「なあイリヤ、この走り書きはお前が書いたのか?」
それは両手に収まる広告の切れ端だった。裏地はただ白紙で、妙な文字が書いてある。
異国の文字に寄り添うみたいに、幾つかの点が落とされている。
一つだけ点を伴わない文字だけが、短い文になっている様だ。
「違うよ、これ独逸語じゃないもの」
一瞥しただけでイリヤは首を振った。雪景色を思い出させる髪がふるふると揺れる。
「じゃあ一体。藤ねえでもないよな。英語でもなさそうだし」
アルファベットではあるものの、所々癖がはねたような文字だった。
首を捻って広告面に目を落とす。
鼓動が心をノックした。
角には日付が記されてあった。二月十四日である。
「――この日は」
まだそう経っていない昨日。
過ぎ去ってしまった忘れ難い一日。
――セイバーがこの家に居た、最後の日付を指していた。
タイトル『同じ星』
*
星の運行とは運命の流転だと信じられていた時代があった。
樫の木の賢者は未来を知る秘術を隠匿し、巫女だけが共有を許された。
賢者は二つの戒律を課す。
永遠に乙女である事。
もし禁を破るなら、未来はただ一人にしか示してはならないと。
*
「ああ、これでもないのか」
居間の座卓に積み上げた本がまた一段高くなる。
座布団の上で胡座になって、思わず頭を掻いた。
手元の紙には、書き出した謎の文字が横たわっている。もう三時間も格闘しているのに、何処の言語なのかもわからないままだ。
左右には本で出来たミニチュアの塔が立ち並んでいた。
「なんでちゃんと日本語を喋っていたのに、文字は外国語なんだよ……」
ぼやいても始まらない、と二つの辞書を同時に引く。
コーンウォール語みたいな古ゲール語とか、ラテン語なのではと想像していたのだが、どうやら見込み違いだったかもしれない。
そもそもこういった言語の辞書なんて、日本語で翻訳しているものなんて殆ど存在しないのだ。
あるのは専門的な英語による辞書であり、未熟な俺としては辞書を辞書で引く面倒な作業をする羽目になった。
満足に英語も操れない身としてはかなり厳しい。
だが、大学図書館にも無いかもしれない書籍を読めるのだから、贅沢はいえない。
遠坂には感謝しなければいけないだろう。
「構わないわよ。魔術的にはなんの価値の無い、ただの教養本だし。詠みきっちゃって随分使ってないしね」
と、分厚い古文書じみた本をどん、と貸してくれたのだ。
「でも、徒労に終わりそうだな」
肩を落としてため息をついてしまう。
「何とかなると思ったんだけどなあ」
一体、何が記してあるのだろう。
セイバーが書きものしている姿を、俺は一度も見ていなかった。
何時の間に、何を思って残したものなのだろう。
手の中には、まだ見知らぬセイバーがいる。
知りたかった。
一欠けらでも取りこぼさない様、一つ一つ丁寧になぞりたいと思った。
「イリヤの方は、気付いた事はないか?」
退屈そうに見守っていたイリヤは、先程まで捲っていた本を投げ出して、例の紙切れと睨めっこしている。
「ん〜」
イリヤは紙切れを掲げる様にして、くるくる回しながら唸っている。
ん? と方眉を器用に上げる。襖を開けて暗くなったガラス窓を覗きこみ、
「あ、わかった!」
急に笑顔が弾けた。はしゃぐように一つ跳ぶと、駆け足で縁側から庭に出てしまった。
「おい、イリヤ。素足で外に出ちゃダメだろ」
つられる様に立ちあがり、縁側に立って呼びかける。
「ほら見て、シロウ。これ、星の位置を指しているんだよ」
「え、星?」
嬉しそうに一番明るい星、金星を指差すイリヤ。
「うん、だったらわかるよ。この文字ね、ギリシア語よきっと。ドゥルイドの星詠み!」
点は星で、文字は星の名前だと楽しげに笑う。宝の地図を解読したみたいな喜び様だ。
なのに俺は眉間に皺を作ってしまう。よく解らなかった。
「なんでギリシア語になるんだ? ドゥルイドってケルトの魔術師だろう?」
「呆れた。シロウってば何も知らないのね」
イリヤは腰に手を当てて、肩を竦めてみせる。
背伸びしている風で微笑ましいのだが、顔に出すとむくれてしまいそうだと必死に堪えた。
「魔道書読むのだったら必須よ。ドゥルイドだって公用語はギリシア語なんだから」
その割にはイリヤも読めてなかったじゃないか、とは言わないでおく。
