバーは存在する。時代を超越したところに。中世のブリテン島にではない。セイバーは、"彼の心に"存在する。だから死なない。
 
 
 
 
 何度目の春かはわからないが、確かに何度目かの春だった。その日太陽は速やかに天頂を衝いて、まだ苛烈とは言い難い光線を遍く地上に降らす。衛宮邸の木々は喜びそよぎ、風を十分に梳いて母屋に流した。士郎は昨夜から続いた工場の夜勤を終えて、本格的な睡眠までの数時間、風呂上がりの身体を風に委ねていた。もうじき正午。"あのころ"はほとんど活躍することがなかったテレビに火を入れる。今では習慣になっていた。もうかなりの間、この居間は一人の客も迎えていない。
 
 だから玄関のチャイムが鳴ったとき、思いつく来客はセールス以外にはない。浄水器から宗教まで、なまじ門構えが立派なものだから、彼らはひっきりなしにやってくる。士郎には出る気がなかった。黒いスウェットのズボンに薄っぺらい白のTシャツは、実際寝間着である。平生気にもしないが、今日はなぜかこんな格好で応対する気になれない。後頭部を少し掻いて畳に寝ころぶ。横になると今度は眠気に絡め取られていく。強酸の睡魔に溶かされる。
 もう布団も敷かずこのまま寝てしまおう、そう思う彼の怠惰を破ったのはチャイムではなく、扉を叩く大きな音だった。
 ならば出てやるほかない。このささやかな親切心というやつは、彼の理想の外観を形作る殻だった。殻を破るのはなかなか大変なものだ。
 
「はいはい。今出ます」
小声とも大声ともつかない中途半端な返事を返しながら玄関に向かう。土間の向こう、すりガラスの先には女のシルエットが見えた。これは英語教材か羽毛布団の勧誘だな。今までの経験から推測してみる。また面倒なことになる。この手の女性販売員というやつは、とにかくしつこい。
 鍵を回し、引き戸を引いた。ぱっと陽光が流れ込んできて、玄関いっぱいに満ちては溢れあちこちに飛沫を飛ばす。
 
 光の奔流の奥、流れの真ん中で光波を割りながら、彼女は立っていた。
 
「久しぶりね。元気にしていた?士郎」
 
 女の顔に昔の面影を見つけた彼は少し驚いて一歩後ずさる。もちろん驚きはするものの感慨はない。確かに懐かしい。だがそれだけだ。
 
「おう。元気だぞ。おまえはどうだ?遠坂」  
 



 <続>

2: Theophile (2004/04/20 20:36:03)[theophile at mail.goo.ne.jp]


 テーブルを挟んで向こうに懐かしい姿をみとめながら、彼は所在なげにあぐらをかいていた。高校を卒業して以来一度も顔を合わせていなかった少女がいまさら何の用だろうと訝しむ気持ちもある。だがその訝しさを上回る好奇を久しぶりに士郎は感じている。
 大人になった少女はもはや少女ではない。長い髪を結った子猫の面影はどこを探しても見つけられない。肩に掛かるすれすれのところで揃えたショートカットが控えめな釣り目によく似合う。何度も彼をおののかせた薄い唇の微笑みは肉厚な、口紅の乗ったそれに変化していた。体格に違いはない。だが纏った空気に差違がある。彼女は子猫ではない。猫は猫だが、猛禽に連なる種の一員として本物の鋭さも秘めていた。
 士郎は素直に女の美を認める。あの頃から綺麗だった。そして今は美しい。背筋に鉄骨を差したように毅然と正座する姿を見ながら、彼は美術品を鑑賞しているような気分になる。こんな人とじゃれあっていたことがある、その事実が信じられない。

「見違えたな、遠坂」
「そうかしら?自分では分からないわ。無我夢中だったんだから」

 答えて凛はテーブルに両手を出す。爪の一枚一枚、丹念に塗られた薄紅のマニキュアが妙に艶めかしい光沢を放っていた。

「向こうは大変だったのか。いきなりロンドンだもんなぁ」
「右も左も知らない物ばかりだもの。英語だけはなんとかなったけど」
「でも、堂々としてたんだろ?遠坂がホームシックなんて想像もできないよ」

 失礼ね、と彼女は小さく笑って頷いた。実際士郎は凛についてあまり知らない。言葉を交わした時間は最大に見積もっても一年ほど。鮮烈な出会いと強烈な体験は確かにお互いの仲を深めたが、人一人理解するためには最低限の時間がいる。二人の進路はその時間を許してはくれなかった。
 聖杯戦争を終えて高校を卒業した後、凛はロンドンに留学した。『協会』と呼ばれる魔術師の総本山で研鑽を積むのだ、と出立前に彼女は士郎に語った。彼は、凄いな、遠坂、と笑いかけ、凛はその言葉に曖昧な頷きしか返せない。その時点で二人の道は分かたれた。計画の当初、彼女は士郎をロンドンに伴うつもりだった。セイバーを喪った士郎の心象は傍目にも分かる程に揺れていた。例えるなら嵐の前の静けさ。聖杯戦争で何人かの知人を失っていた凛にとって、士郎はなんとしても手放したくない人間の一人。彼女の個人的な欲求がそれだとすれば、彼女の立場もまた同じ要求をする。英霊の宝具を投影しうる一代限りの異能者である彼は狂おしい程の嫉妬を少女にもたらす。この先何百年生きながらえようと、士郎の踏んだ土を自分が踏むことはできない。もちろん専門が違う二人、同じ到達点にあることは不可能だ。それに彼女とて魔術師の家系、ぱっと出の士郎に完成した後の自分が劣るとは思わない。ただ彼は既に自己の到達点を見いだしている。まだ先の定まらない凛にとって、それは無視できないアドバンテージであるように思われた。いかに聡く、いかに自立しているように見えても人生経験は時間を必要とする。一七の少女が見た未来はまだ不安に満ちていた。だから士郎を伴う、という選択は押しつぶされそうな不安を和らげる為のものであったかもしれない。

「いつこっちについたんだ?」
「昨日の夜。空港からそのまま家に帰って、色々整理してここに来た、ってわけ。そういえば昨日いなかったわね。電話したのに」
「ああ。夜勤だったんだ。悪い」

 夜勤、という言葉に凛が反応する。その目は好奇を湛えて収縮していた。

「仕事、なにやってるの?もう大学は卒業したんでしょ?」
「ああ。フリーターってやつ。去年卒業して、それからは色々バイトしてる」
「うっ、意外かも。士郎は就職すると思ってたのに」
「このご時世だからな。三流大卒を採ってくれるところはなかなかないさ」

 へぇ、と目の前に出された緑茶に彼女は口を付ける。だが舌の先を濡らしただけで湯飲みを降ろした。決して口に合わないわけではない。ただなんとはなしに、今は茶を飲むときではないと思ったのだ。

「そっちは?ロンドン」
「そうね。一応一人前の魔術師にはなったわ」

 それだけ言って、今度こそ緑茶を喉に流し込む。そんな仕草を士郎はぼんやりと見ていた。

「魔術といえば・・・魔術使いは・・・続けてるの?」

 二人の間に穿たれた沈黙を素早く凛が埋めた。彼は先ほどから気づいていた凛の訪問の理由を改めて悟る。

「いや。おれは一般人だよ。魔術は止めた」

 だから流されないように、誤解の余地のない答えを返す。遠坂はこの地の管理者。彼女が戻ってきたということは、『領地』の巡察も目的に入っていることは明白だった。

「・・・そう」

 女の声は落胆したような、それでいて怒ったような、そんな不思議な声色を帯びてテーブルの上を這う。その老いた蜥蜴のような音を両手で振り払いたいと士郎は思った。

「じゃあわたしたち、違う人種ね」
「それはそうだ。でも、いくら魔術師だからって、同類とばっかり付き合うわけじゃないだろ?たまには普通の人間と話ししたって問題ないさ」
「ええ。そうね」
 
 口元を隠すようにもう一度茶を飲む。時間が経って冷えてしまったそれはひどく苦い。そして凛の語気もまた苦い味を持っていた。

「今日はどうする?食事していくか。・・・ああ、そうか、買い物いかなきゃな」

 しゃべっているうちに用を思い出して彼は口ごもる。士郎は大学に入って自炊を止めた。料理が本来の料理以上の意味を持っていると分かったとき、きっぱりと止めてしまった。それ以来食事は全て外食かインスタントで済ませているのだ。徹底して調理を拒みご飯すら炊かないその姿は、断食を敢行する苦行僧に少し似ていた。

「遠慮しとく。疲れているみたいだし。まだこっちにいるから、また今度食べにくるわよ」

話は終わった、とばかりに凛は立ち上がった。黒いタイトスカートの裾を軽く払って、音も立てずに身だしなみを整える。ワインレッドのブラウスがスカートと相まって、彼女の印象を必要以上に鋭いものにしているように士郎には思われた。

「そうか。遠慮しないでいつでも来てくれ。一人の食事は味気なくてさ」

冗談めかして言いながら、彼は玄関まで見送りに出る。ひんやり冷たい廊下の板張りをストッキング越しに彼女は感じた。冷たく感じるなんて、そんなこと一度もなかったのに、ふと気づいて思う。変わっていないようで色々変わっている。それが歳月というものだと理解するのに彼女は数時間を要した。

「じゃあね、”衛宮くん”楽しかったわ」
「おれもだ、遠坂。気をつけてな」

来たときと同じように引き戸を開けて凛は玄関を出た。


 わたしの嫌な予感はよく当たる。春めいた陽気を背に浴びて歩きながら凛は思った。士郎は『一般人』と言った。確かに彼は魔術師でも魔術使いでもないだろう。だが、一般人でもない。男の懸命の擬態の裏に潜むかなりの量の魔力を感じ取った彼女は、だが、嫌な未来予想図を打ち消し打ち消し歩く。

「なにをする気よ、あの馬鹿」

その呟きは異常に長く滞空し、疲れ切って空に熔けた。


 <続>

3: Theophile (2004/04/21 18:26:08)[theophile at mail.goo.ne.jp]



 昼の陽気と裏腹に夜の土蔵はかなり冷える。人が住むことを前提に建てられている母屋とは違い、防寒の類は一切考えられていないものだから、その冷え方はかなりのものだった。二十畳ほどの空間は四方の壁からがらくたで埋まっていて、今は士郎があぐらをかいた部屋の中央近辺にしか隙間を持たない。
 全ての魔術師は工房を持つという。魔術師ではない士郎はそんな高尚なものは持っていなかった。しかしこの土蔵は彼の唯一の居場所である。その執念、妄執にも近いそれが充満した一種の結界だった。少年から青年へと成長していく彼が生み出した全ての物-それは実際ただ一つのものだ-がここにはある。
 氷詰めの箱のような土蔵を彼はとても気に入っている。部屋の中央で目を閉じた。日課を始める。日課とはつまり、自殺への階梯を登ることだ。
 あの聖杯戦争中、凛によって応急処置的に広げられた魔術回路。それに自らが持つありったけの魔力を流す。安全マージンは全く取らない。死ぬためにやる。体内の血管という血管が血を持てあまして皮膚の下でのたうち回るのを感じながら、士郎は奥歯を噛みしめた。昔、この苦行を始めたときには何か目的があったはず。しかし今、苦行はそれ自体を目的として彼を絡め取る。
 眼球の奥から何か得体の知れないものがハンマーで壁を叩いているのだ。胸の動悸はもうとっくに人間の限界を超えて、薄い四つの心室に溜まった怨念のようなものを身体全体に染み渡らせている。
 鍛錬、とそう呼べる清廉さはもはやそこにはなかった。快楽と苦痛と死が同根の異種であるならば、彼の行為はその全てを襟中に包含した営みでしかなかった。自らを痛めつける苦痛がある種の心的プロセスを経て快に変わり、死へ向けて疾走する。筋肉トレーニングを趣味とする人間と近い心象だろう。ただ違いは、士郎の愉しみは、一歩道を外せば命を失うところだけだった。

