男は憔悴しきっていた。
何に憔悴したのか、と聞かれたら、あまりにもいろいろすぎてきっと答えられなかっただろう。とりあえず憔悴していたのだ。
だから眠るのも悪く無いだろう。
「たかが一介の魔術師風情に召喚された上、使役されるとはな……」
疲れたようにその男は苦笑した。銀と金を織り交ぜたような髪は彼を人以上の存在であると告げている。
赤い夕日が世界をなめていき、黄昏の訪れを伝えている。
「こちらを騙していいように使い捨てる気だったらしいが、ふん、それこそ舐められたものだ」
先ほどその魔術師を殺してきたところだ。
この身は神。多少の無理は効くだろうと思っていた。人の魂を喰らえばしばらくの間は現界していられるだろうとも思った。
だが、神と呼ばれるクラスの霊が肉体を得るということの負荷がどれほどのもので、自分がいかなるシステムでここに現界していたか今更思い知った。
自分の中に浮かぶ二つの言葉。聖杯戦争とサーヴァント。
ランサーと呼ばれるクラスに押し込められた自分。
馬鹿な魔術師。
馬鹿な自分。
「はぁ……まあ、大人しく消えるとするか……」
待つのには慣れた。
死ぬのにも慣れた。
と、その自堕落な思考を遮るようにこの浅い森に侵入者があった。
「悪運が強いと言うのも考え物だな……」
若干本気で頭を痛くしながら、男は侵入者の方に近寄っていく。
再契約か、最悪でも魂をいただければ幸いだ。
「おい」
声をかけられた人影は怪訝そうにこちらを振り返った。
「誰だ、お前は。そっちは立ち入り禁止のはずだぞ」
言われて私はきょとん、とした。
なるほど。侵入者は私だったか。思わず私はくつくつと笑ってしまった。
「何を笑ってるんだ」
「いや、失礼。ところで君」
「……なんだ」
油断はしない。それはそうだ。私だってこんな状況で油断なんてしないだろう。
だからこう言うときに出す条件は双方にとって有利になることであるのが望ましい。
「どうだい、一夜を共にはしてみないか?」
言われて少年はぴたり、と止まった。
む? 自分で言っておきながら非常に違和感を感じたぞ。
「な、何を!?」
「いや、性交渉と言うのはパスを通すのに非常に都合が良くてね。至高の快楽を約束しよう」
「なななななな、き、貴様! お互いの性別を分かっていっているのか!?」
言われてようやく違和感の正体に気付く。
自分は今、男の体をしていた。
「ややや、すまなかった。これは失敬。うむ。確かに私が全面的に悪かったな」
「分かればよいのだ、うむ」
これしきで慌てふためくとは、修行が足りないな。喝! と自分を戒める少年。
性格は良さそうで、私が神霊であることを見抜けなかった所を見ると魔術師でもない。
非常に扱いやすそうだ。
私はにやりとしながら体を変化させていく。
中性的な服装をしているのはこれが理由だったりする。
細くなっていく肩、膨らんでいく胸、まあ簡単に言えば。
相手に合わせてやりやすいようにしてあげたわけだ。
「というわけでこの姿ならどうだね」
「この姿なら、ってどわああっ!?」
「うん、いい反応だ。私好み」
笑いながら少年の方に近づいていく。
「己! もののけの類か!」
「さて、どうだろうな。とりあえず私とまぐわってはくれないか?」
「ど、堂々とそのような破廉恥なことを!?」
動揺が激しくなっていく少年。中々楽しいのだが、どうも楽しんでいるほどの余裕は無いようだ。
「ああ、すまない少年。抵抗があるならそこまでしなくてもいい、口づけだけでも十分なんだ」
ふと一瞬で少年の空気が変わった。
「もののけかどうかは置いておくとして、貴様はもしかして助けを必要としているのか」
何を持ってそう感じたのかは知らないが聡い奴だ。
「その方法として、その、接吻だのまぐわいなどのたまっているのか?」
「そうだ。放っておくとそろそろ消えてしまうんでな。再契約が必要なんだ」
「……いいだろう。ついてこい」
「は?」
少年はなんてこともないようにこっちに手をさし伸ばした。
「消えるのは嫌なんだろう。うむ、これまでにどのような生き方をしたかは知らぬが仏門に入り悟りの道を開けば何の問題もなかろう」
