久し振りに思い出した。
昔の。五年程前の出来事。
意図的に目を背けてきた、あの時の情景を。
走馬灯というのがあるらしいが、きっとこんな風なんだろうと思う。
だって衛宮士郎は現在進行形でヤバイ状況に陥っていた。
その生命はまさに風前の灯火。
刹那の先に、確定した死が待ち構えている状態にあるのだ。
具体的に言うと。人間離れした身体能力を持った蒼いウェットスーツみたいな体にぴったりフィ
ットした服をきた、物騒な槍を持った変な奴に、いままさに心臓を突き殺されそうになっている
というそんなふざけた状況。
そして、その理不尽さのせいで、いままで確りと押さえ込んできたモノが、
キィ
キィ
と俺の体の奥の奥の奥から啜り上げるように哭きはじめている。
それであの事が浮かんできたのだろう。
最悪の状況を、それ以上の最悪で乗り切れと俺に教えるために。
その間にも、目に映る槍の切っ先は、ゆっくりと左の胸に吸い込まれていく。
ついで体内へと槍が潜り込む。
痛みは無い。多分まだ脳に情報が伝わっていないからだろう。
異物が入った感じだけは、する。
気付いていないだけで既に心臓は貫かれてしまっているのかもしれない。
刹那の思考で考えていると、
ギチリ――――――
唐突に聞こえた。
心臓が鳴らしたものであると、瞬時に解った。
穴が穿たれたことを知らせる音だと。
同時に、最後の心音。心臓が上げた断末魔の叫び・・・・・・そんな音では決して無く。
鎖に繋がれ。
杭で身動きを封じられていた獣の歯軋り。
その身の束縛から解き放たれ、思わず浮かびそうになった歓喜の衝動を強引に押さえたために生
じた音。
これからは思うままに力を振るうという、
衛宮士郎に対する高らかな宣言であると。
瞬間―――
自分の右胸の内側から、爆発したかのように血や肉片、脂肪や体液を撒き散らせながら飛び出し
ていく黒い線を、毅然と見据えながら。
俺は理解した。
ドンッ―――
突然の衝撃にランサーの体がブレる。
視界が赤く染まり、生気が一気に抜けていく。
「ッ―――ガッ――・・・」
声を発しようとするが、思い通りにいかない。
それでも強引に喋ろうとして、
ゴフ―――
大量の血液が吐き出された。
息苦しさと激痛。虚脱感と寒気に襲われながら、ランサーはその原因に視線を合わせる。
自らの心臓を貫く一本の黒い線。
それは異形の槍であった。
ドス黒い肌は、皮膚の下を無数の虫がもぞもぞと這い回っているかのように蠢き。
所々内側から腐汁や腐肉が弾け飛んでいる。
メキメキとその形状を絶えず変え、刻々とその姿を別のものに変貌させていった。
見たことも聞いたこともないその槍を見やりながらランサーは、しかしそれが何であるか理解し
ていた。
姿形に類似点はまったく無く、カラーリングも全然違う。こんな生物的な特徴なぞ微塵も存在し
ない。
だが間違いなくこいつは俺の槍。
ゲイ・ボルグだ―――
ランサーは霞んでいく視界の中ではっきりと認識した。
自分と共に数多の戦場を戦い抜いてきた相棒と同一存在である黒槍。
因果を逆転させる必殺の魔槍となにからなにまで瓜二つの怪槍。
―――いや、違うか・・・・・・
苦虫を噛み潰したように顔を歪め、ランサーは否定する。
この槍は常に変化し続けている化け物。ゲイ・ボルグを模倣しながらすでにその性能は本物を凌
駕しており、いまも尚向上していた。
心臓を刺し穿ち、殺し尽くすのみのゲイ・ボルグであるのに、コイツは俺の魂をも打ち壊さんと
己が身を変貌させ、その穂先を伸ばし続けている。
進化し続ける怪物。
英霊を完全抹殺しうるこの槍を生み出したモノへとランサーは顔を向けた。
おぼろげに映るそいつは、数瞬前に自分が刺し殺した、取るに足らないただの人間。
無力なハズのそいつの、だが右胸からこの槍の怪物が生えている。
槍に食い破られてグチャグチャになっているはずの胸は、無数の何かによって埋め尽くされてい
て、ランサーにはそれが絡み合い交じり合う鋼の刃に感じられた。
ランサーは槍によって壊されていく己が魂を自ら削って力を絞りだし、殺したハズの男の顔を見
ようと必死に顔を、動かせないと解ると眼球だけでも向けようとする。
すでにこの世に現界していることが奇跡である状態で、ランサーは相手の顔を見たいというそれ
だけを思って存在していた。
手の中のゲイ・ボルグも消え、握っていた手も、その手と繋がる腕もとうに消滅してしまってい
る。
