追い求めた先の―――  M:士郎 傾:シリアス


メッセージ一覧

1: 十夜 (2004/03/28 19:49:57)[gehena001 at hotmail.com]

天気は快晴。季節は春。
吹き込んでくる風は穏やかで、朝の日差しは眠くなるほど暖かい。
それは始まりの一歩で、これから踏み出す先を決める大事なものだ。
過ぎた事を悔やんでいる暇はない。

そう、未練なんて、きっと無い。

だから、今は足を前に。
とりあえずは、目の前を行く似非優等生の背中を追いかけよう。







追い求めた先の―――






気が付けば、夕方。新しい自分の座席で、差し込む夕日に目を細めた。
つつがなく入学式は閉式し、生徒会による片付けも昼間には終わった。その時、貰ったパックのジュースを飲みながら、夕焼けを眺めている。
火照った身体に、窓から吹き込む風が心地良い。
柄にも無く、はしゃぎすぎたんだろう。弓道部の歓迎会は無礼講と言うか、むしろ場外乱闘と呼んでも差し支えないほどだった。
素直に楽しいと思える時間。そんな時間を過ごしたのは久しぶりだ。だから、体と心が重い。
傍から見れば、随分くたびれたように映るだろう。既視感とでも言うのか。硝子に映る疲れた顔は、どこかで見た気がする。
記憶の糸を辿る。
「そっか」
掴んだ記憶の先には、親父の顔。
それは旅先での思い出を話し終わった衛宮切嗣の表情に良く似ている。いや、似ているというのは、正しくない。それは記憶の中の衛宮切嗣と全く同じだった。
妻子よりも正義の味方を選んだ衛宮切嗣。呪いに侵されながらも飄々と生きていた親父。魔術に限らず色々なことを教えてくれた爺さん。
切嗣が俺と同じことを感じていたかは、もうわからない。ただ、自分の中の何かを犠牲にして、その理想を貫こうとしていたのは間違いない。
そう、それは衛宮士郎が自身の為に、彼女の為に、互いの理想の為に、彼女を引き止めなかったのと同じ。
憧れた理想、抱いた理想、背負った理想。その理想の為に払った犠牲。それらを無駄にしないためにも、衛宮士郎は理想を貫くしかない。
不安はない。心配も要らない。
この身はセイバーのマスター。かのアーサー王が自身の理想を貫いたんだ。そのマスターである自分が貫かなければ、俺はあいつのマスターだと胸を張ることも出来ない。
未練なんてきっと無い。後悔だって決してしない。
その為にも走り続けよう。未練も、後悔も、涙も振り切るぐらい速く。
彼女のことを忘れない限り、足は止まらない。
だから、覚えておこう。過ぎ去った日々。今日という日。それが衛宮士郎を衝き動かす、思いの欠片だから。
底に溜まったジュースを啜る。聞こえる音が何となく侘しいのは、庶民派だからか、時間のせいか。結論を出すのは止めとこう。なんでもかんでも白黒つけるのは風流じゃない。
藤ねぇは、俺が物事をはっきりさせなきゃ気がすまないと思っているようだが、俺だって日本人だ。時には曖昧さも美徳だってことぐらいわかってる。
さすがに親父くらい曖昧だと、自分の事さえ曖昧だから始末に終えなくなるけど。
苦笑しつつ、ストローを押し込んで立ち上がる。
そういえば、親父はジュース飲んだ後、ストロー入れてなかったな。
空になったパックをゴミ箱に捨てて、ドアの前に立つ。
手を掛けようとした所で、扉が勝手に開いた。
自動ドア?
そんな愚にもつかないことが頭をよぎる。どこに教室の扉が自動ドアの学校があるんだ。誰かが開けたに決まってる。
目線の先には赤いコートの誰か。
廊下には、遠坂の驚いた顔があった。
「何でそんなところにいるわけ?」
驚かせたせいなのか、声音と顔はやたらと不機嫌に彩られている。だけど、驚かされたのはこっちも一緒だ。大体、いつまでも遠坂の顔色を伺うというのは、男として何か問題があるのではないだろうか。
故に、少し攻勢に出てみる。
「それはこっちの台詞だ。遠坂、帰ったんじゃなかったのか?」
