陽が暮れる。
居慣れた土蔵、その薄赤い闇の中。汗を拭って、瞳を開けた。
立ち上がる。脳裏に刻み付けた、鉄のイメージ。跳ね上がり落ちる撃鉄を、歩を進めながら振り払う。
―――彼女の言葉を思い出す。剣はそれ自体は単なる鉄に過ぎないと。
それに刃を与えるものは、担い手が描く意志に他ならないと。
常時剥き出しの刃は磨耗し、その寿命と切れ味とを失っていく。
『―――ですから、シロウ。人を評するのに抜き身の刃の様だ、などという表現は褒め言葉では無い。
人は鞘を帯びるべきなのです。その身と心とを休め、抜かれる時まで牙を研ぐ。
そうでない剣は凶器ではありますが、決して武器ではない。文字通りただの『鉄』なのです。
私があなたを鍛えるのは、貴方を鉄にする為ではない。……まあ、心配は要らないでしょうけど。
貴方には確固足る意志と、振るう是非を問う心が有る。その火を絶やさず、忘れなければ。
貴方はきっと、立派な『鋼』になれる筈です』
彼女の言葉は、万金の価値を持って衛宮士郎の心の内に刻まれている。
―――決して、それを忘れない。
想いを籠めて、鉄を振る。青い炎は大きく揺れて、黒く輝くその身を灼いた。
……食器棚から皿を出し。
傾けた中華鍋から、中身を手早く盛り付ける。細く切った牛肉に、筍・ピーマン・椎茸・人参。香ばしく湯気が立つそれに、大きく山に盛られた御飯茶碗と香の物を添えて。
盆を持ち上げ、部屋へと向かう。堅く閉められた襖、細く開けた隙間から中の様子を窺い。
「―――シロウ」
彼女が気付いた。無理に微笑って、襖を開けて。春とは言えど冷たい早朝の外気が入らぬ様、素早く後ろの手で閉じる。
「おはよ、セイバー。……飯、もって来たぞ」
敷いた布団に横たわる、彼女の姿は。驚く程に細く、小さく、華奢で可憐で。
……かつて、その手に剣を握っていた事など信じられない位に。
「―――ありがとうございます、シロウ」
赤い、熱に浮かされた顔で。気だるそうに布団から出る。弱々しい上目遣いの視線と火照った頬は、確かに魅力的ではあったけど。
胸が痛む。
剣の英霊。聖杯のサーヴァント。
そして、衛宮士郎の守護者であり、戦友であり、最も大事な人間の一人。
この少女には。こんな姿は、似合わない。
「……美味い、か?」
意識して穏やかを装う声で、尋ねた問いに。
「ええ。―――いつも通り。シロウの御飯はとても、美味しい」
―――鈍い自分にも、分かる位に。
「そっか。……身体の方は?」
「……ええ、」
どこか後ろめたい様な、虚の色を浮かべ。
「だんだん、良くなって……来てる、みたいです」
困った様に微笑んで。
剣の少女は、目を伏せ告げた。
『病臥に惑う』
……つくづく。わたしと言う人間は、我侭と言うか。救い難い性格をしていると思う。
それを見ている時は不安で、止めて欲しいと願っていたのに。
いざそうなってみれば、それはそれで不安で落ち着かない。
―――弓を引き絞る。土曜の夕方、黄金とも称される連休の最中。いつもならば部員の声と弦鳴りの音に満ちている弓道場は酷く閑散とし、重い沈黙が降りていた。
病み上がりで、最近とみに集中力を欠く自分。他校との合同合宿に際して、休養を命じた藤村先生の言は最もだとは思うけど。
……今は。衛宮の家も、遠坂の館も。わたしには居心地悪い場所だったから。
時間潰しも兼ねて、一人赴いた弓道場。
―――けど、まさか。わたし以外にも、ここに誰かが居るなんて思っても見なかった。
―――弓を引き、矢を放つ。
弦鳴りの音。一泊置いて、軽い音。
視線を向ける。遠く離れた土手の壁。
わたしが放った十本は、綺麗に的を縁取った。
「調子、悪そうね」
「……そっちこそ」
意識して、口の端を上げる。射矢の縁取り、歪な円で囲まれた的には中心に一本の矢が刺さっている。
わたしのではない。隣の的を狙った、隣の彼女の―――
「―――姉さん」
呼び掛ける。……最悪、呼び水になり兼ねない疑問では有るけれど。
