旅は道連れ 序幕〜ギル様悠々イギリス紀行〜 傾向:シリアス(?)


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1: 九 千介 (2004/04/09 01:02:38)[sensuke_9 at hotmai.com]

 ロンドンのヴィクトリア・コーチ駅からバスで二時間半ほど揺られるとブリストルに着く。そこからローカルバスに乗り換えれば、グラストンベリまでは残り一時間と少しであるらしい。
 ぱたん、と、聞こえよがしにガイドブックを閉じる。
 丁度そのグラストンベリへのローカルバスの車内である。まばらな車内に響き渡る乾いた本の音が空気を震わせた。
 観光という観光はあらかた終わり、もはや頭の片隅からも消えかけていた程度の用事を済ますのに片道四時間近くも浪費してしまうというのは、もったいなくもあり、また楽しくもある。
 車窓の外を流れる景色は、見ていて飽きない。
 同じような山林。同じような石造りの建物。同じような人の営み。
 どれも似たようなものではあるが、しかしそれ故に差異を見つけることができ、そうした些細な変化が目を潤す。
 さらに、道のりの大半は石畳すら敷いていない剥き身の悪路だったが、体に伝わってくる不規則な振動は揺り椅子を思わせ、悪い心地はしない。
 この国を観光してわかったことが二つある。一つは食事が酷く雑であるということと――もう一つは、それを差し引いても守るべき伝統と華美(気品と言い換えてもいい)が、未だ脈々と受け継がれている、ということだ。
「ふむ……悪くない」
 この国にきて何度目かの同じ台詞を吐息とともに吐き出して、その男は小さく唇の端を歪ませた。




/旅は道連れ 序幕〜ギル様悠々イギリス紀行〜




 悪くはない景色を眺めながら、左腕を胸元に寄せる。メッキか本金かは知れないが、過度に光沢を放つ腕時計の文字盤の上では、同じく黄金色の短針と長針が丁度重なっていた。
 見れば日も真上にさしかかっている。
 男は黒いスラックスに胸元を開いたワイシャツで、その上に黒地に白いラインが両腕に入っている薄手のジャンパーを羽織っている。黒いライダーブーツが、バスの振動に合わせて小刻みに床を叩いている。
 ラフな格好だったが、鋭い、抜き身の刃を思わせるこの男にはむしろ似合いすぎると言ってもいいだろう。事実、寂れたバスに乗り合わせた乗客たちも奇異の目は向けてはこない。
(さて、どうしたものか……)
 声には出さずそう呟いて、男は再び流れる景色に視線を戻した。
 さして目的があるわけでもない――と言えば嘘になるが、実際のところ目的などないと言ってしまってもいいほどに、この予定外の観光は重要性を持たなかった。
 少なくとも彼が「興味本位でレストランで一番高い食事と一番安い食事を食べ比べ」たり、「興味本位でパントマイマーのショウを立ち止まって見」たり、「興味本位でビッグベン・タワーを見物し」たりすることよりは、彼にとってはどうでもいいことだった。
 それは例えるなら、朝起きて居候先の家主が作った朝食がすでにテーブルに並んでいるように、”すでにそこにあるべきもの”を確認するだけの作業に他ならなかった。
 彼自身がそれを確かめるためだけに大層な時間をかけてロンドンのホテルの滞在期間を一日延ばすことを考えれば、正直言って重要ではないどころか無駄な作業であると言ってもいいくらいだった。
 だが、だからなのだろうか。元より予定表の隅にも書かれていなかったグラストンベリ観光などを不意に取り決めたのは。
 人間は有限の生を生きるが故に、無駄な時間や空間を好む。それは長く暮らしてきた国――日本での年月や、ほんの二間ほどではあるが滞在し、観光してきたこのイギリスでも感じたことではある。
 彼自身、華美であればそれが無為無味なものであろうと好む習性であったので、それがわからないわけではない。
 一ヶ月ほど前に日本を出て、何とはなしに行き先はイギリスと決めていた。日本に居場所がないわけではなく――もちろん、大手を振って街を歩けるというわけでもなかったが ――、久しぶりに世界を見て回ろうと思ったのだ。
 どこと国を決めていたわけではないので、縁あればこの国にも足を運ぶことになろう、と最初は考えていたのだが……

