Fate/stay night“Howling wilderness”


メッセージ一覧

1: 名無し (2004/04/18 01:32:36)[dice_k at tbb.t-com.ne.jp]

はじめに
※このSSには、独自の設定により原作の設定を改変された人物及び独自の設定の人物が登場します。予めご了承下さい。

2: 名無し (2004/04/18 01:33:18)[dice_k at tbb.t-com.ne.jp]






Fate/stay night“Howling wilderness”





―――――1/31“唯、何事も無く”










――――気付けば、焼け野原に立っていた。

大きな火事があったのだろう。
見慣れた町は一面の廃墟に変わっていて、映画で見る戦場跡のようだった。

―――それも、長くは続かない。

夜が明けた頃、火の勢いは弱くなった。
あれほど高かった炎の壁は低くなって、建物はほとんどが崩れ落ちた。

何もかもが崩れていく中で、わたしだけが、そのままの姿で残っていた。

どうしてわたしは生き残ったのか。それは全く分からない。
よほど運がよかったのか。或いは誰かが守ってくれたのか。

そこまで考えて、ようやく一つのことに思い至った。

――お父さんと、お母さんは、どこ?

ここには、わたししか生きてる者はいないからと、あてもなく歩き出した。
足元に転がる人達は、真っ黒にこげていて、一体誰なのか分からなかった。

あの人達みたいになるのはイヤだった。
そして、私の気持ちは、もう一つのことを恐れていた。



それでも、助からないと思った。
ここまで生きていたのが不思議なくらいで、もういつ死んでもおかしくないと、幼い心にもそれが分かった。
そのくらい酷い火事だった。

一体どこををどう歩いたのか。やがて私は力尽き、倒れた。
周りにはこげて縮んでしまった、人だったものがわたしと同じような格好で倒れていた。
体は痛くない所の方が少なく、まるで自分のものではなくなってしまったかのよう。
最後の力で体を返してうつ伏せから仰向けになり、空を見上げた。

空は曇り始め、今にも雨が降りだしそうな顔をしていた。
雨が降れば、火も消えるかな、なんてことを考えながら。
――怖い、と。
もう声なのか空気が喉を通っただけなのか分からないような音で、そう呟いた。

手を空へと伸ばす。
死ぬのは怖かった。
誰もそばにいないまま、一人きりで死んでいくのは、怖かった。

ここには死しかない。
人が死んで、建物が死んで、生き物が死んで、空気が死んでいる。
もうすぐわたしも、ここに溶けて死になってしまう。
大きな死というカタマリの欠片に。

砂漠の中の砂粒なんて、誰も気付かない。
カタマリになってしまったら、誰も気付いてくれないかもしれない。

砂漠の中の砂粒に、他の砂粒との違いなんて無い。
誰も気付いてくれなかったら、わたしが生きていたということは、全く無かったことになってしまうのかもしれない。

わたしはいなくても良かったの?
わたしは生まれてこなかったの?

死はまるで津波のように、全てのモノを呑み込みその内へと閉じ込めていく。
無慈悲に、無差別に、無目的に。
今まさに、わたしを呑み込もうとしている死は、とてつもなく恐ろしい。

けれど、それ以上に、ここにはわたししかいないという事実が、怖かった。

死の姿。死の匂い。死の足音。死の味。死の感触。
わたし以外の全てが死。
それはまるで――世界がわたしだけを切り捨てたかのような錯覚。

世界から見捨てられたら、もう何をしても変わらない。
だって世界はわたしを見ていないんだから。
どんなにわたしが頑張っても、どんなにわたしが泣いていても、どんなにわたしが笑っていても、それを見て、それを知っているのはわたしだけ。
わたしに現れ、わたしに表れ、わたしに顕れて、全てわたしに帰る、返る、還る。
何をしようと全くの無意味。
それならば、死に飛び込み、死と等しい意味になった方が、どれほど安らげるか。
返しては、孤独であることの、なんと冷たく、恐ろしいことか。

お願い。誰でもいいから、わたしを見つけて。わたしに気付いて。
誰か、いるはずも無い誰かが、わたしの伸ばした手を握ってくれるようにと、燃え尽きそうな小さな心で祈って――










結局、わたしは奇跡的に命を救われた。
けれど、ある意味わたしはあそこで死んでしまったのだとも思う。
家を失くし、両親を亡くし、わたしのそれまでも無くし、全てを失って。
けれどわたしの体だけは無くならなくて。



残ったのは、この体と、孤独という皹の入った、心。
皹だらけの心は、やはりどこかがぽろぽろ欠けていて。
残った体に当て嵌めても、ぴたりと合わさることは無かった。



そう、わたしは、心が壊れてしまったのだ。

















「…………ぅ、ん」
耳に響く電子的なベルの音に、目が覚める。
絵本に出てくるような、ウサギをモチーフとした可愛い見た目の目覚まし時計は、小さい頃からわたしが使っているもの。長年の付き合いにもかかわらず、このけたたましいぴりりりりという音はどうにも馴染めない。

いや、馴染めちゃったら目覚ましとしては失格なのだから、この子は優秀なんだけど。
寝惚けた頭には、もうちょっと寝かせて欲しいな、というささやかな願いを邪魔する小癪な悪戯っ子にしか思えない。

布団に潜ったまま、わたしは手だけを音のする方へと伸ばし、早く起きろとその使命を忠実に全うする時計の頭を叩いた。静かになる。

何も聞こえない。布団の暖かさに包まれ、このまま再び眠ってしまいたいという欲望に引き摺られながらも、わたしは手にした目覚ましを覗き込んだ。
「……あれ、何でこんな時間に鳴るんだろ」
示す短針は6時前。いつもより少し早めの時間。
むー、としばしの間時計とにらめっこ。
……だめ、起きたつもりだったけどまだ頭が回ってくれてない。
回らないなら無理はしない。このままいつもの時間まで寝てしまおう。もし多少寝過ごしちゃってもお母さんが……

―――あ。

『お母さん』という単語が出てきた時、わたしは思い出した。
「そっか……お母さん、今日から暫くいないんだっけ」
となるとここで二度寝しちゃうのは少々まずい。名残惜しいけど、布団とはお別れすることにしよう。

もぞもぞと布団から這い出し、薄暗い部屋の中、窓際に向かう。
カーテンを開け、顔を出したばかりの朝の光を部屋に招き入れる。ついでに窓も開けてしまう。
夜の間に研ぎ澄まされた冬の空気は、目を覚ますのにはうってつけ。ちょっと肌寒いのが難だけど。
先程よりは幾分か動き始めた頭が、昨日の出来事を思い出す。



昨日、学校からわたしが帰ってくると、お母さんはばたばたと慌しく家の中を走り回っていた。
とりあえずの衣類やその他諸々の旅行用の品を大きめのバッグに詰め込んでいるお母さんに話を聞くと、お父さんが出張先で怪我をしてしまったので、様子を見に行く、ということらしい。

幼稚園に通っている弟たちは、もうお休みの連絡をいれてあり、一緒に連れて行くと言う。
そこまで聞くと、よほどの大怪我なのかと心配になって、なら私も――と思ったのだけど、どこかお母さんの態度がおかしい。不審に思って詳しく話を聞くと、どうやらただの骨折程度。けれど折った箇所が足で、日常生活に支障があるから誰かがお世話をしに行かないといけないでしょ、なんて事をどこか恥ずかしそうにわたしに弁明するお母さん。

――要するに、何だかんだ理由を付けてお父さんに会いに行きたかった、という何ともお母さんらしいといえば、らしい話だった。
結局、急な話でごめんねごめんねと、玄関で何度も謝るお母さんを苦笑しながら見送ったのだ。



思い返すと、そんな普段からはかけ離れたお母さんの様子が可笑しくて、思わず口元が緩んでしまう。
何年たってもお父さんとの仲の良さは変わらない。ぱっと見はきりっとしていて、冷たい印象なんだけど、本当は子供のように純粋で、暖かい人。
この家に貰われた時、心からわたしの事を歓迎してくれた人。
事情を知らない人から、わたしがお母さんに似てないと言われる度に、ほんのちょっとだけ悲しそうな目をする人。
それでも、わたしはお母さんの子で、お母さんはわたしの親であることに、何の疑いも無かった。

「そういえば、初めてなのかな……起きたら一人だけっていうの」
わたしがこの家に来てから10年が経つ。
その間、朝起きて誰もいないということは無かった。
目を覚ませば、必ず誰かがいた。居間は賑やかで、暖かくて、それが当たり前の光景。
ずっと変わらないものだと思っていた。
だからなのかな。
今日はわたし以外は誰も家にいない、という言葉が、やけに深く心に響くのは。



……と、こんな物思いに耽っている場合じゃなかったんだ。
今日はお母さんがいないから、朝ごはんとお弁当の準備、全部わたし一人でやらないといけない。これじゃ折角早めに起きた意味が無くなってしまう。
まずは着替えて、毎朝恒例の、わたしの頭上で暴れる厄介な寝癖との戦いに赴くとしよう。



「よっ、と」
制服のブラウスに袖を通し、ボタンを留めて部屋を出た。
わたしの部屋から洗面所に行くには、居間を通らないといけない。
ついでだから居間の暖房をつけておこう。冬でもたいした寒さにならないこの辺りとしては珍しく、今朝はかなり冷え込んでいる。
家の中だというのに吐く息が白いのにはびっくりした。



洗面所で顔を洗い、しつこく残っていた眠気もきれいに洗い落とす。この時だけは冬の冷たい水にも感謝できる。
ブラシを駆使してしつこい寝癖をなんとか整え、鏡を見る。当然、映っているのはわたし、三枝由紀香の顔。

