Fate / Sword & Sword 十七話〜 (傾:斬魔大聖デモンベインとのクロスオーバー)


メッセージ一覧

1: ベイル(ヴェイル) (2004/04/19 19:25:52)[veill at arida-net.ne.jp]

注:このSSはニトロプラスの荒唐無稽スーパーロボットAVG「斬魔大聖デモンベイン」とFate/stay nightとのクロスオーバーです。苦手な人はお気をつけ下さい。

一〜十話
http://www.springroll.net/tmssbbs/past/4/1079535178.html
十話〜
http://www.springroll.net/tmssbbs/read.php?id=1080446512

2: ベイル(ヴェイル) (2004/04/19 19:26:17)[veill at arida-net.ne.jp]

 そこは一体どういった場所なのか。
 古代エジプトの王宮のような、それでいて神殿めいた荘厳さを兼ね備えた巨大な建造物であることは間違いない。焼け付くような太陽の光が降り注ぐのを、石柱に支えられた屋根が防いでいた。ただし、その場所には壁はなく、神殿めいた建物は吹きさらしになっている。外にはナイル川の水面がキラキラと煌めき、しかしそれに相反するように、聞くもおぞましい呻き声とも鳴き声ともつかぬ異音が流れ続けていた。
 その中央に、切り出された異世界の鉱石を組んで作られたとおぼしき玉座が鎮座している。一見して優雅で煌びやかな装飾が施されたように見えるそれは、だが実際には無数の怪物の姿が所々に彫り込まれていた。真っ当な神経の持ち主なら、この玉座に座らせておくだけで正気を失うだろう。それほどまでに、玉座に彫り込まれた魑魅魍魎の姿は真に迫っているのだ。
 そして、その呪わしき玉座に平然と腰掛ける褐色の美女こそ、この王宮にして神殿たる世界の女王に他ならない。
「……ここへ」
 命じる声。その淡々とした響きが石造りの神殿に響き渡り──大した声量ではなかったというのに──何と、彼方から応えが返ってきたではないか。

──てけり・り──

 うごめく「何か」の声が響き、次の瞬間、現れたのは黒くぬめぬめした不定形の「何か」だった。そのスライム状の生き物は神殿の床を這って──あるいは歩いているのかも知れないが──女王の御前まで赴き、そこで背中(?)に背負っていたものをゆっくりと床の上に投げ出した。
 それは、この悪夢のような光景の中ではひどく浮いている存在だった。人間に間違いない胴体に四肢、まだ成長しきっていないように見える若い顔に、今は虚ろな表情だけをにわかで貼り付けたように浮かべている。衣服は溶かされでもしたのか、一糸まとわぬ全裸。鍛えられた健康的な筋肉を保持した、赤毛の少年であった。
 紛れもなく、かつて衛宮士郎と呼ばれていた少年の姿である。
「人間に過ぎぬ身としては存外によく耐えたもの──褒めてつかわしましょう、衛宮士郎」
 そう言って、女王は玉座の上から、横たわる裸の少年に愛でるような──同時に嘲るような賛辞を送った。
「しかし、我が処刑異界「さかしまに映る楽園<ミラーワールド>」にあって正気と狂気は常に反転し続けるもの。生まれつきの狂気の住人でもない限り、この世界で正気を保ち続けることなど不可能」
 ──てけり・り──
 女王の言葉に頷くかのように、衛宮士郎を運んできた不定形の生物──恐るべきショゴスが鳴き声をもらす。奉仕種族たる彼らの、この世界での主は目の前の女王だった。
 遙かに流れるナイル川も、この神殿の如き王宮も、全ては女王の精神世界から投影されたものである。この世界──「さかしまに映る楽園<ミラーワールド>」は女王の宝具たる「鏡」の内に存在し、入り込んだ者の心象風景を歪めて正気を失わせ続けるという処刑場なのだ。
「……とはいえ、この異界の中でこれほどまでに耐えた男は久しいわ。ショゴス、この少年は私の霊廟へ運びなさい。この戦いが終わるまで、私が直々に愛でてあげましょう」
 口元を歪め、女王はそう言ってショゴスに衛宮士郎の亡骸を再び背負わせた。うごめく不定形の怪物は、そのまま玉座を迂回して神殿の地下へと消えていく。
 そして、ショゴスの鳴き声が完全に聞こえなくなってから、女王は不意に口を開いた。
「さあ──そろそろ姿を現してはどう? 魔獣に堕ちた女神よ」
「────」
 刹那、それまで影一つ存在しなかった神殿の外から、眩いばかりの閃光が凄まじい勢いで飛来する。

<ペルレ──
「騎英の──

 まるで彗星の如き破壊の使者は、その勢いのまま神殿の屋根を吹き飛ばし、

 ──フォーン>
 ──手綱!」

 石柱を折り砕きながら、玉座の女王に向けて突撃した。




Fate / Sword & Sword




 その瞬間、女王の眼前に、魑魅魍魎が彫り込まれた巨大な魔境が実体化する。
「!」
 ──伝説に曰く、その鏡は現実と虚構の境を曖昧にするという。
 かつてのセイバー同様、彼女は自らの宝具が一瞬にして贋作に成り下がったのを実感した。
「クッ──!」
 同時に、女王が展開した魔境からも閃光が迸る。そこからカタパルトに撃ち出されるようにして飛び出したのは、彼女の使役する幻想種の反転存在──漆黒の天馬だった。
 天馬を吐き出し、魔境はそれで役目を終えたとばかりに姿を消す。対して、咄嗟に彼女が鞍から転がり落ちたのと、衝突した天馬同士が対消滅を起こして消え去ったのはほぼ同時であった。
「まさか……」
 対消滅の爆発に肌を炙られながら、長身長髪の美女は神殿の床に降り立った。片手に釘状の剣を携え、その両眼を厚い拘束具で覆った姿は、紛れもなくサーヴァントのものだ。
 マスターたる間桐桜に衛宮士郎の救出を命じられ、令呪の力によってそれを強制されたサーヴァント──ライダーである。
「ふふ──ライダーのサーヴァントともあろうものが、自ら愛馬を捨てるとはね」
「──キャスター、セイバーの言っていた通りのサーヴァントのようですね」
 口元を歪めて言い放つ女王──キャスターに、ライダーはにこりともせずに淡々と言葉を返した。
「鏡の後ろに隠れていなければ何もできぬ卑怯者──あなたのような創造主を持って、黒いセイバーもさぞ辛かったでしょう」
「ライダー、挑発ならもう少し洗練された罵倒をなさい。貴方如きに卑怯者呼ばわりされても、私の耳には心地よいだけ。私を誰だと思って? エジプト第六王朝の女王、ニトクリスと呼ばれた女よ」
 クスクスと笑いながら、何と、女王は自らの真名を明かしてみせる。
「この耳がどれだけの怨嗟を聞いてきたか、私の腕の一振りでどれだけの罪人が処刑されたか、どれだけの敵が水の底に沈んだか……卑怯者などというありふれた言葉では、この女王を褒め称えているとしか思えなくてよ」
「そうですね、合成獣などと交わって喜ぶ女怪風情に、皮肉が理解できると考えた私が愚かでした」
 淡々と、まるで感情のない口調で毒を放つライダー。無論、これは単なる時間稼ぎだ。キャスターがこの舌戦に乗っている内に、士郎を救出する手段を考えつかなければならない。
 しかし──何の気なしに言い放ったライダーの言葉は、彼女の予想を超えてキャスターの表情を歪めさせた。
「何と──私の合成獣(キメラ)達を虚仮にする気か」
 唇を振るわせ言い放ったキャスターは──辛うじて平静を装ってはいるものの──その内心を怒りの炎で焦がされていることが誰の目にも明らかだった。
「獣の美しさと人の美を兼ね備えた合成獣(キメラ)こそ、真に美の具現とも言うべき芸術品! それが理解できないとは、所詮魔獣風情」
「貴方のセンスには脱帽します──合成獣如きにそこまで情を移せる審美眼にも」
「口を慎みなさい、蛇女」
「これは失礼を、獣姦趣味の女王陛下」
 わざと口元を微かに歪ませ、皮肉たっぷりに一礼してのけるライダー。半分は駆け引きだが、残り半分は本心だった。そうでなければ、冷静な彼女が手札を開ける前に無駄に掛け金をつり上げるような真似をするはずがない。
 それでも、女王は挑発に乗って玉座から降り立ち、引きつった口元に無理矢理笑みを浮かべて見せた。
「気が変わったわ、貴方も我が霊廟に招待しましょう。飢えた合成獣達に、貴方の体を与えるのも一興──ご心配なさらずとも、彼らは海神ポセイドンなどよりよほど女の悦ばせ方を心得ているわよ」
「魅力的な申し出ですね──ですが」
 と、不意にライダーの表情が元に戻り、口元に浮かべていた笑みも幻であったかのようにかき消える。同時に、その両眼を覆った眼帯の内側から、淡い紫色の光が突如としてこぼれだした。
「魔眼を使うつもり? 愚かな──私の「鏡」がありとあらゆる意味で貴方の天敵であることに気付かない?」
「ご心配なく、今貴方に使うわけではない……既に魔眼は使っていましたから」
「何?」
 刹那──女王の立つ王宮の下、いや周囲から、凄まじいまでの異形の咆吼が迸った。
「な──!」
 同時に、まるで王宮の地盤を揺らすような自身が二人を襲う。キャスターは突然の地震に体勢を崩し、玉座に縋り付いたが、ライダーはこれを予期していたかのように駆け出した。体を倒して両手両足を床に突き、揺れにあわせて体勢を崩すことなく疾走するその姿は、人と言うより獣の走りに近い。
 同時に、王宮の周囲から黒い粘液質の化物が這い上がってきていた。

──てけり・り──!
──てけり・り──!

 無数のショゴス──否、ここまで来れば「大群」と表現していいだろう。しかも、その全てが全身を奇妙な興奮に染め、動作も慌ただしく女王の王宮に侵入してくる。
「私の魔眼には魅了(チャーム)の力もある──奉仕種族の中でも、ショゴスが特に精神操作にかかりやすいことを忘れていましたか?」
 玉座にしがみつく女王のそばを通過するとき、ライダーはすれ違いざまにそう言ってのけた。
 そう、彼女はこの神殿にたどり着くまでに、あらかじめ眼下のショゴス達に向けて魔眼を振りまいてきたのだ。彼女の魔眼は最高位の<キュベレイ>──A判定の魔眼は、人とも神とも違う精神構造を持つ人外にすら効果を及ぼした。
「貴方の王国は、やはり反乱で潰えるのが相応しいでしょう」
 そう言い残し、ショゴスの反乱によって侵される王宮を後目に、ライダーは先刻士郎が運び込まれた地下へと侵入した。





 赤い景色だった。
 彼の魂は、死してなおこの光景に縛られる運命であるらしい。否──それも当然か、彼の行く末は、すなわちあの赤い騎士に他ならなかったのだから。
 天すら焼き焦がす紅蓮の炎が、数多の命を呑み込んで燃え上がっている。その炎に焼き尽くされた士郎は、もはや炎そのものであった。何人も触れることあたわず、抱擁がもたらすのはただ死のみ。自我にも明確な区切りはなく、どこまでが「炎」でどこまでが「士郎」なのか、彼自身にも分からなくなってきていた。
 心霊学的には、魂と「それ以外」の境界が薄れていくのは危険な兆候だと言われている。その境界を失ったとき、人は個体ではなく「死者」というカテゴリの一体と化す──黄泉の鍋のものを喰うのと同じだ──が、それはもうどうでもいいことであった。「死んでいる」という事実が先にある以上、理屈をこね回しても何の意味もない。
 衛宮士郎という心は砕け散ったのだ。もう存在しないのだ。だからこの赤い景色も、死の直前に見る走馬燈とやらが少しばかり遅れてやってきたに違いない──
『……シロウ』
 刹那、そう呼びかける声とともに、赤い景色の中に白い女の姿が現れた。
「シロウ──間に合ったようですね」
 間に合った? 否、とうに手遅れだ。衛宮士郎は、もう死んでる。
「シロウは運が良かった。私には夢魔として夢に侵入する能力もあります。夢には真も偽もありませんから──ですが、今の貴方は精神の破壊が著しい」
 破壊、というフレーズに眉をひそめ、女は炎の中に手を伸ばした。白い繊手が火の中に沈む──と見えるや、何と燃えさかる炎の中に、ぼんやりとではあるが衛宮士郎の輪郭が浮かび上がったではないか。
「私が分かりますか? シロウ」
「……ライダー」
 女──ライダーの問いに、ぼんやりとした声で答える士郎。その輪郭は曖昧で、表情は虚ろだった。既に魂の崩壊が始まっている証拠だ。
「シロウ、一体何があったのです」
「……何が……」
 一瞬、呆然とするように言葉を途切れさせ、だが士郎は再び口を開いた。否、失われた心が紡ぐ声は、あの生まれたばかりの赤子が放ったのと同じ、慟哭と呪詛だ。
「殺して……しまったんだ、ライダー……たくさん、みんな……憎くて……怖くて……怖い、怖いんだ、ライダー……みんなが、全てが、俺を憎んで苛むから……だから、みんな、殺したんだ……俺が……怖いから」
「しっかりしてください、シロウ。アナタは誰も殺していない」
「違う……違うんだよ、ライダー」
 あの遠坂凛が偽物だとしても、それを殺したエミヤシロウは間違いなく本物だった。
 たとえあそこにいたのが本物の遠坂凛だったとしても、彼はやはり同じように殺していただろう。
 罪は消えることなく──
 なくしてしまった正義は取り戻せず──
 砕け散った心は、もう元に戻ることはない。
「正義──」
 ふと、自分の思考に戸惑うかの如く、士郎がぼんやりとした声を出した。
「正義の……正義の味方は……」
「正義の、味方──」
 まるで思考の海をたゆたうような士郎の呟きに、ライダーがどこか、彼女らしからぬきょとんとした声をもらす。その様子に気付いて、士郎の目が虚ろな視線をライダーに向けた。それに対して、ライダーは思い出したように、
「いえ、クロウもそのようなことを言っていましたから」
「え……」
 刹那、ライダーがもらしたその言葉に、士郎の輪郭が僅かに揺らぐ。しかし、ライダーはそれを気にとめもせず、いともあっさりと次の言葉を口に出していた。
「分かりました。荒療治になりますが、先にシロウを覚醒させましょう」
 提案ではなく、決定済みの選択肢を有無を言わさず突きつける。荒療治? 覚醒? と士郎が疑問を抱く暇も与えず、ライダーは──文字通り問答無用で、その唇を揺らぐ士郎の唇に押しつけた。
「!」
 口づける。唇をあわせるなどといった生やさしいものではなく、まるで貪るようにライダーは士郎の輪郭を引き寄せた。その衝撃に、炎の中で士郎が僅かながら実体を持つ。
 同時に、炎に炙られたライダーの眼帯が焼け落ちた。しかしライダーの肌にはやけど一つなく、落ちた眼帯の下から、これまで見たこともないような美しい瞳が現れる。
「力を抜いて──目を、合わせてください」
 唇を離し、やはり提案ではなく命じるように──あるいは誘うように、士郎を見据えて言い放つライダー。その言葉に逆らえるわけもなく、士郎はいわれるままに彼女の瞳を覗き込んだ。
 それがかつて女神と呼ばれた女怪の魔眼──士郎は気付かない、自らの意識が、死の灼熱とは別の熱さによって焼き焦がされていくことに。
 何か──暖かくて柔らかいモノが──触れている──。
「シロウ──」
 声が、脳内に直接甘い蜜を注ぎ込むかのようだった。
 死者であるが故に、生への執着と同様、魔眼に対する精神的抵抗も零になっている。故に、魔眼によって焼き焦がされた神経に、ライダーは直接愛撫を加え始めた。
「狂わないでくださいね」
 次の瞬間、士郎の意識は甘やかな地獄へと叩き落とされた。






