誰が為に鐘は鳴り響く (M:氷室鐘 傾:ほのぼのシリアス)


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1: 藤村流継承者 (2004/03/23 12:23:26)[calorie at mb9.seikyou.ne.jp]






『誰が為に鐘は鳴り響く』





 1月下旬。平凡であることが、ある人間にとっては、特別である日々。





 私の名は氷室鐘という。

 あまり近代的な名前ではないが、私自身はさして気にしていない。子供の頃はそのことでたびたび馬鹿にされたが、私は悉く無視していたし、からかってくる男子を蒔寺楓という口が悪い女子が撃退してくれたので、日常生活に支障はなかった。

 私の朝は早い。
 何故なら陸上部の朝練が忙しいからだ。本来ならば、厳かに編物に勤しむのが私の趣向に沿っているのだが、蒔寺の他愛ない謀略によって陸上部への入部が決定的となってしまった。
 本気で拒絶すれば編入することも出来たのだろうが――一度は自分の殻を破るのも悪くないと思って、流れに身を任せるに至った。

「――おはよう」

「あ、鐘ちゃんおはよう」

 部室の前で、三枝由紀香と出会う。

 少女は常に穏やかな空気を背負っている。私が周囲の熱を冷ます効果を持つのに対し、彼女は周囲の空気をほのかに温める効果を持っている。
 どちらがより有意義かはわからないが、どちらが重宝されやすいかは自ずと理解できる。

 彼女は確かに大人しい人物ではあるが、引っ込み思案ではない。思うところがあれば、自分で行動を起こす決断力と実行力を持っている。
 ただ、小さなところからこつこつと進めていくので、行動力のある人間からすればほとんど動いていないように見えるのかも知れない。

「――あれ。蒔ちゃんいないね」

 部室の扉を開けても、蒔寺の姿はなかった。いつも朝練を面倒くさがりながら、結局は毎日顔を出している。しかも部長に次いで二番目に来ることが多い。

 部室の中には部長の矢口さんがいた。蒔寺は陸上部のホープではあるが、自由奔放すぎるので部長向きではない。私は……、特にホープだとも思っていないし、責任感が強い訳でもないから辞退した。

「ああ、ふたりともおはよう」

「おはようございますー。蒔ちゃんは?」

「んー、まだ来てないかな? 今日の朝は冷えたからねー」

「寒かったですよねー」

 鞄を床に下ろしながら、由紀香が同意する。

 陸上部の部室も、他の運動部の例にもれず整頓されているとは言いがたい。そこらにジャージやら出処不明なマンガやらが転がっており、これが女子の管理している部屋かと目を疑いたくなる。
 しかし、目の前に映る光景だけが唯一の真実。目を逸らしてはなるまい。

「……矢口。いい加減、本格的に部室を整頓すべきだと思うぞ」

「んー? そうだね、わかってるんだけどね……。新入部員が来るまでは、なんとかしなきゃいけないよね」

 矢口は歯切れが悪い。責任感はあるのだが、どうにも腰が重い傾向がある。苦労しそうなことは棚上げするというか。致命的なところを間違えないのが唯一の救いだが。

 と、陸上部らしく猛ダッシュをかけながら、蒔寺が豪快に扉を開ける。

「あー! さみー!」

「蒔ちゃんおはよう」

「蒔、今日は遅かったな」

「おう! ちくしょーさみーなー!」

 蒔寺はそれしか言わない。これから暖房もろくに機能していない部屋で着替えることを思えば、無理もない話だと思うが。

 勢いよく鞄を床に下ろして、ぐあーと制服を脱ぎ始める。彼女はどうも勢いだけで生きているような気がしてならない。

「……蒔。そこにある『はじめの一歩』はおまえのだろう。誰も読まないのだから、さっさと持って帰れ」

「んあー? 別にいいじゃんかよ。あたしんちに置くとこないんだし」

 だからここはおまえの部屋じゃないと言っている。

 だが、蒔寺は他人から何を言っても自分の信念を変えることはなく、ただ自分の意志に従って行動する。つまりは極度の我がままということだが、それで憎まれないのは彼女の特権だろう。