「私は仏教を信仰していないのだが」
「どっちでもいいのだ。私が、目の前で弱っている者を、見捨てるのが嫌なだけだ」
そんなことをいともあっさりと少年は言い切って。私の手を取った。
暖かい。
「少年、お前はいい奴だな」
「少年ではない。桐堂一成という名前がしっかりある」
「そうか。イッセイか。うむ。では今夜はよろしく頼む」
「なななななな、馬鹿を言うな! 接吻の方だ!」
「? しかし部屋の方に行くのでは……」
「外で接吻などできるか! 馬鹿者!」
これは、からかいがいのある玩具が手に入った。
「お前こそ名を名乗れ」
「まぐわってくれたら教えてやる」
かあああ、と真っ赤に染まるイッセイの顔を眺めながら私はにやにやと笑った。
うん、少なくとも前のマスターよりはまっとうに楽しめそうだ。
それが私とイッセイの一日目だった。
遠坂凛は衛宮士郎の落し物をぷらぷらと指でつまんで揺らしていた。
少し年代物の懐中時計だ。
こっちに向かって挨拶して一成とどこかに歩いていく時にぽろりと衛宮のポケットから落ちたものだ。
話に意識を向けていたのか衛宮本人は気付いていなかったらしい。
「あ〜あ、今度返さないと」
とりあえずそれをポケットにねじ込みながら凛は地下へと続く階段へと降りていった。
聖杯戦争への勝利の階段を駆け上がるために。
――で、この惨状なわけなのだが――
宝石を散々使った魔法陣の上には誰もいないわ、一階からすごい音がするわで、急いで一階に駆けつけてみれば、そこに呆然と尻餅をついてる一人の男。
……あーなんとなく分かるけど分かりたくないなぁ。
壊れて止まった時計の指す時間は2時。まあ、軒並み2時間ずれてたのだから確かに12時現在時計の針は2時を刺してないとおかしいわけなのだが。
思わず溜息。そして気持ちを切り替えて目前の男に声をかける。
「こんばんは、貴方は私のサーヴァントかしら?」
「……聖杯戦争、か。ああ、そうだろうな。多分僕は君のサーヴァントなんだろう」
ぱんぱん、と黒いコートから埃を払って男は立ち上がる。
黒のパンツに白のワイシャツとだらしなく緩められた黒いネクタイ。
「全く、難儀なことを……と、待った。今僕が喋っているのは日本語かね?」
「そうよ。ここは日本」
急激に空気が冷たくなっていく。
「では、冬木か。冬木の聖杯戦争」
「え、ええ。それがどうしたの?」
急に黒いサーヴァントは目を細めた。
「……すまないが、今回で何回目だい?」
「5回目よ」
その言葉に驚愕した顔を見せる黒のサーヴァント。
「……君以外のマスターの名前は分かっているかね?」
「分かるわけ無いでしょうが」
「ふむ、ではもう少し具体的な質問をしよう。前回の聖杯戦争の生き残りの名前は知っているかな?」
「……まあ、聞いてるけど。もう死んだって」
この言葉に今度こそ男は愕然とした表情を見せた。
なんなのだろうか。
「なるほど。なんとなく事態は飲み込めてきた。すまなかったなマスター」
「いえ、結構よ。で、貴方の名前は?」
「意味が無い」
黒のサーヴァントは一言で切り捨てた。すこーーーーしばかりかちんと来た。
「ああ、血が上って令呪を使われると困るので補足説明をしておくが。僕の名前を君が知っても他のマスターが知っても意味は無いし、場合によってはマイナスになる。僕は現在より未来に誕生する英霊だからだ」
「へ?」
「おそらく僕が英霊である、と言うシンボルにも似たものを君は持っているのではないかな。どれかは分からないがね」
英霊は自分のゆかりを持つものに強く引かれる。だからこそ強い英霊のシンボルを媒体に召喚するのだが、いかんせん私にはそういったコネは存在しない。しないはずだったのだが、『これからシンボルになる』ものを持っているのなら話は別になる。時間の枠を超えて守護者となった英霊はそのシンボルに引かれてサーヴァントとなるのだ。
それはこれから生まれ得る存在であろうとも例外ではない。
「聞くと問題が?」
「……無いとは思うが念の為だ。クラスと宝具の名前は教えられるが」
「じゃあ教えて頂戴」
