/0
――力を――
/1
これからもう一度死ぬ。
俺はそれを理解してしまった。
セキショクの魔槍、それは“そういうモノ”なのだ、と。
しかし目の前で気だるそうに槍を構える男は、その力を使うまでもなく、俺を殺すことが出来る。それこそ、瞬きひとつをしている間に。
男はただそこにいるだけで息が詰まるほどの圧迫感を生み、死の恐怖がざわりと背中を奔る。逃げることは出いない。逃げられるはずもない。こんな化け物のような相手から、どうやって逃げようというのだろうか。
あの槍に胸を貫かれ、俺は一度死んだはずだった。
ポケットの中にある赤い宝石……、わずかに魔力の残滓を感じられるそれは、おそらく俺の蘇生に使われたものだ。誰かもわからないまま、礼すら言えないまま、俺はあの赤い槍に貫かれる。
――ごめん。
顔もわからない誰かに謝る。
どうあがいても、俺はここで死ぬ。
死にたくない……などと言っても無駄だ。この男は慈悲の一片も見せずに俺を殺す。
「お前も運が無い。あそこにいなければ、あるいはあのままおとなしく死んでいれば、こんな事にもなかったろうに。まあ、貴重な体験だ。一度の人生で二度死ねるんだからな」
恨むなよ。
男はそう言い残し、魔槍ゲイボルグで再び俺の心臓を貫いた。
――ゲイ・ボルグ。
なんで、そんなことがわかったんだろう。
地面にぶちまけられた自分の血を眺めながら、俺は
/2
凄まじい魔力の奔流。そして剣戟の音。
遠坂凛は、一瞬何が起きたのか理解できなかった。
ランサーは蘇生した衛宮士郎を追って、この衛宮邸へ向かっているはずだった。恐らくは間に合わないだろう……そう思ってはいたが、しかし万に一の可能性があるというのなら、見過ごすわけにはいかない。奥の手ともいえる宝石を使って、あっさりと殺されるのを良しとできる性格ではないのだ。
だから凛は、アーチャーに抱えてもらってまで、衛宮邸まで急いでいた。
どうか間に合って……、そう願うも、あのランサーの身軽さはやはりサーヴァント。衛宮邸の場所を知らないランサーと、知っている凛、それでもどちらが有利かは微妙な問題だった。
そして着いてみれば、凶悪なまでの魔力の渦。
凛の頭の中は、白に埋め尽くされてしまっていた。
「――サーヴァントの気配。それも二体だ。凛、どうする」
付き従うように凛の側にいた男は、眉をひそめて言う。
弓を冠するサーヴァント、アーチャー。そのくせ、ランサーとの戦いに二振りの剣で挑むような曲がりもの。それでもランサーの槍術に引けを取らないのだから、その技量は余程のものなのだろう。
「サーヴァント……。この土壇場で、まさか……あいつが?」
信じられない、と凛は首を振る。
「あいつは魔術師じゃない。それがマスターになれるはず……」
「信じないのは君の自由だがな、それならこれはどういうことなんだ?」
「それは……、そう! 他のマスターが衛宮くんの家に……」
アーチャーは肩をすくめて言う。
「それならなおさら危険じゃないか」
「あ……、ア、アーチャー! 彼を助けに行きなさい!」
「断る」
「な――!」
アーチャーのすげない拒絶の言葉に、凛は顔を赤くして詰め寄る。
「どういうこと!?」
「なに、この状況は十中八九、あの少年がマスターだろう。だとすれば、敵だ。助ける理由がどこにある?」
「――っ」
「それに……」
いつの間にそれを取り出していたのか、アーチャーの両手には二振りの剣が握られている。
「……よお。久しぶりじゃねえか」
左腕を失ったランサーが、塀の上から転がり落ちてきた。
「助けるまでもなく、こうしてランサーを撃退できるわけだ」
凛は唖然と、目の前の光景を見ていた。
「ああ、くそ。やっぱり令呪の縛りってのは結構なもんだな」
「ほう。それでは、この私と戦ったときも手を抜いていたと」
「いいや。手を抜いていれば、俺はもうとっくにリタイヤしてるよ」
で、とランサーは切り出してくる。
「やるのかい?」
「……ふん。そのからだではもう戦えまい。大人しくしているというのなら、見逃してやろう」
「そりゃありがたい提案だ。素直に呑むとするか」
片腕を失っているというのに、まるでそんな素振りを見せない。その痛みはいかほどのものか想像すらつかないが、ランサーは涼しい顔で残った右腕を振る。
そのやり取りを見ていた凛は、あー、とひとつうめく。
「……なに逃がしてんのよ」
「別に構わんだろう」
「構うに決まってるでしょうが! ランサー潰すチャンスだったのに!」
「まあ落ち着け、凛。それより先ほどの少年が先だろう?」
「あっ。そ、そうだった」
アーチャーに言われ衛宮邸の門へと向かおうとしていた凛は、ぴたりとその足を止めた。
「言っとくけど、あっちが何もしてこない限りは、手を出さないでよ」
「わかっている」
軽い返事と口元に浮かべた笑みを見て、凛はいっそうにアーチャーを不審な目で睨む。
と、急に凛の表情が柔らかいものに変わった。
「令呪使おうか?」
「了解した。手は出さない」
従順なサーヴァントの様子に気をよくした凛は、よし、とひとつ頷いてアーチャーに背を向ける。
塀を伝い門まで来ると、アーチャーは凛に「気を付けろ」と直接頭の中に送ってきた。うっさい、と凛は返してから、僅かに開いている門扉から中をのぞき込む。
――問答無用で襲われる気配はないようだ。
こちらが相手の動きをサーヴァントによって察知できるということは、こちらの動きも相手に伝わっているということ。だというのに反応がないというのは、待ち伏せているか、戦意がないか。マスターが衛宮士郎だというのであれば、後者という可能性が高い。
凛はアーチャーに目配せをして、衛宮邸の敷地にからだを滑らせる。
衛宮邸の門をくぐり警戒しながら歩を進めると、庭の真ん中にうずくまる女性の姿があった。
銀とも金ともとれる、色素の薄くなった髪の毛。後ろでひとつにしばられたそれは、月明かりに照らされて、さらさらとそよいでいた。
アーチャーの外套を真っ黒に染め直したような衣装を纏い、その背中を無防備に晒している。
「士郎……」
ぽつりと零した彼女の声は、ひどく悲しみに彩られていた。
士郎――衛宮士郎。彼はどうなったというのか?
凛は相手がサーヴァントだということも忘れ、無造作に近づいていった。
ランサーがあんな姿にまでなったのだ、衛宮士郎の無事は保証されたようなものだろう。凛はそう思い安心していた。
だというのに。
「士郎が、死んだ」
サーヴァント、セイバー。
彼女は、あり得ないはずの事実を、告げた。
/0
――力を下さい――
/3
がぎい!
鉄を打ち鳴らす激しい音に、凛の意識ははっきりと戻ってくる。
耳元で聞こえたそれに首を巡らせると、そこでは三つの刃が重なり、火花を散らせていた。見覚えのある刃だ。凛のサーヴァントが使っていた二本の剣、そして……日本刀。
「いつまで呆けている、凛! 早く逃げるんだ!」
「え――」
アーチャーの声に、凛はようやくと今の状況に気が付く。
先ほどまで衛宮士郎を抱えていたはずのセイバーは、いつの間にか刀を抜き放ち、凛の首を刈るべく刃を閃かせたのだ。あと僅かでもアーチャーの反応が遅れていれば、その首はあっけなく地面に転がっているところだろう。
「士郎が、死んだ。死んじゃった……」
剣の従者は乾いた瞳でアーチャーを見る。
月の光に、銀糸のような髪が輝く。青ざめた顔には表情というものが無く、その左目は不釣り合いな眼帯で覆われていた。
「……ふふ。来たんだ、ヒーロー。でも遅かったね。士郎、ランサーに殺されちゃった」
「ヒーロー、だと?」
「そうでしょ?」
セイバーが刀を滑らせ、アーチャーの剣を弾く。
来るか、とアーチャーは構えるが、セイバーはとんと後ろに飛ぶ。刀は既に鞘へ収めてあり、殺気も戦意も、気迫すら感じない。
「わたし、あなたとは戦いたくないなあ」
「ふざけるな。ならばなぜ、凛を殺そうとした?」
そんな当たり前のことを聞くの、とでも言いたそうにセイバーは眉を寄せる。
「だって、そうすればあなたとは戦う必要無くなるから」
そんな理由で自分は殺されかけたのかと凛は首をさする。
マスターを殺せば、サーヴァントは消える。だからサーヴァントと戦うよりもマスターを狙った方が効率がいい。凛はそれを理解しているつもりだったが、このセイバーは、アーチャーと戦いたくなから自分を殺すと言っているのだ。
「……ほう。それは、まともにやれば負けるから、と?」
挑発のつもりでアーチャーは言うが、しかしセイバーは「なに言ってるの、この子は」と呆れた視線を返した。
「まさかあなた、わたしに勝てるとか思ってたの? ……ふふ。あー、そうか、そうだよねえ」
「……凛」
アーチャーの背中から滲み出す怒気に、凛はサインを出す。
「いいわ、思いっきりやっちゃって。どうせマスターも……死んでるんだし」
衛宮士郎のなきがらから目をそらし、俯く。
死んでいる。
そう、それはもう既に変えようのない事実となってしまった。
マスターを失ったサーヴァントは、数日のうちに消えるだろう。しかしそれは無害というわけではない。現に、不意を打って凛に斬りかかったセイバーのように、マスターの意志とは関係なく戦いを欲するサーヴァントもいる。あるいは別の魔術師と再契約を結ぶ場合もあるのだ。
聖杯を手に入れる。凛はただそれだけのために、この馬鹿げた戦争に参加している。相手が自分を殺そうというのならば、それ相応の対処をするだけだ。
魔力を込めた宝石を手に、凛は呼吸を整える。
「アーチャー、セイバーを倒しなさい」
「了解――マスター」
/4
凛はその光景に、心が冷えていくのを感じた。
抜刀一閃。
ただそれだけで、彼女のサーヴァントの左腕は、どさりと地面に落ちた。
「ば――」
斬られた当の本人にさえ、セイバーが何をしたのかわからなかった。いや、なにをしたのかはわかっている。
抜き放ち、斬りつける。それだけだ。
それだけだというのに、避けることさえ出来なかったのだ。
居合いだとしても、アーチャーには躱し弾くだけの伎があった。肩、肘、腕、柄に掛けた手の僅かな動きだけで、どこに刃が奔るのかが瞬時に理解できる。それは幾たびも戦場を経験し、蓄積された経験と洞察力による察知。しかし、未来予知に届く研ぎ澄まされた感性をしても、セイバーの一振りすら避けきることが出来なかった。
“察知した刀の軌跡”、それに合わせ剣を振るい、弾く。そしてもう一方の剣で追撃。それを実行するはずだったが、セイバーの斬撃はそれすら許さなかった。
アーチャーは心の内で吐き捨てる。単純な腕比べではまるで敵わない。ならば――!