 ――眼鏡をケースにしまい、ロッカーの一番上に置く。油断して部室の椅子やロッカーの外に置くと、ほぼ確実に所在不明になるか、完膚なきまでに破壊されているかのどちらかになる。原因は多々あるが、その8割は蒔寺の所業である。

「……なあ、氷室」

「なんだ?」

 既に着替えを終えた矢口が、どこか親しげな声で問うてくる。

「あなた、メガネを取った方が可愛いんだから、コンタクトにしないの?」

「……余計なお世話だ。矢口ももう少しずぼらなところを直した方が男ウケしやすいぞ」

 お互いに言い放つ。矢口とは、一年の頃からこういう仲だ。

 背は私と同じくらいで、脱色している訳ではないが髪は少し赤い。髪を首の後ろで適当にまとめているのだが、いつもどこかしらの髪がはねているというクセ者である。

「――うしっ! 鐘やん行くぞー!」

 いつの間にやらジャージ姿の蒔寺楓。

「早いぞ蒔の字」

「いいじゃん、蒔寺がやる気になってんだし」

 由紀香を残し、部室の外に出る。由紀香は、朝練に来れるメンバーがひととおり来るまで、部室で留守番だ。なにせ部室と練習区域が離れているので、誰かが見張っていないと貴重品がまずい。それに、あらかじめ暖房を炊いておかないと部員の数名から苦情が出る。
 そういう輩は無理に朝練に来なくてもいいと思うのだが、来るにこしたことはないので由紀香は待機。朝練程度なら、マネージャーがそう頻繁に活躍することもない。

「それじゃ由紀っち、また後でなー」

「三枝、あとよろしくねー」

「うん、わかった」

「ユキ」

「……どうしたの、鐘ちゃん?」

 私の真剣な眼差しを察して、由紀香が疑問符を浮かべる。その愛らしい彼女に、

「マネージャーだからといって全く走らんと、体重が増えるので気を付けるのだ」

「あう……!?」

 言うと同時に扉を閉める。たまには喝を入れんと取り返しのつかないことになる。

「……鐘やんもオニだねえ」

「ユキのためだ。そのためにはあえて憎まれ役も買って出よう」

「カッコいいねー。そんじゃまあ、うちらは走ろうか」

「うむ」

 とりあえず、今の私にはそれしかない。

 走ることしかできないが、今はそれが楽しい。後になって思い返せば、きっと充実していたと思えるだろう。





 昼食。

「あ、や……そうなんですか。そうとは知らないで、引き留めちゃって……」

 いいんですよ、なんて遠坂嬢は由紀香に負けず劣らず誠意をこめた口調で返答する。
 遠坂凛は、改めて語るでもない優等生である。美人であり聡明、行動力があり統率力がある。非の打ち所がない完璧すぎる人間。

 ただ、蒔寺に言わせれば、

『非の打ち所がないんじゃなくて、その非を隠すのが得意なんだよあいつは』

 ということらしい。真実はいまだ闇の底、誰も遠坂嬢の真の姿を拝めていない。

 うなだれて帰還してくる由紀香。遠坂嬢は、そんな意気消沈している由紀香の背中を目で追った後、教室から姿を消した。

「……お、やっぱりダメだったか由紀っち。玉砕覚悟でアタックとはいえ、こう何度も砕け散っちゃあ復元するのがタイヘンだなー」

「う。そんなことないもん」

 由紀香がすねる。そのくせ、弁当に箸を進める速度は誰よりも速い。

「やけ食いはよくないぞー。体重計が悲鳴をあげるぞー」

「……蒔、それぐらいにしてやれ。しまいには泣く」

「な、泣いたりしないよぅ。たた、体重計がこわいなんてこと、ありえないもん」

「ほら、顔で笑って心で泣いている」

「なにさ。言い出しっぺは鐘やんじゃんか。『運動しないと身体の末端から腐ってくる』とか」

「……そんなこと言った覚えはない。しかも食事時になんてこというんだおまえは」

「別に気にすんなよ。本当に腐るんじゃないんだし」

「想像力の問題だ。誰もみな、蒔のように割り切るのがうまい人間ばかりではない」

「へーへー。わかりましたよー」

 口では承諾しながら、私の弁当箱から一口カツを奪う。

 全く、一片たりともわかっていない。言うだけ無駄だと知っていても、言わずにいられない。

 由紀香は、さっきより控えめに箸を動かしている。カロリーの高そうな、揚げ物関係を避けて口に運んでいるようだ。
 ……だから、運動しないのがまずいのであって、食を細くしろと言ったのではないのだが。