 具体的にいえば、それは性快楽だった。
 だがはっきり言ってしまえば、それは暴力以外の何者でもなかった。
 ごぽごぽと流れ込んでくる悦楽は限界を超えて呑まされる酒に似ていて、しかし窒息する苦しみすら塗り潰すような快感だった。柔らかい肉の塊が覆い被さってきたような感触があったと思えば、溶け崩れた自分の全身がその肉と融合してしまうような実感があった。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の全てが閉ざされていた──というより、脳に性感以外の感覚を受け止める余裕がなかった。脳自体が女のカラダに埋もれたまま機能停止したのではないかと思った。
 果てのない快楽に呑み込まれ、絶頂は途切れることなく、終わらぬ絶頂の果てに悟りの境地にも似た真っ白な世界を垣間見るも快楽に翻弄される余りまるで違う場所に呑み込まれ、堕落し、落ちていくだけだった。つまるところ、未熟な遠坂凛のカラダしか知らない士郎にとってはとてもではないが許容できる代物ではなく、“死ぬほど”気持ちいい、という言葉を通り越して死者すら甦らせるような圧倒的かつ暴力的な性交だった。
 よって──やがて意識も途絶え思考も途絶え絶望すらも途絶え、まるで十年前のように何もかもが真っ新になった士郎が目を覚ましたとき、彼は灼熱の地獄ではなく、冷たい石の床の上に横たわっていた。
「……気がつきましたか、シロウ」
「──ッッッッッッッッッッッ!」
 瞬間、ごく間近から自分を見下ろす美女の声に、士郎は狼狽しながらその名を呟いた。
「ラ、ライダー?」
「ええ──覚醒はできたようですね」
 愕然と彼女を見上げる士郎に、ライダーはいつも通りの淡々とした口調で言葉を紡ぐ。顔が近いのは、士郎の頭が正座したライダーの膝に乗っているからだ。
「な、何が……」
 瞬く間に赤面して、士郎は混乱しつつもライダーの姿を確認する。いつも通りの露出過多な服装だがとりあえず衣服は纏っており、焼け落ちたはずの眼帯も目の位置に残っていた。しかし、あの生々しい感覚は夢だったとは……
「シロウの精神は急いで覚醒させなければ危険な状態でしたから──交わって、力尽くで意識を戻させました」
 僅かに残っていた希望的観測を木っ端微塵に打ち砕いてくれたのは、冷淡かつ冷静なライダーの言葉であった。
「肉体を介しての痛みなどでは効果がないようでしたから、精神内に侵入して直接交感を。無論、同時に肉体そのものも交わらせましたが」
 などとあっさり言ってのけ、なおかつライダーはふと小首をかしげて、
「一歩間違えれば脳神経が焼き切れて廃人でしたが……士郎が頑丈で助かりました」
「そ、そう……」
 もはや何を言っていいのか分からず、士郎は阿呆のように呆然と頷いた。
 何しろあまりの快楽に発狂し、しかし次の瞬間には快楽の余り正気に戻ってしまうという地獄的な連鎖の繰り返しだったのだ。ライダーは精神だけでなく肉体も──その、交わったと言っていたから、つまり、コトが済んだ後の後始末も彼女がしたのだろう。それ以上考えると本当に脳がどうにかなりそうだったので、士郎は無理矢理思考をストップさせた。
「シロウ、怒っていますか?」
「い、いや」
 淡々と問いかけるライダーに、膝の上で首を横に振る士郎。確かに、自身を「死んでいる」と認識していた士郎を覚醒させるには、頬を叩いたり刃物で斬ったり刺したりといった程度では効果がなかっただろう。ライダーの能力内で、四散しかかっている意識を強制的に現実に復帰させるには、性交による快楽が一番手っ取り早かったというだけのことだ。
 何か、代わりに致命的な傷を心に負わされた気もするが、背に腹は代えられないと無理矢理納得する。
「そ、それでライダー、ここは一体……」
「この世界は、おそらく侵入者の精神を責め立て、崩壊させる魂の処刑場です。場所のことを聞いているなら、キャスターの王宮の地下に作られた工房──というより、神殿のようなものだと思いますが」
 そう言って、ライダーは周囲の空間をぐるりと見回す。二人がいるのは壁際だが、所々に設置された燭台の灯りが、冷たい土と石の部屋を照らし出していた。
 一種の迷宮じみた地下世界。燭台の灯り程度では反対側の壁すら見通せず、薄闇の中で見上げても天井さえ目視できなかった。もっとも、それは士郎の視覚の話で、サーヴァントであるライダーの目なら見通せるかも知れなかったが、どちらにせよ途方もなく広い空間だということは間違いない。
「シロウ、体は動きますか?」
 不意に問われ、士郎は投げ出された四肢──ライダーが着せてくれたのか、白い布服を身に纏っている──を動かさんと力を込めた。両手両足、指の一本でも──
 ……しかし、士郎の体は何年も寝たきりになっていたかのように硬直し、渾身の力を込めても何とか這うことができる程度だった。
「……ゴメン、ダメみたいだ」
「そうですか」
 落胆した様子もなく頷いてみせ、ライダーは士郎の頭をゆっくりと床におろす。そして彼を壁にもたれさせかけると、自身の武器──釘状の短剣──を取り出して背後の暗闇へと振り返った。
 そこから、少しずつだが確実に、何者かがうごめく気配が近付いてくる。
「──伝説に曰く、彼の女王は神殿の地下深くにて、人と獣を混ぜ合わせた合成獣(キメラ)とともにおぞましき饗宴に耽っていたという」
 淡々としたライダーの声が合図であったかのように、それらは地下神殿の闇の中から姿を現した。
「……シロウ、そこを動かないでください」





 短剣を繋ぐ鎖を鳴らしながら駆け出したライダーのスピードは、まさしく神速と呼ぶに相応しかった。
 冷たい石の床を軽やかに蹴り、半ば四足歩行に近い体勢で獣達に接近する──同時に、すれ違いざま釘状の短剣が閃き、左右の合成獣から首だけを切り離すのだ。まるで大昔の舞踏のようなその動きに、士郎はただ「美しい」と思った。
 しかし、人と獣を掛け合わせたような、と伝説に唱われる合成獣(キメラ)達は、二人の目から見ても少々不細工に過ぎる代物だった。
 獣の肢体に人間の上半身と翼を融合させたスフィンクスのような獣はまだいい、しかし、その足下でうごめくワニと猿とキジの合成だの、左右から迫ってくる牛頭蛇身だの、あまつさえトーテムポールのように様々な獣の胴体を縦に重ねた化物だのまで現れては、さすがに制作者の美的センスを疑うしかない。
「悪趣味な」
 何度目かも分からぬ冷淡な罵倒を口に出し、ライダーは再度短剣を振るった。ワニの頭を石の床に縫いつけ、そのまま片方の短剣を手放して宙を舞う。短剣の柄と柄を繋ぐ鉄鎖が、絶妙のタイミングでスフィンクスの首に巻き付いた。
 無言のまま、ライダーは着地と同時に鎖を引く。スフィンクスは「ぐぇ」という呻き声をもらして泡を吹いた。もう一度力を込めると、今度は完全に首の骨が折れる。
 更に、振り向きざま剣を振るって猿のような合成獣の胸を突き刺し、引き抜くやいなや返り血を浴びることもなく後転する。ワニを縫いつけていた短剣を引き抜いて、おまけとばかりにその頭を踏み潰した。同時に、鎖を巧みに操ってスフィンクスの死体を投げ捨て、突進してきた別の合成獣に激突させた。
「ッ、ライダー!」
「──!」
 その瞬間、切羽詰まった士郎の叫び声に、ライダーは咄嗟に身を伏せる。一瞬後、それまでライダーの首があった空間を、鳥の体に狼の頭をくっつけたような合成獣が通り過ぎた。
 あのまま突っ立っていれば、狼の鋭利な牙に首筋を噛み裂かれていただろう。
「──礼を言います、シロウ」
 淡々と言い放ち、即座に床を蹴って跳躍するライダー。壁の士郎に背を向け、まるで彼を守るように合成獣達の前に立ちはだかる。
「少し、数が多いですね」
 冷静な呟きは、彼女が初めて吐いた弱音とも聞こえた。だが、次の瞬間──
「自己封印・暗黒神殿<ブレーカー・ゴルゴーン>──解放」
 冷たく、熱く、言い放ったライダーの声とともに、その両眼を覆っていた眼帯が、まるで弾かれたように外れ落ちる。

 ──伝説に曰く、その目を直視したものは石と化す──!

 直後、石と土に囲まれた地下神殿に、無数の合成獣達の悲鳴が反響した。否、悲鳴そのものは一瞬だけだ。全ての獣達は絶叫した表情のまま瞬く間に硬直し、そして、みるみるうちに全身が石化していくではないか。
 合成獣といえど、所詮は自然の法に反して製造された獣の出来損ない。解放された最高位の魔眼に対抗する術など、あろうはずもない。
「ライダー……」
 全ての合成獣が、もはや声をあげることすらできずに石化したのを見て、士郎は呆然と目の前のサーヴァントを呼んだ。
 鏡を嫌い、最高位の魔眼を保有する伝説の女怪──士郎の考えが正しければ、彼女は神々の気紛れによって魔物に堕とされたギリシャの女神──
「ひょっとして、ゴルゴーン三姉妹の?」
「……その末女、メデューサです」
 やはり淡々とした口調で、ライダーは振り返ることなく自らの真名を明かした。
「日本では、魔獣としての私の方が有名なようですが」
「あ、ああ──そうか、鏡が苦手なわけだ」
 魔女メデューサが英雄ペルセウスに首を落とされた顛末は小学生でも知っている。彼女は、鏡のように磨かれた盾が原因で命を落としたのだ。
 無言のままライダーは眼帯を拾い上げ、再び自身の魔眼を封印した。それから、ようやく士郎を振り返る。
「さあ、行きましょう。早くここから脱出しなくては──」
 と、言いかけた、瞬間──
「!、ライダー!後ろだ!」
「!」
 士郎の叫びに、反射的に身を翻そうとするライダー。しかし、それよりも一瞬早く、背後から飛び掛かってきた影がライダーの肩口に牙を突き立てていた。
「ッ──!」
 牙が深々と食い込み、血がしぶく。ライダーは咄嗟に短剣を持ち替え、逆手に握って敵の頭部に振り下ろした。しかし、敵は即座にライダーの肩から飛び離れ、短剣の刀身から逃れる。
 士郎の言葉を聞いて身を翻しかけたからこそ、肩の傷だけで済んだ。あと一瞬遅ければ、敵の牙は頸動脈を噛みちぎっていただろう。
「ライダー!」
「大丈夫です、肩は撃たれた内に入らないといいますから」
 思わず声をあげた士郎に、ライダーは珍しく軽口を叩いた。動揺しているのか、その口元も僅かに引きつっている。
 しかし、それは傷の痛み故ではない。
「まったく……救いがたいセンスですね」
 毒づきながら振り返り、そこに立つ「敵」の姿をにらみ据える。同時に、ライダーは再び眼帯を外してその両眼をさらけ出した。
 地下神殿の薄闇の中──彼女の眼前で牙をむいている敵。
「セイバーに続いて、私まで投影したということですか」
 そこにいたのは、紛う事なきライダー──メデューサ自身であった。
 長身長髪に剥き出しの魔眼、その顔立ちや白い肌までまったく一緒だ。ただし、下半身が巨大な蛇の尾になっていることと、その長髪が不気味にうごめいていることを除けば、だが。
「どうやら私の神霊適性を取り除き完全に魔獣化させた姿のようですね。あの悪趣味な女王らしい」
「ラ、ライダー、ひょっとして怒ってる?」
「いいえ、私は冷静です、シロウ」
 平然と言ってのけ、澄ました表情でもう一体の自分を見据えるライダー。どうやら、肩口の痛みさえも忘れ去っているらしい。
「もう少しだけ待ってください。今、この趣味の悪い贋作を片づけてしまいますから」
 そう言い放ち、ライダーは再び床を蹴った。