 剣、と呼べるものを投影することはもうなかった。彼の井戸のような心の底に一振りの剣が眠っていることは確かだが、厚い水の層を介して男が瞳に見るものは、ただ一つの人影。
 人間を作り出せたらいいのに、と彼は思った。剣などという詰まらない物ではなくて。しかしそれは不可能だ。もしも人間一人現界させようと思ったら、それこそ気が遠くなるような魔力とプロセスが必要になる。それは一人の人間がなし得る技ではない。
そう、例えば聖杯のようなものが必要になるのだ。

 聖杯戦争を闘っている時には疑問にも思い、怒りすら感じた聖杯の目的を、今の彼は理解できる。多大な苦痛と生け贄をくべて燃え上がる魔の炎。そのシステムを作り出したものが誰かはよく分からない。そして分かる必要もない、見下げ果てたやつらだと考えていた。しかしそれは違う。人の願望は凡て暗い。質量すら感じる深い闇なのだ。そこからなにを取り上げるか、そして取り上げないかは個人の覚悟による。覚悟を持った人間が昔存在した。そして聖杯システムを作った。幾多の血を吸い、幾多の肉を貪って。
 魔術師とは唯一の一、根源を目指す者たちなのだと、昔凛は士郎に話したことがある。だから彼は魔術師なる人種が嫌になった。吐き気がするほど嫌いだ。根源などなんになる。しかしきっとそれは同族嫌悪だ。この男、衛宮士郎ほど魔術師である魔術師は、現代には少ない。


    ●


 商店街の奥まったところにある小さな喫茶店から出てきた桜を、凛はあっさり見つけた。大きな歩幅をとって近づく凛を、桜は気にも止めなかった。それもそのはず、桜が知っている凛は十八歳のそれ。今の凛と十八歳の凛は同じ人間でありながらやはり違う。加えて容姿もだいぶ変わった。遠目に判別できるほど桜は凛と懇意ではない。だから凛は改まって声を掛ける。昔から変わらない、押し出すような声だった。

「間桐桜さん、よね?」
「はい。そうですけど、なにか・・・」

伏せた瞳が凛の顔を捉え、一瞬の沈黙の後、桜の顔は笑みとも硬直ともつかない表情を作った。

「久しぶりね。元気にしていた?」
「え、ええ。遠坂先輩もお久しぶりです」
「しばらく見ないうちにすっかり大人の女になっちゃって」

 桜の緊張をほぐすように凛は軽口を吐いて笑った。

「そうですか?先輩こそ、『キャリアウーマン』って感じで格好いいです」

対する桜の声もまた、変わらず女性の柔らかさを保っている。きっとこの子は幼稚園の保母なんか似合う、凛は自分と比べてそう思った。

「ありがとう。自分ではそんなつもりないんだけど、なぜかよく言われるの」
「いいことですよ。わたしなんていつまで経っても高校生に見られちゃって、ちょっと困っちゃいます」
「そうかしら?色っぽいわよ」

 そう、桜には色気がある。色気とは、光と陰が作り出す陰影だ。明るく柔らかい彼女に射した陰、それはとても深い。凛には深度を測ることはおろか、手を差し入れることさえ不可能な闇色。

「おだてたってなにも出ないんですからね。遠坂先輩」

綺麗なえくぼが彼女の頬に咲いた。対する凛は胸の前で組んだ腕をほどき、今度は腰で結び直す。普段から姿勢の良い彼女のこと、贅肉のない肢体と相まって、その姿は大地から生えた一輪の花のように見えた。

「こんなところで立ち話もなんだし、うちに来ない?久しぶりに帰ってきて、知り合いに飢えてるのよ、わたし。このあと予定がなければ・・・」
「そう・・・ですね。特にはありませんけど。おうちに伺ってもその・・・」
「いいわ。『そのこと』は気にしないで」

桜がなにを危惧しているのか、凛には直ぐに気がついた。魔術師は自らの城に他の魔術師を招じ入れることをひどく嫌う。間桐桜が魔術師であることを凛は知っていた。そして桜も、凛がそれを知っているであろうことを知っていた。だが、凛には門を閉ざす気はない。彼女の魔術師としてのレベルはとうにそんな用心を不必要にするところまで達していた。桜がなにをしたところで、彼女が本気になれば一瞬でねじ伏せることが出来る。その余裕を持った上での誘い。桜のほうも、目の前に立つ女が高校のころとは全く異質といってもよい、本物の『魔術師』であることを理解している。だからかもしれない。彼女の気後れは軽減されていた。

「じゃ、伺っちゃいますね」
「そう。なら行きましょ。今日は久しぶりに料理の腕を振るおうかしら」
「はい。楽しみです」

 二人はまるで姉妹のように並んで歩き出す。しかしこの姉妹は随分他人行儀だ。帰り道は話に花が咲いた。だがこの花は造花の匂いがした。


 <続>

4: Theophile (2004/04/22 18:31:52)[theophile at mail.goo.ne.jp]

    
 
 なだらかな坂の頂上、住宅地の奥まったところに遠坂の屋敷はある。煉瓦に鉄の柵を組み合わせた塀を正門からくぐると、これまた煉瓦づくりの瀟洒な洋館が見えた。庭に敷き詰められた芝生と様々な花は月に一度住宅管理会社の手が入っていたためか、最低限見苦しくない程度には刈り込まれている。桜はぼんやりと凛の後について門を抜けながら、まるでホテルにチェックインするみたいだ、と思った。ホテルの部屋が持つ『新品』の匂い、そしてそこでの生活を容易に想像できないその佇まいが似ている。彼女がホテル、旅館の類に止まったのは中学の修学旅行だけだったから、そこで得た印象はたいそう強い。
 凛は物々しい浮き彫りに彩られた玄関の扉を開く。長いこと油を差していないからか、蝶番は錆びてギィっと不快な音を吐いた。
 
「さ、入って。まだ掃除もしてないから汚いけど、我慢してね」

 後ろに従えた桜を振り返り、凛は言う。ほこりっぽい空気が沈殿した廊下を、玄関からの微風が掃き清めていく。
 
「おじゃまします。わたし、人の家にお邪魔したことってあんまりないから、ちょっとどきどきします」
「衛宮君のところだけ?」
「はい。先輩のところだけですね。そうえいば」

 そういえば、も何もない。桜は思った。彼女は衛宮邸以外に他者の家を知らない。否、『家』とはどんなものなのか、どんな機能を持ち、どんな雰囲気をもつものなのかすらよく知らなかった。だから遠坂の屋敷がもつ、ひんやりとした雰囲気と清浄な佇まいは新鮮なものに映る。
 
「昨日こっちについたの。いくら飛行機と言っても長旅だわ。十何時間も座り詰めでしょう、もう腰が痛くなっちゃって困ったわよ」
「わたしは海外旅行ってしたことがないんで分からないんですけど、どういうものなんですか?外国って。遠坂先輩はイギリスでしたよね、留学」
「そう。イギリス。慣れちゃえば日本とあまり変わらないけど、やっぱり治安面での違いはある。わたしたち、喫茶店とかで平気でハンドバックを置きっぱなしにしたりするじゃない。あんなこと、向こうでやったら一発。そのバックともう一度出会えることは七回生まれ変わってもないわね」

 廊下を居間へと歩きながら凛は言う。そういえば向こうに渡って最初の一ヶ月はびくびくものだった。もう半ば忘れかけていた昔の自分を思い出して少し笑った。彼女は聖杯戦争の後、高校を卒業してロンドンに渡った。時系列からすれば聖杯戦争の方が前の出来事なのに、なぜかあのときの記憶はごく新しいものであるかのように感じられる。それに比してロンドンでの生活にはどこか古さを感じさせる色がついていた。
 それなりに面白い日々だったと思う。彼女はロンドンで自己の限界の壁を削る楽しみを覚えた。一つの階梯を登ると目の前には壁、その壁を越えてもう一段階梯を登れば、また壁。どこまでも続いているのではないかと錯覚を覚える。そして実際それは錯覚ではない。魔術師が長命を求める理由を凛はロンドンで実感したのだ。人間という、高々八十年かそこら生きれば老いぼれて死んでしまう生物がどこまで高みに登れるのか。彼女は心底試してみたいと思った。それは決して無味乾燥な日々ではない。ライバル、と呼びうる者にも、師、と呼びうる者にも出会った。そして少女は魔術師の女に成長する。成長という言葉に語弊があるとするならば、変容、と言ってもよい。彼女は後ろを振り返ることがない。後ろ髪引かれるならば、抜ける髪を犠牲にしても前に進めるだけの心根を持っている。彼女が切り捨てた十八歳の自分、まだ柔らかい、ヴェルヴェットの飾り布のような心を懐かしむことも、だから無かった。
 実際遠坂凛は、『いい女』であるという評価を他人から受けていた。とうてい手の届きそうにない高嶺の花として見られ、その評価を自らも善しとして受け入れる。高飛車な女、そう映ることもある。それは一面の真実であり、また一面の擬態でもある。女は複雑な生き物で、簡単にはその見取り図を見せてはくれない。だから彼女の地図を手に入れる手段は二つ。時間を掛けて彼女を踏破するか、一瞬の鮮烈な印象を以て手に入れてしまうか、どちらかしかない。きっと今、不完全とはいえ、わたしの地図を持っているのは一人しかいない。凛が思い浮かべるのは先刻顔を合わせたばかりの青年だった。冬のあの日、自分でも気づかぬうちに渇望していた『同類』に出会った。彼は魔術使いだと言った。魔術使い。何度思い返しても面白い言葉だと思う。それまで魔術師と言えば敵対し警戒するものだという固定観念を破ってくれた存在。仲間としての異性。自分とは違う、しかし尊敬できる在り方。あの戦いの後、士郎は彼女に言ったことがある。『遠坂は、まぶしいくらい凛としてる』と。そのときは思わず赤面してしまったが、今になってみれば、彼が自分に抱いていたのと同種の印象を、自分も彼に抱いていたのだ。では、この目の前で所在なげに佇む女はどういう印象を彼に持っていたのだろう。桜を見ながら凛は思った。
 