(自身、未だ断ち切れていないというわけか)

 こつこつ、と窓枠を叩く。依然、車窓は果てのない風景フィルムを回し続けている。
 実を言うと、グラストンベリは最も避けていた土地だった。ウィンチェスターよりもティンタジェルよりも、このグラストンベリはその存在を想起することすら無意識下で拒否していたと、自分でも思えるほどだった。
 行けば必ず思い出すだろうし、行かなくてもいずれはそこで起きるだろうことは伝わってくる。自らはそういう位置にいる存在だし、それに興味がまるでないということもない。
むしろその逆で、決して忘れることのできない記憶の類がそれであった。ただ、今すぐにそれと向き合う気にはなれないと、そういうことだ。
 だというのに、この高揚はなんだというのか。明らかにわかりきった結果を心待ちにしている自分がいる。
 無論、そんなことを例え空想の中でも認める彼ではなかったが、十年来感じていなかったこの高揚感は誤魔化しようもない。
 焦がれた、というほど欲していたわけではないが無視を決め込めるほど価値のないものでもない。

(つまり、あれだ)

 男は流れる景色を目で追いながら、ようやく認めた。
 つまりは、そういうことなのだ。

(存外と俗な感情ではあるが――)

 なんとはなしに、前を見る。
 と、計ったかのようにバスが速度を落とし始める。同時に、窓の景色に石造りの建物が増え始めた。ようやく到着らしい。
 ネットの上に上げていたリュックを下ろし、座ったまま肩にかける。
 やがてバスは止まり、わずかにいた乗客が降り始める。男はその一番最後にバスを降りた。

(俗な感情ではあるのだが――)

 空想で呟いた言葉を、もう一度繰り返す。

(要するに、野次馬根性というわけだ)

 酔狂なことよ、と付け足す。バスは背後でドアを閉め、足早に走り去って行った。後には、散っていった乗客の残りと、通りを行き交う数人の人影が残るのみだ。
 男はリュックをかけなおすと、歩き出した。石畳の感触がブーツの底を通して伝わってくる。
 滞在時間は長くはない。目指す場所は決まっていた。とりあえず、と足を踏み出す。
 歩きながら、独りごちた。

「まったく。男を待たせるとはたわけた女だ」

 古く、アーサー王の眠る地として伝えられるグラストンベリの通りを、男は歩く。
 喧騒はないが、にぎやかな町だ。そう男は思った。
 頭上に太陽を掲げたグラストンベリは、精一杯自己主張しているように見えた。石積みの家屋はその肌の荒れを隠すように白い光で照り輝き、通りには古めかしくも着飾った商店が軒を連ね、その気品ある華美を誇っている。
 柔らかな日差しを受けて、石畳も照っていた。ゆっくりとそこを歩けば、人によってはヴァージンロードを歩いているような錯覚を覚えるかもしれない。
 雑踏、と呼ぶにはいささか寂しいが、人通りもそれなりにある。静かながらも活気のある空気だ。

「わざわざ、この我に足を運ばせるとはな」

 本気とも冗句とも取れないような口調で言う。
 正午を過ぎたグラストンベリの緩やかな風が、男の金髪を揺らした。
 皮肉げにつりあがった目には、紅玉を思わせる真紅の瞳。ゆるく両端を持ち上げている剃刀のような印象を抱かせる唇。それらは自然、一つの感情を表しながらその行く先を見つめていた。

「もっとも、我はそこが気に入っているのだがな、セイバー」

 金色の魂を持つ男、英雄王ギルガメッシュはゆっくりと、伝説の眠る町の石畳を踏みしめていった。


/


「道を尋ねたい」

 通りにある古びたパン屋に入ってきた男は、その若い外見に似合わず尊大な口調で問うた。問い掛けられた老婦人は、初めこそ驚いたものの、やがて平静を取り戻し、「何」と穏やかな表情を向けてきた。
 古びた内装のパン屋で、店番はこの婦人独りだけである。小さな丸眼鏡をかけたしわだらけの顔が柔和に撓んだ。男が差し出した菓子パンを、なれた手つきで紙袋に詰める。