「衛宮君のお迎えに来たのよ。何とかと煙は高いところが好きって言うから、屋上に行ったけど、こっちにいたのね」
むむ、相手も交戦の意思はあるようだ。というか、そのにやついた表情はやる気満々ですか、遠坂さん。
足が勝手に後ろに下がる。トラウマか、トラウマなのかー。
ええい、尻込みするな。少しは気概を見せろ、衛宮士郎。
「なんでさ。別に子供じゃないんだから、迎えに来る必要なんてないだろ」
「朝も言ったでしょ。あんたはいつ死んでもおかしくないような雰囲気だって。そのあんたがいきなり他の人間に、先に帰っててくれなんて言ったら、私だって嫌な想像くらいするわよ」
その言葉に意固地になっていた頭が少し軟化する。む、それはつまり。
「心配してくれたって―――いた!」
言葉は言い切る前に撃墜された。でこピンで。
「調子乗ってんじゃないわよ。私はあんたの心配なんかしてないわ。私はあんたに文句が言いたかっただけ」
「文句?」
「そう。私はね、あんたの馬鹿さ加減が頭に来てるの」
俺、なんか遠坂を怒らせるようなことしたか。別に歓迎会じゃなんもなかったし。ホームルームはそもそも違うクラスだ。なら、朝か。でも学校着く前はなんか機嫌良さそうだったし。じゃあ、会った直後か。もしかして、早起きを指摘したことを怒っているのだろうか。確かに、あれは俺には珍しい白星だ。というか、衛宮士郎が遠坂凛に勝利を収めたのは、初めてじゃないだろうか。
「多分、衛宮君が考えてることは的外れよ。わかってるんじゃないの。私が何に怒ってるのか」
思索は遠坂の声で遮られた。そう、遠坂の言う通り。わかって避けた、最初の原因。それは歓迎会の後の事。
「そうだな、大体わかってる」
おそらく、遠坂は俺がここにいることを怒ってる。俺が遠坂たちと一緒に帰らなかったことを怒ってる。そして。
「なら、その疲れた顔は止めなさい。今からそんなだと禿げか白髪は確実よ」
相変わらず普通の人じゃ言いにくい事をずけずけ言う。それは小さかった衛宮士郎が、衛宮切嗣に言えなかった言葉。
爺さん、どうしてそんな顔してるのさ。そんな一言。
ただ、訊いたとしても親父はたぶんこう答えただろう。
「いつの間にか、こんな顔だったんだよ」
その言葉が、思わず口をついてでた。
「衛宮君らしくない答えね。それ、誰の言葉よ」
どうも、遠坂にはお見通しらしい。ただ、誰のと聞かれると返答に窮する。それは衛宮士郎が衛宮切嗣を脳裏に投影して考えた言葉だ。なら、それは一体誰の言葉なのか。
「ただの想像だよ。爺さんなら、そう答えてたと思う」
「爺さん? 衛宮君てお爺さんいたの?」
遠坂が不思議そうな顔で聞いてくる。そういえば、人前で親父の事を爺さんて呼んだのは藤ねぇ以来だ。
「あ、違う、違う。爺さんてのは切嗣、親父の事だよ」
「なんで父親が爺さんなのよ。そんなに年離れてたわけじゃないんでしょ?」
「いや、どっちかって言えば、年は近かったよ。ぎりぎりお兄さんって呼んでも良かったかもしれない」
「じゃあ、なんでよ?」
「なんでだろうな」
俺は何時からそう呼んでただろうか。切嗣が逝く間際か。切嗣が世界中を飛び回り始めた頃か。
それは病室で会った時。自分のことを、魔法使いと言った切嗣に。
俺は初めて会話をした時から、親父の事を爺さんと呼んでいた。
幼い自分は、どうしてそう呼んだのか。魔法使いといったら老人っていうイメージでもあったのか。それとも、うだつのあがらない、頼りなさそうな切嗣の第一印象が爺くさいと思ったのか。
もしかしたら、気付いていたのかもしれない。磨耗した人生。諦めた理想。衛宮切嗣の削れた部分。心の冷たい部分が、気付いていたのかもしれない。
何も自覚はなかった。ただ、言葉が出た。
切嗣の子供のような台詞に、童心は素直に驚いた。
切嗣の老人のような内面に、一度死んだ心は思わず呟いた。
『――――うわ、爺さんすごいな』
知らずごっちゃになった感情は、そんな台詞を洩らした。
ただ、それも推測。事実は忘却の彼方。手繰る糸も存在しない。