「とりあえず、居間だけは軽く拭き掃除したから。好きなところに座ってくつろいでね」
「はい。じゃあ失礼して」

膝丈のスカートの裾を払って桜は椅子に腰掛けた。クッションが体重を加えられて少し沈み込む。大きな樫のテーブルには、これまた大きく開けた窓を介して午後の最後の光が差し込んでいた。おとぎ話のような寂しい午後だな、と桜は思う。イギリスのアフタヌーンティというのはこんな状態でなされるものなのだろうか。たぶん一生見ることはできないだろう『本物の』アフタヌーンティを想いながら彼女は背もたれに身体を預けた。
 少しの間隙をもって、凛がカップを二つ、盆に乗せて運んでくる。高級レストランで給仕が誇らしげに掲げる銀の盆にそれは似ていた。カップはチューリップの花弁のように飲み口に向けて広がっている。中には腐敗寸前の薔薇のような色をした液体が七分目まで注がれていた。
 
「イギリス帰りって言ったらやっぱり本場の紅茶を期待されちゃうものだけど、残念ながらこれはインスタント。道具持ってきてないの」

 桜は凛が日本に長居するつもりはないことをその一言から悟る。思わず笑みがこぼれた。
 
「イギリス帰りなら、きっとティパックも本場の味がしますよ」
「根拠のないこというわね。お砂糖とミルクは?」
「いただきます。わたし、コーヒーも紅茶も必ずお砂糖とミルクが必要なんです。先輩の家ではわたしと藤村先生用に常備されていたくらい」
「衛宮君はいれないの?」
「先輩はいつもストレートで飲んでました。でも、そもそもコーヒーとか紅茶を飲むこと自体があんまりなかったんです。やっぱり先輩は緑茶好みで」
「へぇ。あの家は和風だから緑茶が似合うわ。それに衛宮君はどこか年寄りじみたところがあるもの」

 本当ですね、と桜は同意して、二人で少し笑いあった。凛と桜の間には共通の話題はあまりない。笑い話にできる話題となればなおさらだった。だから凛は士郎の話以外のことを桜と話した記憶がない。天気や料理のことを別としては。
 実際のところ、桜に士郎以外の話題があるのだろうか。ふと思い立ってぞっとした。もし凛の想像が当たっているとすれば、それはなんとも悲惨な生活に他ならなかったからだ。
 
「ねぇ、間桐さんは最近どうしてるの?」
「わたしですか?時々喫茶店で働かせてもらってるんです。これでもベテランなんですよ。あとの時間は・・・家事手伝い・・・ってことになってますけど、ほんとは家でごろごろしてるだけだったりします」

 誤魔化すように手を振って桜は答えた。
 
「いい人はいないの?」

 状況を見て揺さぶりを掛けてみる凛。しかし彼女の強引な話題転換に桜は全く乗ろうとはしない。
 
「そうですね。残念ながらまだです。そういう遠坂先輩はどうなんですか?」
「そうですね。残念ながらまだよ」

 桜の言葉を鸚鵡返しに言いながら、彼女は注意深く桜の表情を追っていた。ロンドンで鍛えられた観察眼に、しかし何も手がかりは映らない。平生と同じく桜は曖昧な笑みを浮かべたまま。動揺はない。
 
「そういえば、さっき衛宮君に会ってきたのよ。彼もあんまり変わってなかったわ」

 だが士郎の名前を出した瞬間に桜の瞳は揺れた。
 
「本当に、先輩は変わってないように見えますか?」
「ええ。相変わらずのほほんとしてた。そういう桜は衛宮君が変わったように見えるの?」

 自分の厚顔に吹き出しそうになりながら凛は返す。変わっていない?とんでもない。
 
「いえ、ただちょっと思っただけです。ほら、よく言うじゃないですか。ずっと会っている人の変化には気づきにくい、って」
「あら、それなら役柄が逆じゃない。あなたが「変わってない」って言って、わたしが「変わった」って主張すべきよ」
「それは・・・」

 ここから一気に畳み込むべきだろうか。思案のしどころだ。
 
「あんまり会ってなさそうね」

 凛は攻撃の手を緩めて、今度は労るように語りかける。桜は少々まごついているようだ。ならばもう少しテンポを落としてもいい。
 
「いえ。そんなことないです。時々会いますよ」
「高校のときみたいにご飯作りに行ってあげてないの?」
「・・・ええ。さすがにちょっと」
「そうよね。今の間桐さんが通い詰めたら、もう正真正銘通い妻だもんね」

 冗談めかして笑いながら紅茶に口をつける。そこには求めた爽やかさはなくて、代わりに苦みがあった。ふと思う。この頬を赤らめて俯く桜の姿もまた、擬態なのではあるまいか、と。それは渋すぎる紅茶が促した嫌な想像に過ぎない。しかし、できうる限り全ての事象を考えに入れて分析するという思考方式は、もはや彼女の生と切り離すことができなくなってしまった魔術師の公式。
 
 だから一言だけ言葉を残す。その一節が呪文のように桜の脳裏に刻まれることを望みながら。
 
「変わったと思っているんだったら、ちゃんと見ててやって。ああいうのほほんとしたやつが一番あぶないんだから」

 向かい合った二人の間、テーブルの上に、スゥっと一本、線が引かれたような気がした。事実桜の大きな瞳は収縮し、まるで凛と初めて会ったかのように探りとも好奇とも見える視線を送る。凛は視線を受け止めて、心の雑記帳にまた一つ×印をつけた。
 
「さて、今晩はなに食べましょうか」



       ●
       


 予想されていたものだが、イレギュラーは彼に圧力を掛ける。何年間も『そのとき』を考えてきたのに、いざその時が来てみると、変に慌てている自分がいる。手帳のページを繰ってアルバイトの予定を確かめながら士郎は自らの感情を探った。
 
「変わったな、遠坂」

唐突に現れた来客の姿を脳裏に思い起こしてみる。しかし鮮明な像を結ぶことはない。やはり形成されるのは高校生の時の、まだあどけなさの痕跡を目元に秘めた彼女であって、仰ぎ見る対象として申し分ない今の彼女ではない。
 遠坂凛は魔術師だ。正真正銘の魔術師だった。彼と話しながら凛はこれ見よがしに黙って魔力を解放して見せた。士郎に比しては小柄な身体から迸る目映い流れに、分かっていても彼はたじろがざるを得ない。
 
「警告か恫喝か。遠坂のことだから、ひょっとすると宣告かもしれない」

 根っこのところで変わらない。それが人間の性格。そこに事態を打開する手がかりがある。このままでは詰みだ。昔から将棋は苦手だった。たぶんこの頭は複雑な現象を支配するのには向いていない。闘牛のように赤い布に走り込むことしかできない。士郎が長い間繰り返してきた自己との会話は自らをそう分析する。
 
「やっぱり夜食はおにぎりに限るな」

 知らぬ間に慣れきってしまった独りきりの夜を慈しむように声を挙げる。右手には、頭のところを囓った鮭おにぎり。左手は床に広げた地図のルートをなぞっていた。
 
 夜は深い。朝は近い。

5: Theophile (2004/04/22 18:32:19)[theophile at mail.goo.ne.jp]

      
       
 春の朝靄に溶けて、士郎は家を出た。ありきたりなジーンズと薄い長袖のシャツを着て、暑くなったら脱げるように、その上にもう一枚ボタンダウンのシャツを着込んでいる。財布をズボンの尻ポケットにねじ込んで、使い古したデジタル時計を左腕に巻く。携帯は持っていない。布ばりのスニーカーに足を入れ、靴ひもをきつく締め上げる。
 
 時刻は六時半。頃合いだ。彼はかがみ込んだ玄関を立った。今日の行動は一つの賭け。成功するかしないかは相手に掛かっている。これは自己の全てを試される賭けだった。
 
 駅まで出てタクシーを拾った。地図を見せ、行き先を運転手に告げる。少し眠そうな目をした四十すぎの小柄な男だった。最初口も軽くいろいろな話題を振ってきた運転手だが、彼の返事があまり友好的なものではないことを感じたのだろう、目的地への道程の半ばを過ぎた頃には口数はぐっと減って、つけっぱなしのラジオ交通情報だけが車内に響く。士郎は腕を組んで顎を引き、あまり眠れなかった昨夜の興奮を思い出して少し笑った。まるで誰か殺しに行くみたいじゃないか。笑えない比喩は打ち消して、ただ静かに流れていく風景を眺めるのみ。
 白に黄色のラインが塗装されたタクシーは、街の中心部を抜けて、まだ開発が行き届かない周辺部へ向かった。
 
「お客さん、いいの? あそこ、家もなにもないよ?」
「大丈夫ですよ。ちょっと知り合いと待ち合わせなんで」

 士郎は真実まで二歩ほどの距離にある説明を返して曖昧に笑った。ルームミラー越しに運転手と目があって、困ったように更に微笑を重ねる。
 
「ならいいんだけどね。最近物騒でしょ。つい何年か前もひどい事件続きで客足さっぱりだったけど、ここ数日あんときみたいに変な事故続いてるから」
「そうですね。やっぱりお客少ないですか」
「こればっかりはどうにもならない。天災みたいなもんだ」

 『はぁ』と相づちを打ってはみるものの、本当のところをいえばあまり世話話をしたい気分ではない。頃合いを見計らって士郎は目を閉じた。寝た振りをしていれば話しかけられることもないと判断したのだった。そして不覚にも本当に眠り込んでしまった。
 
 
         ●
         
         
 間桐桜は自室のベッドで温いシーツにくるまりながら、ぼんやりと窓の外を見ている。腰まで伸びたまっすぐな髪が頬をなでて肩を包む。寝間着の胸元を締め直し、カーディガンを羽織ると、朝露が溜まった窓をそっと開けてみる。肌に張り付くような冷気だ。こういう朝はきっと昼から綺麗に晴れるのだと知っていた。
 彼女は晴れた空が好きだ。雨の湿気や曇りの重い空気は、彼女の身体に染みついていた。だから身体のじめじめを乾かしてくれる太陽を、昔から彼女は好きだった。人間には陽性と陰性という、二つの属性があるらしい。たとえば遠坂凛は陽性で、間桐桜は陰性だ。凛がどれほど思い悩んでも、それは陽性の悩み。桜がどんなに喜んでも、それは陰性の喜び。そしてきっと、先輩も陽性だ。自分に言い聞かせるようにそう口にしてみる。なんとなれば、その当たり前だと思っていた事実を信じられなくなりそうな自分がいるのだ。

「衛宮士郎」
 
 今度ははっきりと分かる音量で、彼女はその名を呼ぶ。桜は衛宮士郎を愛していた。絶対に自分には注がれない男の視線を渇望していた。高校三年の夏、彼女は彼の家に通うのを止めた。自分が惨めな女であることに気づきそうになってしまったからだ。自分は不幸だと気がついたのはずっと前のことだが、真の意味でその言葉を理解したのはその時になってから。彼女は彼のどこに惹かれたのだろう。答えは簡単だ。彼しか知らないのだ。恋愛対象になりうる存在を彼しか知らない。これは些細な、しかし致命的な答え。
 
「でも偽物じゃない」

 魔術師は自己暗示の呪文を唱えることで世界の法則に干渉する力を得る。間桐桜は魔術師だ。だから同じようにする。
 
 きっとここ数日で大きく事態は動くだろう。遠坂凛が戻ってきた。彼女は凛に感謝する。凛は桜の背中を押した。今まで迷いに迷い、躊躇い戸惑い足を止めた、その苦悩を解き放つ決意を与えてくれたのだ。
 