「クラスはアサシン。宝具は『黒の銃身“ブラックバレル”』だ」
「うそ……」
それは伝説にしても馬鹿らしい人間だけが持つことのできる人の最強の武器。
「もちろんオリジナルだ。神性が無い変わりに人でしかありえない力を手に入れたのさ」
アサシンはにやり、と笑いながら銃を構える仕草を取った。
「まあ宝具の性能は信じる。でも、アサシンかぁ……どうなんだろ」
「ふむ、君は勘違いをしているようだが。サーヴァントの力量としてクラスはさして問題ではないのだよ。問題なのは呼び出した魔術師の力量と、呼び出された英霊そのものの力の問題。強いてもう一つあげるとすれば意思の強さか」
アサシンは気だるげな顔をしながら独白するように言葉を続ける。
「僕がこんなところに呼び出されるとは、地獄と言うより他に無いが。まあいい。僕がサーヴァントでしかもクラスは最高の相性とも言えるアサシンになったのだ。君が負ける道理はない」
アサシンの黒い瞳の奥に力強い光が宿っているのが見えた。
「ありがと。じゃあ、アサシン最初の指示出してもいいかな?」
「なんだマスター」
「片付けてくれる? ここ」
む、とアサシンは一瞬動きを止めた。
「どのレベルまで片付ければいい?」
逃げるための言葉だろうか。だとしたら容赦をする性格に見えたのだろうか、この私が。心外だ。
「完璧に」
と完璧な笑顔で私が言う。
「……了解した。地獄に落ちろマスター」
なんか因縁めいたものを感じながらとりあえず私は魔力を失って気だるくなっている体を休めることにした。
それが私とアサシンの一日目だった。
目の前にいる圧倒的な死の気配は赤い犬の仮面の男が発していた。
そも、少し買い物をして家に帰ったとき、遠くの屋根の上に見える点のような人影を見ただけだ。
その人影が一分もかからずに玄関にまでやってくるとは何事だろうか。
声も出ない。
出したら殺される。
目の前にいるのは番犬だ。
獣そのものの空気が男の口から漏れ出している。
衛宮士郎は魔術師だ。
並みの暴漢や異常者なら軽くいなせるぐらいには強いと思っていた。
だが目の前のは別格だ。まず人じゃないし、何よりも。
その右手に持った真紅の槍があまりにも凶々しすぎた。
俺はとりあえず自分の肉体にゆっくりと魔力を通していく。
足と反射神経を限界まで高めた後に、犬仮面の動いた瞬間を狙って家の中を駆け抜けた。
俺が一瞬前までいたところを純粋な点の暴力が貫いた後、犬仮面は魔法みたいにその長い槍を一回転させて俺の背中に打ち出してきた。
その速度は音速。衝撃波だけでダメージが行くなんて馬鹿みたいなスピードだ。
「ふっざけんな!」
その一撃を全力のジャンプで交わして庭に出る。
同調、開始!
服を強化する。
いつもは梃子摺るはずのその作業も限界の状況である今ではスムーズに進んでいった。
「がああああああああああっ!」
犬仮面の男が吠えて神速の一撃を繰り出してくる。
それを、思いっきり長袖の部分で弾く。もちろん見えてなんかいない。だけど男が余りにも最速で心臓を狙ってくるからタイミングを合わせるのが簡単だっただけだ。
普通ではありえない反撃に理由も分からず、槍を弾かれた仮面の男は体勢を崩した。
それを確認もろくにせずに俺は土蔵へと走る。
あそこにならもう少しまともな武器が。
ここで俺の最大の誤算と言えば、敵が人間以上と言うものの更に一つ上を行っていたということ。
それは届かないはずの一撃。だけど、当たり前のように、人の限界なんてとうに超えているはずの俺を嘲笑うみたいに槍が肩に伸びてきて。
「がはっ!?」
貫かれたのか弾かれたのかわけも分からぬまま衝撃だけで土蔵に飛び込む。
「うおおおおおおおおおっ!!!」
雄たけびが聞こえる。
もう駄目だ。
もう駄目だ。
もう駄目か?
一人の、大好きだった、親だった、兄だった、親友だった、魔術師の顔を思い出す。
正義の味方は諦めが悪いほうがいいのだ。
「同調、開始!」
武器だ、武器!
剣はどこだ。
まるで俺の体にあつらえた様な。
俺という鞘にあつらえたような……。
犬の仮面の男が土蔵に踏み込んでくる。
間にあわないのか!?