「遅いよ、フェイカー」
切り札を発動させる隙もあればこそ。アーチャーはこのサーヴァントに、挑んではならない間合いで戦っていたということだろう。
セイバーの必殺の一閃がアーチャーに迫り――。
「――!?」
ひょお、と空を切った。
先ほどまでそこにいたはずのアーチャーは、跡形もなく消え失せている。
「ま、間に合った……」
かすれた声で、凛は呟く。突き出した手に刻まれていた令呪、凛はそれを使ってアーチャーを消したのだ。
「……ふうん」
セイバーは凛をじろりと睨み付ける。
「あう……」
じりと凛は後退る。
令呪を使いアーチャーを消したはいいが、このあとはどうればいいか、それを考えていなかった。マスターはサーヴァントに劣る。当たり前のことだが、英霊に上り詰めたモノに、ただの魔術師が敵うわけはない。
「これであの子もわかったでしょ。まったく、セイバーお姉ちゃんに勝とうとか思うようなお馬鹿さんは、しばらく反省してなさい」
「お、お姉ちゃん? お馬鹿さん?」
幻想的な雰囲気を漂わせるサーヴァントの口から、どうにも似合わない台詞がぽんぽんと飛び出してくる。これがアーチャーを圧倒したセイバー……、と凛は目をしばたたかせた。
「それで、アーチャーのマスター」
「――!」
凛はセイバーの声に抜け掛けていた気を再び高める。
しかし……戦う前から、凛には既に打つ手が見つからなかった。
(勝てるかっつーの!)
あるいは手持ちの宝石を全て目くらましに使ったとすれば、何とかこの場から逃げられるかもしれない。が、追いつかれてばっさり、というのがそのあとのシナリオだろう。サーヴァントとマスターの力関係はそういうものなのだ。
もとより凛の命を刈るべく刃を振るったセイバー。サーヴァントの守りを失った凛は、為す術もなく殺されるだろう。――衛宮士郎が、そうであったように。
(でも……)
凛は魔術師として死ぬ覚悟を持っている。しかしだからといって、このままなにもせずに死を待つことはしたくなかった。
――と。
凛の耳は、信じられないものを聞いた気がした。
「……え?」
「だから、今日は帰っていいよ」
ぽかんと凛は口を開けて呆ける。
「な……なんで!?」
「なんでってねえ。……いいよ、今日はもう。そんな気分になれないから……」
悲しげに呟き、深く息をつく。
セイバーは凛に背を向け、膝をついて衛宮士郎のなきがらを抱いた。
「あ……」
凛はセイバーの声の冷たさにはっとなる。
衛宮士郎――少なからず気に掛けていたあの少年は、もう二度と目を開けることはない。一度は死の淵にいた士郎を救えたものの、それは僅かにでも生きていたからだ。遠目からでもわかった、胸に開いた大きな穴。あれは――今度こそ、本当に死んでいる。
セイバーは血にまみれた士郎を胸に抱き、力無く垂れ下がる手に自分の手ををからめる。我が子を抱くような優しい顔の奥に、凛は冷たく流れる悲哀の表情が見えた気がした。
どのような絆がそこにあったのか、セイバーは士郎の頬を撫でて彼の名前を小さく呟く。
息をせず、指先のひとつも動かない。蒼く血の抜けた顔は、その外傷に似合わず柔らかなものだった。
死者蘇生は魔法の域にある。
才があるとはいえ、ただの魔術師である凛に、衛宮士郎を救う術は無い。
いや違う……、と凛は拳を握る。
救う必要など無いはずなのだ。魔術師として生き、魔術師として死に、魔術師として殺す。魔術師の姿を見られたのならば、それは速やかに“処理”しなければならない。それならば衛宮士郎の死は、凛の手を煩わせなくなった分、都合のいいもののはずだ。加えてその少年はセイバーのマスター。殺し、殺される覚悟を持つ魔術師にとって、士郎の死は“いずれそうなる”ことが早まっただけのこと。
(なんて考えられるわけないじゃない……!)
まだ捨てきることは出来なかったのかと、凛は空を仰ぐ。
蒼く褪めた月に、知らず凛は涙をこぼした。
/0
――力を下さい
セイギノミカタになるための、力を――
/5
煌々と闇に浮かぶ月。
庭に茂る草木はさらさらと音を立てて揺れ、耳を撫でた。
剣の従者は髪を解き、風に流れるままを感じる。細く柔らかな銀糸は肩に流れると漆黒の外套に掛かった。左目の眼帯に指先を滑らせて、その感触を確かめる。
今宵、戦が始まる。
望みを叶える聖杯を手にするための、戦が。
セイバーにはソレに頼ってまで叶えるべき願いなど無かった。“聖杯によりその願いは既に叶えられている”のだから、それ以上望むべくもない。
「そのときにわたしがあらわれて、ばばーんと解決したわけ。士郎に見せたかったなー」
一条の希望を夢見てただひたすらに鍛練を積み、果てに英霊となった。儚い願いだとわかっていても、決して叶わぬ願いだろうとも、それ以外に自身を救う術など知りはしない。
いかな奇蹟が起きたのか。どのような確率でここに呼び出されたのか。
歓喜し、そして、絶望した。
世界は、このささやかな願いすら聞き届けてはくれないのかと。
衛宮士郎の側に。そんなちっぽけな願いも叶えてはくれないのか、と。
「士郎……」
胸の傷を補修し、からだに魔力を満たした。
今は縁側で士郎のあたまを膝に乗せ、横たえさせている。
セイバーはさわさわと赤毛のあたまを撫でてその感触を楽しんでいた。
「大変だったんだよー。もう、絶対やりたくないね、あれは」
さぁ、と月に雲がかかる。
月明かりに照らされていた庭は薄雲一枚で闇に閉ざされ、セイバーは幸いと空を見上げた。
士郎の頬に、一滴二滴と、水が伝わる。
セイバーの表情は夜の暗闇に紛れ窺うことは出来ない。
「ばーか……。なんで死んじゃうのよ……」
こつ、と額を小突く。
士郎は穏やかにまぶたを閉じているだけで、なにも返してはくれなかった。
/6
「アーチャー、大丈夫?」
「大丈夫に見えているのならば、眼科にかかることを勧めよう」
「こ、こういうときは大丈夫じゃなくても大丈夫って言うのが男でしょうがっ」
「……凛。たとえ男でも、片腕千切れて大丈夫といえるやつは変態だろう」
遠坂邸の居間では、ソファに沈んだアーチャーが頭を抱えていた。凛はテーブルを挟んだそこに立ち、顔を赤くして腕を組んでいる。
「で……くっつくの?」
くっつくの、とは、テーブルの上にどんと置いてある、斬られた左腕のことだ。凛はとりあえず落ちていた腕を回収したが、それが元に戻るかは考えていなかった。
「まあ、私たちサーヴァントは基本的に霊体だからな。治す代わりに魔力を持って行かれるが」
「あ、そうなの? よかった」
凛は軽く息をつき、紅茶をなめる。
「それじゃ、あのサーヴァントについて話しましょうか」
「あいつか。まあ、セイバーだろうが、あの腕前は異常だな。まるで勝てる気がしない」
「……ちょっと。なにいきなり暗いこと言ってんのよ」
「ああ、いや。剣で、と付け加えておこう。自身のクラスはアーチャーだからな、私の舞台となれば、勝てる」
にやり、としか形容のしようがない笑みを浮かべる。
「そ、そう? まあ、それならいいけど」
こほん、と凛は仕切直すように咳払いをした。
「しかし、日本刀を携えた英霊か」
「あれが宝具ってこと?」
「恐らくはそうだろう。特徴らしい特徴がないから、断定はできん」
「まあ、日本刀ってどれも同じ形だし……」
「……そうでもないんだが、それは置いておこう。あとは左目の眼帯くらいしか目に付くものはなかったか」
眼帯ねえ……、と凛は呟く。
「それでぱっと思い当たるのは、柳生十兵衛とか独眼竜正宗ってところなんだけど……」
「女だったな」
「そうよねえ」
うーん、とふたりは腕を組んだ同じ格好でうなる。
「そういえばあのセイバー、なんかあんたのこと知ってるような素振り見せなかった? たしかヒーローとかフェイカー……とかなんとか。って、ほとんど覚えてないんだっけ……」
凛の疑問に、アーチャーは「む」と声を漏らす。
「いや、もう既に記憶は戻っている」
「……先に言いなさいよ、それ。で、名前は? 宝具は?」
アーチャーはわずかに逡巡すると、しかめ面のまま答える。
「名前は、無い。宝具もまた無い」
「はあ? なに言ってんの?」
凛はちらちらと令呪の刻まれた手を振る。
「いや待て、凛。本当だ。私は名のある英雄のような存在ではない。死する直前に、契約によって力を得た霊英だ。名を残すようなことはしていない」
「……はあ。まあいいわ。使えれば有名だろうが無名だろうがどっちでも。それで、宝具も無いわけね」
「ああ。私は生前魔術師でな。できることといえば投影くらいのものだったが、幸い才があったらしい。ランクは下がるが宝具ですら投影出来るし、投影したものは破壊されない限り維持できる」
「…………。それは、また。すごいじゃない」
「ありがとう、凛。そう言ってくれると嬉しい。私の師とも言える人間は、いつまでたっても半人前扱いだったからな」
「一点特化とはいえ……そんな凄い魔術使えて半人前? どんな師匠よ、それ」
呆れたような凛の表情に、アーチャーは苦いものを見せた。
「あー……投影。だからフェイクか」
「そういうことだ。私に彼女の記憶はないが……、英霊はあらゆる場所、あらゆる時代に駆り出される。例えばの話だが、私が呼び出されたそのときに彼女がどこかにいたのだとすれば、私のことを知っていても不思議ではない」
「……それってやばいんじゃないの? 正体知られてるようなもんだから」
「かもしれんな」
アーチャーはなんでもないように凛に返す。
「しかし、セイバーはいくらもしないうちに消えるだろう。強敵ではあるが、それほど気にする相手でもない」
「まあ、そうなんだろうけど……。隻眼で刀を使う女、本当に記憶にない?」
「ない」
色よい返事は期待していなかったのだろう、凛は組んでいた腕を解きあたまを振る。
「……はあ。考えてても仕方ないわ。今日はもう寝ましょう」
「そのほうがいい。いろいろありすぎたからな、君も疲れているだろう」
「ええ。……おやすみ、アーチャー。明日までに腕くっつけときなさいよ」
ひらひらと手を振って凛は居間をあとにする。アーチャーはその主人の背中を見ながらため息をついた。
衛宮士郎の死は、彼女に予想以上の衝撃を与えたようだった。凛自身にその自覚は無いかもしれないが、恐らく数日は使い物にならないだろう、とアーチャーはあたまを悩ませる。
(しかし……この身がいまだ現界しているということは、私の存在が既に不変のものだということだろうか)
まあいい、と自嘲する。
「それならば、目的を変えねばならんか。――凛の願いを叶えてみるのもまた一興。受肉して今生を楽しむのもいいだろう。さて、どうするべきか……」
アーチャーはなにかひとつ、しがらみがほどけたような気分の昂揚を感じていた。
なぜかはわからない。しかし、悪くはない。
受肉し、うつしよで果てるまでの短いとき。
ただその間だけは、苦辛と後悔から解き放たれる。
「無かったことにはできない……か。それでも、わずかな救いを求めている。馬鹿げたことだ」
苦笑し、その長躯をソファーに沈めた。
/7
「綺礼、わたしよ。――ええ、もちろん参加するわ。サーヴァントはアーチャー。これで文句はないでしょ? ……最後のひとりがまだ来ていない、ね。まあ、知らない仲って訳じゃないし教えておくけど……。