「グラストンベリ寺院には、どう行けばいい?」

 問いかけのそれと変わらない尊大な声で、男――ギルガメッシュが問う。

「こちらには観光に?」

「ああ……いや、知己がいてな。それを訪ねて来た」

 老婦人の言葉に首肯しかけて、言い直す。その様子に婦人は少し首を傾げたが、

「寺院へは、そこの角を右に折れればすぐに案内の地図が出てるはずよ。そう大きい町でもないから、すぐわかるでしょうけど」

「そうか、邪魔をした」

 それだけ言うと、ギルガメッシュはポケットから札を出して婦人に手渡した。

「釣りはいらん」

「あらあら」

 婦人はおどけたように手の中の、明らかに不等価な額の紙幣を見て言った。
 気をよくした婦人が尋ねる。

「寺院のお知り合い……ということはその方は神父様かしら? それともシスター?」

 早々に歩き去ろうとした男の背中に、婦人が声をかける。
 ギルガメッシュは入り口の手前で立ち止まり、体をひねって振り向いた。
 肩越しに見える口元にきゅ、とつりあがった笑みを浮かべて、

「惜しいな」

 と答える。

「アレは、聖職者ではない。尊いという点では、似ているかも知れんがな」

「あら。じゃあ、誰かしら?」

「……王だ」

 皮肉をそのまま表情にしたような顔をしたまま、金色の男は出て行った。
 後には店番の老婦人が残るばかり。ドアが閉まると、そこは再び元の静寂を取り戻していった。



 違和感を感じなかった。それこそが違和感である、と気づいたのは後のことだ。

「これは何の冗談だ?」

 声に含まれるものが、苛立ちよりもむしろ焦燥であることを認め、ギルガメッシュは寺院を見上げた。
 老婦人の案内を受けて十数分、ギルガメッシュの目の前にはグラストンベリ寺院があった。
 それは、かの英雄アーサー王の伝説を持つにはあまりに貧相に見えた。無論、そのたたずまいが示す神性は世界各地にある名だたる教会・寺院に比しても遜色ないものではあったのだが。

「これは何の冗談だ?」

 もう一度、ギルガメッシュは呟いた。彼が見上げているのは寺院ではない。
 いや、寺院を見ていることは間違いないが、正確にはそこに存在する霊的な気配をこそ、ギルガメッシュは見出していた。
 本来、寺院とは霊的に非常に安定している。それは、寺院であるからこそ安定した霊地である、と言うもできるし、安定した霊地であるからこそ寺院が建立された、と言うこともできる。グラストンベリの寺院の場合は、その両方と言ったところか。

(何故だ――?)

 その、霊的に「安定しすぎた」寺院をにらみつけながら、ギルガメッシュは立ち尽くしていた。
 安定しすぎている――それこそが違和感だった。
 どこを見ても、寺院を中心としたこのグラストンベリは霊脈の流れに乱れがない。それはこの町に入ったときから感じていたことだ。
 しかし――

(それではおかしいのだ)

 と、胸中でつぶやく。
 霊的に安定している。霊脈の乱れがない。安定している。乱れない。
 



 何も、起こらない。




 グラストンベリの町は、わずかな雑踏を除けばおおむね平和だった。
 それは通常の、魔術や秘蹟と何のかかわりもない生活を送る人間にとっても、そして魔術や秘蹟に常から関わるものにとっても、何の変化も起こらない平和な町、だった。
 それがギルガメッシュを焦らせる。
 あるべきものがない、起こるべきことが起こらない、というそれは、まるで足元がガラスの回廊に変じたような焦燥を募らせる。

(この地にある魔力の流れは、通常の寺院教会にあるものと大差ない……何故だ?)

 黙考する。
 本来ここにあるべき事象が、事実ここにはない。

(では、だからどうだというのだ?)

