燕が、飛んでいた。
抜けるような青い空に、軌跡が弓の弧を描く。
やがて羽虫でも見つけたのだろう、燕は軌道を変えて真っ直ぐに一点を目指した。
俺は静かに弓を構える。
燕を射るためじゃない。
鏃は春の空へと向けて。
この空のように空っぽだった俺の中に、それは生まれているのだから。
護りたいもの。
護るべきもの。
つかみたいもの。
つかむべきもの。
離せないもの。
離れられないもの。
たくさんのそれは、いつかきっとこの空虚な空を埋め尽くす。
だから、始まりを告げる鏑矢を。
蒼くて青い、どこまでも空色の空に───
一箭必中/第六矢
「士郎?」
その遠坂の声で、俺は、弓を下ろした。
なんか、いい加減にしろー、って叫びたくなるくらい青い空を眺めていたら、無性に矢を放ってみたくなったんだ。
狙いも定めずに思いっ切り引き絞り、空に向けて撃ち放ったら気持ちいいだろうなー、って。
でも、都合良く手元に弓と矢があるわけでもないし、投影して作るほどのものでもない。
だから頭の中で架空の弓を構え、弦を引こうとしたところで遠坂から待ったがかかったわけだ。
それはそれで大したことじゃないから別にいいんだけど。
「どうした?」
「それはこっちの台詞。どうしたのよ? ぼけーっと空なんか見上げちゃって」
「いや、燕が飛んでるなーって」
昼休み、屋上。
今俺は、例の給水塔の陰で、遠坂と肩を並べている。
さすがに今朝は弁当を作る気力もなかったので、昼飯は食堂で適当にパンを買って済ませた。
ここ最近、セイバーに昼飯の作り置きをしておかなきゃならなくなったので、ついでに弁当を作るのが日課になっている。
だけど、今日は多めに炊いた米をおにぎりにして、朝飯の残りと一緒に置いておくのが精一杯だった。
セイバーには悪いけど、この埋め合わせは晩飯でするとしよう。
「燕? そっか、もうそんな時期か。ここでお昼にするのもそろそろ止めたほうがいいかもね」
「なんでさ?」
「冬の間は良かったけど、暖かくなれば屋上に人が増えるもの。お互い有名人なんだから変な噂が立ったら困るでしょ?」
なるほど、確かに遠坂の言うとおりだ。
俺が有名人ってのはいまいち実感が湧かないが……。
しかし、そうなると必然的に遠坂と一緒に昼を過ごすこともできなくなる。
それはそれでちょっと寂しい気もするが、ま、それくらいは我慢するさ。
学校のアイドルを外では一人占めだもんな。
文句を言ったらバチが当たる。
「で、燕眺めて一句捻る柄でもないでしょ? 随分と難しい顔してたわよ」
む、俺そんなヘンな顔してたか?
そんなところを遠坂に見られていたかと思うと、ちょっと恥ずかしい。
「……射れるかなって考えてた」
「射るって、弓で?」
俺は、頷いてもう一度空を見上げた。
雲一つない青空、燕はもういない。
「いくら士郎でも、燕は無理なんじゃない? 弓から離れた矢は制御できないんだから、その後に気付かれたらおしまいでしょう?」
「いや、燕じゃなくて、空」
それを聞いた遠坂は、それこそ難しい顔をして何か考えていたが、しばらくして、春だしねー、なんて言いながら背伸びをひとつ。
ちなみにあくびつき、目尻にちょっと涙。
なんか馬鹿にされたような気もしたが、こんな仔猫のような仕草を見せられたら怒るに怒れない。
それに、この姿も俺にしか見せないと思えば、どうしても頬が緩んでしまう。
「何よ?」
「何でもない」
「うそ、何かにやにやしてるもの」
「ホント言うと、仔猫が猫被っても意味ないんじゃないかなー、って思った」
「……それ、どういう意味?」
「だって、中身の方が可愛いんだから、もったいないだろ?」
「───っ!」
あ、唸ってる唸ってる。
何か本当に仔猫とじゃれあってる気分だ。
このごろ遠坂のあしらい方がちょっとだけわかってきたような気がする。
だからだろうか、最近、遠坂はことあるごとに俺があの皮肉屋の赤いヤツに似てきたと言う。
俺自身は全然そんなつもりはないんだけど、あいつのことを一番よく知っている遠坂がそう言うのなら多分そうなんだろう。
そんなとき遠坂は、決まってばつの悪そうな顔をして謝るんだけど、実際それほど気にしてるわけでもない。