3: ベイル(ヴェイル) (2004/04/19 19:26:53)[veill at arida-net.ne.jp]

「ッシャァァァッ!」
「──ッ!」
 交錯する閃光と閃光、牙をむき襲いかかってくる敵“メデューサ”の爪を、ライダーは両手に握った短剣でさばいた。武器を持っている方が有利……とは言い切れない。神性を失って獣性を解放しているなら、敵“メデューサ”の「怪力」技能はライダーよりも上のはずだからだ。その他の技能はさすがにライダーの方が上回っているはずだが、元々耐久力が低いライダーにとって、筋力で負けているというのはかなり辛い状況であろう。
 加えて、敵も“メデューサ”である以上、宝具は使えない。
「悪趣味な!」
 もう数える気にもならない罵倒を繰り返し、ライダーは跳躍して頭上から“メデューサ”に攻撃を仕掛けた。解放した魔眼で動きを阻害し、短剣を振り下ろす。しかし、即座に顔を上げた“メデューサ”の牙が、釘状の刀身を阻んでのけた。
「クッ──セイバーは、よく……」
 歯がみし、“メデューサ”を飛び越えてその背後に着地しながら、ライダーは苦々しげに言葉を吐いた。“自分自身”を攻撃するというストレスがこれほどのものとは──不本意ながら、黒セイバーに打ち勝ったセイバーへ尊敬の念を禁じ得ない。
 しかも、相手も自分も魔眼を解放して戦っている。立ち位置に気をつけねば、魔眼の石化効果に士郎まで巻き込んでしまいかねない──今の士郎は魔術に対する抵抗力も零に等しいのだ──かといって、士郎から離れすぎるわけにもいかなかった。文字通り“目に見える”合成獣は全て石化させたが、この場所が安全であるという保証もないのだから。
「気をつけろ! そいつただメデューサの属性を反転させただけじゃないぞ!何か違う神性の属性も混ざってる!」
「ッ! イグの子供とでも合成させたのですか、悪趣味な」
 士郎の言葉に心の底から吐き捨て、ライダーはまたしても獣のような姿勢で床を蹴る。その姿は蛇どころか野生の狼だ。対して、“メデューサ”は長い尾をくねらせて石の上を滑り、シュルシュルと音を立てながらライダーを迎え撃った。
 短剣と爪。総合力で勝るライダーと、筋力に特化した“メデューサ”。魔眼のランクはライダーが上回っているから“メデューサ”の動きは阻害されるが、ライダーも士郎をかばっての戦いであるため思うように攻撃を仕掛けられない。互いに奥の手を欠き、しかし消耗し続ける最悪の闘争だった。
「この──!」
「シャアッ!」
 ぶつかる、爪が短剣を弾き、釘状の刀身が鱗をかすめ、牙が白い太股に傷を穿つ。鉄鎖が“メデューサ”の首に絡んだかと思えば、ライダーの胴を“メデューサ”の長い尾が薙ぎ払った。
 嫌な汗をかく。今ならペルセウスの気持ちが分かってしまいそうだった。鏡を睨み付けている方がまだマシだ。
──堕ちろ──
 言葉はなく、しかし“メデューサ”の魔眼がそう言っている。
──堕ちろ──
──堕ちろ──
──堕ちろ──
「貴様──!」
 脳髄に焼けた鉄串を突っ込まれたかのような感覚。魔眼が一際強い光を放ち、ライダーまでもが魔獣のサガに引きずられたかのように駆け出す。その、瞬間──
「積み(チェック)」
「!」
 ライダーの周囲を取り囲むように、何処からか無数の鏡が降り注いだ。
「ッ、キャスターか!」
 周囲八方、まるで万華鏡の中に閉じこめられたような光景の中で、自分自身の姿に包囲されてライダーが叫ぶ。刹那──鏡の一枚を粉砕し、凶相を浮かべた“メデューサ”が飛び掛かかってきた。
「!、しま──」
 それは一瞬の、しかし致命的な隙だった。
 咄嗟に構えた短剣を爪に押さえられ、辛うじて牙から首筋を逃れさせる──それが限界。
 次の瞬間、“メデューサ”の振り乱した長髪から飛び出した無数の“蛇”が、ライダーの全身にその牙を突き立てた。




Fate / Sword & Sword




「ッ──ああぁっ!」
 苦悶の声をあげる。常に冷静沈着なライダーの叫び声を、士郎は初めて耳にした。
「イグの呪い……とはいかないけれど、“自分”の特性を忘れるなんて間抜けもいいところ」
 そう言って、次々に崩壊していく鏡の向こうから現れた影がある。褐色の肌に裸同然の衣装、その頭に冠を戴いたキャスターのサーヴァント──女王ニトクリスである。
「魔女(メデューサ)の頭髪は無数の蛇──子供でも知っている話よ」
 クスクスと笑いながら、キャスターは“メデューサ”に羽交い締めにされたライダーに歩み寄った。白い肌の所々に牙の跡がつき、今も右肩、左腕、脇腹、右乳房、右足の太股に左足の内股、両ふくらはぎ、そして足首に蛇の頭が噛み付いていた。
 四肢は蛇の胴に締め上げられ、体は“メデューサ”に持ち上げられて足は地に着いていない。それでも余った蛇は首筋や腰にまとわりつき、何匹かは服の中にもぐってうぞうぞとうごめいていた。今、ここに現れてこの“メデューサ”の首を断ってくれるなら、そいつがたとえペルセウスであったとしても感謝のキスを捧げただろう。
「キャスター……!」
「アテネやヘラは、嫉妬に狂う姿こそ見苦しいけど、趣味は悪くないわね。女神の髪を蛇に変えるなんて……」
 苦しげにもがくライダーに、キャスターはうっとりとした表情のまま手を伸ばした。指先でライダーの髪を撫で、それを愛でるように指に絡ませた──次の瞬間、それを引き抜く。
「ッッッッッ──ああっ!」
「ライダーッ!」
 ライダーの悲鳴に、思わず絶叫する士郎。動けぬ四肢が、肉体が、あまりにも憎らしかった。
「やめろ!キャスター!」
「ふふ……」
 口元を歪め、キャスターは壁に寄りかかったままの士郎をちらりと一瞥した。引き抜いた十数本の頭髪が、手の中で絹糸のようにさらさらと流れた。
「そうそう、その「眼」はどうにかしておかないとね」
 苦笑し、キャスターはライダーを捕らえた“メデューサ”に命じて、彼女の両眼に再び拘束具をかけさせる。そして──
「ショゴスをなだめるのに少し力を使ってしまったわ」
 冷たくそう言い放つや、女王はライダーの肢体に寄り添うようにして下を伸ばし、その肩口からこぼれる真紅の血液を、まるで上質な蜜でも味わうかのように舐めとった。
「ッ……」
「んぅ……さすがは女神の端くれ、肌も血もこれほど甘露とは」
 ビクリ、と震えるライダーを上目遣いに見て、キャスターはなおも楽しげに笑う。その表情は愛おしげですらあった──ただし、愛は愛でもペットや愛玩具に向ける類の愛だ。
 牙をたてた蛇が血を啜る。そうしてこぼれた血を女王が舐めとる。その光景をただ眺めている士郎にも、段々とライダーの息が荒くなってきたのが見て取れた。
「や……」
 喉を震わせる。枯れてしまってもかまわなかった。どれだけ声を張り上げても鉛のように動かない自分の全身を、ハンマーで叩きつぶしてしまいたくなる。
「やめろぉぉぉぉっ!」
 叫ぶ。できるのはそれだけだ。どれだけ力を込めても、立ち上がるどころか壁に手をつくことすら叶わない。
「五月蠅くてよ、エミヤシロウ」
 淡々と、まるで興味のなくなった玩具を見るような目で士郎を見て、女王ニトクリスは不意にその爪を一閃させた。
「っぁ!」
 斜めに一筋──白い布服を切り裂いて、女王の爪は士郎の胸に傷を付けた。ライダーと違い深手ではないが、痛いというより、熱い。
「我が処刑異界にあそこまで耐えたことに敬意を表して、首は切り裂かないでおいてあげましょう。だから少し黙ってなさい」
 脳が焼き切れそうだった。傷が熱くて、全身は燃えるよう……だというのに、このポンコツはとっくの昔にエンジンブローでぶっ壊れている。
「クス──素直なのはよいことよ。
 さあ、ライダー。貴方が手に入ったのだから、私の合成獣(キメラ)達を馬鹿にしたことも、石にしてしまったことも許してあげましょう。私はネフレン=カほど無慈悲ではないわ。その代わり、貴方が石にしてしまった分の合成獣は、貴方に産んでもらわなくてはね」
 そう言って、キャスターは白い手袋をはめた手でライダーの内股をなで上げた。頬を紅潮させたライダーが、びくんと震える。
「クッ……殺せ、キャスター」
「嫌よ。せっかく手に入れたのだもの、そんな勿体ないことできるわけがないでしょう」
 こともなげに即答し、キャスターはふと思いついたように衛宮士郎を一瞥する。
「そうね、種はエミヤシロウのものを使いましょう。これから貴方達はつがいよ。合成する獣はこの世界にはいくらでもいるわ、貴方達の子供とこの世界の獣を掛け合わせて、私がより美しい合成獣(キメラ)を創って差し上げるわ。ライダー、貴方はこの世界で、魔獣の母(エキドナ)になるのよ」
「ッ!」
 キャスターの言葉に、ライダーと士郎は同時に身を震わせた。この暗い地下神殿に封じられ、正気を奪われたままに交わり、孕ませ、いかなる祝福もない赤子を女王に献上し続ける──そんな地獄。
「ふざ、けるな……」
 がり、と士郎の爪が壁をひっかいた。それが、彼にできる唯一の抵抗だった。
「そこで見ていなさい、エミヤシロウ。今、“母体”の準備を整えるわ」
 そう言って、キャスターは士郎を嘲笑うかのように微笑みかける。その手が、蛇に拘束されたライダーの足を広げさせた。
「よせ……」
 その光景を眼にしながら、士郎は呻くように声を出した。打ち砕かれた精神はもはや再生しない。いくら焦ろうと足掻こうと、士郎の体はぴくりとも動いてはくれなかった。
「やめろ……」
 無駄なことだ。既にエミヤシロウは敗北している。
 ──敗北? 一体、誰に負けたというのだ。
「やめろ──」
 確かに敗北したのかも知れない。だが、終わってもいないくせに勝手に諦めていいのか。ここまで自分を助けに来てくれたライダーを、こんな──こんな奴に好きにさせていいのか。
 自分のために命をかけてくれた“彼女”の想いを、諦めという名の裏切りで踏みにじっていいのか。
 誰かに負けるのは仕方ない──否、ここに至っては仕方ないではすまされない。まして、自分自身に敗北して諦めてしまうなど、許されるとでも思っているのか!
「やめろっつってんだよ!このクソババァ!!」
 その瞬間──どこかで、撃鉄の落ちる音がした。





『──神話を打倒する宇宙論理(ロゴス)を物語るのは情熱(パトス)だ。ただの感情の発露でなく、ただ沸き上がってくるだけの欲望でもなく、切なる祈りの空を紡ぎ出す情熱(パトス)は──』
 そうだ、それは神にだって否定できない、刹那にして永遠の“いのちの歌”──。

 ガタガタの自分に牙をむき、ポンコツのカラダに無理矢理火を入れる。火は怒りの発露だ。そして壊れた肉体を支えるのは、彼女からもらった誇りに他ならない。
 ──一度敗北した?
 ──正義を失った?
 ──肉体は既に死んでいる?
 ──正気を失った?
(それが──どうした!?)
 ギリギリと歯を食いしばり、動かぬはずの腕を動かして壁に手をつく。ざらついた感触の壁に体重をかけ、裸足の両足で床を踏みしめる。
 無様に、間抜けに、脆弱に──だがそれでも誇りを持って立ち上がる。
 衛宮士郎は立ち上がる。
「馬鹿な、何故……」
 唖然とした表情で、キャスターが声を震わせた。心中で、士郎もまた同じ言葉を呟いていた。
 ──どうして、立ち上がれたんだろう。
 士郎自身の力ではあり得ない。エミヤシロウの心に、そんな強さがあろうはずもない。

 ただ──打ち砕かれた心の中で、“彼女”の姿だけが変わることなく──!

