「──を封印すること、それが条件です」
「……つまり、信用されてないってことか」
「いえ、私個人としては信用しています。ですが、それだけで組織は動きませんので」
「分かった。分かったよ、会長殿。あんたの言葉に従おう」
「──……」
「……悪い、少しだけ我慢してくれよ。ちょっと窮屈かも知れないけどさ」
「さて……それじゃ行ってきますか、その冬木市とやらにさ」
Fate / Sword & Sword
冬木市・新都、その駅前パークのバス停ともなれば、休日平日の区別なく、それなりの人が集まっている。
しかし、その集団の中に、この日だけ異物が混ざり込んでいた。
「……ほう、これはこれは」
長身──一分の隙もない立ち振る舞いで、その男は冬木の地に降り立つ。
「なるほど、確かに“ここ”なら申し分ない。
──冬木の大聖杯、どうやら侮っていたようだ」
そう言った男の口調には、ひどく楽しげな笑みが潜んでいた。
「衛宮、今日はもう切り上げよう」
「ん、了解」
友人──柳洞一成の言葉に頷いて、衛宮士郎は工具箱を手に取った。
彼の運命を変えた戦い──五度目の聖杯戦争より既に半年。半人前の魔術師にして魔術使い、衛宮士郎は、相も変わらずスパナ片手に学校の備品を修理してまわっている。
土曜日の午後ということで、校舎内に人気は残っていない。部活動のため残っている生徒は無論いるが、それでも校舎全体に、どこかだらけた雰囲気が蔓延していた。
しかしそれも、あと数日で夏休み、という条件の前ではむべなるかな。長い休みを目の前にした学生に、浮き足立つなと言う方が酷である。例外は衛宮士郎自身と、その友人の生徒会長くらいであろう。
「それじゃ、俺は工具箱帰してくるから」
「いや、職員室に用があるから、それは俺がやろう。衛宮はもう帰ってくれていいぞ」
「いいのか? じゃ、御言葉に甘えて」
あっさり承諾して、一成に工具箱を手渡す士郎。半年が経過しても、スパナがやけに似合う出で立ちは相変わらずだ。
「それじゃ、あとはよろしく」
「ああ、じゃあな、衛宮」
一度教室に戻って鞄をとり、一人で校門をあとにする。グラウンドや道場からはクラブ活動をしている生徒の声が聞こえていた。
こうして一人で下校するのも実は久しぶりのことであった。ここ数ヶ月──聖杯戦争が終わって無事三年生になってからは、何かと彼のまわりが賑やかになっていたのだ。主として、聖杯戦争をともに戦い抜いた仲間によって。
その二人──魔術師としての師でもある同級生とその使い魔となったかつてのサーヴァントは、今日は遠方から来客があるとかで、さっさと自分達の屋敷に帰っていた。
「……そういや、わざわざ遠坂の屋敷まで訪ねてくる客って、何だ?」
何となく遠回りなルートを選んで下校しながら、士郎はふと思い至って首をかしげる。
衛宮士郎にとって、遠坂凛というのは永遠に謎な存在ではある。が、決して理解不能な女性というわけでもない。彼女がわざわざ屋敷で待ちかまえるということは、十中八九“裏”の関係者──つまり、魔術関係の客であろうと予測できた。
だが、結局はそこまでだ。魔術関係の客であろうということは予測できるが、逆に言うとそこまでしか予想できない。
「まあ、本人に聞けばいいか」
考えても結論など出ないから、思考放棄。問題の先送りともいうが、元々それほど興味があるわけでもない。
そのとき──、
「うわっ」
「お……?」
道端……ちょうど衛宮家と遠坂家に挟まれた交差点で、士郎は出会い頭に人とぶつかってしまっていた。
「っと、すいません」
「ああ、いや、こっちこそ」
慌てて謝る士郎に、その相手は苦笑混じりにそう言った。視線をあげると、目に入ったのは士郎よりやや年上で、頭一つ分ほど背の高い青年。
夏だというのに黒いシャツとズボンを纏ったその青年は、肩から大きめの鞄を提げていた。黒ずくめの出で立ちは、どこかおとぎ話の魔法使いを思わせる。
──その姿が、何故、似ているなどと思ったのか。
「?、どうした? どっか打ったのか?」
「あ、いや……」
不意に問いかけられて、士郎ははっと我に返った。そして、
「なんか、魔法使いみたいだな、って」
などと、自分でもよく分からないことを口にする。無論、口にした瞬間に後悔した。初対面の相手に向かって、一体何を言ってるのか。
だが……青年は、一瞬きょとんとした表情を見せたあと、
「そりゃ当然。こう見えても、俺は魔法使いなんでね」
そう言って、屈託なく笑ってみせたのだった。
「……はぁ」
昼下がり、間桐桜がため息をこぼしたのは、実は珍しいことであった。
場所は自室──地下にある本当の“部屋”ではなく、二階の部屋の方だ──で、彼女は物憂げに窓の外を見つめていた。今日は朝から体調が優れず、部活には顔を出さずに帰ってきたのだ。あの一件以来、彼女の兄が無理を言うことは少なくなっていた。
だが、桜のため息の理由は体調不良だけではない。というか、その体調不良で彼女の“先輩”の家へ行くことができなくなったことが主な原因であった。せめて微熱が収まらなければ、顔が赤いまま行っても逆に心配されるだけだろう。
自分のことには鈍感なくせに、彼女の“先輩”は他人の不調には敏感な人間だから。
「……あれ?」
そのとき、ふと庭を見下ろした桜の目が、そこから玄関へ歩いてくる一人の男性を映した。
遠目でも分かるくらいの長身痩躯。一分の隙もなくきっちりとスーツを着込んだその人影は、奇妙なくらいに日焼けした真っ黒な肌をしていた。
「お客様かしら」
この家を訪ねてくる客人がいるとも思えなかったが、実際に玄関に向かっている以上、客なのだろう。桜は慌てて腰を上げると、来客を迎えるべく部屋をあとにした。
間桐家の本来の主──彼女の祖父、間桐臓硯は間違っても自分から客をもてなすタイプではないし、兄である慎二は部活で家にいない。
そうして桜が玄関まで辿り着いたとき、ちょうどその男性は、間桐家の扉をくぐったところだった。
「失礼……ゾウケン氏はご在宅かな」
──その夜、桜は幾度となく悪夢に眠りを妨げられることとなる。元より悪夢に等しい人生を送ってきた彼女をも脅かす悪夢は、どれもその客人──アンブローズ・デクスターと名乗った男が登場していた。
「……初めまして、かな。マキリの魔術師殿」
「さてな。わしもこの通りもうろくしておっての。過去におぬしと会っておったとしても、もう思い出せぬわ」
「それはそれは……クク」
「何がおかしい?」
「いえ……人間、ここまで醜悪になれるものかと感心してしまいまして」
「ふん──何とでも言うがいいわ。死にたくないというのは人類共通の願いではないかな?」
「しかり……それが「生きている」といえるのなら、だが」
「何?」
「いえ、なんでもありませんよ、魔術師殿。
それより……」
「分かっておる……幸い、前回の聖杯戦争で街の魔力濃度は更に上昇した。今なら、もう一度挑むことも可能であろうな」
「それは結構」
「さて、では始めようか──我々の聖杯戦争を」
曰く、それは混沌である。
それは従者であり、奏者である。
それは「宇宙の悪」に仕えるものであり、同時にその悪を嘲笑うものである。
曰く、それは千の貌を持ちながら無貌である。
曰く──“それ”は、這い寄る混沌である。
Fate / Sword & Sword
「……あれ?」
その日、衛宮家に帰宅した衛宮士郎は、玄関で思わず足を止めていた。
理由は簡単、玄関に規則正しく並んだ靴の数だ。衛宮家の玄関には、女物の靴が二種類、綺麗に並べられていたのである。
「あ、士郎? お帰りなさい」
と、士郎が首をかしげる暇もなく、姿を現す少女が一人。士郎が常日頃「あかいあくま」と評している若き魔術師は、彼にとって魔術の師でもある──正確には、まぁ、師弟以上恋人未満といったところか──。名前を、遠坂凛といった。
「ただいま。どうしたんだ? 遠坂、今日はお客さんが来るんじゃなかったのか?」
「ええ、来たわよ。玄関で追い返しちゃったけど」
ごく自然に、明日の天気の話でもするかのように、あっさりと言ってのけるあかいあくま。
「ふーん、そうだったのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・って、いいのか!?」
「いいも悪いも、頭に来ちゃったんだからしょうがないでしょ。第一、何処の魔術師があんな提案受けるってのよ」
驚いて声をあげる士郎に、どこかばつが悪そうに視線をそらして呟く凛。何やらぶつぶつと文句を言っているのは、自分でもいくらか後悔している節があるからなのだろう。士郎の知る遠坂凛という少女は、自分で自信を持って決定した事柄なら、それがどんなことであろうと後で文句を言ったり愚痴をこぼしたりはしないものだ。
「と、とにかく! 私の予定は潰れちゃったから、士郎さえよければ今日も講義をやりたいんだけど、いい?」
「あ、ああ、それはもちろん」
“講義”──衛宮士郎が遠坂凛の弟子となってから、いや、正確には弟子になる前から、士郎は凛に魔術を、もう一人の師に剣術を教わっていた。どちらもまだ半人前の域を出ないが、ほぼ毎日欠かさず続けてきたことにより、彼の実力は確実にアップしている。
「そういや、セイバーは?」
「シロウ、私ならここにいます」
ふと首をかしげた士郎の呟きに答えたのは、凛に続いて居間から現れた、金髪碧眼の美少女であった。
少女はセイバー──その真の名をアルトリアという。かつてこの地で行われた聖杯戦争の際、他ならぬ衛宮士郎のサーヴァントとして召喚され、現在は凛の使い魔として現界している、れっきとした英霊の一人である。
今は坂の上の遠坂邸に住んでいるはずなのだが、やはり以前住んでいた衛宮家の居心地がいいのか、頻繁にこの家を訪れている。
「ときにシロウ、お昼ご飯はまだですか?」
……訂正、居心地がいいというより、ご飯がおいしいことが重要らしい。
「そういや遠坂、今この町にいる魔術師って、俺の知ってる奴らだけか?」
数分後、愛用のエプロンを身につけて台所に立った士郎は、ふと思い出したように居間を振り返った。
「ん……どうしたの、急に」
「あ、いや……」
きょとんと問い返した凛に、思わず言い淀む士郎。ちなみに居間では、凛とセイバーが二人、テレビの前でくつろいでいる。
「今日の昼頃さ、自分のこと「魔法使いだ」って言ってる人がいたんだよ」
「はぁ?」
とりあえず正直に答えると、凛は呆気にとられたような声を出した。
「何よ、それ……どんな人?」
「うーん……魔法使いっぽい人」
「シロウ、それは答えになっていません」
士郎の答えに、呆れたようにつっこむセイバー。
「い、いや、そういう感じだったんだよ。なんて言うか、こう……」
「魔術師だったってこと?」
「ん、どうだろ。魔術師だとしても不思議じゃない雰囲気だったけど、どうも、遠坂や俺とはタイプが違うような感じだったな」
そこまで言ってから、士郎は会話を打ち切って料理に集中することにした。士郎にとっては昼間の人物より目の前の料理の方が重要だし、居間の二人にしても……少なくともセイバーは同意してくれるだろう。
「……私達以外の魔術師、ね」
しかし、不意に小さく呟いた凛の声が、ひどく印象に残った。
衛宮士郎は、半人前の魔術師である。
かつてこの地で行われた四回目の“聖杯戦争”の際、その最後の決戦で起こった大火事が彼から家族を奪い去った。後に、聖杯戦争に参加していた魔術師衛宮切嗣の養子となった士郎は、切嗣が最後まで憧れていた存在──“正義の味方”を目指すために魔術を学んだ。元より、魔術の才能など欠片もない身であったにもかかわらず。
そして──自身もまた五度目の“聖杯戦争”に参加し、紆余曲折の末に生き残ったのである。
自身の“理想”そのものとの戦いを経て、士郎は掛け替えのないものを幾つか失い、そして手に入れた。その一つが魔術の師匠であり思い人でもある遠坂凛であり、どこか自分と似た部分を持つ騎士王、セイバーことアルトリアなのであった。
「……それで、オフィス街の通り魔ってのは捕まったのか」
「ええ、どうも胡散臭い気はするけど、とりあえずはただの変質者だったみたいよ」
その後、昼食を済ませて日課の訓練と講義を終わらせた士郎達は、テレビから流れてくるニュースを眺めながら、とりとめのない会話を続けていた。
「まあ、何にせよよかったじゃないか」
「そうね。士郎が首を突っ込む前に終わってくれたのは幸いだわ」
「同感です。シロウは、自身をかえりみなさすぎる」
「う……な、何だよ二人して」
遠慮の欠片もない女性陣に、思わず顔をしかめる士郎。もっとも、ここで下手に反論しても更にやりこめられるだけなのは目に見ていているが。
「あら、何か異論でもあるのかしら?」
「う、いや、その……あるようなないような?」
苦笑しつつ、凛のからかいに頭をかく。士郎自身、自分の生き方が歪であることは自覚している。
そう、己の歪さを知った上で、この生き方を選んだのだ。凛やセイバーが心配してくれるのはありがたいと思うし、歪なままでいたいとも思わないが、生き方を変えることだけは死んでもできない。
なぜなら──それは、衛宮士郎が衛宮士郎でなくなることだから。
「と、ところで遠坂! 結局、今日の「客」ってのは何だったんだ?」
「シロウ、誤魔化そうとしていませんか?」
「う……し、してないぞ。単純に興味があるだけだい」
「ふぅん……士郎ってば、そんなに私に興味があるんだ? もう“隅々まで”知ってるくせに」
「なっ……」
途端に、赤面。からかわれると分かっていても反応してしまうのは、士郎だからか「男の子」だからか。
しかし、そのとき──
──カラン──
「日常」という静寂を砕く音色は、あまりにも唐突に鳴り響いた。
「え……」
「な、これ──結界の!?」
唖然とする士郎に、凛の叫びが重なる。その音は、衛宮家の天井に取り付けられた警鐘の音色だった。
衛宮家の結界は、かつて士郎が巻き込まれた聖杯戦争の際に敵サーヴァントによって一度破られている。現在の結界は、後に士郎と凛の共同作業によって張り直されたものだ。
曲がりなりにも魔術師の家である以上、見知らぬ人間が勝手に敷地に踏み入れば警鐘が鳴る程度の結界は当たり前である。しかも今の結界は、張り直す際に凛が(何故か)やたら張り切って機能を増やしたため、敵意を持って敷地に入ると自動的に軽い攻撃が加わるようになっていた。
「何だろ、泥棒かな?」
「いえ、違うわ……」
やや緊張感に欠けた士郎の言葉を遮ったのは、普段とは違う表情──人前では決してみせない、魔術師としての貌になった遠坂凛であった。
「気配が結界を抜けてきてるもの。ただの素人なら、結界が発動した時点で逃げ帰るか動けなくなってるはずよ」
何やら物騒なことを口にしているが、凛の表情は真剣そのものだ。それも当然か、この家の結界には、彼女もかかわっているのだから。
敵意を持って衛宮家の敷地に足を踏み入れ、結界に阻まれても足を止めぬとなれば、その相手は紛うことなく……、
「魔術師、ですか」
「多分ね。セイバー、士郎、こうして待ってても意味がないわ。迎え撃つわよ」
そう宣言するやいなや、それまでのだらけた雰囲気など何処へいったか素早く立ち上がる凛。それに遅れることなくセイバーも続き、最後に士郎が後を追った。
だが──
「いやいや、出迎えは結構。今日のところは挨拶をしにきただけなのでね」
と、まったく隙のない紳士的な口調で言い放った妖人は、一体いつの間にそこにいたのか、既に居間の入り口に佇んでいた。
「な……」
唖然、と立ちすくんだのは、凛である。まさか、士郎はともかく一人前の魔術師である凛や、現在はただの使い魔とはいえ最強のサーヴァントといわれたセイバーが、ここまで敵の接近を許すとは。
「何者!?」
瞬時に立ち直ったのは、やはりセイバーだった。咄嗟に士郎と凛をかばうように立ち、不可視の刃を手の中に召喚する。しかし、
「そう殺気立たんでくれ」
などといいながら、男は芝居がかった仕草で肩をすくめてみせた。
長身痩躯──外見を見る限り、見事なまでに「隙」というものがない男だった。年齢不詳だが、見た限り三十代半ばほどに見える。きっちり着こなしたスーツにも乱れはなく、身ごなしにも自然な優雅さと品の良さがあった。ただ一つ、その装いの中で異形といえるものがあるとすれば……それは、あまりにも肌が黒く日焼けしていることだろう。
男が笑うと、肌の黒さのせいで歯の白さが際だつ。そのくらい黒く焼けていたのだ。
「……あんた、何者だ?」
セイバーに代わり問いを繰り返したのは、士郎であった。
この家は衛宮の家、士郎の家である。若くも家の主としての自覚を持つ少年にとって、許しなく踏み入ってくるものは、敵だ。
「ふむ、それはなかなかに難しい問いだ」
だが、男は士郎の敵意をいなすように、飄々と肩をすくめてみせた。
「何しろ私の名は多すぎてな……しかし、今の立場を明かすなら、私の名はアンブローズ=デクスター。マキリ家の客分と言ったところか」
「!」
男──デクスターの言葉に反応したのは、士郎よりもむしろ凛だった。
「何ですって!?」
「だから、マキリの客分として扱ってもらいたい、と言ったのだ。ああ……そう言えばそちらのお嬢さんは、あの家と浅からぬ因縁があるのだったな」
そう言って、男は笑う。まるでこちらの全てを見透かしているかのような、あまりにもかんに障る笑い方だった。
「繰り返すが、今日のところは挨拶にきたまでだ。できれば平穏にすませたいのだがね?」
「挨拶、だと」
笑いながら繰り返す男に、思わず眉をひそめる士郎。しかし、男はその笑みを浮かべたまま今を横切り──咄嗟に身構える三人を無視して──衛宮家の庭へ降り立った。
「一体、どういう意味だ?」
「ふむ、説明せねばならんかな」
その背に、士郎は不審を露わにして問いかける。対して、デクスターは庭の真ん中で振り返り、またあの笑いを浮かべて言葉を紡いだ。
「“前回の聖杯戦争の生き残り”である君達に、“今回の”聖杯戦争参加者として、挨拶をしておこうと思ったまでだよ」
「なっ……」
その瞬間、士郎だけでなく凛やセイバーまでもが、あまりの衝撃に言葉を失っていた。
「馬鹿な!」
「信じる信じないは君らの勝手だがね、しかしほら、一応証拠となるものもある」
苦笑混じりに言い放ち、デクスターはその右手を掲げてみせた。その腕──手の甲と二の腕の間辺りに輝く紋様は……。
「ッ!」
「令、呪……」
それは、彼らにとっては見慣れたもの。かつては自らの腕にあり、戦いを経て失った印──契約の証であり、サーヴァントに対する絶対命令権である神秘“令呪”。
それを腕に刻む限り、この男は間違いなく、何らかのサーヴァントと契約したマスターだということだ。
「クク、その表情はいいな。やはり、“私”は人を驚かせるのが好きなようだ」
などと、まるで他人事のように言ってのけるデクスター。しかし、士郎も凛も、セイバーすらも、驚きのあまり言葉を返すことすらできなかった。
「ああ、サービスついでに教えておこう。君達も知っての通りサーヴァントは全七体だが、今この時点で召喚されたクラスはキャスター、リーダー、アサシン、そしてライダーの四クラスだけだ。つまり──君達にもまだ、参加の権利は残っているのだよ?」
「おまえ……聖杯を手に入れて、一体何を望むつもりだ?」
「さて、望みと言うほどのものはないのだが……」
笑いながら、デクスターは士郎の問いに首をかしげてみせた。敵意も害意もまるでない……だが、この男には悪意しかあり得ない。
「ああ……「世界の滅亡」というのはどうかな?これはなかなか良さそうだ」
「ッ……テメエぇ!」
「!、シロウ!いけない!」
激高した士郎を押さえるように、セイバーの声が響いた。士郎とて一介の魔術師──だが、このデクスターという男は得体が知れなさすぎる。
その刹那、
──カラン──
「……何?」
鳴り響いた二度目の警鐘に驚いたのは……何と、庭に一人立つデクスターであった。
同時に、衛宮家の壁を飛び越えて庭に降り立った影がある。
「──野獣どもその跡につづき その手を舐めん。
たちまちウミより凶まがしきものうまれいずる。 黄金の尖塔に海藻のからまりし忘却の都市あらわれ
大地裂け、揺れ動く人の街の上には狂気の極光うねらん
かくして戯れに自ら創りしものを打ち砕き、
白痴なる<混沌> 地球を塵と吹き飛ばしけり」
淡々と詩を朗読する声が流れる。その影──黒ずくめに大きな鞄を提げた人物は、片手に大振りな刃を握り、一陣の疾風となってデクスターの背に飛び掛かる。
「ッ! 貴様……」
「……そんなこと、俺がさせやしねえよ」
その言葉とともに、あらわれた“魔法使い”はデクスターと名乗った男の背を袈裟斬りに斬り裂いていた。
そのものは数多くの名を持っていた。
人呼んで魔書の王<ロード・オブ・グリモワール>
人呼んで書に愛されしもの
人呼んで漆黒の魔術師<マギウス>
人呼んで巨匠<グランドマスター>
人呼んで──魔導探偵。
そして、またの名をマスター・オブ──
『……ひどいな。背中から斬りつけるなんて、君らしくもないことをするじゃないか』
そう言った女の声を、あらわれた魔法使いは鼻で笑い飛ばした。
「あんただけ例外だ。前のときのこと、忘れたのかよ」
『ああ、そういえばそうだったね。まったく……情事の最中に女の子の頭を吹っ飛ばすなんて、無粋の極みじゃないか』
「何が情事だ、言い訳のしようもなく強姦だったじゃねえか。それに、一体何処の誰が「女の子」なんだよ、バアさん」
嘲笑う声を斬って捨て、魔法使いはその眼前で振り返りもしない黒人に刃を向ける。真横に薙いだ漆黒の鉈は、ただ一撃でその首を斬り飛ばした。
だが──!