そうして肉体も、意識も消えようとする寸前、ランサーは見た。
俯いていてよくは見えなかったがその口元だけは見る。
ランサーの見た最後の映像は、禍禍しく歪んだ狂笑であった―――。
槍男が目の前で消滅したが、俺には気にする余裕は無かった。
キチキチキチキチと、頭の中を、無数の虫がそのアゴを一斉に噛み合わせているような耳障りな
音が反響し、その発信源である、自分の体を刻々と剣化させていく百の鋼・千の刃を睨んでいた
からだ。
風穴を開けられた左胸はすでに心臓からなにから細胞の一片までをも黒鉄白銀に変えられ、右胸
から生えた黒い槍は獲物を失ってなおその貪欲な進化を止めていない。
衛宮士郎の人間としての機能はほとんど停止させられ、剣群にとってかわられている。
このままでは後数刻で俺は一本の剣に変えられてしまう。
その上接近してくる気配を感知している。
剣化の影響で時間限定の超人みたいになっている元・人間器官が、先刻槍男と殺り合っていた赤
服が近付きつつあると告げていた。
ヤバイ。
このままの状態で今度は赤服と戦う事になったら、剣化の速度が爆発的に増大して抵抗する暇も
なく剣になっちまう。
そんなのは嫌だ。絶対御免だ。
躊躇なく右胸の槍を掴む。
「ぐぅ―――っっっ」
激痛が脳髄を、背骨の中の神経網を乱打する。
槍の抵抗。
「・・・く、そっ―――――――――!!」
構わず力を篭める。
「たれがぁぁぁ―――――――――っ!!!」
強引に引き抜く。
ブチブチと、血管やら神経やらが引き千切れていく。
意識が壊れそうになる。
無視して勢いに任せ、一気に抜いてしまう。
衛宮士郎の肉体から分離された槍は、それでも天に向って咆哮する。
握った掌から彼の者の力強い脈動が伝わって、俺の心を震わせて止まない。
生じた思いを振り切り、槍を持った腕を振り上げ、そのまま振り抜いた。
べチャ―――
異音が響く。
廊下に叩きつけられた槍は見る影も無く、そこには腐肉と腐汁の塊があるだけ。
辺りには臭覚が壊死するんじゃないかと思う程の腐臭が漂い、それが槍の無念の顕れのように感
じられたが、浸っている暇は俺には無い。
もうそこまで赤服が来ているのだ。一刻も早くここから離れなければならない。
異常化している肉体に命令を出す。
瞬時に反応した衛宮士郎の体は、槍男から逃げていた時とは比較するのも馬鹿らしい程の性能を
発揮する。
廊下を、校舎を、校庭を・・・瞬く間に走り抜けた俺の肉体は、そのまま深夜の町を疾駆した。
侵蝕し続ける刃群をその身に抱えながら一目散に家へと向う。
家に帰りたい。
日常に還りたい。
その思いだけで俺は足を、体を動かしていた。
―――間に合わなかった!?
走りに走ってきた遠坂凛は、立ち尽くしている自分のサーヴァント・アーチャーの姿を見て、そ
う思った。
自分達とランサーのサーヴァントとの死闘を目撃してしまった聖杯戦争とは無関係だろう第三者
を、証拠隠滅のため抹殺しようとするランサーを止めるようアーチャーに後を追わせてから数分
が経過している。
先程見たランサーの力ならその目撃者を百殺するには十分な時間が過ぎているため彼女はその最
悪の結果を想像し、暗澹たる気分に襲われた。
―――だがすぐに異変に気付いて戸惑う。
アーチャーの立っている辺りから咽返るような腐臭が漂ってくるのだ。
おかしい。
あの目撃者がランサーによって殺されてしまったのなら臭うのは濃厚な血臭であるはず。
こんな、長時間高温多湿の密室に放置された腐った死体が発するような臭い、するわけが無い。
待っていたハンカチで口元を覆い、アーチャーへと近付く。
アーチャーは無言で床の一点を見つめていた。
彼の見ているモノに視線を合わせ、遠坂凛は顔を顰める。
そこには吐き気を催すほど醜悪な物体が腐り果てていた。
見ているだけで自分までが同じように腐ってしまうような錯覚に囚われながら、何故か目を離す
ことができない事に言い知れぬ不安を抱いてしまう。
「・・・・・・なに、が・・・あったの・・・?」
振り払うかのようにアーチャーに問い掛ける。
答えなど端から期待してなどいないそれに、しかし返事を返すアーチャー。
素直に驚きを露にした遠坂凛。
だが、その内容は更なる驚愕を彼女に与える。
―――――――――ランサーが消滅した・・・
何者かの手によって殺されたのだ、凛―――――――――
呆然とする彼女の耳に、アーチャーの声は遠かった・・・・・・。