「…………」
蒔ちゃん曰く、『外見で判断するなら由紀っちは120%年下でしかも末っ娘だよな』とのこと。
どのへんが末っ娘に見えるのか聞いてみたんだけど、『そんなの、全部だよ全部。てかそういう質問してくる時点で妹っぽい』というにべも無い返事に、ちょっと落ち込んだり。これでも結構、弟の世話なんかしてる方だと思うんだけどな。
まあ未だに中学生と間違われたりする事もたまに……いや、間違われてばかりだったりするかも……
三人で遊びに行ったとき、蒔ちゃんが冗談で買った小学生のチケットで、怪訝な顔をされながらもパスできてしまった時の話は、今でも笑い種になっている。
鐘ちゃんや遠坂さんみたいに大人っぽくとまでは言わないから、せめて同じ高校生としては見てもらいたいっていうのは贅沢な悩みなんだろうか?
鏡をじーっと見つめる。けどそこにあるのはやっぱり……うう、自分でも分かってるもん。
大きな溜息を一つ。
……ふん、蒔ちゃんにはわたしの悩みなんてわかりませんよーだ。





ささがきにしてアクを抜いたごぼう、イチョウ切りのれんこん、そして千六本にした人参をごま油で炒める。お母さんはせん切りにするみたいだけど、わたしはこっちの方がいいと思う。野菜の水分が抜けないように、手早く、強火でさっと仕上げるのが美味しく作るコツ。
「うん、良い出来」
味見した分にも文句無し。
人からはトロそうだってよく言われるわたしだけど――実際トロいんだけど――料理に関しては少しだけ自信がある。これでも小さい頃からお母さんと一緒に三枝家の台所で包丁を握ってきたのだ。こと和食に至っては、お父さんもわたしの方がお母さんより上手になったって認めてくれたほど。
お父さんのジャッジがあった後、お母さんが暫くの間わたしに和食を作らせてくれなかったりしたような気もするけどきっと気のせいじゃないかな、うん。

そんなわたしだから、部活動も当然、料理同好会に入……ろうと思っていたはずなんだけど、いろいろあって何故か今は陸上部に在籍している。因みに役職はマネージャー。それでも後悔はしてないし、マネージャーという仕事もやってみると結構わたしには合ってるんじゃないかって気がしてるし、実はこっそり料理同好会の方にもたまーに顔を出させてもらっている。
陸上部のみんなも、それには気付いてるんだけど、見て見ぬフリをしてくれてる。バレてる時点でこっそりとは言えないんだけど、『由紀ちゃんの差し入れはいつも美味いからね。だからじゃんじゃんあっちにも顔出してきて。いや出してこい』なんて、寧ろ後押ししてくれてさえいる感もある。なんだかちょっと複雑。



一通り出来上がったおかずをお弁当に詰めて、残りは朝ごはんにする。
作るのはわたしだけだったけど、食べるのもわたししかいないので、作る分量も少なく、結局大した時間はかからなくて、あまり早起きした意味はなかったみたい。
いつもならお母さんと二人でも、朝ごはんと弟たちのお弁当の分も作らなくてはいけないので、朝の台所はそれなりに忙しいんだけど、今日に限ってはそれも無くて、なんだか見慣れたはずの我が家の食卓が、知らない家のそれのよう。わたしの箸の音だけが、空しく響く。

まあ早起きは三文の得っていうし、どちらかといえばわたしは朝が弱い方だからきっちりと目が覚めたということでよしとしよう。
お味噌汁をすすりながら、そんなことを考えて、胸の奥に生まれた小さな感情に無理矢理気付かないフリをした。
味見をしたときには上出来と思えたきんぴらが、それほど美味しく感じなかったのは何故だろう。



鞄に入れた今日の時間割の確認をしながら、テレビに流れてるニュースを見る。
画面には、“ガス漏れ事故、連続”なんていうテロップが大きく出ていた。
なんでも、新都にあるオフィス街のビルで、フロアにいた人全員が突然倒れ、意識不明の重体になってしまったとか。
ガス漏れが原因っていう話だけど、それが最近、続けて起こっている。
「ガス漏れかあ……あ、いけない元栓締めたっけ」
慌てて火元の確認。良かった、ちゃんと締まってる。
それにしても、いくらなんでもここ何日かで、被害にあった人の数は数百人っていうのは怖いな。
ガス漏れなんて、どんな建物でも起きそうなものだし、新都には遊びにいくことだってある。
もしそんな時に事故が起こったら――
「……もう一回、元栓確認しておこうっと」



家のドアに鍵をかけ、門を閉める。鍵は制服の小物入れへ。
時刻はまだ7時前。住宅地であるため、車の通りも無く、遠い鳥の声が良く聞こえるくらいに静か。起きた時は仄暗かった空もようやく朝らしい朝の様相で、肌を刺す空気の冷たさが心地よい刺激。
目を閉じて深呼吸。体の中に冷たい空気がすーっと染み込んでくる。
よし、それじゃあ今日も一日、良い日でありますように――
「――――いってきます」

3: 名無し (2004/04/18 01:34:29)[dice_k at tbb.t-com.ne.jp]






冬木市のベッドタウンである深山町は、斜面が多い土地で、わたしの家が建っている住宅地も、なだらかな傾斜にある。
この辺りは、古くから居を構えている人が多いらしく、周りのお家は、大きくていかにもお屋敷、といった物が目立つ。中でも、坂を上りきったところに建っているお屋敷は、個人宅というより旅館といっても差し支えないほど大きく、長い塀を持っている。
どんな人が住んでるんだろうと思って見に行った記憶があるんだけど、その家の住人に会えたのか、あまりよく覚えてない。
ともあれ、坂道を下ると町の中心でもある交差点に出た。
深山町の主だった場所だけでなく、新都に向かう時にもここを通らなくてはならない、正真正銘深山町の要だ。
とはいえ、今は寄り道なんてしてる暇も理由も無いので、真っ直ぐ学校に向かわないと。



学校に続くゆるやかな坂道を一人歩く。
時刻は7時を少し過ぎたところだろうか。辺りにはわたしと同じように部活の朝練のある生徒がちらほらといるばかり。親しい友達を見つけることも無く、静かだけど何となくいい雰囲気の男の子と女の子の二人組を横目に見ながら、わたしは無言で坂道を上っていく。
……どこかで見たことあるような二人だったけど、誰だっけ。



学校に到着。
校門をくぐり、部室のある方へ。すると
「おはよう由紀っち、今日は寒いなー。こんな日に朝練なんてあーヤダヤダ」
白い息を吐きながら、陸上部のジャージに身をつつんだ蒔ちゃんが声を掛けてきてくれた。
「うん、おはよう蒔ちゃん。でも蒔ちゃん、いつも朝は眠いからサボりたいって言いつつ休んだことないよね、練習」

今、わたしの目の前にいるのが、蒔ちゃんこと本名は蒔寺楓ちゃん。陸上部の短距離走のエース。
いつも元気で、他人の後ろを歩くよりも、自分が率先してぐいぐい手を引っ張って進んでいくタイプの女の子。実際、わたしが陸上部に入ることになったきっかけにも、蒔ちゃんがからんでたりする。いや、ぶっちゃけて言ってしまうと蒔ちゃんが主犯です。
なんだけど、風鈴集めが趣味だったり、お部屋には綺麗なガラス細工が沢山置いてあったり、実は着物がすっごく似合う和風の美人だったりと、少々意外……といったら蒔ちゃんに失礼かな? とにかくそういう一面もある。健康的なすらっとした手足や、睫毛の綺麗な切れ長の瞳なんかがとっても羨ましい。これでもうちょっと普段から落ち着きがあれば、絶対男の子にもてるんだろうなあ、とか思ってたりするんだけど、言ったら何だか怒られそうな気もする。理由は分からないけど。

「蒔の言葉は話半分に聞いておいたほうがいいぞ、由紀。ああ、それと順番が逆になったがおはよう」
「あ、おはよう鐘ちゃん。大丈夫だよ、蒔ちゃんは根が正直だから本気で言ってる時はすぐ顔に出るし」
「だそうだ、蒔。正直者と言う由紀の言葉には些か疑問が残るが、顔に出やすいというのは概ね同意だな、私も」
「くっ……ああもう、朝っぱらから生意気だぞ由紀っちのくせにー!」
二対一は流石に分が悪いと思ったんだろう、蒔ちゃんは悔しそうな顔をしながら準備運動を始めた。口を尖らせて拗ねたような顔が可笑しくって、つい微笑んでしまう。

横から声を掛けてきてくれたのは、私のもう一人の仲良し、鐘ちゃん。本名は氷室鐘ちゃん。名字もそうだけど鐘なんて、女の子にしてはすごく変わった名前。けれど本人はいたく気に入ってるみたい。『個性的でいい。初めて会う人にも大抵は一度で覚えてもらえるからな』とは本人の弁。
鐘ちゃんも陸上部のエース。といっても蒔ちゃんとは別の、高く跳ぶ方が鐘ちゃんの得意分野。
今は外しているけど、眼鏡をかけてて、何気ない仕種とかがすごく大人っぽい、落ち着いた雰囲気の女の子。蒔ちゃんが手を引っ張ってくれるタイプだとしたら、鐘ちゃんは後ろからそっと押し上げてくれるような感じ。いつもさらさらの髪の毛や、真っ白で肌理細かい肌は、どうやってお手入れしているんだろう。これでもうちょっと普段から明るく振舞っていれば、絶対男の子にもてるんだろうなあ、とか思ってたりするんだけど、言っても何だか興味なさそうな気もする。理由は分からないけど。

「それじゃあ、私も着替えてくるね」
二人に挨拶を済ませ、部室に入ろうとした、その時
「お。あれ遠坂じゃん。朝練……じゃないよな。あいつ何か部活入ってたっけ?」
そんな蒔ちゃんの言葉に、思わず足が止まってしまった。振り向く。

