猫がいた。
子猫だ。
にゃーと鳴いた。
私は無視して通り過ぎることにした。
通り過ぎるときにすれ違った目が黒い綺麗な硝子球のようで。
紛うことなき子猫である。
灰色と黒の縞が愛らしい。
しかし、この場合愛らしさと子猫の置かれている状況についてはなんの因果も無い。
私は通り過ぎる。
通り過ぎたところで後ろからにゃー、と鳴き声が聞こえた。
にゃー。
にゃーにゃー。
一匹でダンボールの中。
にゃー。
愛らしい目。
にゃー。
今私はすごい馬鹿なことを考えている。
これは本当に馬鹿なことなので考察するにも値しない。
よって却下だ。
私は立ち止まりかけていた足を動かそうとした。
にゃー。
可愛い声。
にゃー。
振り返るとダンボール箱から出ようとしている小さい前足が見えた。
ああ、なるほど。
確かにあのまま箱の中から出られずにいたのでは困ったものだ。
自然に生きて自然淘汰されるならともかく、人為的に罠にはまってしまってはどうしようもない。
助けてあげることに問題はあるまい。
にゃー。
私は数歩戻って子猫を抱き上げた。
つぶらな瞳と視線が交わる。
“にゃー?”
・・・。
・・・・・・。
・・・・・・・・・・。
まあ、あれだ。
馬鹿なことと思っていたことが馬鹿なことだった。
シロウはイリヤと言う赤の他人かも知れない私を笑顔一つで家族と言ってくれる人間なのだ。
そのシロウが子猫一匹受け入れてくれないわけが無い。
タイガだってリンだってサクラだってライガだって優しいのだ。
うん。
にゃー。
家族が一匹増えても問題ないでしょう。
にぃ。
私は子猫を胸に抱いたまま家へと歩き出した。
私と、シロウと、そしてみんなの家へ。
にゃー。
にゃー。
にゃー♪
日本家屋と言うものは開放的である。
防犯上で言えばあまり好ましく無いのだろうが、しかし開放的であることに意味はいくつかあると思う。
例えば縁側とか。
縁側の何がいいって、そりゃあ空気がいい。
太陽と土と風と水と草と家の匂いがする。
そんなところで日向ぼっこしながら背伸びするなんて最高のぜいたくだ。
「ん〜っ♪」
そのままぽてん、と横になる。
ひさしに遮られて半分の空。雲は若干。青い空が70%以上。本日は晴天なり。
「いい天気だー」
私はゆっくりと瞼を閉じる。
世界は音と熱と匂いだけになった。
春の空気が世界を覆っている。
優しい空気と、怠惰な気配が幸せな空間を作り出す。
隣には新しい家族。
私とシロウにだけ懐いている。タイガのことを天敵と認めているあたり、人を見る目はあるらしい。
のんびりしていると入り口の方から誰かの帰ってきた音。
「ただいま〜」
これまたのんびりとした帰りの言葉。
私と相棒は同時に起き上がって大好きな家主の元へと駆け出した。
もそもそと私は布団から抜け出す。
畳の匂いがかすかに薫る。
眠い。
正直眠い。
お城に住んでいた頃にはそこまででも無かったのになんだろう、近頃は本当に眠い。
体の調子の問題かとも思ったが、リンに『五月病ね』ときっぱり言い切られた。調べたデータ検討しても全く持ってその通りとしか言い様がない。うむむ。参った。
「イリヤー。朝だぞー」
こんこん、とふすまを軽くノックする音。
「今起きるよー」
んぃ〜っと背伸びして私は立ち上がった。
うん、立ち上がると目は覚めてくる。
ではとりあえず朝食にでも向かいますか。
夜の道を歩くのは気分が良くなる。
綺麗な満月。
隣を歩くシロウ。
唯一不満があるとすれば星が少ないことだろうか。
まあ、そんなことも慣れてしまった。
コンビニでアイスを買って帰る途中の道。
そんな当たり前の日常が素晴らしい。
「なあイリヤ。アイスにはちと季節が早くないか?」
「食べたくなったのよ。何故か」
春といえども夜はまだ涼しい。
「シロウは何でついてきたの? 私だけでよかったのに」
「そういうわけにもいかないだろ。イリヤは女の子なんだから」
心配してくれたのか。
うん、シロウはやっぱり優しい。
「お兄ちゃん大好きだぞー!」
横っ飛びしてシロウに横から抱きつく。薄手の服ごしに感じる体温が心地よい。
「……大好き」
「あ〜……ありがとう。でも急がないとアイス溶けるぞ?」
顔を赤くさせているのだし照れ隠しなんだろうか。全く隠れてないのだけれど。
「そうだね、帰って早く食べようか」
私は軽くステップを踏みながら満月の下を歩く。
星の無い空。
満月の空。
シロウのいる空。