それでも、やっぱり猛烈に。気にはなった。
……見ない振りをして射ったけれども、これはちょっと……看過出来るレベルの、落ち込み様じゃない。
先輩から教わったのだろう。崩れた感で胴着を着込み、弓を構えるその姿。
それこそ普段ならば、さぞ凛とした出で立ちなのだろうけど―――全身から立ち上る倦怠感と、何より瞳に宿る見事な曇天色はその全てを補って余りある。
「……姉さん」
恐る恐ると、再度の呟き。傍らに佇む、見事な形の腫れ物に。
そおっと指を差し向ける。
わたしの頭の後ろ。数センチの間を置いて深々と突き刺さった、柱に生えた矢を引き抜いて。
「先輩と……何か、あったんですか?」
―――そう。
確かに内心。不安で不満で、止めて欲しいと願ってはいたのだ。
今年の冬。先輩と姉さんが加わり、結果的にとはいえ間桐の呪縛を断ち切った『戦争』の後。再びわたしの家族となった遠坂凛という人は、わたしと共に衛宮の家に朝晩と赴く様になっていて。
……帰らない事も、たまにあって。
修行だ勉強だと主張してはいたけど。姉さんのみならず先輩の顔を見れば、凡その予想が当たっている事は明白だった。
藁人形の無力さを嘆く日々。
それが唐突に終わりを告げたのは、つい一週間前の事だったのだけど―――
「――――」
呟く声に、視線を返す。俯いて、拳を握り締め。
……両の拳の内、弧を描く弓。それが徐々に真円に近付いていくのを、後退りながら見やる。
……何したんですか先輩。
堅い音。半ばから割れ、内から弾けた弓を造作も無く折り畳み、二本に増えた弓を束ねて握り締め。
「セイバー」
その呟きが、わたしへの答えだと気付くのには数瞬を要した。……セイバーさん?
「え、でも。セイバーさんは、確か」
大方の事情は、今やわたしも知っている。聖杯戦争で顕現したサーヴァントの一人、セイバーさんは未だ姉さんのサーヴァント、そして―――恐らく姉さん同様に、納得はいかないし気にもいらない事夥しいのだけど―――かつての主、先輩の『剣』として冬木の街に暮らしていた。
彼女本人は文字通り『剣』として――護り手と共に暮らすことを望んだけれど、意外と嫉妬深い現・主、姉さんがそれを許す筈も無く。時折枕を別にする事はあれど、基本的にはわたし達は三人共に遠坂の館で暮らし、頻繁に衛宮の家を訪れるという生活を続けていた。
「……仕方ないじゃないですか。病人なんですから」
自身でも納得してはいない、模範的な答えを返す。
「……病人、ね」
わたし以上に納得していない、不機嫌が固体化した様な声。―――ああ。でも。
思い出す。さして深くも無い記憶の内、ここ最近の中では一際桜の色に輝く、宝物の様な。
―――半月前。病床での記憶―――
『あ―――桜。大丈夫か?』
……目を覚ますと、見知った天井が見えた。
冷たい灰色の天井でも、暖かい洋風の天井でもない。愛しい、和風の天井。
潤んだ瞳で、彼を見る。
―――朦朧とした頭でも、幾つかの感触は理解する事が出来た。汗で湿った布団の重さと、内で燃える熱の熱さと―――
『―――あ』
気持ち良い。額に当たる、爽やかな冷気。布で幾重にも包まれた、柔らかい氷の感触。
朧な視界と意識が返る。
『……せん、ぱい』
『ん。ただいま』
優しく答え―――優しく汗が拭われる。軽く湿ったハンカチが、頬を撫でていく感触。
……なんでわたしは、先輩の家で寝ているんだろう。
浮かんだ疑問に、記憶が答える。今朝。重い体を引き摺って重い口に朝食を放り込み、咳き込みながらも授業を受けて、放課後ふらつきながら弓道場に―――
『そんな体調で、部活なんて。すぐに帰って来いって言っただろ』
どうやら、部活の最中に倒れたらしい。同居人の姉さんじゃなくて、先輩の所に連絡が行ったのは、多分。
―――美綴主将。
ああ、にやにや笑ってる彼女の顔が浮かぶ。……恨みますよ。こんな所、先輩に見せたくは―――
『ほら、桜』