「トレース……」
 振り絞る。全身の血管が灼熱し、指先から爪が剥がれて血が爆ぜた。思考はノイズだらけでイメージはガタガタ、紡ぐべき幻想すら崩れ去っている。それでも──
「オン!」
 ねじ曲がり、今にも砕けそうにひび割れた双剣を投影して、士郎は倒れ込むように女王へと斬りかかった。
「シロウ!」
 ライダーの声。斬りかかった剣は、帷子一つ身につけていないキャスターの肌に傷一つつけることなく砕け散った。もう一方の剣で下から斬り上げる。それもキャスターに触れた時点で凍り細工のようにバラバラになった。
 だが──皮一枚も斬れてはいないのに、傷など一筋もついてはいないのに、女王は愕然と、自分を“斬り捨てた”衛宮士郎を凝視する。
「馬鹿な──立ち上がれるはずがない! エミヤシロウの精神は、既に崩壊しているはずだ!」
 指さし、震え、甲高い声で女王は叫ぶ。その顔に浮かぶのは、紛う事なき恐怖の表情だ。怯えている、この世界の支配者にして「鏡」の主たる女王ニトクリスが、あり得るはずのない士郎の復活に恐れおののいている。
「何故立つ、何故戦う!? エミヤシロウの世界は、誰とも繋がっていない孤独の檻……どれほど足掻こうと、誰一人救えない世界であろうに!」
「そんなことは……ない!」
 無力であることが、無価値だなんて、
 非力であることが、無意味だなんて、
 ──そんなことはあり得ない。
 だって、命をかけて敵サーヴァントの正体を伝えてくれた“彼女”の姿は、こんなにもエミヤシロウの中で光り輝いているんだから!
「力が及ばず倒れることなんて許されない。ましてや、自分自身に屈するなんてあるはずがない!」

『子供の頃、僕は正義の味方に憧れてた』
『うん、しょうがないから俺が代わりになってやるよ』
──爺さんの夢は、俺が、ちゃんと形にしてやっから──

 呪い/誓いの言葉が、士郎の中に甦った。あれほど強く胸に焼き付けたというのに、己の“理想”たる赤い騎士の前で、決してなくしはしないと決めたというのに。
 その理想だけは穢れることなく、常に自分とともにあったというのに。
「そんな──あの赤子を見たのでしょう!? あの呪いを知ったのでしょう!? 世界は何一つ祝福せず、ただ世界を呪いながら生まれてくる子供達を見ただろう!? エミヤシロウッ!!」
「そんなもの──関係ないッ!」
 惑わされたのは、自分が未熟だからだ。たとえ自分のものじゃないとしても、衛宮切嗣が残した呪いだとしても、それをキレイだと思ったのは本物だ。その情熱(パトス)は紛れもない真実だ。
 倒れた“彼女”を美しいと思ったのは、絶対に嘘なんかじゃない。
 それは、たとえ神様にだって消せやしない──!
「確かに人は独りで生まれて独りで死ぬ、それは変えようがない真実だけど、そうして生まれて、死ぬまでに手にする理想と情熱は──決して呪いなんかじゃないッ!」
 幻視する。眼前に並ぶ無数の撃鉄を。
 詠唱する。この世で衛宮士郎だけが唱うことのできる、いのちの歌を。

   <体は剣で出来ている>
──I am the bone of my sword.

 その瞬間、薄闇に閉ざされていたニトクリスの地下神殿に、神々しいまでに赤い炎が走った。

   <血潮は鉄で 心は硝子>
──Steel is my body,and fire is my blood.

 炎は世界を侵蝕し、女王のものであるはずの神殿に無数の亀裂を走らせる。

   <幾たびの戦場を越えて不敗>
──I have created over a thousand blades.

 石が崩れ、土が崩れ、女王の世界が崩壊していく。

<ただ一度の敗走はなく>
──Unaware of loss.
<ただ一度の勝利もなし>
──Nor aware of gain..

「これは──あり得ない! こんなことが……」
 見る間に崩れ落ちていく神殿に、女王は愕然とした声を出した。その響きを、世界の新たなる主──衛宮士郎は一笑する。
 この世界は元より、入り込んだものの心象風景を歪めて映し出し正気を失わせる処刑空間だ。それは、ただの人間や魔術師にとっては心をさらけ出される煉獄だが、他ならぬ衛宮士郎にとっては、自身の心象風景を展開しやすい世界となる。
「まさか……シロウが、ラインをこじ開けて私の魔力を逆流させているというのですか!」
 同時に、“メデューサ”の戒めから解き放たれたライダーも悲鳴じみた声をあげた。傷ついた体から、魔力が根こそぎ吸い上げられていくのを自覚する。
 確かに、一度体を交わした際、互いの精神を深く繋げるためにライダーは士郎との間にパイプを繋いだ。だが、士郎を覚醒させた後、そのラインは完全に消去したはずだ。それを、ラインの痕跡からライダーの内にまで侵入し、無理矢理パイプラインを復活させるなど。

   <担い手はここに孤り>
──Withstood pain to create many weapons.
   <剣の丘で鉄を鍛つ>
──waiting for one's arrival  

 投影された“メデューサ”も、石化した合成獣達も消え失せた。壁も床も屋根も消滅し、王宮もショゴスもナイル川も何もかもが炎に呑み込まれ幻想の塵にまで分解される。
 これは<創世>だ。キャスターの世界を返還し、衛宮士郎だけが創り得る世界の創造だ。
 ──見ていろキャスター、こんな世界、俺の心(セカイ)で塗り潰してやる!

  <ならば我が生涯に意味は不要ず>
──I have no regrets.This is the only path.
  <この体は無限の剣で出来ていた>
──My whole life was "unlimited blade works" 

 世界の全てが崩壊する。新たな世界が上書きされていく。
 紅蓮の炎に包まれて、今ここに、無限の剣の丘が顕現した。
「女王──古き世界の女王ニトクリス」
 その世界の中心に立ち、士郎は震えるサーヴァントを睥睨する。もはや女王は支配者にあらず、かつてのように逃げ込める場所もない。
「覚悟を決めろ。もう、鏡はおまえを見限った」
 殲滅の意志を込め、撃滅の意志を込め、士郎は敗北の女王にそう言い放った。






「馬鹿なッ! そんなことが──そんなことがあるはずがない!」
 狂乱し、もはや自分のものではなくなった世界の中で、女王ニトクリスは絶叫した。
「鏡は私なのよ!私が鏡なのよ! 貴方如きに、我が「鏡」が敗れるはずがない!」
「……ライダー」
 声を荒げるニトクリスの叫びを聞きながら、士郎はふと、そのそばで膝をつくライダーに視線を向けた。口元に浮かぶのは微かな笑み、瞳には優しげな光さえ浮かんでいる。
「少し離れててくれ、今──こいつにとどめを刺す」
「ッ!」
 その瞬間、完全に無視された女王が、逆上の余り血の気を失った。
「増長したか!小僧ッ!」
 激昂し、女王は血が流れるほど強く唇を噛んで、自らの宝具を召喚した。同時に、彼女の眼前にあの魔鏡が顕現する。青銅の縁に恐るべき魑魅魍魎を彫り込んだ邪悪の鏡──「異界覗く魍魎の鏡<ミラー・オブ・ニトクリス>」が。
「鏡は私を裏切らない! この身を滅ぼせるというなら、やってみるがいいわ!」
「ああ、いわれなくてもそうするさ」
 対称的に淡々と言い放ち、士郎は無数に突き立った剣の中から一本の片刃剣<エンハンス・ソード>を引き抜いた。それを無造作に振りかぶり、何と、鏡に守られた女王に向けて投じる。
「愚かな!」
 それに対し、勝ち誇ったように哄笑する女王。彼女の前に立つ鏡は士郎が投じた片刃剣を映し出し、瞬時にそれを投影、属性を反転させた偽物を作り出して撃ち出そうとし──

 ──次の瞬間、甲高い音を立てて片刃剣が鏡面に突き刺さった。

「……え?」
 理解できぬ、あり得ぬはずの光景を目の当たりにして、女王の口から呆然とした声がもれた。ニトクリスの鏡に投影された武器は、その力によって真作から贋作へとおとしめられる。よっていかなる宝具も女王には通じず、この「鏡」に傷を付けられる武器など存在しないはず──。
「この世界にあるのは全て贋作だ。おまえの「鏡」は真実と虚構の区別をなくし、真作を贋作におとしめて宝具を封じる。だが──最初から贋作のものをどうやって贋作におとしめる?」
 女王の疑問を見通したかのように、士郎はいともあっさりとそう言った。
「これが俺の心(セカイ)だ。一本の真作もなく、無限の贋作を投影し貯蔵し続ける錬鉄場だ。
 だがな──偽物が、本物に敵わないなんて道理はない」
 言い放ち、士郎は自らのセカイで前に出る。その足が一歩を踏み出すごとに、まるで呼び寄せられるようにして無数の剣が集った。
 ここには、ありとあらゆる剣がある。ティルフィング、ミストルテイン、デュランダル、ヘルペー、干将莫耶、方天牙戟、童子切り安綱──一切合切全てが贋作、とるに足らない偽物ばかりだ。それでも、この偽物は本物をも凌駕し、贋作を持って真作をも打倒する。
 ましてや鏡に頼ることしかできない女王如き、討ち滅ぼせないわけがない。
「さらばだ女王、地獄で好きなだけ合成獣と戯れろ」
「ひっ……!」
 そうして、女王の眼前まで歩み寄った士郎は、無造作に足下の剣を引き抜いた。鏡はもはや女王を守護せず、世界は衛宮士郎に奪われた。故に、彼が振り上げるその剣を止める術は存在しない。
 次の瞬間、キャスターのサーヴァントたるニトクリスは、数多の剣に貫かれ消滅した。







「……あーあ」
 闇が集う。深く深く呪わしい完全なる暗黒(くろ)が集う。
 その闇を背負い、内包して、イリヤスフィール=フォン=アインツベルンはため息混じりに言葉を紡いだ。
「やっぱり心臓のない聖杯より、まがい物でも完全な聖杯を選ぶみたいね」
 そう言って、彼女は小さな掌を左胸に当てる。
 そこに宿るのは、命でも、想いでもない。ただ黒々と渦を巻き、永遠に踊り続ける混沌だ。
「……シロウの馬鹿」
 拗ねるように、嗤うように、少女の姿をした闇は、もう後戻りできなくなった少年の姿を思い浮かべてぽつりと呟いた。

4: ベイル(ヴェイル) (2004/04/24 14:17:04)[veill at arida-net.ne.jp]

 その日、夜の公園に、おぞましくもうごめくものがあった。
 薄桃色でひどく肥え太った一塊りの肉は、表面がぬめぬめとしたいかがわしげなモノ──つまり、虫らしからぬ蟲であった。通常、もっと乾燥した小さな生き物であろうはずの蟲どもは、もはや生物と言うより腐肉に近い。巨大な蛆虫といっても差し支えなかろう。
 だが、おぞましいのは虫そのものよりも、むしろ虫の量であった。
 何十匹……いや、何百匹が固まっているのか、蟲どもは人気のない公園の一角に腐臭のする肉の山を作り出している。もし、このとき公園を通りがかる者がいれば、あまりのおぞましさに恐怖の悲鳴をあげただろう。
 しかし、よく観察すれば、真に恐ろしいのは蟲どもの山ではなく、その下から覗いているものだと気付くはずだ。
 うぞうぞとうごめく蟲の山から突き出したもの……それは、何と紛う事なき人間の手足ではないか。
 ハイヒールを履いた足、ブレスレットをはめた腕、伸ばされた指の先では、赤いマニキュアが血のように爪を染めていた。時折ビク、ビクと痙攣するのは、これだけの蟲にたかられるおぞましさからか。
 いや、違う──蟲どもは女の体にたかっているのでも、死骸から湧いて出たのでもない。
 こいつらは、喰っているのだ。
 ──蛆、妖虫、蟲、妖蛆──!
 こいつらは蟲でありながら、あるまじきことに牙を持っていた。皮膚を裂き、肉を食い破り、おぞましくも血を啜る口を持っていた。自然界に存在する蟲ではあり得ず、まともな神経のものなら創造の中にすら描きはしないだろう妖虫(ウォルミウス)であった。そいつらが何十匹、何百匹とうごめき、集い、餌場に迷い込んだ不運な女性の肉体を貪っているのだ。
 そして──やがて恐るべきことに、その蟲どもは突如としてまるで溶け合うようにして融合し、何と一人の老人の姿を形成した。
「やれやれ、この体もどれほど保つことか」
 何とも気怠げにそう言い、痩せこけた肩をすくめて見せた怪老人の姿は、紛れもない、マキリの当主にして現在の聖杯戦争を引き起こした張本人の一人──間桐臓硯に他ならなかった。
 深い皺に埋め尽くされた顔面に笑みを刻み、一見して好々爺とすら見えるこの老人の肉体が、先刻まで屍肉を貪っていた蟲どもであると誰が考えよう。人を襲い、肉を奪い、体を再構成することで、この怪老人はそれに見合っただけの年月を生き延びてきたのだ。
「どんどん周期が短くなっておる……所詮はまがい物の不死か」
 淡々と、だがどこか苦々しげに言い捨て、臓硯はその場から背を向ける。もはや背後には僅かな肉片も残っておらず、蟲に喰い殺された女性の存在は、痕跡一つ残さず完全に消え去っていた。
 だが──
「てめえ、何やってんだよ」
 立ち去ろうとした間桐臓硯の前に、黒ずくめの衣装を纏った長身の探偵が立ちはだかったのは、次の瞬間であった。