 最も有力な仮説は、ここにあるべき事象がここでは起こらず、どこか別の場所で起こった、ということだろう。
 その事象の性質を考えれば、それが「起こらない」という可能性は考えられない。とすれば、ここで本来起こるはずの「何か」はどこか別の場所で起こっている、ということだ。

(ならば、それはどこか――)

 円卓の在る町、ウィンチェースターか。それとも伝説の眠る地、ティンタジェルか。
 答えはどれも否、だった。
 起こるべきことは起こるべき場所で。
 今、この地でそれがないというならば、もっと別に起こるべき場所がある。
 それはどこか。
 ならばそれはどこか。
 それは――
 王の記憶が最も新しく残る場所――

「――日本か!」

 口の中で噛み潰すように言ったその言葉に、黄金の英雄王ははっと気づいたように、普段通りの鋭利な笑みを浮かべた。



序幕:終

2: 九 千介 (2004/04/09 01:08:08)[sensuke_9 at hotmai.com]

はじめまして。九 千介(ここのつ せんすけ)と申します。
普段からこの掲示板は拝見させていただいていましたが、皆さんの書かれる面白&素敵なSSの数々に触発され、この度私も投稿させていただいた次第です。

何分、こういうシリアス傾向(自分ではほのぼのを目指してるんですが)を書くのは数年ぶり、かつ文才なぞとうの昔に見限った身ですので、不備など御座いましたらどしどし言っていただきたいと思います。ダメダメなりにがんばっていこうと思いますので。

さて、この「旅は道連れ」ですが、実は試作品でして。
不完全なまま、というわけではありませんが、もしかしたら改稿なり何なりをするかもしれません。
そもそもこのSSはセイバーED後を想定していまして、序幕、とついているとおり連作の予定です。
遅筆、かつ退屈なSSではありますが、暇つぶしにでも読んでいただけるレベルになれば、と思いできるだけ途中で諦めず続けていこうと思います。

長くなりましたが、今後ともよろしくお願いします。
九 千介でした。

3: 九 千介 (2004/04/11 01:29:03)[sensuke_9 at hotmail.com]





運命がカードを混ぜ、われわれが勝負する

byショーペンハウエル




その日、衛宮士郎の目覚めは夜明け前に訪れた。
目を開ければ見慣れた天井。どうやら土蔵での鍛錬後そのまま眠ってしまったわけではないらしい。
軽く頭を振って、意識を覚醒させる。
ぼやけていた視界が徐々に輪郭を取り戻し、数秒も経たないうちに完全な世界を作り上げる。
窓から差し込む光は蒼白く、まだ夜明け前か直後といった感じだった。
時は四月。早朝の空気は鋭くはあったが、身を刺すほどの寒さはもうない。元より冬木の土地は、冬もさほど寒くはならない土地なので
上半身だけを起こした姿勢のまま、枕もとの目覚まし時計を手元に引き寄せる。
古式ゆかしい、左右に取り付けられたベルを備え付けの小さなハンマーが往復して、けたたましい騒音を撒き散らす種類のものだ。針は五時を少し回ったところを指していた。
驚くほどの早起き、というわけではないが、それでも普段よりは若干早い時間だ。
ぽりぽりと、することもないので頭をかきながら目の前の空間を見る。
見慣れた部屋である。必要最低限の調度品しか――ことによれば必要最低限の調度品すら――ない、閑散とした和室。これが私室だと言ったところで、少なくとも同年代の人間にとっては信じられないだろう。
(そういえば、あいつも最初は驚いてたな……)
ぼんやりとした頭でそんなことを思う。そして――無理やりその思考を意識の奥に押し込めた。
ゆっくりと布団をはがして立ち上がり、伸びをする。
多少の疲労を溜め込んだ身体は、その動作にわずかな軋みをあげるがそれもすぐに収まった。
朝の空気が思考をクリアにしていく。
自分の足と――目の前の壁と――天井と。順に見やり、そして最後に隣室との境目にある襖を一瞥する。
使われない部屋。
住人のいなくなった隣室へ続く襖を開けたことは、この二ヶ月でただの一度もなかった。
そこは二ヶ月前から時を閉じ込めたような――むしろ意図してそうしようとしたかのように、不可侵の気配を孕んでいる。
記憶の中にしまいこんだ思い出を、現実の風にさらして風化させたくなかったのか……それとも、思い出は思い出のまま薄れていくのを待とうとしたのか。
その意味では、土蔵で寝入ってしまわなかったのは僥倖と言えた。
二ヶ月前の、一切合財の思い出の詰まったあの場所で見る夢は、大抵決まっていたから。
(セイバー……)
胸中でつぶやき、かぶりを振る。
浸っている暇はない。思い出すまいとしているわけでもないが、かといって思い出に逃避するほど磨耗してもいない。
「さて、桜が来る前に飯の準備でもしておくかな。いつも起こされてばっかりだし――」
言って、部屋を出る。
背後にわずかな未練を残しながら、衛宮士郎は後ろ手に入り口を閉じた。