セイバーのマスターは、死んだわ。
……それだけ。じゃあね」
/0
――力を下さい
セイギノミカタになるための、力を
それがわたしの、ただひとつだけの願い――
/8
魔槍ゲイボルグを宝具とするサーヴァント、クーフーリン。彼は失った左腕を押さえ、気難しげに眉をひそめていた。
セイバーにすげなくあしらわれたあと、マスターである言峰綺礼の住む教会に向かっていたランサーだが、いなかその躯が霊体とはいえ、ここまでの深手となると動くことすら苦しいものになる。
壁に背を任せ、一息を入れる。
「く……。これはなかなか……」
サーヴァント同士の戦い、それを目撃してしまった少年を追い、二度殺した。
一度目、その赤い魔槍はたがうことなく少年の心臓を貫いたはずだった。しかし、それでも生きていた。ランサーと対峙したサーヴァントのマスター、彼女の手により、瀕死の少年は辛うじて生を繋ぐことができたのだ。それに気づき、二度目。
今度こそ息絶えたのを確認し、そして……。
光と魔力の奔流、その中心より現れたセイバーにより、幾合もしない内に左腕を斬り飛ばされた。
怯まず再び対峙したが、その状況で勝てる見込みは薄かった。
そしてなにを考えているのか、セイバーは構えを解き、
『……興が乗らないなあ。ランサー、見逃してあげるから、帰っていいよ』
その言葉に、ランサーは激しい怒りを覚えた。たとえ片腕であろうとも、敗走は矜持を削る。敵わずとも一矢を報いなければ収まりがつかない。
令呪の縛りがなく、両の腕も無事であれば、あるいは力を存分に振るい合うことも出来ただろう。結局、向かうも刀の峰で打ちのめされ、こうして躯を引きずって逃げ帰っている。
「くそ……!」
悔しさに、どこへぶつけようもない怒りがこみ上げてくる。
驕っていたわけではない。英雄とまでいわれたこの身に出来ることは、自身がよく理解している。ただ油断を生んだ自分の未熟さが愚かしかった。
初めから召喚されたサーヴァントが現れるのであれば、少年を殺したあとでも気を緩めることはなかった。本気で為合うこともできたはずだったのだ。
(さっさと言峰のところに戻って治してもらわねえとな。本気でやり合うには、しばらく休ませる必要がありそうだ)
ランサーは壁から背を離し、ねぐらへ戻ろうと足を進めた。
「……?」
ぽつぽつと街灯に照らされる、教会へ向かう道。
そこにひとつの影があった。
小柄なからだに、凛とした表情を浮かべた愛らしい少女。結い上げた金色の髪は、街灯の弱い明かりでさえ、その美しさを損なうことはない。
ランサーは心の内で舌を打つ。血止めはしているが、青の出で立ちに失われた左腕。怪しいことこの上ない。
(まあ、ただの怪しいやつ、で済まされれば殺す必要もない)
ランサーはその少女が通り過ぎるのを待つ。
……しかし。
「こんばんわ」
「…………」
少女はおびえる様子もなくランサーに近づき、世間話でもするような気軽さで話しかけてきた。
頭が弱いのか、とランサーは少女の顔をまじまじと見る。
「いい夜だ。貴方もそう思いませんか」
無遠慮なランサーの視線を気にもせず、少女は続ける。
「……ああ?」
「ふむ。見たところ怪我をしているようですね」
容姿、立ち振る舞いを見る限り、どこぞのお嬢様という雰囲気を持つ少女だが、こんな夜更けにひとりで出歩くというのはおかしいだろう。
ランサーはどうやってこの少女を追い払おうか思案した。
「ああ、これは酷いものだ。傷から察するに、剣の扱いに慣れたサーヴァントにやられたのでしょう?」
ざ、とランサーは一瞬にして少女から距離を取った。
サーヴァント。それを知っているということは、ただの一般人というわけがない。
「テメエ、なにもんだ?」
「さて、何者だったか。十年前ならいざ知らず、いまは自分が何者かなど気にしたこともない。そういう貴方は、自身が何者か、理解しているか?」
「戯れ言を。……サーヴァント、じゃねえな、テメエ。マスターか」
「いいえ。この身に令呪は刻まれてはいない。私は魔術師ではありませんから」
「なおさらわからねえな。はっきりと言ってもらおうか。……このオレに、何の用だ」
「いえ、用というほどのものではありません。ただ……」
――黄金の剣。
唐突に現れたそれは――ただ敵を殲滅し尽くす、人ならぬモノに鍛え上げられた剣。
儚げな少女に似つかわしくない、異質。それは確かに、彼女の小さな手に握られていた。
「消えていただくだけです、ランサー」
冷たく言い放つ。
槍兵は少女が構える隙さえ与えず踏み込み、掴んだ槍で薙いだ。
ただの人間であるはずがない。あんなモノを操るヒトなど、いはしない。油断すれば、地に伏すのは間違いなく――。
「片腕でよくやりますね。しかしそれでは私に届かない」
「テメ……!」
槍の一撃を払い、続く槍も難なくと弾く。少女の振るう剣はまるで重さを感じさせず、ランサーの繰り出す神速の槍を正確に打ち落としてゆく。
豪雨の如き絶え間ないランサーの攻撃は、しかしことごとく少女には届かなかった。
片腕であろうと常人では目で追うことすら出来ないランサーの槍。少女はその全てを視認し、察知し、予測し、弾き躱す。
それはまるで“サーヴァント同士”の戦闘だ。
武具にほとばしる魔力の猛り。打ち合わされた剣と槍は、その度に辺りを閃光で包む。余波に周囲の草木はざあざあと揺れ、均されたアスファルトに亀裂が奔った。
「長引くと気付かれる。申し訳ないが、ランサー、早々に終わらせるとしよう」
「ほざけ!」
その言葉と共に、防戦一方だった少女が攻勢に移る。
薙ぎ払う少女の一撃を受け流して穂先を突き込み、躱されると同時に横へ薙ぐ。それを少女は剣の腹で受け、そのまま力任せに振り切り、ランサーを吹き飛ばした。
(あんな細腕のどこに……っ)
少女は肉体を持つ人間に見えた。
ランサーのような半霊体とは、その存在自体が違う。サーヴァントにはサーヴァントの気配がわかるが、しかしこの少女にはそれがない。つまり少女は、サーヴァントとは違うナニカなのだ。生身の肉体を持ちながら、英霊と渡り合えるほどの、規格外の幻想。
少女の黄金剣が奔る――。
ランサーは受け、躱し、剣をからめ逸らす。十合もしない内、その違和感に気付いた。
(ちっ。なんだこの“やりやすさ”は!)
突き出した槍は僅かに少女を逸れる。
打ち込まれた剣は危なげなく受けられる。
まるでパズルのピースがぴたりとはまるような、初めからそうあるべきものだとでも言うような、そんな類のものだ。
そして理解した――少女の“試すような”斬撃。
(この女――!)
そう、試しているのだ。
ランサーを、ではない。
何年も使っていなかった道具が使えるか試すように、少女は自身を試している。
ランサーの怒りは、ここに来て少女へと向かった。
(刃を合わせているのはこのオレだというのに、この女は、オレすら眼中にない……!)
「どうしたランサー。止まっていては槍兵の名が泣こう」
「調子に乗るな、たわけ――!」
ランサーは必殺の槍を解放するべく少女と距離を取る。しかし少女はランサーにぴたりと張り付いたまま離れることはない。
「な――!」
「最速のサーヴァントとはいえ、傷つき片腕では、やはり私にも劣る」
ぞぶ、と。
少女の黄金剣は、ランサーの胸に吸い込まれていった。
/prolog
衛宮士郎が、救ったはずの誰かに裏切られ、殺された。
遠坂凛は風の便りにそんなことを聞いた。
恥ずかしげもなく正義の味方を自称していた彼とは、結局最後まで相容れることはなかった凛。しかしそれでも、その生き方が気に入らなかったわけではない。
ただそれは、彼を知らなかったから、ということに他ならない。衛宮士郎の本質を知っていれば、下に置いてでもその歪んだ性根を叩き直していたはずだ。
聖杯戦争の折り、凛はたとえ聖杯がどんなものであろうとも手に入れると誓った。聖杯がどのようなものかを知り、衛宮士郎は遠坂凛と袂を分かつ。
アインツベルンの姫君、イリヤスフィール。彼女がいかなる思惑を以て戦争に参加していたのか凛にはわからなかったが、その言動は無垢な少女そのものだった。士郎を殺そうと画策し、そして兄と慕った、“器”の少女。
衛宮士郎はイリヤスフィールの目的を知っていたのか、それとも他になにかがあったのか。凛と別れ、彼はイリヤスフィールと手を組んだ。
最強のバーサーカー、そして最優のセイバー。そんなものにどうして勝てるというのか。凛のサーヴァントはバーサーカーに討たれてしまっている。このふたりの勝利は既に確実なものだと、凛は心のどこかで思っていた。
――しかし。
突如現れた黄金の騎士は、バーサーカーを殺し尽くし、セイバーをも退け……イリヤスフィールの心臓を、抉った。
それからなにが起こったのか、教会で言峰綺礼から治療を受けていた凛に知る術はない。ただわかっているのは、衛宮士郎が人類最古の英雄王をその場で討ち果たし、聖杯を破壊した、ということだけだった。
そして彼は、姿を消した。
「裏切られ、殺された、か……」
――噂を耳にしたその年の暮れ。
聖杯は、再び現れた。
冬木の管理を代理に任せていた凛はそれを知らず。
そして“彼女”の物語は始まった。
/0
「力を下さい。セイギノミカタになるための、力を。
――それがわたしの、ただひとつだけの願いです」
そして、聖杯は応えた。
/-3
藤村大河は、弟の死を知り、嘆いた。
いつかはこうなるだろうと覚悟はしていた。父親の夢を継いだ少年は、身ひとつで戦場を、災厄の降り注いだ地を駆け、そして衛宮切嗣がそうであったように満足して死んでいくだろうと。
時折ふらりと帰ってきては、土産話を聞かせてくれる弟。何度危険なことをやめるように言っても、首を縦に振ることはなかった。
俺は正義の味方になる。この手が届くのなら、俺は全てを救いたい。そう言ってまたどこかへと向かう。
それなのに。
裏切られ、殺されたと知ったとき、大河は彼があまりにも哀れだった。
正義の味方は独り、誰にも看取られることなく逝った。
それでよかったのだろうか。それで彼は満足だったのだろうか?
そうは思いたくなかった。
衛宮士郎は、誰にも理解されることなくこの世を去った。……いや、彼に近しい僅かな者は、彼を理解していただろうか。しかし誰も彼を助けようとはしない。
否、“助けられるだけの力”を持たないのだ。
正義の味方には、だれひとり解り合える者はいなかった。
彼は独り、剣の丘に佇む。
――ならば。
ならば自身が理解者となろう。
衛宮士郎は既に亡く、しかし“正義の味方”はどこかにいるはずだ。彼が正義の味方を目指していたように、この広い世界のどこかで、彼と同じ夢を見ている馬鹿な人間が。
誰からも理解されず、偽善とそしられ、それでも正義の味方を目指すその者に、藤村大河は味方しよう。決して裏切らず、その背中を守護しよう。
「――だからわたしは、正義の味方の味方になる」
/-2
大河はただひたすら剣を振った。
来る日も来る日も、ただ無心に。
力を。何者にも負けない力を手に入れなければならない。
大河にできることなどたかが知れている。
銃器で武装すれば力は手に入るか?