 だから彼女は『する』だろう。
 
 窓を閉め、もう一度布団に潜り込んだ。まるで告白前の高校生みたいじゃない。激しい動悸を両手で押さえ桜もまた、曖昧に笑った。時刻は六時半。もう一眠りできる。きっと次に目を覚ましたら、違うわたしがいる。そう強く思った。欄干には早朝出勤の雀が二匹。じっと部屋の中の彼女を見ていた。
 
 

6: Theophile (2004/04/23 16:14:54)[theophile at mail.goo.ne.jp]



灰の剣  第二部





 十時には目的地にたどり着いた。県境の林道の中腹でタクシーが停止して、彼は運転手に起こされる。運賃を払い車を降りた。途端に森の空気が彼の鼻孔を満たした。むっとする、草の吐息である。
 絡み合った木々の下を障害物を避けながら分け入っていく。秋の枯葉は土に熔けて、次の木芽の揺りかごとなる。それは毛の長い上質な絨毯のように、彼の足裏をしっとりと包む。時折頭上で響く鳥の鳴き声以外、音はない。街の喧噪も車の排気音もここにはない。空気に洗われる。そんな気分を感じられるのは森林の中でだけだ。昔来たことがある。死を目前にひたすら逃走することしかできなかったあの頃には何一つ感じることができなかったのに、今シンと響く静寂の中には、なんと豊穣な生命があることか。人間の中に暮らすことで忘れてしまう大切な真理の一つがここにはある。

 ある種の人間は心に魔眼を持っている。その眼は実際になにかを見ることは出来ない。ただ抽象を見ることだけしかできない。魔眼持ちは、例えば『衛宮士郎』という人間の向こうに、『人類』という概念を見る。日々の生活の些細な出来事の向こうに『平和』を、あるいは『倦怠』を見る。この世に有象無象溢れかえる事象の向こうに、それらを包含した上位次元の概念をつかむのだ。
 衛宮士郎が覚えている最古の記憶、あの炎に塗りたくられた空、肉の焼ける匂いと立ち上がる怨嗟の呻き、中空に悲劇を睥睨する黒球は太陽の模造品よろしく不気味なフレアを纏わせていた。彼はその光景に『悪』という、もっとも根源的な概念の一つを見た。彼の心は『悪』を規定することで対極の概念を指向する一種の単一目的回路として形成された。柔らかい子供の心に押しつけられた刻印が少年の方向を決定的に規定してしまった。そしてその『悪』から引き上げられた自分には『悪』を伐つ義務があるのだと、彼は幼い心で思った。『悪』はいたずらにこの他愛ない存在を見逃した。他の人間全てを屠りながら、彼を生かした。だから彼が『悪』と闘うことは、『復讐』という、これもまた人間の根源的な欲求に直結する営みであり得たのだ。
 実際のところ、衛宮切嗣がもたらした救いの手は、彼の回路に名前を付けたに過ぎない。抽象を掴む手を持ち産まれた時から、彼の未来は既に定まっていた。
 
 魔術師は抽象を追うが、それは必須の条件ではない。だが、根源にたどり着くことができる魔術師は例外なく抽象しか追えない。その意味で、大成する魔術師は先天的な要素になにより左右される存在だ。魔術回路の有無など大した問題ではない。
 遠坂凛は魔術師だ。しかし抽象を追わない。彼女は常に、現象を現象そのものとして捉える。それに比して衛宮士郎の瞳は具象を許しはしない。その先にある物、その向こうにある世界を覗き見ることしか『できない』のだ。

 あの冬の戦いが彼にもたらしたものは、一つの喪失感である。サーヴァント一人喪ったためのものではない。彼が喪ったのは自らの概念規定である。彼は『正義』を捉えられなくなってしまったのだ。彼が当時持っていた選択肢は三つしかない。『一人の犠牲のうえに十人を救う』のか『十人を犠牲にして一人を救う』のか、そして『無理を承知で十一人を救う』のか。だが、セイバーという存在と切り離された瞬間から、彼の頭には新しい、上位の疑問が生まれた。そもそも『救う』とはなんなのか。正義の味方は他者を『救う』ことで自らを『正義』として定める。だが、『救う』という概念に多種多様なあり方がある以上、ことはそう簡単なものではない。
 『救い』は生存だろうか。人を生かすことが『救い』だろうか。士郎が意識せぬままに口にしていた言葉は、今重たい意味の襞の中に姿を隠す。もし『救い』が生ならば、彼には一人、救えなかった者が居る。それは彼が最も救いたかった者であり、救えるかもしれない者である。
 では『救い』とは幸福であろうか。高校三年生になって、士郎は何度か凛と街で遊んだ。一般にデートと呼ばれる形式を取って、街を歩いた。彼女は試すような、計るような面持ちで尋ねたのだ。あなたは今、幸せか、と。彼は事実幸せであった。ではなぜ、自分の傍らには『彼女』が居ないのか。あの呪詛、『貴方を愛している』。あの呪詛は、彼女の幸せが自分とともにあることを示している。根拠のない断定だが、それ以外の解釈を彼は許すことが出来ない。自分と彼女は『共に在る』ことで幸せになれるのだ、と。
 考えれば考えるほど彼の疑問は嵩を増していく。常人がその経路をたどれば彼が目指す答えは明白なのにもかかわらず、その疑問は彼を悩ませた。
 つまるところ、彼が希求する終着点にあるものは、人が誰も持ち、誰も最終的には逆らえないもの、『感情』に他ならない。離別がもたらしたのは、強健極まりない概念の壁を食い破って産声を上げる感情の赤子である。全心以て概念回路の塊が感情をその裡に孕んだ。胎内に育つそれに、ある日彼は気づく。産まれ出づる幼子をなんとしても生かしたいと思ったのだ。彼は子供に『愛』と名付けた。『彼女』の決意と『彼』の未練が産んだ愛の結晶である。もちろん親が子供にぴったりの名前をつけることはまれだ。それは士郎とて例外ではない。事実赤子の名は『愛』よりも『執念』の方が身の丈にあっている。一方で、子は名を背負って育つ。『愛』と名付けられたソレが本物の愛に転化する可能性もまた、ないことはない。


   ●●


 アインツベルンの城は、ヨーロッパから丸ごと輸入されたものだという。壮麗な煉瓦の城館に、士郎は一歩一歩足を進めていく。きっと昔の王はあの櫓から地上を見て自己の全能感を心ゆくまで味わったのだろうと、これまた根拠のない推測をしてみる。白亜、という表現がぴったりくる壁肌が徐々に視界を占めた。動悸は既に緩い。脳裏に城の主の顔が浮かぶ。一時期自分の家に住んでいたこともある少女。元気にしているかどうかなんて決まり切った疑問は抱かない。
 イリヤスフィール。自分は聖杯戦争の為に人工的に作られた人間なのだと言っていた。途方もないことだ。彼女の生き『なければならない』範囲は予め定められていて、どう足掻いてもそこからはみ出すことはできない。つまり彼女には生まれながらにして自由はない。人間が自由という概念の受肉したものだとしたら、彼女はその意味において人間ですらない。
 彼女を作り出した人間がいる、という事実を思う。どんなことを考え、どんな大儀で自分を塗りつぶして事を成したのだろうか。士郎が今感じている深い目眩はたぶん、彼の行動の根本に対する揺さぶりがもたらしたものだ。

 青年は淡々と城内の回廊を歩いた。うち捨てられて何年が経ったのか、埃がそこかしこに溜まっていた。彼の靴が動くごとに床が鳴る。鏡のような大理石の足下を一歩一歩、噛みしめるように歩いた。
 彼がここに歩を進めたのには理由がある。この地方にある巨大な霊脈は三つ。遠坂邸と柳洞寺、そしてこのアインツベルンの森。彼が望む行動のステージは、所有者のある遠坂邸と柳洞寺では有り得ない。住む者の消えた城は四方を深い森で囲み、あらゆる騒音を、あらゆる閃光を遮断する。更に森林そのものが魔力に対する防護壁の役割を果たしているために、巨大な魔力量を感知されがたいという利点もある。

「正義の味方が墓荒らしなんて、なんてことだ・・・」

 士郎は笑おうとして失敗した。石造りの廊下に、予想以上に声が反響したからだ。その声は諧謔を装って放たれたものであるにも関わらず、泣いているように聞こえた。

 聖杯戦争の後、数ヶ月をイリヤは士郎と共に過ごした。他愛ないことで笑う子供でありながら、同時に包み込むような柔らかい感情を懐に秘めた大人のようでもある、不思議な少女。直接聞いた彼女の生い立ちは悲惨なものだったが、同情する気にはなれなかった。イリヤ自身がそれを望まず、彼もまた望んでいなかったからだ。
 イリヤの声は幼年期特有の甘い高音で発せられる。『シロウ』と呼ばれると、その舌足らずの発音に和むことが出来た。彼の掌の半分ほどしかない小さな手が、指が彼の指の隙間を挟んで握る。高い体温が腕に伝う。なるほど『生命』とはこういうものなのだ、と彼は思った。
 少女は一言もなく、彼の元を去った。彼は探す気にもなれなかった。イリヤは誇り高い人間だ。自らの為に泣かれることを決して善しとしないだろうと、感じたのだ。


  ●●


 イリヤの居室を訪ねるべきだと思ったのは、たぶん心の疚しさが作用している。城に来たのはもう何年も前のことなのに、不思議と道筋は覚えていた。低い螺旋階段を数階登ると、ひときわ大きな廊下に出る。豪奢な金の装飾が白い壁によく映えて、その清純にして煌びやかな佇まいは少女の面影を思い起こさせた。巨大な肖像画の前を通り抜ける。なおも、きゅっきゅっ、と床が鳴く。長いこと換気もないためか、空気は淀んでいる。だが不快ではない。
 目的の部屋、廊下の突き当たりに穿たれた巨大な装飾扉をゆっくりと開く。音もなく弧を描いて。彼は意識せぬままに音を立てないよう慎重に歩いた。金細工に縁取りされた二メートルはあろうかという姿見や、深い飴色の小さなテーブル、半分だけ開かれた深紅のヴェルヴェットカーテン。それらの高価な調度の森を抜けて、彼は見上げるような天蓋に包まれたベッドへとたどり着く。彼が覆いの中の薄闇を覗き込もうともう一足伸ばした時、声が響いた。

「遅いよ、シロウ」

 弱々しいという形容詞は適切ではない。その声は昔別れた時そのままの瑞々しさを保っていた。

「イリヤ?・・・」

 生きていたのか、と言いかけて口を噤んだ。腰が抜けそうな程驚いているが、部屋の静寂を彼の無礼を決して許してはくれない。この由緒正しき古城の中では、世間の振る舞いは御法度なのだ。

「驚いたでしょ?ふふ、分かるよ。シロウ、ちょっと怖がってる」
「・・・ああ。確かに驚いたな。全くイリヤにはいっつも驚かされっぱなしだよ」

 真っ白な絹の枕に埋まった少女の顔を彼は見た。それは幽霊では有り得ない。艶のある肌。唇にはひび割れ一つもない。あの時のまま、あの冬のまま、まるで瞬間冷凍されたようにイリヤはその容姿を保って横たわっていた。

「教えて欲しい?」
「教えて欲しいぞ」
「じゃあ、教えてあげる」

 そう言って少女は微笑んだ。

「わたしが聖杯として機能するために作られた人造のモノだってことは前に話したよね」

 シロウは頷く。ともすれば震えだしそうな膝を意志で押さえ込みながら。それは恐怖ではない。もう手にすることはできないと思っていた宝物を思いがけず手にした歓喜に近い。だが・・・