親父に何度も聞かされた、家族になった時の二人のやり取り。それは俺の感情まで教えてくれない。
だから。
「なにぶん昔の事だからな。正直、理由は覚えてないよ」
特に何も言わなかった。
「そう。まぁ、想像はつくけどね」
なんとも意外な返答が帰ってきた。
「想像が、つく?」
「ええ。衛宮君て、お父さんと似てるでしょ?」
「別に、似てないぞ。俺は親父みたいに自堕落じゃない」
血は繋がってないんだから、顔だって似ていない。大体、遠坂は親父を知らないのに、どうしてそんな事が言えるのだろう。
「そういうことじゃなくて、もっと深いところで似てるんじゃないかって言ってんのよ。私から見て、今の衛宮君は爺くさいもの」
前途ある若者に言っちゃいけない言葉だぞ、それは。などと、今生を言ったらぶっ飛ばされそうなので口にはせず、遠坂の言葉を反芻する。
それって。
「親父が今の俺みたいだったってことか」
「そういうこと。で、どうなのよ?」
衛宮士郎と衛宮切嗣。その相似点。そんなものはない。
「やっぱり、俺と親父は似てないよ。だって、同じだから」
相似ではなく、類似でもなく、同一。
だって、俺は、衛宮切嗣の理想を背負ったんだから。
「目的語をつけなさい。それだけじゃいくら私でもわかんないわよ」
遠坂は不機嫌そうな顔でこちらを睨んでいる。細められた目が、答えを催促する。
ああ、そういえば、遠坂に言ったことはなかった。衛宮士郎の、衛宮切嗣の理想。顔をつき合わせてそれを言うのは憚られるので、窓側へ歩きながら、言った。
「衛宮切嗣は正義の味方になりたかった。そんな理想を、俺は切嗣から継いだんだ。だからさ、似てるんじゃくなくて、同じなんだ」
返ってくる言葉はない。振り返ると、遠坂は鳩が豆鉄砲でも喰らった様な顔で、こちらを見ていた。
「む。俺、そんな意外なこと言ったか?」
「―――いいえ。むしろ、意外でもなんでもない。それなら、今までの辻褄も合うし。そもそも、なんで今まで気付かなかったのかしら」
その表情が元に戻ったと思ったら、今度は自分の思考の中に埋没していく。その切替の早さには、未だについていけない。
「衛宮君」
気付けば、遠坂はいつも通りの顔をしていた。
「それで、これからどうする気?」
「どうするって、なにをさ?」
人に言っておいて、自分は目的語をつけないのはずるいと思う。ただでさえ、俺と遠坂では思考速度が違う。その差は、魔術師としての差だ。いつかは乗り越えなければ、理想には追いつけない。
「これからはこれからよ。正義の味方になるなんて魔術師が根源に至るようなものよ。衛宮君はこの先、魔術師が研究を重ねるように、正義の味方になるためになにをするのかしら?」
それはいまだ定まらない、衛宮士郎の指針。
「今日みたいに楽しむだけ楽しんどいて、後で後悔するような無様を続ける?それとも、自分の楽しみや望むものを斬り捨てて誰かを助ける?衛宮士郎はこれからどうするの?」
その言葉は、衛宮士郎の胸を、深く穿つ。それは言峰の時とは、また違う傷を開く。確かに、遠坂凛は言峰綺礼の弟子だ。そのあり方、その意思、何から何まで違うが、二人は確かに師弟だった。
だから、答えなきゃならない。あの時のように。
なにを。一体なにを答えろというのか。俺が背負ったのは、衛宮切嗣の理想。そう、理想のみ。故に、行き着くまでの道のりは知らず。行き先は五里どころか、どこに踏み出すかすらわからない。
なんて馬鹿だ。俺は走り続けることばかり、貫くことばかりに気を取られて、どうやって辿り着けばいいのか、まだわかってない。
だから、俺はこう答えるしかない。
「わからない」
どうすれば、目に見える全てを救えるのか。どうやれば、己が抱く理想を体現できるのか。正直な話、全くわからない。
「なのに、正義の味方を目指すっていうの? 正義の味方はそんなに甘いもんじゃないでしょう」
辛辣な遠坂の言葉に頷く。そんなのはとっくの昔からわかっていたこと。先が見えないのはいつものことだ。