否。それは“藤村大河の力”たり得ない。身を守り、脅威を退ける力。幸い剣には理解があった。だからそれだけを究めようとしたのだ。
――が。
大河は飽きやすかった。
力を得るためには我慢をするが、飽きるものは飽きる。
組員相手に稽古をしても、だれひとり満足に打ち合えず、ストレスは溜まる一方だった。
そんなある日。いつものように衛宮邸で稽古をしていると、一羽の燕が飛んできた。
すいすいと気持ちよさそうに空を泳ぐ様は、不機嫌絶頂の大河にとってこの上なく不快。こんちくしょー、と気合い一閃、燕に木刀で斬りかかる姿は実に大人げない。加えてそれを避けられたものだから、大河のストレスは頂点を超えた。
……捌け口となった組員のその後は推して知るべし。
/-1
無尽蔵の魔力の渦。禍々しい毒の壷。
それは正しく“聖杯”だった。
藤村大河は、熾烈な戦争を勝ち抜いた。左目を抉られ、体中に傷を付け、様々なものを失い、それでもこうして聖杯へとたどり着いたのだ。
大河のサーヴァントは、彼女を悲しい瞳で見つめ続ける。
ひとつ。話すことを禁ずる。
それが令呪を使いサーヴァントに命じたことだった。
あの声、あの顔で諭されれば、大河は頷いてしまうだろうと自覚していた。だからこそ、令呪を使ってまでそれを封じた。
――聖杯戦争。
大河がそれを知ったのは、あるいは必然だったのだろう。衛宮士郎の軌跡を辿り、行き着く果てはそれだった。
調べれば理解の外にあることばかり。
信じられない、とそれを一笑するのは簡単だ。しかし真実であれば、彼が正義の味方となることを決意させた事件こそ、この聖杯戦争だろう。
大河に魔術師としての資質など無い。その戦争に参加できようもないはずだったが……、衛宮士郎がそうであったように、大河もまた、否応なく巻き込まれていった。
倒し、退け、欺き、取り入り、殺し、その度に聖杯へ近づく。大河が目指すのは正義の味方ではなく、その味方。だからこそなによりも力が欲しかった。
聖杯はどんな願いも叶える。藤村大河にとっては、まさに渡りに舟。
――そして聖杯は成った。
「聖杯を、この手に」
頑なに聖杯を拒むサーヴァントに、大河は令呪の力を使用する。
サーヴァントが聖杯に触れ――それで、令呪の命は果たす。
その瞬間、サーヴァント・キャスターは宝具を解放した。
「な――、切嗣さん!?」
手に入れてはいけない。
それは破滅をもたらす聖杯。
“英霊エミヤ”はそれを知っているのだ。
「だめ……それじゃだめ……!!」
大河は最後の令呪を使い、サーバントを遠い場所まで強制的に移動させた。近くにいれば、彼は必ず大河の障害となる。
破壊された聖杯まで走り、大河は溢れ出す泥を全身に浴びながら、告げた。
/epilog or...
ごぼ、と血のかたまりがせり上がってくる。
「あ――、な……」
よく見れば、どうだ。その胸にからは赤く染まった剣が生えている。
ずるう、と背中から剣が引き抜かれ、支えを失った彼女は膝を落とす。
「貴女は私を狂わせる。貴女は味方ではない、――敵だ」
言い捨てた女は、地に膝をつく女に背を向け、いまだ殺戮の続く戦場へ駆ける。
どくどくと胸から命が流れてゆく。それは死に至る傷。助かりはしないだろう。
(あはは……。なんだろう、これ……)
剣戟。銃声。悲鳴。
無情。怨嗟。懇願。
戦場は死にあふれていた。
誰もが死に、誰もが殺し、だれもが狂い、だれもがたすけをもとめ――。
黒い外套が風にはためく。
流れてゆく命はもう長くはない。腕を上げ、刀をふることすら、もうできないだろう。なにが悔しいかと言われれば、もうこれ以上彼女の助けになれないということだけが悔しかった。
正義の味方の味方――藤村大河は、正義の味方に裏切られ、そして死んでゆく。
(あは。だれかさんみたい)
右目から見える空は鮮血の色。
そしてふと、過去が思い出された。
(ああ……そうか)
いつか大河は、裏切られて死んだれかはそれで満足だったのかと、自分に問うたことがある。そんなはずはない。裏切られ、殺され、それで満足など出来るはずがないと、そのときは思っていた。
(わたしは正義の味方の味方。最期までそれを貫くことが出来たんだ……)
正義の味方であり続けただれかは、ただひとを救えるだけで満足だったのだ。
でも、と。
死んでしまえば、もうそれもできなくなる。
心残りといえばそれくらいだ。
(……あ)
視界が狭まる。
(もう――)
大河が目を閉じようとした、そのとき。
地鳴りと共に、新たな敵が押し寄せてきた。
その数は味方をはるかに上回る。
(そ、んな……)
正義の味方。彼女は、恐らくここで死ぬ。たとえ化け物のような人間だろうとも、その数を相手に戦いきることは出来ない。そして大河の背後、その建物の中には、非戦闘員が身を寄せて隠れているのだ。
いずれ敵はここに到達し、殺戮を始めるだろう。
それを救えるものなどいはしない。
(だめ……。そんなの、だめだよ……)
錆び付いたようにぎしぎしと軋む体を、無理矢理動かす。胸の傷から溢れる血は止まることを知らず、徐々に大河の体から熱を奪ってゆく。
(これじゃ……満足なんかできない……! 後悔にまみれて死にたくない!)
しかし大河の手足は命令を受け付けない。地面に根が生えたように一歩すら足は進まず、視界も闇に閉ざされかけていた。
(彼女は――、彼女、は。わたしは、彼女の味方。正義の味方の、味方……)
藤村大河は、正義の味方の味方。
それはなぜ?
――衛宮士郎。
孤独に生きた彼の、味方になりたかった。
それはもう叶うべくもない。だから世界のどこかにいる正義の味方、その味方になったのだ。
正義の味方は死ぬだろう。唯一の味方はそれを看取ることすらできず、彼女は独り、剣の丘で息絶える。
なんのために、藤村大河は正義の味方の味方となったのか――!
(しろう……)
血が詰まり、声を出すことすら出来ない。
大河は力を振り絞り、胃の中のものをすべてぶちまけた。
「が――! ぐ、あ……っ」
胸に開いた穴が激痛を奔らせる。今はそんなものに構っている暇など無い。
「け――、 、……を……」
のどに絡まった血糊を、もう一度吐瀉物で洗い流す。
そして、告げた。
「契約しよう。わたしの死後を預ける。その報酬を、ここに貰い受けたい」
/9
刻は深く、天上に浮かぶ月はその姿を明瞭と闇に映す。
草木だけではなく風すらも眠り就いたのか、耳が痛くなるほどの静寂。空を渡る雲はごうごうと流れ、それでもここ柳洞寺は揺れる風すらなく、静謐としていた。
長く続く、山門へと至る石の階段。昼間でも人通りの少ないはずのそこは、今宵よりひとりの客を迎えていた。
山門に背を預けた、陣羽織の青年。
時代がかった雅な雰囲気を纏い、背丈ほどの長刀を抱えて、青年はそこに在った。ひとつに結わえた髪は背中を垂れ、静かに閉じるまぶたの奥にはどのような想いがあるのか。
彼が山門を守護するその命に応じたのは、主従の契約によるものではない。
確かにそれもひとつの理由にはなるだろうが、しかしそれよりも。その身を召喚し守らねばならぬほどの敵がここには居る、という、ただそれだけが応じた理由だった。
青年を呼び出した魔女は、並の相手などただ一言の元に消滅させうる力を持っていた。その魔女をして、自身は最弱だというのだ。
なんと、と青年は驚いた。まさかこのような奇跡を行う者を打倒しうる存在が、ごろごろと転がっていようとは、と。
その身に魔の加護を得ず、ただ剣を振ることしかできない青年には、召喚者の指ひとつですら驚異。それでも確かに、魔女の言葉は真実。
ならばと、青年は魔女へ礼を述べた。
――私は貴女を守る剣となろう。つわものとの戦いを至上とする身に、なるほどうってつけの役。まこと有り難いことだ。礼を言わねばならぬか、召喚者どの。
青年の言葉を聞いた魔術師は困惑に眉をひそめ、まあいいと素直に礼を受け取った。
その様子を思い出し、青年は煦煦と小さく笑う。
さわと風が流れた。
わずかひと撫でのそれに髪は揺られ、青年はついと指先で直す。
そしてその視線の先、待ちわびた最初の客は現れた。
「こんばんわ、お侍さん」
「……ほう。これはまた、なんと。聖杯とやらは、呼び出す者を容姿で選んでいるのではないか?」
月光に照らされる女性の姿。それは玲瓏たる美しさを備えていた。
色の抜け落ちた髪はそれでもなお艶やかに、青年同様うしろでひとつに結わえている。褪めた肌は滑らかとし、紅を引いたような形のいい唇は穏やかに微笑んでいた。しなやかで肉感的な肢体は無粋な黒の外套で包まれ、しかしそれは彼女の美しさを損なうものではなかった。左に刀を帯び、その様子は正に女だてらの侍であろう。
惜しむらくは、そのかんばせを覆う眼帯か。
「ふふーん。ありがとう、お侍さん。そういうあなたも、わたし好みのいい男よ?」
「それは気が合う。こんな夜でなければ誘いのひとつもしているところだが、さてさて」
「あー、それもなかなか心動く提案だけどねえ……。この戦争が終わって生きてたら、どこか飲みに行こうか?」
「ふむ。そうだな、それでもいいだろう」
青年は抱えていた長刀を抜き払い、鞘を山門へ掛けた。五尺余もの長刀は月の光を受け、蒼く瞬く。
「敗れたり、ってね」
眼帯の女は青年の様子を見て呟いた。
「なに、これほどの長ものとなると、鞘に収めたままでは戦いに臨めぬのでな。負ける気でおぬしと刃を交えるというわけではないぞ」
「あらそう。……ときにお侍さん、あなたはどんなサーヴァントかしら?」
すらりと刀を抜き放ち、問う。
それは答えを求めたものではなかった。
しかし青年は僅かに頬を緩めたあと、
「アサシンのサーヴァント、――佐々木、小次郎」
厳かに告げた。
「まあまあ。なんて非常識なサーヴァント。素直なことは美徳だど、過ぎれば暗愚よ?」
「言うな、“セイバー”。……しかし愚かとなじられようが、これは存外気持ちのいいものだな」
サーヴァント・アサシン。佐々木小次郎と名乗ったそれは、煦煦と笑い長刀を構えた。
「やっぱりわかちゃうかなあ、わたしがセイバーって」
「その出で立ち、そのまばゆい剣気。おぬし以外にセイバーと名乗れるものなどいないだろうよ」
「褒めてるの? まあいいか、それじゃわたしも名乗っちゃおうかなー」
「ほう、律儀なことだ。しかし、それは無用」
「いいじゃない。あなただけずるいわよ」
セイバーはぷくと頬を膨らませる。
「……くく。ああ、それならば名乗るがよい。確かに私だけがというのも、おぬしに悪い」
それじゃ、とセイバーは言い、
「――セイバーのサーヴァント、柳生十兵衛。ってね」
刃を抜き放つと同時に、アサシンへと駆けた。
物干し竿がひらりと舞い、セイバーの進入を阻む。あまりに長いそれは、もはや槍と変わらぬ間合いを持っていた。対してセイバーの持つ刀は、一般的な日本刀。踏み込み、懐へと潜ればセイバーが有利であろうが、アサシンの長刀はそれを許さない。
「柳生、十兵衛。――なるほど、確かにこの名は借り物ではあるが、その伎は真実私のもの。小次郎に劣るものではないぞ」
