あの人は国一番の狩人で。
三日に一度は獲物を担いで市場に向かいます。
私は空の籠しか持たせてもらえなくて。
でも、帰りには二人とも籠一杯の荷物を抱えていました。
髭だらけの気さくな店主とは顔なじみ。
とっておきの食材はいつも私たちのために残しておいてくれます。
野菜、果物、干し肉に調味料。
荷物は少し重いけど、足取りは軽やかでした。
あの人が作る食事はとてもおいしいのですから。
本当は少しだけ悔しいのです。
それでも添えられた大きな手の温もりが大好きで。
だから調理ナイフはこのまま使えなくていいと思うこともあります。
あの人の腕の中にいられるのなら、いつまでも不器用なままでいい。
今は林檎と戦うよりも、この温もりに身を任せていたい。
……これは夢なのでしょう。
きっと、この夢は、私が私になる前のささやかな願い。
塗り潰されたもうひとつの可能性。
それは頑なに拒んで、探すことさえもしなかった小さな光。
だから、こんな夢は捨ててしまおう。
私は間違ってなどいない。
それは自ら望んで踏み出した道であると同時に、剣が私を選び、指し示した道なのだから。
そう、私以外の誰にあの剣を抜けるというのだ。
そして私は、私にできることをした。
ならば胸を張ろう。
歩いてきた道を振り返り、屍に詫びても何も変わらない。
そのために歩みを止めるなど、ましてや道を引き返すなど馬鹿げている。
それを教えてくれたあの人のために。
私が愛し、多分私を愛してくれたあの人のために───
『夢幻の剣製』
「起きたか……」
木々の合間から射し込む日差しが眩しい。
鬱蒼と茂る木々、丈の低い草花。
小鳥のさえずりが耳に心地よい。
ここが妖精郷……死後に我が魂が導かれし全て遠き理想郷であるのなら、私はどれほどに救われたことでしょう。
ですが、ここは違いました。
限りなく穏やかで、暖かい世界ではありますが、視界に映る全てがうつつの理でしかない。
そしてそれは、この目に焼き付けた最後の光景と同じ。
ただ、最後の騎士が消えてしまっただけのこと。
これは夢でも幻でもない。
鈍く光る鎧は、未だ血の跡を残し、限りなく固く、冷たいのだから。
「……目覚めない方が、良かったのでしょうか……?」
「お前にとってはな」
誰にともなく漏らした呟きに応じるのは、淡々とした声。
その素っ気ない物言いに、苦笑が込み上げました。
ああ、これは実に彼らしい。
夢の中では満足に話す機会も与えらず、また、私もそれを望まなかった。
今ではそれこそが悔やまれます。
「……こう夢見が悪くてはおちおち眠ってもいられない」
しかし、嘘も方便とは良く言ったものだ。
ですが、ベディヴィエールを責めるのは筋違いでしょう。
彼は真に私を憂い、安らかな眠りに導くためにそのような嘘言を弄したのですから。
最後の騎士に別れを告げたのは、ほんの数刻前のことだったのでしょうか。
不肖のこの身に最後まで尽くしてくれた実直な騎士は、もういない。
「……ベディヴィエールは、どうしました?」
「港へ向かった。数刻と経ずに兵を率いて戻るだろう」
「そうですか……」
「それで如何にする? 残った騎士と共に再び剣を取るか?」
現実を告げる淡々とした声。
その姿は見えませんが、おそらく私が身を預けている木の反対側で同様に空を見上げているのでしょう。
彼の提案は、王であるならば、真に国を憂えるならば、言われるまでもなく選ぶべき道だ。
しかし、私には、それを選ぶ権利も意志もない。
私は、私の選んだ道を全力で走り抜け、そして力尽きた。
力が及ばなかったのではなく、尽きたのです。
ですが成すべき事は成しました。
私は、私の正義を奮い、理想を抱いて信念を貫き、そして朽ちた。
そこに未練も後悔もありません。
それはとても綺麗で、どこまでも美しいことだと、あの人は教えてくれた。
だからこそ、あの人は私を見送った。
ならば、見苦しくあがくのは私にただひとつ残された矜持を穢すだけでしかない。
それに……
「……私には、もう振るうべき剣がない」
ベディヴィエールに託した聖剣は、湖の貴婦人の元へ。
剣に生き、剣に死すべきこの身に、もはや剣はない。
ならば私は生きるべきなのか、死ぬべきなのか?
