例えば拳銃で脳を撃たれたとする。
弾の性質・口径にも拠るだろうが、大概の場合は即死するだろう。
では、脳漿を弾けさせた身体の細胞は死んでいるだろうか。
腕は、指は。目や舌は生命活動を止めただろうか。
まだ生きている。しかし、ただ死ぬのを待つだけだ。
既に死んでしまった何かを追う様に、ただ緩やかに死んでいくのを待つ在り方を『朽ちる』というのなら。
その男は、確かに朽ちていた――はずだった。
タイトル『追悼』
柳洞寺への帰途、葛木宗一郎は足を止めた。
あと十分も歩けば、見上げる様に急勾配である参道の石段に辿りつく。この当たり一帯はまだ住宅地であるが、街灯が少しずつ疎らになっていく所でもあった。
ぼうっとしたオレンジ色が頭上で灯っている。次の街灯までは20m程。二つの光の間には黒々とした夜闇が蟠っていた。
向こうの街灯はチカチカと点滅し、消えかかっている。
葛木は立ち止まったまま、ある一点を注視していた。
ブロック塀の間、一人滑り込めるかどうかという細い隙間である。
路地ですらない建物の合間には、暗闇が最も密度濃く溜まっている。日中でも常に影に覆われているような場所だ。
ただ暗いだけのはずである。
しかし冥々としただけの空間が、ざわりと蠢いた。
普通の人ならば、おそらくただの錯覚だと考える。
真っ暗闇をじっと眺めていると、たまに起きる幻覚だと思うだろう。
葛木はそう判断しなかった。
気がつけば、路地以下の隙間は何かで満ちていた。質量を持った黒色と言えばいいか。
「ほ――魔力など察知できぬと思うたが、なかなかどうして勘が良い」
矍鑠として響く。こつりと杖がアスファルトを叩き、隙間から一人の老人が現れた。
あるいは動く老人の死体、と表現した方がいいかもしれない。
幽鬼じみて青白く、肌はしわがれていて、体温など微塵も感じさせない。
だというのに眼球だけは爛々としている。不気味な老人だった。
「何か用かな、ご老人」
葛木の喋りは平坦なものだった。寺であれ、教室であれ一向に変わらない。
腐臭と微かな血の匂いに立ち止まり、その主が現れても、だ。
「なに、多少ばかりお主に頼みたい事があっての。こうして老体に鞭打って待ちぼうけていた訳じゃよ――キャスターの元マスターよ」
誰も知り得ないはずの事実を突き付けられる。
だが、微動だにしない。不動のままに葛木は続きを待った。
老人が片眉を上げる。
「動じぬか。いや、此度の聖杯戦争は既に終わりを迎えたとはいえ、一時は殺し合いに投じた身の筈。些かは手を血で汚して――」
「用は何かと聞いているのだが」
緊張は微塵もない。まして感じるところなど、といった風の返答だった。
額面どおり、葛木は所用だけを聞いていた。
老人は刹那渋面して、
「大したものじゃの」
闊達に笑った。
「ふむ。どうやら小細工は通用せぬようじゃな。では単刀直入に問おうか。元マスター葛木宗一郎よ、お主――未だ聖杯を望んでおるかな?」
冬木にあるという願望機の名は、葛木にある光景を思い出させた。
枯れた意思で、熱もなく。8ミリの記録映像のごとくに。
星明りもない深夜、より深い暗闇である藪に踏み込んだのは偶然だった。
理由は無い。
傷つき、倒れた異国の成り立ちをした女を連れて帰ったのにも、理由は無い。
捨て置く訳も無ければ、救う気まぐれも皆無。
憐れさも感じえず、漂い始めた死臭にも鼻を摘まなかった。
何も考えずに、自動的に。
ただ自動的に女の身を抱えただけだった。
自分が無い人間が活動をするには何らかの規範が必要である。
選び取ったルールではなく、ただ一番初めに在ったものに従っただけであるが。
現在の職業が教諭だった。強いて言葉に還元すれば「教師ならば一応は助けるべきか」となる。
より正確に表現するなら、何も考えずに女を抱えていた。
その女。
キャスターと名乗り、後にメディアと真名を打ち明けた女が求めたのが、聖杯であった。
「聖杯戦争は終わったのではないのか?」
感傷を呼ぶ記憶だった。しかしこの男にとっては、ただ通過するだけの影である。