旅は道連れ〜ギル様悠々衛宮家奇行〜
第一幕「王様、旅から帰る」




とんとん、と軽快な音が台所を満たしている。
メニューは白米に味噌汁、サワラの照り焼き、ヒジキの和え物。和食である。自然、和食派の士郎にとっては力を入れる場面だ。
使い慣れたエプロンを、鎧でも着込むような気概で装着し、まな板と包丁を用意すればあとは食材を刻んで焼いて盛り付けるだけ。
照り焼きに使うタレも、出来は上々だった。
「うん、これはいいな。これならアイツも……」
喜ぶだろう、と言いかけて、やめた。
タレの入ったパットを奥に押しやり、嘆息する。
その嘆息すら、次の嘆息を招く呼び水になりかねないと感じながらも、それをするのはもはや日課になっていた。
そして、それがもたらす憂鬱にも似た空気を振り払うことから、士郎の一日は始まる。
未練がない、と言った言葉に嘘はない。
それだけは自信を持って言えた。たとえそれが虚勢の上に我慢を重ねた結果出た言葉だったとしても、偽りだけは含んでいない。
しかし、言葉で感情が御せるのなら人生に煩悶など起ころうはずもなく――
つまりは、彼女のいなくなったその空間と、それを認めざるを得ない衛宮士郎の心にぽっかりと空いた空隙。そこを満たす寂しさという名の感情だけは、未練とはまた違う痛苦を日々、彼の心に強いる。
正直に言えば、衛宮士郎はその感情を恐れていた。
毎夜思い出す彼女の顔、言葉。そしてそれらが二度と得られないと認識する瞬間。
何よりも、その喪失感が自らの心を砕いてしまうのではないか、という確信にも似た予想が、士郎を土蔵や隣室から遠ざけていた。
渇望が、狂おしいほどの後悔が、封じ込めていた心の奥底にあったのだとしたら。
あの時、本当は彼女の腕を取り、その場から逃げ出してしまえばよかったのではないのか。
それはしてはいけないと、確かにそのときは思った。そしてそれは正しいことだったと信じている。
だが、正しいということは、納得できるということと等号では結ばれない。
未だ彼女を求めるこの心は偽りでない。自分のしたことにも後悔はしていない。
しかし、自分の心を裏切ったことに対しても後悔していないと言い切れるだろうか?
未練などない、と言い切ることでその感情を押し込めていたのだとしたら。
そして、それが何かの拍子で溢れてきてしまえば……衛宮士郎は壊れてしまうかもしれない。
忘れたくないのに、思い出したくない。
矛盾する願望と逃げ場のない焦燥。それらを――
「困ったことに、まだ断ち切れてないってことなんだろうな……」
皮肉げに笑い飛ばし誤魔化すことしかできなかった。