「……ふむ」
よもや、その首が何事もなかったかのように言葉を吐こうとは。
「まったく、「君」が舞台に上がるのはもう少し先の予定だったのだが……いつもいつも、君は私の予想を裏切ってくれる」
そう言って、男──アンブローズ=デクスターは空中で口元を歪めるや、瞬く間に西日の中で塵となって消えてしまったではないか。
『まあいいさ、君とはいつだって会えるんだ』
「できりゃ二度と会いたくねえよ、あんたとは」
最後に虚空から放たれた一言に、吐き捨てるように言ってのける魔法使い。いつの間にか、デクスターの胴体の方も消えてしまっていた。
そうして、衛宮家の庭に残った黒ずくめの魔法使いは、いまだ状況を把握し切れていない士郎達に振り返り、
「まー、何だ。とりあえず不法侵入に関しては大目に見てくれると助かるんだが」
などと、緊張感もへったくれもない声でのたまったのだった。
Fate / Sword & Sword
そのとき、彼らの中で真っ先に行動を起こしたのは、セイバーだった。
「へ?」
呆気にとられたような青年の声。それも無理はない。ほんの瞬き一つ分程度で、鎧姿に変じたセイバーが居間から庭に飛び出していたのだから。
夕日を背景に庭の草を踏みつけ、瞬く間に懐に飛び込むセイバー。その手に握られた剣は不可視──剣の姿を隠す風の宝具<風王結界>!
「ハァッ!」
「どわぁっ!」
セイバーの気合と、青年の間の抜けた悲鳴が重なった。下段から胴を薙いだセイバーの剣閃を、青年が真後ろに転がってかわしたのである。
「あ、危ねえじゃねえか!」
「私の剣を、手加減したとはいえかわしましたか。やはり、ただ者ではない」
青年の叫びを無視して、再度見えない剣を構えるセイバー。その目は既に少女ではなく、一撃のもとに敵を屠る一人の騎士<サーヴァント>のものとなっていた。
「何者かは知りませんが、武器を捨てるならよし、捨てぬなら相応の対応をさせてもらう!」
「って、斬りかかってから言うことかそれ! かわいい顔して、実は猪突猛進型なのか!」
「問答無用!」
悲鳴も無視し、再び跳躍して剣を振るうセイバー。殺すつもりはないが、士郎の訓練のときなどとは比べものにならぬ一撃だ。当たり所が悪ければしばらく病院のベッドの上だろう。元より、正体不明の魔術師(らしき者)に対して、下手な手加減は命取りだ。
しかし、青年は、
「ッ、“バルザイの──
『ギィィンッ!』
──偃月刀”ッ!」
何と、咄嗟に掲げた漆黒の刃で、セイバーの不可視の剣を受け止めてみせた。
「な──!」
「あのなぁ……俺も、ここまでやられて不戦主義貫くほど、お人好しじゃねえんだぜッ!」
だんっ、とセイバーの体を蹴り飛ばし、偃月刀を両手で構える青年。その気迫は紛れもなく、死線を幾度もくぐり抜けた戦士のもの。
「だあああぁっ!」
「ッ!」
草を蹴り、一瞬でセイバーの頭上まで跳躍した青年が刃を振り下ろす。漆黒の偃月刀はセイバーの剣に防がれ、再び甲高い音を立てた。
「やりますね──ですが!」
青年の一撃は、型こそデタラメだが力のこもった見事な攻撃だった。セイバーは偃月刀を弾き、自ら一歩下がって間合いを開ける。無論逃亡のためではない、剣士の体に染みついた、最適の間合いを本能的に選択したのだ。
青年の攻撃には見事なまでに迷いがない。しかし、その体さばき、剣さばきは明らかに剣士のものではあり得なかった。直感だが、この青年の本来の戦闘スタイルはもっとなりふり構わぬものであるはずだ。
ならば──剣同士の戦いである限り、剣の英霊である自分が後れをとることなどあり得ない。
「次で、決める!」
「やああああっ!」
地を蹴るセイバーに対し、青年は迎え撃つかのように偃月刀を振り上げた。その、瞬間──!
「──投影、開始<トレース・オン>」
第三の声が紡ぐ呪文が、この一瞬の全てを停止させた。
「!」
「な……!」
驚愕は、青年とセイバーが同時にあげたものであった。セイバーが握った不可視の剣と、青年が持つ黒い偃月刀……そのどちらも、互いに噛み合うことなく、間に入った人物の双剣によって止められていたのである。
黒き陽剣干将、白き陰剣莫耶。
その二つを手にした魔術師は、内心で冷や汗を流しながら、言葉を紡いだ。
「ちょ、ちょっと落ち着いてくれ。二人とも」
それが、戦いを無理矢理に中断させた衛宮士郎の言い分だった。
「……とりあえず、事情を説明してもらえるかしら?」
「いや、そう言われても事実俺にもちんぷんかんぷんなんだが」
苛立ちを含んだ凛に言葉に、魔法使いの青年は困ったようにあさっての方を向いて頬を掻いてみせた。
……現在、静寂を取り戻した衛宮家の居間には、家主である衛宮士郎を含めて四人の人物がいる。
一人は言うまでもなく衛宮士郎。現在テーブルに並べられているお茶は彼が用意したものであり、彼自身は畳の上にあぐらをかいて、どうしたものかと宙を仰いでいる。
二人目は、セイバー。士郎の右隣に座って、真剣な表情で目の前の人物を見据えていた。足を崩すことなどせず、きっちりとした正座をしている。この中では唯一の外国人でありながら、一番正座が様になっているというのはどういうわけか。
三人目が遠坂凛である。彼女は足がどうこう言う以前に、仁王立ちであった。セイバーの隣で、相手を威圧するかのように腕を組んで見下ろしている……いや、実際威圧してるんじゃないだろうか。
そして四人目は、その三人の対面に座らされた自称“魔法使い”の青年であった。
「俺は別にあいつを追ってきたわけじゃなくて、ただ行きがかり上……なんつーか、不穏な空気だったし」
「それで人に斬りかかるわけ? 貴方は」
「んな、人を危険人物みたいに言わないでくれよ。今回のは、相手があいつだったからだ。俺は至極真っ当な人間だよ」
と、困ったように眉を八の字にして、青年はぼそぼそと言葉を返す。
ぱっと見、年齢は二十代前半といったところか。士郎の目に狂いがなければ、肉体の方は相当に鍛えられているはずだ。肩にかけていた荷物は今は横に置かれ、本人は居心地悪そうに苦笑いを浮かべていた。
何というか、とても魔術師には見えないのだが、何せ士郎は聖杯戦争に巻き込まれるまで同級生の遠坂が魔術師であることにも気付かなかった男である。ことこれに関してはあてになるまい。
「ええと、遠坂、ちょっといいかな」
「何よ」
「いや……あのさ」
ギロリ、と振り返る凛に頬を引きつらせながら、士郎は苦笑いを浮かべている青年の方に向き直った。彼が魔術師であろうとなかろうと、確かめておかなければならないことが一つある。
「確か、昼間会ったよな?」
「へ?」
士郎の問いかけに、きょとんとして首をかしげる青年。しかし、それから改めて士郎の顔を眺めると、やがて思い出したように手を打って、
「ああ、あんときの!」
「やっぱり、人違いじゃなかったんだな」
声をあげる青年に、士郎は思わず苦笑をもらした。
今日の昼過ぎ、学校からの帰り道で士郎がぶつかったのは、彼だったのである。
「え? 士郎、この人と知り合いなの!?」
「いや、今日の昼にぶつかっただけ。いっただろ、「魔法使い」って名乗ってる人に会ったって」
驚く凛に改めて振り返り、肩をすくめてみせる士郎。その発言に眉をひそめたのは、二人に挟まれたセイバーであった。
「魔法使い? ……では、この方も魔術師<メイガス>なのですか?」
「<マギウス>」
「え?」
不意に、セイバーの言葉を遮った呟きが、その場にいた全員を振り向かせた。
「メイガスじゃなく、<マギウス>って言ってくれ」
そう言って、発言者──魔法使いの青年は微笑を浮かべてみせる。
「ともかく、まずは自己紹介といかないか? そっちのお嬢さんとは初対面だしな」
「そうですね、私もそれがいいと思います」
と、青年に指さされたセイバーが頷いてみせたことで、士郎と凛は顔を見合わせ、ややあって二人とも同意を示した。ともかく、互いの情報がなければ話にもならない。
そうして、ようやく話をする体勢になった一同を見渡し、青年がまず口を開いた。
「それじゃ、まずは俺からだな。
──俺の名前は、大十字九郎。アメリカのマサチューセッツ州で探偵をやってる。よろしくな」
あっけらかんとした口調と声で、彼はまるで子供のように笑いながらそう名乗った。
「マサチューセッツ州……アーカムシティ」
そう、まるで敵を見るかのような鋭い視線を彼に向けて、遠坂凛は呟く。
「なるほど、つまりミスカトニック大学の関係者だったわけね、貴方」
「ミスカトニック大学?」
おうむ返しに問いかけたのは、士郎である。
「マサチューセッツ州のアーカムシティって街にある大学よ。表向きはただの大学だけど、その実体は協会からも教会からも、政府からも完全に独立した魔術機関──“第二の時計塔”とまで呼ばれてる組織だわ」
そう言って、凛は苛立たしげに髪をかき上げた。名門遠坂家の当主である凛にとっては常識と言うべき知識だが、非合法の魔術師であった養父から魔術を習い、父の死後は独学で魔術訓練を行っていた士郎には、時計塔以外の魔術組織の詳細など知るよしもないことだった。
「こりゃ、門前払いして正解だったわね」
「へ? 遠坂、それ、どういうことだ?」
「言ったでしょ。昼間、頭に来たから客を追い返したって」
「つまり……彼がシロウにぶつかる前か後に、彼はリンの家も訪ねていた、ということですか?」
きょとんとして問いかけたのはセイバーだ。それに対して、青年──大十字九郎がうんうんと頷く。
「ちなみに、時間軸的にはそっちの子の家を訪ねた帰りにぶつかったんだけどな」
「そんなことはどうでもいいわよ!」
緊張感のない九郎に、凛がキレた。
「落ち着いてください、リン。それに、相手が名乗っているのにこちらが名乗らないのは失礼でしょう」
「う……」
「それもそうだな。ええと、俺は衛宮士郎。半人前だけど、一応魔術師を目指してる。こっちが遠坂凛で、こっちはセイバー」
「よろしくお願いします、クロウ」
「ああ、よろしく」
「って、何を和んでるのよ二人とも!」
うがー、とばかりに声を荒げ、凛が紅潮した顔を士郎達に向けた。
「どうしたんだ遠坂、なんか、荒れてないか?」
「荒れもするわよそりゃ! ミスカトニック大学って言えば、協会に所属しないアウトロー魔術師よりも更に質が悪い黒魔術師の集まりじゃない! 曲がりなりにも協会側の私達にとっちゃ宿敵よ宿敵!」
「いや、そんなドきっぱりと宣言せんでも」
暴走気味の凛に、口元を引きつらせる九郎。ある意味常在戦場がモットーとも言うべき凛とは、どうにも相性が悪いらしい。
「確かにまあ、ミスカトニックには変人が多いけどな。そんなに時計塔と変わるもんでもないぞ?」
「……まるで、時計塔<ロンドン>を知ってるような口ぶりね」
「あー……まあ、何度か行ったことあるからな」
と、何かを誤魔化すように笑いながら、わざとらしく頬を掻いてみせる。
「だいたい、変人っていうなら時計塔も変人の巣窟だと思うぞ」
「う……それは、否定はしないけど」
思わず口ごもってから、すぐに問答が無意味な方向へ向かっていることに気付いて首を振る凛。改めて表情を引き締め、自称魔法使いにして自称探偵の青年に視線を向ける。
「とにかく……最初に一つ確認しておくわ。貴方は私達の味方? それとも、敵?」
まるで最後通告のような凛の問いに、九郎は何とも困ったような笑みを浮かべ、
「強いていうなら──“正義の味方”、かな」
いとも簡単に、しかしはっきりとそう言ってのけた。
そこにいたのは、他でもない、彼女の兄だった。
「桜……用件は分かってるよな?」
「兄さん、どうして……」
「五月蠅い!」
問おうとした彼女──間桐桜の言葉を遮って、兄──慎二が一喝する。長年の習性で、桜は思わず口を閉ざした。
「おまえは“前回”と同じように僕に従ってればいいんだよ! いちいち口答えするな!馬鹿!」
「……」
「ふん、まあいいさ。どうせおまえには何もできないんだからな」
一転して肩をすくめ、慎二は鼻で笑いながら、うつむく桜を見下ろした。そして、その手を差し出し、かつてと同じように命令を下す。
「さあ──令呪を僕によこすんだ、桜」
Fate / Sword & Sword
かつて、この冬木の地で「戦争」があった。
聖杯戦争──それは英霊を召喚し使役する「サーヴァント・システム」を使い、七人のマスターによって最強を競う命がけの戦い。その勝者には、いかなる願いも叶えるといわれる“聖杯”がもたらされるという。
「──つまり、その聖杯とやらを手に入れるための殺し合いってことか?」
「はっきり言えばそういうことね」
眉をひそめる魔術師──大十字九郎の問いかけに、説明を終えた遠坂凛はきっぱりと頷いてみせた。
衛宮家の居間に腰を下ろしている彼女の表情からは、まだ警戒の色が抜けていなかった。それもむべなるかな、凛のような協会側の魔術師とミスカトニック大学に所属する魔術師では、その在り方が違いすぎるのだ。
「ただ、聖杯戦争はそのシステム上、一定の魔力が溜まるまでは起こらないはずなのよ。前回の聖杯戦争は、前々回の戦争で聖杯が不完全な破壊の仕方をされたから、そのときの魔力が残って十年という短時間で次の聖杯戦争が起きた……けど、今回は前回の聖杯戦争から半年くらいしか経ってないわ」
そう言って、凛は同意を求めるように隣の士郎を見やる。士郎も無言で頷いてみせた。
約半年前、衛宮士郎が第四回の聖杯戦争に巻き込まれ、紆余曲折を経て最終的に聖杯は破壊されたのだった。無論、聖杯によって成り立っているサーヴァント・システムも停止し、現在凛の使い魔として現界しているセイバーをのぞいて、全てのサーヴァントは消滅したはずであった。
「でも、あの男の腕には令呪があった」
膝の上で拳を握り、士郎は呻くようにそう呟いた。
「これでも元マスターだ。いくらなんでも令呪を見間違えるなんてことはしない。あいつがサーヴァントを召喚したってことは、近いうちにまたあの戦いが始まると考えて間違いない」
「そうね」
士郎の言葉に頷き、凛は不意に立ち上がる。
「士郎、教会へ行きましょう」
「え?」
突然の言葉に、呆気にとられたような声を出す士郎。凛は苦笑して、呆然とする士郎を見下ろした。
「どうせ士郎のことだから、今度の戦いも止めるって言い出すんでしょ? 私としても、遠坂の管理する土地で私をそっちのけにして話を進めようって輩を放っておくつもりはないわ。それに……あの男の言ってたことも気になるしね」
“マキリの客人”──あの黒い男は、自分の立場を問われてそう答えたのだ。
「マキリの老人が今更しゃしゃり出てくるってのも気にくわないし、何より私の土地で好き勝手されるのなんて我慢できない。士郎が止めたって私は行くわよ。セイバーもいいわね?」
「勿論です。今の私のマスターは凛ですから」
振り向く凛に、真剣な表情で頷くセイバー。そして、彼女は士郎を振り返り、
「シロウ、行くのでしょう?」
「ああ、勿論だ。あの男が何を考えてるのかは分からないけど、このまま放っておいていいとは思えない」
問いかけに、士郎は迷うことなく頷いてみせた。
教会には、聖杯戦争の監視のために派遣された魔術師がいる。前回までそこにいたのは言峰という名の神父だったが、彼は前回の聖杯戦争で死亡した。今は、代わりに派遣された老魔術師が役目を引き継いでいるはずだ。
もし、あのデクスターという名の男が再び聖杯戦争を起こそうとしているのなら、教会の方でも異変を感知しているはずである。
「それで……貴方はどうするの? 探偵さん」
「俺は──とりあえずあいつを追う。あんまり認めたくねえが、長い付き合いだしな」
どういうつもりでその言葉を吐いたのか、九郎は苦虫を噛み潰したような、それでいてどこか悔しげな表情でそう答えた。
「この町で何が起こるのかは俺にも見当がつかないが、とりあえずあいつだけでも倒しておけば最悪の事態は避けられるはずだ」
そう言って、九郎は黒い鞄を手に立ち上がる。その足が玄関に向いたとき、不意に凛の声が、彼の背中に言葉を投げかけた。
「ねえ、貴方」
「ん?」
「ミスカトニックの魔術師なら魔導書持ちでしょ? 貴方の“書”は何?」
「あー……それは」
言い淀む九郎。しかし、凛はあっさりと肩をすくめてみせた。
「まあいいわ。こうしてても大した魔力を感じないし、あんまり有名な“書”じゃないんでしょ」
「う……ま、まあ、そういうことにしといてくれ」
