穏やかな風が頬を撫でる。
午後の陽気に誘われてひとつ大きなあくびをしたら、桜の花びらが一枚、舌に張り付いた。
吐き出すのも無粋な気がして飲み込んだら、喉に詰まって少し咳き込んだ。
少し先を歩いていた遠坂が訝しげに振り向く。
「どうかした?」
「桜食ったらむせた」
「ばーか」
「む、馬鹿とはなんだ。風情を解さないやつめ」
春風に負けないくらいに穏やかな微笑を残してきびすを返す遠坂。
その遠坂のふりふり揺れるツインテールにも数枚の花びらが絡まっていた。
少しだけ足を速めて手を伸ばせば届くけど、それはしない。
これが学校での俺と遠坂の距離だから。
卒業するまで二人の関係は秘密ってのが遠坂と交わした約束。
裏を返せば、周りに隠さなければならないほど親密な関係ってわけで。
近づきすぎると歯止めが利かなくなりそうで、だからといって姿が見えないと落ち着かなくて、結局これくらいの距離がちょうどいいんだって何となく感じてる。
それは遠坂も同じみたいで、クラスメイトという枠を越えて必要以上に踏み込んでくることはないけど、授業中でも休み時間でも、ふとしたことで視線を感じることがある。
目が合うとお互い慌てて顔を背けるあたり、二人とも恋愛というものに関して小学生レベルの感性しか持ち合わせていないらしい。
そういう意味では同じクラスになった……というかさせられたのは素直に良かったと思う。
まあ、春休み中に藤ねえが秘密ノート広げて、『まず士郎でしょー、それと遠坂さんに美綴さん、あと柳洞くんに……そうそう慎二くんもー』なんて、覚えてる名前を無節操に書き連ねていた時点で大体予想はできたんだけどさ。
士郎も便利屋さんだから倍率高かったのだー、とは本人の弁。
……この学校のクラス替えは担任教師の入札制ですか?
俺はともかく、遠坂や一成など全クラスで指名競合してもおかしくないところをこともなげに引き当てるあたり、長嶋監督もびっくりの天性の強運か、はたまた野生の勘か本能か。
見知った顔ばかりってのは気楽でいいんだけど、妙に勘の鋭い美綴なんかは要注意だ。
遠坂は遠坂で、一見完璧なようでいて、その実絶望的に詰めが甘かったりする。
そういえば、新学期早々数学の小テストがあったんだけど、遠坂嬢は満点を逃したのがよほど悔しかったらしく、しきりに愚痴をこぼしていた。
いわく、『式も計算も完璧なのに何で答えを書き間違うのよー』
さもありなん。
そんなわけだから、ちょっと気が緩んだ隙に俺のことをしろー呼ばわりでもしようものならクラス中から追求を受ける羽目になるだろう。くわばらくわばら。
まあ、そんなこんなで聖杯戦争から2か月余り。
失ったものもたくさんあるけど、新たに得たものはそれ以上に多い。
結果として救いきれなかった人たちもいる。
それでも、俺は間違ってなんかいないと胸を張って言える。
偽物の正義、借物の理想、紛物の信念。
───それがどうした───
例えそれが切嗣の作った道で、その背中を追いかけてるだけだとしても、走るのは衛宮士郎だ。
俺が信じれば、それは俺の正義であり、俺の理想であり、俺の信念だ。
それが正しいかどうか判断するのもまた自分自身。
だったら、偽善だろうが独善だろうが自己満足だろうが自分を信じずに何を信じる?
衛宮士郎は正義の味方になる。
でも、そもそも正義って何だ?
それは客観的な善でもないし悪でもない、モラルに捕らわれた常識でもない。
人が正しいと信じれば、その人にとってそれは正義なんだ。
なら正義と正義が相対したとき、正義の味方はどうすべきなのか?
