炎の勢いは激しく、街は瞬く間に赤一色に染まった。
遠くでサイレンを鳴らす消防も、こうなってしまえばもはや打つ手はない。更なる被害を防ぐだけで精一杯だろう。
つまりは手助けなど期待できないわけだ、と少年は今日何度目かの絶望を覚えた。
性質上、存在するだけで大量の酸素を消費する火は、それによって生み出される猛烈な突風を伴って、なおも燦々と世界を照らし続けていた。
それでなくとも煙や熱によって体力を奪われているのに、吹き付ける風は容赦なく、疲れ切った彼の体を容易く弄ぶ。
真っ直ぐ歩くことさえままならず、そもそもどちらに進めば良いのかさえも分からない。
それでも彼は、自分がまだマシな方だと思った。
炎に巻かれ、真っ黒に焦げた死体を幾つも見た。
高層ビルの上階から、昇ってくる火を逃れる為に次々と飛び降りる人々や、強風が運ぶ角材の破片にやられた者もいた。
物言わぬ彼等はまだ良い。
無惨な亡骸に吐き気を覚えるだけで済む。
何より少年を苦しめたのは、崩れた家屋に挟まれて動けずにいる夫婦や、ケガをして動けずにいる老人、死んだ母の胸に抱かれて泣き叫ぶ赤ん坊たちだった。
目があった。
助けを求められた。
彼等にはどうしても自分が必要だった。
だが、少年はそれを無視した。
理由はあった。彼自身も疲れ切っていた。
十にもならない子供の力で出来ることなど知れていた。
例えその場をしのげても、この火の速さでは到底逃げきれない。
無論、彼等にもそれは分かっているはずだった。
――それでも助けを求めるのは何故か。
少年は自分が泣いているのは煙が目に入った為だと思った。
見捨ててきた人々がそう考えてくれれば良い、とも。
少年は、自分が臆病で残酷で、弱虫であり、どれだけ理由を並べてもそれらが所詮屁理屈でしかないことを呪った。
ただ助けを呼ぶだけの彼等が、自分を口汚く罵ってくれないのが哀しかった。
ふらふらと風に押されるままに少年は進んだ。
あちらでもこちらでも同じ光景が繰り広げられている。
そしてまた、彼はそれらを見捨てて進むだけ。
少年はずっと前だけを見ていた。
右も見ない。
左も見ない。
まして振り返りなどしない。
余計なモノなど見たくなかった。
そのくせ目は閉じなかった。
それだけはしちゃいけないのだと少年は思ったのだ。
「助けて……」
声がした。
吹き荒ぶ風の音に掻き消されてしまうようなか細い声。
少年のすぐ目の前で、彼自身と同じぐらいの年齢の少女が瓦礫に埋もれていた。
彼は黙ってその横を通り過ぎる。
少女の絶望した顔。
火はもう間近に迫っている。
少年は足を速めた。
涙が出た。
煙が強い。
ナニカの焼ける嫌な匂いが漂ってくる。
僕は火から逃げただけだ、と彼は心の中で呟いた。
僕は悪くない。
僕は火から逃げただけだ。
息を止めて、泣きながら少年は走った。
煙が強かったから涙が次から次へと溢れてきた。声はもう、聞こえなかった。
それから暫くして、少年はついに炎に取り囲まれた。
完全に退路までもが塞がれてしまった。
逃げ道はない。
あったとしても、もう足が動かなかった。
その場にガクリと膝をつく。
肺が焼けたのか、息をすることもできない。
軽く咳き込んで、少年は血を吐いた。
体中、至る所が裂傷や火傷で傷だらけだった。
四方を囲んだ炎の壁は、殊更に急ぐでもなくじわりじわりと包囲を狭めてくる。
血液が沸騰するような高温でボーっとなりながら、少年は思った。
――死にたくない。
観念して目を閉じようなんて潔い考えは思いもつかない。
じっと、ただ一カ所だけ火の手が届かない空を見上げる。
「神様、僕を助けて下さい」
今日だけで、いったいどれだけの人が同じ祈りを捧げただろう。
そして何人が命を落としていくのだろう。
この街で、この国で、この星で。
誰もがどうか自分だけはと願ってる。
無論、この少年も。
死にたくなかった。
どうしてか、と聞かれても分からない。
ただ死にたくない。
死にたくない。
突然、灰色の雲に覆われた空が光った。