/


定刻通り、と言っても間違いではないくらいいつもと同じ時間に、後輩である間桐桜は衛宮邸にやってきた。
そのままあがりこんでもいい、と言うのにいつまでも呼び鈴を鳴らして入ってくる少女に苦笑しながら、それを迎え入れる。
「珍しいですね、先輩が先に起きて、しかも朝ごはんまでもう用意されてるなんて?」
「そうか?」
もう八割方準備の終わった朝食を前にして、桜はそんなことを言ってくる。
淡い紫色の長髪をした、穏やかな笑顔の少女である。制服を着込み、型にはまったようにきちんとした身なりが、もはや個性といってもいいほどに似合っている。
ともすれば実年齢より高く見られるような色気のある容姿をしていながら、その実纏う空気は明らかに年下のそれ、というアンバランスな魅力を持っているのが間桐桜という少女だ。
はい、と、少し不満気な声で桜が答える。リボンがふわり、と揺れた。
「少し前までは、私が先輩を起こして一緒に朝ご飯を作る、っていうのが日課でしたから」
なんだかさびしいです、という最後の言葉だけはもごもごと口の中で消化する。無論士郎には聞こえない。
「そうだったかな……でも、いいじゃないか。俺が土蔵で寝てたりすると桜、怒るだろう?」
「う……それはそうですけど」
「それに、いつまでも桜に迷惑かけてばっかりじゃ先輩としての威厳もなくなっちまうからな。せめて起きて飯作るくらいはやらないとさ」
「うー」
なにやらうめく桜を尻目に、士郎は出来上がった朝食を居間に運んでいった。
茶碗も箸も四人分。五人目の分を用意しようとしてふと、彼女の顔が浮かんではそれを振り払う、といったことも最近ではなくなってきている。
「今日は和食なんですね」
と、盆に四人分の魚の照り焼きを乗せて運んできた桜が言った。
「ああ、今日は遠坂も来ないし、洋食派はいないだろ」
「そうですね。遠坂先輩、朝弱いですから」
「イリヤは、和食でも洋食でも関係なしだしな」
「育ち盛りなんですよ。それに、先輩のご飯はおいしいですから。和食でも洋食でも関係なし、です」
くすりと笑いながら応える。
二ヶ月前の聖杯戦争を経て、衛宮家では大きな変化が起こった。
そのうちの一つが、士郎の魔術の師である遠坂凛の半居候化であり、もう一つが士郎の父・衛宮切嗣の娘という触れ込みで士郎の家族となったイリヤスフィール・フォン・アインツベル――イリヤの存在である。
遠坂凛に関しては、こういう関係は聖杯戦争が終わればきっぱりなくなるものだと思っていたが、どうやら凛にとっては違うらしかった。
年頃の女子が男の一人暮らしの男の家に泊まりこむとは何事かー、というのは士郎の姉代わりでもある藤ねえの言だが、最近ではお目付け役として、凛が泊まりに来るときには桜に連絡をつけて同じように泊まらせるというのが通例になっている。
曰く、「最大の譲歩」であるらしい。
藤ねえの「年頃の女子」の範疇に桜は入っていないのか。そのあたりは甚だ疑問ではあるが、桜も文句ひとつ言わず(むしろ嬉々として)やってくるので、士郎ももはや口の挟めない状態だ。
それはともかくとして、凛が泊り込んだ翌日はたいていが洋食で始まることになる。
何故なら、家主の意向などまるで無視して我が物顔で衛宮家を占拠する遠坂凛こと通称「赤い悪魔」が洋食派だからである。
そんなわけで、遠坂がいない朝は極力和食にしよう、というのが士郎の考えだった。彼女は朝に極端に弱く、早朝から衛宮家に押しかけてくることはほとんどないので、彼女が泊まりにきていないということは自然、朝は和食ということになる。
たまにイリヤがメニューの要望を(半ば強制的な勢いで)出してくることもあるが、頻度としてはたいしたことはない。
「さて、これで準備は完了だな」
「そうですね。でも、先輩……」
桜が、目の前に並べられた朝食を目線で指して言ってきた。
「うん?」
「これ、一人分多くありません?」
「? なんでさ。四人分であってるだろ。遠坂がいないんだから、俺、桜、藤ねえ、イリヤで四人……あ」
指折り数えて、そこで気づく。
「そうか、今日は藤ねえ……」
「はい。早朝の職員会議で、朝ご飯はいらないって昨日」
「あちゃあ。そういえばそうだった。昨日の晩飯の時そんなこと言ってたなぁ」
と、額をぱしんとたたく。
まがりなりにも教師であった藤村大河という人物を再認識する。裏を返せば、普段はそんなことをまるで意識していないということなのだが。
「うーん。どうしようか。捨てちゃうのももったいないしな……」
「お弁当にでもしますか?」
「いや、それもなぁ。照り焼きって、さめると不味いぞ」
渋い顔で返す。
と――