苦笑混じりに、九郎は言葉を濁した。肩にかけた鞄の中には、彼の“書”が眠っているのだ。
対して、その態度が気に障ったのか、凛はますます剣呑な表情になって彼を見据えた。
「でも、だったら気をつけてよね。人間一人でサーヴァントをどうにかしようなんて考える馬鹿は、それこそ一人で十分なんだから」
「半年ぶり、かな」
そう言って笑ったのは、彼にとって二冊目の「本」を手にした、間桐慎二であった。
場所は間桐家の居間。彼の傍らには、洋風の椅子に腰掛けてうつむく桜の姿があった。顔を伏せた彼女の表情は、他人にはうかがい知れない。
そして……その二人を見守るように──一体いつの間にあらわれたのか──長身で髪の長い美女が居間の入り口に佇んでいた。
「またおまえなんだな、ライダー。ま、同じ魔術師がほぼ同じ条件で召喚したんだ、同じ英霊が喚ばれるのも当然か」
「……初めまして、マスター」
嘲るような慎二の言葉に、淡々と答えを返す美女──ライダー。
拘束具にも似た露出度の高い服を纏い、明らかに人間味の欠けた美しさを宿す女性であった。両目は拘束具とベルトによって完全に封じられ、その立ち振る舞いには感情というものが見られない。いや、それも当然か……彼女は人間でも魔術師でもなく、今回の聖杯戦争のため召喚された英霊──サーヴァントなのだから。
「私に前回の記憶はありませんが、以前のライダーも“私”であったことは知っています」
「英霊の記録ってヤツか? ふん、まあ僕にはどうでもいいことだ。それよりライダー、今のおまえのマスターは誰だ?」
「勿論、貴方です。シンジ」
「よし」
ライダーの答えに満足げに頷き、慎二は本──桜から譲渡された令呪を掲げて、まるで魔術師のように命令を下した。
「マスターとして命じる。ライダー──桜を連れて衛宮のところへ行け」
「!」
その瞬間──座っていた桜が弾かれたように顔を上げ、同時にライダーもまた、不可解げに眉をひそめてみせた。
「早くしろ! マスターの命令だぞ!」
「……分かりました」
再度言い放つ慎二に、ライダーは淡々と頷いて桜に歩み寄る。その桜は、呆然とした表情で自らの兄を見上げていた。
「兄さん、どうして……?」
「……フン、僕はおまえの兄だぞ? 兄が妹をどうしようと勝手だろうが」
冷たい言いぐさ。それは間違いなく兄のものだ。
「お人好しの衛宮なら、かわいい後輩を追い返したりはしないだろうさ。僕にだって──今のこの家が、どこかおかしくなってることくらい分かる」
皮肉げな口調から一変し、苛立たしげに言葉を放つ慎二。その横で、ライダーが桜の手を掴んで椅子から立たせていた。
「全部あの男が来てからだ。そりゃ、元々まともな家じゃなかったけど、こんな淀んだ墓場みたいな空気が家全体に蔓延してるほどじゃなかった。聖杯戦争にしたって、前回からたった半年で再開するなんてどうかしてるとしか思えない」
「でも、お祖父様は……」
「祖父さんには僕から言っておく。どうせ今回も衛宮が首を突っ込んでくることは間違いないんだから、桜に監視させるとでも言っておくさ。だから桜──間違っても、今回の騒ぎが収まるまではこの家に帰ってくるなよ。命令だぞ」
と、まるで子供のように、慎二はそう「命令」した。今よりずっと昔──桜がこの家に来たばかりの頃のように、「お兄ちゃん」ぶった言い方だった。
「分かったな? 分かったらさっさと行け」
「いいや、勝手に出て行かれては困るな」
「「!」」
刹那、不意に割り込んだ男の声に、その場にいた全員──サーヴァントたるライダーまでもが──愕然と振り返った。
「おまえ──!」
「役者のアドリブはかまわないが、脚本家に黙って舞台を降りようとするのはいただけない」
激昂する慎二に、口元を歪めて白い歯をみせる男──長身痩躯の黒人、アンブローズ=デクスター。
その笑みを見た者なら分かる。彼は邪悪だ。立ち振る舞いに隙はなく、言葉は紳士的で見た目も精悍そう──だというのに、その笑みだけが禍々しく、全てを嘲笑っているのだから!
「ライダー、行け!」
「はい」
反射的に命じた慎二に頷き返し、ライダーは桜の体を抱え上げるや、一跳びで窓ガラスを破って庭へ飛び出した。その腕の中で桜が悲鳴をあげたが、か細いそれはガラスの割れる音にかき消される。
そして、居間に残った慎二は逃げた二人をかばうように、デクスターを見据えて窓の前に立ちはだかった。
「桜は衛宮の監視にやる。文句は言わせないぞ!」
「ふむ、それは君が独断で決めてもいいことかな?」
「祖父さんには後で説明する!」
にやついた笑みを消そうともしないデクスターに、慎二は声を荒らげる。
慎二は元々、祖父である間桐臓硯が好きではなかった。だが、今目の前にいるこの男──こいつに比べればいくらかマシだ。あの、骨の髄から腐臭が漂うような祖父であっても、一応は血の繋がった家族であり何より「人間」であるから。
だが──この男は、人間ではない。
「僕が──間桐の長男のこの僕が決めたことだ! いくら祖父さんの知り合いとはいえ、客であるおまえにどうこう言われる筋合いはない!」
「確かに。それは正論だ、私は所詮マキリの客分に過ぎない。家族間のことにまで口を出すのはやりすぎというべきだな」
何が楽しいのか、デクスターは笑みを崩さぬまま頷いてみせた。何もかもを嘲笑うかのような笑い方は、その実、本当は笑ってすらいないのではないだろうか。
「では、私もお節介はやめよう」
「ほ、本当か?」
「勿論だとも、私にはその資格はない──」
不意に、デクスターの口元が刻んだ笑みが揺れる。それは、何処にも悪意など見あたらないはずの表情なのに──彼の何処を見ても、悪意しか感じられない笑い方だった。
「だから、彼女を連れ戻す役はゾウケン氏に任せることにしたよ」
「!」
静かな声で、穏やかな口調で、デクスターという名の男は慎二の心に絶望をもたらした。
「な……何で」
「不思議そうだね。まあ、ゾウケン氏にだけは知られぬようにとここまで気を配ってきた君だ。驚くのも無理はない。しかしね、
──種を明かしてしまえば、私達はそもそも君が彼女を逃がそうと思い立つ前から、こうなることを知っていたのだよ」
信じがたい内容の言葉を、いともあっさりと言ってのける。その声が、その口調が、その表情が、その全てが語っていた。これまで祖父の目をかいくぐり、隙をうかがい、万全の準備をして決行したはずの慎二の計画が、全ては自分達の掌の上に過ぎなかったのだと。
そう思い知らされたとき、慎二は不意に、デクスターの背後に控える一人の男に気がついた。
『────』
無言、言葉を話すことなく、“そいつ”はデクスターのそばに控えている。慎二がこれまで見たこともないような黒いローブを纏い、彼の知識にもない奇妙な装飾の冠を戴いていた。その肌は、デクスター同様真っ黒に日焼けしている。
(こいつ──)
そこまで考えて、慎二はようやく気付いた。まるでデクスターの従者であるかのように佇む“そいつ”の正体は──!
「ああ、まだ顔見せは済んでいなかったな。紹介しよう、彼が私のサーヴァント──予言者<リーダー>だ」
愕然とした慎二の耳に、嘲笑うようなデクスターの声だけが響いていた。
冬木の教会には、つい半年前まで育ての親が住んでいた。
まあ、そんな大層なものかどうかはともかくとして、かつての後見人が住んでいたことは確かなのだ。
その人物は前々回の聖杯戦争に参加して生き残り、前回の聖杯戦争においては協会から派遣されたマスターの令呪を奪い取ってまで暗躍した。そして前々回のアーチャーであった英雄王ギルガメッシュを解き放った後、凛の目の前で自らのサーヴァントに殺されたのである。
彼が死んだのは、彼自身が選んだ道の結果だ。だからそこに後悔はないし哀しみもしない。ただ──考えてみれば随分複雑な関係だったのだと思う。
だから、だろうか。前回の聖杯戦争が終わってから、あまり教会に足を運ぶことがなくなったのは。
「──遠坂、ちょっといいか?」
「何?」
新都に向かい、坂を上って教会の前まで来たところで、凛は呼び止めた士郎を振り返った。
「あの人が言ってたことだけど……」
「あの探偵──大十字九郎、ね。本名かどうかは知らないけど」
そう言って凛が肩をすくめると、二人に付き従ってきたセイバーが軽く眉をひそめて、
「リンは、彼が偽名を名乗っていると?」
「本名だとしたら随分ふざけた名前じゃない? それにあっちの魔術師は自分の名前を知られることを嫌うから、偽名を名乗ってる可能性も十分あるわ」
などと、本人が聞いたら泣きそうなことを平然と言ってのける凛。もっとも、歯に衣着せぬ性格のおかげか陰湿さとは無縁だ。
「まだ敵か味方かもよく分からないんだから、あんまり信用するのも危険よ、士郎」
「う、そりゃそうだけどさ……でも、こっちを騙したりするような人には見えなかったぞ」
無根拠と言えば無根拠きわまりない意見を、士郎は平然と口にした。それが士郎なのだと分かっているから、凛も困ったようにため息をつく。
「うーん、まいっか。士郎がそう言うならそういうことにしときましょ。
それで?」
「いや、そういやあの人、結局遠坂に何の用だったのかなって」
本当に何気なく、士郎はそれを思い出していた。士郎が彼に出会う直前、あの探偵兼魔術師は遠坂の屋敷を訪ねていたという。そして、そこで凛に門前払いをくらった。
凛はミスカトニック大学の魔術師を警戒しているらしいが、九郎がミスカトニックの人間だと知ったのは門前払いをした後だから、それが原因というわけではあるまい。なら、彼は一体何を言って遠坂凛を怒らせたのか。
「彼が欲しがってるのは、設計図よ」
だが、士郎の予想に反して凛は淡々と、落ち着いた声で答えを紡ぎ出した。
「設計図?」
「遠坂の大師父……キシュア=ゼルレッチ=シュバインオーグの第二魔法、つまり“宝石剣”の設計図をね」
そういった凛の声には、苦笑が混ざっていた。
第二魔法──その使い手と言われる“魔導翁”キシュア=ゼルレッチ=シュバインオーグの名は、さすがの士郎も凛から聞かされて知っていた。曰く、平行世界を渡り歩く魔法使いの老人であり、過去には吸血鬼の王と戦って相打ちになり、その王が落とそうとした星を力尽くで押し返したという魔人。吸血鬼の王と相打ちになったせいで「死徒」と呼ばれる吸血鬼の身になってしまったと言うが、今でも時折ロンドンの魔術教会に現れては問題を起こしたり解決したりしていくという、半ば伝説上の魔術師である。
「呆れるわ。それも、“宝石剣”の設計図が求める全てならまだ分かるってのに──あいつ、宝石剣が欲しいわけじゃなかったのよ。
分かる? 全ての魔術師が目指す場所、根元へ繋がる“魔法”が欲しいんじゃなく、自分の目的のためにその魔法が役に立ちそうだから資料を貸してくれって、そういうことなの。
──士郎のお父さんとは別の意味で、あいつも魔術師じゃないわ」
「遠坂……」
思わず、言葉を失う。
遠坂凛という少女は、自分以外の価値観を認められないような狭量な人間ではない。しかし、全ての考え方を受け入れられる人間などいはしない。衛宮士郎から衛宮切嗣の話を聞いたとき、そして今、大十字九郎という男と出会ったとき、そのあまりにも自分と違う異質な思考に、彼女は混乱した。
「いいえ、それは当然のこと。だって、彼は一度“辿り着いて”いるのですもの」
──耳朶を打ったのは、それに追い打ちをかけるかのような女の声であった。
「!、何者!」
瞬時に反応したのは、二人の守護者たるセイバーだ。気がつけば教会の前に、まるで彼らの行く手を阻むかのような、奇妙な装飾を身に纏った褐色の肌の女が立ちはだかっているではないか。
ほぼ全裸に近い上半身。その肢体を飾る白い絹布。同じ純白の手袋とそこから伸びる長い爪、そして──頭に戴く冠。
かつての聖杯戦争を生き抜いた士郎達には、人間離れした黒い美女の正体がすぐに分かった。
「「サーヴァント!?」」
──それが、士郎達と“今回”の「キャスター」との出会いであり、同時に戦いの幕開けであった。
──彼女は、追いつめられていた。
「クッ……!」
「ライダー!」
日も沈みきった深夜の深山町に、苦悶の声と少女の悲鳴が響き渡る。
女は長身。両目を拘束具で覆い隠し、長い髪を振り乱した美女。彼女は片腕に一人の少女を抱え込んで、反対側の手で武器を握っていた。
「ハッ!」
一閃。手にした「釘」で虚空を薙ぎ、投じられた「殺意」を両断する。一瞬遅れて、釘と短剣が噛み合う金属音が響いた。
一瞬で地面に叩き落とされたのは、刀身まで黒く塗られた短剣<ダーク>であった。暗闇の中で投じられたそれを、彼女は閉ざされた瞳で見切り、切り払ってみせたのだ。
だが、片腕で切り払えるのはせいぜい二本まで──
「──ッ!」
同時に投じられていた三本目の短剣が、美女の太股に突き刺さっていた。
「ライダー!」
「大丈夫です、サクラ。この程度……」
言いながら短剣を引き抜き、血に濡れたそれを投げ捨てる美女。彼女は「ライダー」のクラスに召喚されたサーヴァントであった。本来の主が令呪を他者に預けたため、その命に従って行動している。
今の主の名は間桐慎二──その命令は、間桐桜を衛宮士郎の元まで連れていくこと。
だが、彼女らは間桐家を飛び出した直後に追撃を受け、桜というハンデを抱えているライダーは傷つきながらも逃亡を続けているのだった。
「なかなかしぶといな、騎手」
その声は、闇の中から響いてきた。
暗闇に見えるその姿に、ライダーの腕の中で桜が悲鳴をあげた。そこには、全身を闇にとけ込ませるような黒装束で包み、骸骨を模した仮面を被った、奇怪な出で立ちの男がいたのである。
「……アサシン、か」
「いかにも」
淡々とした問いかけに、短い返答。二人ともサーヴァントだ、無駄な口は叩かない。
代わりに口を開いたのは、アサシンに続いて闇から姿を現した老人であった。
「さて、そろそろ孫を返してもらえぬかの」
そういって、どこか病的な雰囲気の怪老人が告げる。老人の名は間桐臓硯──すなわち、マキリの長。
「かわいい孫の望みじゃ、行かせてやってもよいのだが……念には念を入れておきたくてのぉ」
「お祖父様!」
響いた悲鳴は、桜のものだ。
「それでも孫を連れて行こうというなら──こんなことでサーヴァントを失うのは心苦しいが、おぬしには消えてもらうことになるな」
「!、ライダー!もういい!もういいから!」
「いいえ、サクラ。今の私はマスターであるシンジの命で動いている。マスターの命令に逆らうわけにはいきません」
必死に叫ぶ桜に、しかしライダーは首を横に振る。その本心がどのようなものか、この場にいる誰にもうかがい知れるものではない。
ただ、ライダーは桜を抱えたまま「武器」を握り直し、足の傷も知ったことではないとばかりに構えをとった。それを見て、アサシンもまた無言で前に出る。
最後に──臓硯がやれやれとばかりに肩をすくめたのを目にして、桜は幾度目かの絶望を味わった。
もはや一触即発。次に誰が動こうと、戦いはもはや止められまい。曲がりなりにも臓硯の孫である桜をいきなり殺したりはすまいが、彼女を連れ去ろうとしたライダーを、祖父が許すとは思えなかった。
「……覚悟はよいか、騎手」
「否、たとえこの身がどうなろうと、サクラはエミヤシロウの元へ連れていく」
サーヴァント同士の視線が交錯し、最後の言葉が放たれた──その、瞬間、
「──おい」
一体、どこの馬鹿がこの修羅場に踏み入ってくるのか。
「そこで何やってる」
畏れは一欠片もない、ただ不審そうな問い。確かに、傷ついた女性が年下の少女を抱え上げ、その前に老人と怪人が対峙しているとなれば、多少正義感の強いものなら何事かと思い、止めにはいるだろう。しかし、今このときに限って、それは単なる自殺行為だ。
事実その通りとばかりに、アサシンが迷うことなく短剣<ダーク>を投じる。振り向きもせずに放ったそれは闖入者の胸なり頭なりを貫き、一つっきりの命をいとも容易く奪い去るだろう。
誰もがそう思った──短剣を投じられた、その当人以外は。
『──!』
瞬間、まるで弾かれたように、黒衣のアサシンが突如としてその場から飛び離れる。見れば、その一瞬前までアサシンの立っていた地面に、彼自身の短剣<ダーク>が突き刺さっているではないか。
短剣が自分で方向を変えるわけもなし──投げ返したのだ、短剣を投じられたその当人が!