Fate / Sword & Sword




「ほう、確かミスカトニックの……」
「大十字九郎、探偵だ。覚えときな」
 驚いたように片目を開く臓硯の言葉に、探偵──大十字九郎は言い放った。その手には鉈にも似た漆黒の大刀が握られ、切っ先は真っ直ぐに臓硯の眉間を向いている。間合いは一足刀と呼ぶには少し遠すぎたが、黒い偃月刀には投擲用の機能もあった。この瞬間に怪老人がどう動こうと、一瞬でその首を叩き落とすことはできる。
 だが、九郎は不意にその視線を老人から離し、臓硯の背後──つい先刻まで、一人の女性が蟲に喰い殺されていた空間を眺めやった。
「……悪い、あと三分早く来るべきだった」
 演技ではなく、虚言ではなく、本心からの言葉で、九郎は女性の魂に謝罪した。
「ほほ、そうすれば助けられたかの?」
「ああそうさ、そうすりゃテメエの脳天をスイカみてえに吹っ飛ばして、彼女は何もかも忘れて家に帰れたんだ。シャワー浴びてぐっすり眠って、明日になったらぶつくさ文句言いながら仕事に行けたんだよ」
 言い放ち、再び臓硯をにらみ据える九郎。目を離した隙をついて動かなかったのは、臓硯の余裕か、それとも九郎の実力を警戒してのことか。
「テメエはあと一分早くここから離れるべきだったな、間桐臓硯」
「そう思うか、探偵」
「ああ、そうすりゃその一分間は命を繋げただろうからな」
 きっぱりと、一片の迷いもなく九郎は言ってのけた。腹が立っていた。他人の命を奪って自分の命を延ばす呪法は、魔術師にとってはそう珍しい代物ではない。だが、それを実行してしまった輩に好感を抱く理由にもならない。
 こいつは人間じゃない──心の底からそう思った。
 腹が立っていた。大十字九郎は、腹が立っていたのだ。
 他人の命を好き勝手に貪り、自身の命を延々のばし続ける化物に、腹が立っていたのである。
「テメエは殺すぜ」
「やってみせい、若造!」
 その瞬間、九郎の足が地を蹴るのと臓硯の背後で闇が集束するのとは、完全に同時であった。
「バルザイの──」
「アサシン!」
「偃月刀ッ!」
 甲高い、金属と金属のぶつかり合う音が響き渡る。臓硯の眉間目がけて九郎が振り下ろした偃月刀を、臓硯の背後から現れた闇──アサシンのサーヴァントが短剣で受け止めていた。
「!、テメエは──!」
「また会ったな、魔導探偵」
 髑髏の仮面の下でアサシンは言い放ち、九郎の偃月刀を弾いて短剣を突き出す。咄嗟に飛び退いてそれをかわし、九郎は漆黒の魔書を起動する。
「無銘祭祀書<ネームレス・カルツ>!」
 瞬時に魔導書の頁が虚空を舞い、漆黒のマントとなって九郎の身を纏った。だが、次の瞬間、アサシンの投じた短剣<ダーク>がまさしく弾丸の速度で九郎に迫る。
「クッ!」
 即座に偃月刀を振るって短剣を叩き落とす。その速度が、前回戦ったときより数倍速くなっていることに九郎は気がついていた。
「テメエ……」
「遅い」
 淡々としたアサシンの声とともに、一瞬にして二人の間合いが零になる。滑るように地を蹴ったアサシンが、九郎の懐に飛び込んだのだ。
 同時に、長い足を振り回すような回し蹴りが九郎の脇腹を狙う。
「がっ──!」
 咄嗟に腕でガードしたが、その腕ごとアサシンの蹴りは九郎を弾き飛ばした。数メートルも宙を舞い、何とか着地するも衝撃のあまり膝をつく。
 アサシンの背後で、マスターである臓硯が気味の悪い笑い声をあげた。
「ほほ、前回のアサシンとは少々違うぞ、若造」
「ッ!セイバーの心臓か!」
 アサシンはセイバーの心臓を持ち去っている。ただセイバーを殺すだけなら、抉った心臓など捨て置けばいいはずだ。それをあえて持ち去ったのは、心臓そのものにも使い道があったからだ。
「左様。アサシンは他のサーヴァントの部位を喰らって己を強化する「肉体改造」の技能を持っておる。より上位の英霊の心臓を得れば、数倍の力を手にすることも可能じゃ」
 老人が嗤う。ひどくかんに障る嗤い方だった。
「儂は前々回の聖杯戦争も観察しておってな。あの娘の正体にもおおよそ感づいておる。伝説に曰く、その心臓は魔力炉心。剣の騎士に該当する英霊の中ではまさしく最良と呼ぶに相応しい──今のアサシンは、その最良の英霊にすら匹敵する」
「────」
 臓硯の言葉に、九郎とアサシンは無言。ただ老人だけが口元を歪め、まさしく蟲じみた表情を浮かべて、勝ち誇ったように言い放った。
「本当はな、探偵。お主の方がもう三分遅くここにくるべきだったのじゃよ」






「──は、ぁ……」
 息が、土蔵の床に当たって土を温ませた。
 倒れているのは、間桐桜であった。頬が紅潮し、全身におびただしく汗をかいている。息は荒く、瞳は虚ろに視点をさまよわせていた。うつ伏せに倒れたため、頬と髪が汚れてしまっている。
 ──不意に、白い繊手がハンカチを持ち、彼女の額の汗を拭ってやった。
「……“いる”のね、サクラ」
「ぁ……は、ぁ……」
 淡々とした問いかけにも、桜は虚ろな表情のまま答えを返さない。それを見下ろして、イリヤスフィール=フォン=アインツベルンはポケットにハンカチを戻した。
「考えてみれば変な話よね。行われているのは「聖杯戦争」なのに、今回はその聖杯がないんだもの。あるのは心臓に大穴が空いた傷物の聖杯と、聖杯の欠片を寄せ集めて作ったまがい物……オマケに大聖杯は、とっくの昔に汚染されちゃってる。ホント、みんな何のために戦ってるのかしら」
「……先、輩……」
「?……ああ、そうね、シロウは「正義の味方」になるために戦ってるんだったわね」
 不意にこぼれた桜のうわごとに、イリヤはにっこりと笑って頷いて見せた。その小柄な体が、倒れ伏した桜のすぐそばにしゃがみ込む。
「ねえ、サクラ。サクラはシロウが大好きなんでしょ?
 うん、言わなくても分かってる。サクラはずっとシロウに憧れてたのよね。なら、サクラ──私と一緒に、シロウを一人前の「正義の味方」にしてあげましょ?」
 にこにこと笑いながら、イリヤはうなされる桜を眺めて一人納得したように頷いた。その口元が、無垢な笑いを浮かべながら、歪む。
「シロウがきちんと「正義の味方」になれるように──とびっきりの「悪の手先」を用意してあげなくちゃね」
 あり得ない二重の笑顔は、無垢な少女の笑みと同時に、嘲笑を形作っていた。





「クッ──!」
 まるで機関銃の弾のように飛来してくる短剣<ダーク>。一本目をかわし、二本目を弾き、三本目から逃れて四本目──きりがなかった。これを回避しても、次の五本目で胸を抉られる。
「っっっっなめんなぁ!」
 一閃──偃月刀ではなく裏拳で四本目の短剣を弾き、九郎は即座に刀を構えなおした。その眼前で、弾かれた四本目の短剣が、その後ろから迫っていた五本目の短剣にぶつかっている。
「ほう」
「はぁ、はぁ……見たか!ビリヤードは得意なんだよ!」
 仮面の下で笑うアサシンに、大声で嘘をつく九郎。既に十数本の短剣をさばいたが、アサシンは無論、その背後に立つ怪老人臓硯も余裕の表情を崩さなかった。
 無銘祭祀書でマギウス化しているから、辛うじて九郎はアサシンの攻撃から逃れられているのだ。もし、五本ではなく六本以上の短剣を一度に投じられれば、さすがの九郎もさばききることはできまい。
「くそったれ」
 歯がみする。確かにアサシンは、前回倒した時とはまるで別人だった。
「人格歪んでるぜ──五本以上投げねえのは、手を抜いていたぶってるつもりかよ」
「否、いかに今の私の方が圧倒的に有利とはいえ、貴殿の魔力は正直底が知れん。下手に追い込んで必死の反撃を喰らうよりは、じわじわ消耗させてからとどめを刺すが得策」
「チッ!」
 残忍さではなく狡猾さから戦法を選択するアサシンに、九郎は内心で冷や汗をかいた。“飛び道具”を持ってきていない九郎には相手の懐に飛び込む以外手がないのだが、アサシンは踏み込もうとすればその分だけ退き、かといって九郎が退こうとすればその分だけ距離を詰めてくるのだ。
 魔術師であれ何であれ、自分の間合いを完全に把握している奴は強い。
(どうする……)
 前回アサシンを倒した「肉体強化(ブーストスペル)」は、あくまで一時的に身体能力を倍増させるだけの術式だ。魔導書の魔力を一度に消費するため、効果が切れれば途端に常人並みの身体能力にまで落ちてしまう。同系の術式には「肉体暴走(アクセラレータ)」もあるが、こちらは反動で極度の疲労状態に陥るため使いようがない。よしんばそれでアサシンを倒せたとしても、疲労困憊でぶっ倒れた挙げ句臓硯にとどめを刺されるだけだ。
 広域殲滅術式「魔砲<カノンスペル>」でも使えれば話は別だが、所詮海賊版にそこまでの力はない。
「無論、休む暇はあたえん」
「!」
 刹那、音よりも早く飛来した五本の短剣に、九郎は咄嗟にもう一冊の「書」を取り出した。
「エイボンの書<Liber Ivonis>!」
 書を開き、その周囲を囲むように剣指で五芒星を描く。瞬く間に字祷素(アザトース)の光が走り、魔導書の魔力を使って防御陣が展開した。五本の短剣は陣に触れ、その半ばまで刀身を食い込ませて、落ちる。
 これでまた一つ、九郎の手札が開かれた。
「ほほ、多芸よな。しかし、いつまで続くかの」
 まるで芝居でも見物するかのような気楽さで、臓硯はからからと笑ってのけた。セイバーの心臓を得たアサシンの魔力は、もはや七サーヴァント中最高といっても過言ではない。召喚されていない残り二つのクラスに何が来ようと、アサシンの優位が揺らぐことなどあり得なかった。
「さあ、次は何を見せてくれる。「グ=ハーン断章」か! 「深海祭祀書<ウンターゼー・クルテン>」か! 「水棲動物<ハイドロフィネ>」か! お主の七つの魔書はあと何が残っておる? のう──「七頭十角の獣<マスターテリオン>」よ!」
「ッ!」
 その瞬間、自身を射程に捉えるアサシンの存在も忘れて、九郎は臓硯を睨み付けた。
「俺を、「獣」と呼ぶんじゃねえ!」
「ほう」
 その言葉に、臓硯はどこか興味深げに目を開いた。
「異な事をいう。大いなる「獣」の名を嫌う魔術師とは……まあよい。アサシン、とどめを刺せい」
「承知」
 臓硯の指示に頷き、アサシンは両手で短剣を構える。その数は先刻までの倍……一度ならともかく、二度、三度は決して凌げぬ攻撃だ。
 対して、九郎も偃月刀を握る手に力を込めた。こうなれば一か八か、無理矢理にでも接近戦に持ち込んで勝機を見出すだけだ。澄んだ夜の空気に二つの殺気が通り、夏だというのに鳥肌が立つ。

 その瞬間──闇が、生まれた。

「……え?」
「何……」
「──!」
 一方はきょとんと、もう一方は愕然とした表情で、殺気すらも霧散させてその存在を振り返る。公園の、寒々しい木々の合間から、“そいつ”は顔を覗かせていた。
 黒い──周囲に横たわる夜の闇すら呑み込んでしまうほどに黒い、あまりにも地獄めいた色彩と気配。背丈は二メートルほど、四肢はなく、代わりに全身を覆うローブのような闇から触手じみた帯が伸びていた。頭部から伸びているところを見ると頭髪なのかも知れず、あるいはまるで違う何かなのかも知れない。ただ、“そいつ”が現れた瞬間から、公園中の空気が凍りながら腐食した。
(こいつは──)
 知っている。九郎の記憶に、よく似た気配を纏った、同じ「闇」の持ち主が刻み込まれている。
 ――こいつは、人間じゃない。
 こいつには人間の倫理がない。
 人間の常識に縛られない。
 全ての認識が人間の外にある、極めて異質で邪悪な存在。
 ――人間と認めるわけにはいかない。
「ば、馬鹿な……」
 しかし、九郎以上に驚愕し、呆然とした表情で後ずさったのは、何と間桐臓硯であった。
「あり得ぬ、何故……」
「魔術師殿!」
 刹那、まるで九郎のことなど忘れたかのようにアサシンが地を蹴り、臓硯を抱えて遙か遠方まで跳躍した。同時に、つい一瞬前まで臓硯のいた場所を、闇から伸びた黒い帯が貫く。
 そのまま振り返りもせず、アサシンはマスターともども公園を離脱した。
「────」
 数秒、二人の消えていった虚空の方を向き、それから“闇”はゆっくりともう一人の人物へ向き直る。
 そいつはどこにあるかも分からぬ瞳で、大十字九郎を見据えていた。
「……くそったれ」
 半ば本心から呟く。その“闇”を眼にしたときから、冷たい汗が止まらない。
 怯えているのは九郎ではなかった。無銘祭祀書<ネームレス・カルツ>が、エイボンの書<Liber Ivonis>が、魂は持たぬども多少の力を有する魔導書として、この“闇”に恐怖しているのだ。
「こいつは──!」
 反射的に術式を構成し脚力を強化。そのまま身を投げ出すように地を蹴り、黒い影から伸びた「帯」を回避する。見てから避けたのではない、回避行動は完全な直感によるものだ。
「見境なしか!?」
「────」
 九郎の言葉を肯定するかのように、“闇”は再び触手めいた帯を持ち上げた。この“闇”の攻撃は、下手をするとサーヴァントの短剣よりも速い。
 しかし、その瞬間──!
   灰は灰に    塵は塵に
「Ein KOrper ist ein KOrper―――!」
 閃光、爆裂──詠唱──光が走る。
  狙え、   一斉射撃
「Fixierung,EileSalve――――!」
 同時に、圧倒的かつ暴力的な光の奔流が、横殴りに漆黒の“闇”に降り注いだ。