 2Aの担任である葛木先生は、愛想がないわりに律儀な人物だ。
 その無愛想さから、初めの頃は彼が私と似ている――などと錯覚していたこともあったが、それはただの傲慢だった。

 彼はただ、何にも興味がないだけだった。

 私は違う――と、思う。

 葛木先生が去り、教室はにわかに騒がしくなる。鞄に必要最低限のものを詰め込み、部室に行こうと立ち上がる。
 ――と。

 私の机に手を掛けて、男が立っていた。人懐っこい微笑は、裏を返せばハエトリソウのように不純な甘い臭いを放っているからだと、表現できないこともない。

「……何か?」

「いやさ、放課後時間ある? あったらさ、ちょっと第2校舎裏に来てくれないかな? 話があるんだよ――。ここじゃまずいんだ、頼むよ」

 言いたいことだけ言って、その男は身を翻して教室から消えていった。
 顔は知っている。名前も知っている。ただ、ここに来た理由がわからない。

 あまり突然の出来事に、蒔寺と由紀香が慌てて駆け寄ってくる。途中、蒔寺が誰かの机をなぎたおして、痛がる蒔寺の代わりに由紀香が謝っていた。

「――で、どうすんだ? 部活はもう始まるぜー?」

 蒔寺が急かして来る。彼女は、別にどっちでもいいと思っている。どちらを選ぶのも氷室の自由だから、その決断をどうこう言う権利はない。自分が我がままだから、相手の我がままに文句を言わない。
 その考え方は、ひとつの理想だった。こういう生き方を貫けたら、本当に楽だと思う。

「鐘ちゃん、あのひと……」

 由紀香は、ただ純粋に気遣ってくれているようだ。私を呼び出した男、間桐慎二からはあまりいい噂を聞かない。プレイボーイだからといって、人気がある訳ではない。

 彼女は私を引き留めようとしている。まあ、それが正しい選択なのだろうと思う。呼び出しに応えなかったからといって、実力行使に訴えるような度胸のある男ではない。放っておくのが一番だ。

 それに、私はいちど彼からの申し出を断っている。そもそも、なぜ私のような打っても響かないような人間に声を掛けてきたのか、いまだによくわからない。

「……そうだな。行くだけ行ってみるか」

 ――だから、こういう選択をしてしまったのは、その理由を確かめるためだったのかもしれない。

「え!?」

 由紀香がおもしろい声をあげた。蒔寺も、口を出さなかったわりには私の選択に驚いているようだった。

「マジでか? 蒔やん、あんな髪の毛ワカメっぽいのが好みなのか?」

 海藻系? なんて腕をくねくねさせてみる。……蒔、それはフラダンスだ。

「本当に、行くの?」

「ああ。矢口には、少し遅くなると伝えてくれ」

「まあ……いいけど。なるだけ早く来いよ。断るだけなら一瞬だろ」

 じゃあな、と言って、まだざわついている教室を後にする。

「え!? もう言っちゃうの? ……えーと、鐘ちゃんは……」

 見事にうろたえる由紀香に、私はなるだけ自然な笑みを浮かべてみせた。

 笑顔は苦手だった。無愛想、と言われ続けても、気にしていないつもりだった。それでも、ふとした時に、自分はなぜ由紀香のように自然に笑えないのかと、悩んでしまうことがある。

「心配することはない。なに、高校生活で一度も告白を受けていないというのも、女としてどうかと思うしな」

「……ほんとに?」

「む。問題ない」

 私の笑顔を見て安心したのか、由紀香は私には到底できそうにない満面の笑みで、

「わかった。それじゃあ頑張ってね!」

 心からのエールを送ってくれた。

 由紀香が去り、あとは親しくもない人の中にたった独り。それは遠坂嬢も例外ではなかった。

 ……残った私は、鞄を抱えて指定された場所へと向かう。

「――にしても、校舎裏に集合とは……まさに二者択一だな」





 指定された場所は、西日も当たらない死角にあった。背にした校舎は、1階と2階部分の窓がなく、3階と4階部分の窓も、ひとつふたつしかない。
 東にはほとんど誰も立ち寄らない倉庫。南は山、西側に進めば、ほとんど誰も踏み込まない林が広がっている。
 告白するにも、闇討ちするにも申し分のない場所だ。