通り過ぎる電車の影を眺めるのと違いはない。
「左様、此度の儀は終幕を告げた。しかしな、次の幕はすぐにでも開くことができる」
老人の口元がにたりと粘りつく。
聖杯が開いた孔は破壊された。十年前と同じである。
違うとすれば、前回は五体の英霊が捧げられたのに対して、
今回は七体もの高純度かつ膨大な魂が注ぎこまれたという点だ。
想像だにしなかったイレギュラーによって、八体目のサーヴァントが破壊の直前に供えられたのだ。
幕間は短すぎるほどだろう。十の年月など掛かるまい。
後押しするのなら明日にでも、起動式たる大聖杯は動き始める。
「――解せないのだが、ご老人」
嫌悪感を催しかねない幽鬼の笑みも、葛木は意に介さなかった。
「何故当たり前の事を尋ねるか、かのう? 確かに聖杯を許されるのはただ一人。再演を告げるなど敵に塩を送るに等しい。しかし聖杯を起動させるにはお主の助力が要るのでな」
老人は勘違いしている。
葛木宗一郎は老人の言う「当たり前の事」など求めてはいない。しかし訂正する意味はなかった。
魔術師ではなくともマスターであった、という事実だけで判断しているのだ。
一方葛木は、目前にしている干からびかかった老人が魔道の徒であるなど、現れた時からわかっていた。
それでも尚葛木は身構えない。
人外の魔であろうと質問に来た生徒であろうと、宵に抱いた女であろうとも。
葛木は顔色を変えはしない。
返答など期待せずに、老人は続ける。
「大元である大聖杯を起動させる為に、柳洞寺に残存する魔力を借り受けたくての。こうして主に伺いをたてておる」
いわばイグニッション・キーである。街中からかき集めた精は、それこそ擬似的な魔法を演じるに充分なのだ。
聖杯起動後も未だ残留し続けている。
「キャスターが蓄えていた魔力の事か。ならば勝手にすればいいだろう。私は魔術師ではない、無用の長物だ」
「本気で言っておるか? 空間を捻じ曲げる程の魔力、今では全てがお主を守る為に費やされておるではないか」
老人――間桐臓硯も魔術師である。膨大な魔力のストックが放置されているのなら、自らのものにせんと動くのは当然だった。
柳洞寺へ赴いた際、臓硯はあっけにとられたものだった。
眩暈を呼ぶほどの貯蔵量にではなく、術者が残した意図にである。
――魔法に届きかねない量、全てがたった一人を守るために限定されているのだから。
「お主は手にしているはずじゃが。貯蔵せしマナを取り込み、五体に帯びさせ強化する為の礼装を」
葛木は眉も動かさずに、ポケットへ右手を入れる。
臓硯は、一介の教師である男から高密度の魔力の残り香を嗅ぎわけていた。
取り出されたのは細い絹糸を編みこんで作った紐である。しかし指先で撫でれば絹ではなくて、手入れされた髪で出来ていると判るだろう。
「主人に己が髪を遺して逝くとは。怖い女よの、キャスター」
忌々しい印象で哄笑する。
体の一部である髪が魔力を蓄えるのに適しているのは言うまでもない。
現に神代の魔女が渡した護符は、まるで高密度の魔力の固まりだった。
再び葛木の胸中で追憶が映写機で映し出される。
最後の記憶だった。
「宗一郎、これを。万が一私が不在であっても、貴方ならば切り抜けられるように」
山門の前で、唐突にキャスターは振り向いた。
門に四角く切りぬかれた先は、墨に塗りつぶされた様に見とおせない。くぐれば途端に背中は映せなくなるだろう。
手渡されたものが何であるか、瞬時に判った。
太陽が落ちた今、キャスターはローブで深く素顔を隠している。
陽光の下であれば見取れた筈だ、彼女は長髪を左右に二房、編み込むように留めていた。
差し出された護符はうちの一房だろう。
梳き忘れた事など一度もない髪を、彼女は切って葛木に贈ったのだ。
葛木の手中に納めるとき、刹那だけ手が重なった。瞬きの間もない程であっても。
「――」
「マスターに死なれては、困りますから」
ただ首肯して、葛木は一拍沈黙する。
いつもの事と、普段であれば立ち去るキャスターも一時だけ待っていた。
「キャスターよ」