あいつが俺だということを否定するつもりはないんだ。
けど、あいつは、荷物の重さに耐えられなくて途中で折れちまった根性なしだ。
俺はそうはならない。
同じ道を歩いたからって同じ場所に出るとは限らないし、同じ所でつまずくとは限らない。
だったら、しばらくの間はあの赤い背中を追いかけてみるのも悪くない。
いつか遠坂に、俺があいつに似てるんじゃなくて、あいつが俺に似てるんだと、そう思わせることができたなら、そこから新しい道が開けるんじゃないかって思ってる。
まあ、不本意だけど仕方ないさ。
それくらいの敬意は払ってやらないと、この空の向こうで頑張ってるもう一人の俺に申し訳ないって思っちまったんだから。
いつか俺が追いついて肩を並べたとき、きっとあいつならこう言うだろう。
『失せろたわけ』
……やっぱムカつく。
そして大過なく放課後。
下駄箱を開けたらそれがあった。
3通だ。
あて名なし、衛宮先輩へ、衛宮士朗様。
最後の『郎』の字が間違っているところなんか押さえるべきところは押さえてる。
裏面を見る。
いずれも差出人は書いてない。
太陽に透かしてみる。
……意味がなかった。
「どうかした?」
挙動不審な俺を見て、遠坂が寄ってきた。
端から見れば自分でも挙動不審だったと思う。
「いや、下駄箱の中に不審な手紙が……」
「へえ、やるもんじゃない」
そんなこと言われても何が何だか……あ、そうか。
「これが世に名高い不幸の手紙と言うやつか? 俺、誰かに恨まれるようなことしたかな? しかも一度に三人」
「はいはい、お約束のボケはいいから」
「じゃあ、果たし状?」
「綾子じゃあるまいしそんなの入ってるわけないでしょ。そんなピンクの便せんに入った丸文字の果たし状なんて、存在するなら見せてもらいたいわ」
「見るか?」
「あのねえ……それは間違いなく恋文、付け文、要するにラブレター! 今時流行らないけど、そういうことするやつも結構いるのよ」
そう言って心底呆れたかのように肩を落とす遠坂。
ラブレター?
あて名がないのは何かの間違いかもしれないが、衛宮ってこの学校じゃ俺だけだよな……。
む、それは困る。
遠坂とセイバーだけでもいっぱいいっぱいなのに、これ以上増えても非常に困る。
主に食費とか……いや、それは別に関係ないか。
だったら体力が……いや、それは飛躍しすぎ。
もしかして冷静に混乱してるか、俺?
「むむ、どうすればいいんだ?」
「そんなのは自分で考えなさい」
「むむむ、参考までに聞くが、遠坂ならどうする?」
「基本的に、手紙なんて一方的な感情表現はゴミ箱直行。あ、でも暇なときは添削して返したりもするわよ」
……あくまだ……あくまがいる……。
自分が出したラブレターに、赤ペンで『もう少しがんばりましょう』なんて書いてあったら絶対トラウマになるぞ。
下手すりゃそいつ一生手紙書けないかも……。
さすがに遠坂のように非情にはなれないので、鞄に突っ込んで持って帰ることにした。
俺あてなのは間違いなさそうなので、読まないわけにはいかないし。
「それより、可愛らしい貴方のナイトがお迎えに来てるみたいだけど」
遠坂は、校門の方を指差して、不機嫌というか不愉快というか、とにかく危険極まりない状態で言った。
なんか人だかりができている。主に男子生徒。
「まさか……」
「そのまさかよ。今朝あの子何て言ってた?」
確か主人の送り迎えがどうとか……。
うー、これだから世間知らずの王様は……。
「……遠坂、ひとつ頼みがある」
「内容と報酬によるわ」
「セイバー連れて先に帰っててくれ。報酬は明日の弁当でどうだ?」
「……仕方ないわね。わたしもできれば近づきたくないけど、士郎が出て行ったら余計ややこしくなりそうだし」
「俺はちょっと弓道場に顔出してくるから、後は頼んだ」
そういうわけでそそくさと弓道場に向かう途中、その人に気が付いた。
塀の外側から熱心に弓道部の練習を見学している女の人。
私服なので断言はできないが、うちの学生ではなさそうだ。
春物の青いワンピースは、後ろ姿を遠目に見ただけでも、それがこの上なく似合っているとわかる。
誰だろう? 部員の関係者かな?