「……なんか、既視感」
 と、ため息混じりに呟いて、九郎はその雄々しい「援軍」の姿を振り返る。
 そこにいたのは、いかにも「苛立ってます」と言わんばかりの形相で彼を睨み付ける、赤い服の美少女であった。
「サンキュ、助かった」
「アンタね、いい大人がふらふら出歩いてるんじゃないわよ」
 苛立たしげにそう言い、彼女──遠坂凛はずかずかと九郎に歩み寄る。そして、先刻まであの“闇”がいた空間に視線を向け、
「……消えた、わね。仕留めたかしら」
「仕留めてはいないだろ。つーか、何か効いてなかったっぽいし」
 呟く凛に、肩をすくめてみせる九郎。その視線の先に“闇”の姿はない。先刻まであれほど圧倒的な存在感を放っていた“闇”は、痕跡一つ残さず完璧に消え去っていた。
「アレはまずいぜ。多分、理由とか目的とかそういうのがまったくないタイプだ」
「同感。人格が昇華して現象になっちゃってる感じね。アレもアンタの知り合い?」
「いや──似たような奴に心当たりはあるが、初対面だよ」
 苦笑し、「無銘祭祀書」のマギウス化を解いた九郎は、疲れ果てたかのようにその場に尻餅をついた。
「……悪ぃ、遠坂」
「?」
「アサシン、取り逃がしちまった」
「!」
 そう言って、本当に困ったように頭を下げる探偵に、凛は思わず頭に血が上り──
「っこの、大馬鹿ッ!」
 次の瞬間、襟首を掴んで思いっきりその頬を張り倒していた。






 ──声が聞こえていた。
 まだ少年の域を出ない男と、少女の域を出ない女とが睦み合う声が。
 優しく、つたなく、荒々しく、愛(おか)し合い、犯(あい)し合う二人の逢瀬が。
 それは愛──それは欲──それは闇──それは光──。
 分かっている、これは夢だ。虚ろな眠りの彼方に揺らめく一時の夢に過ぎない。しかし、この家に──衛宮の屋敷に長くいればいるほど、否応なく思い知らされる現実……。
 衛宮の家の所々に染みついた、遠坂凛の匂い。ほんの半年前まではどこにもなかったはずの匂いは、今では衛宮の家に残った間桐桜の匂いを払拭しつつある。
 当然といえば当然だ、衛宮士郎が愛して、この家にいて欲しいと思っているのは、間桐桜ではなく遠坂凛なのだから。
 そう、この家から間桐桜の匂いが消えるのは仕方ない。いつかはこうなると、ずっと昔から覚悟していた。
 だけど……どうして、その役割が遠坂凛のものなのか。
 ──いけない。
 何故、彼女だけがことごとく欲するものを手にすることができるのか。
 ──いけない。
 何故、彼女はいつも桜の……
 ──いけない……
「大変そうだね」
 ──え?
 それは、浅い眠りの狭間に見る夢のはずなのに……。
「手伝おうか?」
 そこに、闇色の女がいた。

5: ベイル(ヴェイル) (2004/04/25 21:59:20)[veill at arida-net.ne.jp]

「例えば、ここに匣と鍵がある」
 そう言って、闇の色をした妖艶な女性は、ひどく惹きつけられる魅力的な微笑を浮かべて桜を見つめた。
「匣には知っての通り絶望と希望と、そして、本当の君とが入っているとする」
「本当の……私?」
 どこかきょとんとして、桜は美女に問い返した。もう、この夢に似た世界が何なのかとも、この美女が何者なのかとも考えない。
 言うなれば、この美女にはどこか──人の警戒心や疑惑をことごとく麻痺させてしまうような、奇妙な魅力があった。
「そうさ、「君」は君自身を守るために今の君を構築した。君が君として生きるためにね。だけど、今ではそれも怪しくなっている」
「ッ──」
「そう、半年前の──君にとっては最初の聖杯戦争。本当なら、君はそこで終わるはずだった。聖杯戦争のために製造され、作られてきた君は、しかし令呪を兄に譲り渡すことでその運命を逃れた。しかし、運命とは非情なるかな──今ここで、多くのイレギュラーをくわえて再び聖杯戦争が始まってしまった。今度こそ、君は逃れられないだろう」
「…………」
 唱うような美女の言葉に、桜は無言。しかし、その沈黙はどんな言葉よりも雄弁に、美女の言葉を肯定していた。
 そう、どう足掻こうと、間桐桜が聖杯の呪いから逃れる術はない。聖杯戦争までの数年、そしてその後の半年間──衛宮士郎と過ごせたここまでの時間すら、奇跡に等しいような代物なのだ。それでも、彼女の肉体と魂は、いまだ聖杯の紡ぐ糸に縛られたままになっている。
 今度こそ、今度こそ祖父は聖杯を手にしようとするはずだ。そのための駒として、必ず間桐桜を利用しようとする。そして、それに逆らうことは桜には不可能だった。その運命には抗えない──願いはせめて、衛宮士郎が傷つかず、生き延びてくれることだけが……。
「そうか、それじゃあ一つプレゼントをしよう」
「え?」
 まるで桜の心中を見透かしたかのような美女の発言に、桜は思わず声をあげる。その手をとって、美女はどこから取り出したのか、銀色に輝く奇妙な形状の「鍵」を桜に握らせた。
 ──怖気が走る。サラサラした美女の手の感触は、不快なものなど何もないはずなのに……一瞬、全身を蟲についばまれるよりも遙かに強い悪寒が、桜の背を走り抜けた。
「君はずっと昔、自分自身に鍵をかけてしまった。その鍵は、君という要塞の扉を開く万能の鍵さ。一度だけしか効果がないけど、それは自分自身を閉じこめた「君」の扉を開くことができる──まあ、一種のおまじないだと思っていいよ」
 そう言って美女は微笑む。その微笑は、先刻感じた悪寒を一瞬で忘れさせてしまった。
「その匣の中から何が最初に飛び出してくるのか──ああ、実をいうと僕はね、それが楽しみでしかたないのさ」
 微笑(わら)い、嗤う──それは、どこか嘲笑に似ていた。




Fate / Sword & Sword




 その瞬間、世界が邪なるものに侵されていった。
 それに形はなく、色はなく、目に見えず、匂いはなく、何者にも感じ取ることすらできぬ邪悪でありながら、しかし確かに世界を侵蝕する闇だった。
 そいつが、どこからか嘲笑っている。
「……クソ」
 苦々しく、しかしそれ以上に恐怖に震えた声で呟き、間桐慎二は自分の体を抱きしめるようにして蹲った。
 分かっている──誰に教えられたわけでもないのに、この邪悪をほんの少し感じた瞬間に理解できた。奴は──あるいは奴らは、彼など無論眼中になく、衛宮士郎や遠坂凛すらも視界の隅に追いやって、彼女を──マトウサクラを迎えに来たのだと。
 そして、今この家にいるのは桜と彼とセイバーの三人のみ……衛宮士郎はなく、遠坂凛もなく、大十字九郎もいない。セイバーは倒れ伏し、もはやこの邪悪に気付くことすらできていないだろう。なれば、桜が抵抗しなければ、“奴”を阻む者は誰もいないことになる。
 ──いや、間桐慎二には分かっている。この邪悪を前にして、間桐桜が抵抗などするはずがないということを。まして、この気配の主はおそらく間桐臓硯と手を結んでいる。たとえどれほど望もうと、渇望しようと、間桐桜に間桐臓硯の命令から逃れる術はないのだ。
 だから、せめて彼女の足を止められる者がいるとすれば──
「……僕には無理だ。だって桜は──アイツは僕の存在に気付いてすらいないんだから!」
 嘆くように、怒るように、慟哭するように、間桐慎二は誰もいない居間で叫び声をあげた。
「アイツの視界(せかい)にいるのは「間桐の兄」であって「間桐慎二」なんかじゃない! アイツの世界はただ一人の姉と、衛宮士郎のためだけにあるんだ! どんなに傷つけても、押さえつけてぶん殴って、無理矢理体を奪ったって、アイツは僕を──憎みさえしないじゃないか!」
 憤りに任せて傷つけた、劣情のままに汚し尽くした、なら──憎まれ、恨まれるのが当たり前ではないのか。
 間桐慎二には分からない、そうでない間桐桜を理解することができない。故に、彼にとって間桐桜はいまだ化物のままだ。決して彼の家族ではない。
 間桐桜は──家族だから憎まない、家族を恨んだりしない。
 間桐慎二は──恨まれないから家族になれない、憎まれないから受け入れられない。
 二人が決定的にすれ違ったのは、慎二が真実を知って桜を汚したときではなく、汚された桜が、それでも慎二を恨まなかったときだったのであった。
 最初から桜に恨まれてもいない慎二は、当然桜に許されることもない。贖罪によって許されることがないのではなく、贖罪そのものが既に許されない……だから、どれだけ愛そうとしても、その想いすら許されない。
 慎二にとって間桐桜は、あまりにも地獄的な要塞であった。
「クソッ!クソッ!クソッ!」
 苛立たしげに、憎々しげに、哀しげに、慎二は一人慟哭する。
「畜生ぉぉぉぉぉっ!」






 ふらふらと、まるで夢遊病者のような足取りで、桜は衛宮家の門から外に出た。
 一体いつから始まったのか。
 一体いつから終わっていたのか。
 分からないが、別れを告げるときが来たのだと、既に悟っていた。
「あ……」
 門の外には、長身痩躯に隙のない出で立ちをした一人の黒人が彼女を待っていた。祖父の──間桐臓硯の代理だと、彼は口にする。
 ──アンブローズ=デクスター。
 初めて彼の目を見たときから、桜はずっとこの男の影に怯え続けていた。その感情は、あるいは生まれて初めてのものだったかも知れない。
 無論、桜にとって間桐臓硯も恐ろしい支配者だ。しかし、その恐怖には具体的な苦しみや痛みへの恐怖がある。逆らえばどんな目にあわされるか、自分だけでなく、自分の大切な人達までひどいことになるかと──しかし、デクスターへの恐怖にはそれがなかった。
 いっそ祖父のように自分を支配し、脅かしてくれるならまだマシだった。かつての兄のように力尽くで押さえつけ、犯してくれるなら恐ろしいとは思わない。デクスターは──いや、アンブローズ=デクスターと名乗っているモノは、何一つ桜に危害など加えないのに……くわえないからこそ、祖父よりも何よりも恐ろしいのだ。
「いや、すまないね。本来なら君を巻き込むはずではなかったのだが」
「……いいえ」
 こうして優しげな言葉さえかけてくれるデクスターを、しかし、桜は身震いする思いで聞いていた。顔はうつむき、視線は地面に向いている。他のものなら──たとえどんなに気味の悪い蟲や蛆でも、どんなおぞましい魔導の儀式でも直視できただろう。だが、彼だけは無理だ。こんなモノと目を合わせられるほど、間桐桜は強くない。
「いやはや、キャスターの脱落が思いのほか早くてね。まったく、困ったものだ……なあ、リーダー」
「…………」
 その瞬間、デクスターが振り返って問いかけるのと同時に、彼の背後に一瞬にして実体化した影があった。デクスターと同じ異常なほど黒く染まった全身、頭上の王冠に、どこか荘厳さを感じさせる衣装──リーダーのサーヴァント、ネフレン=カである。
 彼はマスターの問いに首を横に振り──肯定とも否定ともつかぬ仕草だった──その右腕に刻まれた印を見せた。もはや完全に色を失ったそれは、何と、紛う事なき令呪であった。
 キャスターの真名は、エジプトの女王ニトクリス……その宝具であった「鏡」は、もとは“暗黒のファラオ”ネフレン=カの所有物だった。ならば、ニトクリスをサーヴァントとして召喚できるものは、このリーダー“ネフレン=カ”をおいて他にない。
 キャスターもまた、前聖杯戦争のアサシン同様、サーヴァントによって召喚されたサーヴァントだったのである。
「まあ、そういった事情で計画の前倒しが必要になってね。臓硯氏も多忙なので、私が君を迎えに来たというわけさ」
「……分かりました。けど、一つだけ約束してくれませんか」
 うつむき、デクスターの言葉に頷きながら、桜は今にもかき消えそうな声でそう呟いた。そして、伏せていた視線を辛うじて持ち上げ、まるでそれに全ての力を振り絞らねばならなかったかの如く、震える声で言葉を続ける。
「私には何をしてもかまいません。だから、先輩にだけは──先輩と姉さんだけはもうこれ以上傷つけないでください」
「──ふむ」
 言い放った桜の言葉に、デクスターはまるで、宇宙の真理に挑む哲学者のような仕草で顎を撫でた。深く思い悩んでいるようであり、些事に頭を悩ませているようにも見える。そして、
「分かった、約束しよう。もう君の姉にも、その想い人にも、一切の危害は加えないと」
 そう言って頷いて見せたデクスターの姿には、何故か天下万民全てが無条件で信じ込んでしまいそうな、ある種魔的な説得力があった。
「本当、ですか」
「無論。元々私には、彼らを殺さねばならない理由などないのだからね」
 いっそにこやかとすらいえる笑みを浮かべてみせるデクスターから、桜は反射的に目をそらした。敵意など欠片もないのに──これほどまでに恐ろしい。
「では、行こうか?」
「はい……」
 呼びかけて背を向けるデクスターに、小さく頷いて後をついていこうとする桜。その足が、一歩踏み出した瞬間──
「……待てよ」
 硬質な──明らかに震えを押さえ込むための固い声で、彼──間桐慎二は、桜を背中から呼び止めた。