――瞬間、土蔵に光が満ちた――
光と同時に何かの通り過ぎる気配がして、三つの肉を切り裂く音と、半拍遅れて仮面の男の絶叫が聞こえた。
視力が回復するとそこには左手を失い、腹に傷を負い、右足に穴を穿たれた仮面の男が悔しげにしゃがみこむ姿と。
――蒼い服に銀の鎧を身にまとった少年がいた――
中世の騎士みたいな格好のそいつは太陽のような黄金の髪と青くて力強い目で俺を真っ直ぐに見つめてくる。
「問おう。貴方が私のマスターか」
「え?」
「違うのか?」
「えっと、そのよく分からない」
「分からなくても貴方がマスターだ――契約はここに完了した。これより私は――」
だったら、確認しなくてもいいじゃないか、と呆然とした頭のままそう思う。
そんな俺の葛藤も無視して少年は振り返り敵を真っ直ぐに見つめ、そして仮面の男を指差した。
「貴方を守る、弓となる」
がおん、とすさまじい音を立てて何か槍のような物が飛んでいったが、既に犬の仮面の男は塀の上まで逃げていた。男の立っていた場所には槍も矢も無いが、ぽっかりと大きな穴が開いている。
男は顔の上半分をすっぽりと覆う真っ赤な犬の仮面の下から望む口元に悔しげな表情を浮かべた後、信じられないほどのスピードで遠くに去っていった。
呆然としていた俺は混乱しながらもとりあえず、目の前の少年に声をかける。
「あの、君は……」
「私はアーチャー。貴方を守る弓であり、矢でもある」
禅問答だろうか。
「あの意味が……」
「? 貴方は聖杯戦争のマスターではないのか?」
「マスター? ってそもそも聖杯戦争って何さ」
「……貴方が私を呼び出したのではないのか?」
確かにそんな気はする。
何よりも自分の中の何かが目の前の少年とつながっている気がするのだ。
「助けて欲しいと願ったけど……」
「本当に聖杯戦争がなんなんかは知らないのですか?」
ああ、なんかそういう蔑む視線は止めて欲しい。
「教えてくれないか?」
「はぁ、仕方ありません。とりあえず落ち着ける所に行きましょうか。何もこのような場所で長話をすることもないでしょう」
それもそうだ、と俺達は居間に行くことにした。
それが俺とアーチャーとの一日目だった。
つつぅ、と俺と女の間に唾液で出来た糸が残る。
顔が灼熱するのが分かるが、上手く声が出せない。
胸に急激に痛みが走った。
「うむ……ありがとう」
女はそう言うとふぅ、と一息ついた。
数分かけて冷静になると、女がこちらをにやにやと眺めていることに気付いた。
「き、貴様。口付けだけと言ったではないか!?」
「ふん、口付けだろうが。とびっきりディープなだけで」
あっさりとそう言うと女は服を脱ぎ始めて、ってのわああああああああっ!?
「やめんかぁっ!」
「む、いつまでもこの服ではまずいのではないのか? イッセイの服を見るに」
「意外と常識があるのだな」
「なんだその驚いたような目は。私をあまり侮るな……っと。そうかまずはイッセイに色々と説明しないといけないようだな」
「いや、いい。もう巻き込まれたくないのだ。あまり」
嫌な予感がするから。
「ところがもう既に巻き込まれているんだよ。イッセイは。知っておいた方がいいと思うのだがね」
「どういうことだ……?」
「そうだな、とりあえず……」
女は顔をこっちに近づけてくる。
至って真面目な表情で先ほどまで俺と繋がっていた唇をゆっくりと開いて……。
「続きするか?」
「するか馬鹿っ!」
閑話休題。
のんびりと俺の部屋で和む二人。
和みたくないのは山々なのだが。
「つまり私は戦争の為に呼び出された英霊なわけだ。理解できたかイッセイ」
「さっぱりに決まっておろう。なんだその傍若無人な説明の仕方は」
やれやれ、と肩をすくめてみせる目の前の女は名を――イコーと名乗った。
そしてそのイコー女史は先ほどから自分に色々と説明してくれているらしいのだが。
「もう一度説明させる気か? 長い話を何回もするのは面白く無いな……」
「面白くなくても困るだろうが。俺が色々と知っていた方がいいと言ったのは貴様だろう」
「ふん、そうだったな。ではどこまで理解したイッセイ」
顔のつくりは非常に美しいとは思うのだが、いかんせんそこに浮かぶ表情が某赤い狐を思い出させる。
「それもだ」
「? なんのことだね?」
「一成、だ。イッセイじゃない」
「……異国の人間に難しいことを頼むのだね、君は」
「そこまで流暢に日本語を話しておいてそんな言い訳は通じんぞ」
それもそうだな、と言いながらイコー女史はズズズ、とお茶をすすった。
ちなみに服は背格好も似ていると言うことであの珍妙な服から俺の服に着替えている。