手渡されたコップを、両手で捧げ持つ様に受け取る。陶器を通して伝わる、中身の熱。
俯いたまま。
そっと、陶器に唇を当てる。
『……あ』
美味しい。表面に膜を張らない程度に温められたホットミルクは、底の方も均一に熱が通っていた。僅かな渋味と、程好い甘味―――摩り下ろされた生姜と溶かし込まれた蜂蜜の味。手間を掛けて、きちんと鍋から温められた滋味を、堪能しながら飲み下す。
はあ―――と、満足の息を吐く。渇いていた喉、枯れていた体。諸々の条件はあれど、何よりも。
先輩が、わたしの為に手間を惜しまず作ってくれた。その事実こそが、わたしの心を潤した。
……明日、美綴主将にお礼を言っておこう。
などと、ぼんやり考えていると。
―――何時の間にか台所の方へ移動していた先輩が、何やら抱えて戻って来る。湯気を立てる小ぶりな鍋と―――匙に茶碗に、薬瓶。それらを傍らの卓に置いて、わたしの方へと視線を投げる。
『桜、腹は?』
……先輩はちょっとデリカシーに掛けると思う。そんな風に聞かれて、正直に答える事が女の子にとってどれだけ恥ずかしいのか分かってるんだろうか。
『……その。あんまり』
心にも無い答えを返す。朝昼と碌に食べられなかったわたしのお腹は、殆ど空っぽだ。そこにあんな、身体共に元気を取り戻しそうな代物を飲んだものだから。
不平の声を上げぬ様、丹田に気を引き締めて。
―――鍋から立ち昇り、鼻腔へと届く蠢惑的な香りに抵抗が削がれる。今にも泣き出しそうなお腹を叱咤し、
『……少し』
『ん。待ってろ』
洩らした本音に、無邪気に嬉しそうに鍋の中身―――卵が散らされたお粥をよそっていく。
ああ―――美味しそう。
先輩。早く早く。
表情を抑え。無言でそれを待ち侘びる。茶碗にやや浅く盛られ、食べ易い様に大きめの匙を添えて。
―――その匙を見て、ふと思った。これなら或いは、もしかして。
差し出される茶碗。伸びだしそうな手を抑え、視線を合わせず俯いて。
『―――桜?』
『……先輩。腕に力が、入りません』
我ながらとんでもない事を考えている、と。
自覚した上で、そう返す。『え。だって―――』訝しげに応える先輩の視線。その先にある飲み干されたカップ、ついさっきまで持っていたそれを布団で隠す。
『ちからが、はいらないんです』
―――流石に恥ずかしくて、顔を上げられない。それでもけれど、きっと。
こんなチャンス。これから二度と、有るかどうかも分からない。それなら絶対、逃したくは無かった。
沈黙の帳が下りる。ごくりと、唾を飲み込んで―――俯いたままに、『答え』を待つ。
先輩の弱点に、病床の口実に付け込んだ我侭だけど。それはとても、焦がれて夢見た情景だったから。
……帳を破る、陶器が擦れ合う音のあと。
『……ほら、桜。口、あけて』
真っ赤な顔で差し出された匙。
―――それに乗った粥は、今まで食べた事が無い程に極上の味がしたのだった。
……小一時間程も掛けて、小鍋の粥を平らげる。最後の方にはすっかり冷めていただろうそれはけれど、さぞ温かかったのだろう。
真っ赤な顔を見合わせて。
誤魔化す様に、手早く薬を口へと放り込む。水と共にそれを嚥下するのを見届けた後、
『じゃあ、桜。少し寝てろよ』
自分がその邪魔になるとでも思ったのか。言い放ち、立ち上がろうとする彼に、
『―――先輩』
床から声が掛けられる。……嫌な予感がした。
赤く潤んだ、桜の瞳。吸い寄せられる様にそれを見つめ。
『……からだが、汗で……気持ち悪いんです、けど』
『え―――』
……絶句する様子から見るに、言葉の真意は掴めたらしい。動けず、答えず。それでも立ち去らず、無言で布団に座る少女を見つめやり。
『……先輩……』
小さい、けれど確とした意思を込めて呟き。
布団を退けて。
背を向けて。
―――真白い肩がはだけた時点で、永と続いた病人への寛容も底を尽いたのだった。
『た・だ・い・まー!桜、大丈夫ー!』
……調子に乗ってんじゃないわよこら!