情けないことに剣がなければ進むべき道も定まらないのか?
いや、あの剣を抜いた日から、私が進むべき道は、剣の上にしかなかった。
我が身は、国を護るただ一振りの剣でしかないのだから。
「……教えて欲しい。何故、私は生きているのですか?」
「愚問だな。お前は死ねぬのだ、聖杯を手にするまで死ぬことは許されん」
そうだ、それが契約と言う名の世界の枷。
やはり聖杯は要らぬと一方的に反故することなどできない。
世界はそれほどの慈悲は持ち合わせていない。
聖杯を手にすることと引き替えに、私は英霊となる。
今更何もかもなかったことにするというのは、かつての私の間違った願いに等しい。
ならば私が聖杯を手にしない限り、私は死なない、死なせてもらえない。
あるかどうかもわからない聖杯を手にするまで生かされ続け、死して輪廻の環に加わることも許されず。
それはとても残酷で無慈悲な世界の理。
しかし、私は、既に我が子の呪いにより、避けられぬ死に瀕していたはず。
私を無様に生かすために、世界は何をした?
今、再び世界は動き出している。
その上で私の死という結果を塗り替えるならば、原因を歪めねばならない。
神と呼ばれる存在は、因果さえもねじ曲げて、私を生かすと言うのですか?
そこまでして我が魂を売り払えと、そう言うのですか?
「……これは、罰なのでしょうか? ひとたび己を疑い、蔑み、選定が身に余ると、全てを捨て去ろうと、そのような間違った望みを抱いた罰なのでしょうか?」
私は知らず、拳を握りしめていた。
つかんだ草と乾いた血の不快な感触が、私を苛立たせる。
ふつふつと湧き上がる昂ぶりは、もう押さえが効かなかった。
「……私には、己を誇り、胸を張り、理想を抱いて眠ることも許されぬというのですか! 再び夢を見ることさえ許さぬと!」
噛み締めた唇から鉄の味が広がる。
これほどの理不尽が許されるというのか?
これが罰だと言うのなら、世界は無慈悲に過ぎる。
それはこの身に対する侮辱であり、冒涜であり、陵辱だ。
そして何よりも……私の最も大切なものを穢すことにほかならない!
「これ以上シロウを穢すことは許さない! 私を殺しなさい! 私は今ここで死ななければならないのです!」
「……それはできん。私は拷問吏だからな。お前を生かすため世界が私を選んだのだ」
赤い外套を翻し、私の前に立ったその男は、私の知らない男でした。
違う……そのような顔であることを、私が知らなかっただけだ。
信じられなかったし、信じようとしなかった。
間違いだと思った。
しかし、私がそれを見間違うことなどあり得ない。
何故なら───
「ごめんな、セイバー」
ああ、やはり、間違いない───
「あのとき確かに返したはずなんだけど」
その笑顔、照れて頬を掻く癖───
「結局、出来損ないの投影でしかなかったみたいだ」
私が生涯でただ一人愛した───
「だって、この鞘は、とっくに俺そのものなんだから」
どんなに変わり果てようと、見間違うことなどあり得ない。
今なら───彼を心から愛した今ならわかる。
褐色の肌も、白銀の髪も、私が知る彼のものではなかった。
ですが、私はそんなものに心を奪われたのではないのです。
私が愛した衛宮士郎という少年は、その褪せた器の中にあっても、夢の中と少しも変わらずに輝いているのですから。
「俺が妖精の鞘なら、君の元にある限り、君は死なないし、死ねない。そうだろう、セイバー?」
「シロウ……なのですか?」
「……俺、馬鹿だからさ。たまに間違ってセイバーの分作っちまうんだ。お前、夢の中じゃ食ってばっかりだから……もったいないから一人で全部食ってたら、こんなにでかくなった」
───違う。
私は、寂しげに笑う彼を見て、そう思いました
ええ、これは、見間違うなどという以前の問題でした。
確かに似てはいますが、そもそも彼は、夢の中で出会った弓兵ではないのです。
今、目の前にいるのは、黄金の大地で私が想いを告げた人。
無限に存在する可能性の中で、ただ一人私が愛したシロウ。
だからこそ、彼は今、ここにいる。
鞘が、誓いが、唇が、身体が、想いが───その全てが、時間と世界を越えて。
……それが私を生かすための選択なのですか?
