泣いてなんかやらないんだから。
見たくなんかないのに、目は開いたまま、ちっとも閉じてくれない。
閉じろ、閉じろ、閉じろ。
でも、目を閉じてみたところで、その光景は既にしっかりと脳に焼き付けられ、ちょっと簡単には消えてくれそうもない。
人間って、案外不便だ。目は閉じてくれない。嫌な記憶も消えてはくれない。
……泣いてなんかやらないんだから。
魔法使いとヤクザの娘と
A:「ねぇ、ねぇ、知ってる? 佐藤先輩ってと萩原先輩と付き合ってるんだってー」
B:「え、ウッソー。だって、佐藤先輩、藤村先輩と…」
A:「だから、藤村先輩って、…なんて言うか…その…アレでしょ? それで佐藤先輩が…ってな話らしいのよ」
B:「あー、そっかー。なるほどね。やっぱさすがの佐藤先輩も藤村組のお嬢様とは付き合えません、と」
A:「ま、仕方ないよねー。どうしても一歩引いちゃうもんねー」
B:「そうそう。ひょっとして機嫌損ねたら、いきなりサングラスのコワーイ人たちが押しかけてきたりしそうだもんねー」
A:「ま、実際はそんなことないんだろうけどね。藤村先輩、いい人だし」
B:「面倒見いいしね。…でもさ、それって実際、藤村先輩としてはどーなのかな?」
A:「どうって?」
B:「いやさ、仮にも佐藤先輩とは付き合いかけたわけじゃん」
A:「そうそう、藤村先輩が似合わない乙女チックな告白をしてね」
B:「そう、バレンタインの日に本命チョコとともに、よ。結構話題になってたじゃない。…なのによ、たかだか一週間も経たないうちに破局って、私なら自殺ものよ」
A:「しかも、萩原先輩と藤村先輩って、仲良くなかったけ?」
B:「うわ、修羅場!」
A:「佐藤先輩って、何でも藤村先輩のこと知らなかったみたい」
B:「あー、そういえば佐藤先輩って、編入だっけ」
A:「そうそう。それでさ、藤村先輩と付き合うかもって言ったら、おせっかいな人が忠告したらしいのよね。ま、そのおせっかいな人ってのは萩原先輩なんだけど」
B:「藤村先輩は実は泣くも黙る藤村組のお嬢様でござい、と」
A:「それで佐藤先輩もうすっかりビビッっちゃって、かといって今さら理由もなく断ると」
B:「後が恐い」
A:「そう。あとは、もう萩原先輩の筋書きとおりよ。実は萩原先輩にも告白されていたんで、お前とは付き合えないって」
B:「うわ、鬼畜。佐藤先輩も佐藤先輩だけど、萩原先輩もよくそんなことやるね」
A:「いや、萩原先輩は萩原先輩で、佐藤先輩のこと狙っててね。藤村先輩に先を越されて焦ってたみたいなのよ」
B:「やっぱ友情より男ってやつ?」
A:「ま、そんなとこね。なんだかんだ言っても佐藤先輩って人気あるしね。彼氏にしとくのに丁度いい感じしない?」
B:「でも、藤村先輩かわいそうー」
A:「ご同情に堪えないってやつよね」
B:「え、ひょっとして、藤村先輩、それで今日部活休んでるの? サボりなんてしない人だし珍しいな、と思ってたんだけど」
A:「だって、道場に来れば、佐藤先輩と萩原先輩に会っちゃうのよ」
B:「あ、そりゃキツイわ」
A:「噂をすれば影。佐藤先輩と萩原先輩じゃない、向こうから来たの? あー、仲も良さげにおしゃべりしちゃって、まあー」
B:「何、あれベタベタじゃない。少しは遠慮するのが筋ってもんじゃないの」
A:「ま、佐藤先輩も萩原先輩も恥知らずだったわけだ」