――――いた。遠坂さんが。
遠坂さんは何故か弓道場にいたらしく、丁度そこを出た所で、誰か男の子と話をしていた。男の子は後ろ姿なので顔が分からないけど、その男の子と会話している遠坂さんの表情は、呆れたというか、不機嫌というか、困ったというか、とにかくそういった類のものだった。男の子の方はそんな遠坂さんの様子を、あまり気にしていないみたい。
遠坂さんでも苦手な人とかっているんだ。ちょっと意外。
それにしても、確か遠坂さんは部活動をしてない筈なんだけど。今日は学校に早く来ないといけない用事でもあったのかな。

遠坂さん。変わり者の多いこの学校の中でも、特に名を知られている内の一人。文武両道才色兼備、加えて優しくお淑やかで、自分の才を自慢もしないし卑下もしない。
まさに完璧。男の子だけじゃなく、女の子も憧れてる人が多い、冗談のようなすごい人。
で、わたしもやっぱりそんな遠坂さんを尊敬してて、あんな風になれたらいいな、でもそんなのは無理だろうな、なんて思ってたりする内の一人なんだけど。
因みに蒔ちゃんは、何とあの遠坂さんと何度も一緒に遊びに行ったことがあるという。遠坂さんも、蒔ちゃんと同じで可愛い細工物とか、古物屋さん巡りとかが好きなんだとか。羨ましくなんてないもん。
……ホントは羨ましいけど。

「ん――話してる相手は……C組の間桐君か?どうやら遠坂嬢は一方的に話しかけられてるといった風だが」
僅かに眼を細めながらそう言う鐘ちゃん。眼鏡はしてないけど、部活のときはスポーツ用のコンタクトをつけてるらしい。でも眼鏡の方が自分は気に入ってるからという理由で、日常生活ではそちらをしている。鐘ちゃんはどちらかというと古い物を好む傾向にある。

「あらら災難だね遠坂も。朝っぱらからよりにもよってあんなヤツに掴まるとは。日頃の行いのせいじゃねーの?」
にひひひひなんて、あまり女の子らしくない笑い方をする蒔ちゃん。蒔ちゃん、見た目は良いんだから、そういう笑い方はしない方が……
「む……珍しいな。蒔とはあまり苦手とする相手で意見が合うことは無いと思っていたんだが」
「なに、間桐のコト? あーダメダメ、あいつモテるらしいけどあたしゃああいう奴、基本的に受け付けないのよ。あたしにもコナかけてきた事あるけど、なんつうか、あのヘラヘラした顔見ると虫唾が走る」
「私もそれについては全面的に肯定だ。彼は相手が男性か女性かであからさまに態度を変えるのが気に入らない」
「ま、蒔ちゃん、鐘ちゃん……」

二人ともわりと容赦の無い、間桐君に対する評価。対称的な二人だけど、こういうところはよく似てるなあって思う。
「でも、間桐君、遠坂さんに何の用かな」
「そりゃあ、あいつの事だからやる事っつったら一つしか無いんじゃない? あの遠坂を口説いてんでしょ」
「えええっ!?」

驚いた。確かに遠坂さんは綺麗で、頭も良くて、運動もできて、人当たりも良くて、ちょっと、いや、すごく憧れてたりする人だから、当然そういう事も多々あるのは当たり前といえばそうなんだろうけど。
でも、やっぱり実際にそういう現場を見てしまうと……その、何というか、ショックだ。

そんな私を見て、蒔ちゃんが
「どうした由紀っち? 『わたしの』遠坂さんが間桐の毒牙にかかるんじゃないかと気が気じゃないって顔してんぞー」
変な所にアクセントを付けて、ニヤニヤしながら言ってくる。
「わ、わたしのって、蒔ちゃん! わたしは別に遠坂さんのことをそ、そういう目で見てる訳じゃなくて、ただ……」
「んー、そういう目ってのはどういう目カナ? やっぱ自覚アリ?」
……蒔ちゃん、絶対さっき言負かされた事、根に持ってる。

「由紀。それ以上口を開くと益々火に油を注ぐ結果となるから、黙秘を薦めておく。……まあ、個人的な意見としては、恋愛観なんて人それぞれだからあまり気にしない方がいい。由紀のそれは少々特異ではあると思うが皆無というわけでもないし」
「だから、違うってばー!」
うう、鐘ちゃんまでそんな事言うなんて思ってなかったよう。

二人の誤解を解こうと孤軍奮闘していたら、どうやら遠坂さんと間桐君の会話は終ったらしい。肩を掴もうと詰め寄る間桐君の手をするりとかわして、遠坂さんは校舎の方へと消えていった。
その後姿は、颯爽としていて、やっぱりとても綺麗。思わず見とれてしまうほどに。
……やっぱり、遠坂さんって、かっこいいな。
でも、どこか人を寄せ付けない、寄ろうとしない気がする背中は、わたしに憧れとは違う、別の気持ちを抱かせて――――

「――うん、決めた。鐘ちゃん、蒔ちゃん、今日のお昼、遠坂さんを誘ってみてもいいかな」
「私は別に構わない。食事は大勢の方が楽しいからな」
「いいけど。でも、遠坂って他人と楽しく会話しながら飯食うって柄じゃない気がするぞ。無理矢理弁当渡して食わせでもしない限り。まあいいや、頑張んな恋する乙女」
「もう! 蒔ちゃん、いい加減にしないとわたし本気で怒るよっ!」
「おお怖え怖え。んじゃ鐘、あたしは鬼マネが暴れ出さん内に真面目に走ってくるわ」
けらけらと笑いながら蒔ちゃんは逃げていく。わたしがどんなに頑張って追いかけても、蒔ちゃんが本気になったら追いつけるわけが無い。わたしをやり込めることが出来たのがよほど嬉しいのか、とてもすっきりとした表情。
ああもう、悔しいっ。
そんなわたしと蒔ちゃんの様子を見ながら、鐘ちゃんはやれやれといった風に大げさに肩を竦めた。









4: 名無し (2004/04/18 01:35:46)[dice_k at tbb.t-com.ne.jp]






時刻は8時ちょっと前。
朝の部活動も終り、教室は談笑をする生徒であふれてる。
わたしのクラスは2年A組。蒔ちゃんや鐘ちゃんも同じクラス。そしてあの遠坂さんも、わたしから見て左前のほうの席に座って、授業の予習なのだろうか、教科書を捲っている。
あと少しすればHRが始まる時間だけど、まだ教室に戻ってきてない生徒も何人かいて、その内の一人が、今ドアを開けて入ってきた。
「おおう、出たな美綴。おはようさん」
「おはよう蒔寺……は良いとして何よその物の怪みたいな扱いは」
「うっわ自覚ないよこの人外武闘派女子高生。あんた位しかいないぞその歳でそんだけ黒帯持ってんの」
「あんたこそ丑三つ時に着物着て柳の下に立ってたらこれ以上ないハマリ役のくせによく言うわ」

苦笑を浮かべながらも、蒔ちゃんの挨拶に軽く手を挙げて返してきたのは、美綴さん。
彼女も遠坂さんに負けず劣らず学校の有名人の一人。
わたしは詳しく知らないんだけど、剣道とか柔道とか空手道とか、色々な武道の段位を持っていて、『やったことがないから』っていう理由で弓道部に入り、そこでもなんと主将にまでなってしまったというすごい実力の持ち主だ。
そんな恐ろしげな経歴とは裏腹に、美綴さんは気さくで面倒見が良くて、みんなに慕われている。
おまけに美人だし、間違いなく男の子にも人気があるんだろうけど、浮いた話の一つも無い、不思議な人。

けど蒔ちゃんはそんな美綴さんを『あいつはあたしとキャラが被る。よって敵』とか言って何かと美綴さんに絡んでいる。まああれが蒔ちゃんの親愛表現なのは分かりきっているし、美綴さんも理解してるらしく、毎回笑いながら流してるから何も言わない。
それにしても美綴さんと蒔ちゃんって自分で言う程似てないと思うんだけど。強いて言えば、溌剌としたところなんかは通じるかな?
……改めて考えると、遠坂さんを始め、美綴さんや鐘ちゃん、蒔ちゃんと、2年の中でも特に綺麗って評される女の子が一堂に会するこのクラスって、実は結構すごいんじゃないだろうか。

あ、そうだ。
「あの、美綴さん。今朝、遠坂さんが弓道場に来てなかった?」
「あ、おはよ三枝さん。ああ、来てたよ。部活が始まるまで道場に呼んで話してた。でもそんなの本人に聞けばいいのに、何であたしに?」
「え、あ、その……遠坂さんに話しかけるのは、ちょっと気が引けちゃって……」
「あはは、なるほど。確かに遠坂さんはちょっと近寄り難い感があるからね。でも三枝さんなら、そんな心配しなくても邪険にされるようなことは無いよ、保証する」
にっこり笑ってわたしの肩を叩く美綴さん。言葉と笑顔がわたしを安心させてくれる。けれどその背後の蒔ちゃんの笑顔は逆にとっても邪悪に満ちてて、わたしを不安に陥れた。

「良かったな由紀っち、美綴のお墨付きだ。あとは気合いれて告るだけだぞー」
「ばっ……な、何でそんなヘンな言い方するの蒔ちゃん! ホントにそういうんじゃ無いんだからっ」
「え゛……」

美綴さん、お願いだからそんな初めて出遭った不思議な生き物を見るような目をこちらに投げないでほしいです。

「ち、違うの美綴さんっ! ただ、今日はたまたま遠坂さんを誘おうかなーなんて思ってるだけで……あ、そんな、べ、別に深い意味は無くてっ! 一緒にお弁当食べたいだけなの本当に! 遠坂さんはいつも一人だから寂しそうだからでもでもわたし達は三人だから大勢でお昼ご飯を食べるから集まると楽しいから! 本当だからそれだけだからお願いだから本当だから信じて!」
一生懸命、蒔ちゃんの発言から発生したであろう疑惑を否定するわたし。けど途中から慌てすぎて自分でも何を言ってるのか分からなくなってきてもうめちゃくちゃ。