―――不愉快な記憶を思い出してしまった。この子があいつを好きなのは、薄々知ってはいたけれど。
まさか、あそこまで積極的に動くとは思っても見なかった。ただでさえ自分のサーヴァントが下克上しかねない勢いだと言うのに、思わぬ伏兵ではある。
……実際。敵としては、セイバーよりも難物かもしれない、と。
夢見る様に上気した、傍らの少女。その一箇所を強く睨み付け、もう一方の少女と共に自身の姿を省みる。
―――うん。マスターとしての矜持は保ってる。
妹に負けていると言うのは、正直大いに気に食わないけど。
……それよりも。今はとにかく、セイバーの事だ。
遠坂凛のサーヴァント、セイバーの名を冠する少女が倒れてから、もう一週間が経つ。
……あいつは呑気にも、『セイバーも風邪なんか引くんだなー』なんてほざいてたけど。そんな事がある訳が無い。
聖杯のバックアップが無くなったとは言え、あの少女は英霊だ。しかも最強と謳われた剣のサーヴァント、伝説上に御名を刻む『アーサー王』。そんな規格外の存在が、人の病など患う筈が無い。
―――とは、言え。
聖杯の英霊を使い魔として残留させた例など、わたしは聞いた事が無い。それが元々『生きて』いる、イレギュラーの英霊ならば尚更だ。それはつまり、起こった全ての現象は推測で埋めるしか出来ないという事を示していた。そういう意味では確かに、頭ごなしに否定は出来ない。
……それにしたって。『英霊は風邪を引くのか』などとと言う問いは馬鹿馬鹿しいと思う。桜が引く様な、しかも一日寝て治る様な単なる風邪に英霊が丸一週間、身動きが取れない?
冗談にしたって、出来が悪いにも程がある。
けど実際、冗談で無くセイバーは身動きが取れないままに過ごしている。『訳が無い』で片付けるのは簡単だけど、それでは根源の探求者たる、魔術師としては失格だ。
何よりマスターとして。……そして、セイバーという少女の友人として。
事態の解決。引いては倒れた本当の原因を考える必要があった。
……悩んだ末に。残った有力な『原因』は、極単純なものだった。
『供給魔力の不足』。英霊とは言え逃れ得ない、等価交換に基づく現象。その不足による衰弱。
……わたしは正直、現状の供給量で精一杯だ。かてて加えて聖杯戦争中、目ぼしい宝石をあらかた使い果たした現状では、外部からの供給に頼る他無い。
真っ先に思いついたのはこの子だったんだけど。
―――蕩けた瞳で手に持つ弓を抱き締めくねる、遠い妹に視線を投げる。桜の魔術回路自体はわたしに匹敵するものの、本人に御する力が欠けている。加えてその力の由来を思えば、出来る限り『こちら側』に入って欲しくは無かった。
ならば、と。次に白羽の矢を立てたのは、道を違えば英霊に至る程のポテンシャルを秘めた、魔術使いの彼だった。
……のだ、けど。
「―――それにしても」
蒼い瞳に理性が帰る。呟く声は不満に満ちて、紡ぐ表情は恨めしく。
……毎朝毎晩、遠坂の館で向かい合う。
鏡の少女に、とても似ていた。
「セイバーさんも、いい加減長いですよね……」
桜は良い子だ。セイバーの体調を心配しているのは本当、心底からなのだろうけど。
「……全くね」
本人も、意識してはいないのかも知れないけど。それに伴う『独占』が羨ましいと、内の本音が綺麗に透けて見えていた。
……非難する気も無い。
―――わたしだって。望んで罹れるものならば。
「……あーあ。なんで」
久方振りに、苦笑を浮かべ。折れて砕けた弓の残骸と共に、澱んだ感情を空に放り投げ。
我ながら格好悪い。子供でも言わない様な、呟く続きを胸中に呑む。