「では一成。私のことも貴様なんて呼ばずにイコーと呼んでもらおうか」
「分かった、イコー。これで良いな?」
「いいぞ。ふん、まあ偽名なのだがな」
自分で言うだろうか、普通。
「で説明の補足だったな。どこまで理解した?」
「『自分は霊的な存在』で『この桐堂寺にさえいれば自分は大丈夫』だから『聖杯戦争』とやらには『参加しなくてもいいぞ』と言うのは分かった」
「それで何が疑問なんだ」
「全てだ! 契約だのサーヴァントだの聖杯戦争だの、片っ端から分からないぞ。令呪とか言うこの印もなんだ!?」
俺は自分の胸元に出来た何かの痣のようなものをイコー女史に見せ付ける。
「ふん、落ち着け一成。簡単に言えば、だ」
こんこん、と爪で格好よく机を叩く目の前の女に俺は悔しいながらも冷静になるように努めた。
「聖杯というなんでも願いを叶えられるモノがあって、それを奪い合うために私みたいなサーヴァントが7体呼ばれたんだ。お前はそのサーヴァントのマスター……まあご主人様で、その令呪ってのを使えば私は何でも言うことを聞くってわけだ。ただし3回きりの」
「三回しか命令を聞かないんじゃ戦いにもならんのではないか?」
「死ね、という命令も聞かなければいけないんだぞ。マスターの命令に逆らって、そんなこと言われてはたまらんだろう」
「なっ!? 俺はそんなことは命令せんぞ!?」
イコー女史は何故か珍妙な犬を見たかのようにこっちを見た後に何故か嬉しそうににっこりと微笑んだ。
「ありがとう一成。信用する」
不覚にも昨日の晩のことを思い出す。
顔が赤くなるのを必死に抑える。
色即是空色即是空……喝!
イコー女史の笑いの種類がにっこり、からにやりに変わったのを見て確信する。
ああ、これは我が天敵と同一の女だ。
女は魔性だー!
「桐堂寺だ」
唐突にアサシンがそんなことを言い放った
「何がよ」
「そこに誰かしらマスターがいる。その点に関しては間違いない」
思わず訝しげな表情をしたのが分かる。
「あそこは霊脈になっている。聖杯が完成する場所であり、この町の全てが集まるもう一つの場所だ。キャスターか、もしくは魔術に長けたサーヴァントがあそこを根城にするのは間違いない。サーヴァントにとっての入り口は正門のみ。守りに徹するには最高の場所だ」
「ちょ、ちょっと。なんでそんなこと知ってるのよアサシン」
「僕が何故知っているか、と言うのは重要な点なのかな? マスター」
挑戦するような目つきの黒いサーヴァントの視線を私は真っ直ぐに受け止めた。いいじゃないの。乗ってやる。
「……まあいいわ。具体的に貴方はどうしたいの?」
「とっととマスターを殺して潜り込めるのならそれにこしたことはない」
「却下ね。私、あそこを戦場にするつもりはないの」
天敵とはいえ、向こう側に住んでいる人間を巻き込みたくは無いのだ。
「時間が経てば経つほど危険になっていく。殺すなら早めにすることをお勧めしておこう」
「分かったわ。で、他には?」
「何がだ、マスター」
「やっておきたいこと。貴方随分と聖杯戦争の戦い方に詳しそうだから色々教えてもらうわ」
ふむ、とアサシンは押し黙り、そして思い出したように顔を上げた。
「では街の案内を。この10年間で変わったものを重点的に頼む」
「10年間って、前回の聖杯戦争から? もしかして貴方……」
「ああ、そうだ。僕は前回の聖杯戦争を経験している。しかもおそらく君達とは違う結末の聖杯戦争をな」
アサシンの言葉に私はようやくアサシンの正体がおぼろげながら掴めて来た。
前回の参加者だ。
とはいえ、私達の存在するこの世界の前回ではない。
彼は前回の聖杯戦争に勝ち残り、生き残ったのだ。そしてその生涯を越えて英霊となった。
私が持っていたなんらかの彼のシンボルは10年以上前から存在したもの。
だからそれを媒体にして呼ばれた英霊は10年以上前のその時から分岐しうる英霊だ。
「その時はどうなったの?」
「どうもこうもない。僕が勝って、それで終わりだ」
へぇ、そう。と私は気の無い返事をしておくことにした。
どうせ問い詰めたところで答える気は無いのだろう。その時聖杯をどうしたか、なんて。
「10年前この土地で起こった大きな事件と言えば……そうね、それこそ都心が焼けたことかしら」
「なっ……!」
何故かアサシンが絶句している。
「どうしたのよ」
「都心が、焼け野原になったのか?」
「そうよ」
「じゃあ今そこはどうなってる」
「どうもこうも。見事なビルが並んでるわよ」
アサシンは考え込むようにしばらく腕を組んだ後に、鋭い視線を残して霊体になった。
「マスター。私の指示する通りに移動してくれ。そして僕はいないもとして扱って欲しい」
「何で?」