 待つこと、10分。勿体つけながら、間桐慎二が現れた。
 彼の他に3人ほど、穂群高校の中では女ウケがいいらしい男たちがいる。それだけで、ただの告白ではないとわかる。

「やあ、待ったかい?」

「いえ、特には」

 丁寧に受け答える。警戒すべき人物には敬語でやり取りする。いや、彼は警戒の対象というより、付け上がらせておくと楽だから、敬語を使っているという方が近いか。

「さっそくなんだけど、どうしても君と仲良くしたいって奴らがいてさ。でも、自分たちじゃあどうしても付いてきてくれそうにないから、ぼくに伝言を依頼したんだよ。――なんかね、ぼくが呼び出せば、大抵の女子は連れ出せるんだろう? とか言われてさ」

 ふふ、と間桐は失笑する。あまり愉快な話ではない。

「そうですか」

 納得した。彼の歪んだお眼鏡に叶った訳ではないらしい。とはいえ、彼の話では他にも私を狙っている者がいるとか。
 そこに雁首を揃えているのがその連中であるなら話は早いが、どうも健全な告白をするような気の利いた人間でもないようだ。

「仲良くしたい――とは、随分とあいまいな物言いですね」

「ん? まあ、間違いじゃないけどね。君を好きなことには変わりないし。
 そうだね……。ここからはぼくがどうこう言うより、本人たちで話し合った方がいいかな」

「当然です」

 またも間桐は不自然な苦笑をもらし、後ろの3人に立ち位置を譲った。
 そのまま、間桐は校舎裏から姿を消す。彼は本当に、体のいい伝言板だったのかもしれない。彼自身がそれに気付いていないだけで。

「……ようやく邪魔者がいなくなったな」

「何か御用ですか?」

「いやなに。詳しいことはアイツが言った通りだ。俺らはただ、氷室と『仲良く』なりたいだけだよ」

「それは、好きとか嫌いとか関係なく?」

「そんなことねえよ。好きだから剥くのさ。好きだから犯すのさ」

 笑う。3人揃って、下品なことこの上ない。

 ……何が愚かだと言えば、この輩よりも、一縷の希望を抱いていた自分が救いようもなく愚かだった。
 なにが告白だ。

 私はただ、私のどこが好きなのか、その理由を聞きたかっただけ。

 なのに。ほんの少しの甘えだったなのに、どうして――

「どうした? そんな可愛い顔しちゃって、もしかして怖いのかなー? あの冷静沈着、鉄面皮の氷室が――?」

 また笑う。
 お願いだから笑わないでほしい。私の顔を見て、下品な声で笑わないでほしい。。

「……不愉快だ。失礼する」

「待てよ。俺っちの愛を受け止めてくれてもいいだろう?」

 肩を掴もうとする腕をすり抜け、男たちとは逆の方向に駆け抜ける。
 数年間、陸上で鍛えぬいた足だ。始終こんな下らないことにしか時間を費やしていない輩に、追いつかれるはずが――