「あぶねえじゃねえか、何しやがる」
そう言った男の声は、信じがたいことに一片の震えも有してはいなかった。
「「貴様、何者だ」」
アサシンとライダーの誰何が完全に重なった。対してその人物──夏だというのに黒ずくめの衣装を纏った、二十代そこそことしか見えぬ青年が、吼える。
「魔導探偵大十字九郎……通りすがりの、正義の味方だ!」
Fate / Sword & Sword
「魔術師<キャスター>、だって?」
そう名乗った褐色の女性に、士郎は思わず声をあげた。
隣では凛も緊張した面持ちで女を見据え、その二人をかばうようにしてセイバーが不可視の剣を構える。前回の聖杯戦争において三人はキャスターのクラスを持つサーヴァントと戦い、苦戦した経験を持っていた。
だから、というわけでもあるまいが、この女サーヴァントにはどこか油断ならない雰囲気が感じられた。無論、油断していいサーヴァントなどいるはずもないのだが、彼女は、例えばセイバーのような真正面からの戦いを旨とするタイプではなさそうなのだ。
「魔術師が、そちらから姿を現すとは」
そう言い放ち、一瞬にして鎧姿に変化したセイバーが前に出る。キャスターにどんな思惑があろうと、先に倒してしまえば同じだ。
だが、その思考を読んだかのように黒い美女は言い放つ。
「私に挑もうというのですか? 今の貴女が」
そう、高い対魔力を持つ剣の騎士<セイバー>というクラスは、本来なら魔術師<キャスター>の天敵ともいうべき存在であった。しかしそれは、彼女が本来の実力を発揮できることが前提だ。
今の彼女は聖杯と繋がるサーヴァントではなく、ただの「遠坂凛の使い魔」に過ぎない。無論、それでも並の魔術師や人間よりは遙かに高い身体能力を有し、戦闘となれば鎧を纏って剣も振るうが、さすがに聖杯戦争時のポテンシャルを維持することは不可能だった。ましてや大量に魔力を消費する切り札──宝具など、使えようはずもない。
しかし、セイバーは怯むことなく剣を構え、魔術師のサーヴァントに向かって言葉を返した。
「私は二人の剣、相手が何者であろうと、主の敵であれば妥当するのみ!」
「その覚悟、さすがは純正英雄」
クスクスと笑みをこぼし、美女はその片腕を一振りした。その次の瞬間、彼女の周囲の地面からあらわれたものは──
「!、あれは──!」
それは牙を持った骸骨、淀んだ色彩の骨によって組み上げられた兵、人とは明らかに違う骨格の、歪な骸骨兵<スケルトン>。
その姿を、士郎達は前回の聖杯戦争で目撃していた。
「竜牙兵!」
竜の牙から生まれた偽りの兵士。それ単体が一つの魔術でもある、骨の使い魔<ゴーレム>であった。
「これが、貴方達が“キャスター”と聞いて連想したものの一つ」
「何……?」
不意に呟いた美女──“キャスター”の言葉に、士郎は思わず眉をひそめた。しかし、考え込む暇などあるはずもなく、教会前を埋め尽くした無数の竜牙兵がわらわらと襲いかかってくる。
「この程度!」
瞬時に反応し、剣を振るったセイバーの一撃で、三体の竜牙兵が粉々に砕けた。続いて、凛もまた魔術を解き放ち、彼女が知る最も単純な攻撃魔術──詰まるところガンド撃ち──で一体の骨を破壊する。
確かに敵の数は多いようだが、この程度の危機など、士郎達には半年前の聖杯戦争で経験済みだ。
「リン! 相手はサーヴァントです、宝具を使われる前に仕留めましょう」
「それは同感だけど、どうするつもり?」
「リンが援護してくれれば、私が斬り込みます。シロウは竜牙兵からリンを護ってください」
そう言って、セイバーは左右から切りかかってきた竜牙兵の攻撃を紙一重でかわす。同時に、一閃した不可視の剣が二体のゴーレムを粉砕していた。
「妥当な作戦だけど、状況からしてあいつは私達を待ち伏せてた可能性が高いわ。何か奥の手があるかも知れないわよ」
「サーヴァント同士の戦いでは、常に互いが奥の手を秘めているのです。大丈夫、むざむざやられたりはしません」
「……分かったわ。士郎もそれでいいわね?」
後退して竜牙兵の間合いから離れつつ、凛が士郎に問いかけた。危険だが、今は迷っている暇がない。
「分かった。遠坂は俺の後ろに」
「ええ、任せたわよ、二人とも」
頷いて士郎の背後に回る凛。同時に、士郎は自らの魔術を起動した。
「──投影、開始<トレース・オン>」
瞼の裏に光が走る。全身の至る所でスイッチが切り替わるイメージ。半年前に開いた魔術回路に魔力が通り、ただただ澄み渡っていく脳裏に浮かぶのは、黒白の夫婦剣!
創造の理念を鑑定し、
基本となる骨子を想定し、
構成された材質を複製し、
制作に及ぶ技術を模倣し、
成長に至る経験に共感し、
蓄積された年月を再現し、
あらゆる工程を凌駕し尽くし――
「──投影、完了<トレース・オフ>」
次の瞬間、士郎の両手にはたった今思い浮かべた二振りの刀が握られていた。
半人前の魔術師である士郎が、唯一得意とする異端の魔術。自身の心象風景からこぼれ落ちた彼自身の一端。
その名を、投影魔術<グラデーション・エア>という。
「シロウ、リンを頼みます」
「ああ、セイバーも気をつけろ。前のキャスターもそうだったが、あいつも一筋縄じゃいかなさそうだ」
互いに視線を交差させ、セイバーと士郎は同時に竜牙兵に斬りかかった。干将と莫耶──士郎の握る双剣がゴーレムを切り払い、その隙をついてセイバーが壁を突破する。
追いすがる竜牙兵は、凛の術によって打ち砕かれた。そのままセイバーは石畳を走り抜け、微動だにしない“キャスター”の眼前へ到達──。
「キャスター、覚悟!」
「……ふ」
刹那、セイバーの澄んだ碧眼に映ったものは、黒いキャスターではなく己自身の姿だった。
「え──?」
ほんの一瞬、しかし歴戦の勇者としては長すぎる一瞬、セイバーの思考が停止した。一瞬前まで確かに敵の姿を捕らえていたはず──ましてやセイバーは瞬きすらしていない──にもかかわらず、そこにキャスターの姿はなく、ただ影のように黒くなったセイバー自身の姿が残されていたのである。
「甘い」
淡々と言い放った声もまた、セイバー。ただし切りかかったセイバーではなく、迎え撃った黒いセイバーの声だ。
同時に一閃した黒い刃を、セイバーは咄嗟に不可視の剣で受け止めた。
「クッ──!」
ギィン、という金属音を響かせ、二人のセイバーは弾かれるように間合いを離す。不可視の剣を手にする白いセイバー、全身を黒一色に染め上げた黒いセイバー。
「まやかしをッ!」
その黒いセイバーを睨み付け、セイバーは一喝とともに地を蹴った。何の悪ふざけかは知らないが、この身を愚弄するならばそれに相応しい末路を与えるのみ!
しかし……即座に一撃を見舞おうとしたセイバーの背に、彼女の“もう一人の”主が叫んだ。
「駄目だ!セイバーッ!」
「!」
彼──衛宮士郎の絶叫に、咄嗟にセイバーは力のベクトルをねじ曲げる。黒セイバーに向かって突進しようとしていた体を、反射的に真横へ投げ出した。
次の瞬間、その直前までセイバーの体があった空間を、雷のごとき黒セイバーの突きが貫く。
「なっ──」
「遅い」
驚愕するセイバーに、淡々と言い放つ黒セイバー。
「我は御身が映し出した御身の影。影なれど、影故に御身と同じ力を持つ──一介の使い魔と成り下がった御身にこの影は倒せぬ」
「影、だと……我が影に過ぎぬ身で、我が主達を侮辱するか」
ギリ、と食いしばった歯を鳴らし、セイバーは再度剣を握り直した。人に言われるまでもなく、今の突きを見た瞬間に彼女は気付いた。目の前にいる黒いセイバーの実力が、前聖杯戦争時、凛というマスターを得た状態のセイバーと等しいことに。
聖杯と繋がった完全な状態でのセイバーと、聖杯を失い、凛と士郎の魔力に頼って現界しているセイバー、どちらが有利かは語るまでもない。
「セイバー!」
再び士郎の叫びが響き渡る。だが、助太刀に入ろうにも士郎のまわりにはまだ無数の竜牙兵が残り、そして彼は背後に凛をかばっていた。一瞬で竜牙兵を蹴散らし、凛の安全を確保して颯爽とセイバーを救えるほど、衛宮士郎は万能ではない。
その叫びを聞きながら、セイバーは不意に、ほんの僅かだけ口元を緩めた。
(シロウ、大丈夫です。私は負けません)
声には出さず、だが伝わるだろうと心中で言葉を紡ぐ。この身は衛宮士郎の騎士であり、遠坂凛のサーヴァントなのだ。なれば──敵に後れをとることなどあり得ない!
「私はシロウとリンを護ると誓った。そのためならば、たとえ相手が“私”であろうとも打ち砕く!」
「ならばその誓いごと御身を打ち砕こう、“私”よ」
宣言するセイバーに、同じ声で言い放って剣を構える黒セイバー。二人の構えは、まるで鏡に映したかのように同じである。
騎士王と騎士王の戦い──このような光景を誰に想像できただろうか。技量は完全に互角、しかし力の差は歴然。唯一誇りと誓いのみがセイバーを支える力であれば、その力を砕かんとするのもやはりセイバーであった。二人の睨み合いは、既に死力を尽くした決闘である。
一秒か一分か、研ぎ澄まされた時間の中でセイバーが地を蹴ろうとした、その瞬間──!
「む……」
不意に声をもらし、いきなり眉をひそめて構えを解いたのは、黒いセイバーの方であった。
「ここまでか。これ以上はややこしいのを呼び寄せる」
「何?」
黒セイバーの発言に、思わず声をあげるセイバー。しかし、黒セイバーは気にした様子もなく、無造作な足取りでセイバーに背を向けた。
「決着は次の機会につけよう。誇り高き騎士王」
「ま、待て!」
呼び止める、がそのときには既に、黒いセイバーの姿はまるで幻のようにかき消えていた。振り向くと、士郎達が戦っていた竜牙兵も、ほぼ同じタイミングで土に帰っている。
「な、何だったんだ? 一体……」
呆然と呟いた士郎に、凛が険しい表情で首をかしげた。待ち伏せていたとしか思えぬ襲撃──そして、突然の撤退。あの黒いセイバーの正体も、謎のままだ。
何も分からぬまま、セイバーは剣を収め、士郎と凛はセイバーに走り寄った。
「セイバー、大丈夫か?」
「ええ、傷はありませんし、消費した魔力もそれほどではない。シロウこそ怪我はありませんか?」
「ん、大丈夫だ。遠坂にも指一本触れさせてない」
息を整えながら、セイバーの問いに頷く士郎。その言葉通り、彼にも凛にも外傷はなさそうだった。
「けど、竜牙兵ごときに手間取るなんて、屈辱だわ。フィールドは広かったんだから、もう少し戦い方を考えるべきだった」
「それは、しょうがないだろ。数が多かったんだから。それに、サーヴァントと一戦交えてとりあえず全員無傷だったんだ。結果としてはまずまずだよ」
「それはそうだけど……」
士郎の言葉に、凛は悔しげに瞳を伏せる。彼女にしてみれば、待ち伏せであろうと何であろうと敵が目の前に姿を現したのだから、この機を逃さず撃破してしまいたかったのだろう。
竜牙兵にしろ、黒いセイバーにしろ、キャスターにしろ──セイバーが万全の状態なら、どうとでもなる相手だったはずだ。
「これは、早急に対策を練らないとまずいわね」
呟いて、顔を上げる。そのときには既に、彼女から思い悩むような表情は消えていた。いつまでもくよくよ悩んでいるなど、遠坂凛にはあり得ない。
「とにかく、敵はいなくなったんだし、教会へ入りましょう。せめて情報がないと動きようがないわ」
「そうだな」
「そうですね」
凛の言葉に頷き、士郎とセイバーが前に立って教会の玄関まで歩を進める。扉に手をかけたのは、士郎だった。
しかし──その瞬間、まるで待ちかまえていたかのように、教会の扉が“内側から”開かれる。
「む、遅かったか」
そう言った人物は、呆気にとられた士郎の表情を見下ろすやいなや、まるで遅刻ギリギリで教室に走り込めなかった学生のように眉をひそめてみせた。
かなりの長身──玄関につっかえそうなほどの巨体である。かつての教会の主、言峰神父も相当な長身だったが、この男はそもそも日本人ではない。いや、ヨーロッパの人間としても大きい方だろう。黒いマントに単眼鏡、頭には古風な山高帽といった出で立ちの──士郎の受けた印象をそのまま言葉にすれば──まさしく“魔法使い”めいた、一人の老人であった。
「あ、あんたは?」
「シロウ、下がって!」
唖然とする士郎を引き戻して、彼をかばうように前に出るセイバー。しかし、
「嘘──」
愕然……と呟いた虚ろな声は、何と、遠坂凛のものであった。
「まさか……大師父?」
「いいや、奴とは古い友人ではあるが、私はあれほど派手好きではないよ」
苦笑し、凛の問いにあっさりと首を横に振ってみせる偉丈夫。
「初めまして。私はアーノルド=ラスキン、盟友シュバインオーグの頼みによってこの地を調査しに来ました。今後ともよろしく」
と、至って紳士的に身を折って、彼は呆気にとられたままの一同に名刺を差し出してみせたのだった。
『──ィィィン』
深夜、闇を引き裂くような甲高い金属音が深山町の住宅街に響き渡る。
投じられたのは刃まで黒く塗られた投擲用の短剣<ダーク>──対してそれを叩き落としたのもまた漆黒の刃であった。
「ちぃ──!」
「ぬっ──!」
二つの影がめまぐるしく位置を入れ替え、だが一定の間合いを保ったまま相対する。片や黒髪に黒ずくめの青年、片や黒マントに髑髏の仮面という出で立ちの怪人である。
そしてその二人の立ち会いを挟むようにして、怪老人間桐臓硯と、少女を脇に抱えたライダーのサーヴァントが遠巻きに見つめていた。
「おのれ、何やつ──!」
「こっちの台詞だ! あからさまに怪しい格好しやがって!」
言い合いながら、投じられる短剣とそれを切り払う黒刀。青年──大十字九郎は間合いを詰めようと足を踏み出し、しかし怪人──アサシンのサーヴァントが巧みに動いて距離をつめさせない。
サーヴァントと人間──その差を考えれば、この一進一退の攻防は奇跡とさえいえた。事実、九郎はアサシンの投じる短剣を切り払うのが精一杯でほとんど攻勢に移れていない。だが彼の握る黒い偃月刀が、アサシンの短剣を一本残らず叩き落としていることもまた事実だ。「投擲」技能を有するアサシンの攻撃をここまで完璧に防ぎきるなど、並の人間にできることではない。
「……アサシン」
刹那、不意に立ち会いの外からサーヴァントに声をかけたのは、その主たる怪老人であった。
「宝具をライダーに見られるのはちと困る。よいな?」
「承知、元より宝具を使うまでもありませぬ」
淡々とした命令に、迷うことなく頷くアサシン。彼にとって主の命は絶対であるし、いかに身体能力と剣技に優れていようとただの人間を相手に宝具を使う必要などあり得ない。
もう何本目かも定かでない短剣を構えつつ、アサシンのサーヴァントは地を蹴った。
「!」
突然の、それも人間離れした上方への跳躍に、九郎が思わず目を見開く。それを見下ろしながら、アサシンは空中でありったけの短剣を引き出した。
「覚悟……」
次の瞬間、弾丸のごとき黒い短剣<ダーク>の雨が、立ちすくむ九郎の上に降り注ぐ。
「──ッ!」
無数の短剣<ダーク>はもはや爆撃に等しく──その衝撃は標的ごとアスファルトの地面を抉り、もうもうと砂煙を巻き上げていた。
Fate / Sword & Sword
「…………」
殺られた──そう心中で言葉を紡いだのは、ライダーであった。
同時に反対側に立つ臓硯もほくそ笑む。アサシンの「投擲」技能はB判定、放たれる短剣の一本一本が弾丸に匹敵する速度だ。それを豪雨の如く、しかも僅かな時間差もなしに一度に投擲されては、いかな達人とて逃れる術はない。
「さて……奇妙な邪魔が入ったが、孫を返してもらえぬかの?」
「答えは出したはずだ。私は、マスターの命に従う」
言い放ち、手にした「釘」を握って再び構えをとる。その腕の中で、桜は何が起こったのか分からないといった表情を浮かべていた。
あの豪雨の中に、人間が一人。あれだけの数の短剣を受ければ、たとえすぐ医者に連れて行ったとしても助かるまい。ましてや、怪我人を抱えてサーヴァントと魔術師から逃亡するなど論外だ。故に、ライダーも臓硯も──茫然自失とした桜ですら──内心で彼を救うことは諦めていた。
「……ぬ、どうした? アサシン」
刹那、突然意外そうな声とともに眉をひそめたのは、臓硯である。
アサシンが短剣の雨を放った時点で、この老人の目はライダーとその腕の中の孫しか見ていなかった。それは、立場こそ違えどライダーも同じことだ。それ故に、二人は気付かなかった。
空中から臓硯の傍らに降り立ったアサシンのサーヴァントが、まるで驚愕をこらえるように身を震わせていることに。
「……馬鹿な……」
短く、しかしはっきりと呟いたアサシンの言葉は、紛れもなく震えを含んでいた。
「あり得ぬ、先刻の投技はたとえサーヴァントであろうと必殺の技であったはず──貴様、いや、貴殿は一体何のサーヴァントか?」
問いかける声。対して、それに答えたものは──
「生憎、ただの人間さ」
はれてゆく砂煙の中から姿を現した、黒衣の青年であった。
「!」
「何と!?」
生きている──どころか、傷一つ負っていない彼の姿に、ライダーと臓硯の驚愕が重なる。むべなるかな、その二人だけでなく、この場にいた全ての者が気付いていなかったのだ。大十字九郎が魔術師であるという、その事実に。
「これで、一つ約束を破っちまった」
そう言った九郎の手には、いつの間にか一冊の本が抱えられていた。
その足下には、おそらく書に巻き付いていたのであろう、頑丈そうな銀色の鎖が千切れて散らばっている。今夜の月がもう少し明るければ、鎖の表面に刻まれた魔術文字が見えたかも知れなかった。それこそが彼の口にした「約束」の一つ──魔書を封じるためにロンドンが用意した術式だ。
“書を封じ、みだりに魔術を使わないこと”──それが、ロンドンの魔術協会が彼に課した誓約だった。書を封じられていたからこそ、間桐臓硯も二人のサーヴァントも、彼が魔術師であることを見抜けなかったのだ。
「仮契約<アクセス>、汝等の魂に刻まれし主<マスター>大十字九郎の名において命ずる。我が手に接吻し我が威力となれ!