火の光とは明らかに違う色。
願いが通じたのか、否か。
力つきて少年は前のめりに倒れ込んだ。
ふと、その体を誰かが支える。
それが誰だか確かめる前に、彼は気を失った。
目が覚めて、少年は自分がまだ生きていることに気付いた。
それどころか、体には傷一つない。
あれほど重かった手足が、まるで羽でもついているかのように軽々と持ち上がる。
体の具合を確かめながら、ここは何処だろう、と少年は見知らぬ部屋に視線を這わせる。
見覚えのない和風な家屋。
何故だろう、知らない場所なのに気持ちが安らぐ。
どうして自分がこんな場所にいるのか分からないが、とりあえずここにいれば大丈夫だと理屈のない安心感がこみ上げてくる。
自分は夢を見ているのだろうか、と思い少年は頬を抓ってみた。
何も起きない。
痛いだけだった。
セイギノミカタ
衛宮切嗣は、一夜にして変わり果てた街並みを見て、その惨状に心を痛めた。
そこに至る経緯はどうあれ、彼自身もこの大災害の一因であった。
自分のとった行動に間違いはなかったと断言できるが、しかし、その結果がもたらしたモノに哀れみはする。
街が燃え初めてから半日余りが経って、既に火は消えている。
立入禁止の柵の向こうで、クレーン車や手作業での救出が行われていた。
だが、一向に成果は上がらない。
消防や自衛隊、ボランティアたちの顔には、遠くからでもはっきりと疲労と焦りが見て取れた。
これから先も、おそらく見つかるのは既に抜け殻となった骸ばかりだろう、
切嗣には彼等の行為が徒労に終わることを知っていた。
アレはそう言う火なのだ。
辛うじて逃げきれるとすれば、それは余程生命力の強い子供や一部の人間だけだ。
切嗣は、望みのある限り必至になる彼等を無駄だとは思わなかった。
結果は問題ではないのだ。
それが正義のあり方だと思った。
そう、彼等は正義だ。
自分のためではなく、見知らぬ誰かのために力を使う。
或いはあれこそが自分の進むべき道だったのかも知れない、と思って切嗣は自虐的に笑った。
例えそうだとしても、自分には決して向いていない職業だと思ったからだ。
規律と団体行動と言った辺りが特に。
組織の力は個人のソレより遙かに強い。
だが、その分自由が効かない。
それを補うのが個人である。
――だったら、個人は個人にしかできないことをしよう。
未だ何の発見もない現場を背に、切嗣はきびすを返した。
覚えているのは、たくさんの人が死んだこと。
自分が彼等を見捨てて逃げたこと。
脳裏に浮かぶ真っ赤な街並み。
黒こげの死体。
血で染まった道路。
置き去りに去られた人の絶望的な表情。
悲痛な叫びが耳を木霊する。
覚えていようと少年は思った。
忘れられるわけがないけれど、それらを全部覚えていよう。
本当は死ななくて良い生命があったことを。
「やあ、起きたみたいだね」
「──っ!」
思考にふけっていたせいだろうか、声をかけられるまで気がつかなかった。
部屋の中に見知らぬ男が入り込んでいた。
「そう警戒しないで欲しいな。怪しい者じゃないんだ」
両手を挙げて自分の安全性を主張する男。
そもそも、怪しくない人間は自分が怪しくないなんて言う必要がないのだ。
そう言った意味では、男は十二分に怪しかった。
じっと凝視して、その表情を窺いながら尋ねる。
「……オジサン、誰?」
「僕かい? 僕は切継。御宮切継さ」
「エミヤ……?」
「切継でいいよ」
そう言って朗らかに微笑む姿さえ、疑りの目で見てしまえば、どこまでも信用ならなく見える。
それでも、君の名前を聞いていいかなと尋ねられて少年は素直に答えた。
「しろう」
「シロウ? 士郎でいいのかな」
指で空に字を書く切継に、少年──士郎は頷く。
切継はしばらく自分に刻み込むようにシロウ、シロウと呟いていたが、やがて納得したようにしきりに首を上下させた。
「うん、御宮士郎で語呂も悪くないね」
「え……」
「あ、言ってなかったっけ。今日から君、僕の子供ってことになるから」
──は?