だから、俺はこう答えるしかない。
「まずは、それを捜すよ。顔も知らない誰かを助けながら、俺はそれを捜す」
「――自分のことはいいわけ?」
遠坂の声は張り詰めている。それは叩けば折れそうなほど。向けられる視線も刃のよう。それは目が痛いほど。
ここにきて、遠坂は未だに怒ってる。衛宮士郎の在り方に、本気で怒っている。
それは嬉しくもあり、申し訳なくもあった。
俺は遠坂を宥めることはできない。今から言う言葉を、遠坂はきっと認めない。
それは当然のこと。彼女は魔術師で、俺は正義の味方だから。
胸に手を当てる。そこにあるのは、彼女に関する全て。
「ああ。よくないけど、いいんだ。俺はもう、持ってるから」
故に、未練なんて、きっとない。それは彼女への未練で。
同時に、普通の幸せへの未練だった。
「わかったわ。全然納得してないけど、衛宮君の考えはわかった」
そういう遠坂はものすごい不満そうだ。なのに、そんな何かを決意したような目をしてるのはどうしてなんだろうか。
「その上で、質問があるんだけど」
「なにさ?」
「衛宮君、倫敦に行ってみる気、ある?」
突然の質問に情報の処理が追いつかない。
倫敦?何故に倫敦?もしかして海外旅行?倹約家の遠坂が旅行に連れて行ってくれるわけがない。ならそれは。
「時計塔で魔術を学ぶかって事か?」
「ご名答」
彼女は右の人差し指を立てて微笑んだ。
「仮にも正義の味方を目指すなら力は必要でしょう? 私の従者ってことでいいなら連れて行ってあげる」
その提案は魅力的だろう。俺は魔術師としては三流もいいとこだ。時計塔に普通に入ろうとすれば、それこそ何年かかるかわからない。なら、遠坂に師事しながら、時計塔で学ぶのは悪くない選択だろう。悪くはないけど。
「気持ちはありがたいけど、遠慮しとく」
俺が目指すのは魔術師じゃなく、正義の味方。協会に属しても、理想を貫くのに変わりはない。なら、正義の味方としての在り方と協会の魔術師としてのそれが、相反したらどうするのか。そんな事は決まってる。たとえ協会に反してでも、衛宮士郎は理想を曲げたりしない。ただ、それは遠坂凛という魔術師に泥を塗るということだ。
だから、遠坂の弟子として時計塔にはいけない。聖杯戦争以来、遠坂には世話になりっぱなしだ。その彼女に恩を仇で返したりなどしたらどうなるか。イメージすることすら出来ない。
「まぁ、衛宮君ならそう言うと思ったけどね」
「悪い、遠坂。俺さ、卒業したら世界を廻ってみようと思うんだ」
幼い頃、切嗣はいきなり、『今日から世界中を冒険するのだ』なんて言って本当に実行した。冒険していたのは本当の話。お土産話は波乱万丈な冒険譚で子供心にとても興奮したのを、まだ覚えている。ただ、それが本当に冒険目的だったのかどうかはわからない。
旅先で、誰かの助けになった話もよく聞いた。かといって、人助けが目的だったかどうかも、俺にはわからない。
ただ、身振り手振りを交えながら話す切嗣が、呆れるほど楽しそうだったのは事実だ。たとえ、そこに楽しんだことを後悔する気持ちが混じっていたとしても、切嗣の旅路は笑って話を出来るものだったということに変わりはない。
なら、衛宮士郎の旅路は切嗣のそれをなぞるものか。
それはない。親父が旅に出た目的がわからないのだから、なぞることなんてできやしない。そもそも、なぞる必要もない。それは理想への一歩を探す旅。砂漠で胡麻を捜すようなもの。だからこそ、世界中を巡って捜さなければならない。そこに、切嗣の後を追う余裕なんてどこにもない。
地図などなく。コンパスもなく。
故に、これからの旅路は、俺だけのもの。
もらったものは数え切れず。背負ったものはただ一つ。
それでも、それさえあれば、衛宮士郎は旅を続けられる。
答えた俺をどう思ったのか、遠坂は呆れたように、眩しそうに、少しだけ笑った。
それも、瞬きの間に消えて。
「へぇ。じゃあ衛宮君、英語くらい出来るんでしょうね」
あくまの笑みだけが浮かんでいた。