「ほう」
 楽しげに口元を歪めたのは、デクスターだ。桜は愕然と目を見開き、まるで信じられないものを見るかのような目で、己を呼び止めた兄を見つめている。
「兄、さん……?」
「桜、そんな奴についていくな」
 歯を食いしばり、ガタガタと震えようとする全身を気力と安いプライドで押さえ込んで、慎二は自分の妹に向かって言い放った。
「行くな。おまえ一人が犠牲になったって、どうにもならないくらい分かってるだろ!」
「兄さん、でも……」
「でももクソもあるか! 僕のいうことが聞けないのか!桜!」
 叫ぶ。高圧的な物言いはかつてと同じものだったが、その本質はまるで正反対だった。かつては押さえつけるように──今は、縋り付くが如く。
 もう認めよう。間桐慎二は、ずっと昔から怯えていた。
 物心ついたときから自分は「特別」なのだと信じていた彼にとって、逆に「特別でない」ということは恐怖以外の何者でもなかった。魔術師の家に生まれた、他人とは違う自分、というプライドを積み重ねれば重ねるほど、「特別でない自分」への恐怖心を募らせていたのだ。そして、その恐怖は最悪の形で実現する。
 真実を知り、一時の感情で暴走した挙げ句、慎二はなおも恐怖から逃れることができなかった。積み重ねてきた恐れをも上回り、彼は他でもない、間桐桜に恐怖したのだ。
 考えるまでもない、衛宮士郎にしろ間桐桜にしろ、本当に嫌っているなら無視するなり距離を置くなりすればいいだけのことだ。実際、慎二の性格から言って本当に嫌いな相手にわざわざ近付いたりなどしない。衛宮士郎に突っかかっていったのは、彼の在り方を認めながら憧れてもいたからだ。遠坂凛に執着したのは、誰よりも「特別」な存在である彼女に──自分が得られなかったものを全て持っている彼女に──どうしようもなく憧憬していたからだ。柳洞一成や美綴綾子を目の敵にしていたのも、様々な形で彼らを認めていたからに他ならない。
 そして──間桐桜を押さえつけ、決して自分に逆らわないようにしたのも、それだけ慎二が桜を恐れていたという証明ではないか。
「行かなくていい。おまえはここにいていいんだ。桜は、衛宮の家にいていいんだッ!」
 畢竟──間桐慎二は「敵対する」ということに恐れる。
 間桐慎二は頼み事をしない、少なくとも、断られる可能性が高い頼み事は口にしない。口にするのはほとんどの場合、命令だ。頼み事なら断られることがあり、断られればそいつは敵に回ったと判断してしまう。だが、命令なら相手に断る権利はないのだから、そいつと敵対する道理もない。
 畢竟──間桐慎二は「認められたい」と願っている。
 自分が「特別である」というプライドさえ保てていれば、彼はいくらでも他者に優しくなれるのだ。高みから手をさしのべるような優しさしか持てないのが彼の歪みだが、それでも優しさには違いない。それなのに、世界は彼を「特別」ではいさせてくれなかった。
 畢竟──間桐慎二は恐怖している。
 自分を認めてくれない世界に、自分よりも「特別」な存在である凛や士郎達に、殴りつけようが手をさしのべようが傷一つつかない──間桐桜という地獄めいた要塞に。
 だから今、彼は生まれて初めて──
「そんな奴のいうことなんか、祖父さんのいうことなんか聞くな! おまえは、ここにいろ!」
 生まれて初めて、自分から「恐怖」というものに敵対していた。
「ふむ……」
 小さく、しかし聞き逃しようもないはっきりとした声で、アンブローズ=デクスターは呟きをもらす。
「これは、困ったことになった」
「ッ──!」
 その言葉の響きに何を感じたのか、慎二と桜が同時に息を呑む。しかし、デクスターはあっさりと肩をすくめてみせると、
「マトウサクラ、選んだのは君だよ?」
「え──」
 微笑すら浮かべ、桜に向かって言い放つ。
 士郎と凛か、慎二か──
 桜の身柄と引き替えに救えるのは、どちらかだけだ。
「桜!」
「兄さん、やめて……」
 まるで子供が駄々をこねるように、桜は首を横に振った。今ならまだ間に合う、慎二が屋敷の中に戻ってじっとしていれば、この恐ろしいモノだって見逃してくれるかも知れない。それなのに、慎二は──、
「嫌だ!やめるもんか! 桜だって本当はここにいたいんだろう!? いつだってそうだ!おまえはいつも嘘ばかりついて、本当のことなんか何一つ口にしない!」
 叫ぶ。
 間桐慎二が恐怖していたように、間桐桜はずっと諦め続けていた。希望の前に「諦め」という防波堤をおくことで、後に来る絶望すらもシャットアウトしていた。
 かつて、イリヤスフィール=フォン=アインツベルンの姿をしたナイアは、大十字九郎に言った。

 ──彼女らは「今のまま」でいいのさ。希望を抱けば抱くほど、それが砕かれたときの絶望は大きくなる、それは分かるだろう? だから幾度となく絶望を味わった心は、希望に対して警戒心を抱くようになる。期待すれば裏切られる、希望を持てばより深い絶望を味わうことになる……だったら、最初から希望なんてないと諦めておけば、後に来る絶望にだって耐えられるだろう?──

 それが、彼女の選択した生き方だった。必要以上の希望などいらない。その代わり、全ての絶望はその身に届かない。
 ──なんて、卑怯。
 それはつまり、生命の意味を否定した生き方だ。生まれてきてよかったと、生きていてよかったと思うことを決して認めない生き方だ。生命賛歌の対極に位置する、いのちを蔑むいのちの歌だ。
 それは──何という楽な人生か!
「やめて……」
 弱々しく、小さく、桜は首を横に振る。
 それでもなお、桜には桜を支えていたものがあった。胸の奥の一番深いところにしまい込み、決して外には出さなかった希望があった。
 遠坂凛──幼い頃、魔術師の家に生まれたが故の運命によって引き離された、彼女の姉。
 彼女が満たされていたから、全てを奪われ尽くした間桐桜にも残ったものがあった。彼女が光り輝いていたからこそ、闇の中でも桜は生きていけた。彼女が幸せであり、恵まれているという実感があればこそ──間桐桜にも、己という誇りがあったのだ。
 だから、間桐桜は選択する。どう足掻こうと、自分の定めた生き方によってそれを選択せざるを得ない。故に……、
「やめて、兄さん!」
「やめてたまるか! どうしてもいくんなら僕を殺してから行くんだな!」
 故に、それを選択してしまう。

 ──間桐慎二を捨て、衛宮士郎と遠坂凛を救う選択をしてしまう。

「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
 桜の悲鳴が、初めて夜の街を震わせた。次の瞬間、

影が──








「……さて、行こうか」
「……はい」
 虚ろに、胡乱に、桜はデクスターの言葉に頷いて歩き出した。
 いつの間にかリーダーのサーヴァント……ネフレン=カの姿は消えている。夜の闇に沈んだ深山町を、桜はデクスターの背中をついて歩いていった。その足取りは幽鬼のようにおぼつかず、視線もどこか、夢を見ているかのように虚空を彷徨っている。
 スカートの裾に血痕がある。視線をおろせばその色が目にはいるだろう。しかしそれを目にせずとも、彼女の見る夢は真紅に染まっているに違いない。
 ──衛宮の家の門前で、合流した衛宮士郎と大十字九郎を含む四人が全身をズタズタにされた間桐慎二の姿を発見するのは、僅か数分後のことであった。

6: ベイル(ヴェイル) (2004/04/27 12:02:04)[veill at arida-net.ne.jp]

「う……」
 目覚めたとき、最初に目に入ったのは客間の天井だった。
 何か、全身がごわごわする。ごわごわするというよりは何かがうごめいているような感覚に近い。
「起きたか?」
「え……」
 かけられた声に、一瞬で意識が覚醒する。跳ね起きると、彼──間桐慎二は、唖然とした表情で自身の体を見下ろした。
「僕は……」
「動くなよ、下手すると傷口が開くぜ」
「な──」
 振り返る。そこにいたのは、彼も知る長身黒ずくめの自称探偵──大十字九郎であった。
 部屋は衛宮家の客間──慎二が使っていた部屋だ──で、自分は寝台に寝かされていたらしい。
 ……と、そのとき、慎二の視界で、布団の上を這う一匹の薄い桃色の蟲が目に入った。
「う、うわっ!」
 慌てて払いのけると、蟲は弧を描いて九郎の胸に飛びついた。それをつまみ上げ、黒ずくめの探偵は苦笑混じりに肩をすくめてみせる。
「手荒に扱ってやるなよ、おまえの命の恩人だぜ?」
「何だって?」
 わけが分からず問い返す。すると、九郎は衛宮家の門前で慎二が倒れていたこと、そして、その体がズタズタに引き裂かれていたことを説明した。
「僕が……」
「見た瞬間、致命傷だって分かったよ。何しろ無茶苦茶だったからな……けど、ボロボロになったおまえの体内で、必死で傷を繋ぎ止めてた奴らがいたんだ」
 そう言って、九郎は手にした蟲を慎二に差し出す。薄桃色のうごめく肉塊は、九郎の指につままれてうぞうぞと動いていた。
「まさか、そいつらが?」
「そういうこった。幸い、俺には“妖蛆の秘密”があったからな。こいつらを使って傷をふさいで、何とか体をもとに戻したのさ。ほとんど一瞬でバラされたのが幸いしたな」
 つまり、慎二が“死にきる”前に九郎達が間に合ったということか。
「それで──」
 改めて椅子に腰を下ろし、九郎は淡々と問いを口にした。
「一体、何があったんだ?」




Fate / Sword & Sword




「で、どうだったの?」
 と、客間を出た瞬間に待ちかまえていたかのように問いかけてきたのは、廊下で仁王立ちする赤い少女──魔術師遠坂凛であった。
「遠坂か。衛宮は?」
「居間でライダーが見張ってるわ。いくら士郎でも、さすがにサーヴァントを振り切って飛び出したりはしないでしょ」
 扉を後ろ手に閉めてから問い返す九郎に、凛は苦笑混じりにそう答えた。
 四人が衛宮家に戻ったとき、状況からいって桜が連れ去られたのは確実だった。連れ去ったのは間桐の関係者と見て間違いない。だったらと、士郎はそのまま間桐家に乗り込もうとしたのだ。
 しかし、士郎は固有結界を使った直後で魔力が底をついており、九郎も魔力こそ余裕があったが体力を消耗していた。凛も九郎を助ける際に魔力を消費していたし、ライダーに至ってはキャスターにいたぶられたせいで全身が傷だらけだ。この状況で乗り込んでも返り討ちにあうだけだと判断した凛は、士郎を一喝して半ば力尽くで強行を止めさせたのである。
「それで? 慎二から話は聞けたの?」
「あ、ああ」
 頷き、九郎は慎二から聞き出した顛末を、簡潔にまとめて凛に語り聞かせた。やはり桜を連れ去ったのは間桐の協力者──アンブローズ=デクスターで、桜は士郎達の保身と引き替えに、自ら間桐邸へ向かったのだという。
「どう思う?」
「あの娘らしすぎて逆に腹が立つわ」
 即答する。凛の表情には、怒りと哀しみと哀れみが等分されて浮かんでいた。
「本当に……あの娘をそこまで追いつめておきながら、何もできなかった私と士郎に腹が立つわよ」
「……今はそんなことを言っててもしょうがねえよ。それに、らしくないぜ」
「分かってるわよ、そんなこと」
 八つ当たり気味にそう言って、凛はほんの一呼吸で表情をあらためる。この程度の切り替えができなければ、魔術師などという人種はやっていられない。
「それで……慎二の傷は?」
「もうほとんど治ってる。処置が早かったのがよかったみたいだな。ただ……あいつ自身そうそうに気を失ったらしいから、誰にやられたのかは覚えてないそうだ」
 言葉の途中で不意に声をひそめて、九郎は凛にだけ聞こえるようにそういった。
「……遠坂」
「分かってる。多分、士郎のために慎二を殺そうとしたのは桜よ……でも、あの蟲で慎二を助けようとしたのも桜」
「ああ、そうだ。
 ……なあ、ひとつ聞いていいか?」
「?、なに?」
「ナイア……いや、イリヤスフィールに教えられたんだが、間桐の妹の方は、あの家で産まれた子供じゃなくて他の家から入ってきた子なんだろ? けど、この街に魔術師の家系は二つしかない……ひょっとして、そういうことなのか?」
「……ええ、あなたの想像通りよ」
 問いかける九郎に、凛は僅かに躊躇した後、どこか力無く笑ってみせる。
「さすがは探偵ね」
「へっぽこホームズとでも呼んでくれ」
 憮然として呟き、九郎は思わず目をそらした。それから、不意に思い出したように振り返り、
「衛宮は知ってるのか? このこと」
「いいえ。あの娘は、士郎にだけは知られないようにしてきたから」
 淡々と、しかしどこか痛々しげにそう答え、凛は何かを堪えるように目をそらした。
 こんな凛を見るのは初めてだった。自分自身のことであれば、この少女はどこまででも強くあれる。そういう風に生きてきたのだから。だから、遠坂凛にこんな表情をさせることができるのは、衛宮士郎と間桐桜の二人だけだ。
「お願い、桜のことは士郎には秘密にしておいてあげて」
「本当に、それでいいのかよ」
「ええ、お願い」
「……分かったよ、約束する」
 釈然としないながらも、九郎はそういって頷いたのだった。