「わたしの身体はハイブリットなんだ。生物として生きながら、魔力によっても生きてる。わたしが長く生きられないっていうのはね、魔術回路の氾濫が身体を壊していくからなの。だから」
「魔力をカットした・・・か?」
「そう。シロウ凄いね。大人になっちゃったみたいだよ」
「世間では、もうだいぶ前から大人なんだ」

 思わず苦笑する。ベッドの脇にある椅子から巨大なキリンのぬいぐるみを床に降ろしてそこに腰掛ける。彼の顔が少女のそれと近づいて、妙なる造形をより間近に彼は見た。

「それでね、魔力をカットすると、今度は普通に生活できないんだ。もう、寝ているだけ。だからシロウが思っていたことは間違ってないよ。そんな生活、死んでるのも同じだもんね」
「じゃあイリヤ、ここ何年も・・・」
「うん。眠って、眠って、シロウを待ってた」

 平然とした表情はやはり作っていただけなのだと彼は気づいた。しぼんでいく語尾に万感が籠もっている。彼は目の前の小さな女の子を両手で抱きしめたい衝動を抑えるのに苦労せざるをえない。

「だからシロウ、おはよう」

 大きな瞳、深い瞳から涙が溢れた。ぐしゅぐしゅと鼻を啜る音がする。イリヤは言い切って顔を崩した。

「おはよう。イリヤ」
 

7: Theophile (2004/04/23 18:00:20)[theophile at mail.goo.ne.jp]

  ●●


 床に除けたぬいぐるみの頭を弄りながら、士郎は黙ってイリヤが泣きやむのを待っていた。手を触れて涙を拭ってやりたいが、それは絶対にできない。彼にはイリヤを抱き留める資格はなく、イリヤもまた、彼がそう思っているであろうことを知っている。だから拙い仕草で目元の涙を拭き取って彼を安心させるように微笑みかけた。新雪のように白い頬に紅が差す。血色は生気に直結していた。

「それにしても、一言言っていってくれよ。もしおれが来なかったらどうするつもりだったんだ?」
「ううん。シロウは来るもの。分かってたんだから」
「なんで?」
「『来ない』シロウなら、わたしはシロウの前からいなくならなかったよ。つまり順序が逆」

 士郎の反応を試すような言葉。事実イリヤは楽しんでいた。マスターとして無感動に敵を殺害した時とは違う、本当の、心からの愉悦だった。しかしこんな局面でしか楽しめない自分は惨めだと少女は思い、不吉な考えを心の奥の方へ押し込めたのだ。

「難しいこというなぁ。まぁ、別にいいさ。イリヤに会えてうれしいよ」
「わたしもだよ、『おにいちゃん』」

 その言葉を最後に、二人はふっつりと黙り込んだ。ただ両の瞳で相手を見ている。イリヤの視界に映るのは、肩幅の広い短髪の青年。顎や頬が随分と引き締まって鋭利な印象を見る者に与える二十代の男。彼女が覚えている士郎とは違う。違うようで同じ。イリヤは確信する。この男は士郎だ、と。自分はこの瞳、このとぼけた表情に耐えきれずにあそこから離れたのだ、と。
 イリヤの願いは二律背反そのものだった。離れたいけれど、近づきたい。上手い人間関係など学んだことはおろか、人間自体を見ることさえ稀だった少女にとって自己が持つ対人能力の弱さは、それが足枷であることにさえ気がつかないほど微弱なもの。
 そして士郎が自分の元にやってきたことの意味もまた、彼女は正確に理解していた。士郎とイリヤスフィールは兄妹であり姉弟であり、ある意味では雌雄に別れた同根の存在といっても良い、きわめて近しい世界に存在する生き物である。体つきも瞳の色も、肌の色も違う。しかし同じ運命の鋳型から生まれ出た、魂の同体とも言うべき繋がりがある。イリヤの父親であった衛宮切嗣の存在はその事実の前には大した意味を持たなかった。実際彼女が父親絡みで士郎に拘りを見せたのは初めて会ったときくらいのものだろう。一度ふれあってからの二人は、少なくとも少女は理解していた。『同じ鋳型』としての自分たちを。

「それでシロウ、答えは出た?」

 息を飲むのは男。彼には女のことが分からない。少なくとも彼女が彼を『分かって』いるほどには理解していない。目覚める前の精神は上辺をさらうことしかできないのだから、彼のイリヤに対する見方は真実以外ではもっとも真実に近いそれだった。
 俯いていっこうに返答の気配が見えない青年に向かってイリヤは再び言を重ねる。その態度は実の姉がよくするところのものであることに、しかし彼女は気づかない。ただ終わりを待つだけの会話、終わりを待つだけの生を少しでも楽しむためだけに、言葉は存在する。

「シロウとキリツグは別。そう気づいたのはセイバーがいなくなってからだった」

 彼は小さな手が自分の頬に触れているのを感じた。ベッドから這いだした少女が今、吐息の掛かる距離で彼の頭を抱いている。可愛らしい掌と産毛すら生えていない二の腕が白いシルクのパジャマから伸びている。

「シロウ、普通に笑っていたでしょう?最初は堪えてるのかな、って思ってた。でも違う。本当に『普通』だった。だからね、思ったんだ。ああ、シロウはまだなんだ。まだ生まれてないんだ、って」

 子馬が戯れにギャロップを繰り返す、そんな軽快な声色で続ける。

「キリツグはもともと感情を持っていた。それを殺すことで理想に近づこうとした。でもシロウ、あなたには感情なんてない」

 そうでしょ?と、イリヤの目は彼を覗き込んで語りかけていた。頬から伝う体温があまりに心地よいものだから、士郎は無言で言葉の続きを待っていた。

「少なくとも、あの時はなかった。キリツグとシロウは進む方向が逆なの。お互いに両端から進んできて、真ん中のところで交差した」
「よくわかるね」
「わかる。わたしも同じだから。わたしにも感情なんてなかった。からっぽで作られて、しばらくは器になにを詰め込めばいいのか分からなかった。バーサーカーと会って初めてきっかけができた。そして、ね、ね、シロウ。シロウだよ。シロウと出会って、わたしは器にモノを詰めることが正しいんだ、って分かったの。だから・・・」

 太股を握りしめていた両の手を少女の華奢な背中に回した。肉の薄い痩せた背中だった。

「おれはきっと、間違った道を歩いてるんだろうな。イリヤをこんな気持ちにさせて。イリヤだけじゃない。他のみんなも、みんな離れていった。おれは一人だよ。きっと間違ってるんだ。・・・そうだろ、イリヤ」

 淡々と彼は喋るだけ。喚くことも泣くこともできない。実際彼が考えているのは泣くことも許されないようなものなのだから。震えているのはどちらなのかは分からない。士郎なのかイリヤなのか、それとも二人共になのか。

「でも今のおれには一つだけ、感情があるよ。」
「ねっ、シロウ。わたしはあの時から、シロウの為に生き延びてきたんだよ。一度助けて貰った命だもの。・・・ねっ、シロウ」

 薄い胸の中へイリヤは男の頭を誘う。首筋に鼻を付けて士郎は目を瞑る。わたしには体験することができないけれど、子供を抱くとしたらこんな感じなんだろうと、はっきりしない頭の中で少女は考えていた。

「おれの感情は一つだけ。・・・・・・セイバー」

 衛宮士郎は奥歯を噛みしめた。後頭部に絡む少女の腕を優しく振りほどく。それはスローモーションのように、流れるように離れていく距離だ。彼は両の足に力を込めて立ち上がった。

「イリヤスフィール。おれの聖杯になってくれ」

 男の右腕から、蜃気楼を重ねるように一つの像が結ばれていく。暗がりに昏く光るその刃。それは灰のつるぎ。最愛の女が手にしていた宝具だった。


<続>

8: Theophile (2004/04/24 16:44:02)[theophile at mail.goo.ne.jp]




●●



 感情のままに生きるのは一つの美徳である。しかしこの美徳を美徳のままに持ち続けられるものは多くない。イリヤスフィールはそんな稀少人種の一人であった。
 目を瞑るわけでもない。士郎の右手に連なる宝剣に気圧されるわけでもない。少女は両手を膝の上で組んでじっと男の瞳を見つめていた。極限まで伸びた背筋は断頭台のマリ・アントワネットのようだと彼は思う。アインツベルンには確かフォンの称号がついているのだから、その姓を名乗るイリヤはきっと貴族なのだ。いや、きっと血筋などなんの意味も持たない。現代の名家には無くなってしまったある種の高貴な野蛮さを彼女は持っている。感情のままに激発し、笑い、泣き、叫ぶ。そして驚くほどの覚悟を持って生きてきた。自分の周りには尊敬できる女性ばっかりいたな、と彼は思った。

「聖杯は心臓。わたしの心臓。だからここを斬って」

 首筋に手刀を模した手の平を押しつけるイリヤ。

「・・・他の方法は、ないかな。イリヤ」

 だから気圧されているのは士郎の方だった。触れてはいけないものに今自分は触れようとしているのだと、遅まきながら彼は気づいた。

「士郎も気づいてると思うけど、他に幾つかあるよ。でもだめ。聖杯は血の中から取り出すものなんだから」
「そうか。やっぱりだめか」
「うん。昔からそうでしょ?聖杯は簡単には手に入らない。ねぇシロウ、二つだけ約束して欲しいな」

 まるで店先でアイスクリームをねだるような気軽さで言う。だからその軽さを彼は愛おしいと思うのだ。

「なに?」
「じゃあ一つ目。痛くしないで」
「努力する」
「うん。いい返事。それじゃ二つ目ね」

 そこで一旦彼女は言葉を切った。青年の心に深く刻まれるように、と。

「この行いを、決して後悔しないこと。他のどんな方法よりも、わたしの聖杯を信じてほしい」

 士郎は剣の柄を強く強く握りしめた。小指の爪が掌に刺さって白い跡を残す。幾つかの計画を彼は考えていたが、その中にイリヤの心臓を使った方法は勘案されていなかった。彼は彼女が死んでいると思っていたし、もし生きていたとしても自ら手に掛けるなど思ってもみなかった。だからこそ、この成り行きは偶然が偶然を呼んで作り上げた状況に他ならない。
 イリヤはたぶん見抜いている。思わぬ方向に転がった状況にそしらぬ顔で乗っかって自己の望みを遂げようと画策するこの男のことを。彼女の命は一つしかない。ならば最高の覚悟と最高の親愛を以てそれを摘み取って欲しいと思うのは当然だ。自らのサーヴァントを使役し、他者の生を野花よろしく蹂躙した幼い子供はもういない。彼女が退屈な午睡の数年間で得たものはつまり生と死の観念であった。生は誠に尊いものである。生きながら死んでいるような、死んでいながら生きているような、そんな中途半端な状態を経験した者は、まばゆく目を潰しかねない一瞬の強烈な生に惹かれる。どう足掻こうとあと何ヶ月も生きられないだろう身体がソレを経験できるとすれば、士郎の剣をもってする他はない。