B:「ちょっとひどすぎるねー」
A:「にしても、わたし、ヤクザの娘なんかに生まれなくて良かったわ。こんな手ひどいフラレ方って、ちょっと考えられないもの」
B:「藤村先輩だって、生まれたくてヤクザの家に生まれてきたわけじゃないのにね」
A:「ま、運命ってやつですか」
B:「運命ねぇ…、そんなんで納得いく?」
納得なんかできない。納得なんかできるわけがない。
なんで私だけこんな目に遭わなくちゃいけないのか。
だって私は何も悪いことなんてしていない。
…ただヤクザの娘だってだけだ。そう、それだけ。
でも、それはどうやら他の人には「それだけ」の話じゃないらしい。
齢15にして、15年も無駄な人生を生きてきて、私はようやくそのことを思い知った。
知ってはいたけど、本当にわかってはいなかった。でも今わかった。骨身に沁みてわかってしまった。
自分がヤクザの娘なんだ、普通じゃないんだってことを初めて意識したのはいつだっただろう。
小学生のとき、仲のいいグループの中の友達同士でお宅訪問というのをやった。みんなで互いの家に行ってはおやつを貰い、キャアキャア喋るだけのもの。
楽しかった。
明日は私の家だって時は、私は嬉しくて楽しみで、お爺様がいつも隠してコッソリ食べてる、とびっきり美味しいお菓子を人数分ちょろまかして来たりなんかして。
遠足のようなワクワク感。
でも、友達が私の家に遊びに来ることはなかった。…そう、ただの一度も。
「え?」
「ごめんねー、大河ちゃん。明日、どうしてもピアノのレッスンに行かなきゃいけなくて」
「そうなんだ…」
「じゃあさ、由紀子が行けないんなら、また由紀子が行ける日にってことにしない?」
「そうしよっか」
「でも…」
「ま、いつでも行けるしね」
「そうそう」
「ね、大河?」
「…うん、そうだね」
その「いつでも」っていうのは、一体いつなんだろう? 小学生の私には、そんなことすらわからなくて。
一人で食べたお菓子は、ちっとも美味しくなかった。
お菓子のくせに甘くない。しょっぱい。
「ね、ね、今度私のうちで誕生日パーティーやるの、来てくれる?」
「え? 大河ちゃん、誕生日なの? ホントー。おめでとー。え? いつ? あ、行く行くー」
「…あ、もしもし、大河ちゃん、えっとごめんねー、忘れてたんだけど、その日塾に行かなくちゃいけなくて、サボるとママ恐いしさ、また今度ってことで。ホント、ごめんねー。今度は絶対行くからさ。じゃね、バイバイー」
「今度」っていつ?
来年、再来年、それとも……。
うん、全然平気ー。
お稽古事じゃしょうがないよねー。
そう、塾なんだ。
ママが熱出したの? それじゃ仕方ないね。
宿題いっぱい出たもんねー。ほんと、あの先生厳しいんだから、ヤになっちゃうよね。じゃ、宿題がんばってねー。あ、私も頑張んなきゃ、ハハ。
そっかー、遊園地行くことになったんだー。じゃ、お土産よろしくねー。バイバイ。
……バイバイ。
いくら子供の私でも、塗り固められた嘘に気づくのはそう難しくはない。
「いつでも」は訪れない。「今度」は永遠にない。
誕生日はお爺様もお父さんもお母さんも祝ってくれたし、組の若い人たちなんか総出でお祝いをしてくれる。
とってもにぎやか。
酔うと、若頭さんは、いつも「ホタル」っていう、とんでもない芸を披露する。火のつけたろうそくをお尻につっこんで電気を消す。はい、ホタルでござい!