形式選択:魔術衣装<マギウス>!」
轟──と風の音が鳴った。無論、立ちすくむ他の者達には風など感じ取れない。ただ大十字九郎のまわりにだけ吹く風が、手にした魔書のページを瞬く間に舞いあげる。書の表紙は漆黒だ。そこには表題すら記されておらず、背表紙も裏表紙も同じ黒一色だった。
誰が知ろう、それこそが表紙の色ではなく内容の暗黒さによって“黒の書”と呼ばれた、フォン=ユンツトによって著されし禁断の魔書。その名を──、
「起動、無銘祭祀書<ネームレス・カルツ>!」
九郎の口からその名が紡がれた瞬間、舞い上がった魔書のページは空中で重なり合い、まるで表紙の色に染め上げられたかのような漆黒のマントとなって、九郎の肉体に巻き付いた。
表面にうっすらと浮かび上がった無数の魔術文字が、それがただの布きれなどではないことを教えている。
「認証式<パスワード>──“我は神意なり(I am Providence)”」
その身に見違えるような威厳すら纏って、大十字九郎は漆黒のマントを翻した。
「それじゃ、今の聖杯戦争監視役も兼ねてってことですか?」
「まあ、そういうことになる」
遠坂凛の問いかけに、彼──アーノルド=ラスキンと名乗った紳士は頷いてみせた。
「もっとも、私が依頼された調査はこの土地に関するものでね。聖堂教会もまさかこれほど短時間で次が起こるとは思っていなかったのだろう、監視役といっても名ばかりだ。私にもほとんど状況が分からないというのが現状だよ」
そう言って、ラスキンは苦笑混じりに肩をすくめてみせる。彼と凛、それに士郎とセイバーの四人は、教会の礼拝堂へ通されていた。
ほんの数分前まで、この教会の扉は外から封じられていたらしい。異変に気付いたラスキンが解呪しようとしたが、その結界がなかなかに厄介な代物で、手間取っているうちに士郎が外から扉を開けてしまったそうだ。あのとき黒いセイバーが言っていた「これ以上は〜」という台詞は、この結界のことだったのか。
「?、では、貴方は聖堂教会の人間ではないのですか?」
「縁もゆかりもない。シュバインオーグの頼みがなければ一生関わり合いになることもなかったろうよ」
セイバーの問いに、答えを返す。確かに、聖杯戦争が起こっていないときの聖杯戦争監視役など、誰がなっても同じことだ。
本来冬木市に派遣される監視役の代行という肩書きで、ラスキンはこの町を訪れたのだった。その肩書きは、聖堂教会から彼が借り受けているという形になる。とはいえ正式な監督役でない彼に、現在の聖杯戦争の状況など分かるはずもない。
結局、士郎達が知り得た情報は、「今回に限り教会はあてにならない」という一事のみだった。
もっとも、前回同様「サーヴァントを失ったマスターの保護」および「怪我人の治療」という二点に関してはそうでもない。魔導翁シュバインオーグの盟友というだけあって、アーノルド=ラスキンの魔導技術と治療能力はかつての教会の主──言峰綺礼を上回っていた。もし前回のように一般人を巻き込んでしまうようなことになれば、彼の力を借りることになるだろう。
だが、「シュバインオーグ」の名を口にするときだけ、彼の口調に苦みというか困惑というか──とにかく奇妙な色が混ざることに、士郎は気付いていた。盟友というか、悪友のような関係なのかも知れない。
「とはいえ、成り行きとはいえこうなっては私も無関係とはいえん。本来の役目とあわせて、今回の聖杯戦争についても調べておこう」
「お願いします」
「うむ」
頷き、それからラスキンは、不意に懐から一枚の封筒を取り出して凛に手渡した。そこに記された差出人のサインを一読して、凛の表情が一瞬で固まったのが分かった。
「え──」
「確かに、渡したぞ」
凛が何か言うよりも早く、手紙らしきものを押しつけて背を向けるラスキン。結局、彼が「用意があるのでな」と奥へ引っ込んだのにあわせて、士郎達も教会を後にすることになった。
「……結局、自分達で調べるしかないか」
教会の外に出ると、とうに日も落ちて世界は闇の中に沈んでいた。だからというわけではないが、士郎の声もやや落ち込んでいるように聞こえる。
「そうね、結局あのキャスター……それに、黒いセイバーの正体も分からずじまいだったし」
対して──頷いた凛の声は、目に見えて調子を失っていた。
「いや、見てて分かった。あの黒いセイバーは、投影魔術だ」
「「え──」」
瞬間、あっさり言ってのけた士郎の言葉に、前を歩いていた凛とセイバーが振り返る。
魔術師としては半人前だが、こと投影魔術に関しては士郎の独壇場である。その士郎が言うのだ、間違いはあるまい。
「ちょ、ちょっと待って士郎。投影って、セイバーの剣とかじゃなくセイバー“そのもの”を投影したっていうの?」
「ああ、多分だけど、あのキャスターの宝具にはそういう能力があるんじゃないかな。ほら、俺の投影魔術でも武器の性能だけじゃなく、使い手の技とか癖とかまで投影するだろ? その延長で、武器と一緒に使い手まで再現してるとか……」
「シロウ、確かに可能性はありますが、それではあの“私”は誰の魔力で動いているのです? あれが投影で作られたものなら、当然聖杯との繋がりはないはず……にもかかわらず、あれは完全な状態の“私”と同等の能力を有していました」
困惑げに眉をひそめながら、しかし不審さは全くない表情でセイバーが問う。彼女も彼女のマスターも、前回の聖杯戦争で士郎が時折みせる鋭い観察眼と直感、それに推理力を知っている。
こうしてあっさりと断言してくれるときは、よほどの確信があるときなのだ。
「それは、勿論キャスターだろ? 前回でもキャスターがサーヴァントを召喚してたじゃないか」
「でも、前回のアサシンは偽英霊とはいえ「聖杯」の力を得ていたわ」
「ああ、だからさ、二人とも。あのセイバーは本来のセイバーと同じ力を持っているようで、多分どこかに劣っている部分があるはずなんだ。俺の投影する武具がどれだけ真に迫っても決して本物にはなれないように、あのセイバーも贋作である以上、どこか贋作としての弱点を持ってるはずなんだよ」
そう言って、士郎は何かを考え込むように、腕を組んでむっつりと押し黙った。
無銘祭祀書──1839年に刊行され、後に発禁を受けたフォン=ユンツトの手による禁断の書。そのほとんどは所有者の手によって焼き捨てられ、今ではゴールデン・ゴブリン・プレスの粗悪な削除版と1845年にロンドンで刊行された誤訳の多い海賊版をのぞいて、世界に六冊しか残っていないといわれている。
「魔導書を操る魔術師──お主、ミスカトニックの手のものじゃったのか!」
もはや光を映さぬのではないかというほど暗い両眼を見開いて、間桐臓硯が愕然と叫んだ。つい先刻までただの若造と見ていた相手から、今は圧倒されそうなほど強大な魔力が溢れ出しているのだ。
全身黒ずくめの服装の上に、魔書のページが変じた漆黒のマントを纏う男──その魔術師の名を、
「大十字九郎ってんだ、覚えときな」
二度目の名乗りをあげて、九郎は手にした偃月刀に魔力を通した。
武器であり、同時に魔具でもあるこの偃月刀は、九郎の魔力を増幅する「魔法使いの杖」だ。魔書とともに自らの魔力すらも封じていたのか、怪老人を見据える瞳には、魔眼めいた鋭さがある。
しかし──その視線を遮ったのは、髑髏の仮面を付けたアサシンのサーヴァントであった。
「化けものめ──アサシンたる私が、あろう事か恐れを抱こうとは」
そう言って、アサシンは足下から、一本の短剣<ダーク>を拾い上げた。
「もはや、オマエを人間と侮らぬ。我が本領──暗殺者<アサシン>の技をみせてやろう」
「…………」
言い放つアサシンに、偃月刀を構える九郎は無言。互いに漆黒を纏った魔神二人が、ほぼ同時に跳躍する!
「はあああっ!」
「ふっ……!」
一閃する偃月刀。しかし、その斬撃はアサシンの影のみを斬った。地を滑るように回り込んだアサシンの手から、弾丸を越える速度で短剣が打ち出される。
「ッ……!」
同時に、その短剣を追い越さんばかりの勢いで、アサシン自身もまた九郎に突進した。
たとえ素手であろうと、アサシンならば一撃で人を屠る技など無数に備えているだろう。だが先んじて放たれた短剣もまた、アサシンの技量を乗せた必殺の技。短剣を叩き落とせば次の瞬間に飛び込んでくるアサシンに対し無防備になり、かといって短剣を無視すれば確実に急所を抉られる。
殺意よりも疾い二つの“必殺”に対し、大十字九郎はどうしたか。
「チィッ!」
彼は、迷うことなく偃月刀で短剣<ダーク>を切り払った。
「ふっ……」
「もらったぞ、魔術師!」
間桐臓硯の笑いに、アサシンの声が重なる。同時に彼の腕が、偃月刀を振り下ろしたままの九郎へと──!
「術種選択:肉体強化<ブーストスペル>!」
刹那、サーヴァントの目にすらかすんで見える九郎の裏拳が、アサシンの顔面を打ち砕いていた。
「「──ッッッッ!!」」
その光景に思わず息を呑んだのは、アサシンの主たる臓硯だけではない。まさか、サーヴァントの突撃を“素手で”迎撃するなど、一体誰に想像できただろう。
仮面を打ち砕かれたアサシンは、両手で顔を押さえてその場に崩れ落ちた。
「悪ぃな、生憎こっちは兼業魔術師なんだ」
そう言って、魔術師兼探偵は笑ってみせた。
「……ふむ」
闇の中、薄暗い地下室で彼は、場違いなほど小綺麗な椅子に腰掛けていた。
長身痩躯、隙のない出で立ちに漆黒の肌の偉丈夫。その傍らには、同じ褐色の肌を持つ奇妙な衣装の男がいる。
「「予定」では、そろそろゾウケン氏のサーヴァントが敗れた頃だな、リーダー」
静かに、取り乱すことなく彼──アンブローズ=デクスターは、自らのサーヴァントにそう呼びかけた。
「元より、アサシンは他のサーヴァントを吸収して自らを強化するクラスだというではないか。やはりおまえの一部を与えた程度では足りなかったらしい」
「…………」
「ああ、勿論並の相手ならば今のアサシンで十分だったはずだがな。しかし、奴だけは特別なのだよ」
無言のサーヴァントに対し、その心中が分かるのか、デクスターは何故か楽しげに頷いてみせる。
その手が不意に指を鳴らすと、彼の目の前の虚空に突如として映像が出現した。
「────」
無論、サーヴァントは驚きもしない。たとえその映像に映し出されているのが、闇の中で膝をつくアサシンと、そのマスターの姿だとしても。
『いかん──戻れ!』
『…………』
臓硯の命に、瞬く間にアサシンの姿がかき消えていく。無論消滅したわけではない。英霊であるサーヴァントは、自らを霊体に変えることができるのだ。
『クッ──最初に気付かなんだ儂の不覚か。若造、お主の名、覚えておくぞ』
と、アサシンの姿が完全に消えるのを見届けてから、間桐臓硯はそう言って九郎を睨め付けた。その体が──一体いかなる魔術を用いたか、溶け崩れたように闇へ吸い込まれたのは、次の瞬間である。
「見ての通りだ、リーダー」
その映像を眺めながら、黒い男は喜悦に歪んだ笑みをもらす。
「彼は、大十字九郎だけは特別なのだよ。しかし幸い、ゾウケン氏のアサシンには「肉体改造」の技能がある。吸収する餌さえあればまだまだ戦えよう。そう、例えば──」
そこまで言って、不意にデクスターは言葉を切り、
「例えば最良の英霊、前セイバーの心臓などはどうかな?」
ククク、と含み笑いをしながら、全てを嘲笑うかのようにそう言ってのけた。
……割と状況は混乱していた。
まず、教会で情報を得られぬまま帰宅した士郎達は──作戦会議のため衛宮家に泊まり込むと言う遠坂凛とそれに反対しようとしてできない士郎のどうでもいい論争などもあったが省略──帰宅早々、衛宮家の結界がひどく不安定な状態になっているのを感知した。
この家の結界は、前回の聖杯戦争時キャスターによって破られたことがある。そのときはただ結界を消されただけでなく、士郎の姉的存在である藤村大河が人質に取られ、その挙げ句にセイバーが奪われるという事態に陥った。今回も衛宮家で何かが!?と勢い込んで自宅に踏み入った士郎達は、そこでどこか茫然としている後輩と、明らかに見覚えのあるサーヴァント、そして、
「悪ぃ、勝手にあがらせてもらったぜ」
などといいながら、おそらく自分で用意したのであろう紅茶を美味そうに啜っている自称探偵の姿を発見した。
Fate / Sword & Sword
状況の整理には、若干の時間を要した。
「つまり、アンタは間桐の家から桜を連れ出すために奴らを裏切ったってこと?」
「それがマスターの命でしたから」
確認するように問いかけた凛に、畳の上に正座したライダーのサーヴァントは頷いた。
現在衛宮家の居間には、帰ってきた士郎、凛、セイバーの三人が並んで座り、テーブルを挟んだ向かいにうつむいた桜と平然としたライダー、そして、凛の紅茶を勝手に飲んでこっぴどく怒られた九郎が正座して(九郎だけはさせられて)いた。正確には九郎一人が正座を命じられたのだが、一応は恩人である九郎だけを正座させるわけには……と桜が自主的に正座し、ライダーが無言でそれにならったのである。
「しかし、裏切ったというのは正しくないでしょう。私は最初から彼らの仲間だったわけではない」
「そう。それじゃ、他のマスターについては何か知らない? どんな些細なことでもいいわ」
「……今の私のマスターは間桐慎二、アサシンのマスターは間桐臓硯だったようですが、それ以上は」
続けての問いに、淡々と答えを返すライダー。顔が拘束具で隠れているせいか、その表情はまるで動かず──サーヴァントなのだから当然といえば当然だが──どこか人間離れした雰囲気があった。
「なあ、アンブローズ=デクスターって男もいただろ? そいつについては何か知らないかな」
と、不意に割り込むように問いかけたのは、士郎であった。
「背の高くて肌の黒い外国人なんだけど……」
「ええ、その男なら間桐の家で何度か見かけました。ですが……」
「サーヴァントまでは分からないか。ま、当然でしょうね」
ライダーの言葉を遮り、凛が納得したとばかりに頷く。
「たとえマスター同士が協力体制にあっても、そう簡単にサーヴァントのクラスや真名は明かさないわ。士郎みたいな例外はともかく」
そう言って、最後の一言とともに士郎を横目で見やる凛。それに対して士郎は何か反論しようとしたが、それよりも早く口を開いた者があった。
「せ、先輩!」
「え?」
おずおずとしたその声に、思わず士郎はおろか凛やセイバー、九郎までもが振り向いた。発言者──間桐桜は、その視線にさらされながらも膝の上で拳を握り、はっきりとした声で言葉を続ける。
「先輩、お願いがあります」
「サクラ……」
言い出した桜を咎めるように、ライダーが小さく名を紡いだ。しかし、桜は真っ直ぐ前を見つめたまま、主に士郎に向かって言葉を紡ぐ。
「先輩──お願いです、兄さんを……兄さんを助けてください!」
溜め込んでいた何かを吐き出すように、桜はそう叫んで深々と頭を下げたのだった。
「──言わなくても分かってると思うけど、私は反対よ」
「ああ、分かってる」
淡々と言い放った凛の言葉に、士郎は何でもないように頷いてみせた。
ともかく桜を休ませ、ライダーと九郎を居間に残した三人は、衛宮家の廊下で顔をつきあわせていた。士郎がどういう決断を下したかは、もはや言うまでもあるまい。
「魔術師の「城」にわざわざ出向くなんて、自分から処刑台に進んでいくようなもんだ。それくらいは俺でも知ってる」
「でも、行くんでしょう?アンタは」
「うん。ゴメンな、遠坂」
苦笑し、士郎は謝った。凛が心配してくれていることはよく分かる。それでもなお、士郎は士郎であるが故に行かなければならない。
なぜなら、彼は「正義の味方」だから。
「俺はあいつを助けてやりたい。慎二が桜を逃がすために残ったならなおさらだ。もしこのまま慎二が殺されたりするようなことになったら、桜だってきっと哀しむし、自分のせいだって思い込むかも知れない」
「そうね……あの子にはそういうとこ、あるし」
士郎の言葉に、凛は不意にうつむいてそう呟いた。
顔を上げた凛は、次に自らのサーヴァントへ視線を向ける。
「セイバーも?」
「はい、私はリンのサーヴァントですが、シロウの剣となる誓いは変わりません。どうしても私を止めたいなら令呪を使ってください、リン」
確信を持った口調で、金髪碧眼の美少女ははっきりと言い切った。
「はぁ、そう言うと思ったわよ」
「すまない、リン……」
「気にしないで。私だって、かわいい後輩の頼みはできれば聞いてあげたいし」
といって、茶化すように凛は肩をすくめてみせた。凛にとって、士郎は誰よりも大切なパートナーである。彼が行く以上、元より自分も付いていくつもりだったのだ。
しかし、次に士郎が口にした言葉は、凛を驚かせるに足るものだった。
「それで、遠坂……遠坂は、ここに残っていてくれないか?」
「え──」
唖然、と口を開き、士郎を見つめ返す凛。見れば、その横でセイバーも驚いて目を見開いていた。
「ど……」
「どういうことです、シロウ」
凛の言葉を遮って、セイバーが彼に問いかける。対して、士郎は一つ頷き返し、
「遠坂には桜を護って欲しいんだ。さすがに桜を連れていくわけにはいかないだろ? その臓硯って爺さんは桜を連れ戻そうとしたらしいし、あの人の助太刀がなければ多分連れ戻されてたと思う。だから、もし万が一俺達と入れ違いにそいつらが桜をさらいに来たときのために、遠坂にはここに残って欲しいんだ」
そう言った士郎の目には、本心からの真摯な光が宿っていた。
士郎にも敵地に乗り込む危険性は分かっているはずだ。凛の自惚れでなく、士郎にとって最高のパートナーは凛とセイバーをおいて他にないだろう。できればともに行きたいはずだが、同時に士郎は桜を──そして彼女を護ろうとした慎二の意志を──護りたいと強く思っている。この配置は、士郎にとっても苦肉の策なのだ。
しかし──だからといって、半人前の魔術師と本調子でないサーヴァントだけで敵地に乗り込むなど……、
「では、代わりに私が行きましょう」
「え?」
逡巡する凛に背後から声をかけたのは、何と、居間に残したはずのライダーであった。
いつの間にか廊下に現れた長身長髪の女サーヴァントは、相変わらず淡々とした口調で言葉を続ける。
「シンジは私のマスターです。サーヴァントの私が救出に向かうのは当然のことでしょう? それなら、同じ目的のものと協力した方がいい」
「何を……!」
警戒心を露わにセイバーが振り向く。しかし、それを士郎が遮った。
「いや、ライダーが来てくれるなら心強い」
「シロウ!」「士郎!」
セイバーと凛、二人の声がぴったりと重なったのは、さすがマスターとサーヴァントというべきだろうか。
「ライダーは信用できる、と思う」
「シロウ、シロウは甘すぎます。いえ、それが悪いとは思いませんが、かつては敵として相対したものまで簡単に信じるのは……」
「簡単に信じたわけじゃないぞ。俺だってそれなりに考えてるんだ。その上で、ライダーは信用できると思った」
「根拠も何もなさそうだけど……まあ、士郎がそう言うならしょうがないか」
ため息混じりに、凛。彼女としては歓迎したくない事態だが、確かに自分が行くよりは一人でも多くのサーヴァントを連れていった方が効率がいい。
だが、そうしてため息をついてから、凛は不意に視線をあげ、まるで刃のような鋭い眼光をライダーのサーヴァントに向けた。
「でもね、ライダー。一つだけ覚えておきなさい、裏切り裏切られは戦いの常だけど──少なくとも協力体制にある間に貴方が士郎に何かしたら、私はどんな手を使ってでも貴方を倒すわ。絶対に」
「……覚えておきましょう」
凛の眼光に怯むこともなく、ライダーはただ静かに頷いた。そして──、