「わたしはシロウの役に立つんだ。わたしの心臓でシロウは想いを遂げるの」

 小さな身体の隅々にまで熱い血漿が満ちていく。それはぽかぽかと火照った身体だ。きっと性的興奮に、きっと絶頂感に、それは似ていた。大きな瞳が潤んで、涙を少しずつ供給している。事実少女はひどく興奮していた。魔術における詠唱は自らに暗示を掛ける術という。ならば彼女の言葉もまた詠唱に近しい効果を持っている。イリヤにとってつまり、穏やかな生活、例えば聖杯戦争終結後の数ヶ月のような幸福は、もとより望んだものではない。あの引き延ばされた鋼鉄のような日々にイリヤの身体は『耐えられない』。

 肩から腕へと動力が流れていく。自己の身体は一種のパイプラインだ。それが士郎の暗示。腕は今一本のパイプとなって目的の為に魔力を流す。空いた左手を柄に添えて剣を握り直す。『投影』。それは贋作である。しかしこの剣は重い。
 見下ろすと大きなベッドにはイリヤスフィールが座っている。座って目を閉じ、彼が『やり易い』ように頭を垂れている。長い銀髪が左右に分かれ、その隙間から柔らかそうな白い肌が覗いた。

 そういえば昔、遠坂とイリヤと藤ねえと一緒に遊園地に遊びに行ったことがあった。彼は不意にそんな過去の記憶を穿り返す。イリヤは始終彼の腕にぶら下がっていた。凛は『お姉さん』の余裕を見せて士郎の隣を平然と歩く。その姿は、彼の隣を『歩く』のが彼女の『当然』なのだと主張しているかのようだった。そして紐を放した風船のように飛び歩く大河。
 そういえばあれはいつのことだったか。きっと五月の第一週、ゴールデンウィークのことだった。もはや日付などなんの意味も持たなくなってしまった士郎だが、あの頃の日付だけはまだ覚えている。遊園地は親子連れで混んでいて、彼らのグループは離ればなれにならないように注意しながら人波の隙間を縫って歩いた。アトラクションにはあまり乗らなかった。少なくとも人気のあるヤツには乗ることができなかった。凛はうんざりするような長蛇の列に、好きだというジェットコースターを諦めた。大河はといえば、何かに乗りたいという欲求は無いようで、ただ皆が笑いながら歩き回ることに満足しているようだった。そしてイリヤは彼の腕を引いて走り回ることに有頂天になっていた。結局四人は常設のアトラクションを幾つか周り、園内の売店の不味い食事を食べ、心ゆくまでしゃべり、足が棒になるまで歩いた。
 彼は覚えている。帰りの車の中、後部座席で寝息を立てるイリヤの横顔を。自分の太股の上で転がる小さな頭を。

 彼は今から、それを切り落とす。

 魔術は等価交換。そう凛が口にしたことがある。彼は魔術師というやつが心底嫌いになった。等価交換など『存在しない』。セイバーの命をイリヤの命で購うというのか。だとすれば、そんな選択をする自分にとって、セイバーの命はイリヤの命よりも重い。髪の毛ほどの重さであれ、自分はセイバーを採る。この利己性、他者を踏みにじる意志を糊塗するべく言われる言葉。『等価交換』。

 おれは人を殺すぞ。イリヤを生け贄にしておまえを呼び出すぞ、セイバー。頭の中で何度も何度も、そう大声で繰り返した。セイバーはこの行為を決して許すことはないだろう。だけどおれはおまえと再び会うぞ、セイバー。怒号に近い叫び声を彼の心は上げる。その先に幸せな結末はない。なぜってこの世の幸福こそ完全な『等価交換』だから。

 しかし、やら『なければならない』


 借り物の理想とは正義の味方への憧れ。では借り物の感情とは。念願し、全てを擲っても手に入れたかった存在にあと一歩まで迫りながら、なんの喜びもない。ただ歯の根もかち合わぬ恐怖だけがある。しかし、やらなければならない。

 セイバーと再び出会わなくては『ならない』


「おれには・・・それしかないんだ」

 最後の言葉は音になる。音になり、掠れて少女の部屋に満ちた。最後の音節が静かに消えていく。


 そして彼は剣を振り下ろした。
 少女の肌に刃が吸い込まれた。


<続>

9: Theophile (2004/04/24 19:16:21)[theophile at mail.goo.ne.jp]



 ●●




 イリヤスフィールには怒りという感情がなかった。頭に来る、という心の動きは経験したことがある。しかし、怒りといえるほどの強い憤りを感じたことはない。だからたぶん今、腕をだらりと垂らし呆然と立ちすくむ士郎に対して抱いている気持ちは初めてのもの。
 彼女は女であった。その容姿ゆえそう見られることは絶えてなかったものの、確実に女性として年を重ねてきた。天真爛漫、純真の天使ではない。肉を持ち、打算を巡らせ、人を愛する、一人の少女であった。だからだろうか、自己の最も深いところを踏みにじった男を許せない。彼女は全てを捧げたのだ。掌からこぼれ落ちた全ての物、そして最後に残った物。この最も大切で、最も美しい物にすら士郎は目を向けてくれなかった。

「シロウ・・・あなた・・・」

 怒りの余り震えて声が上手く出せない。彼の剣は『溶けて消えた』。イリヤの首筋でバターの様に流れ落ちた。身体に男の邪な体液を浴びたような、そんな不快な気分。

「どうしてなの?ねぇ!どうして!」

 彼は決して答えない。自らに対する失望しかない。彼は積み上げてきたものを全て失ったのだ。いや、積み上げてきたものなどなにもありはしなかった。大学生活を過ごした四年間、親しい友人を一人も作らなかった。教室に行き椅子に座り、口を閉ざして講義を聴く。家に帰ればアルバイト。工場の流れ作業は彼に他者との関わりを要求しない。だが、少なくとも彼は孤独ではなかった。その腹の中に、頭の中に、足の、手の中に、彼は一人の偶像を秘めていたからだ。滑らかな亜麻の髪を持つ凛々しい少女の偶像を、だ。彼はイマージュと語る術を手に入れた。かつて脳裏に宿った一振りの剣が転化したその姿は、美しい、無欠の象徴として彼の眼前に立ち現れる。
 自らの存在を賭けるものはその姿を於いて他にない。彼は自己の存在理由を定めた。おれはセイバーと出会うために生き、出会って死ぬのだ、と。だから彼の剣は彼そのものだ。彼の剣は決して曲がらず、決して刃こぼれせず、決して折れない。なぜなら彼の剣はこの上もなく強固な物。それは灰の剣である。灰の剣は燃え尽きない。

 しかし灰の剣は呆気なく溶けて消えた。イリヤの体内に流れる情念の液体に、意識したこともなかった自己の涙に溶けた。薄灰色に濁ったその液体を彼は持てあまし立ちすくむ。

「シロウは分からない!わたしが死ぬためにシロウの前から姿を消したって?本当にそう思う?そんなことがあると思うの!!」

 喉を切り裂かんばかりの絶叫をイリヤは男に浴びせる。

「ただ城に帰っただけのわたしを!ただ少し嫉妬して家出しただけのわたしを!あなたは顧みもしなかったわ。わたしはわたしを見て欲しかった。セイバーじゃなくて・・・ねぇ、それはそんなに悪いことなの?答えてよっ」

 イリヤは達観した態度を彼に示すことで最後の矜持を見せようと思った。彼の注意を引きたくて家出してみたのに、彼は心配する素振りすら見せない。悔しい、という気持ちを知ったのはこのときだった。だが、嫉妬は誇りが許さない。邪魔な見栄を振り払い彼に抱きつくことを彼女の高貴は許してくれない。一日二日と、城で待った。士郎はやってくるだろう。わたしの所へやってきて、わたしを抱きしめて、きっと平謝りをするんだわ。そう幼い少女のような夢を見ながら、彼女は毎日をがらんどうの城で過ごした。周りに人と言えば自分付きのメイド二人のみ。寂しさを偶像で埋めたのはイリヤも同じ。昏睡の中で夢を見ることだけしかできない。長い年月は鉄を鍛える槌に似ている。毎日毎日叩かれて、一つの想念は真実へと姿を変える。その黒鉄は決して折れない。
 そう言えば、わたしが望んだのは死じゃなかった。夢から覚めたように彼女は思い出す。わたしは士郎と『人間みたいな』生活を送りたかっただけなんだ、と。彼女は覚えている。士郎と手を繋いで歩いた商店街の空気も、並んで座った公園のベンチも、綺麗に弧を描いて地平に落ちていく太陽も。そこが自分の居場所なのだと信じたかった。それはなんと素晴らしい夢だっただろうか。
 彼女は滅我の死、崇高な犠牲の死、愛の死など望んでいなかった。ただ普通の少女として生きていたかった。
 しかし意識することさえできない想いは、現実の冷たい拒絶のもとに硬化していく。士郎は彼女に夢を見せてくれない。

 切っ掛けは些細なことだった。その日士郎は何かに気を取られていて、彼女の呼びかけに薄い反応しか返してくれなかった。不機嫌な表情を崩さず、約束していた夕方の散歩も断られた。理由は分からない。だがそのときの彼女は彼の態度の後ろに一つの陰を見た。突発的な妄想の類、と言って良い。その陰はきっとイリヤが秘めた不安を表に出したものに過ぎない。士郎はなにか下らないことで、例えば学校で誰かと諍いを起こしたとか、そんな些細なことで機嫌が悪かっただけなのかもしれない。だがイリヤは彼の態度に自分に対する拒否を見た。だからちょっと『懲らしめてやるために』家出したのだ。
 子供じみた悪戯は時として悲劇の引き金を引く。弾が銃口から飛び出したら、もう誰も止められない。

「マキリの紛い物に手を出すの?わたしじゃなくて?あの偽物に?」

 女性の声帯からはこれほど低い声は出ない。だからきっとその声は少女の想念が乗って重くなったのだ。

「・・・シロウ」

 呼び声は士郎の頭をかきむしる。

「マキリの紛い物?」
「そう。わたしと天秤に掛けていたんでしょう?『あの女』の身体と、このわたしの身体を」
「・・・なんのことだ?」
「間桐桜。あの女の弄くられた身体を使う気なんだ」

 意外な名前を聞いた。正直驚きを禁じ得ない。桜は彼の日常の象徴。自分とは深い溝を以て別たれた『普通の人』。

「マキリの汚らしい聖杯を使うの?」
「どうして桜が!桜が聖杯ってどういうことだ」
「間桐桜は魔術師よ。聖杯戦争に参加だってしている。『なにも知りません』って顔をして、あの女はシロウを騙してきた。わたし分かったもの。あの女を見て分かったもの。汚らしく弄くられた魔術回路はね、シロウ・・・聖杯の器のものだった」