「いいえ。それは違うわね」
長刀から放たれる横薙の鋭い剣閃。応えるようにセイバーの刀は閃き、合わされる鉄は鋭い音を発する。
「わたしはここにいる佐々木小次郎しか知らない。ならばあなたの伎は小次郎としてのソレ。劣る劣らないは意味のないことでしょう?」
「ふむ……そうか。意味はない、か」
「そう。死合うのは、わたしとあなた。ただそれだけよ」
言葉を交わすすの間も、絶え間なく刃は奔る。
重なり、蒼白い火花を散らして弾き合う刀。
振るわれる一閃は死を纏い迫る。
アサシンは石段の最上部から一歩も引くことなく、セイバーの刀をことごとく受け、弾き、流す。その長刀から繰り出される刃は正に旋風。自在に操り、思いもよらない所から刀は打ち込まれる。
セイバーの閃光の如き一撃はそれを打ち落とし、返す刃でアサシンへと斬りつける。しかし弾いた刀は当たり前のようにセイバーの刀を受けていた。
優雅な太刀筋で曲線を描くアサシンの長刀に対し、セイバーは質実堅剛の直線。かみ合うはずのない型は、それでもぴたりと合わされる。アサシンには、それを可能とするなにかがあるのだ。
「ふむ。これをほぼ互角、と取るのは些か早計か。他にもなにかあるのであろう?」
「そういうあなたも、おかしな業を持っているじゃない」
両者僅かに足を引き、間合いを取った。
「そうだな、――では、その身を以て知るがいい」
ぞくりと、
セイバーの背中に奔るものがあった。
幾十と合わせた刃。アサシンはその内でも見せなかった構えとなる。
なにかが――来る。セイバーはただそれを感じた。
「秘剣――」
隙とも言える構えに、セイバーは飛び込んだ。なにが来こようとも、懐にもぐり込めばその長刀が仇となる。
しかし、
「――燕返し」
それはどのような伎なのか。
セイバーの神速の一撃、それを上回る速さでアサシンの刀は振るわれた。咄嗟に刀を返し、アサシンではなく迫り来る刃に合わせ、弾く。
それで危険は無くなるはずだった。
「な――!」
いまだ弾いた刀がそこのあるというのに、セイバーは“なにか”を感じた。身をかがめ転がるように飛び退くも、肩口を鋭い刃が掠めてゆく。
それは紛れもなく、アサシンの長刀だった。
「ほう。我が秘剣を躱すか。流石はセイバーといったところ。燕のようにはいかんな」
「……信じられない。なんなの、今の」
弾かれ、そして再び振るわれた刀。――否。
そうではない。あの瞬間、それは確かに“同時に振るわれた”のだ。
「なに、大したことではあるまい。偶さか空を泳ぐ燕を斬ろうと思いついただけのこと。他にすることもなく、しかしそれではあまりにも詰まらない。ただ剣を振り、そして行き着いた果てが、」
ひょう、と刀で三つの軌跡を描く。
セイバーに放たれた刃はふたつ。それはアサシンが手を抜いたというわけではなく、足場が悪く完成に至らなかった、ということだ。
「この秘剣というわけだ」
アサシンの言葉にセイバーは驚きを表し、そして破顔する。
「あは。すごい。なんか本当に、わたしたち気が合うかもしれないね」
「……どういう意味だ?」
「うん、燕を斬ろうなんて考えるバカ、他にもいたんだなあって」
アサシンは柳眉をしかめ、
「莫迦とは、またひどい言葉だ」
「でもねえ。……ま、いいか。私はあなたのように、ただ暇だから剣を振ったというわけじゃない。剣を握ることで、弾けそうな身体を押さえていただけなの」
「弾ける?」
「呪いよ。だから精神を高め、心を鎮め、外へ弾けようとする呪いを閉じこめてたの。剣を振ってそれに耐えて、ようやくまともに動けるようになったら一年も経ってた。まあその間、ただ集中しているのも苦痛だったし、それを紛らわせる方法がないかなあと思いついたのが、燕を落とす、ってことだった。一年経ったあとでも、もちろんそんな簡単に斬れるわけじゃない。ちょっと恨みもあったし、それからずっと燕を斬ることばかり考えていて――」
「辿り着いた、か」
「ん、まあ、そうなのかなあ。あなたとはアプローチが違うけど、それに至ることはできたと思うよ」
アサシンは楽しそうに顔をほころばせた。
「うむ。確かに気が合う。燕を斬ろうと思いつくようなものが、私の他にもいたとはな。――では、続けようか」
「ええ」
再び刀は交わる。
闇の落ちた山門に響く剣戟。
「さあ、見せてみよ。燕を落とすその業を」
「そんなこと言っていいのかなあ。見たら終わっちゃうよ」
「なんの。我が秘剣が躱されたのだ、それならばおぬしのそれも躱さねば割りにあわんだろう」
「うーん。……それじゃ、ちゃんと躱してね。本気で仕合うのはそれから」
ぎいん、と長刀を弾き、飛び退いて刀を鞘へ収める。
「ほう、居合か」
「こればっかりってわけじゃないけどね。――いくよ」
一瞬で変わったセイバーの雰囲気に、アサシンは油断無く構えた。
居合は間合い。踏み込めば瞬きひとつのうちに刃が閃く。
「一振りは空を斬り、ただの一撃にして、それ即ち必殺とす」
セイバーはアサシンに語りかけるように呟く。
自分の剣はただ一振りを以て秘剣と成すのだ、と。
「――参る」
/10
月は薄雲に朧となり、微かに闇を濃く孕む。
冷ややかとした空気はどこまでも澄んでいる。瞬く星は天を埋め尽くし、今にもこぼれ落ちてくるようだ。
ランサーを屠った少女は、深夜の坂道にひとり佇む。
(ここに来るのも何年振りだろうか)
少女は感慨深く坂の終わりを見上げる。
かつては剣の従者として駆けたその道。それも随分と昔のことに思えた。
十年前の聖杯戦争、その終焉、少女は聖杯を破壊した。令呪という強制力に、為す術無く従わされたのだ。
裏切られた、とそのときは怒りに震えた。最後の最後、あと一歩で聖杯を手にできるというその瞬間、令呪は無慈悲に彼女の力を解放し、器は呆気なく吹き飛んだ。
――そして、呪いの泥を浴びたのだ。
主の判断は正しかった。こんなものに望みを願ってはいけない。少女は変貌してゆく己の心にそれを思い知る。幸いにして少女は、その程度の呪いに狂うような軟弱な心は持ち合わせていない。
しかし僅かなりとも聖杯の一端に触れたその身は、既にうつしよに固定されていた。死するまでは還ることもできないだろう。
彼女の主は、その戦争からまるで人が変わった。冷徹な魔術師が、穏和な親馬鹿へと。何度か主の息子と遊ぶこともあったが、そのときの主の様子は、真実親のそれだ。
(キリツグ……)
少女――アルトリア・ペンドラゴンの召喚者は、衛宮切嗣といった。
アルトリアは切嗣に尋ねたことがある。
あなたならいずれ真の聖杯にたどり着けるだろう、と。
その答えは、ただの一言だった。
聖杯なんていらない。
しかしアルトリアには納得できなかった。なぜと問い詰めれば、切嗣は「僕の願いは、士郎が幸せになること。それだけなのだ」と答えた。
聖杯があればあの惨劇を救えるかもしれない。少女はそうも言った。しかし、切嗣は首を振る。
『過去を無かったことになんてできない。それじゃ、今こうして頑張っている君や――奪い、奪われてきた全ての想い、それはどうなるんだい? 君はなぜ王となり、その道を進んだんだい? 自分の行いが正しいものではなかったと、だからやり直したいとでも言うのかい?』
切嗣は少女の願いを知っていた。
違う、と王であった少女は否定する。間違った事はしていない。ただ、自分よりも優れた王となるものがいるはずだ、そう答えた。
『自分の一生が誇れるものと、君は思っている』
はい、と頷いた。
――そう。少女は最後まで王であり、けれど国は王を守る事はなかった。結果は滅亡と無惨なものではあったが、その過程は一点の曇りもない。ただ国のため、人のため、ひとつの誓いを胸に生きてきた。
『胸を張ってそう言えるというのに、どうしてやり直したいなんて思うんだい?』
ああ――、と。そのとき、アルトリアは気付いたのだ。
(無かったことにはできない、か……)
果たして、彼の息子もそう思うだろうか。
聖杯という、願いを叶える奇蹟がある。それを前にして、衛宮士郎は十年前の惨劇を無かったことにしたいと、そう願う事はないのか。
(まあ、キリツグの子供というのなら、その心配も必要ないかもしれないが)
無用な心配かと少女は頷いた。
坂を越えると、そこは衛宮邸の門。
そして微かな異変に気付いた。
(……なるほど、やはり)
覚えのある魔力の残滓。それはつまり、ここでサーヴァントが召喚されたということだ。
先ほどのランサー、それは衛宮士郎により召喚されたサーヴァントと戦い逃走したものだったのか、とアルトリアは納得した。
士郎は未熟とはいえ魔術師。戦争が始まれば、巻き込まれる可能性もあるのだ。
(サーヴァントが呼ばれたのならば、私は不要だ。影に徹することとしよう)
少女は一度屋敷に視線を向け、そして坂道を下り始めた。
/11
「セイバー、しばし剣を引け」
高まる緊張の中、アサシンは構えを解いた。
「なんで? せっかく見せようかと思ってたのに」
「いや、なに。その秘剣を盗み見ようとしている輩がいたのでな」
アサシンは木々の間を指し示す。
ばさりと、それは羽を広げてどこかへと飛び去っていった。
「……梟?」
「どこぞの妖術師の目だろう。……さて、邪魔も無くなったことだ、続きを、と言いたいところだが」
アサシンは山門へかけていた鞘に、その長刀を収めた。
「興が削がれた。加えておぬしの剣、どこか迷いがあったな。それではやる気も起きぬ」
「あら。そんなことまでわかるんだ」
セイバーは肩をすくめ、刀を収める。
「この勝負、しきり直してまた後日、改めて行うとしよう。異存は?」
「ないわよー。まあ、あなたとやって無事で済む保証もないし、このあとのこともあるしね」
そうか、とアサシンは微笑む。
「そのときまでちゃんと生きててよ」
「ふむ。それはこちらの台詞だな。ここに縛られている私と違い、おぬしはどこへでも行くことができる。頼むぞ、セイバー。再び刃を交えるそのときまで、無事でな」
「もちろん。――わたしは、聖杯を手に入れる。だからアサシン、また近いうちにお邪魔するね」
「ああ。待っている」
その会話を最後に、セイバーは石段を下りていった。
小さくなってゆく姿を見届け、アサシンは山門に背を預ける。
(もう一度召喚者どのには礼を言わねばな)
架空の剣士、佐々木小次郎。その秘剣を使えるというだけで呼び出されたその身に、望むべき願いすらない。唯一願うとすればつわものとの戦いだろうが、しかしそれこそ呼び出された理由であり、聖杯などに頼るまでもないことなのだ。
召喚者より与えられた刻限は、残り二十日もない。
(さて、それまでにどのようなつわものに出会えるか。いやいや、まさか死したあとに、これほどのことがあろうとは)
名も無き剣士は、くつくつと愉しげに笑う。
これほど喜ばしいことが、他にあろうか。剣士の生前は、それほどに恵まれてはいなかった。名のある兵法者と立ち会うなど、夢のまた夢。
死してこの地へと召喚された。山門へと縛られているのは不満ではあったが、それを越える歓喜は、唯一の不満も帳消しにする。