「っ!」

 ――急停止する。
 判断を違えたのは私だった。唯一の逃げ道を塞いだのは、倉庫と校舎の隙間から新たに現れた2人の人影だった。

 思えば、ここにいる輩の顔は、卑屈でもなければ醜悪でもない。至って好青年然としているのにも拘わらず、こんなにも意地悪く笑う。

「……く……!」

「おう♪ 苦悶にあえぐ顔もいいねえ。まあ、これからもっとずっと気持ちよーく喘がせてやるから」

「そーそー。今じゃカメラ付きケータイなんて便利なものがあるんだから、お手軽に鐘ちゃんのうれしはずかし強姦写真がネットにばらまけるぜ?」

 また……。だから、そんな目で私を見ないで、そんな顔で笑わないで。

「もう、やめて――! 近付かないでよ――!」

「ち、うるさいな……。聞かれると面倒だ、口ふさいじまうぞ」

「……!」

 近付いてくる。一人の手が、私の肩にかかる。同時に、数人の男が私に群がってきて――

 そこで一瞬、意識が停止した。





 次に見たのは、校舎から飛び降りる無骨な背中だった。





 ザ……。

 両足から地面に降りて、膝を曲げて重力を逃がす。振り向いた無愛想な顔には見覚えがあった。

「――あ? あんたは――」

 リーダー格の男が、突然降ってきた男の名を告げようとする。
 その前に、飛来してきた彼が、何の感慨もなく名乗りをあげる。

「葛木宗一郎。君たちは最高学年だったか。ならば見覚えがないこともないだろう」

「……な、なんでこんなとこに?」

「質問の優先順序を間違えるな。君が触れている女生徒は、見た限りでは私の生徒のようだが」

「これは……」

 言うが早いか、私から手を離す男たち。ただ、そのうちの一人だけは私の退路を塞いでいた。

「氷室、鐘か。君は陸上部だっただろう。こんなところで無駄足を踏んでいる場合か?」

「はい。全くもって、その通りです」

 本当にそうだ。余計な逡巡のせいで、自分の弱さを思い知っただけだった。弱さを知ったところで、自分の壁を越えられやしないくせに。

「うむ。ならば行きたまえ――と、君らは残れ。詰問すべきことがある」

「…………っ」

 悔しそうな男たちの横を抜けて、葛木先生の方に逃げようとした。
 ――が。

「ちょっと待て!!」

 手首を掴まれる。あまりに強くて、振りほどいて逃げることも出来ない。

「いた……っ!」

「おい葛木! まさか、1対5でも余裕こいてられるのかよ!?」

「――そんなものをこいた覚えはないが」

「なに言ってやがんだ! 俺らがおまえをやれば、後はなんとでもなるんだよ! いまどきセンコーの闇討ちなんて日常茶飯事なんだぜ!?」

「それは初耳だな。以後善処しよう」

「もう遅えよ! さっさと死ね!」

 私の腕を捕まえている男が言って、他の男が一斉に葛木に襲い掛かる。

「――ふぅ」

 葛木か溜息をついている。それは諦めの言葉か、ただ面倒くさいからか。

 どちらにしろ、確かに彼は余裕を抱いているように見える。

 いや、そもそも――葛木宗一郎は、これを喧嘩とか戦いとか、そういったモノと捉えていない。ただの後片付けぐらいにしか、考えていないのではないか。

 男たちは、手にナイフを握っている。常備しているのが恐ろしい。

「――壱」

 型は無流。
 左手の甲で、突き出されたナイフを後方に弾く。それで前が開ける。

「――弐」

 踏み出した足が、男の足の甲を踏む。苦痛にゆがみ、ナイフの軌道は逸れる。

「――参」

 胸を狙う刃は無意味。常に動く標的は、次の一瞬には刃を握る手首を折る。

「――至」

 真の一撃は、四合目に繰り出された。
 踏み出された足と同時に打ち抜かれる拳。
 速くもなく、重くもない一打は、しかし確実に男を砕いた。

 地面に倒れ、苦悶をもらしながらむせ返る男。
 手首を折られ、ひざまずく男。
 被害が少ない2人の男も、攻撃の手が止まった。

「正当防衛に当たるか否か。私はどちらでも構わないが?」

 残った2人は、動けない。話が違うと、私を掴んでいる男に助けを求める。
 葛木先生は彼らを追撃する。逃げるにしても葛木先生との距離が近すぎる。背中を見せて殴られれば終わり。彼らは、無駄だと知りながら戦うしかない。

「くそ……! なんだってんだ、なんであいつがあんなに強いんだよ……!」

「……いつっ! 手、離してよ……!」

「うるせえ! おまえは黙って、俺らのものになってりゃいいんだよ……! 人質はいるんだ、あいつだって、そう簡単に――」

「そう簡単に、何なのかしら?」

 聞き覚えのない声。……いや違う。聞いたことはあるが、記憶に留まるほど聞いたことのない声。

「な――」

 余計な言葉はいらない。

 私は、その力が抜けた一瞬で男の手を振りほどいた。同時に、彼女の腕が男の首に絡みつき、ふんばる男の膝の裏を蹴る。
 あとは、ただ絞めるだけ。上背で男に負けている彼女も、男の膝を落とせば男と同じ。むしろ、足の支えがなければ、首吊りのように首だけに負担がかかり、絞めの効果も上昇する。