「なあ、俺もついていっていいか?」
ライダーに続いて居間から現れた自称探偵が、何の前振りもなくそんなことを言い出していた。
「クロウ?」
「何でよ、あなたには関係のないことでしょう?」
「いや、関係なくはねえだろ。誰だって目の前で困ってる奴がいたら手を貸すくらいのことはしないか?」
半眼で問いかける凛に、ごく当然のことのように言ってのける九郎。その肩には、初めて出会ったときから持っている黒い鞄が提げられていた。
と……見ると、凛とセイバー、それにライダーまでもが、まるで呆気にとられたように九郎に視線を向けていた。
「呆れた。なんか、士郎が二人いるみたいだわ」
「同感です」
「な、何だよ、別におかしなことは言ってないぜ。なぁ?」
「あ、うん」
同意を求められて頷いたのは、当の士郎であった。
「困ってる人を助けるのは当たり前」だ。ただ、それは士郎が「正義の味方」を目指すことの一端である。誰も彼もを救いたくて、そのために何をすればいいのか分からずに、とにかく目の前にいる人を助けようと奔走してきた。悩んで、迷って、自分自身の理想に憎まれても、手探りで道を探して歩き続けてきた。
ならば──彼はどうなのだろうか。士郎は初めてそう思った。
「……今は手が多い方がいい。手伝ってもらおう」
凛達を見回し、士郎はきっぱりとそう言った。
「そうね。まあ、見ず知らずの人間よりは信用できるかな」
「シロウがそう言うなら、私も彼を信じましょう」
「…………」
凛の言葉にセイバーが続き、ライダーのみ無言で頷く。不完全で半人前で、だが士郎は誰よりも信頼されている。
「前回は夜に戦うのがルールだったけど、今回は夜が明けてから出発しよう。攻め落とすならともかく、慎二を連れ出すだけなら昼間の方が都合がいいはずだ」
士郎がそう締めくくって、即席の作戦会議は幕を閉じたのだった。
「にしても、呆れたわ」
不意にそんなことを言い出したのは、作戦会議後も廊下に残った遠坂凛であった。
「何だよ、いきなり」
対して、縁側に腰掛けた大十字九郎は、肩越しに振り返って眉をひそめる。今、廊下に残っているのはこの二人だけだ。
士郎は桜に話を聞きたいといって、ライダーも一緒に客間にこもっている。そもそも士郎は今まで、桜は何も知らないのだと信じていたのだから。
しかし、桜が全てを明かすこともまたないだろうと、凛は心中で確信していた。
「あなたのことよ。最初は何か企んでるのかと思ってたけど……要するにあなた、単なるお人好しなんじゃない。それも度を超えた」
「う……お人好しってのはよく言われるけど、別に度を超えちゃいないと思うぜ?」
「度をわきまえたお人好しは、単なるお節介で魔術師同士の殺し合いに首突っ込んだりしないわよ」
九郎の弱々しい反論に、ぴしゃりと言ってのける凛。ただの「お人好し」なら、生きるか死ぬかの世界に首を突っ込んだりしない……少なくとも、凛の知る限りではそんな魔術師は──ただ一人の例外を除いて──存在しない。
「はぁ……つまり、あなたも士郎の同類なんだ」
思わずため息をついて、凛は頭を抱えるように顔を押さえた。
「なんか、非常に不当な扱いを受けてる気がするのだが」
「気にしないで。それより、聞きたいことがあるんだけど」
不満げな九郎の発言をあっさり流し、凛は不意に表情をあらためた。そして、何かを確かめるかのように柱に手をつき、
「この家の結界、不安定になってるわ」
淡々とした、冷たい「魔術師」としての声で言葉を続ける。
「最初はライダーが入り込んだせいかと思ってたけど、彼女の魔力自体はそこまで並はずれて強力じゃないみたいだった。だとしたら考えられるのは一つ──あなた、何か年代物の神秘を持ち込んだでしょ」
「…………」
その問いかけに、九郎は無言。ただ、微かに眉をひそめて、数秒後に「はぁ」とため息をついてみせた。
「あんまり、こいつらを見せびらかしたくなかったんだけどな」
呟き、彼は肌身離さず持ち歩いている黒い鞄に手をかけた。よく見れば、その鞄の留め金にも魔力封じの刻印が刻まれているではないか。九郎は留め金を押して鞄を開けると、何の躊躇いもなく、それを上下逆さにひっくり返す。
──鞄から落ちたのは、見るからに古めかしい七冊の「本」であった。
厚さも大きさもバラバラだが、どれも持ち運ぶのに苦労しそうなほどの重量があった。そして、それらの本は一冊をのぞいて全て、厳重に鎖で縛り付けられている。特に、もっとも古いものらしい一冊の本は、半ば狂気じみた執拗さで封印されていた。何重にも何重にも鎖で縛り付け、挙げ句の果てに鎖を固定する錠の鍵穴を何かでふさいであったのだ。
そこには「決してこの書を開かぬよう」とでも言うような、無言のプレッシャーさえ感じられた。
「一冊だけ解放しちまったんでな。多分、こいつの影響だろ」
そう言って、九郎は一冊だけ鎖に縛られていない、真っ黒な表紙の本を手にとってみせた。
「フォン=ユンツトの【無銘祭祀書<ネームレス・カルツ>】──「魂」も「神を召喚する記述」もない海賊版だが、力はある」
漆黒の書、呪われし禁断の魔書の海賊版。その気配は鞄から出された瞬間に大きくなり、不安定な結界が更に揺らいだのが手に取るように分かった。
だが、凛は結界の揺らぎも気付かぬかのように、唖然とした表情でその黒い本を凝視していた。
「魔導書……ミスカトニック最大の神秘じゃない」
「いや、所詮こいつは海賊版だからな。六冊しか残ってない本物の【無銘祭祀書】はこんなもんじゃない。
──最高位の魔導書ってのは、自ら魂を持って主を選定し、神をも召喚して自在に操るような代物なんだ」
「……【魔書の王】……」
淡々と、その名を紡いだ凛の声は、まるで目の前にいるのが古くからの仇敵であるかの如く冷え切っていた。
「まさか……噂には聞いてたけど、ずっと眉唾だと思ってたわ。
──ミスカトニック大学の秘密図書館から、特別に七つまで魔導書を所有することを許された魔術師。唯一無二の魔書を無数に従えるがゆえに、付けられた異名が「魔書の王<ロード・オブ・グリモワール>」、あるいは七頭十角……」
「言うな」
刹那──凛の発言を遮って、九郎は静かに、しかしはっきりと言い放った。
「俺を──「獣」と呼ぶのだけはやめてくれ」
それは、ひどく長い一刹那だった。
──夜が明ける。
冬木の夜が……六度目の聖杯戦争の、最初の夜が。
まだ人々の大半が眠りの中にある時刻。衛宮家の門前には、凛と桜を除く四人の姿が既にあった。
このうちの一人はイレギュラーだ。そして、これから向かう先にもとんでもないイレギュラーが待ちかまえている。加えて、姿を見せぬキャスターのマスター、まだ召喚されてもいない三体のサーヴァント──不確定要素はあげればきりがない。
所詮、神ならざる身には未来は見えないのだ。しかし、それでも歩き出した彼らに迷いはなかった。
二人の魔術師と二体のサーヴァント、でありながら、一人のマスターもいないという奇妙な構成。
まだ眠りから覚めぬ冷たい街の中を、士郎達は間桐の家へと向かった。
※用語解説
【魔書の王】
ロード・オブ・グリモワール。この話における大十字九郎の異名の一つ。
実際にはあまりにも有名すぎる九郎の称号──【マスター・オブ・ネクロノミコン】──を隠すために意図的に流布されたあだ名であり、七つの魔書を日本に持ち込んだのも彼本来の“書”を使わずにすませるため(失われたはずの「アル・アジフ」が現存することが知られるのは、ロンドンにとってもミスカトニックにとっても喜ばしくない)
しかし、七つの魔書を与えられたことから、九郎は望まずして宿敵の名を受け継ぐことになってしまう。
朝焼けの中、深山町の丘の頂上付近に建てられた洋館を眺め見て、四人の男女が静かに足を進めていた。
「なんつーか、いっちゃ悪いがお化け屋敷だな」
「当然、結界は張られているでしょうね」
一人──九郎の呟きに、既に鎧姿となったセイバーが頷いた。その隣で無言のライダーが佇み、三人の前に立つ士郎が、振り返りながら言葉を放つ。
「二手に分かれよう。ライダーはマスターの気配が探れるだろ? ライダーともう一人で慎二を探し出して、その間、俺ともう一人が囮になる」
「陽動作戦というわけですね。では、シロウと私でその役を引き受けましょう」
士郎の提案に、セイバーが我が意を得たりとばかりに微笑した。彼の剣となり戦うことが彼女の誓いである。しかし──、
「いや、囮の方は俺が引き受ける」
セイバーの言葉に割り込んでそう言ったのは、大十字九郎であった。
「派手に暴れる方が向いてるしな。コソコソするのは性に合わねえ」
「そんな……」
「いえ、適任かも知れません」
言いかけたセイバーを遮り、淡々とした口調でライダーが呟く。
「考えてみなさい、セイバー。現状を鑑みるに、今のアナタよりは彼の方が陽動に向いている」
「ッ──」
断言されて、セイバーは思わず唇を噛んだ。
陽動作戦では、いうまでもなく囮役の方が危険度が高い。故に、本来ならこちらにサーヴァントを投入すべきなのだが、現時点で最強の札であるライダーは慎二の探索のために不可欠。セイバーは聖杯との繋がりがないため本来の力を発揮できないでいる。ならば──一度はサーヴァントとも渡り合ったというこの男に士郎を任せた方が、成功の可能性は高くなるかもしれない。
「……分かりました。では、シロウを頼みます、クロウ」
「ああ、任せとけ」
そう言って、九郎はきっぱりと頷いてみせた。
Fate / Sword & Sword
玄関の呼び鈴を鳴らす。扉に手をかける。鍵がかかっていてノブがまわらなかった──蹴破る。
一連の行動を一瞬の停滞もなくやってのけ、大十字九郎と衛宮士郎は間桐家に足を踏み入れた。
「たのもー、ってか」
そう言ったのは、九郎。片手に魔書を、片手に大振りな偃月刀を握り、軽口とは対称的に油断ない視線で周囲を警戒している。対して、間取りを知っている士郎はその前に立ち、無言で玄関ホールを見渡した。
深山町で最も巨大な洋館だけあって、ホールだけでもかなりの広さがあった。以前士郎が聞いた話では、この館は建築の際、建物の大部分を外国から直接運んできたらしい。それでも間桐の血が魔術回路を失っていったというのだから、よほど日本の土があわなかったのだろう。
「やれやれ、何とも騒がしい客人だの」
と、不意に二人に向けて放たれたその声は、いつの間にかホールの奥に現れていた妖人のものであった。
酸でも浴びたかのような深い皺だらけの顔、血の気のない青ざめた肌、一体どれほどの年月を経たのか、まるで内側に腐敗を抱え込んだような怪老人の姿は、紛う事なき間桐臓硯である。
「ほう、衛宮の小倅に、ミスカトニックの魔術師か。して、何の用かの?」
問いかける怪老人の声は、言葉ほど驚いていなかった。まるで、二人がここを訪れることをあらかじめ知っていたかのように。
「間桐臓硯──慎二を渡してもらう」
真っ直ぐに老人をにらみ据えながら、士郎ははっきりと言い放った。
「これは異な事を……慎二は確かに出来は悪いが、儂のかわいい孫じゃ。渡せといわれてものぅ」
「あの二人はもう聖杯戦争にかかわるべきじゃない。アンタが何を企んでいようと知ったことじゃないが、桜と慎二はウチで預かる!」
「力尽くででもな」
士郎の言葉に頷いたのは、九郎である。元より、二人の役目はライダー達が慎二を助け出すまでの時間稼ぎだ。この家の主である間桐臓硯が直接出てきたのは幸運だった。彼をここに釘付けにしておければ、サーヴァント達の仕事がやりやすくなる。
「ふむ、それは困ったの」
などと、臓硯はにやにや笑いながら言ってのけた。
「どうしたものか、儂のアサシンはお主にやられた傷が癒えておらんし、不肖の孫はライダーを逃がしてしまいよった。やれやれ、これではマキリに兵がおらぬことになるわ」
そう言って、怪老人はカッカッカと笑う。そして──、
「兵がおらぬなら、借りるしかないわな」
次の瞬間、老人の背後に横たわった闇の中から、同じ闇色の美女が姿を現していた。
「「!」」
頭上に冠を戴いた、裸に近い衣装の黒い女──その姿は士郎に、そして九郎にも見覚えがある。
「キャスター!?」
驚愕のあまり叫んだのは、士郎の方だった。
そう、そこにいたのは紛うことなく──教会の前で士郎達を待ち伏せ、竜牙兵と黒いセイバーを呼びだして何処かへ消え去った──正体不明のサーヴァント、キャスターであったのだ。
「セイバー、上辺をどう繕おうと、この家は間違いなく魔術師の家です。気を抜かぬように」
「いわれるまでもない。そちらこそ油断せぬことだ、ライダー」
互いに一瞥しあって言葉を交わし、二人のサーヴァントは、二階の窓から間桐家の内部へと侵入していた。
士郎達と別れ裏庭にまわった二人は、そこから二階の窓へと音も立てずに跳躍したのだ。サーヴァントである二人にとって、この程度の芸当はできて当然のことだった。
「それよりライダー、シンジの気配は」
「こちらです、セイバー」
セイバーの問いに答え、間桐家の廊下を奥へと歩き出すライダー。セイバーは知るよしもないことだったが、その先には間桐慎二の部屋がある。ライダーのマスターの気配は、間違いなくその部屋から放たれていた。
「どうやら、マスターは自分の部屋にいるらしい」
そのことをライダーが伝えると、セイバーは途端に眉をひそめ、
「まさか──シンジは監禁されているのでは」
「監禁というよりは、軟禁でしょう。マキリ臓硯という魔術師は紛う事なき“化物”ですが、歪ながら孫のことを──無論、彼なりに、でしょうが──大切にしているようでしたから」
そう言って、不意にライダーは立ち止まる。向かって右側のドアが、間桐慎二の部屋だった。
セイバーが周囲を警戒し、ライダーがドアノブに手をかける。ここは敵地だ。たとえ馬が合わない二人でも、生きて帰るためには協力しあうのが当然だった。ライダーがノブを回すと、数ミリもまわらぬ内に硬い音が鳴る。
「やはり鍵がかかっている」
「魔術がらみのものか?ライダー」
「いえ、ただの鍵です。シンジは魔術師ではないから、これで十分だと思ったのでしょう」
と、セイバーの問いに答えるやいなや、ライダーは表情一つ動かさずに手首をひねった。ガギン──という高い音が響いて、ドアノブが完全にまわりきる。
「壊したのか、敵に気付かれるぞ」
「その前にシンジを連れて脱出すれば済むこと。幸い、私の宝具は脱出に向いている。いざとなれば──」
いいながらドアを押し開け、室内に踏み入るライダー。続いてセイバーが中にはいると、そこには椅子に腰掛け──ライダーの予想通り、縛られもせず軟禁されていたらしい──ていた慎二が、どこか呆然とした表情で二人を振り返っていた。
「ラ、ライダー?」
「シンジ、助けに来ました」
淡々と言い放ち、早足で慎二に駆け寄るライダー。だが、慎二は──
「ッ──来るな、馬鹿!」
「な──」
その言葉に、セイバーは唖然と、ライダーは相変わらずの無表情で足を止めた。
「シンジ、どういう意味ですか」
「言葉通りだ馬鹿! 祖父さん達はおまえ等が来るのを待ってたんだ!おまえ等は自分から罠に飛び込んだんだぞ!」
「それなら心配ない。シロウ達が囮になってくれている」
激昂する慎二に、直立不動のまま答えるセイバー。彼女らとてその程度のこと、予想していなかったわけではない。
「違うッ!」
しかし、それでも慎二はかんしゃくを起こすように首を振り、肩を震わせながら声を荒げた。
「二手に分かれようが意味ないんだ! あいつらは、おまえらの行動をあらかじめ全部知ってるんだから!」
「──!」
その瞬間、
「さて、どうするかね?」
セイバーの背後から部屋に入ってきた男の言葉に、二人のサーヴァントは、愕然と振り返った。
「投影、開始<トレース・オン>」
詠唱とともに幻想を紡ぎ、士郎の両手に黒白の双剣が顕現する。
ロビーの中央で奥を向いた彼の前には、無数の竜牙兵がわらわらと湧いて出ていた。
「バルザイの偃月刀!」
片手に魔書、片手に偃月刀を携えて、大十字九郎は構えをとる。
士郎と背中合わせに玄関側を向いた彼の眼前で、見慣れた──しかしおぞましさには慣れることがない──半漁人「深き者」どもの群がぞろぞろと押し入ってきた。
「なんて数……」
「冗談きついぜ、ったく」
既に、ロビーの中は竜牙兵と半漁人に埋め尽くされている。彼らは士郎と九郎を遠巻きに包囲し、少しずつじりじり距離を詰めてきていた。それをロビーの奥から眺めているのは、黒い女サーヴァントキャスターと、怪老人間桐臓硯だ。
「では、ここは任せるぞ、キャスター」
「ええ、魔術師殿は奥でお待ちを」
臓硯の言葉にキャスターが頷くと、老人はどこか満足げに笑みをたたえ、その場で踵を返してみせた。痩せ細った小さい背中が、間桐邸の闇の中へと消えていく。
「ッ! 待て!」
「貴方達の相手は用意してあるわ。せっかく“うつした”のだから、よそ見は無礼よ」
咄嗟に追おうとした士郎に、キャスターの笑みを含んだ声がかかる。同時に、包囲網の中から飛び出した竜牙兵が二体、完全に統率のとれた動きで襲いかかってきた。
「ッ!」
ゴーレムの得物は太刀。士郎は咄嗟に双剣で受け、流しながら竜牙兵を斬り捨てる。しかし、その隙に三体目の竜牙兵が、味方の残骸を踏み越えて太刀を振るってきた。双剣を振り切った姿勢の士郎は防御できず、後退するしか──
「衛宮!動くな!」
「!」
次の瞬間、即座に動きを止めた士郎の背後から、漆黒の偃月刀が竜牙兵の頭部目がけて突き出された。刀身は、士郎の顔の真横を通り過ぎている。
「悪い、大十字。助かった」
「気にすんな、即席だろうが何だろうが、今は相棒だろ」
あっさりとそう言い放ち、大十字九郎は逆手に持った偃月刀を順手に持ち替えた。同時に、反対側の腕で抱えていた魔書を掲げ、詠唱する。
「無銘祭祀書<ネームレス・カルツ>よ、我が威力となれ!」
瞬間、バラバラになったページが虚空を舞い、九郎の体に寄り集って漆黒のマントへと変化した。
「形式選択:魔術衣装<マギウス>──認証式<パスワード>“我は神意なり(I am Providence)”」
バサリ──とマントを翻すその姿は、威風堂々と敵を睥睨していた。
彼の者は【魔書の王】。七つの魔導書を従え、ただ一冊の大いなる書を伴侶とするミスカトニックの魔術師なり。
「行くぜ、衛宮!」
「ああ!」
頷きあい、九郎と士郎は同時に眼前の敵へと斬りかかる。竜牙兵が前に出るのとともに、半漁人の群も一斉に動き出していた。
「ふふ、投影魔術に魔術衣装<マギウス・スタイル>──どちらも真っ当な魔術師には見られない術法よね」
そう言って笑ったのは、キャスターである。しかし、二人ともそんな言葉に耳を傾けている暇はなかった。
竜牙兵の刀が空を切り、その首を士郎の干将と莫耶が切り落とす。深きものどもが伸ばす爪を紙一重でかわした九郎は、黒い偃月刀で魚面を真っ二つにした。
「衛宮──!」
次の瞬間──不意に身をひねった九郎が、竜牙兵と斬り結んだ士郎の背中目がけて偃月刀を振り上げる。
「頭下げろ!」
言葉と同時に士郎の頭が下がる。その頭上を偃月刀が通り過ぎ、竜牙兵の頭部を粉砕した。
「大十字!」
「任せた!」
同時に、竜牙兵の太刀から逃れた士郎が身を翻し、九郎とすれ違って背後の半漁人に干将莫耶を突き立てる。
──九郎に斬られた竜牙兵が崩れ落ちるのと、士郎に刺された半漁人が倒れるのは、ほぼ同時であった。
「……へぇ」
「案外、うまくいくな」
意外そうに呟いたのは、何と九郎と士郎の二人である。
竜牙兵と半漁人はまだロビーいっぱいに残っている。その全てが、同士討ちすら恐れずに二人目がけて詰め寄ってきた。ゴーレムの剣が振るわれ、半漁人の爪が伸びる。しかし──!