呼び出され、その命を受ける。聞けばこの戦争、召喚されるのは古今東西の英雄豪傑。ならばその身が呼ばれることは、本来ならあり得ないはずだった。だというのに、どんな過誤がまかり通ったのか。
(ふむ。縛りがなければ今すぐにでも礼をしたい気分だが、そうであっても流石に逢瀬の邪魔はできんな)
魔女とはいえ、その実、召喚者は“女”であった。
寺の住人は寝静まり、刻は深夜となる。ただ女は男を求め、男はそれに応える。
恐らくは既に聖杯になど興味はないだろう。――あるいはうつしよで受肉し、想い人と添い遂げるために求めるだろうか。
(二十日か……短いな。せめてあのふたりに、花のひとつでも送れればいいのだが)
素質のある者と契約を結ぶべきかともアサシンは考えた。しかし、それは裏切りに繋がる。
アサシンは召喚者を嫌ってはいなかった。気位が高く、純情で、惚れた男には見ていて呆れるほどの献身ぶり。そんな女をどうして嫌いになれるというのか。
(そういえば、葛木宗一郎、といったか。あの者もただのひとではあるまい。叶うならば、手合わせ願いたいものだ)
アサシンが見た限り、宗一郎は並の武芸者など片手でいなせる程の力を持っているはずだった。呼吸、足運び、気の巡らせ方、どれをとっても一流、いや、達人といっても過言ではない。しかし武道を嗜む様子もなく、宗一郎はあまりにも“普通”すぎた。
だからこそ、アサシンは宗一郎にも興味を持っていた。
しかし召喚者の命には、寺の住人にその存在を気付かれないことも含まれている。召喚者に恩義を感じているアサシンは、その命に逆らおうとは思わない。既に返しきれないほどの借りがあるのだ。
まあ、とアサシンは口元を緩める。
(仏閣に似つかわしくない容姿だろうに。私のほうがよほどとけ込める)
異国の女性と、陣羽織の日本人。どちらがどうとも言えるものではないが、“どちらかといえば”の話だろう。
僅か二十の刻限。
その間に、借り受けた恩を返す。
(できぬ相談だろうが、いつまでもここに留まりたいものだ。それならば、あのふたりの行く末を見守ることもできよう)
剣士は空を見上げる。
闇に浮かぶ月は、時が移り変わろうとも、変わらず美しいままであった。
/12
間桐桜の一日は衛宮邸へ赴くことから始まる。
二年近く続くそれは、当初“監視”の為であった。
前回の聖杯戦争の折り、アインツベルンを裏切り聖杯を破壊した衛宮切嗣。彼に息子がいると知り、間桐臓硯はその監視の孫の桜に命じた。
情の欠片もなく、冷徹であり、阻む者を容赦なく排除する。魔術師として最上の部類に位置する、雇われもののマスター。その男が、目的のための手段として息子に魔術の教育をしていないとは言い切れないだろう。だから臓硯は、年も近く取り入りやすい桜を監視の目として送り込んだ。
完成に至らなかった聖杯、それは六十年を待つことなく再び現れる。臓硯はその時に切嗣の息子がマスターとなれば、懐に潜り込んだ桜に殺させるつもりだったのだ。が、衛宮士郎は、マスターとしての資質はおろか、父親から聖杯戦争のことすら知らされていない。
衛宮士郎はどこにでもいる普通の人間。
本来なら、それで終わりのはずだった。
万が一。用心のため。あるいはなにかに利用できるかもしれない。衛宮士郎のことを報告しても、臓硯はそれ以降の監視についてなにも言わなかった。だから桜はそうだろうと理由付け、衛宮邸へ通い続けている。
――あたたかい。
桜は、衛宮士郎に接するたび、そのあたたかさに惹かれていった。
間桐にはないもの。
衛宮士郎は“救い”だった。
士郎に接するたび欠けていた心が満たされていく。幸せというものがなんであったのか、思い出させてくれるのだ。ささやかでちっぽけなものだが、桜にはそれ以上のものはなかった。
――しかし、
聖杯は、現れた。
“参加者”となった桜は、危険、などという一言では済まされない聖杯戦争へと駆り出される。これ以上衛宮邸へ通えば、その累が士郎にまで及ぶだろう。それは桜にとって、最も忌避すべきこと。
衛宮士郎は、平穏と日常の象徴。
そこに“マキリ桜”を見せるわけにはいかないのだ。
「だから……今日だけ。今日だけです」
桜は衛宮邸へと続く坂道を歩きながら、祈るように胸の前で手を組んだ。
「ごめんなさい、兄さん。桜は少しだけ悪い子になります」
桜の兄、間桐慎二もまた魔術師だった。
しかし慎二の代に至り、その魔術回路は一般人と変わらない数にまで減ってしまっている。マキリはこの地に適応できなかったのだ。
遠坂より桜を養子に迎え、マキリを再興させる。それが間桐家の想いだった。
慎二は、己の魔術回路の少なさを知識で補おうとしていた。しかしそれでも、持つ者と持たざる者の差は埋めることはできない。そして考えついた果てが――。
マキリの蟲を体内に埋め込み、同化し、それを擬似的な魔術回路と成す、ということだった。
いや、それは魔術回路と呼ぶのもおこがましい。
己が魔力を与え、蟲を操り魔術と成す。
蟲を制御しきれず喰い尽くされれば、醜悪な体で生にしがみつく臓硯と変わらぬその道を辿る。慎二はそれでもよかった。魔術師としての資質が無い自分には、その肉体と精神を代償として仮の力を得ることしかできない。
慎二の考えを聞いた臓硯はいやらしく嗤う。自ら望んで蟲を受け入れようという狂った者が出るとは思いもしなかったのだ。
魔術は一子相伝。間桐家はいずれ養子を迎えそれにマキリの魔術を教え込む気でいたが、親から子へと与える魔術刻印は既に失われている。ならば間桐を継ぐ者にのみ魔術を教えるということも意味はないだろう。
臓硯は慎二に蟲を与える。幸いにして慎二には才があった。ねじ曲がり歪んだ心は、マキリの魔術にこの上なく馴染んだのだ。
それが遠坂桜がマキリ桜へとなる、ずっとまえのこと。
桜の体内で蠢く蟲。遠坂からマキリへと変貌する肉体に課せられた苦痛と恐怖と快楽。その責め苦を、慎二は自らの意志で迎えたのだ。桜がそれを知ったのは、マキリとなって数年ののちのことだった。時折感情が高ぶり、桜へと当たり散らしていたのも、蟲が魔力を欲し蠢いていたからだろう、とそのとき初めて理解できた。
魔術師への妄執。それだけが幼かった慎二を突き動かしていた。
桜はそんな兄に、尊敬にも似た感情を抱いている。今でも耐えることのできない“教育”を、慎二は自分よりもずっと以前から受けているのだ。
狂っていてもおかしくはない。
それでも慎二は耐えている。
あの程度の蟲が僕をどうこうできると思ってるのか? と桜に歪んだ笑みを向けながら。
桜は自分が慎二に好かれているとは思ってはいない。
慎二はなんのために間桐が桜を迎え入れたか分からないほど無知ではなかった。自分の体内に巣くう蟲どもは子孫に残せるものではないと、使い捨ての魔術回路のようなものなのだと、慎二はそれを理解している。
だから目を掛けられるのは、終わった間桐慎二ではなく、有望なマキリ桜。
間桐直系の慎二を差し置いて、養子である桜がマキリを学ぶ。慎二が桜を疎ましく思わないはずはない。それでも兄は見かけだけでも仲のいい兄妹を装ってくれている、と桜は慎二に感謝している。
『聖杯戦争が始まったらしいな、桜。おまえ弱いんだから引っ込んでろよ。僕が全部終わらせる。間桐の後継者は僕なんだから、これくらいひとりでなんとかしてやるさ。……いいか、どうせ足手まといになるんだ、聖杯戦争が終わるまで家に閉じこもってろ』
憎々しげに吐き捨てた慎二に、はい、と桜は頷いた。たしかに桜はいまだ蟲が馴染んでいない。まともな魔術の行使も難しい状態だった。
しかし、その言葉に逆らい、桜は衛宮邸へと足を向けている。
衛宮士郎という誘惑に勝てなかったのだ。
聖杯戦争が本格的になる前に、もう一度だけ。最悪、これが今生の別れになるかもしれないのだから。
「……やっぱり怒ってるかな、兄さん」
怒らないわけないか、と桜は息をつく。
坂道を上りきると、衛宮邸の門はすぐそこだ。
門へ手を掛けようとした、そのとき。
「サクラ」
「――!?」
間桐の屋敷にいるはずのサーヴァント・ライダーに腕を掴まれた。
「な、なんでライダーがここにいるの? 兄さんの所にいないと――」
「あの家にいるシンジよりも、より危険な外へ出たサクラを護るためです。霊体ならば感知されることもない。用心にと付いてきたのですが……」
顔の半分を覆う拘束具。閉ざされた視界でなにを見ているのか、ライダーは門の向こう側に意識を向けた。
「引き返して下さい、サクラ。ここには、実体化しているサーヴァントがいる」
桜には、ライダーの言葉が理解できなかった。
サーヴァントがいる。それはつまり、この屋敷にいる誰かがマスターであるということだ。
衛宮士郎はマスターの適性を持たない。
マスターになり得るはずがない。
「――助け、ないと」
だから桜は、衛宮士郎がサーヴァントに襲われているのだと、そう理解した。
「っ!? サクラ!」
桜はライダーに掴まれていた腕を振り切り、門を押し開け、衛宮邸へと足を踏み入れた。
/13
「あ゛ー……」
と、遠坂家の唯一の住人である遠坂凛は、ベッドの中で唸る。
いつになく、目覚めが酷いものだった。
このまま柔らかい布団にくるまっていたいが、そういうわけにもいかない。うん、と凛はひと伸びをし、……もぞもぞと布団の中に潜り込む。
「アーチャー……、いないー? 入ってきていいから、なんか飲み物持ってきて〜……」
屋敷内にいるというのは分かっている。レイラインが繋がっているのならばマスターの意志は伝わるはずだ、と凛はものぐさ全開で“使い魔”へ命じた。
眠気に誘われるままうとうととまどろんでいると、ドアの開く音がする。
「全く。君はサーヴァントを召し使いかなにかと勘違いしていないか」
「サーヴァントでしょー……? 使い魔でしょー……? いいじゃない、呼び出したのはわたしなんだしー……」
凛はのそりとベッドから這いだして差し出されたカップを受け取る。なみなみと注がれた牛乳を一気に飲み干し、げふう、とおくびを吐く。
「……凛。年頃の娘が、それでいのか?」
「な、なによ。出るもんは仕方ないでしょう。着替えるからさっさと戻ってなさい。ほら、カップ持って」
やれやれとアーチャーは肩をすくめ、凛に背中を向ける。
「ああ、そうだ。学校にはしばらく休むと連絡を入れておいた。今日はゆっくりと休養をとるといい」
「なっ、ちょ、アーチャー! なに勝手なことしてんのよ!?」
アーチャーはマスターの怒鳴り声を気にもせず続ける。
「凛、鏡で自分の顔を見てみるといい。酷いものだぞ」
「え、うそ、マジで?」
鏡を覗き込むと、目の下に盛大な隈を作った蒼白い顔が映し出される。
「だれ!? てゆーかこれわたしか! ……あー……ホントに酷いわ。ごめん、確かに休んだ方がよさそう」
凛は再びベッドに体を投げる。
「……ありがとう、アーチャー」
「礼には及ばん。マスターの調子が悪いと、サーヴァントにも影響が出てくるからな」
「うん……まあいいわ、どうでも。とりあえずもう一回寝る。なんかあったら起こして」
「わかった。ではお休み、凛」