魔法をも退ける絶対の護り。
魔法にも等しい究極の神秘。
我が元にある限り、いかなる傷をも癒し、いかなる呪いをも打ち砕く。
そしてそれは、後に伝説にも語られる不老不死の力。
───ああ、簡単なことでした。
存命中に聖杯を手に入れるという契約ならば、その結果を求めるのならば、方法は二つあるのです。
この手に聖杯を与えるか、もしくは、聖杯を手にするそのときまで、私を生かし続けるか。
ならば───もし私が聖杯を求めぬのならば、永遠に生き続けろと、永遠にシロウと共に在れと、そういうことなのですか?
「……永かったよ。奇蹟を望み、死後を売り払い、守護者となって血に穢れ、正義を疑い、理想は瓦解し、信念は摩耗した。でもね、何をどれだけ失ってもひとつだけ護り続けたものがあった。……いや、違うな……それがあったから、俺は俺のままでいられた。何度裏切られても立ち上がることができたし、後悔もしなかった。それだけは決して裏切らないってわかってたから、衛宮士郎が初めて自分で見つけた、たったひとつの宝物だったから」
その手は私の記憶にあるそれよりも、固くて大きく。
その手は私の記憶にあるとおりに、優しくて暖かく。
その胸の温もりも、たくましさも、夢の記憶のままでした。
シロウは不器用で、力任せに抱きしめることしかできなくて。
せめて鎧を脱がせて欲しかったのに、そんなことにも気が付かない。
無粋で、鈍感で、朴訥で、そして何よりも真っ直ぐで。
それがシロウ、私が唯一愛した人。
ああ、私は間違ってなどいなかった。
この人を愛することは、こんなにも素晴らしいことなのだから。
「セイバー、君への想いだけは永遠に失わない。衛宮士郎は、君を、愛してる」
それは、私が求めなかった答え。
聞いてしまったら、私は戻れなくなっていたはずだから。
それなのに、今ここで聞いてしまってはそれすらも意味がない。
頬を伝う涙を、止める術がなくなってしまう。
……これは、夢なのでしょうか?
私が最後に望んだ、夢の続きなのでしょうか?