―――わたしはこんなにも健康なんだろう、と。
……薄い眠りを、漂う芳香が優しく剥いだ。
まどろみに浮かぶ、意識を戻し。閉じた瞳を確と開け。
―――静かな足音。障子に浮かぶ影を視認し、布団の中で欠伸を一つ。
綿の盾越しに、障子が開く音を聞く。
弱々しげに、顔を覗かせ―――
「……シロウ?」
「……悪い、セイバー。起こしたか?」
ばつが悪そうに顔を顰める少年に、
「―――いえ。丁度、眠れなかった所です」
涙で潤み。籠もった熱で上気した、熱っぽい目で答えを返す。
「あ、ああ。そっか。じゃあ、丁度良かったかな」
あらぬ方向へ視線を投げて、手早く卓に皿を並べる。本日五度目の『夕食』は、綺麗に赤で飾られた―――
「……これは?」
初めて見る料理だ。太陽の色、柔らかい黄金色で丸く覆われた小山の様な。
表面を赤色の波で綴られた、ほのかに香ばしい鶏肉の匂いを隠す―――
「ま、食べてみろって」
優しく言って、銀色の匙を握らせる。
―――微かに触れる指先に、真っ赤な顔を見合わせた。誤魔化す様に視線を外し、匙を『小山』に潜らせる。
内より出でた、桜の色のお米と共に、太陽の欠片を口へと運び―――
「……む」
これは―――眼を丸くして、彼を見る。慌てて彼が視線に応えた。
「どうした?……口に、合わなかったか?」
「―――いえ」
答えを返す。……驚いた。彼の作る料理は贔屓目と―――個人的な感情を抜きにしても、どれも絶品だと知ってはいたけれど。
これはその中でも、特筆すべき美味だった。
「オムライス、って言うんだ」
穏やかな声に我に返る。夢中の内に半分程も姿を覗かせた皿の上、残る山を前に息を吐いた。
「―――美味しいです」
ああ―――でも。翳る視線で、焦げた茶色の瞳を逸らす。私は―――
……駄目です、シロウ。こんなに魅力的なものを出されては。
今の私にはそんな資格は無いし、それに何より。
「……食べないのか?」
暗く沈んだ呟きに、強く憤慨の睨みを返す。―――馬鹿な!
「いいえ。頂きます」
こんな美味しいものを。何より、シロウが私一人の為に作ってくれたものを、残すなど。
望外の言葉を否定するかの如く、力も強く匙を使って前の小山を切り崩す。
弛まず、休まず、味わいながら。
「―――ご馳走様でした」
皿一杯に盛られた小山を、綺麗さっぱり頂いた。
「ほら」
「んむ」
口に当たる、心地良い感触。柔らかな布、石鹸がほのかに香るそれが優しく口元をなぞって行く。
……上げ掛けた腕を下ろし、目を閉じて。
真心を込めて蹂躙されるかの様な、無意識の愛撫に唇を委ねた。
「ん。綺麗になった」
『小山』の名残、鮮やかな真紅を滲ませた布を折り畳みながら、シロウ。浮かぶ笑顔は酷く無邪気で、腹が立つ程純粋で。
加えて、片時も無くならない。私を心の底から想い、万事につけて応えんと約した―――
……深くて強いその光から、後ろめたさに眼を逸らす。
シロウ。貴方のその眼は、今の私には眩し過ぎます。
「―――セイバー?具合、悪いのか?」
俯く姿を、誤解したのか。尋ねる声に、心を隠した肯きを返す。
すみません。これ以上は、眼が潰れてしまいます。
手際良く、食器を片付けて。
「じゃあ、セイバー。少し寝ろよ。また後で何か持って来るから」
言って、襖の向こうへ消える。名残惜しい思いで、けれどもそれ以上の罪悪感を抱えながら。
「……はい。申し訳ありません、シロウ」
と。少年は足を止め、眉を顰め。「ばか」、窘める様に、言葉を放つ。
「病人は胸張って看病されてれば良いんだぞ」