布団をかぶり、抜けきらない眠気に身を任せようとしたとき、凛は昨夜のことを思い出した。
「そういえばアーチャー、腕はどうなった?」
「問題ない。無事元通りだ」
その言葉を聞いて、凛は「そう」とつぶやき、すうっと意識を閉じていった。
「……眠ったか。やはり疲れているようだな」
アーチャーはそんなマスターの様子を見て、部屋をあとにする。
「そんなことではこの戦争、勝ち残れんぞ、凛」
“魔術師”になり切れていないマスターのことを思い、アーチャーは言葉をこぼした。
/14
ぎいと門が軋みを上げて開いた。
早朝、まだあたりは薄暗く、澄み渡った冷たい空気が肌を撫でる。吐く息は僅かに白く濁り、すうと消えてゆく。住宅街から離れている衛宮邸は、ただそれだけという理由からではなく、耳が痛くなるほどの静けさに包まれていた。
人の理解を超える、人ならぬ者の戦争。それが始まり、この冬木の町にはどこかおかしな空気が漂う。
否。おかしくならない方が異常であろうか。
古今東西あらゆる時代の英雄豪傑、それを呼び出し、受肉させる。死者蘇生に近い奇蹟を起こす聖杯があり、そして勝利者が決まるまで殺し合いをするのだ。それでいつもと変わらない筈がないだろう。
戦場の空気。
微睡みに揺れる朝の静けさ。
冷たく醒める意識の淀み。
サーヴァント、セイバー。彼女はこの時間が好きだった。
だからこそ、無粋な闖入者に少々腹を立てていた。
「さて、さぶらい人を引き連れたあるじどのは、いかような用件をもって参られた?」
セイバーは衛宮邸に訪ねてくる客人に、切嗣の知り合いと言い繕い誤魔化している。初めは不審そうにセイバーを眺めるが、ああそうか、と思い出したように納得するのだ。
切嗣さんのね、と。
しかし、サーヴァントの気配を纏わせ訪ねてくる客は、セイバー自身がただのヒトではないと最初から知っている。
サーヴァントは、実体化していればサーヴァントにより察知できる。
セイバーの目の前にいる少女と女性。それは聖杯戦争の参加者に他ならない。
「サクラ――!」
目を拘束具で覆った女性は少女を背中に庇い、セイバーと対峙する。
じゃらり、と釘に繋がる鎖が音を立てた。
「ライダー、どいて、先輩が……っ」
「サクラ!!」
ライダーと呼ばれた女性は、錯乱気味の少女を諫めようと大声を出す。
「あ……」
「……サクラ。落ち着いて。そうでなければ、私はあなたを守れない」
ごめんなさい、と少女は俯き、ライダーから離れる。
「もういいの?」
セイバーはふたりの様子をただ見ているだけで、その場から一歩すら動いていない。侵入者であれば問答無用で切り捨てるのだが、桜と呼ばれた少女の“先輩”という言葉に、セイバーはこの屋敷の主である衛宮士郎を思い浮かべていた。もし彼の知り合いであるというのなら、セイバーから手を出すわけにはいかないだろう。
「――サクラ。許可を」
「きょ、か? なにを……?」
「目の前の女性は、サーヴァントです。戦闘の許可を」
ライダーの言葉に、桜はセイバーに視線を向けた。
今にも斬りかかってきそうな……という雰囲気はない。庭の中央で穏やかに佇んでいる。話し合いの余地は残っている、と桜考え、ライダーに告げた。
「少し待って。……話したいことがあるから」
「それは……。しかし、マスターならまだしも、相手はサーヴァントです」
「お願い、ライダー……。ここは先輩の家なの。先輩には、危険なところにいて欲しくない」
桜の必死な訴えに、ライダーは逡巡する。目の前のサーヴァントからは、確かに殺気や敵意は感じないのだ。
「それで、こんな朝早くにどうしたの? わたしに用があるならそれでいいけど、士郎目当てならわたしが相手になるよ」
士郎、という言葉に、桜はびくりと肩を震わせる。
「しろう……? 先輩――先輩がマスター、なんですか?」
「そうよー。知らないで来たの? 迂闊ねえ、サクラちゃん」
「そん、な」
信じられない、と桜は首を振る。
「先輩は魔術師じゃない……マスターになんかなれるはずない!」
「うん。士郎は魔術師じゃなくて、魔術使い。そしてわたしの……セイバーのマスターだった」
「だった……?」
「ああ、だった、じゃないのかなあ。今もマスターか」
セイバーの台詞に、桜は嫌な予感が掠める。
「先輩は……衛宮士郎は、無事なんですよね」
「……?」
セイバーは眉をひそめ、表情に疑問の色を浮かべた。そしてそれに気付いたのか、ああ、と手を鳴らす。
「そっか、まだ知らないのか。道理で話が読めなわけだ。昨日のあれで関係者に伝わってると思ってたのに」
「――だから! 先輩はどこにいるんですか! 無事なんでしょう!?」
桜の怒鳴り声にセイバーは顔をしかめる。
「士郎? 死んだよ。昨日ランサーに殺されちゃった」
……その瞬間、桜は世界が崩壊してゆくのを感じた。
唯一の支えであった衛宮士郎。彼が死んだと、セイバーは告げたのだ。
「――――」
ああ、と桜は喘ぐ。
「うそ……」
「ほんと。信じたくないのはわたしも同じだけど、心臓周辺の肉まで丸ごと抉られたら死ぬしかないでしょう?」
「あなたが……サーヴァントがいたのに、どうして先輩が死ぬんですか!?」
それはセイバー自身、最も悔いていることだった。
もっと早くに呼ばれていれば……、と。
「どうして、どうして先輩が……!」
桜は膝を折る。
彼女にとって、衛宮士郎は生きるための道標だった。暗く閉ざされた未来に、唯一差す光。衛宮士郎の背中を追っていけば、いずれ自分もそうなれると信じて生きていた。
セイバーの言うことが虚言とも一瞬考えたが、桜はそれを否定した。彼女は自分の知る誰かによく似ている。頑固で、素直で、いつも追い続けていた誰かに。だからセイバーの言うことが真実だろうと、それを理解してしまったのだ。
「ライダー……ねえ、ライダー……。先輩、もういないんだって……」
力無く呟く桜を見て、ライダーはぎりと歯を軋ませる。
「セイバー、と言いましたか。――なんのつもりです」
「なにが?」
「マスターが死んだと、あなたは言っている。だというのに消えていないのは、どういうことですか。マスターを失ったサーヴァントが現界できるのは、精々が一時間。それはつまり、マスターはまだ健在だということでしょう、セイバー」
ライダーのその言葉は、桜は希望を与えた。そう、サーヴァントが消えていないならば、それはマスターとの契約も変わらず続いているということ。
「あー……そんなこと。それはねー」
――サーヴァント・セイバーの寄り代となったのは、衛宮士郎の死であり、衛宮士郎のなきがらそのものだった。
“セイバー”自身に最も深く関わるもの。根底にある初期原動であり、しかしそれは皮肉にも彼女を呼び出す鍵となってしまっていた。
――衛宮士郎の味方。
英霊■■■■の願いは決して叶うことはないのだとでも言うかのように。
「……ひみつ。“敵”にそんなことを教えるほど不用心じゃないしー」
じゃらと鎖の擦れる音。
ライダーは縋るように身を寄せる桜をそっと引き離し、主人へと告げる。
「サクラ……もう待てません。セイバーは私たちを敵と認識している。これ以上の問答は無意味でしょう」
「ライ、ダー……?」
「――離れていて下さい、サクラ」
じゃ、と地面を抉り、ライダーの姿は掻き消えた。
抜く手も霞むセイバーの抜刀。飛来する釘を打ち落とし、間合いを取るように飛び退く。
「朝早く、しかもこんな場所で戦うなんて、勇気のあるねー、ライダー?」
「減らず口を――!」
縦横無尽、変則的に迫り来るライダーの短剣と鎖。釘に気を取られれば鎖に刀を絡め取られ、鎖を警戒すれば釘の一撃がセイバーを襲う。
ライダーはその俊敏さを生かしを翻弄する。対しセイバーは悠然と構え、短剣だろうが鎖だろうが向かってくるものは全て叩き落としてゆく。
高速で交わる黒い影。鈍く響く剣戟。じゃらじゃらと絶え間なく鳴り続ける鎖の音。
桜はその戦いに引き込まれていた。
これがサーヴァントの戦い。これが英霊へと上り詰めたモノ同士の戦闘なのだと。
ライダーを呼び出し、最初に遭遇したサーヴァント。なんの因果か、そのマスターは桜の先輩であり、想い人である衛宮士郎。それも既に死んだと、セイバーは突き付けた。
桜はここに至り、僅かなりともあった戦う意志を完全に失ってしまった。
「もう、いやだ……こんなの……」
残酷な現実を知るくらいなら、兄の言うとおり屋敷に閉じこもっていれば良かったと桜は悔いた。
しかし、それももう遅い。
短剣と刀は火花を散らせ打ち鳴らされる。
たなびくように流れるライダーの長い髪は、さながら流星のようであった。
離れ、投擲し、弾き、躱し、近づき、薙ぎ払い、ライダーとセイバーは幾合も打ち合う。間合いの外から一撃を繰り出すライダー。それを刀で弾き踏み込むが、ライダーは間合いを外し、再びセイバーに襲いかかる。蜘蛛じみた動きをするライダーの俊敏さに、セイバーは押されているように見えた。
強靱な短剣と鎖は、セイバーの刀にも負けてはいなかった。それがなんの変哲もない鉄の塊であれば、刀の一閃で断ち切られている。やはり英霊の武装というべきか、ただの短剣ではないのだろう。
「なんかあれみたいだね。武蔵対梅軒。知ってる? 宍戸梅軒」
「生憎と歴史には疎いもので」
ぎゃら、と音を立てて短剣はセイバーに迫る。
ライダーの投擲する巨大な釘は、避けることができない。回避不可能というわけではないのだが、避ければその軌道を変え、まるで生きているかのように向かってくるのだ。ならば最初の一手で全て弾くほか無い。
「知らないのー? あなたによく似た武器を使う武芸者なんだけどね」
宍戸梅軒の使う鎖鎌をライダーの短剣と重ねているのだろう、セイバーはにやりと笑った。
「佐々木小次郎とも近いうちにやりあうし……さながら巌流島の戦いねえ。こりゃ十兵衛じゃなくて武蔵って名乗った方がいいかなー」
セイバーは昨晩のことを思い出し、ライダーが宍戸梅軒となるならばランサーは宝蔵院の胤栄かと、頬をゆるませる。
「戦いのさなか気を他に向けるとはいい度胸をしている――!」
地を這うような低空の踏み込み。
今までセイバーの間合いには一歩たりとも踏み込むことがなかったライダーは、一瞬でその距離を詰め、凶悪な釘の短剣を突き出す。手に握られた短剣ならば恐ろしいものはないとセイバーは半身になり躱し、同時に刀を振るった。例えライダーの俊敏さを以てしても避けきることのできない一撃。――そのはずだった。
しかしセイバーの刃は、鎖にやんわりと受け止められた。渾身の力を込めた一撃、その衝撃を悉く吸収し尽くし、理解させるいとまもなくライダーはぐるりと刀に鎖を巻き付ける。
「く……!」
絡め弾かれる寸前に刀を引き、セイバーはライダーへと袈裟に切り込む。十分な体制で打ち込むことのできなかったそれは軽くいなされ、ライダーは再び距離を取って釘を放つ。
「っせあ!」
ぎゃりん、と死角からの釘の一撃を弾き、続く鎖のうねりも薙ぎ払う。
瞬間、僅かに鎖がゆるんだ。
この短剣は非常に厄介。ならばまずはそれを断ち切る――!