だったらあんな遠いところで見てないで、中で見学すればいいのに。
お節介かとも思うが、一応声をかけてみよう。
「こんなところじゃよく見えないでしょう? 良かったら中に入って見学して行きませんか?」
振り向いたその人は、凄く綺麗だった。
髪はショートで、藤ねえより少し長いくらいだろうか。
年は俺とそれほど違わないだろうけど、少し大人びた雰囲気。
なにより優しそうな人だと感じた。
だってこんな暖かい笑顔をする人は優しい人に決まってる。
桜と同じで、柔らかくて、周囲を暖かくする笑顔。
聖母の微笑みとでも言おうか。
それ以外に目を奪われたのは、服と同じ色の青い髪、それと眼鏡の奥の透き通った空色の瞳。
……あっちゃー、外人さんだ。
思わず声かけちゃったけど、日本語通じないかな?
「お気遣いありがとうございます。ですが、ちょっと様子を見に来ただけなので、ここで結構です」
その女性は、軽く会釈しながら流暢な日本語でそう答えた。
物腰は柔らかく、立ち居振る舞いはしなやか。
どっかいいとこのお嬢様かな?
日本語が通じるのはいいが、もしかして、ナンパかなんかと間違えられたとか?
「あ、誤解しないでください。俺、ここの弓道部の関係者なんで、興味あるならどうかなって……」
慌てて言い訳してみたものの、余計に怪しいか?
部員ならまだしも関係者って何だよ……。
そのお姉さんは、小首を傾げて俺の顔をじーっと見ていた。
……ちょっと緊張。
しかし、しばらくしてにっこりと太陽のような笑顔を見せて、ちょっとお話ししませんか、なんて言ってきた。
これは、いわゆる逆ナンってやつか?
いや、最初に声かけたのは俺なんだけどさ。
「間桐桜さんはご存じですよね? 最近何か変わったことはありませんか?」
俺は、いきなり桜の名前が出てきてちょっと面食らったが、よく考えたら桜の所も由緒ある旧家だし、外人さんの知り合いや親戚がいてもおかしくない。
元々冬木は港町で外人さんは多い。
桜の友だちだって言うんなら、ちょっと話もしてみたいし。
「桜ですか? 全然元気ですよ。ああ、でもそう言えば……」
「何ですか?」
身を乗り出して先を促す青いお姉さん。
うわ、近いって……でも綺麗な瞳だなー、眼鏡もよく似合ってるし。
「いや、最近以前にも増して食欲旺盛でして、年頃の女の子としてどうなのかなって……」
俺は、少し顔が熱くなるのを感じながらそう答えた。
ちょっと目が泳いでたかも知れない。
「それ、桜さんが聞いたら、卒倒しちゃうんじゃないですか?」
青いお姉さんは、クスクスと上品に笑いながらそう言った。
「あ、それは大丈夫です。本人には絶対言いませんから」
「そうですね。女の子は怒らせると怖いんですから、気をつけた方がいいですよ」
いや、それは身に染みてわかってます。
主に遠坂で……。
「えーと、桜の知り合いですか?」
ちょっと和んだところで、さっきから疑問に思っていたことを聞いてみる。
「ええ、一月ほど前に害虫駆除で御屋敷にお邪魔したんですが、そのときにちょっと……」
別に親戚とか友だちってわけでもないのか。
一月前って言えば、春休み中だな。
ちょうど桜も慎二の看病で忙しくて、うちにきてない時期だ。
しかし、害虫駆除って、どう見てもそんな仕事してる人には見えないんだが……。
「害虫ってシロアリとかそういうの?」
「うーん、蓑虫さんですかね?」
「蓑虫?」
「あ、馬鹿にしちゃいけませんよ。ほら、冬の間はおとなしくしてるんですけど、羽化しちゃうと面倒なんです。昼間隠れてるくせに、夜になると蠢き出して光に群がるんですから。おまけに蛇の真似事をしてたものですから、ちょっと厳しくお仕置きしちゃいました」
……ちんぷんかんぷん、ってのはこういうことを言うんだろう。
む、羽化した蓑虫が蛾になって蛇だったからお仕置き?
なんだそれ?