月と星は夜の闇によく映え、優しく世界を照らしている。
学校からの帰り道、瞬く光はあの時の事を思い出させる。
彼女と初めて会った、開戦の日。
槍で心臓を貫かれたからか、家に帰るまでの道程なんてろくに覚えていない。
その日起きたことで、はっきりと覚えていることは一つだけだ。
それがあまりにも大きすぎて、他の記憶は全て塗りつぶされてしまった。
そう、たとえこの身が地の底に堕ちようとも、忘れることのないあの邂逅。
降り注ぐ月光は、その時のことを思い出せて、色々な感情を呼び起こす。それらを理解することはできないけど、その中に後悔が混じっていることだけは、絶対に無い。
歩きながら、徒然と、そんなことを思う。
不意に、視界が少しだけ翳った。見上げれば、小さな雲が月を隠している。
それも、数える程度。雲を運んだ風が、再び雲を流していく。
視点を地上に戻すと、もう分かれ道だった。
「ここでお別れね、衛宮君」
遠坂の一声で、俺たちは歩くをやめた。
「ああ。気をつけてな」
ここで、送っていこうかなどとお決まりの発言はしない。
遠坂に言わせると、どうも俺の方が危なっかしいらしい。からかわれるのは目に見えてるんだから、自ら傷を負うこともないだろう。
それに、言うべきことは他にある。
「ありがとう、遠坂」
「なによ、いきなり」
彼女はなんについての謝辞よ、と言って、肩をすくめた。頭の回転の速い遠坂の事だ。見当はついてるんだろう。ただ、該当項目がありすぎてわからないってところか。多分、予想は全部当たってる。外れは、ない。
「まぁ、色々と。おかげで助かった。色々なことが漠然としてたけど、少しは見えるようになったよ」
「そう。私が言いたかった事は全然わかってないくせに、理想については先が見えたみたいね」
この鈍感、そう言って遠坂は重く溜息をついた。
「結局、衛宮君にはそれしかない。楽しみなんて一つもないのね」
楽しみはない。衛宮士郎には理想だけで、他には何も求めない。望むものは理想だけで精一杯。だから、他の事に割く余裕なんて、どこにもない。
それも、昔の話。
「そんなことないぞ。俺にだって、楽しみくらいある」
そう答えたのが本当に意外だったのか、遠坂は表情を失くした。それもつかの間。遠坂は髪をかき上げ、冷徹な視線を返す。それは魔術師のようで、魔術師とは違う目。遠坂凛の眼だった。
「――楽しんだ後に後悔するような人間にそんなものがあるわけ? どんな楽しみよ、それ」
その声があまりにも冷たく鋭利だったからか、少しばかりの反発心が沸いてくる。それに、それはおいそれと口に出来るものじゃない。
少なくとも、未練が無いって言い切った今日、言う事じゃない。いくら本人がそう思ってなくても、未練がましく思われるのは間違いないんだから。
「倫敦で会ったら、教えてやる」
「――そう。楽しみにしとくわ」
遠坂にしては、あっさり引き下がった。なのに、不機嫌そうな様子はなく、なんだか微笑んでいるように見える。
なんでさ。
「それなら、倫敦に来たらちゃんと連絡の一つでもよこしなさい。時間があったら観光案内の一つくらいはしてあげるわ」
「わかった。もしそっちでなんかあったら、すぐ駆けつける」
「ふん、半人前の手伝いなんて要らないわよ」
遠坂はそっぽを向いて、突き放すように声を上げた。長い二つの髪が揺れる。
「悔しかったら、せいぜい腕を磨いておきなさい。あんたは遠坂凛の最初の弟子なんだからね」
人指し指を突きつけられる。その本人の顔が赤いのは夜風のせいだけじゃないと思う。
「もちろんだ」
師匠の激励に弟子が応えるのは当然のこと。俺は気合を入れて頷いた。
遠坂は満足そうに微笑むと手を振って、坂を再び上り始める。
「じゃあ、また学校でね」
「ああ、お休み。遠坂」
俺も彼女とは逆の方角に向けて歩き出す。
「あ、そうそう」
背中越しに遠坂の声が聞こえた。首だけ向けると、坂の上で仁王立ちした遠坂の姿が見えた。
「衛宮君。家に帰っても他の人に私と一緒に帰ったって気付かれないように気をつけなさい。あんたはただでさえ顔に出やすいんだから」
そう言う遠坂の顔は、暗くて見えない。それは師匠としての忠告なのか、友人としての警告なのか、はたまたあくまのからかいなのか。魔力で視力を強化すれば見えるだろうけど、なんとなく無粋な気がしてやめた。
一際強い風が吹き、櫻の花が舞い上がる。そう、目に映る風景はこんなにも雅。それに水を差すのは、本当に無粋だ。
「肝に銘じとく」
そう呟いて、前を向く。
耳を澄ませば風の音。顔を上げれば月の光。目を閉じ、幻視するはその姿。あの日の誓い。あの日の別れ。
それも自分の足音で掻き消える。
誓いは変わらず、想いを新たに。
別れは変わらず、望みを彼方に。
衛宮士郎は人助けに見返りを求めない。誰かがそう言ったが、その認識はもう当てはまらない。
衛宮士郎が楽しみにするたった一つの報酬。それは理想に求めるものじゃない。かといって、理想と切り離せるものでもない。
たった一言呟くだけの、ささやかな楽しみ。
それは理想を貫き通した後。セイバーがアルトリアに戻ったように。
正義の味方は衛宮士郎に戻って、こう言おう。






「セイバー――――君を、愛している」


記事一覧へ戻る(I)