「由紀。顔を赤くしながら弁明してもそれは却って逆効果にしかならないことを自覚した方がいい」
まるでフォローになってないけど一応それらしきものを入れてくれる鐘ちゃん。
でも鐘ちゃん、わたし見えてたんだからね。声に出さないようにしながら背中を震わせて笑ってたの。まだ口の端がひくひくしてるし。

ついに我慢の限界を超えたのか、声を上げて笑い出す美綴さん。よほど可笑しいらしく、お腹を抱えて、目にはうっすらと涙さえ浮かべて笑っている。クラス中の眼がわたし達に集まる。そこにはやはり吃驚したような遠坂さんの視線も当然あるわけで。

……ええと、かみさま。わたし、何か悪いことしましたか。

チャイムと同時に教室に入り
「HRを始める。日直、礼を」
なんていつも通りのマイペースさで教室の空気を入れ替えてくれた担任の葛木先生は、わたしの切なる心情を聞いたかみさまの使いのように見えた。





点呼をとり、遅刻者と欠席者の確認の後、淡々とした口調で、葛木先生が今日の連絡事項を読み上げる。無駄話も余所見も一切なし。
葛木先生は、致命的なまでに愛想というモノが欠けている先生だ。
この一年間、わたしは先生の笑顔はおろか、感情を面に出したところを見た記憶が無い。葛木先生が笑った次の日には、きっと雨と雪と雷と槍が同時に降りながらも快晴だろう。間違いなく。
ここまで鉄面皮だと、生徒には不人気なのが普通なんだろうけど、葛木先生に関してはそんなことは無い。
先生は真面目で固い人だけど、相手が誰であろうと決して対応を変えたりしない。生徒でも、同じ教師でも、そして自分自身でも。
そういうところが分かってくると、本当はとてもいい人なんだなと思える。
上級生になればなるほど、葛木先生に人気があるのは、きっとそういう理由なんじゃないかな。



「――今日より暫くの間、門限は午後6時となる。部活動のある生徒も、門限以降は校内に残らないように。ではHRを終了する」
葛木先生が教室から出て行く。
必要最低限の事しか話さない葛木先生のHRは、いつも終るのが早い。次の授業が始まる僅かな時間の隙間に、教室は再びHR前の賑やかさを取り戻す。
えっと、今日の1時限目は――
わたしが鞄を開けながら、教科書とノートを取り出そうとしていると、廊下からどどどどどという手加減を知らない駆け足が。
がらがらっと勢いよく教室のドアが開かれ、
「ごめーん、今日も遅くなっちゃったけどぎりぎりセーフ!それじゃ授業を始――――」

ぎごん、と。
同じ生き物としてそれはどうだろう、という果てしなく危険な音を立てて、1時限目の授業、英語の担当である藤村先生は、これ以上ないくらい盛大に転んだ。
凍りつく教室。
葛木先生が塗り替えるとしたら、藤村先生は打ち壊すといったところか。
それまでの教室の雰囲気を一瞬で消し飛ばして、うつ伏せに倒れたまま動かなくなった藤村先生を、一体誰が起こすのかという議論から、今日の授業は始まったり。












教室の中央、黒板上部に備え付けのスピーカーから流れるチャイムの音が、4時限目の終了を告げる。先生が退出した教室は、昼休みの開放感に包まれ、学食に向かう生徒やお弁当を広げる生徒が一斉に動き出す。活気が満ち溢れる。

……きた。
きてしまった。お昼休み。昼食を食べる時間。つまり、そういう時間。
予行演習は頭の中で何度も繰り返した。うん、何も問題は無い……はず。



「では、頑張ってくるといい、由紀。健闘を祈る」
「んー、あたしはフラれるに賭けるね。多分弁当持ってきてないぞアイツ」
はやくも自分のお弁当箱を開け始めている二人。待ってくれないのがちょっとさみしい。くすん。
「うん……まあ、その時はしょうがないから諦める」
そう言い残してわたしは遠坂さんの席の方へと向かう。教室に残ってお弁当を食べる生徒は大体クラス全体の半分ほど。残りの半分は、購買か学食かのどちらかへ向かっているのだろう。
ちなみに学食の味付けは大味で、女の子からの人気はあまり無い。それでもお弁当を忘れたりした時には重宝する。そんな訳で今教室に残ってるのは女の子が多め。
そして、ついに目標がわたしの目の前に。
うわ、何か緊張してきちゃった……!
落ち着けわたし。相手はただの同級生だ。ちょっと高嶺の花なだけの。

「あ、あの、遠坂さんっ……! よ、良かったらお昼ごはん一緒に食べませんか……!」
第一声からいきなり詰まってしまった。ああもう何やってるんだろうわたし。
やたら気合の入ったわたしのお誘いに、遠坂さんは席についたままこちらを見上げた。そして、ちょっとだけ眉を顰めて
「ありがとう三枝さん。けどごめんなさい、わたし今日は学食なんです。今朝は寝過ごしてしまって、お弁当を作る余裕がなかったものですから」
と、申し訳なさそうな顔をした。
うん、蒔ちゃんに言われる前から、そうなんじゃないかなあ、とは思っていたんだけどね、わたしも。
それでも、こうして本人から断られてしまうと、ちょっと落ち込んじゃう。

「あ、や、そうなんですか。……ごめんなさい、そうとも知らず呼び止めてしまって。わたし、余計なコトしましたね」
自分でも分かるくらい、声に元気が無い。
「余計なコトだなんて、そんな事はありません。今日はたまたまだから気にしないで。また明日、これに懲りずに声をかけてください」
そんなわたしを気遣ってくれているのか、優しい言葉に少しだけ癒されてしまう。

「あ、はい。でも、遠坂さんでも寝過ごす事があるんですね」
「ええ、そうなんです。なんとか誤魔化していますけど、本当は寝ぼすけなんですよ、わたし。部活だって、朝起きられないから入ってないんです」
そう言って少し恥ずかしそうにはにかむ遠坂さん。うわあ、普段は綺麗っていう印象なのに、そういう顔は可愛い。すごく良い。

「それじゃあ食堂に行ってきます。三枝さんもごゆっくり」
「はい、遠坂さんも」
残念だけどあまり長く引き留めるわけにもいかない。食堂の席だってそんなに多いわけじゃないし、早くしないと座れなくなっちゃう。
席を立った遠坂さんの邪魔にならないよう、蒔ちゃんと鐘ちゃんのところへと戻るわたし。

相変わらずマイペースで自分のお弁当をつつく蒔ちゃんと鐘ちゃん。一人で戻ってきたわたしを見て、蒔ちゃんは予想通りって顔をしてる。
「お、フラれたね由紀っち。だから言ったでしょ、遠坂は弁当持ってこないって。釣りたかったらあいつの分もメシ用意しないとねー」
「……蒔。それは、私たちも食堂に移動すればいいだけの話では?」
鐘ちゃんの素晴しい提案にわたしは思わず頷きそうになる。けれど
「だめだめ。食堂は狭いんだから、弁当組が座れるスペースなんてねーっての。それに遠坂と同席してみなさい、男どもの視線がうざいのなんの。前の休みだってさー、二人で遊びにいったのにあいつだけ得しちゃってさー。やだよねー、美人を鼻にかけた優等生はー」
すかさず蒔ちゃんが却下。
そりゃあ遠坂さんと並んで歩いたら、どうしてもそっちに目が行っちゃうのは仕方ないと思う。けど蒔ちゃん気付いてないのかな、自分もけっこう人目を引いてるってこと。

「……蒔の字。君の陰口は、遠坂嬢に聞こえているようだが」
「あ、やべ、遠坂に聞かれた? げげ、めっちゃにらんでるじゃんあいつ……!」
うん、やっぱり自分に注がれる視線には疎いみたいだね、蒔ちゃん。……って、遠坂さんが、睨んでる?
その言葉に遠坂さんの方を見る。
あれ、わたしには笑ってるようにしか見えないんだけど……
「え……べ、別に遠坂さん、蒔ちゃんを睨んでなんかないと思う、けど」
「睨んでんだよアレ。あいつは笑ってる時が一番怖いんだから。なんだよー、いいじゃんかグチくらい。大目にみろよー、あたしと遠坂の仲だろー。タイヤキ奢ってやっただろー」
ぶんぶんと手に持ったお箸で抗議表明する蒔ちゃん。ちょっとお行儀悪いと思います。
ああ、でもどうしよう、蒔ちゃんは蒔ちゃんで止められそうにないし、かといって遠坂さんにわたしが謝るのもなんか変だし……
「気にしないでいいのよ三枝さん。それと蒔寺さん? 奢らされたのはわたしで、品物はタイヤキではなくクレープでした。無意識に事実を改竄する悪癖、次あたりに直さないと考えますよ?」
「げ。マジ怖えあの笑顔」
おろおろしているわたしの隣で、蒔ちゃんが凍った。
お弁当箱の蓋で遠坂さんのにこやかな視線を防ぐ。その顔には一筋の冷や汗。
そこまで怖がらなくても……
蒔ちゃんの言葉を信じるなら、一体あの笑顔の裏には何が隠されてるんだろう? わたしには本当ににこやかな遠坂さんにしか見えない。
「ぶー。なんだよー、大差ないじゃんかタイヤキもクレープもー。どっちも甘いの皮で包んでるんだからさー」
教室を出ようとする遠坂さんの背中にかけた蒔ちゃんの負惜しみの様な一言に、遠坂さんの肩が一瞬震えた……気がしたのだけれど、閉められたドアは真相も閉じてしまった。