お爺様は笑ってるけど、お父さんは無言でぶん殴る。
俺も負けませんよ、と今度は後藤さん。チョコポッキーをプリッツに変えてみせますだって。嫌な予感がするので止めたら、
「じゃ、プリッツをチョコポッキーに」
同じじゃない。
「あんまりやりすぎると、いちごポッキーになるんですけどね」
お父さん、後藤さんを問答無用で庭の池に放り投げた。
一杯笑ったし、たくさんのプレゼント。おめでとうもたくさんの人にいっぱいいっぱい言ってもらった。
でも、それでもケーキは美味しくなかった。とっても甘くて美味しいはずのケーキは、なんでか、いつもどこかしょっぱかった。
とっても楽しいはずの誕生日。楽しい、…けど寂しかった。
小学生も終わりに近づく頃には、私は誕生日が来るのが嫌になっていた。
なんで毎年毎年あるんだろう。なんで私は毎年毎年自分が普通じゃないってことを思い知らされなければいけないんだろう。
…私のせいなんかじゃないのに。
中学に入ると、私は剣道に熱中した。それこそ寝食を惜しんで毎日毎日剣を振った。何かを忘れるために、頭の中からモヤモヤした不安と心配を振り払うために、ただひたすらに練習を重ねた。
友達はいた。
あ、大河、オハヨー。元気?
うん、元気、元気。
大河はいっつも元気だねー。その元気私にも少しはわけて欲しいよ。
私はいつも元気なのだー。
心と裏腹に、口は勝手な言葉を紡ぎ出す。表面を上滑りしていく。
あ、大河。今日も練習なの? まったく熱心ねぇー。今日はマクドでお茶でもどう? …あら、残念。
本当に残念?
ホッとしてない? ヤクザの娘なんかが来なくて良かったんじゃない?
大河も、せっかく元はいいんだから、剣道ばっかしてないで、化粧の一つでもすれば、もっとモテルよー。もったいない。
好き好んでヤクザの娘と付き合いたいなんて人いる?
大河、最近付き合い悪いよー。たまには私たちと合コンでもしないー? 大河来れば結構盛り上がるしさー。
そこに本当に私はいていいの?
私、私。藤村大河。藤村組の娘。
…ヤクザの娘。
……普通じゃない。
余計なことを考えたくなくて、ただ剣を振る。毎日、毎日。
無心。
無心。
無心。
何も考えるな。
何も考えるな。
何も考えるな。
それはきっと考えてしまうと心が痛かったから。痛くて痛くて切なかったから。心の回路が動くと、キシキシ歯車が音を立てる。
嫌だもの、痛いのは、切ないのは、寂しいのは。
違う、違う。胸が痛いのは、ただ練習のし過ぎで心臓がバクバクしているだけ、それだけなんだから。
痛いのは心臓、胸の奥なんかじゃない。
でも、ふと気づけば、私は一人ぼっちだった。
トクン。
心臓は小さい悲鳴をあげていた。
「藤村はいつも練習ばっかだなー」
どうして、この人だけは違うなんて思ってしまったんだろう。
「どう俺とともに青春の日々をエンジョイするってのは?」
どうして、この人ならわかってくれるかもなんて思ってしまったんだろう。
ひょっとしたらもう限界だったのかもしれない。自分を騙して騙して剣を振ることで心をごまかし続けるのも。
「藤村ってさー、結構かわいいよな」
きっと私は救いを求めていた。
「なんちゅうか、割かし好きかな、藤村のこと、俺ってば」
でも、それはありえない救い。
「おっとそのチョコは何かな? お兄さんは期待してしまうけど、いいのかな?」
私も期待しちゃうけど、ていうか、もうしちゃってるけど、いいの?
「いい、いい。エブリバディ、ウェルカム!」
エブリバディじゃ、みんなじゃない。
「そっか、失敗、失敗。俺って博愛主義者だからさ」
で、そのエブリバディの中に私は入れてもらえるのかしら?
「モチのロンよ」
当ったり前田のクラッカー?
「そうよ、よくわかってるじゃない」
ありがとう。…ありがとう。
だから、わからない。
何、ゴメンって。
わからない、わからない。
全然わからない。わからない。
「やっぱ俺も普通の子の方がいいかなって」
そう。
心が凍った。カチカチ。きっともう一回叩けば、パリン。壊れる。
あ、もう壊れてた。
だって胸の奥がもう痛まない。いつもはうるさい心臓もやけに静かだ。
涙は出ない。
・・・泣いてなんかやらないんだから。