 これを好機と見るや、彼女はよりいっそう強く男を締め上げる。

「この…………!」

「………………」

 ほどなくして、男が落ちた。

 葛木先生も、後片付けを終えたようだった。

 手をパンパンと叩いて、一息ついた彼女が、やっと私に話し掛けてくる。

「大丈夫ですか? 何か変なことされてません?」

「いや――その心配には及ばないが、遠坂」

「そう。なら、よかったぁ――。もしかして、待ち合わないかと思っちゃったわ」

 安堵の息を漏らす。遠坂嬢は、今までに見たこともない、優しい笑顔をたたえていた。

 と、葛木先生がタイミングを見計らって、私に声を掛けてくる。

「外傷はないようだな。警察沙汰になるが、申し出ない訳にもいくまい」

「あ――葛木、先生」

 しばし、謝辞を述べるのを忘れる。授業の時と全く変わらない佇まいが、自分が立たされていた状況を忘れさせる。

「どうも、ありがとうございました。……警察の件は、そちらにお任せします。内密に解決できるのなら、そうして頂いても結構です」

「む、そうか。何にせよ、彼らには何らかのカタチで罰を負わす。保証しよう」

「はい。よろしくお願いします」

 深く頭を下げて、校舎裏を後にする。遠坂嬢は既に校庭を見渡せる広い場所に出ていた。彼女は腰に手を当てて、淡い笑みを浮かべたまま私を見つめていた。

 様になっている彼女の姿に一瞬だけ見惚れて、話し掛けるのを忘れる。

「ん? どうかしました?」

「いや――すまない、礼を言うのを忘れていた。遠坂嬢がいなければ、私は危なかった」

「ああ、それならわたしじゃなくて葛木先生の方に言ってください。わたしは、屋上から氷室さんが危ない感じになってるのを見て、葛木先生に伝言しただけですから。それに――実際に活躍したのも、葛木先生の方ですし」

 そう言って、3階の窓を見上げる。開け放たれた教室の窓の向こうに、掃除当番の女生徒が見える。

 ここから3階の窓まで、優に8mはある。そこから、苦もなく飛び降りて平然としている葛木先生は、一体どういう鍛え方をしているのか。

 けれども、葛木先生とは別に、私は言わないといけない。

「それでも言わせて欲しい。……遠坂凛。貴方がいてくれて、本当に助かった。ありがとう」

「え――? あのいや、やめてくださいよ。わたしがいいって言ってるんですから、そんなこと言われても、何も出ませんからっ」

 急にうろたえ出す遠坂嬢。……どうも、理由はわからないが照れているようだ。
 その顔が、たとえようもなく可愛く見えたせいで、不意に。

「……くっ」

「あ――いま、笑いましたね? 『くすっ』て」

「ああ、そうみたいだな」

 自分でも驚いている。私でも、こんな何でもないことで、ふっと笑ってしまえるのだと。

「蒔寺の言うこともあながち間違っていない。確かに遠坂嬢は、地の顔の方が似合っている」

「なぁ――」

 遠坂嬢が呆れ返っている。その顔も新鮮なので、しばらく放っておくことにしよう。

 ……難しいことを考えるのは後にして、今は助かった喜びだけを感受しよう。それくらいは、矢口も蒔寺も許してくれるに違いない――





 結局、陸上部には最後に顔を出した。蒔寺たちには、『階段から落ちて腰を打った』と嘘をつくことにした。
 まさか、『強姦されそうになった』と本当のことを言ったら、由紀香などは鼻血を出して失神しかねない。蒔寺は………………『女の魅力でめろめろ?』とか意味のわからないことを言いそうだし。