「はっ!」
「りゃあッ!」
右から竜牙兵の槍が迫れば士郎は左に避け、九郎が右に動いてバルザイの偃月刀を一閃する。逆に九郎が右へかわせば、士郎は左側の敵を双剣で斬りつけた。
回避に、攻撃に、二人の戦士はめまぐるしく動き回り立ち回っているというのに、互いが互いを背にするというポジションだけは、一瞬たりとて揺るがない。
「フゥゥゥゥ──!」
「るぅぅぅぅぅ!」
恐れない竜牙兵の部隊、止まらない深きモノどもの群。だが、どれだけ数が多かろうと、士郎と九郎に恐れはなかった。そんなものを感じる必要はない。雪崩の如く押し寄せる敵の波は、ただ切り払い打ち倒すのみ。
二人の魔術師は、まるで舞うように数多の敵と斬り結び始めた。
「アナタは──」
「アンブローズ=デクスターか!」
愕然と振り返った二人のサーヴァントは、ほぼ同時に跳びすさり武器を取り出した。ライダーの手には鎖で繋がれた釘。セイバーの手には、その姿を隠された不可視の剣。
その視線の先に立つのは、不気味なほど黒く日焼けした長身痩躯の男性──アンブローズ=デクスターである。
「慌ただしい客人だな。もっとも、家主に挨拶もない来訪者を客とは呼ばんか」
などと呟きながら、デクスターは大仰に肩をすくめてみせた。サーヴァント二体を前にしながら、その立ち振る舞いから余裕がなくなることはない。
「デクスター、覚悟!」
瞬間、迷うことなく不可視の剣を振り下ろしたのは、セイバーであった。
本来の力を出せないとはいえセイバーもサーヴァントである。その一撃は人間など容易く両断し、たとえ魔術を使おうともその効果より早く斬りつける自信があった。だが──!
『────』
まさか──デクスターの背後から伸びた錫杖が、セイバーの剣を受け止めるなどとは。
「!、貴様は……」
「セイバー、下がりなさい!」
驚愕の表情を浮かべるセイバーに、背後からライダーの声が届く。言われるまでもなく、セイバーは咄嗟に間合いを離していた。
デクスターの背後──その影から突如として姿を現したのは、全身を奇妙な衣装で覆い、冠を戴いて錫杖を掲げた漆黒の男であった。
「サーヴァント!」
サーヴァントはサーヴァントを感知する。セイバーとライダーには、その男の気配を感じた瞬間に彼がサーヴァントであることが分かっていた。考えるまでもなく、そのマスターはデクスターであろう。
「気が早いな、まったく。私のサーヴァントは戦闘向きではないのだ、少しは手加減をしてくれたまえ」
などと、飄々と言ってのけるデクスター。その姿をかばうようにサーヴァントは錫杖を構え、表情のまるでない貌でセイバー、ライダーと睨み合う。
「……なぜだ」
ぽつり、と呟いたのは、セイバーであった。
「なぜ、今の太刀筋を見切れた。力が落ちているとはいえ、我が剣閃、そこまで甘くはない」
「太刀筋を見切ったのではない。そこの少年が言っていただろう? ただ──君がいつ、どこを狙って斬りかかってくるかが“あらかじめ分かっていた”というだけなのだよ」
「な──!」
セイバーの目が驚きに見開かれる。同時に、慎二をかばうように立つライダーの頬にも一筋の汗が流れた。
二人とも歴戦の英霊だ。この瞬間、同時に敵の正体に思い至ったのである。
「そうか、アナタは……」
「未来予知の技能を持つクラス──予言者<リーダー>のサーヴァントか!」
叫びに、デクスターが笑みを浮かべたまま頷いた。同時に──、
『────』
閃いた錫杖が、何とセイバーに向かって振り下ろされる。
「クッ……!」
咄嗟に剣で受け、無表情なサーヴァントを睨み付けるセイバー。しかし、敵──リーダーは眉一つ動かさず、無言でその視線を受け流した。
セイバーとリーダーで鍔迫り合い……本来なら一瞬で片が付くはずの愚行だ。しかし、今のセイバーは聖杯との繋がりを持たぬ使い魔であり、その本来の力は失われていた。
そして──それはライダーも同じこと。
「セイバー!」
「おっと、君は動かない方がいい、ライダー」
助けに動こうとしたライダーを押しとどめたのは、何と、無造作に佇むデクスターであった。
「この狭い部屋の中で、君や私まで戦闘に参加するのは得策ではないと思わないか。特に、君のマスターにとっては」
「!」
魔術師の言葉に、思わず動きを止めるライダー。彼女の真後ろには慎二がいた。
デクスターも、マスターである以上は魔術師のはずだ。ここで戦ってもライダーが敗れるとは思わないが、もしデクスターの魔術が凛のもののように広範囲を攻撃する類のものであった場合、慎二まで巻き込まれる可能性がある。
肩越しに振り向くと、慎二は悔しげに唇を噛んでいた。
「そういうことだ。何、我々としてはとりあえずセイバーを確保したいのでね。彼女を残していってくれるなら、君には帰ってもらってもかまわないのだが?」
「な……」
ライダーとセイバーが、同時に声をもらす。それはつまり、
「私に、セイバーを裏切れというのですか、デクスター」
「まさか。そもそもサーヴァント同士は元より敵対者ではないのかね? 最初から敵対している者を、どうやって裏切るというのだ?」
いともあっさりと答えながら、デクスターはその口元に笑みを浮かべてみせる。一見して悪意の欠片もないような微笑み──しかし、その実は悪意しかあり得ない。
だが──その瞬間、
「……セイバー、僕の“令呪”を破壊しろ!」
その叫びは、何と慎二の口から放たれたものであった。
「シンジ!?」
「早くしろ!」
「ッ!」
切羽詰まった──しかし、決して自棄でも狂気でもない慎二の叫びに、セイバーは半ば直感で頷いていた。同時に彼女はリーダーを蹴りはがし、即座に身を翻して剣を振り下ろす。不可視の刃は、一撃で机ごと「本」を両断していた。
『!』
その意味を知っているのか、リーダーが息を呑む音が聞こえた。そして──!
「……マスターからの魔力供給が途絶。“本来の”マスターにラインを繋ぎ直します」
淡々とした言葉が、ライダーの口から紡ぎ出された。
「ライダー?」
「ッ、しまった!」
唖然としたセイバーの声に、重なるデクスターの罵り。その瞬間、ライダーの気配が先刻までとは比べものにならぬほど強大なものとなったのが、二人には分かったのだ。
「リーダー! 退くぞ!」
デクスターの叫びとともに、彼の腕から令呪が一つ消え去った。同時に、錫杖を持った黒いサーヴァントの姿は、まるで幻のようにかき消える。
同時に、ライダーは慎二とセイバーに手を伸ばし、何と自らの武器で首筋に傷を付けたではないか。
<ペルレ──
「騎英の──
刹那、ライダーの手が二人を捕まえ、有無を言わさず彼女のそばに引き寄せる。
──フォーン>
──手綱!」
次の瞬間、間桐邸の壁をぶち破って、一筋の彗星が天へ登った。
「む──ッ!」
突如、屋敷を襲った凄まじい震動は、当然のことながら一階のロビーにも伝わっていた。
「これは……」
「宝具を使ったのか」
突然の事態に混乱するキャスターに対し、前聖杯戦争経験者である士郎は一瞬で状況を理解していた。セイバーは今、宝具を使える状態にないのだから、おそらくライダーが脱出のために宝具を使ったのだろう。
「作戦成功だ! 大十字!退こう!」
「分かった!」
士郎の指示に即座に頷き、九郎は身を翻して玄関側の敵──半漁人「深きもの」どもの群を切り払った。漆黒の偃月刀が一振りされるたびに、無数の深きものどもが両断されていく。化物達の壁に無理矢理穴を開けた九郎は、そこから玄関の外へ躍り出た。
その背中に続いて、士郎もまた間桐邸の玄関から飛び出す。そして、
「投影、開始<トレース・オン>」
士郎の手から双剣がかき消え、代わりに漆黒の弓が現れる。
「──我が骨子は捻れ狂う(I am the bone of my sword)」
そこにつがえられるのは矢ではなく、奇妙に捻れた一振りの魔剣!
「偽・螺旋剣<カラドボルグ>!」
解き放たれた魔剣は間桐家の玄関からロビーへ飛び込み、次の瞬間、轟音とともに小規模な爆発を起こした。
──そうして、士郎達は誰一人欠けることなく、間桐の屋敷を脱出したのである。
「う〜ぉはよぅ〜」
などと、今にも死にそうな遠坂凛の姿が今に現れたのは、既に昼過ぎと言っていい時刻になってからだった。
「む、やっと起きたか。寝坊助」
昼食をテーブルに並べながら、エプロン姿で顔を上げる士郎。テーブルにはセイバー、桜、そして──なぜか感動の涙を流している──九郎がついていた。
「仕方ないでしょ、さすがに昨日はほとんど眠れなかったんだから」
ぶつくさと言いながらも、素直にテーブルの前に座る凛。日曜日なので学生も学校に行く必要がない。
それから、彼女は不意に今を見渡して、
「慎二はどうしたの?」
「部屋で休ませてる。軟禁されてたらしいし、さすがのアイツも疲れたんだろ」
「ふぅん」
士郎の返事に生返事を返し、凛も自分の箸を手に取った。
「ま、とりあえず話は食べてからにしましょ」
その言葉に、なぜかセイバーと九郎が大きく頷いた。
Fate / Sword & Sword
「とりあえず、これからどうする?」
昼食後、すっかりくつろいで食後のお茶を飲みながらそういったのは、やはり凛であった。
ちなみに、一足早く昼食を終えた桜だけが居間からいなくなっている。自分の食事を終えた後、
「私、兄さんの様子を見てきますね」
と言って慎二の眠っている部屋へ行ったのだ。
「まず、状況を整理しよう」
士郎の提案。無論、反対するものはいない。
「今のところ、現れたサーヴァントは──」
「計四体ね。私のセイバーは前回召喚されたサーヴァントだから、数に数えなくていいわ」
と、凛が指折り数え、今は姿の見えない──霊体になっているであろう──長身長髪のサーヴァントを思い描く。
「ライダーも、慎二と桜がこちら側にいる限り敵に回ることはないと思うわ。ただ──私達が聖杯を破壊しようとしている以上、今後彼女がどう動くかは分からないけど」
「それは、まあ後で考えよう」
眉をひそめる凛に、士郎が当面の問題へと議題を戻す。
「確実に倒さなきゃならないのは、間桐臓硯とアンブローズ=デクスターだ。それに、あの家には、間桐臓硯だけじゃなくキャスターもいた」
「キャスターが? それじゃ、キャスターのマスターも間桐と手を組んだってことかしら」
「マスターは姿を現さなかったけど、十中八九そう考えて間違いないだろうな」
そう言って、士郎は頷いてみせた。
「けど、慎二も桜も保護したし、ライダーの話だとデクスターにも令呪を一つ消費させたらしい。大十字のおかげでアサシンもしばらくは動けないようだったし、多分、キャスターにもいくらか手傷を負わせたと思う」
「つまり、間桐家の陣営は今、消耗してる」
そう呟いた凛の顔に、たちまち好戦的な表情が浮かんできた。
「なら、今が勝機じゃない? 今夜にでももう一度奇襲をかけて……」
「いえ、それは懸命とはいえないでしょう」
しかし、凛の言葉を遮ってそういったのは、何とセイバーであった。
「む、どうしてよセイバー」
「私とライダーは、シンジを助ける際にデクスターのサーヴァントを確認しました。間違いありません、あれはリーダーです」
見かけに反して時には凛以上に好戦的な剣の英霊が、表情を引き締め、慎重そうにそう答えた。
「リーダー?」
「冬木の聖杯戦争で召喚されるクラスの一つ──「予言者」です。私も、前回キリツグから話を聞いただけなのですが」
そう断ってから、セイバーはお茶を一口のみ、改めて言葉を続ける。
「リーダーは、サーヴァント中最弱と言われるキャスターよりも更に低い能力値でも該当するクラスです。ただし、リーダーになるためには予知、予言、あるいはそれに類する能力か宝具を備えていなければならない」
「それで「予言者」ってわけか」
「ええ、過去の聖杯戦争では、リーダーのサーヴァントとしてあのノストラダムスが召喚されたこともあるそうです」
頷き、あっさりと言ってのけるセイバー。その言葉に士郎と凛──サーヴァントシステムをまだ理解しきっていない九郎はきょとんとしていた──が驚愕の表情を浮かべた。
「ノ、ノストラダムスって、あのノストラダムスか!? 知名度でいえば世界一有名な予言者じゃないか!」
「それじゃ、過去の聖杯戦争でリーダーのマスターは勝ち残ったの?」
「いいえ、そのときはリーダーのマスターが自分から動かなければならない状況を作り出し、拠点から離れたところで戦って倒したそうです。リーダーの能力はほぼ最弱と言っていいレベルですから、たとえ敵が襲撃してくることを予知していても対処しきれなかったのでしょう」
そう言って、セイバーは不意に視線を伏せた。
「ですが……その分、自分達の拠点に籠城したリーダーは、他のどんなサーヴァントよりも倒しにくい存在といえるでしょう。何しろどんな奇襲、奇策を考えても、全て読まれてしまうのですから」
哀しげ、というより悔しげに、セイバーは淡々と言葉を続ける。彼女はブリテンの偉大なる騎士王であり、その戦いにおいて敵の城を攻め落としたことも幾度となくあっただろう。それ故に、彼女は籠城する敵を倒すことの難しさを知り、自分達の手の内が読まれているということの危険さを熟知していた。
「けど……それじゃ、どうして今回のリーダーは、二人の襲撃を予知しておきながらむざむざ慎二を奪われたのかしら」
「それは、私にも分かりません。以前も言いましたが、私はキリツグとはほとんど会話らしい会話をしたことがないのです。リーダーの話についても、敵のクラスがリーダーである可能性が出てきたときにキリツグから聞かされただけですから」
首をかしげた凛の呟きに、セイバーは眉をひそめたまま顔を上げる。
「せめて、リーダーの真名が分かれば……」
「いや、それならもう見当がついてるぜ」
「へ……?」
唖然と、その場にいた全員が発言者を振り返る。あっさりとした、しかし驚くべきその発言は、湯飲みの茶をちゃっかり飲み干していた自称探偵、大十字九郎の口から放たれたものであった。
「本当ですか!?」
「ああ。サーヴァントってのは、召喚するマスターと何らかの繋がりのある奴が呼び出されるんだろ? マスターがあいつで、しかもクラスが予言者ってんなら、十中八九間違いない」
詰め寄ってくるセイバーに、九郎はある確信を抱いて、その名前をはっきりと口に出した。
「リーダーの名はネフレン=カ。かつてその行いゆえに歴史からその名を抹消され、閉じこめられた墓所の中でナイアーラットテップから予知の力を授けられた古代エジプトの「暗黒のファラオ<ブラック・ファラオ>」だ」
「兄さん、調子はどうですか?」
「ん……ああ、桜か」
その部屋──衛宮家に数多くある客間の一つ──に桜が顔を出すと、ちょうど慎二がベッドから降りたところだった。
「別に怪我してたわけじゃないんだ……衛宮はどうしてる?」
「居間で──遠坂先輩達と作戦会議中みたいです」
そういって、どこか困ったような苦笑を浮かべてみせる桜。彼女には、その輪に入ることが許されないから。
「ライダーには、姿を消してもらってます」
「そうか、ま、その方がいいだろうな」
頷いて、慎二は不意に桜の二の腕に手を伸ばした。
「あ……」
「動くな」
淡々と、以前とは対称的な口調で命じる慎二。そのまま無言で服の袖をまくし上げると、桜の腕──肘の少し下辺りに、奇妙な紋様を描く痣のようなものが現れていた。
それこそが、令呪──サーヴァントのマスターである証にして、最大三回の絶対命令権。そのうちの一つが光を失っているのは、慎二に貸し与えた令呪がセイバーによって破壊されているからだ。
すなわち、彼女こそがライダーの真のマスターなのである。
「あ、あの……」
「……ったく、これじゃ半袖着れないじゃないか」
苛立たしげ──否、何かを誤魔化すような──口調で愚痴をこぼし、慎二は桜の手を放した。
「桜、やっぱり衛宮に全部話した方が……」
「ッ、ダメです!」
刹那──言いかけた慎二を遮って、桜は彼女らしからぬ声をあげた。
「ごめんなさい。けど、それだけは許してください、兄さん」
「……分かったよ。おまえがそれでいいんなら」
肩をすくめ、桜の裾を戻してやる慎二。そして、