 イリヤは桜と引き合わされてから、頑なに交流を拒んできた。二人は表だって言い争うことはない。しかしその存在を全身全霊を以て否定していた。彼女は桜を一目見て、そのあり方の異様に気がついた。通常有り得ない回路。思いもつかないところに接合し、分岐を繰り返す桜の回路をなぞっているうちに気がつく。その魔力の流れがどんな目的を持っているのか、その事実に。
 アインツベルンは聖杯の作成を以て生業とする。イリヤはアインツベルンの姓を帯びた魔術師だ。そしてその身は聖杯でもある。数百年の知識と情熱が結晶して作られた、この上なく洗練された聖杯である。そんな価値を付与され、その価値しか認められなかったイリヤにとって、桜の存在は自らに対する冒涜である。もちろん桜自身に罪がないだろうことは分かっている。だが、自らを装うのは罪だ。『普通の人』を演じてその身の義務を負わないのは罪だとイリヤは感じていた。
 率直に言ってしまえば、桜は窮極的にイリヤスフィールの存在を脅かす存在である。彼女が死にたくないと願い、来るべき士郎の決意に応えようと眠りについたのは桜の存在故だった。自分が死ねば士郎は桜を使うだろう。あの卑怯な女に、そんな幸せは許さない。彼女はそう考えたのだ。

「そうか。そんなこともあるのかもしれないな。間桐は魔術師の家だもんな」

 苦虫をかみつぶした表情でイリヤの激発を受け止めていた士郎がぽつりと呟いた。そこに感情の動きはみとめられない。ただ推測から導き出された事実を語るだけ。

「シロウ。わたしを『選んで』」

 もはや泣き声と化したイリヤの懇願に、初めて士郎は笑いかける。この話はもう終わり、そんな風に言いたげに。

「いや。イリヤ、選択肢は二つじゃない。もう一つあるんだ。さっきのことでおれは分かったよ。昔ギルガメシュと戦ったとき、あいつはおれのことを『フェイカー』(贋作制作者)って呼んでね。そのときは投影のことを言ってるのかと思ったんだ。だけど今分かった。ギルガメッシュは間違ってる。おれは『フェイク』(偽物)だ。おれ自身が作品なんだ。なら方法は一つしかないじゃないか」
「シロウ?」

 不安げな呼びかけに、しかし士郎は笑みを浮かべたまま。そこにはイリヤが求めて止まなかった本物の暖かさがある。だからこそ彼女の勘は喚く。危険だ。と。

「セイバーは本物だろ?ならおれも本物にならなくちゃいけない」

 会話はそこで唐突に終わる。彼は入ってきたときとは違う、確固とした足取りで部屋を出た。去り際に彼は振り向いて声を掛けた。

「ごめんな、イリヤ」


 <続>

10: Theophile (2004/04/25 15:50:32)[theophile at mail.goo.ne.jp]





 ●●



 多湿を特徴とする日本においても、やはり乾燥した日というのはある。昼過ぎに目を覚ました凛の喉もからからに乾いていて、いつもの不快な目覚めをさらに助長した。一人で住むには広すぎる屋敷の中を、彼女は寝間着姿で歩き回る。額を左手で押さえ、はっきりしない思考を纏めようとも思わない。台所に至り、近所のコンビニエンスストアで買い込んできたインスタントの紅茶パックをカップに放り込んで熱湯を注ぐ。涙で薄められた血のような赤がカップの白い肌をゆっくりと染めていく。その様はまるで人死の象徴であるかのように彼女には思われた。
 日本に帰ってきて二日目の朝を迎えた。目を覚ますたびに、自分はなぜここにいるのかと不思議に思う。住み慣れたロンドンのフラットではなく、なぜ日本にいるのか、と。
 今日は牛乳を入れて飲もう。それはとてもいい思いつきであると彼女は思った。牛乳も飲むし、紅茶も飲むのだから、一緒に飲んでしまえば手間が掛からないではないか、と。
 カーテンを閉め忘れた居間の大きな窓から相変わらずからっと晴れて一点の曇りもない空が見えた。陽光をふんだんに取り入れた屋内は天然の暖房を入れたように暖かい。これは実際魔術師の家にそぐわない居心地の良さではないか。凛はそんな詰まらないことを考えてカップに口をつけた。

 遠坂凛はこの屋敷で一八歳までの歳月を過ごしてきた。父を喪うまでは二人で、喪ってからは一人でこの家に住んでいた。広い庭。採光が効率よく成されるリビング。しかし彼女には、庭を無邪気に走り回った記憶はないし、冬の暖かい居間で人形遊びをした経験もない。友人を招いて誕生パーティをしたこともなければ、鍵を掛けた自室のベッドで枕を濡らしたことさえなかった。
 遠坂凛は泣かない。そして諦めない。彼女にとって、瞳は何かを見て理解するためのものであり、感情を吐き出す排出口ではなかった。未熟な恋の終わりを偲んで泣く級友の少女たちを横目に見ながら凛は思ったものだった。それは水分の無駄遣いだ、と。辛いことがあればただ辛いと感じればよい。涙を流す必要なんてないのだ、と。彼女は孤高を望んだ。友人と深く付き合うことを拒否してきた。それは一面能動的でありながら、一方で『拒否される』という体験を伴うものでもある。小学校、中学校と半ばクラスから浮き上がる形で過ごした。生来の覇気から虐められることはなかったが、周囲の同年輩は彼女を神棚に上げる形で無視することを選んだ。当たり障りのない会話は恙なくこなせる。しかし修学旅行の班組みは気まずかったし、運動会のペアもぎくしゃくしていた。持って生まれた美貌から羨望の的になることは、だから彼女にとって縋ることのできる唯一の道だったが、その道すらも歩こうとはしなかった。自分は他人とは違う。自分は魔術師だ、と鏡台の前で繰り返す幼い少女の姿は、手に届かないブドウを酸っぱいと罵る狐に似ていたが、その子狐のつぶらな瞳に滑稽さを見いだすものなど誰もいない。
 彼女は魔術師で『あろう』とする一個の意志である。士郎が向かう対象を持たないからっぽの矢印であるとするならば、凛の性向は向かう方向しか持たない矢印であった。
 高校生活を送るようになっても彼女を巡る状況はいっこうに変化を見せない。周囲の性的成熟がその女性としての価値を高めて見せたものの、その道は遙か昔、彼女が歩くことを善しとせずにはねつけたもの。容姿端麗、成績優秀という四字熟語こそ、彼女に掛けられた呪いである。少数の例外を別として学校の中に会話はなく、ただ家の中、語る対象を持たない独語が増える。クラスで飛び交うはやり言葉を呟いてみることもある。だが掛け合いはない。
 複雑な内面は人間誰しも持っている。凛が身につけたのはその心の二重性だった。落ち着いた優等生、たおやかな高嶺の花としての自己の裏に、驚くほど瑞々しい初心の柔らかい腹を持っていた。綺麗な毛皮で着飾った禽獣だが、腹の白い産毛はさらに美しい。

 遠坂凛は自分の容姿を誇らない。純真な美人はいないという人類古来からの理に外れる彼女のあり方は、幾多の目に見えない試練の末に形成されたものである。人は鳥を相手に自らの美貌を誇りはしない。鳥は魚を相手に自らの美声を誇りはしない。遠坂凛は『普通の人』に誇りうるなにものももたなかった。しかしそれは一種の悲劇だ。なんとしても遠坂凛は人である。目が四つあるわけでもないし、四つんばいで歩くわけでもない。自らを『魔術師』と規定することで切り捨ててきたものは、その実切り捨てることなどできはしない、『人間』としての諸要素である。

魔術師が人間になるのではない。人間が魔術師になるのだから。


 ●●


 昔手に入れようとして、唯一手に入らなかった物のことを彼女は思い出す。紅茶のカップを手に持ったまま、ぼんやりと椅子の背もたれに身体を預けて思い出した。
 聖杯戦争が彼女に与えてくれた物は一つだけ。それは同類である。それは禁断の味であった。むき出しの腹を撫でられる心地よさを知った。一人の同類を基点として世界が広がっていく感覚を、まだ彼女は覚えている。高校三年の一年間を凛が思い出すことはあまりない。思い出したが最後、全てを擲っても取り戻したいという業の深い欲求にその身を焼かれる。多くの人間が寝起きする家に自分の居場所があることは、幸せであると知った。どんな小説の孤独よりも独りで生きるということの意味を知っていた彼女には、その幸せは眩しすぎた。

「衛宮士郎、か。あいつが全て悪いのよね」

 肩を並べてスーパーマーケットを歩き、笑い声を上げながら料理をして、着飾り、街を歩いた。二週間の激動と比べて穏やかな日々が過ぎる中で彼女は自分の気持ちに気がついた。セイバーを失った士郎を『見守る』なんて嘘だ。遊園地に皆で遊びに行って気がついた。あの日帰りたくないと駄々をこねたイリヤを横目で見ながら、一番帰りたくないと思っている自分の姿に気がついたとき、自分がどんな状況に引きずり込まれているのかをはっきりと思い知ったのだ。彼女は魔術師から人間になっていた。
 衛宮士郎を愛して『いる』のかと問われれば、首を傾げて誤魔化し笑う以外にない。愛して『いた』のか、と問われればはっきりと否定できる。あのころの気持ちは、士郎に向かう愛ではない。士郎を要として広がった広大なまだ見ぬ世界への愛だ。では今、彼女は士郎を愛しているだろうか。ロンドンでの彼女はまさに同類の中にいた。語りあう同士には事欠かず、ちやほやしてくる相手にも事欠かない。魔術師の巣において、彼女は異端者ではない。だが、彼ら、彼女らは誰一人として、彼女に新しい世界を見せてくれなかった。あの春の日の包み込むような夕日も、徹夜でゲームをして苦笑しながら迎えた朝焼けも見せてはくれない。

 そう、わたしは士郎をきっと『必要』としている。彼を通して広がっていく世界をきっとわたしは『愛して』いる。目を瞑ってそう繰り返した。

「セイバー、やってくれるわよね。本当に」
 
 彼女が彼をロンドンに誘ったのは未練ではない。それは未来に満ちた選択。二人で新しい世界を見たい。そう思った。人間は欠けたまま生まれ、生まれて自分の片割れを探す。そんな言葉を協会の文献にあったプラトンの本の中で見つけた。どこか欠けた自分と、これもまたどこか欠けた士郎。一緒に生きていければなんと素晴らしいことだろうか、と。わたしは魔術師でありながら人間であり続け、彼はセイギノミカタでありながら人間であり続けるだろう。二人の亜人が交合して人間になる。そんな未来を描いていた。だから彼の有無を言わせぬ拒絶に、生まれたのは怒り。新しい価値を見せてくれた当人が、その価値に興味を失っていた。実際彼の矢印は一つの方向に固定されていて、動かすことはかなわない。

 二つの欠片がぴったりとくっつくためには、一方がくぼみを持ち、一方がでっぱりを持っていなければならない。彼ら二つの欠片は共に突起をもって生まれた。そして二人とも自分の突起を削ることができなかった。ならば採る方法は一つ。突起を極限まで磨いで、相手を穿つのみ。

「どうする?士郎。わたしは魔術師よ。だからあなたのことを、もう放っておけないんだから」

 口紅を唇に引くように、音も立てず凛の顔は引き締まっていく。空になったカップにもう一杯紅茶を注ごうとは思わない。やはりインスタントの味は好みじゃない。そう思った。


 <続>

11: Theophile (2004/04/27 15:33:35)[theophile at mail.goo.ne.jp]