 で、3人仲良く手を繋いで……はいなかったが、ともかく並んで同じ道を帰ることになった。

 日が陰るなか、見た目でこぼこな3人組が(自覚はしている)他愛もない話をしながら歩いていく。

「けど、階段を滑って転げ落ちるなんて、鐘やんもプレミアなことするねー。このご時世じゃ滅多にお目にかかれないよ?」

「蒔ちゃん! あんまり意地悪なこと言わないの!」

「へーへー。でも、元を正せば鐘やんの責任だろ? ここは同情してやるより、『なんだそりゃ!』て笑ってやった方が楽なんだよ、きっと」

「……そうなの?」

「一概には言えんが、蒔の言うことも一理ある。だが、特に笑ってほしい訳でもないぞ。だいたい蒔の字は、あらゆる話題を笑いの方に持っていく傾向がある」

「蒔ちゃん!」

「なんで怒るんだよ! 世の中おもしろおかしく脚色した方がおもしろいじゃんかー!」

「おもしろくないものまでおもしろくすることないでしょう! 失礼だよ、ほんと……」

 しゅん、と肩を落とす。そんな由紀香を見ていると、本当に自分が悪いことをしたような罪悪感に囚われる。だからといって、同情すると彼女は怒る。

 私は由紀香の背中を軽く叩いて、微笑む。

「構わんさ。蒔の字が失礼なのはいつものことだ。今になって怒りが噴出するということもない」

「む……。それはそれで、ひじょーに辛辣な物言いですな」

「そうでもない。それが蒔の味だからな。無ければ無いで拍子抜けする」

「む。やっぱり馬鹿にしてるだろ、おまえ」

 ふ、と苦笑する。蒔は一人で『うがー!』と叫び声をあげるが、私が取り合おうともしないのですぐに収まった。
 由紀香は、そんな私たちを見て、くすくす笑っていた。いつも通りの私たちを見て安心したのだろう。私も、そんな由紀香を見て安心した。
 彼女には、笑った顔が一番よく似合う。





 と、別れの三叉路に辿り付く。ここからは、3人とも違う帰路につく。
 その前に、蒔寺が最も聞きたかったらしいことを尋ねてきた。

「そういや鐘やん。結局、愛の告白はどうなったんだ?」

「あ、そういえば」

 由紀香は本当に失念していたらしい。

「……で、やっぱり断ったのか?」

「なぜ『やっぱり』なのかは解らんが…………断った、というかそれ以前の問題だな。あれはマナー違反だ。告白と称して、同じ舞台に立つことすらおこがましい」

「ん? つまり顔が気に食わなかったのか?」

「断じて違う。……まあ、何にせよ、私には縁遠いものだったということだ」

「そんなことない! 鐘ちゃん可愛いよ、眼鏡しててもいけるよ!」

 と、由紀香が根拠のないエールをくれる。正直、そう言ってくれると有り難い。

 ――が。場の空気を読めない女は、

「……そうかなあ?」

「蒔ちゃんっ!!!」

「やぐっちの言うとおり、コンタクトにした方がいけるんじゃ――いてえ! 脇腹をつまむな由紀っち! そこは余分な肉が少ないんだー!!」

 ここぞとばかりに攻め立てられていた。私の友人は、天使と悪魔にうまく分かれている。

 空は、昼と夜の境目が交じり合った変な色彩だ。もうじき、完全に日が暮れる。

 その前に家に帰ろう。帰って、今日に起こったことの全てを洗い流して――

 ――いや、洗い流すのはやめよう。あんなことを忘れるために、蒔の字や由紀香のこと、葛木先生や遠坂嬢のことまで忘れたくはない。

「――鐘やん、また明日な」

「身体に気をつけてね、鐘ちゃん。さよならー」

「ああ。また明日――」

 去り行く背中。
 遠ざかっていく背中を最後まで見ずに、私は私の家に帰る。

 だから、洗い流すのはやめて。

 ――いつか、この日を思い返す時に。
 今日という日が掛け替えのないものだったと、胸を張れるように。










−幕−










・あとがき

 氷室さんちの鐘ちゃんが、主役に大抜擢です。

 自分でも『ほのぼの』か『シリアス』なのかよくわかりません。途中でバトルもありますし。

 彼女は彼女なりに日々を刻んでいるのです、という話。

 最後に、ギャグを柱とする私の真面目っぽい作品を読んでくださり、誠にありがとうございました。


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