「あのー、言っている意味がよく……」
「でしょうね。まあ、愚痴だとでも思ってください。単に不満をぶちまける相手が欲しかっただけです。ええ、まったく、本来わたしが派遣されるほどのことではないはずなのに、たまたま近くにいるからって……確かに最近まともにお仕事していなかったのは認めますが……」
……そのまま延々と愚痴を聞かされた。
給料が少ないだとか、上司が理不尽だとか、ペットの聞き分けが悪いだとか、果てはどこそこのカレー屋の味が落ちただとか……。
……割と俗っぽいお悩みを持ってらっしゃいます。
見た目に反して結構一般庶民かも、カレー好きそうだし。
なんでも、一番の懸念は、一月も留守にして恋人に悪い虫がちょっかい出してるんじゃないかってことらしい。
女の子してるなー。
最初は綺麗な人だって思ったけど、話を聞いてみた限りでは可愛いという表現の方が似合ってるっぽい。
「あ、すみません、つまらないこと聞かせてしまいました。貴方がわたしの知ってる人によく似ていたものですから、つい……」
「いえ、別に構いませんけど、その人ってどんな人ですか?」
その人が、さっきから言っている恋人さんなんだろうか?
俺に似てるってところに興味があったので聞いてみた。
裏を返せば、このお姉さんが俺をどんな風に見ているのかわかる。
「そうですね……ちょっととぼけてて、底抜けにお人好しで、困ってる人を見たら放って置けないような人です。ただ何にでも首を突っ込みたがるのが困りもので……あと女性に甘いって言うか、女癖が最悪です」
えーと、それは客観的に見て……俺?
なんか妙に親近感が湧くんですが……。
きっとその人も苦労してるんだろう。
主に女性関係で……。
「ところで貴方は桜さんの彼氏さんですか?」
「いや、そんなんじゃないですよ。桜は後輩で、親友の妹で、俺にとっても妹みたいなものって言うか……」
「そういうことにしておきましょうか」
む、そういう風に、お姉さんは全部わかってますよー的な微笑みをされると、身に覚えがなくてもちょっと照れるぞ。
確かに桜は良い嫁さんになるなーとか、胸とかお尻とかいい感じになってきたなーとか思ったことはあるが……遠坂には絶対内緒だ。
「でも、桜さんには頼れる人がいませんから、もし貴方が彼女のことを大切に思っているのなら、少しだけ優しくしてあげてください」
青いお姉さんは、道場で後輩の指導をしている桜を眺めながらそう言った。
うん、きっとこの人、本気で桜のこと心配してくれてる。
何て言うか、桜を見る目が違うんだよな。
母親が愛娘を見るような感じだろうか。
どういう関係なのかは知らないが、きっと桜にとってそれは凄くいいことなんだろうと思う。
「任せてください。桜は大切な……妹ですから」
「この街を離れる前にちょっと様子を見に来たんですが、貴方みたいな人が側にいてくれるのなら安心です」
もう一度にっこりと笑って、青いお姉さんは背を向けた。
……そうだ、大事なこと忘れてた。
「俺、衛宮士郎です。この学校の3年生。良かったら、名前、教えてもらってもいいですか?」
「名前ですか?」
青いお姉さんは、再び桜に目を向ける。
その桜は、今は弓を構えて射場に立っていた。
「弓……とでも言っておきましょうか」
ユミさん?
ユミ……由美、友美、裕美……まあ、字なんてどうでもいいか。
……ってどうみても外人さんだよな。
日系の人かな? ハーフとか。
……で、気が付けばユミさんはもういなくなっていた。
それこそ魔法みたいに影も形もなく。
そして……途方に暮れる間もなく空襲警報。
「藤村せんせー! 衛宮先輩がナンパしてましたー! ちなみに玉砕ですー!」
……やばい、これはやばすぎる。
「なにー?! 桜ちゃん、10時の方角、女ったらしにロックオーン!」
「了解ですっ! 巻藁さん、援護お願いします!」
「はーい、悪く思わないでくださいねー。次期主将には逆らえませーん」
「わー! 待て待て、誤解だっ! お前ら人に弓を向けるなー!」
正確に俺を捉えた矢が次々と防射ネットに突き刺さる。
む、桜も腕を上げたか?
……そんな悠長なこと言ってる場合じゃない、何だその強弓はー!
ちょっと待て、ネット破けるって!
今半分通ったぞ、おい!
「桜っ! 誤解だって、人の話を聞けー!」
「もう言い訳は聞き飽きました! こうなったら先輩を殺してわたしも死にますー!」
……ああ、ユミさんも言ってたな……女の子は怒らせると怖いんですよー、って……。
その空色の瞳を思い浮かべて、晩飯は久しぶりにカレーでも作ってみようかなー、なんて思った。
……単なる現実逃避だけど。
※あとがき※
ちなみにじーちゃんは第七でどっかーんです。
今は亡き麻婆神父が色々と手を回していたということで。
他力本願ですが、凛ルートで穏便に救うならこれしかないかなーなんて思いまして、先生にご登場願いました。
別に桜攻略フラグじゃありませんってば!