……胸が詰まる様な。同時に果てしなく痛む、言葉と。
優しい、真摯な微笑を残し。立ち去る姿を答えも無く眺め。
背中を預ける。柔らかい、陽の匂いが香る布団、その抱擁の内。
この一週間、彼の居ない間。間断なくそうやって来た様に。
……頭を抱え。声にならない、呻きを上げた。
……きっかけは、どうと言う事は無い―――単なる悪戯心、下らない思い付きに過ぎなかったのだ。それに、丸っきりの嘘と言う訳でも無かった。聖杯を自らの手で壊した後、私を世界に顕現させ続ける為の魔力。供給されるそれは決して潤沢な物ではなかったから。
とは言えリンは優れた魔術師だし、シロウだってそう捨てたものでは無い。私の剣、その鞘を外すには至らないとしても、聖杯戦争が終結してからの生活―――剣など振るわれる事すら無い、穏やかな日常の暮らし。それを過不足無く満喫出来る程度には、二人の魔力は足りていた。
とは、言え。
やはり、一個の英霊として。身体に満ちる魔力の量が中途半端な物だったのは否めない。その不足感はしばしば覚える倦怠感や、猛烈な食欲となって顕在化することもままあって。
―――そう。布団の中で、言い訳がましく。
反芻した、彼の言葉を噛み締める。病人は、胸を張って看病される資格が有る。それなら私にだって、その資格は有る。
……有るのではないだろうか。多分有る。無い事は無いだろう。
決して―――免罪符では。ましてや大義名分などでは。
息を吐く。
自分も騙せない様な嘘は聞く人を不快にさせる、と。言ったのは誰だったか。思い出せない。以前私を呼び出した、いつかのマスターだったか。その途上に出会った、誰かだったか。
息を吐く。
……それを思い付いたのは、二週間程前の事だ。いつもの様に、ここへ夕食を頂きに来て―――何故か、先に行った筈のリンも玄関先で苛付いていた様だったけど。
一席欠けた夕食と、その席上の会話から。
『―――じゃあ、桜ちゃんは今日は泊まるのね?』
『ん。しかし藤ねえも気を付けろよ。部員がふらふらになってんだからさ』
『うん。ごめんねー、わたし丁度職員会議で居なくてさー』
『……ま、なら仕方ないか。そういう事で、遠坂。明日桜の分の教科書とか頼む』
『…………』
『遠坂?』
『聞こえてるわよ。―――思う存分一生懸命、看病してあげてね』
『……なんで怒ってるんだ?』
障子の向こう。今は穏やかに眠る、少女の姿を思い出す。
赤く火照った頬。艶滲む程に潤んだ瞳。弱々しく傾ぐ、熱い四肢―――
そして。傍らで甲斐甲斐しく世話を焼き、いつもよりも尚優しく、真摯に動き回る。
……彼に、私も焼かれてみたいと。そんな事を考えてしまったのは。
……大体、シロウにも責が有る、と思う。
シロウの伴侶はリンである。私は彼女のサーヴァントで、彼の剣だ。同列に置かれない事などに、不満など無い。不満など、無い。
だからと言って。布団の端を握り締める。そうだ、彼は私に負債が有るのだから。この機会に多少は罪滅ぼしをしてくれたって罰は当たるまい。
『剣』と言えど。長らく砥がれも、触られも。鞘から抜かれもしなければ、指先くらいは傷付ける。
……などと。
つい三日前までは、思っていた。
私自身は、深く考えずに言った言葉だったのだけど。英霊が風邪を引くという事態を、リンは殊の外重く見たらしい。
言われてみれば、その通りなのだ。いかに私が肉を持つ、異例の英霊であるとは言っても。この身に―――かつては聖剣の鞘で護られ、今尚その名残すら宿るこの身体に。人の病などが罹る筈も無い。
……ちょっと考えれば分かる筈の事なのだ。