「蒔、それはいくらなんでも奢ってくれた遠坂さんに失礼というものだろう。仮にもうら若き女子高生ともあろう者が、クレープとタイヤキを同位にするのはどうかと思う」
「んなコト言ってもさあ。あたしゃ甘くて美味しけりゃホントどっちでもいいし。それに鐘、あんただってクレープなんて洒落たモンよりタイヤキ頬張ってた方が嬉しいでしょ」
「確かに私はタイヤキに緑茶派だが、どちらが好きか、という問題ではなく、大差ないとする蒔の感覚を指摘している」
「あーはいはい。分かったよ。どーせあたしは雑ですよーだ」
「あ……でも蒔ちゃん、お部屋に飾ってある風鈴って、音色とかも買うときに選んでるんでしょ? そういうのって微妙な違いだし、凄いと思うよ」
「さすが由紀っち、あたしの事を理解してくれてるねー! よし、褒美にそこのきんぴらを食べてやろう」
遠坂さんの去っていったドアをちらりと見ながら、わたしは再び二人の会話の中へと入っていった。




5: 名無し (2004/04/18 01:40:17)[dice_k at tbb.t-com.ne.jp]






「それじゃあ、由紀。また明日」
「うん、またね鐘ちゃん」
手を振って鐘ちゃんが部室を後にする。
日も大分傾き、部室は赤い光に染められる。西日がまともに差し込むこの部屋は、夏にもなるとそれこそサウナのような暑さになり、陸上部員は常日頃から

部室の移動を声高に要請している。多分その歎願が聞き届けられるのはまだ当分先の事だろうけど。
部活動も終り、残ったのは着替えが遅いわたしだけ。わたしが最後まで残るのはもはや陸上部では確定事項になりつつあるので、部活動後の部室のチェック

は専らわたしの仕事。いいんだけどね。マネージャーだし。
蒔ちゃんと鐘ちゃんは、バス通学なので一緒に帰ることは無い。わたしが着替え終わるのを待っていると、バスが行ってしまい、次のバスが来るまでに大分

時間が空いてしまうのだ。
制服のリボンを結びながら、今日の夕食は何にしようかな、なんてことを考える。
そういえば、そろそろ冷蔵庫の中が寂しくなってきてたっけ……
よし、帰りに商店街に寄って、そこで晩御飯の献立を決めることにしよう。
そう思いながら、わたしは制服の小物入れに入ってるお財布を手にしようとして。
一緒の所に入れておいた筈の、家の鍵が無いことに気付いてしまった。







「……ああもう、どうしてこういう日に限ってこんなドジやるのかなあわたしってば……」
結局あの後、慌てて部室の中をくまなく探したんだけど、鍵は見つからなかった。落し物として届いていないか、職員室にも顔を出したがそちらもダメ。
そんな訳で、絶望的な気分に浸りながら、教室から廊下まで、うろうろ歩き回っているのが今のわたしの状況。我ながら情けないことこの上ない。
……う、いけない泣きそうになってきた。
時刻は間もなく6時になろうかというところ。とうに日は無く、こう暗いとそれだけで鍵みたいな小さい物を探すのは困難だ。
どうしよう、そろそろ校門が閉められちゃう……!
気持ちばかりが逸るけど、肝心の落し物は見つからない。そして時間は過ぎていく。
弱り目に祟り目とはよく言ったもので、まさに進退窮まっているわたしにさらに追い討ちがかかる。
階段を下りてくる足音。見上げるとそこにいたのはなんと葛木先生だった。教室の見回りでもしていたのだろうか。
「何をしている三枝。そろそろ門限の6時になる。下校の支度をしろ」
「あ……え……っと。その……鍵を…………」
あくまで事務的に、わたしに下校を促す葛木先生。暗くなってきた廊下で、眉一つ動かさない葛木先生の表情は、何だか――まるで生きていない、ただ息を

している人形のようにも見えて……はっきり言うと、怖い。
わたしがしどろもどろになりながら、こんな時間まで残っている理由を説明していると、
「柳堂、衛宮、お前達もまだ校内にいたのか」
「え?」
わたしの背後には、多分下の階にいたんだろう、二人の男の子が立っていた。

「すみません先生。衛宮と二人で、予てから生徒会に苦情が寄せられていた備品の現状を見て回っていました。あと少しでキリが良い所まで終るのですが」
「そうか。なら残りも手短に済ませて速やかに下校しろ」
「はい」
それだけを言って、葛木先生はそのまま階段を下りていった。残されたのはわたしと、二人の男の子――柳洞一成君と、衛宮士郎君。
二人を見る。
生徒会長である柳洞君は当然として、その隣にいる衛宮君も、この学校で名前を知らない人はまずいないんじゃないだろうか。
曰く、頼まれた事を絶対断らない。
曰く、学校の備品で彼の手が入ってない物は無い。
曰く、滅多に見られないそのお弁当箱の中は聖域である。
などなど。
様々な噂は耳にしたことがあったけど、こうして面と向かって会うのは、初めてだ。
けれど、赤味がかった短髪に、少し幼さの残る顔立ちをした衛宮君は、
「よし、行こう一成。早くしないとまたいろいろ言われそうだ」
「ああ」
と、柳洞君を促して何事も無かったかのようにわたしの横を通り過ぎていく。

気が付くと、
「あのっ」
「?」
わたしは振り向き、二人を呼び止めていた。
同時に振り返る衛宮君と柳洞君。

「あ……ありがとう」
わたしの言葉が意外だったのか、二人はきょとんとした顔でお互いを見やる。
……何だろう、さっきからこの二人、動きがまったく同じなんだけど。ひょっとして双子?

「一成。お前何かお礼言われるようなことしたのか」
「いや。俺はお前の方が彼女に何か恩でもあるかと思ったのだが」
「ううん、そうじゃないの……実は、家の鍵、無くしちゃって。でも今日、家に誰もいなくて……それで探してたんだけど、葛木先生に早く帰りなさいって

言われて困ってたから」
「……そっか。で、鍵はもう見つかったのか?」
「…………」
その問いに、思わず口を噤んでしまう。わたしの沈黙をどう思ったのか、衛宮君は、
「一成」
申し訳無さそうな視線を柳洞君に向けた。

「ふむ。まあ衛宮の性根からしてそういう結論に至るのが必定ではあるな」
「え?」
今度はわたしの方が二人の会話についていけず、呆けてしまった。
えっと……それって、つまり、
「探すの手伝うよ。どの辺りで落としたのか、手がかりとか無いか?」
という事らしい。

「で、でも」
慌てて遠慮の声を上げるわたし。二人だって自分達の用事でこんな時間まで学校に残っているんだし、それをさし置いてわたしの手伝いをしてもらう訳には

いかない。
だけど柳洞君は、
「気にしなくてもいい。こちらの用事はすぐに終るものだしな」
と、先回りしてわたしの言葉を封じてしまった。
……うう、申し訳ないけど、ここは二人の厚意に甘えさせてもらうことにしちゃおう。

「……ありがとう、衛宮君、柳洞君」
「あ、忘れてた」
突然、何か大事な見落としがあったのか、衛宮君がわたしを見る。

「?」
「名前。話したこと無いと思うんだけど」
……そういえば、わたしは二人を知ってるけど、二人はわたしの事なんて知らなくて当然だ。
今更ながら、見ず知らずの他人にいきなり呼び止められてお礼なんて言われたら、誰だって驚くよね、と自分の無茶を思い返してしまった。
は、恥ずかしい……

「あ、さ、三枝です。三枝由紀香。2年A組の」
「分かった。じゃあ三枝、どんな鍵か教えてくれ」
そう言って衛宮君は、他人の役に立てるのが嬉しくて堪らないといった、人懐こそうな笑みを浮かべた。










それから一時間近くかかって、わたしの鍵は発見された。
どこにあったのかというと……いや、思い出すのはよそう。恥ずかしさで消えてしまいたくなるから。
それでも衛宮君と柳洞君は、
「いや、見つかってよかった」
「うむ。終わり善ければ全て善し、だな」
と、最後までわたしに付き合い、鍵が無事に出てきた事に安堵し、喜んでくれた。

まさかそのまま二人を置いて先に帰るわけにもいかない。
わたしも二人の用事が終わるまで一緒に教室を回り、結局三人で校門を出る頃には既に7時を回っていた。
当然、怒られるものと思っていたのだが、そこは柳洞君のとりなしでお咎めは無し。
そのまま三人で学校を後にする。




帰り道。わたしと衛宮君と柳洞君は、交差点までは一緒の道だった。
柳洞君は名前から分かるように、柳洞寺の家の人なので、交差点で別れて柳洞寺に向かうことになる。でも柳洞寺って、たしかここからでも1時間以上かか

るんじゃなかったっけ……
柳洞君、いつも何時に家を出てるのかな。
因みに衛宮君のお家は、聞いたところだとわたしの家の近くにあるみたい。
朝来た道を辿りながら、わたしは改めて二人にお礼を言う。
「今日は本当にありがとう。二人がいなかったらわたし、まだ学校でうろうろしてたかもしれない」
「ああ、俺も衛宮には助けられた。この礼は必ずするから、何かあったら遠慮なく言ってくれ」
「そうだな、何かあったら言うよ。とりわけ何も無いとは思うけど」
そんな衛宮君に、柳洞君は何か思うところがあったのか、不意に
「……あまり人が好いというのも問題だぞ、衛宮。お前がそんなだと頼み事をするこちらも気が引けてしまう。衛宮がいてくれると助かるのは事実だ。だが

それをいいように使う連中がいるのは我慢ならん。お前の場合は来る人を拒まないにも程がある」
眉を顰めて衛宮君を諭した。

「? そんなに節操ないか、俺」
「そういうところがお人好しだと言っているのだ。これでは心無い連中が衛宮を利用しようとするのも当然。お前も忙しい身なのだから、たまには断るとい

う言葉を使え」
「……ご、ごめんなさい、わたし」
「あ、いや今のは三枝さんの事を言ったのでは無くてだな、こいつの普段からの行状を見て、いつか潰れてしまうのではないかと思って、ええと、つまりそ