ええ、きっとそうです。
ベディヴィエールは真の騎士、主君に嘘などつくはずがない。
これが夢であるのなら、涙を隠す必要もない。
「……貴方は、卑怯だ。それを聞いてしまったら、私はもう戻れない……貴方を求めずにはいられない」
「卑怯でも卑劣でも何とでも言え、俺は絶対に離さないぞ!」
「……シロウ……?」
「……俺、諦めてた。それでも、過去とも未来とも知れない無限の経験の中で、たったひとつの想いだけを寄る辺にして戦ってきたんだ。お前は知らないだろうけど、俺、頑張ったんだぞ? たくさん助けて、たくさん殺して、壊れちまうほど頑張ったんだぞ? だったら少しくらい御褒美くれたっていいよな? 少しくらい幸せになったっていいよな?」
シロウの腕に一段と力が入りました。
その腕が、その身体が、小刻みに震えていて、こんなにたくましい大きな身体でも、磨り減った心は硝子のように脆いのだと知りました。
だから、私は、シロウが壊れてしまわないように、その背中にそっと手を回しました。
───ああ、これは、違う。
「……夢では、ないのですね?」
「……夢じゃ、ないよな?」
それは答えを求めない問い。
何よりも互いの温もりが、これが夢ではないことを告げているのですから。
それでも、それが失われたら夢から覚めてしまいそうで、全てが幻と消えてしまいそうで、離れることができなかった。
「例え共に在ることが永遠の責め苦だとしても、君への想いが尽きることはない。生きるのに飽きたら二人で本物の聖杯を探しに行こう」
「……それは困る、もう聖杯に願うべき望みは叶ってしまった……」
浅ましく貪り合う唇で、絡み合う舌で、私は涙の味を知りました。
幸福と快楽がこのまま二人を溶かし、ひとつに混ざり合ってしまうのではないかと思える数刻。
しかし、名残は惜しくとも、いつまでもここでこうしてはいられない。
ベディヴィエールに見つかってしまっては、嫌でも祭り上げられてしまうのですから。
それに、抱き合う時間はそれこそ無限にあるのです。
ですが私は、夢の中よりも随分と高い位置にあるシロウの顔を見上げることしかできなかった。
その……腰が抜けたと言いましょうか、両の足に力が入らないのです……。
シロウは、そんな私の目の前にその手を差し出して、言いました。
「貴女が剣を失ったと言うのなら、元よりこの身は鞘にして剣。聖剣には及ばぬまでも、貴女を護るに不足はない。だが、この身はもはや英霊にして守護者、魔力がなければ現界もままならぬ───故に、問おう───」
ああ、シロウ。
私は今にしてあのとき貴方が何を思ったのか、何を感じたかを身を以て知りました。
これでは動くことはおろか、声を上げることすらできない。
それほどまでに、貴方は眩しいのだから。
「貴女が、私のマスターか?」
あの夢が、夢の中の幻のようなひとときが、私に新たな剣をくれました。
その手はきっと選定の柄。
つかめば二度と戻れぬ果てのない道。
ですが迷う必要はありません。
かつて私は望んで剣を取り、剣は私を導いた。
あのとき私が選んだ道も、剣が指し示した道も、決して間違ってなどいなかった。
ならば再び私が選び、シロウが導くこの道に、間違いなどあるはずがない。
「……はい、私が貴方の、マスターです」
この身は既に王たりえず、聖剣も失われた。
ならばその手を取り、その胸に飛び込んでも良いはずだ。
ささやかな幸せに憧れる、一人の無垢な娘として……。
選定の剣を取り、王として駆けたことに未練も後悔もありません。
ええ、私も、シロウも、人であることを捨ててまで頑張ったのです。
それなら、精一杯駆け抜けたその先に、ささやかな幸せがあっても良いではありませんか。
胸を張りましょう。
己を誇りましょう。
私たちは、報われるべき事をしたのだと。
「……ならば、誓う……」
───無限の生を、夢幻の刻を、あなたと、ともに───
あの人は国一番の狩人で。
三日に一度は獲物を担いで市場に向かいます。
私は空の籠しか持たせてもらえなくて。
でも、帰りには二人とも籠一杯の荷物を抱えていました。
髭だらけの気さくな店主とは顔なじみ。
とっておきの食材はいつも私たちのために残しておいてくれます。
野菜、果物、干し肉に調味料。
荷物は少し重いけど、足取りは軽やかでした。
あの人が作る食事はとてもおいしいのですから。
本当は少しだけ悔しいのです。
それでも添えられた大きな手の温もりが大好きで。
だから調理ナイフはこのまま使えなくていいと思うこともあります。
あの人の腕の中にいられるのなら、いつまでも不器用なままでいい。
今は林檎と戦うよりも、この温もりに身を任せていたい。
だから───
私は、幸せです。
※あとがき※
微妙に勘違いしている人もいるようなので加筆して補足しました。
自分設定では本編中のアーチャーではないのですよ〜。
あくまでもセイバールートから派生した別の衛宮士郎だと理解してもらえれば幸いです。
投稿先が止まっているので暫定的に掲示板公開です。