  第三部



 どうしてこんなことをしているのだろうと不思議に思いながら、桜は腰を上下に振り続けていた。彼女の股の下には、一人の男が辛そうな表情で仰向けに寝転がっている。夢にまで見た想いを遂げたというのにちっとも感慨は湧いてこない。そんな自分の心理を訝しむ余裕を、しかし身体の快楽は与えてくれない。喉の奥の粘膜から直接絞り出すようなうめき声を上げて、しばし女は肢体を震わせる。薄い脂肪を下に貯めた肌が波打つように揺れて、長い髪の先からは涙のような汗が跳ねた。
 閉めた障子に張られた和紙の向こうに綺麗な月の輪郭が見えていた。まだ夏にはほど遠い。虫の声はない。マットレスを下に敷いていないから、布団の綿を通り越して畳の硬さが伝わってくる。士郎は腰の奥から内臓を引きずり出されるような感覚に、奥歯を噛みしめて耐えていた。彼もまた、なぜこんなことになってしまったのか疑問に思っているのだが、心の奥底では本当の答えを理解していた。彼は両手を桜の太股に乗せて、練り絹のような感触を吸う。首筋から流れた汗が鎖骨を通って胸の中心を進んでいく。むせかえるような肉体の匂いを飲み込んで、再び目を瞑った。


  ●●●

 
 間桐桜は子供の頃の思い出を後生大事に心に刻みつけている。もう顔を思い浮かべることすら叶わない『本当の父親』に「今日はお父さんのお友達のおうちに遊びに行こう。凛には内緒だぞ」と言われ、子供らしい優越とほんの少しの罪悪感を可愛らしいポシェットに詰めて、初めて間桐の門をくぐった。実家とは違う、しかし豪奢な作りの洋館も、まだ年端もいかぬ子供からは大した関心を掘り起こすことはできない。平生父親の仕事の都合から旅行など縁の無かった桜にとって、同じ町内とはいえ、泊まりがけでどこかへ遊びに行くという事実だけで十分だったのだ。
 首の下でボタン留めできるフリルのついた上着は彼女の一番のお気に入りだった。深い緑のスカートも好きだった。毎日が単調過ぎてつまらないという些細な疵を除いて、桜の世界は概ね平和で楽しいものだった。肩胛骨の辺りで切り揃えた癖のない髪を風に靡かせ歩く。父親の大きな手を握り、時折思い立ったように歩調を変えてみる。時々無性に走り出したくなる。『楽しいお泊まり』に喜びのあまり元気が有り余っていたのだ。
 道中見た路傍のタンポポには数刻前に降った雨の滴が乗っていて、その玉のような水が陽光を浴びてきらきら光っていた。濡れた土とコンクリートが吐き出す熱気。植物の生臭い匂いも気にならない。そのとき世界は彼女の小さな瞳の中で光り輝いていた。

 この光景は間桐桜の原風景である。彼女の世界はその日を境に激変した。だからこそ、その日は彼女の夢が生まれた日だ。

 白馬の王子様を夢見る少女というのは現実に存在する。しかし、飽食の国に生まれた人間が餓死者の存在を想像できないように、普通の人間には彼女らのことが理解できない。運命は自らの手で切り開くものだ、などというテレビアニメの決めぜりふを、定型句と笑って聞き流すことができない少女たちが存在する。間桐桜はそんな少女の一人になった。

 間桐家の地下には大きな貯水槽のようなくぼみが至るところにある。成人男性二人を横たえて少し隙間が残るくらいの大きさで、深さはそうない。滅多に顔を合わせることのない老人に伴われて初めてその部屋に降りたとき、桜は自家用プールの存在をそこに見つけ心躍った。普段日課となっていた魔導書の読解と暗記をちゃんとやったご褒美なのだと思ったのだ。
 季節は夏。間桐の庭からは虫の鳴き声が聞こえる。ひんやりとした地下の空気と薄暗い蝋燭の照明が子供心に不安感を残すも、彼女は努めて目を瞑った。なんとなればこの幼い少女にとって、自分の置かれた状況は理解することができないものであったからだ。
 服を脱げ、そう言われて素直に脱いだ。恥ずかしさは余り無かった。まだ性に目覚めていない精神は自己の裸体を恥じることなど無い。これはいよいよ水遊びなのだと思い、水槽の『ような』窪みに飛び込む。足裏に冷たい石の感触を感じる。たぶん頭上で自分を見下ろしている老人が『水』を入れてくれるのだろう。
 会話はほとんどない。気むずかしげに腰を折ってしかめ面を崩さない老人に話しかける勇気は桜にはなかった。やがて水槽の中央、三十センチ四方のタイルが沈みだし、ぽっかりと穴が姿を見せる。手持ちぶさたの桜は学校で体育のときにそうするようにと習った座り方で、両足を折って腕で抱えこむ。そうして水が来るのを待ちながらぼんやりと孔を見ていた。
 彼女の視界に『ヘンなもの』が見えた。ミミズが極限まで太ったような不思議なフォルムをした肌色の・・・。彼女はそれを虫だとは認識しなかった。その表皮があまりにも肌色であったためだ。それは切り取られた人体の器官の一部であるかのように思われた。数瞬彼女とそれは見つめ合う。桜が悲鳴を上げて老人に助けを求めるのと同時に、それが久しぶりの獲物に嬉々として飛びかかる。信じられない跳躍力でそれは彼女の眼前に飛んだ。そして叫び声を上げるために開いた小さな口に飛び込んだのだ。


  ●●●


「先輩、あまり驚いてくれないんですね」

 気だるい声を彼女は出す。士郎の肩に頤を預け、両手を首に回して、ぼんやりと男の顔を見ていた。

「何に驚けばいいんだ。桜が魔術師だったことに?それとも『こんなこと』をしたことに?」
「どっちにも驚いて下さい」
「でも、桜が魔術師なんてずっと前から知っていたしな。『こんなこと』の方は十分驚いてるよ」

 彼は肘を曲げて不自由な姿勢のまま桜の髪を撫でた。その手があまりにも気持ちいいものだから、桜はしばし目を閉じて得難い幸福に酔う。無言の時間は続いた。

「・・・わたしが魔術師だって、いつ頃?」
「ずっと昔。まだ高校生だった頃。最初は腰を抜かす程驚いた」
「なんで何も言ってくれなかったんです?」
「あれだけ周到に隠蔽してたんだから、桜にとって触れられたくない事実だったんだろ。おれにも人に触れられたくないことはあるし、同じようなものだなあ」

 この人は随分ととぼけた口ぶりで、相変わらず残酷なことを言う。桜は少し腹立たしい気分になって、筋肉で盛り上がった男の肩に軽く爪を立てた。

「先輩の触れられたくないことってなんですか?」
「もう覚えてない。ずっと昔のことだからさ」
「そう、ですか」

 また無言の帳が降りて、彼女の舌の先が彼の首筋を這う。ぺちゃぺちゃと音がするわけでもない。なのに大層淫靡な感じがした。

「・・・桜」
「はい?」

 嘗めるのを中断して彼女の瞳が彼の方を向く。

「どうしてこんなことしたんだ?『魅了』か?」
「ええ。そんなところです。先輩って魔術に掛かりやすい体質なんですね。あんな簡単に掛かってくれるなんて思ってもみませんでした」
「そうだな。遠坂も教えてくれればよかったのに」
「・・・遠坂先輩のことを話すのはマナー違反だと思います」

 桜は軽い声を出そうとして失敗した。急激に纏う空気を変えた桜を横目に、彼は再び会話を続ける。

「それで。理由を聞かせてくれ」
「『こうしたかった』じゃ、だめですか?」
「だめだ。理由があるだろ。おれが聞きたいのは、何で今なのか、ってことなんだ。ずっと我慢してきたんだろ」
「はい。ずっと我慢してきました」

 知られているならばしょうがないと、桜ははっきり言い切った。士郎が桜の想いに気がついたのは聖杯戦争が終わり少し経ってからのことである。自己の裡に目覚めた新しい感情を持てあましながら、彼は自分に連なる他人を眺め続けてきた。それまで興味を持たなかった他人の『内面』を推測する術を覚えたのである。通例幼時には習得する技術を彼はこのとき初めて使った。桜の好意に気がついたときの驚きは、彼女が魔術師であることを知ったときよりも更に大きい。自分が他者に好意を寄せられる存在である、そのことの意味は計り知れないほどの重要性を持っている。衛宮士郎という矢印は、何かを指向するためだけに存在する。そんな矢印を指向する第三の矢印の存在は、彼の価値観を根底から覆すものだった。
 だからあえて目を瞑った。

「ならなんでさ?」
「ねぇ先輩。わたしたちなら楽しく暮らせると思いませんか?」

 唐突に、そんな台詞を彼女は呟いた。挑戦的な、それこそ何かを『賭けた』言葉であることは明白。だが士郎は受け入れることができない。

「悪いけど桜、それは無理だ」
「そんなことありません。だって、わたしと、先輩と、『セイバーさん』と、『三人』で暮らせば、きっと楽しい毎日です」

 士郎は大きく息を吐く。そんなことは分かっていた。桜がそこまで知っているかもしれないということは、彼が割り出した可能性の一つに、確かに入っていた。桜は魔術師。聖杯戦争には間桐慎二が参戦している。魔術の伝承は一子相伝というが、それならば、桜こそが『伝承を受けた』ものであることは少し考えればすぐに分かる。桜はきっと知っているだろう。聖杯戦争の顛末も、セイバーと自分の結末も。だから・・・

「パス」
「はい。通しました。先輩も感じるでしょう?おぼれそうになっちゃうくらい大きな魔力。この魔力は・・・」
「聖杯か」
「そうです。先輩の毀した聖杯の魔力は、わたしに還元されていく。サーヴァントを一人喚ぶくらい・・・」
「桜はそれでいいのか?おれの目はおまえの方を向いてないぞ」

 首に巻き付いた女の腕が少しきつくなる。その様子はまるで、ジェットコースターに振り落とされまいとロッキングバーを握りしめる恐がりの女の子。

「先輩はきまじめすぎるんです。ほんの少しのお零れでも、幸せになれる人間はいるんですよ。先輩はわたしを思ってくれるけど、そのために遠ざけられてしまうなら、わたし!」

 桜は思った。お爺さまも先輩もおんなじだ、と。一つのことに執着する人間は、対象に操を立てる余り、他の者になにも与えようとはしない。しかし与えられる人間にとって、ほんの少しの愛、ほんの少しの配慮、ほんの少しの顧みでも、ゼロよりは遙かに良い。彼女はそう考える。間桐臓硯がもう少し思いやりをもって自分に接していたら、きっと彼女はそれに縋っただろう。辛い責め苦も、きっと耐えただろう。臓硯の望みがなんであれ、きっとそれを叶えさせてやっただろう。だが老人は、少女になにも与えなかった。人並みの愛はおろか、関心すらなかった。
 なぜ人は潔癖であろうとするのか。雀の涙ほどの愛だって貪るように求める者はいるのに。なぜ与えようとしないのか。それが彼女の疑問だった。

「わたしたち、きっと上手くやっていけます。ご飯だってとびっきりおいしいのを作っちゃいます。あれから随分上達したんですから。みんなでここに住みましょう。先輩。楽しく笑いましょう!」

 言葉の最後は怒号に近い。全身全霊の懇願だったのかもしれない。

「だけど、遠坂は」
「『あの女』のことは言わないで下さいっ!!」

 喉も裂けよとばかりに彼女は叫んだ。部屋中の障子を揺らして、その声は虚空を切り裂いていた。


<続>


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