ういう事だ」
そっぽを向く柳洞君。要は、衛宮君が頑張りすぎているのではないかと、親友として心配しているらしい。けどそれなら真っ直ぐ心配だって言えばいいのに

。どうして分かり難い言い回しなんてするんだろう。
「それは一成が心配するような事じゃない。俺も流石に自分じゃ無理だと思ったら断るし。それに寺の息子のお前が善行を咎めるってのもどうかと思うぞ」
ほら、衛宮君には柳洞君の気持ちがあまり伝わってないみたいだし。
「まあ、忠告は受け取っておく。それじゃまた明日、学校でな」
「……うむ、また明日」
納得いかない、といった顔つきで柳洞君は去っていった。





「――じゃあ、今朝衛宮君と一緒に歩いていたのが、あの間桐桜さん!?」
「ああ。でも三枝、今日一度会ってたんだな。すまん、全く知らなかった」
「ううん、あの時は衛宮君、わたしの事なんて知らないし。それにあの時はわたしも衛宮君だって分からなかったの。ただ何処かで見たことあるような人だ

なっていうくらいにしか。でも驚いたな、衛宮君って間桐さんとも知り合いだったんだ」
「慎二繋がりでな。初めて会ったのは……ええと、4年前だったか」
住宅地を歩く。新都から離れたこの辺りは、夜になると結構星が見える。空を見上げながら衛宮君と今朝のことを話していると、わたしたち以外に人影が無

いことに気付いた。
時刻は7時半くらいだろうか。この時間なら、もう少し人通りがあってもよさそうなのに、今日は全く人気が無い。

同じ様なことを考えていたのだろう。衛宮君が、
「……そういえば、深山町でも事件があったっけ」
独り言のように呟いた。
「そうだね、確か――」
「押し入り強盗の殺人事件、だったか」
一瞬、険しい顔をする衛宮君。
「……物騒だよね、最近。新都の方でもガス漏れ事故とか多発してるみたいだし」
「学校の門限が6時になったのも、そこら辺が原因みたいだな」
なるほど、と思う。
これだけ立て続けに事件が起これば、誰だって夜に出歩くようなことは控えるだろう。ひょっとしたら明日から部活動の時間も短縮されるかもしれない。
一人で帰るのも何だか怖いな――

「……ん?」
突然、衛宮君が視線を坂道の先に向けた。つられてわたしもそちらを向く。
するとそこには、さっきまで無いと思っていた人影があった。
坂道の途中で、まるでずっとそこにいたかのように、上っているわたしたちを見下ろしながら立っている。



突然の人影に驚いたのか、わたしの足は止まっている。隣にいた衛宮君も。人影はニコリと笑うと、こちらに向かってきた。
「――――じゃうよ、お兄ちゃん」
気付くと、坂の上にいたはずの人影――銀の髪をした少女は、衛宮君に何かを告げ、そのまま坂道を下っていくところだった。
一体何て言われたのか。衛宮君はあの子と知り合いなのか。聞いてみたかったんだけど、きっとあれは衛宮君も知らない子なんだろうという、確信めいた予

感がして、聞くことはできなかった。





途中で衛宮君とも別れ、我が家に到着。
さんざんわたしを困らせてくれた鍵を使い、ドアを開け、
「ただいま――――」
しかし家に明かりは無く、わたしの声に応えてくれる人は誰もいなかった。
「――やっぱり誰もいないっていうのは慣れないな」
玄関の明かりをつけ、わたしの部屋に向かう。

部屋に鞄を置き、手を洗って居間へ。
「晩御飯、どうしよっかな……」
ソファに身を預けながら、ぼんやりとする。何となくつけたテレビから流れてくるのは、恐らくどこかのトーク番組なんだろうけど、どうにも見る気がしな

い。
ただ、何も音がしないのが嫌だったから電源を入れただけだ。
今日はいろいろあったせいかとにかく疲れた。なので、普通ならお腹も空きそうなんだけど、どうも食欲が湧かない。
「……わたしの分だけ作るっていうのも、寂しいんだよね……」
というのが、ひょっとしたら原因なのかも。
うん、商店街に寄ることも出来なかったし、一食くらい抜いても大丈夫だろう。晩御飯だし。
そう決めると、わたしはつけたばかりのテレビを消して、居間を出る。





「――うん、分かった。こっちは全然問題無いから。あ、でもひょっとしたら友達の家に泊まりに行ったりするかもしれないよ。だからお母さんが帰ってき

たときに、家にいないかもって事だけ覚えておいて。――――うん、お母さんも暫くぶりにお父さんとゆっくり仲良くしてきてね。――――ふふ、はいはい

。そういう事にしておく。――――え? うーん、流石にそれはちょっと勘弁して欲しいな。ていうかわたしも学校あるから無理だよそれは。――――ん、

――うん、――――はい。それじゃ、何かあったらこっちからも連絡するから。はい。じゃ、お休みなさい」

お風呂から上がったところで、丁度頃合を見計らっていたかのように、お母さんからの電話があった。ひょっとしたら暫くお父さんの方に留まることになる

かもしれないとの連絡。少し寂しい気もしたけど、17にもなってそれは無いだろうと自分に言い聞かせ、受話器を置いた。

どういう訳か、体がだるい。疲れが溜まっているみたい。時刻はようやく9時半を過ぎたばかりだというのに、体が睡眠を欲している。
お風呂上りに横になると、寝癖が酷いことになるんだけどなあ……なんて事を考えながら、廊下を歩く。

わたしは自分の部屋に戻り、布団を敷いて潜り込んだ。そのままごろんと横になり、部屋の中を見渡す。
目に映るのは机と窓、そしてその右手には小さめの本棚。わたしはあまり新しい物に興味が無く、同じ物をずっと使い続ける性質なので、同年代の女の子の

部屋と較べると、随分雰囲気が古臭い、らしい。蒔ちゃんも鐘ちゃんも似たような感じだと思うんだけど、鐘ちゃんは、『由紀のは何か違う。私と蒔の場合

は嗜好だが、由紀はどちらかというと執着に近いのではないか』という。正直、違いがよく分からないんだけど。
部屋の中は特に意識して整理整頓をしてるわけじゃないけど、それなりに片付けられてはいると思う。使い慣れた部屋、使い慣れた道具。
壁に掛けられた時計を見る。あの時計も、随分長い間使っているなあ。
そう、わたしがこの家に来た、10年ま――――――

――――あれ。


急に、――眠―――――――た――――






6: 名無し (2004/04/27 19:24:01)[dice_k at tbb.t-com.ne.jp]








―――――2/1 “兆しは穏やかに”










……目覚めは暗い。
夢は見ない性質なのか、余程の事がない限り、見るユメはいつも同じだった。
浮かんでくるイメージは剣。他には何もない。ただ、一振りの剣が俺のユメに浮かび上がってくる。
そこにさしたる理由は思いつかない。
剣ははっきりとした形を持っているのではなく、漠然と、ただそうであるというのが何となく分かるだけ。
あやふやな形でしかないその剣は、俺がいくら手を伸ばそうとしても届かない。
そして、剣は再び闇へと消えていく。
他に見るような夢は、無い。

















「……む、ん」
窓から差し込む朝の光に目を覚ます。
「……うー寒……」
毎度のことではあるが、顔を出したばかりの朝は、やはり未だ夜の名残が強く、冷気が身に染み入る。
時刻は5時半。今日はちゃんと起きれたようだ。寒さに挫けそうな身に活を入れて起き上がる。
どんな時間に寝ても、大方決まった時間に起きられるのは俺の長所だと思う。寝起きも特に問題は無い。なので子供の頃から目覚ましは使っていない。何となく堕落したような気がするから。
昨日は不覚にも桜が来るまで寝てたので、朝食は任せっきりになってしまった。今日はその分、俺が仕込をしておかないと。
早くしないと桜が来てしまう。俺は手早く布団をたたんで押入れにしまい、台所へと向かった。





ご飯を炊き、味噌汁を作っておく。洋食ではもう桜の方が俺の上をいっているが、和の繊細な出汁加減は未だ俺に若干の分がある。それと同時進行しているのは玉子焼きと冷奴。玉子焼きはもどした椎茸のみじん切りと炒めた鳥のひき肉という、藤ねえが特に好む具を混ぜこんでおき、あえて藤ねえの箸を固定するトラップ。こうしておくことで藤ねえの目をそちらに向けさせ、少しでも平穏な朝食を謳歌しようというのが今日の狙い。まあ、あの虎は一瞬にして平らげてしまい他人の分の玉子焼きまでその牙を向けて来るであろう事も想像に難くないのだが。
冷奴の上には鰹節と刻んだおくらを乗せて彩りを付け、主菜の秋刀魚は包丁を入れて塩をまぶし、あとは火にかけるだけというところでストップ。
「よし、まあこんなもんか」
そろそろ6時になるというところ。昨日の埋め合わせを、と少々張り切りすぎたせいか、時間が余ってしまった。
「んー、どうすっかな……」

さて、この余った時間をどうしようか。
もう一品作ってしまうのも策だが、それをすると完全に桜のやることが無くなってしまう気もする。
それはあまりいただけない。
桜は家に来て自分が厨房に立つ必要が無いと、まるで俺が悪いことをしたかのような視線を送ってくるのだ。しかもそれを敏感に察知した藤ねえによる『桜ちゃんの代わりにわたしが士郎を懲らしめてあげよう。とりあえずそこに直れ士郎、ドラゴンスリーパーで済ませてあげるから。胴締め式ね』などと、不条理極まりない折檻がその先には待ち受けている。
俺なんも悪いことしてないのに。
という訳でこれ以上のおかずの追加は却下。となると後は道場で日課の鍛錬くらいか。
「じゃ、軽く体を動かしてくるか」