確かにアーサー王お付の魔術師は、ドゥルイドの系譜であったはずだ。
「すると、やっぱりそれは」
セイバーが書き残していったものなのだ。
「イリヤ。セイバーは何を占っているんだ?」
「んーと、そこまではよく判らない、かな?」
やや拍子抜けしてしまった。苦笑しながら縁側に座りこむ。
けれどイリヤは神妙に、手にした紙切れをじっと眺めていた。
さっきまでのはしゃぎ方は何処へ行ってしまったのか、イリヤの後姿は静けさに溶け込んでいる。
呼び掛けようとしたが、何故かふと口をつぐんでしまう。
祭りの後みたいな寂しさに包まれた。
自然と星空を見上げた。
冬木の空気は澄んでいて、ちゃんと星が瞬いている。
夜の帳は深く暗い。しかし星光はささやかであっても、決して飲み込まれようとはしない。
星座の知識なんて子供の頃に欠片を齧った程度で、オリオンと小熊座のしっぽくらいしか判らなかった。
せめてセイバーが書き記した星の名前を聞こうとした時、
「ねえシロウ。国にとって、セイバーは何だったのかな」
遠く呼びかける声で、イリヤが問いた。
振り向いた表情は年下のそれではなく、大人びた憂愁があった。
「決まっている。セイバーは、望まれた王だった」
意図もわからず、知り得る真実を口にした。
「うん。でもね、私は同時にセイバーは巫女だったと思うわ」
「……巫女? どうして」
「嫁いだのが神ではなくて国だっただけ。政事って元々祭事でしょう? だから彼の魔術師は、セイバーにドゥルイドの星詠みを教えたんだと思うの――天文の術を知る権利があるのは、ドゥルイドとその巫女だけというわ」
イリヤが紙切れを差し出してくる。それを大事に受け取った。
「ドゥルイドの巫女はね、穢れない身であるのなら、王の為ひいては国の為に将来の吉兆を星で占った」
広告の日付は、最後の戦いに赴いた日だ。
あの日の夜空は雲が細かく流れていた。星を見るには多少悪条件で、だからメモを取ったのだろう。
何を星に問うたのだろうか。
戦いの行方? まさか、彼女は自分の力で切り開く人だ。
セイバーは、一体何を詠んだんだろう。
「そして結ばれた相手がいるのなら、良人の為だけに未来を詠んだの――紙に記されてあるのは、星の名前と一言の祈りだけ」
『主人に輝く明日を』――イリヤは彼女の代わりにそう謳った。
胸が詰まった。
つまりなんのことはない。
最後に、彼女は共に戦えないのならと。
俺の無事を、星に願ったのだという。
「……なんだよそれ」
そう口にするのが精一杯だった。
聖杯に決着をつける為の出立、その前に一拍だけの間があった。
彼女は星明りを浴びながら、縁側に座っていた。
死出の出発になるかもしれない時刻を前に。
自分ではなく、俺の身を案じて夜空を見上げた。
雲が邪魔する星の耀きを、なんとか詠もうとペンを手にして。
蒼褪めた光の中、金の髪をした少女が星を占う。
翠色の瞳に、淡い瞬きを探している。
それは一人の夢見る少女で。
夢の跡に置いていった、大切な幻だった。
「なんだよ、反則じゃないか……俺は何一つ残せなかったのに、こんな――」
恋文みたいに、残していくなんて。
宛名もない、文面もない。けれど確かにそれは、彼女からの手紙だった。
セイバーの文を静かに額に寄せて、少しの間だけと俯く。
そっと髪に何かが触れてきた。
小さくて優しげな手だった。
「かわいそうなシロウ」
白い少女は本当に大人びていて、
「セイバーが、好きだったのね」
まるで姉の様な微笑みだと思った。
遠い昔に誰かが言った。
恋する事は、独り哀しむ事なのだと。
驟雨のように。彼女が座っていた場所で、俺は一滴だけ涙を流した。
――セイバーという少女が好きだった。それだけは、永遠に忘れない。
これ以上零れないよう、俺は黙って星空を見上げる。
イリヤも倣って天上を仰いだ。
「ねえシロウ、一緒に星を数えよう。私が教えてあげるから」
「ああ、そうだな。たまにはいいよな」
二人して縁側に座り、手紙を片手に夜空を指差す。
想い返してばかりはいられない。
明日からはセイバーが願ってくれた未来を、俺は作っていかなくてはならないのだから。
けれど、せめて今夜くらいは。
――遠い昔、つい先日。瞬いているのは、きっと同じ星だと。
彼女が詠んだ星を、夜が明けるまで探し続けた。