どうやらあの時の私は冗談で無く、熱に頭を浮かされていたらしい。
結果、供給される魔力量の不足に因を見出した―――その推論は、強ち間違えてはいなかったのだけど―――リンは、新たな供給先に『彼』を選んだ。
正確には、彼の手に依る物を。
衛宮士郎と言う少年は、この家の家事合切をその手に受け持っている。その内の一つ、私を魅惑してやまない料理の腕が優れたものである事など、私は頭と舌とで充分理解していたつもりだったけど。
―――正直。これまでの私の理解は、全く足りないものであったと。
この一週間に出てくる美味は、そう思い知らされること甚だしかった。
食事による魔力の補給。聖杯戦争当初はマスターの未熟を補う為の、苦肉の策に過ぎなかったのだけど。
この手段に於いては実際に『栄養価』がどうと言うよりも、それが精神に与える影響こそが大きい。……要はそれが、どれだけ私の励みになるかと言う事だ。その点で言えばリンの提案は的を外しているとは言えた。
勿論、敢えて否定はしなかったのだけど。
日がな一日床に就き、出て来る料理を待ち侘びる。『魔力補給』の名目で一日何度も出て来るそれは、酷く手が込み想いに溢れ。
何よりも、彼が私一人の為に作ってくれた、黄金よりも尚尊い―――
……どうかすると、最近は埒も無い思いが頭をよぎる事さえある。朝から晩まで弛み切り、縦に横にと転がる毎日。大好きな人は傍らに。要望があれば叶えてくれて、出て来る料理は芸術の域で。
―――これこそ、真に王の暮らしなのではなかろうか、と。
……今のシロウは学校が休みなせいもあり、常に私の傍に居る。全霊を持って私に応える、その為に。
私の眼にも見て取れる。彼の内を巡る魔力、その量と流れが眼に見えて増え、滑らかになっている事が。恐らく料理をしてない間、彼は一人で鍛錬を積んでいるのだろう―――かつて見た、もう一人の彼の姿。赤の英霊のそれには遠く及ばないとしても、この僅か数日の間としては目覚ましいほどの進歩と言えた。
病床の私に障るから、と。不在のタイガは兎も角、サクラやリンにまで門戸を閉ざし、全てを私の為だけに。
少しでも力になれる様にと。料理だけでなく、私に流す為自らの魔力をも鍛え上げようとする、その背中が。
―――愛しく、離れ難く。
……今更、罰も悪く。
『全快』を口に出来ぬまま、一週間の時が過ぎ―――
「…………」
頭を抱える。この期に及んで、突然理由も無く回復したと言うのも不自然だろうし―――さりとてこれ以上、シロウを私に掛かりっきりにさせておくのはリンやサクラに申し訳が無い。
何より。彼に対して、失礼だ。もしも嘘がばれた時の事を考えると、これまでの如何なる時よりも重く苦しい寒気が心を鷲掴む。向けられる笑み、慮る瞳が真っ直ぐであればある程に、後ろ暗い心が苛まれる。
……纏わり付いた、未練を拭い。
―――決意を、固める。
明日。明日の朝だ。この夜が明けてから、彼に会ったら。笑顔で感謝と、全快を告げよう。
リンにも、サクラにも。心配をかけて済まなかったと、頭を下げて。
それからはまた、いつもの様に。これまでと同じ。
彼と―――リンとの、間に控え。一歩下がって、共に歩もう。
……痛む心。眼を伏せ、布団を握り締め。彼に甘えを、彼女に謝罪を。聞く者の無い、言い訳を。
……だから―――今日だけは、少しだけ。貴方に甘えても、良いでしょう?
虚空に向けて。声にならない、呟きを。
三度に渡る、同じ呟きを闇へと投げた。
『―――シロウ』
『ん?』
『……からだが、汗で……気持ち悪いのです、が……』