いきなりだが、衛宮家には道場がある。驚くこと無かれ。
これでも由緒正し……くはないな、建てた理由が、『庭が広すぎるから、何となく』だもんな。訊いたことはないけど、今は俺の第二の私室となっている土蔵も、多分似たような理由で建てられたんじゃないだろうか。
まあそんな下らない理由だが、衛宮家には道場がある。
特に目的も無く建てられた道場だが、あればあったで色々と役には立ってきた。
主に藤ねえの遊び場として。そして俺と親父の組み手の場として。
そういえば、俺が親父に魔術を教えてもらうことになり、それと並行してここを使うようになった時は、随分と藤ねえには嫌われたっけ。

「さて、感傷に浸ってないで、さっさと始めないと……」
日課としている鍛錬を始める。
といっても、そう仰々しいものではない。
やることといったら、あくまで基本的な運動とか、筋力トレーニングでしかないからだ。
俺が親父に教えてもらったことも、単純なことだけ。
喧嘩と戦闘の違い、つまり相手を倒すか殺すかの違いだ。

喧嘩慣れしていないやつがたまたま殴り合いをすることになったとする。そういうやつは『やりすぎてしまう』事が多い。
知っているのと経験するのは微妙に違う。
自分がどんな規模の争いに巻き込まれたのか。相手が自分に抱く敵意は如何ほどなのか。ただの喧嘩なのか、それとも殺し合いなのか。
そして親父は、その中でも、相手が自分を殺そうとしている時の心構えを俺に叩き込んだ。
それも当然だ。魔術師の争いが、相手を倒すだけで終ることはまず無いのだから。
魔術を使うのならば、死を受け入れ、殺を覚悟する。それを根底に置くのが、魔術師の在り方だ。
だが、今はもうそんな事を教えてくれる人はいない。
残された俺に出来る事といえば、こうやって、いざという時自分が思った通り手足が動くように、身体を作り上げることくらい。
それでも、黙々と一人、鍛錬を続けることは、決して不快なことでは無かった。
どんなに小さい歩みでも、この一歩は親父に近づいている――そう信じていたから。










家の門に鍵をかけ、学校に向かう。
藤ねえと桜は既に家を出ている。昨日は一成の頼み事があったので桜と一緒に家を出たが、今日はそんな用事も無いので少し遅めの登校だ。
ちなみに朝食の席では、やはり俺の防戦も空しく玉子焼きは藤ねえの腹へと消え去った。ちくしょう。





通い慣れた道を歩く。
途中、交差点でパトカーが数台止まり、何か人だかりのようなものが出来ていたのが気になったが、生憎それが何なのか確かめる時間も無く、そのまま通り過ぎた。





学校に着いた。
時刻は予鈴の10分前くらいか。
校庭を眺めながら歩いていると、覚えのある後姿が目に入った。三枝だ。
どうやら部活を終えて教室に戻るところらしい。
声をかけようかとも思ったが、隣を歩く二人と何やら楽しそうに話しているのを見て止めた。
昨日知り合いになっただけの俺が、仲の良さそうな三人の間に入っていくのは、どうにも悪い気がした。それに女の子が三人でいるところに男の俺が一人で入るというのも恥ずかしいし。

「よう、衛宮。今日は随分と遅い登校だね」
三枝の方に気を取られていると、不意に、横から声をかけられた。
振り向いた先にいるのは弓道部主将、美綴綾子。もうすぐ予鈴が鳴るというのに、未だ道着姿である。
「何だよ、お前まだそんな格好してるのか美綴。早くしないとHR間に合わないだろ」
「まあね。だけど一応、お飾りとはいえ主将だし。色々とやらなきゃいけない事もあって忙しいのよ。例えばいきなり退部しちゃった薄情者の埋め合わせとか」

皮肉っぽい笑みを見せる美綴。
何か言い返してやろうか……いや、よそう。俺だって命は惜しい。美綴はこの学校の逆らってはいけない奴ランキングで、五本の指に入る豪傑だ。
余談だが、藤ねえもその番付には当然の如くランクインしている。
……俺の知り合いだけで五本の指の内の二本を折るっていうのはなんでさ。
とにかく、下手に刺激するのは愚策と見た。

「……今、何かすっごく失礼な事考えてない、あんた」
「気のせいだ。それにもし俺がお前に失礼な事を考えていたとしても、別に口に出して言っているわけじゃないし、問題ないだろう」
できるだけ穏便に、半眼で睨みつける美綴をさらりと受け流す。
「ふん、まあいいか。でも流石に衛宮は上手いね、抜けているようでぼろを出さない。慎二と違って隙が無いな」
「ん、何でそこで慎二が出てくるんだ?」
「だって、友達なんでしょあんた達。それにあたしは弓道部なんだから、元弓道部の問題児と、現弓道部の問題児をくっつけて考えるのは自然じゃない」
「確かにあいつとは腐れ縁だけど、それと弓道は関係ないぞ。知り合ったのって弓道始めるよりも前だし」

うわちょっと待て美綴、何故そこで目に剣呑な光が灯る!? 何か拙い事言ったか俺?
「……衛宮。あんた弓道が話に絡むとなると途端に冷たくなるよね。あからさまに話題逸らそうとするし。何か恨みでもあんの? 一人だけさっさと退部しちゃって。慎二のとばっちり受けてるあたしとか桜の気持ち、考えた事無いでしょ」
「とばっちりって……慎二の奴、何かやらかしたのか」
「何もしない日の方が珍しいわよ。昨日も一人、一年の男子が辞めさせられた」

そう言って美綴は大きな溜息をついた。
常に気丈なこいつがそんな表情をするのも珍しいが、そんなことより気になることがある。

「辞めさせられたって、何で」
「八つ当たりだってさ。なんでも無理矢理射場に立たされて、女の子達の前で的に当たるまで延々と笑い者にされたらしいんだ、その一年」
「笑……お前、どうしてそんなの止めなかったんだよ!?」
「そりゃあその場にいたら真っ先に止めさせるわよ! でもいくら主将だからって常に道場にいられる訳じゃないんだからね」

美綴の反論は尤もだ。それにしても、
「慎二の奴、どうしてそんな馬鹿な事したんだ。後輩を鍛えるのにやりすぎるような事はあるかもしれないけど、見世物になんてするような奴じゃないだろう」
「……呆れた。あんた、それ本気で言ってる?」
「む。何か言葉の裏に失礼な響きが混じってないか、美綴」
「さあ。もしあたしが失礼な事考えてても、口に出して言ってるわけじゃないんだから問題ないんでしょ」
う、どこかで聞いたような台詞を。

「それよりも慎二だ。何でそんなことしたんだ」
「それがどうも、昨日の朝、遠坂にふられたらしいのよ、あいつ。それが原因なんじゃないかなーって思ってる」
「遠坂……ってあの遠坂?」
「うちの学校で遠坂って言ったら、一人しかいないじゃない。その遠坂よ」
「そっか、成る程な……」
遠坂。凡そ欠点が見当たらない完全無欠のお嬢様。あまりに完璧すぎて、誰も手を出そうともしない。出したとしてもきっぱりと断られるのがオチだろう。
その姿を思い浮かべたら、やっぱり慎二の誘いは受けそうにもないな、なんて思ってしまった。

「そういう訳であいつ、昨日からずっとそんな調子よ」
「……慎二は浮き沈みが激しい奴だからな。お前がなんとか見張っててやってくれ」
「あたしもそのつもりだったから今日はぎりぎりまで道場で監視。だからこんな時間までこの姿って訳。もっとも、あいつも懲りない奴だからね。またちょっかい出して振られたりしたら、次は直接遠坂に手をあげるんじゃないかって方が心配なんだけどね」
「いや、さすがに慎二も一度ふられた相手に近づいたりはしないだろ」
「そうじゃなくて、遠坂の方が何故か弓道場に来るのよ。丁度、二年になってから位かな。何がしたいんだか分からないんだけど、しょっちゅううちの練習見学に来てるし。いつもは放課後だけだったんだけど、昨日は珍しく朝から来てた。ま、遠坂もたまには痛い目見るのもありなんじゃない? 人生、何事も勉強ってね」

きつい冗談を飛ばし、腕を組んでにやりと笑う美綴。どうでもいいけど何でそんなに男っぽい仕種が似合うんだお前。
「いや、そいつは洒落になってないぞ。慎二が遠坂に手をあげたなんて噂が広まってみろ、弓道部自体が潰されることも在り得る。有志で結成された暗躍部隊によって」
「そっちの方こそ笑えないと思うけどね。……っと、そろそろ着替えないとマジで遅刻だ。んじゃ衛宮、またな。たまにはあたしの弓の腕前、上がってるかどうか見に来てよ」
そのまま美綴は走っていった。
言いたい事を出し切ってすっきりしたのだろうか、足取りが軽く見える。
まあ、俺に愚痴をこぼすことであいつの重荷が少しでも取り除けるなら、悪いことじゃないか。
俺もそのまま校舎へと向かった。





7: 名無し (2004/04/29 12:06:22)[dice_k at tbb.t-com.ne.jp]






一日の授業も恙無く終わり、放課後になる。
今日はバイトがあるので、真っ直ぐ新都に向かわないといけない。
俺は部活に向かうクラスの何人かと挨拶を交わし、教室を出て、階段を下り、靴を履き替えて――





弓道場の前に立っていた。
なんでさ。
どうやら俺は自分で思っていたよりも朝の一件が気にかかっていたらしい。
「――慎二のヤツ、癇癪起こしたらなかなか止まらないからな」
誰もいないのに言い訳じみた独り言を漏らす。
くそ、別に後ろ暗いことなんて何も無いだろう。
さっさと様子を見てバイトに行けばいいのに、何やってんだ俺は……
そんな焦りとは裏腹に、俺は気付かれないようにと細心の注意を払い、そっと弓道場を覗き込む。
「遠坂は……来てないみたい、だな」
目的の人影が見当たらないことに、軽い安堵と、似たような喪失感。