「確認したいことがある。非常に重要なことだ」
アサシンはその言葉を最後に何も喋らなくなった。
質問にも答える気は無いらしい。
魔術師だ。この固さは魔術師なのに、なんだろう。決定的に魔術師とはずれたところがある気がする。
アサシンの指示のままに私は歩いていく。
和風の邸宅が並ぶその場所へ。
「つまり、聖杯戦争とはそういうものです。理解しましたか? シロウ」
「……ああ、分かったよアーチャー」
その言葉を最後に俺はぐだーっと机に突っ伏した。
理解力が追いついてないのは俺が悪いんだろうなぁ、アーチャーは真摯だし。うん、反省しておこう。
「さて、じゃあご飯にしようか」
「夕食ですか。それはいい。先ほども説明した通り私は霊体になることが出来ないが、代わりに人と同じように活力を得ることが出来る」
「つまり食べるってことだよな」
「はい。是非」
楽しそうに微笑むその姿が実に年相応な感じで俺まで楽しくなってしまう。
ようし、男の子なら肉大好きだろう。腕を存分に振るうことにしよう。
結論。
飢えた獅子が衛宮家に一匹増えました。
「あははははは、アーチャー君いい食べっぷりだねぇ」
「はい、こんなに美味しい料理を食べたのは初めてです。シロウお代わり」
「はいはい」
苦笑しながらも俺は器にご飯をよそう。
我が家には欠食児童が三人。男の俺が一番食が細いと言うのもどうだろう。いやいやいや、別に人並みには食べてるぞ。うん。
「でも遠いところからよくここに来れたね」
「ええ、キリツグが親切に教えてくれましたから」
アーチャーは何というか、切嗣の知り合いの子供と言うことになっている。
「ってことでアーチャーはしばらくここに住むから」
「え?」
何故か桜が驚いた顔になる。
「わはははは、大河お姉ちゃんを頼りにするんだぞぅ」
「はい、タイガ。よろしく」
心地よいボーイソプラノに藤ねぇが、頬を緩ませる。
「あの、藤村先生。いいんですか?」
「いいも何も。困ってる子を見捨てるわけにもいかないでしょ?」
「はぁ、まあそうですけど……」
何故か煮え切らない桜だったが、最終的には納得してくれたようだ。
二人が帰ってからアーチャーは真面目な表情に戻る。
「明日からはしっかりと聖杯戦争に関する心構えというものをお教えします。覚悟をしてください」
「うへぇ」
アーチャーは外見年齢こそ俺より下に見えるが、随分と先輩気質なのだ。
「とりあえず、今夜はシロウの部屋の隣で寝ることにします。よろしいですか?」
「ああ、構わないよ。とりあえず俺は風呂に入ってくる」
「そうですか。では私もその後に入ることにしましょう」
凛々しいその顔が少し嬉しそうに緩む瞬間はこっちも心が温かくなってしまう。
二人とも風呂に入った後、微妙に色気のあるアーチャーにどきどきしながらも、俺達は眠ることにした。
interlude
隣でマスターの寝息が聞こえたのを確認して私は起き上がった。
魔術師としてはまだまだ未熟で私を聖杯に到達させてくれるとはお世辞にも思えないが、その心根は真っ直ぐであることは分かる。そのようなマスターと共に行くことは非道なマスターと共に外法を用いて聖杯を手に入れることの何倍もいいことのような気はした。
まあ、聖杯を手に入れるためにこのような戦いをしていると言うのに負けてもいいと思えること自体がおかしいのではあるけれど。
苦笑しながら私は蒼い戦装束に銀のプレートを造りだす。
あまりにも堂々と近づいてくるサーヴァントとそのマスターを迎え撃つために。
壁の向こうを歩いているであろう敵の魔術師に奇襲をかけるべく私は無音で、高速で壁を飛び越える。
自然と魔力を帯びた私の足が外見を遥かに凌駕する出力を発して身の丈を数倍を軽く跳躍した。
瞬間、敵のサーヴァントもその黒い影を翻す。
空間から呼び出した一振りの剣を敵に叩きつけようとして、あっさりとソレを防がれた。
正確に言うと防がれたのでは無く、真っ黒な銃身で剣の軌道を逸らされたのだ。
「お前は……」
敵のサーヴァントは私の一撃に対してよりも私自身に対して驚いているようだったが、その眼にもその行動にも隙なんて無い。むしろ今は体勢を崩している私の方が不利である。
「くっ!」
私は一旦引いて体勢を立て直そうとして、
「……充填率1%“チャージワン”黒の銃身“ブラックバレル”」
なんていともあっさりと宝具の名前を告げた声を聞いた。
まるでこっちの呼吸なんて全部知っているかのようにその影は私の着地地点に正確な一撃を放っていた。
仮にも宝具の一撃。たとえこの身が英霊と言えど、ダメージは受ける。
その弾道は完全には避けられない。
避けられないのなら。
下がるものか!