答えは簡単、自分の信じる正義を貫き通すだけだ。
それでも、その簡単な答えを出すのに随分と遠回りをしたもんだと思う。
……そういうわけで、俺は自身の正義を貫くべく日々便利屋稼業に勤しんでいる。
それは間違いなんかじゃない……と思うぞ、多分。
まあ、さすがにこう平和だと正義の味方も職安通いかなー、なんて考えながら、空を見上げて背伸びを一つ。
おしなべて天下太平、世は全て事もなし。善哉、善哉。
差し当たり気になることと言ったら、新入生とおぼしきおろしたての制服が、遠坂とすれ違う度に足を止めて振り返ることくらいだ。
それも男女問わず、10人が10人。
改めて感嘆するとともに心中穏やかではいられない今日この頃。
まあ、なんだ。
結局のところ、遠坂の笑顔とか新学期とかクラス替えとかおろしたての制服とか満開の桜とか桜の袴とか全部ひっくるめて───
───春、でした。
一箭必中/第一矢
「ねえ衛宮くん、あれ桜じゃない?」
「そうだなー、学校って大抵桜の木あるけど、何でだろう?」
「もう、そっちの桜じゃないってば! ほら、校門のとこ。あんな格好で何してるのかしら?」
そう言われると何か違和感があったような気がして、校門の方を見る。
桜だ。いわゆるチェリーブロッサムじゃなくて後輩の間桐桜。
それも袴に胸当て、弓を片手に矢立を背負った完全武装。
当然下校中の他の生徒は物珍しげにじろじろ見ていた。
元々桜は人見知りする方なので恥ずかしそうにもじもじしている。
近くには同じく完全武装の美綴と、こちらは普段着の藤ねえ。
藤ねえは何故か竹刀を片手に『一箭必中、弓心天貫』なんて書いたたすきを肩に掛けている。
ちなみにそんな慣用句は存在しないので藤ねえの創作だろう。
「あー、あれは確かに桜だなー。雉でも狩りに行くのかな? それとも猪とか? どっちにしろ晩飯は鍋だな」
「……士郎、本気で言ってるなら怒るわよ?」
「遠坂、尻尾出てるぞ。何か先っぽ矢印になったあくまっぽいやつ」
「そんなものないわよっ! 大体虫も殺せないような性格の桜にそんなことできる訳ないでしょうがっ!」
虫も殺せないとはじーちゃん一本取られたなー、なんて声がどこからともなく聞こえたような気がするが、無視。
それよりこれ以上は危険が危ない。
遠坂は感情的になると周りが見えなくなるから、なりふり構わず首を絞められかねないし。
「……新入部員の勧誘じゃないのか?」
「そうなの? 去年はあんなの見かけなかったけど?」
「今年は慎二がまだ入院中だからな。新入部員集めるのが大変だって藤ねえも言ってたぞ。うん、桜くらい可愛い女の子が変わった格好で立ってれば、それだけで人目を引くし、悪くないと思う」
「……ふーん、可愛い、ね……。一応そういう意識はあるんだ?」
「なんでさ? 桜は可愛いぞ。家事全般万能だし、それに桜が笑うと何か空気が暖かくなるんだよな。桜を嫁さんにできるやつは幸せ者だと思う……スタイルもいいし」
直後、右足の甲に走る激痛。
……何で遠坂さんのかかとが乗ってらっしゃいますか?
「うわっ、足、あしっ! 遠坂痛いっ! いきなり何すんだっ!」
「あら、ごめんあそばせー。短すぎてよく見えませんでしたわ」
口元に手を当ててオホホーなんて笑う遠坂。
くーっ、パンツ見えそうなほど膝上げて思いっきり踏んだくせに!
遠坂はその姿勢のまま、俺の足をたっぷり3秒ほどぐりぐり踏みにじってからようやく解放してくれた。
じんじんと後をひく鈍痛……うわっ、これ絶対痣になってるぞ。
くそう、自分にないものばかり指摘されたのがそんなに悔しいのか、遠坂?
確かに料理は別として、整理整頓掃除洗濯苦手そうだし、遠坂が笑うと何か背筋が寒くなるような気がするし、スタイルは……俺は嫌いじゃないぞ、うん。
「あー、でも───」
「今度は何よっ?!」
「遠坂と一緒なら、苦労してもいいぞ、俺」
「なっ?!」
あれ、今なんかとっても恥ずかしいことを口にした気が……
目の前には、耳まで真っ赤にしてうつむく遠坂。
む、虎寅トラ、我レ奇襲ニ成功セリ。
……って真珠湾でいきなり神風特効かよっ?!