つい心が緩んだその隙を付け狙っていたかのように、突然、ぽん、と背後から肩を叩かれた。
「遠坂さんを探してるの? 衛宮君」
心臓が跳ね上がる。
「ぅぉわあっ!?」
「きゃっ!?」
予想もしなかった不意打ちに、思わず振り返りながら飛び退く。そこには黒目がちの大きな瞳を丸くし、俺の肩を叩いた手を、驚きで引っ込めた姿のまま固まっている三枝の姿があった。

「さ、三枝?」
「びっくりしたぁ…………え、えっと、遠坂さんを探してるの? 衛宮君」
大きく一息ついて硬直を解き、恐る恐る同じ質問をしてくる。まるで悪戯を見つけられた子供が親の顔を窺うように。けれど俺は不意打ちの衝撃と、三枝の口から出た『遠坂さん』という言葉にすっかり動揺しまくっていた。
「う、あ、いや探してたって言えばそうなんだけど、特に用事があるわけじゃなくてだな。弓道部の知り合いが遠坂ともめたらしくて、俺今はもう辞めちゃったけど元弓道部員だし、それがちょっと気になってたからここに来ただけで。でも一度部を辞めた奴が道場に近づくのもアレだし。だからこうやってこっそり見ていたんだけど、別にいないならいないで問題は無かったんだ本当に」
三枝は初めのうちこそ、おどおどと俺の様子を見ていたのだが、俺の慌てっぷりで逆に余裕が出てきたのか、段々と好奇心に瞳を輝かせながら詰め寄ってくる。
「ん〜? わたしは探してるのって訊いただけで、別にその理由まで教えてくれなくても良かったんだけどな?」
「う……」
言葉に詰まる。詰まった時点で自爆確定。
ああもう三枝の言うことは正論だ、けどそれにしたって何か言い返そうと思えば出来ただろう!
おれのばか。

何が嬉しいのか、三枝は満面の笑みを浮かべている。つられて頬が緩みそうになるその笑顔はすごく柔らかくて暖かで、これがこいつの一番自然な表情なんだなと、何となく思った。
何で笑ってるのか分からないけどね。なんでさ三枝。

「ふふ。でも残念でした。今日は遠坂さん、お休みだよ。それにしても、衛宮君でもやっぱり遠坂さんは気になるんだね。間桐さんと一緒に学校来るような仲なのに」
「べ、別にいいだろそんなの。それに桜はそういうんじゃないぞ。可愛い後輩って感じだし、なんていうか、妹みたいなもんだよ。一緒に登校するのだって毎日ってわけじゃないし、今日は一人だったぞ俺」
「ふむふむなるほど〜。ということはやっぱり衛宮君の意中の人は、遠坂さんなんだね」
「ぐ」
「そっかそっか、遠坂さんかあ。まあ気にするなっていう方が無理だよね、うん」
ますます笑顔になっていく三枝。

……おまえ、ひょっとして俺で遊んでないか。そういう事か。くそう、そのほんわかとした小兎のような外見にすっかり騙されていた。
『女の子っていうのはいくつになっても、誰が誰を好きなのかっていう話が大好物なのだー』と言ってたのは藤ねえだった気がする。
まさかこんなところでそれを実体験させられるとは思ってもみなかった。

「あ、衛宮君の言ってた弓道部の人って、もしかして間桐君?」
「なんだ三枝、昨日の話知ってるのか?」
「ううん、昨日はたまたま。遠坂さんと間桐君が弓道場の前で話し合ってるのを見ただけだから。遠坂さんの顔が何となく困ってるように見えたから、そんな気はしてたんだけどね。でも遠坂さん、一度自分が断った相手がいるような場所に、わざわざ来たりしないと思うけど……」
「それがちょくちょく来てるらしい。美綴がそう言ってたから間違いない。理由は分からないけどな。普段は放課後なのに、昨日に限って何故か朝から来てたんだってさ」
へえー、そうなんだ、と不思議そうな顔をする三枝。ころころと表情が変わるのが、見てて飽きない。

「そうだ、朝って言えば、衛宮君。今朝の交差点のパトカー、見た?」
「ああ、ちらっとだけどな。時間無かったからそのまま通り過ぎたけど、三枝は何か知ってるのか」
「うん、わたしも詳しくは聞いてないんだけど……」
そこまで言うと、少しの逡巡の後、
「また、殺人事件があったらしいの。一家四人で、助かったのは男の子だけ。両親ともう一人、女の子が刃物で刺されて亡くなったって」
三枝は表情を曇らせた。
「……で、犯人はもう捕まったのか」
「ううん、まだみたい。でも今日は結構この話、学校中でしてたと思うけど、衛宮君、全然知ら……あの、衛宮君、どうしたの?」
「? 別にどうもしないぞ、俺」
「そう、ならいいんだけど……衛宮君、今……すっごく怖い顔してたから」

ああ、言われてみればそうかもしれない。
俺は今、殺されたという家族の事を考えていたから。
不条理な暴力を振るう誰か。振って湧いた人災。殺される両親と姉妹、そしてその陰で一人救われた少年。
そんなことを想像していたからだろう。自然と厳しい顔になっていたのは。
身近で起こった凶行。切嗣のようになりたいと誓いながら、結局何もすることが出来ない。
自分に出来ることが見えない、分からない悔しさに、拳を固く握った。

「ごめんなさい。あまり聞いてて気分の良い話じゃなかったよね」
「いや、気にはなってたから詳しいことが知れて良かった。ありがとう三枝、これからは夜道に気を付けることにする」
「うん、そうだね。わたしも気を付ける。じゃ、そろそろ部活が始まるから、わたし行くね」
手を振って、校庭へと向かう三枝。
その後姿を見ながら、俺は、話に聞いた家族のことが頭から離れなかった。










午後8時。バイトを終えて、俺は新都の駅前を歩いていた。
古くからの姿をそのまま今に伝えている深山町と違い、新開発地区である新都で、この時間に人通りが絶えるようなことは無い。
連日のガス漏れ騒動で、多少は減ったのかもしれないが、それでも駅前は流石に人も車も交流が多く、溢れる活気と明かりにそんな不安の影を見ることは出来なかった。

たった3時間とはいえ、その実6時間にも相当するんじゃないかというハードな仕事をやり遂げた俺は、心地よい達成感と開放感に身を委ねる。星明りの代わりにならんと、様々な色の明かりを付け、その身を夜に伸ばすビル郡を見上げながら帰途に着く。
規則的に光り輝くネオンや、行き交う人々の声、車の音は、それだけで一種のパレードのような錯覚。

周りの雰囲気に流されながら、何気なく新都で一番高いビルを見上げたとき、ふと、俺の目に不思議な物体が映った。
ビルの屋上。そこには到底ありえないもの。思わず立ち止まる。
「……?」
何かの間違いだろうと思いつつ、目に意識を集中して、再び確認する。地上から遥か高く、辛うじて分かるそれは、最初に見たままの姿でそこにあった。

「――――な」
人影。しかも、俺のよく知っている人物。
何故、そんな場所にいるのか。
何の目的があってそこにいるのか。
そんな事は一切分からない。
ただ、何をするでもなく、じっと地上を見下ろしている。
何かを探しているのだろうか。長い髪を風にたなびかせるままに、動こうとしない。
俺は、暫く立ち止まったまま、その姿を見つめる。

「――――」
月夜を背に、遥か高みから下界を見下ろす人影――遠坂凛は、その非現実さのせいか、まるで御伽噺に出てくる、聳え立つ塔に住む魔法使いのような印象を与えた。



どのくらいそうしていただろう。
突然、遠坂は身を翻し、屋上から姿を消した。後には残されたのは、周りと同じような、何でもないビルの屋上と夜景。
「何だったんだろう、今の」
あれが遠坂本人だというのは間違いないだろう。あいつの容姿は人並みはずれてるから目立つし、俺だって密かに憧れている奴を見間違えるような間抜けじゃない。

でも、だとしたら益々今の遠坂の行動が分からない。
それに三枝の言葉だと、あいつは今日、学校を休んでるんじゃなかったのか。それがどうして、新都のビルの屋上なんて場所にいるのか。
解けない疑問と共に、また遠坂がそこに現れるんじゃないかと、暫く待っていたのだが、結局無駄に終わった。
俺は首を傾げながらも、再び歩き出した。





交差点に辿り着いた。
件の家は、立ち入り禁止の札やテープが張られ、近付くこともできないようになっている。
住む者を失ったその建物は、まるで生気が感じられず、否応なく事件当時の光景を想像させる。
「…………」
一人残された少年は、これからどうやって生活していくのだろうか。
そんなことを思うと、未だ捕まっていないという無慈悲な殺人者に対する怒りがふつふつと込み上げてきた。

10年前のあの日。死に掛けていた俺を助けてくれた一人の男。
何の縁も無い俺に救いの手を差し伸べて、嬉しそうな、本当に嬉しそうな顔をしていた親父。
俺もああいう風に笑ってみたいと、そう思って親父の跡を追いかけた。
しかし現実には、俺は誰一人として救えてなんかいない。
今だって、俺に出来るのは、こうやって終ってしまった出来事に悲しみ、憤ることだけ。

――俺は、本当に親父の歩んだ道を、追っているのだろうか。
「……何だかな。自信なくなってくるよ、親父」
だが、それでも。
俺は前へ進まないといけない。
10年前に、あの地獄から救われた者として、その道を歩いていかなければならない。










家に帰ると、既に桜はいなかった。一人残っていた藤ねえの話では、自宅で用事があるからと、夕食の準備だけをして帰ったらしい。
夕食前に、藤ねえが持ってきた鉄板仕様の自衛隊のポスターで、危うく俺が殺されそうになるという一波乱もあったが、他に大した事件もなく、家に帰る藤ねえを見送った後、土蔵で、日課にしている“強化”の魔術の鍛錬をし、自室に戻って眠りにつく。
時刻は夜の1時。
一日は何事も無く、穏やかに終わりを告げた。








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