「――――」
私は左肩に衝撃を受けながら右腕を差し出し宝具の真名の『一つ』を口に出す。
黒の銃身の光と音でかき消されながらも確かに発動された私の一撃が敵のサーヴァントに当たったのが分かった。
「っ……! すまんマスター。これは予想外だ!」
黒いサーヴァントの声が多少麻痺気味の耳に響いた。
「引くぞ」
「逃がすか!」
私が駆け寄ろうとしたその足元に敵のサーヴァントの銃撃が決まる。ただの牽制ではある。だがその使い方は最上級だ。私はそれ以上踏み出すことが出来ず、私の武器の間合いの外に逃げられてしまった。
「おい何やってるんだ、アーチャー!」
唐突に戻りつつある私の耳に暢気なマスターの声が入ってきた。
interlude out
事態は一瞬だった。
突如として切りかかってきた蒼い少年の影をアサシンは銃の一振りでいなしてみせ、少年が一歩下がるその動きを予測していたかのように銃をそちらに向ける。
「……充填率1%“チャージワン”黒の銃身“ブラックバレル”」
問答無用で宝具を使うアサシンに私は声を上げようとして、代わりにひっ、と情け無い悲鳴を上げた。
一発の銃声と激しい光。人が本能的に止まってしまう二つの要素を同時に立てられたらしょうがないと言うもの。
だが、同時にアサシンが苦痛で息を呑んだのが分かった。
慌ててそっちを見るとアサシンの左肩に『一本の剣がささったかのような』傷が出来ていた。
「すまんマスター。これは予想外だ! 引くぞ」
「逃がすか!」
追いかけてくるアーチャーと逃げろと指示するアサシン。
ああ、もう私がよく分からないところで色々と話を展開するなー。もうなんだかよく分からないぞ!
「おい何やってるんだ、アーチャー!」
唐突に聞こえてきたその声に私は聞き覚えがあった。
アーチャーの動きが止まったのを見てアサシンは一瞬で姿を消した。
「衛宮君!?」
私の声に人影は露骨に反応を示す。
「遠坂!?」
「シロウ。貴方がこの魔術師と知り合いかどうかは知りませんが、敵は早々に片付けるべきです」
「止めてくれ、アーチャー」
「何故ですか!」
これら一連の流れの中アーチャーは一度だって私から敵意の視線を外してはいない。私は一歩も動けなかった。動いたらその瞬間に目の前の蒼いサーヴァントはためらい無く攻撃してくるのが分かったからだ。
「遠坂は悪い奴じゃないよ。殺さないでもいいんだろ? 聖杯戦争って」
「そういうものではありません! 相手が殺す意思を持っているなら私達はその意思と戦わなくてはいけない。戦争と言うものに置いて、倫理に反していようが騎士道を貫こうが、殺し殺される契約こそがそこでは唯一絶対なのです!」
「俺は戦争をするんじゃない。止めたいんだ」
ぐっ、とアーチャーが息を呑んだのが分かった。
今しかチャンスはないだろう。とりあえず今生き残るためには。
「はいはい、降参。ってことでどうかな衛宮君?」
「ああ、とりあえずそうしてくれると助かる」
「シロウ!」
名前で呼ぶとは随分と親密な関係を持ったマスターとサーヴァントだ。
「そんな甘いことでは……」
「別にいいわよ。ここでアサシンに令呪使って貴方を攻撃しない、って誓わせても」
『マスター。それは危険だ』
『大丈夫よ、多分アイツはそれこそ令呪を使ってでも私達に危害を加えないから』
『何故分かる』
『女の勘』
あきれ果てたのかアサシンは口を噤んだ。
「でそうした方がいいかしら?」
「いや、遠坂を信じるよ。とりあえず中にでも上がってくれ」
「は?」
なんかあっさりとそんなことを言う衛宮君に何か私の中で熱い感情が膨れ上がってくる。
「どうした?」
「シロウ……」
「あの、私がマスターの一人って分かってる?」
「ああ分かってるぞ。俺だってそこまで馬鹿じゃないんだ」
「……!」
思わず絶句した。
馬鹿じゃない? マスターの一人を自分の陣地に簡単に入れようとしておきながら言うに事欠いて『馬鹿じゃない?』ですって?