いや、だって、無意識とはいえ、さっきのはまるで、ぷ、ぷろぽおずのような……
カーっと、頭に血が上ってくるのがわかる。
うわ、多分俺茹でダコみたいな顔してる。
落ち着け、衛宮士郎。
こんなの誰かに見られたら………………遠坂苛めたことにされて、全校男子に袋叩きだっ!
サーっと、血の気が引いていくのがわかる。
うわ、多分俺葛木せんせーみたいな顔してるっ?!
「と、とにかく、ちょっと覗いて行くか? 藤ねえがヘンなことしないか心配だし……」
「そ、そうね」
手に手を取って、というわけにはいかないので、先に歩く俺と3歩下がって付いてくる遠坂。
あ、なんかこんな構図も新鮮かも。
往来の真ん中で恥ずかしいことをしてた割には人目を引いた様子もなく、俺は胸を撫で下ろした。
どうやら、人々の興味の対象は完全に別のところにあったようだ。
目の前には既に黒山の人だかり。
その向こうから聞こえてくるのは、そろそろいっかー、なんて能天気な藤ねえの声。
「さあさ皆さんお立ち会い! 託す鏃に魂込めて、一箭必中神の業! 天をも貫く弓の道ー、八幡太郎も御覧じろー!」
バンバンと虎竹刀を地面に叩きつけながら、大声で口上を述べる藤ねえ。ちょっとキャラ違くないか?
なんか凄く嫌な予感がするんですが……。
俺は遠坂を前に立てて人混みを掻き分けた。
いや、だってそうすればみんな道空けるし。
詳しいことは聞かされていないのか、茫然自失の体で突っ立っている桜と美綴が見えた。
藤ねえはそんなことはお構いなしにますますヒートアップ。
「ここに控えし二人の美少女! かたや凛々しく気高く美しく、銃後の護りも撫子の努め、武芸百般腕に覚えあり。全校生徒の憧憬を一身に集めるは弓道部現主将、美綴綾子ー!」
おーっ、という歓声とともにまばらにわき起こる拍手。
美綴は口元を引きつらせたぎこちない笑顔のまま固まっている。
「かたや可憐にして清楚、炊事洗濯なんでもござれ、一途な思いを鏃に乗せて、射止めて見せよう彼の胸。満開の桜も恥じらうは弓道部次期主将、間桐桜ー!」
かわいー、とか、好きだー、とかいう声とともに美綴のときとは比べものにならない量の拍手が起こる。
頬を鮮やかな桜色に染めてあたふたしていた桜は、名前を呼ばれて『よ、よろしくお願いしますっ』なんて言いながら慌てて頭を下げた。
「さて、ここに取り出しましたる一つのりんご。ちょっとそこのあんた、唯のりんごと見くびっちゃあいけないよ? 大和か富士か黄金か、アダムとイブも涎を垂らして手を伸ばす禁断の果実の如きこの色つや! どうだい、大したもんだろう? まあ、少々惜しいがこれも世のため人のため、こいつを使ってとっておきの芸を披露してやろうじゃあないか。さあ、目ん玉見開いてよおーく見てな。お代は見てのお帰り……と言いたいところだが、こちとら宿無しふーてんの身。ちょいと情けがお有りなら、この入部届けを手に取ってもらおうって寸法だ」
バンバン、っと竹刀で合いの手を入れる藤ねえ。
完璧だ、完璧な投影だ。
もはや魔法の域。
偽物が本物に及ばないなんて道理はない。
いや、そもそも偽物なんかじゃない。
本物と寸分違わぬならば、それは同じものをもう一つ作っただけのことなんだから。
それが複製であっても、本物と信じるならば、信じる心が本物ならば、それは本物をも凌駕する。
そう、藤ねえは今、間違いなく、紛うことなく、あの伝説の───
───寅さんだった───
※あとがき※
なんかギャグっぽい流れですが、一応ほのぼの路線に持っていくつもりです。
最後まで書き上げられるかどうか微妙、長い目で見守ってください。
拙作ですが気に入ってもらえれば幸いです〜。
なんかSS書くのやたら久しぶり。