「はい?」
「私はまだ、お前の願いを聞いてはいないのだが」
ローブに隠れてキャスターの表情はわかりにくい。初めて口にしたマスターとしての言葉に、どう瞳を動かしたのか。
キャスターはただ微笑した。
覗く唇だけが、微かに弧を描いた。
返事はそれだけだった。
「では行きます。暫くの間だけ待っていてください」
彼女は最後に、そっと主人の名を呼んだのだが。
ささやか過ぎて葛木の耳には届かなかった。
「――此れを望むというのか、魔術師よ」
声音は常の通りに無色のまま、異なるものは何もない。
ただ伝播した空気が張り詰める。真空に触れた如く、肌が破裂するかもしれない。
ゆらりと葛木は左半身を前方に向けた。
境内ではなくとも、彼女の一部に込められた魔力は途方ない。悠に数時間は葛木の身体を鋼鉄と等しくする。
葛木は、青紫色の護符をバンテージとして拳に巻きつけた。
もし打ち出されるのなら、葛木の拳は弾丸どころか砲弾である。
砕けないものなど、ありはしない。
だというのに臓硯は、苦笑しながら片手を上げる。
「事を構えるつもりはない、わしも命が惜しいでな。寺で儀式を行う間、席を外して見逃してくれるだけでよい。お主とて聖杯を望む同士、無碍には断るまい?」
魔術師には思惑があった。貯蔵された精だけが目的などではない。
手駒が欲しい。自ら表舞台に立つ事は避けたい。
今度こそ再演は、己が脚本通りに事を運びたいのだ。まずは役者を揃えねばならない。
見えてみて、葛木宗一郎なる男は正しく適役に思えた。何故ならば――
「聞きたい事がある。再びマスターの資格を得ることはできるのか」
葛木は巌じみて動じない。不変であるから油断も隙もあり得ない。
「何事にも裏道はある。現におぬしは正規のマスターではなかったではないか。汝のサーヴァントも小細工をしおった筈。知りえなんだか?」
「求めるサーヴァントを召喚する事は可能なのか」
視線に揺るぎはない。感情を宿すことなくただ周囲を映すだけである。
「縁があればの。その掌にある護符、何より勝る絆の品――充分じゃろうて。こちらからも一つ良いか?」
男へ下した判断を確かめるべく、臓硯は尋ねた。
「何故あのキャスターに固執する? 己が望みを果すことだけが目的なのではないか?」
「私はキャスターの望みを叶えることを望むだけだ」
聖杯など求めてはいない。
「――だが、まだ当の願いを聞き届けてはいないのだ」
やはりこやつには"私"が無い。持ちうるのはただ一つの念だけだ。
ならば手繰るのは容易い。
奴の目的を抑えておくだけでよい。心の揺れなど計算する必要もない。
臓硯は心中でほくそえみ、興に乗じて余計な事を口走った。
「じゃが求めた女を呼び寄せたとして、キャスターにはお主との記憶なぞ無いが?」
現界したサーヴァントは、英霊の座に帰還することなく消え失せる。
如何に呼び出した英霊が本体とほぼ同一だとしても、ただの忠実なコピーに過ぎない。
消失したものは、唯一の存在として死を迎えたのだ。
それでも葛木は何事でもないと断言する。
「承知した。キャスター自身であればいい」
――断言する。
臓硯は満足げに、現れた隙間に消えていった。
まるで飲みこまれたように瞬時に視界からいなくなる。
老人を追って、細かく蠢動していたカタチある闇が失せていった。耳障りな蟲の這う音を発てながら。
葛木は異様な会見の前と変わらずに直立している。
朽ちていたはずだった。
今、矛盾するように自ら戦いに赴こうとしている。
理由は何かと彼は考えない。
元より自己の感情を把握しようなどの意図は枯れ果てている。
自らの想いを表わす言葉は朽ち果てている。
ただ裏腹に、体だけが一つの意味を示していた。
――視線は前に向けられたまま、手にした髪の護符を握っている。
感慨もなく悲壮もない。切実さなど欠片も見当たらない。
ただ願う事が"在る"だけだ。
「お前の願いは、必ず叶えよう」
告げる声音には、やはり潤うものはなく乾ききっている。
誰に届けることもなく、彼は確固たる誓いをたてた。