ピンポーン

呼び鈴が鳴った。
士郎と桜が目を合わせる。
「誰だろう……遠坂かな?」
「さあ……藤村先生が職員会議サボってきたんじゃ――」
「ありそうで怖いな」
言いながら、士郎が居間を出る。
「俺が出るから、ちょっと待っててくれるか」
背中に肯定の返事を受けながら、士郎は玄関へと続く廊下を歩き出した。
いつもと変わらない朝の風景を背に、廊下を進む。
いつもと変わらない風景。
そう。風景はいつも変わらずそこにある。変わったのは世界ではない。
彼女のいなくなった風景。それを見る自分。
彼女がいなくなった世界。それを認める自分。
そして――その世界を寂しいと感じてしまう自分。
そんな自分もいつか当たり前のように認めてしまえる時が来るのだろうか。
「…………は」
自嘲気味に吐息する。
人は変わる。それは仕方のないことだ。
この心の空隙も、いつかは埋まるのだろう。
でも、その空隙を作り出した彼女と過ごしたわずかな時間。それは後悔でもなんでもなく、ただひたすらに輝いていた。
宝石のような、時間。
それさえ忘れなければ、きっと彼女がここにいた意味はあったのだと、そう思う。
忘れることはできない。でも、乗り越えていくことはできる。
そう信じて、衛宮士郎は理想に向かって歩いていくのだ。

ピンポーン

知らず、足を止めていたらしい。
自分の部屋の前で彼女の――セイバーの姿を空想していた士郎を、二度目の呼び鈴が現実に引き戻す。

ピンポーン

「はいはい、今行くってば」
足早に歩きだす。程なく、玄関が見えた。かすりガラスの扉ごしに、背の高い痩躯の影が見える。

ピンポーン、ピンポーン、ピンポンピンポンピンポンピンピンピピピピピピピピ――

「だぁぁぁぁっ! 今出るからやめてくれ!」

半ば叫ぶように言って、士郎はがらりと戸を開けた。
そこには――
「久しいな、雑種」
神々しいと評しても何ら遜色のない――
「あ……」
「ん? どうした。顔色が悪いぞ、ちゃんと朝飯を食っているか? 朝飯は一日のスタートダッシュに欠かせぬものだからな。欠かさず食っておかねば学業にも支障が出よう。白米に味噌汁、ヒジキの和え物などが定番だな」
黄金の髪と真紅の瞳、整った顔に皮肉げな笑みを浮かべた――
「サワラの照り焼きなどがメインであれば、我としてはモアベターだが……ん、そういえば良い匂いがするな。どうせ貧相な食卓を囲んでいるのだろう。どうしてもというなら邪魔してやらんでもないぞ」
英雄王が立っていた。











後書きに名を借りた言い訳

二度目にお目にかかります。九 千介です。
序幕のイギリス編からいきなり場面が日本に飛びましたが、あれってば本当に「序」幕なので、実はなくてもいいレベルの話だったりします(汗
それでもやっぱりギル様(デフォルトで様付け)書きたかったので書いてしまいました。
よって、タイトルも違います。おそらく毎回違うと思います。
このSS、位置づけとしてはセイバーED後を想定したものですが、なぜギル様が消えたはずなのに生きてるのか、とかその他もろもろの設定については後々明らかにしていく予定です。
ただ、細部の設定などについては間違った部分もあるかもしれませんので、そこらへんは指摘してくだされば幸いです。
ちなみに序幕のグラストンベリの描写などについては、作者自身が行ったことない場所なのでまるっきり想像です(汗
ティンタジェルやウィンチェスターについては、「アーサー王伝説に関連のある町」程度の認識しかありません。
調べが甘いのは重々承知しておりますが、そこいらの不備に関してはご容赦くださいませ。
それでは、「第一幕その2」は近いうちにお届けできるかと思いますが、このSSを最後まで読んでくださったそこのあなた!
ありがとうございます。そして、できればこれからも九 千介をよろしくお願いします。


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