「――I am the bone of my sword.」
其が一振りは無双の剣、と。
セイバーは告げた。
/15
朝も早い公園に、ひとりの少女の姿があった。
黒のジーンズスカートに色の褪めた皮のジャケットを羽織り、黄金をまぶしたような髪をうしろでひとつに束ね、穏やかに瞼を閉じて佇む。荒々しい様相の中にあり、それは美しく際立つ。人を遠ざける雰囲気を持ちながら、しかし惹き付ける魅力も漂わせていた。
やがて待ち人が現れ、彫像のように微動だにしなかった少女は、すうと視線を公園の入り口に向ける。
「……久しいな、騎士王」
「ええ。久しぶりですね、英雄王」
英雄王、と呼ばれた青年は、少女の刺々しい物言いに顔をしかめた。
「ふむ。そうか、その名は既に捨てたのだったな。……まあ、我もまた、英雄王などと言われて嬉しいものではないが。謝罪しよう、アルトリア」
青年の素直な言葉は、少女の予想にないものだった。
「……随分と丸くなったものですね、ギルガメッシュ」
「ふん。我は元々このような人間だ。呪いの毒のおかげでしばらく気が立っていたが、まあ、あのときの我はどうかしていた。許せよ、アルトリア。本心ではあるが、本気ではない」
「……そうですか。では、忘れることにしましょう」
それがいい、と英雄王――ギルガメッシュは頷く。
「それで、こんな朝早く呼び出して、なにか用か?」
「ええ。聞きたいことがあります」
「うむ。なんでも聞け。知っていることなら話すし、知らぬことでも一緒に悩んでやろう」
「…………」
アルトリアはギルガメッシュの印象の修正に加える。この数年で、やはり少しばかり性格が丸くなっているようだった。いや、彼の言葉を信じるなら、十年前から数年間の高慢で不遜で唯我独尊なギルガメッシュのほうがおかしかった、ということなのだろう。
「どうした」
「――いえ。なんでもありません」
「そうか。して、聞きたいこととはなんだ?」
「はい。聖杯戦争――それが再び始まったのは、知っていますね」
「ああ。過去経験しているからな。この禍々しい空気、忘れるはずもない」
アルトリアと同じく十年前の聖杯戦争に呼び出された青年、英雄王ギルガメッシュ。彼もまた、現世に受肉したひとりだった。
「参加、するのですか?」
親の敵を目の前にしたような視線に、ギルガメッシュは肩をすくめる。
「そう睨むな。確かにアレが他の者の手に渡るというのなら、我は聖杯を手に入れる。あのようなもの、この我以外には相応しくない」
「ギルガメッシュ――!」
歩を引き、アルトリアは剣を構えるように腰を落とす。
変わってなどいなかったのか――、と少女は青年に落胆を覚えた。
「まあ待て。我以外に相応しくはないが……、ふん、聖杯など欲しくもないわ」
「矛盾している。聖杯を手に入れると、あなたはそう答えた」
「“他の者の手に渡るくらいなら”とな。誰も手にすることがなければ、それで構わん。もう一度破壊してしまうのも面白いだろう。――いや、それはそれでいいかもしれんな。聖杯を求め、目の前でそれを破壊されたマスターとサーヴァントを眺めるのも愉しそうだ」
ギルガメッシュの言葉に、アルトリアは驚いたように目を見開く。
「破壊――する、と?」
「アレは“現れてはならぬ聖杯”だ。どこでそうなったのかはわからんが、本来であればアレは確かに“聖杯”として機能する。誰かに与えるのは癪、しかし欲しいというわけでもない。加えてあの聖杯は二度と“聖杯”として現れることはない。そのようなもの、いっそ破壊してしまうのが最善だろう?」
「ギルガメッシュ……、あなたは……」
アルトリアは首を振り、頭ひとつ高いギルガメッシュを見上げる。
もしギルガメッシュが聖杯を己のものにしようとするのなら、アルトリアは全力を以て止めるつもりだった。勝てはしないまでも相打ちにまでは持っていける、そう考えていたのだ。
それも杞憂だったかと、少女は息をついた。
「――ええ。あのようなもの、破壊してしまうのが一番いい」
「ほう。気が合うな、アルトリア」
「そうですね。不本意ですが、このことに関しては、私達の意見は一致する」
不本意ですが、と念を入れるように少女は呟く。
「ならば手を組むか」
「…………仕方ありません。ひとりでできることなどたかが知れている。ギルガメッシュ、精々私の足を引っ張らぬように留意して下さい」
「ふん、無用な心配だな。我が足手まといになるはずがない」
そうだといいのですが、とアルトリアは呟く。
ギルガメッシュは聞こえなかったのか、まるで気にした様子もなく腕を組んで唸る。
「聖杯を破壊しようにも、現れなければどうしようもないな。しかし聖杯となる前に破壊すれば、あの泥があふれ出す。成ったあとでは遅すぎる。――どうする、アルトリア」
少女もまた腕を組み唸る。
「そもそも私達は、このシステムのことをよく知らない。聖杯の現れる理由、原理、場所……、とにかく情報が少なすぎます」
「確かにな。まさか一度破壊された聖杯が再び現れるとは思いもしなかった。調べる必要もないだろうと、この十年暮らしていたのだが……」
「……私もです」
「まあ、そのことを悔やんでも仕方がない。それで、どうする。やはり参加して聖杯に辿り着くのがわかりやすいか?」
「そうでしょうね。しかしそれだとシロウと顔を合わせることに……」
アルトリアの呟いた名前にギルガメッシュはぴくりと反応する。
「シロウ? シロウというと……」
「……覚えていますか?」
「衛宮のところの小僧だろう。以前はよく遊んだな」
「ええ。昔は……キリツグが留守の時は、シロウの相手を任されました。最近屋敷の方を覗いてきましたが、随分と大きくなってましたね」
「我は街中でよく見かける。確かに子供の成長というのは早いな。それで、その士郎がどうしたのだ。顔を合わせる、と……」
「はい。シロウが、マスターになりました」
「――ほう」
「一応は魔術師の端くれ、戦争に巻き込まれないかと心配で昨夜屋敷の方に向かったのですが……、そこで、召喚時の魔力の残滓を感じました」
「そうか……、士郎がマスターとなったか」
「はい……」
アルトリアとギルガメッシュは黙り込む。
弟のような存在であった衛宮士郎が、聖杯戦争へと参加する。ともすれば殺されるようなこともありえるだの。心中穏やかであるはずがない。
「士郎は聖杯を求めるか?」
「いいえ。――と、言えるはずです」
「だろうな。あの切嗣の息子、己の欲など大したものではないだろう」
ふん、とギルガメッシュは満足そうに頷く。
「では協力する、と?」
「…………」
アルトリアは言葉を淀ませる。
共に戦えるというのだろうか。肩を並べて歩む資格があるのだろうか。それが少女に即答を躊躇わせた。
「気にしているのか? 十年前の惨劇を」
「…………」
少女は俯き、青年の言葉には答えない。
「アレを願ったのは言峰。聖杯を破壊したおまえに責はないだろう」
「しかし……」
「まあ、気にするのは構わん。……士郎に直接尋ねてみるがいい。あれは親に似て女に甘いからな、涙のひとつも見せれば抱いて慰めてくれるだろうよ」
「ギ、ギルガメッシュ、あなたは……!」
顔を赤くして詰め寄る少女の手を躱し、とんと地面を蹴って飛び退く。
「ふん。――さて、話は一旦終わりだ。我はこれから道場に向かわねばならんのでな」
「道場? そういえばトレーニングウェアで、ジョギングの最中のようでしたね。なにか習い事でも――あ、あなたが!? ……信じられない」
「……我が道場に行ってはおかしいか、騎士王。日本の武道を舐めているようだな」
「い、いえ、そういうわけではないのですが……。どうも、あなたのイメージに合わないもので」
それはわかっている、とギルガメッシュは苦い顔で返す。
「自分でも似合わんと思っている。しかし、それを学んでいるからこそ、いまの我があるのだ」
「……どういうことです?」
疑問を浮かべるアルトリアに、ギルガメッシュは、うむ、と唸る。
「武道は敵に勝つためのものではなく、己に克つためのもの。泥を受けた精神を洗うには、まさにそれが必要だった。いろいろと習ったぞ。剣に合気に居合に空手……それとやはり弓だな」
引き絞り放つ動作を見せるギルガメッシュに、呆れているのか感心しているのか、はあ、とアルトリアは声を漏らす。
「弓、ですか。たしかにあなたはアーチャーでしたが」
「ああ。しかしアルトリア、おまえも泥を受けたというのに、あまり変わらなかったな」
「ええ、それはそうでしょう。あなたのような隙だらけの精神とは、鍛え方が違いますから」
「――む。そうか」
ギルガメッシュは言い返さない。隙だらけというのは言い得て妙、たしかに思い当たる節はあった。
「ときにアルトリア、なにか習ってみる気はないか? これはこれでいい運動になるぞ」
「……そうですね。というか今はそんな状況でも……」
「剣道……はもう“セイバー”には不要か。ならば空手はどうだ?」
ギルガメッシュは腰を落として拳を突き出す。流れるように型を披露するが、いやに様になっていた。アルトリアはまたも「はあ」と声を漏らす。
「……凄いですね。どの型を見ても軸がぶれていない。それだけのものを身につけるのは、苦労したでしょう」
「苦労というほどのものではない。毎日毎日繰り返していれば、誰でも辿り着く」
苦労ではなく努力、――なんて似合わない。とアルトリアはため息をつく。
「これから道場に向かうが、見学しに来るか?」
「……行きましょう。まあ、これから行動を共にするわけですし」
「そうか。……そろそろ時間も無い。少し走るぞ」
言って青年は少女に背中を向けて走り出す。
信じられない、似合わない、なんでそんなことに、とアルトリアはぶつぶつ言いながら、軽快に歩を刻むギルガメッシュの背中を追った。