「……て」
「て?」
阿呆みたいに衛宮士郎が鸚鵡返ししてくる。
頭の中の冷静な部分はこういっている。お人よしなマスターを仲間に引き入れれば聖杯戦争に勝つのも難しくは無い。と。
だけど冷静じゃない部分。つまり遠坂凛を構成する大部分はお人よしでマスターだの魔術師だのやれるほど世の中甘くないことを小一時間と言わず一晩中ほど説教したくてたまらないらしい。
「てっぺんきたああああああっ!」
ちなみにこの場合の天辺は怒りのゲージである。
士郎。徹夜で魔術師としての、マスターとしての心構え叩き込んでやるから安心しろ。こんちくしょう。
俺は夜分遅くに目が覚めてしまった事に疑問を抱いた。
静か過ぎる桐堂寺の中にある自分の部屋は周りに人の気配でもしなければそうそう目が覚めることは無い。
ならば何故己の身が覚醒したのか?
――まあ、問答の答は至極簡単である――
俺が境内に出てみると、そこにはなにやら一所懸命に地面に石を積んだり文様を描いたりしているイコー女史の姿があった。
「何をしているんだ。イコー」
「ん? ああ一成か」
イコー女史は立ち上がって関節をほぐすように軽く背伸びをした。
「なあに、大したことは無い。一成やら私自身やらを守るためにお呪いをしていただけさ」
「お呪い?」
そうそう、と頷きながらイコー女史は再びしゃがんで作業をし始めた。
「私みたいな霊体がこの寺に入ってくるためには正門を通るしかなくてな。理由は中略。結論としては入り口をしっかり固めると言うわけだ」
「しっかりとは?」
「正門と言う穴に入ってきた蟲は全部引っかかるようにする。私や肉を持った人間以外はな」
「それでどうなるのだ。説明を必要以上に簡略化するのはイコーの悪い癖だぞ」
「ふん、正鵠」
イコー女史は作業が終わったのか背伸びをする。学校指定のワイシャツの胸が強調されて俺は思わず目を逸らした。色、即ち是空也。喝!
「簡単に言えば私達は夜も安心して眠れるようになるってわけだ」
「なるほど。良いことだ」
「だろうだろう」
にっこりと笑ってイコー女史は夜でも淡く光る金銀の髪を翻し正門の方に歩いていく。
「作業はそれで終わりじゃないのか?」
「ああ、後二箇所だ」
まだ冬も終わっていない寒空の中薄いワイシャツと細身のジーンズのみの姿を見て、俺の中の真っ当な部分が抗議の声を上げる。
うむ。女性に優しくするは男の務めであろう。例えほんの数時間前まで男だったとしても、だ。
よく考えれば相手に対する気遣いに男だ女だを持ち出すことが間違っているのか。
修行が足りない自分を見つけてしまうが、後ろ向きになったりはしない。修行不足であるのならより精進すればいいだけの話である。
と、いうわけで。
「ほれ、寒いだろう。あまり無理をするんじゃないぞ」
その肩にコートをかけてやるとイコー女史は不思議そうな顔をした後に、ああ、と合点が行ったように手を胸の前で合わせた。
「ありがとう一成」
にこっと笑う。
どうにもこのイコー女史と言う人間。普段が若干本気でねじくれている癖に時折無防備に真っ直ぐな感情を向けてくる。人間付き合いが下手なのは間違いなかろう。物の怪だろうが英霊だろうが人間だろうが関係はなく。
「イコー」
「なんだ一成」
「迷いを持ったなら相談してみろ。いつでも乗るぞ」
「ふん、意味が分からないが。その心遣いはこのコートと同じく受け取ってやるぞ」
先ほどまでの真っ直ぐな微笑みはどこへやらにやり、と笑ってイコー女史は正門の方へと歩いていった。
それを眺めて、イコー女史が実はそこまでおかしな人物ではないのではないのだろうか、と思ってしまった。
多分気の迷いなのだろうが。
思わず我ながらおかしくなり、くつくつと小さく笑って部屋に戻ることにした。