 衛宮士郎は、居間ではなく道場の床に正座し、集中のためか瞳を閉じてただ一人瞑想を続けていた。
「…………」
 独り──意識を孤独に、世界を己一人のものとして、衛宮士郎は心象風景(セカイ)に一本の剣を描く。
(トレース・オン──)
 魔術回路を起動させず、心中でその呪文だけを唱えた。夢に描くは黄金の剣──エクスカリバーとは違う、金色と青の長剣だ。
 何故、その剣を描くことができるのか。それは衛宮士郎自身にも分からないことだった。幻想を紡ぎ剣を編み出す彼とて、投影できるのは実際に目にしたものに限られるのだ。半年前の聖杯戦争で無数の宝具と出会ったとはいえ、元々の「自分」が空(から)である衛宮士郎には、創造の理念から蓄積された年月に至る全てをオリジナルで創り出す“究極の一”は紡げない。だから、この「剣」も衛宮士郎が知る“何か”が大元のモデルとして存在するはずなのだ。
 例えば──今は床に伏した、衛宮士郎の剣となることを誓ってくれた美しい少女の姿。
「……ッ」
 その瞬間、極限まで集中していた衛宮士郎の意識は、近付いてくる足音によって我に返った。
「士郎?」
「遠坂……」
 振り返る。足音に聞き覚えがあったわけだ、そこにいたのは遠坂凛であった。
「ふぅん、思ったより落ち着いてるのね」
「なんだよそれ。それより、慎二は?」
「大丈夫、処置が早かったから命に別状はないわ。それから、やっぱり桜は間桐の家に連れて行かれたみたい」
 そういって、凛は不意に言葉を切る。瞳を閉じ、ため息混じりに一呼吸おいてから、続きを口にした。
「今夜は十分に休んで、明日の昼間に準備を整えて、夜になってから敵陣へ乗り込むわよ。いいわね」
「な──!」
 愕然と、士郎は驚愕の表情で立ち上がった。
「そんな悠長なこと!」
「黙りなさい! 今すぐに乗り込んだところで無駄死にするだけだって言ってるでしょ!」
 士郎の言葉を遮り、凛は反論を許さぬ強い口調できっぱりと言い放った。正論を口にするとき、彼女には容赦がない。魔術師とて人間であり、休息をとらずには戦えないのだから。
 それでも何かを言いかけた士郎の言葉をとどめたのは、新たな人影の声であった。
「衛宮、落ち着けよ。遠坂が正しいのは、おまえが一番よく知ってるんだろ」
「大十字……」
 いつもの黒ずくめの上に白い上着を羽織り、凛の後ろから道場に現れたのは、大十字九郎であった。
「……そうだな、ゴメン、遠坂」
「べ、別に……その、分かればいいのよ」
 振り向いて頭を下げる士郎に、慌ててぱたぱたと手を振る凛。相手が対決の姿勢を見せればいくらでも迎え撃つのだが、あっさり謝られると途端に素に戻る。この辺りが、衛宮士郎が遠坂凛の天敵たるゆえんか。
「そ、それで士郎、ライダーはどうしたの?」
「──私ならここに」
 と、凛の言葉に士郎が答えるよりも早く、彼の背後で長身長髪の美女が実体化した。
「ああ、霊体化してたんだ」
「遺憾ながら、この中では私が一番の重傷ですから。今夜中に回復させなければ明日に差し支えます」
 そう言って、美女──ライダーのサーヴァントは、拘束具に覆われた目を微かに士郎の方へ向けた。
「特に魔力は、シロウに根こそぎ奪われてしまいましたから」
「いっ!?」
 責めるような口調──など微塵もなく、淡々と言ってのけたライダーに、士郎は思わず間の抜けた声をあげてしまった。そして……、
「へぇ──どうして衛宮君が、ライダーの魔力を奪ったりできるのかしらね?」
「と、遠坂! 落ち着け!アレはその……緊急避難というか何というか……」
 にこやかに──いっそ不自然なほどにこやかに──問いかけたのは、言うまでもなく遠坂凛であった。対して、士郎は焦りも露わに言葉を濁し、誤魔化すようにライダーへ視線を向ける。割と無理矢理に。
「と、ところで、明日はライダーも手伝ってくれるんだな! 慎二のサーヴァントだから、ひょっとしたら残るつもりかと思ってたけど……」
「……いいえ」
 だが、淡々と首を振ったライダーの言葉は、士郎を驚愕させるに十分な内容を有していた。
「おかしくはありません。私は──サクラのサーヴァントですから」
「え──?」
 刹那、まるで時が止まったかのように、衛宮家の道場を沈黙が支配する。
「何、だって?」
「私は最初からサクラのサーヴァントです。慎二のサーヴァントをしていたのは、令呪を一時的に譲り渡していたに過ぎない。
 しかし、その令呪もセイバーによって破壊されました。故に、私のマスターはずっとサクラのままです」
「な──」
 愕然と、士郎は衝撃のあまり立ちすくむ。それを見て、凛は彼に寄り添うようにして囁きかけた。
「士郎、今は余計なことは考えないで。桜を助け出すことだけ考えましょ、ね?」
「あ、ああ」
 促されるままに頷く。確かに、今は余計なことを考えている場合ではない。士郎は二、三度首を横に振って意識から困惑を追い出すと、改めてライダーに礼を言った。
「……私は、マスターを救いたいだけですから」
 そう言うと、ライダーはさっさと霊体化して道場から姿を消す。ミラーワールドの中でキャスターに付けられた傷が、まだ癒えていないのだろう。
「──“マスターを救いたい”か」
「?、どうしたんだ?大十字」
「いや、なんでもないさ。それより衛宮、おまえの術式ってなんで八つに分けてあるんだ? 普通七つじゃないか?」
「何言ってるの、「八」は士郎の数じゃない」
 九郎の問いに反論したのは、士郎ではなく凛だった。九郎はややきょとんとした後、話についていけず困惑している半人前の魔術師に説明する。
「人間に数えられる数は本来七までだろ。七は完全数だからな、だから七より多い「八」は無限数として扱われることがあるんだよ。俺達の言い回しで「千」って言うのと同じさ。「千の子を孕みし森の黒山羊」とかな」
「そもそも士郎は「一」を持たないものだもの、だから無限数「八」でいいのよ。私は士郎に「一」を持って、それでいて「八」を持つ魔術師になって欲しいの」
「遠坂、そりゃ神様を育てるのと同じようなもんだぜ」
「だったら何? 士郎を真人間にして、最高にハッピーにするのが私の目標よ。たとえ神にだって邪魔なんかさせないんだから」
 即答する……と、九郎は驚いたようにきょとんとした表情を浮かべ、それから、不意に楽しくてたまらないとでもいう風に笑い出した。
「……何よ、文句ある?」
「いや、まさか。ただ、遠坂はいい女だなって思っただけさ」
「なっ!?」
 突然の──凛にしてみれば不意打ち同然の賛辞に、彼女自身の意に反して血液が頭に登る。ああ、アーチャーと初めて出会ったときもこんな感じだったわね……などという思考が浮かんだのは、混乱の賜と言うべきだろう。
 そして──無論本人に自覚なく──それに追い打ちをかけたのは、やはり凛の天敵である衛宮士郎だった。
「む──大十字、いっとくけど遠坂は俺のだからな」
「!!?」
「分かってるって。しかし衛宮は幸せ者だよな、こんないい女そうそういないぞ?」
「な、なな……」
「うん、遠坂がいい女なのは前から知ってる」
「あ、あああアンタらねぇっ!!」
 暴走。顔を真っ赤にして怒鳴るその姿は、士郎にしてみれば可愛らしくてたまらないものだった。九郎の顔がにやついているのは、おかしいのではなくこの二人が微笑ましすぎるのだろう。
「ほ、本人の目の前でよくそんな恥ずかしいことをベラベラと……」
「いや、だって事実だし。なぁ?」
「ああ、遠坂がいい女なのは絶対だぞ」
 問いかける九郎に、あっさりと肯定の返事をする士郎。セイバーお墨付きの相性の良さは、今も健在といったところか。
「ふ、ふん。もういいわよ。私はセイバーの様子を見てから部屋に戻るわ。士郎は鍛錬でもして休みなさい」
「鍛錬?」
「どうせこのままじゃ眠れないでしょ。セイバーはあの状態だし、そこのお兄さんでもこてんぱんにして憂さを晴らしときなさい」
「って、俺の意志は!?」
「ないわ」
 即答である。なぜだか九郎は、唐突にアーカムの日々を思い出した、古傷とかを中心に。
「ただし、分かってると思うけど明日に差し支えない程度にね。それじゃ、お休み」
 と、赤くなった顔を誤魔化すようにまくし立て、凛は道場から出て行ってしまった。残された二人は、お互い無言で視線を交わしあって──同時に肩をすくめてみせる。
「仕方ない、姫様の思し召しだ。寝る前に一汗流すか」
「ああ……って、大十字って何かやってるのか?」
「いや、完璧なド素人。つーわけで手加減よろしく」






 結論から言えば、士郎の腕でも二、三度剣を交わせばはっきり分かるほどに、大十字九郎は弱かった。
 士郎の剣技も我流だが、そのスタイルは理想の自分──前回のアーチャーから学び取った最良の型である。対して九郎は、そもそも竹刀というものの感触にすら慣れていないようだった。その上、とにかく型がデタラメなのである。
 体格から言って単純な力では九郎の方が上だろうに、結局、凛の言葉通り「こてんぱん」にされて道場の床に寝転がったのは九郎の方であった。
「あー……大丈夫か? 大十字」
「まあ何とか。竹刀ってのはありがたいな、くらってもあんま痛くねえし」
 苦笑混じりにそう言って、九郎は床の上で大の字になる。体を動かした後だと、床の冷たさが気持ちよかった。
「衛宮のはアレか? どこかの流派でも修めたとか」
「いや。ただ、毎日セイバーと試合形式の訓練やってたから、自然にさ」
 問いかける九郎に、肩をすくめて答えを返す士郎。結局のところ、技術というのは日々の積み重ねだ。一朝一夕に身に付く必殺技などない。
「強くなりたいから……強くならなきゃいけないからな」
「……何のために?」
 不意に、九郎は床から士郎を見上げて淡々と言葉を放った。魔術師は本来、研究者だ。九郎やラスキンのような例外はともかくとして、神秘の解明より自身の鍛錬を優先する魔術師など稀である。
 だが……衛宮士郎もまた、その「例外」の方なのであった。
「衛宮。遠坂はおまえのことを、本当に宝物みたいに大切に思ってる……それだけは忘れんなよ」
「あ、ああ……」
 突然の言葉に、士郎は呆気にとられたように頷く。それから、不意に思い出したように表情をあらため、大の字に寝転がっている自称探偵を見下ろしてその問いを口にした。
「なあ、大十字……なんで大十字は「正義の味方」をしてるんだ?」
「へ?」
「ライダーが言ってたぞ。大十字が「正義の味方」を名乗ってたって」
「ああ、そういやそんなことも言ったな」
 今思い出したとばかりに、そんなことを呟く九郎。そして、「よっ」と声を出して起きあがり、
「なんでそんなこと聞くんだ?」
「……俺は、「正義の味方」を目指してるんだよ」
 九郎の問いに、士郎は頬を紅潮させ、だが真顔ではっきりと言い放った。
「「正義の味方」になりたいんだ」
「正義の味方って、なるものなのか?」
「え?」
 刹那、きょとんとした表情で問い返した九郎の言葉は、何の気負いもない、あっけらかんとしたものだった。
「ま、俺は兼業だし」
「兼業って……」
「そりゃ、正義の味方だけじゃ飯は食えないんだから当然だろ? 俺、魔術師としての仕事は基本的に全部断ってるからさ。探偵業務で飯が食えなきゃ餓死しちまう」
 あっけらかんと言ってのける。特別な人間など、特別な戦いなど、何もないのだと。
「人間、殴られりゃ痛いしくすぐられりゃ笑っちまうもんだろ。そういう生き物なんだからさ。
 どんなにひどく殴られても痛みを感じない、どんなに優しくされても笑うことすらできない……そんなのは、もう人間じゃねえだろ」
 ──哀しかったら泣く、理不尽には怒る、嬉しかったら笑う。そんな、ごく当たり前の在り方を、ずっと当たり前のままに持ち続けるのが……
「それがおまえの正義なのか、大十字九郎」
「俺はただ、俺にできることをやらないで、後から後悔するのが嫌なだけだよ、衛宮士郎」
 ごく当たり前のことを、当たり前のように口にする──正義の味方。
「まあ、こちとら神様じゃない。全世界の不幸な人達を一度に救済、なんてのは手に余る。けど、だからって目の前の不幸を見て見ぬふりするなんて気持ち悪いだろ? 俺は後味悪ぃ思いをするのがいやなんだよ。だから、探偵兼魔術師兼、正義の味方なんてやってるわけだ」
「それだけ、なのか?」
「そんな大層な理由なんているのか?「正義の味方」にさ」
 肩をすくめる九郎に、士郎は力無く笑った。奇妙な憧憬と──微かな失望。
「全てを救うことはできない。やっぱりそう言うのか、大十字も」
「「正義の味方」一人で人類全部救えるなんて、人類なめてるとしか思えねえよ。俺には」
 だが、九郎は怒るでもなく、嗤うでもなく──そもそもそんな思考すらないだろう──士郎とは対照的な表情でそう言った。
「……まあ、もう一つ理由はあるんだけどな」
「え?」
「昔、直接じゃないんだが、覇道鋼造って爺さんの遺言を受けとっちまってな。それ以来、俺は正義の味方をやってるのさ」
「──!」
 それでは、まるで──
「ま、“こっち”じゃその爺さんも健在なんだが」
「?」
「いや、まあ気にすんな」
 苦笑混じりに肩をすくめ、あっさりと士郎に背を向ける九郎。しかし、士郎は慌ててその背を呼び止め、まるで縋るように手を伸ばした。
 ──彼の背中が、あまりにもかつての養父と似ていたが故に。
「教えてくれ! そいつの遺言って一体──!」

「──汝、魔を断つ剣となれ──」

 立ち止まり、されど振り返らず、大十字九郎は、その誓いの言葉を口にした。


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