「ほら、行くぞ。僕は腹が減ってるんだ、ちゃんと僕の分も残してあるんだろうな」
桜の手を引っ張って、彼は苦々しげな思いを隠しながら居間へと向かった。
「で、そっちのは喰わないのか喰わないなら俺が喰うぞむしろ喰わせろ」
「いや、これは慎二の分……そもそも大十字、アレだけ喰ってまだ足りないのか?」
「なに言ってやがる、こんな美味いもん喰えるうちに喰っとかないと次いつ喰えるかわかんねえだろ」
「次って……一体、普段どんな食生活してるんだ」
「ふ、旅費だけで割とギリギリだったんでな。
いやぁ、海水って飲めないんだよねぇ」
「いや、そんな爽やかに言われても」
なぜか白い歯を輝かせながら言う九郎に、士郎はどっと疲れたような気がした。
「あんたら、いつまで漫才やってるのよ」
「まあ、シロウのご飯がおいしいのは確かですが」
ため息混じりの声は、凛とセイバーの主従である。ちなみにセイバーの食事の量は九郎と大差なかったりするが。
「なんか、妙に息が合ってるわよね、二人とも」
「へ?」
「そうか?」
不意に呟いた凛に、きょとんとして振り返る士郎と九郎。そのタイミングもほぼ同時で、凛は呆れたようにまたため息をついた。
「意外よね」
「いえ、分かる気がします」
と、凛の言葉に首を横に振ったのは、セイバーであった。
「シロウは剣を鍛えるもの、クロウは剣を握るもの──だから相性がいいのでしょう」
そう言ったセイバーは微かに笑みを浮かべ、どこか優しげな視線で二人の魔術師を見つめる。
「二人とも、その本質において「剣」の属性を帯びている。気が合うのは当然です」
「そう……まあ、セイバーがそう言うならそうなんでしょうね」
やや釈然としないながらも認めて、凛は頷いてみせた。そして、改めて二人に向き直り、
「それはそれとして、とりあえずそこの探偵、ちょっとウチまで付き合いなさい」
「は?」
呆気にとられたのは、無論、名指しされた九郎であった。
「手紙をね、渡されたのよ」
と、遠坂家の玄関の鍵を開けながら、凛は背後の九郎にそう言った。
「署名を見たときはさすがに驚いたわ。家の書庫に残ってた手紙とまったく同じ筆跡だったんだもの」
ドアを開ける。九郎を連れて我が家の敷居をまたぎながら、凛はポケットから封筒を取り出してみせた。それは、協会を訪ねた際にアーノルド=ラスキンから手渡された、あの手紙である。
「読める?」
「何とか…………キシュア=ゼルレッチ=シュバインオーグ?」
封筒の裏面にかかれた名前を読み上げて、九郎は数秒固まってから、まるで呆気にとられたようにぽかんと口を開いた。
「って、まさか、宝石の老人か?」
「他に誰がいるっていうのよ。私だって、まさか大師父から手紙が来るとは思わなかったわよ」
苛立たしげに言い放つ凛。その足はずかずかと廊下を進み、不意に──取っ手に南京錠の取り付けられた、古びた扉の前で立ち止まる。
「ホントは他の……それも魔術刻印も持たない黒魔術師なんかにみせたくはないけど、大師父の指示じゃ仕方ないわ」
言いながら、凛は手にした鍵で南京錠を開け、重々しいドアを一人で押し開けた。まるで何年も閉ざされたままになっていたかのような暗く淀んだ空気が、その向こうから流れ出てくる。
そこは、窓一つない一室に無造作に書架と本とが詰め込まれた、遠坂の秘技を封じた一室であった。
「ここが遠坂の大師父……キシュア=ゼルレッチ=シュバインオーグの書斎よ」
「……すげえな」
ようやく光を当てられた書斎を覗き込んで、九郎は感嘆の声をもらす。
「まるでミスカトニックの図書館だぜ」
「さすがにあそこほどの蔵書はないけどね」
言いながら自分も部屋に入り、書斎の隅に置いてあった机から電灯を手に取る凛。それで壁を照らすと、壁に縫いつけられた不細工なスイッチが見つかった。手を伸ばし、指でスイッチを弾く。同時に、書斎の中に薄ぼんやりとした光が宿った。
「本が光を嫌うから、光量を絞ってあるの。
宝石剣についての資料は、こっちにまとめてあるわ」
そう言って指さした先には、机の上に積まれた無数の本があった。大小様々で、触れれば崩れてしまいそうな古い資料から、比較的新しいメモ書きまで色々だ。
それらを慎重に手に取り、九郎は瞬く間に書物へ没頭していった。
「これが……」
薄闇の中で黒瞳がせわしなく動き、指先は決して本を傷めぬように、しかし素早くページを繰っていく。
「宝石剣自体が第二魔法ってことか? けど、この構成でどうやったら並列時空の壁が斬れるんだよ。いや、斬ってねえのか、元々魔術とは別次元の代物だから……にしたってデタラメだろこれ。シュリュズベリィ教授なら基本構造くらいは分かるんだろうが……まさか、作った当人も直感だけで組み上げたんじゃねえだろうな」
「……へぇ」
ぶつぶつと呟く九郎に、どこか感心したように目を細める凛。これまで、この青年にはどこかとぼけた探偵といった印象しか持っていなかったが、こうして見れば確かに彼も魔術師だ。
もっとも、魔法も根元も目指さない魔術師を魔術師と認めるのは、今でもしゃくであったが。
「どう、役に立ちそうかしら?」
「ああ、こっちも所々ブラックボックス化してるが、組み合わせれば幾つか解読できるところもあるはずだ」
頷き、不意に懐へ手をやる九郎。その手が取り出したのは、黄色く変色した古い紙片であった。
何度も折りたたまれたそれを、机の上に半分まで広げる。元は何かの図面を書き写したものであるらしい設計図には、所々に様々な書き込みが加えられていた。
「設計図? けど……何よこれ、所々虫食いだらけじゃない」
「まあな。何しろ、ただの魔導機関エンジンじゃないんでね」
訝しむ凛に、苦笑混じりに頷いてみせる九郎。その横顔を半眼で睨み付けて、凛は改めて問いを口に出した。
「これ、何なの?」
「切り札さ、俺の──いや、俺達の、な」
そう言って、九郎は宝石剣の資料を手にしたまま振り向き、どこか遠くを見据えるように淡々とその名を紡ぎ出す。
「獅子の心臓<コル・レオニス>──こいつは、その核となる銀鍵守護神機関の図面さ」
【クラス】リーダー(予言者)
【マスター】アンブローズ=デクスター
【真名】ネフレン=カ
【性別】男性
【属性】秩序・悪
筋力:D 魔力:B 耐久:D
幸運:E 敏捷:E 宝具:B
【クラス別能力】
陣地作成:B 自らに有利な拠点を作り上げる。
籠城戦を得意とするクラスのため、この能力を有する。
未来予知:A 技能・宝具とは別に、相対した敵の行動が最低三手先まで読めるほどの能力。
【技能】
魔力放出:C
魔力で肉体能力を強化。Cレベルでは持続時間が短い。
神性:D
邪神の化身とされるため、一応の神霊適性を持つ。
カリスマ:A
王(ファラオ)としてのカリスマに、邪神の加護による呪いじみた魅力が加わっている。
【宝具】
「暗黒のファラオの神殿<ファーン・オブ・ザ・ブラックファラオ>」
未来予知の法具。
法具そのものはネフレン=カが埋葬された地下の巨大墓地であり、リーダーはそれを一種の固有結界として使用していると思われる。
最大補足は一人以上だが、補足数を増やせば増やすほど予知の精度が下がる。
ランク:B
種別:対人法具
レンジ:???
最大補足:1〜?
その瞳に映る世界は灰色だった。
その足が歩む街は死街だった。
その耳に届く音は無音で、その口が紡ぐ言葉は虚無。
──体は闇でできていて、心は呪わしく白い。
産声は慟哭だ、赤子は誰も、世界を呪うために生まれてくる。
命は冥府に、魂は煉獄に。
光差す世界に、彼ら暗黒の住まう場所はない。
──故に亡者は、常に生者を呪うのだ。
「…………」
早朝、斜めに差し込む陽が縁側を染めていた。
九郎は衛宮家の居間に腰を下ろし、開封してしまった無銘祭祀書を開いている。この魔書は彼本来の“書”に次いで相性がいい。しかし、九郎の目は魔書の文字を追わず、眉をひそめて少女の背中を見つめていた。
その視線の先にいるのは、台所で朝食の準備をしている間桐桜。
ここ数日ばかり、九郎は図面を引くため衛宮家の土蔵を借りていた。本来なら遠坂家の書斎を使わせてもらいたいところだったのだが、凛が断固として許可しなかったのだ。とはいえ──空港から野宿とヒッチハイクを駆使して冬木市まで来たという──九郎には、他に図面を引けるような場所など心当たりがない。そこで、今は協力体制にあるのだからと、士郎が衛宮家の部屋を貸したのだ。
そうして、不穏な空気を漂わせながらも無事に過ぎた数日──九郎はようやく、間桐桜という少女を目にとめた。
「……どういうこった?」
静かに、口の中だけで呟きをもらす九郎。考え込むように顎に手を当て、もう片手で無銘祭祀書を閉じる。
分からない──だが、あの在り方はひどく奇妙だ。
(彼女だけじゃない)
そう、奇妙なのはもう一人いた。彼女と同じ姓の少年──彼女の兄。
人ならば在ってはならないものが在り、人ならざるならばなくてはならないものがない。
そのくせに、互いが互いに投影する理想。望む姿をどちらも振る舞いあっている。なぜだろう、アレは一片の染みもなくキレイなのに、ひどく苛立たしいものだ。
だって、アレは──
「まるで、家族ごっこじゃねえか」
淡々と、肩を落とした九郎はため息混じりにそう呟いた。
Fate / Sword & Sword
「士郎、ちょっといい?」
と、遠坂凛が言い出したのは、朝食を済ませて今日の予定を話し合っているときだった。
つい先日ようやく終業式が終わり、士郎達学生組は夏期休暇に入った。とはいえ、桜と慎二は部活にも顔を出さなければならないため今は不在だ。休ませることも考えたが、閉じこもっていてもよいことはないとの主張が通った。無論、霊体化したライダーを護衛につけてある。
「どうした遠坂、お茶のお代わりか?」
「あのね、私をなんだと思ってるのよ……考えたんだけど、一度アインツベルンの城を調べておかない?」
士郎の勘違いをあっさり受け流し、凛はそう提案した。
「イレギュラーありとはいえ、また聖杯戦争が始まったのよ、アインツベルンにも動きがあるかも知れないわ」
「確かに、行ってみる価値はありそうですね」
頷き、凛の言葉に賛同したのはセイバーである。
「今回の聖杯戦争はおそらくマキリとあのデクスターという男が発端となったものでしょうが、アインツベルンが無関係とは限りません」
「まあ、それでも素直に城に陣取るかどうかは分からないけど──アインツベルンの性格から言って、もしマスターが来てるならあそこにいると思うのよ」
アインツベルンについての資料でも思い返したのか、瞳を閉じながら人差し指を立てる凛。無論、士郎に異論があるはずもなかった。
「分かった、それじゃ俺と大十字で一度城を覗いてくる。大丈夫、危険だと思ったら無理せず逃げ帰ってくるから」
途中、いきなり険しくなる凛とセイバーの視線に苦笑しながら、士郎はそう請け合った。
「大十字もそれでいいか?」
「ん、俺はこの街に詳しくないからな、そっちに任せる」
そうして数十分後、二人の魔術師は、冬木市郊外の森へ向かって出発した。
体は闇でできていた。
逆しまに映った心がその心臓、姿<カタチ>は左右反転した剣。肉はなく、ただ虚像を結びて実となしたその体──。
故に贋作<フェイク>──決して真となることなく、だが真に劣ることもない故に真から逃れられぬ無様な偽物。
「……キャスター」
その虚ろ──漆黒を纏ったセイバーは、自らの創造主に呼びかけた。
「私は戦いに赴く」
淡々とした、しかし紛れもないセイバーの声。黒く鎧われた騎士は白い墓石に背を預け、手入れされていない雑草の上に腰を下ろしている。
「私が“私”でいられる時間が、思ったより少ないようだ。その前に……」
『……いいでしょう、好きになさい』
「そうさせてもらう」
念話での返答に、黒いセイバーは表情を動かさず頷いた。
──紛う事なきセイバーである自分と、
──決してセイバーとはなり得ない自分、
彼女の根幹は矛盾だらけだ。何が違うのか、何が足りないのか──あるいは、自分がただ一人の「セイバー」となれば、この矛盾は解消されるのだろうか。
「さあ──」
できることはただ一つ──“私”に挑むことのみ。
「否定(ころ)しあおう、“私”よ」
──御身も、私の存在を許すことなどできまい?──
郊外の森を奥へ入っていくと、結界に阻まれることもなくそこへ辿り着いた。
今はなき、白き少女の城。
かつて、士郎が己の理想と雌雄を決した場所。
「こりゃまた、綺麗に焼けてんな」
と、焼け落ちた城の跡を見回しながらそう言ったのは、九郎であった。
前回の聖杯戦争の際、この城はルーンの炎によって焼き尽くされている。もはや質実剛健たる城の面影はどこにもなく、ただその敷地後に焼けこげた地面とすすけた残骸が残るのみだ。
「あのときのまま、か。もしアインツベルンのマスターが来てるなら、ここも直ってるかと思ったんだけど」
「ま、とりあえず調べるだけ調べてみるか。ダウジングは得意分野だしな……衛宮、おまえはどうする?」
「……この近くに、ちょっとした集落みたいなのもあるんだ。俺はそっちを調べてみる」
そう言って、士郎はダウジングの準備を始める九郎に背を向けた。
──後悔しているわけではない。だが、あのとき焼け落ちたままの城跡を改めて前にすると、どうしても思い出してしまう少女の姿。
「……大十字、城の裏の方に、女の子の墓があるんだ」
気がつくと士郎は、背を向けたままそんなことを口にしていた。
「前の聖杯戦争で、マスターだった子だ。サーヴァントも一緒に眠ってる」
「……分かった」
背後で頷く気配。それでも士郎は振り返らず、暗い森の中へと歩き出した。
──救いたかったものがいて、救えなかったものがある。
──助けられなかった人達がいて、助けなかった自分がいる。
──二度と繰り返すまいと誓いながら、それでもなお指の間からこぼれていった命。
──なくしていったものがあって、
──落としていったものがある。
──拾いきれずに忘れ去っていくものは、数限りなく在るだろう。
それでも……拾いきれず、それでも忘れたくない少女が、あそこには眠っているのだ。
「……イリヤ」
ほんの数度出会い、ろくに知り合うこともできなかった少女の名を、士郎は呟いた。
その、瞬間──、
「ハイ。久しぶりね、シロウ」
まさか、それに応える声があろうとは。
「!」
愕然として我に返り、地面に落としていた視線をあげる士郎。見れば、いつの間にか彼は打ち捨てられた集落のような場所まで歩いてきていた。
物思いに耽っていて、気付かなかったらしい。いや、それよりも、
「イ……」
そこで、まるで士郎を待っていたかのように佇む白い姿は──!
「イリヤ、なのか?」
「ええ、見れば分かるでしょ?」
それは紛うことなく、士郎の目の前で命を落とした白い少女──イリヤスフィール=フォン=アインツベルンに他ならなかった。
ポケットからペンダントを取り出し、それを指先からつり下げる。
まるで振り子のようにゆらゆらと動く水晶は、いわば魔力探知機だ。もっぱら探偵業務では、バルザイの偃月刀よりもこっちの方が役に立つ場合が多い。
「にしても、ここも妙な場所だよな」
振り子の揺れを頼りに焼け跡を進みながら、九郎は不意にそんなことを呟く。
「残留する魔力の濃度が高いわりに、闇が少ねえ」
通常、魔力と闇の気配はほとんど同じものである。魔導は常に異界の闇から生まれ、外道の技を持って振るわれる──だが、九郎が感じるこの場の魔力は無色だった。
ここには、焼け跡に付き物の恨みや慟哭の念がない。これほど大きな建物が焼け落ちたというのに。
「……どんな奴が住んでたんだ、ここ」
並はずれて高い魔力を有しながら、その精神において純粋無垢。否、この世に欠片程度の執着も残さなかったというのなら、それは無垢というより──無意だ。
士郎の話では、ここは前聖杯戦争時にマスターが陣取っていた居城だったという。聖杯戦争は、願いを叶える杯を巡って魔導師達が殺し合う争奪戦のはずだ。だというのに、願いを残して現世を去った魂がその痕跡を残しもしないとはどういうことか。
(墓があるっていってたな)
振り子の揺れを見ながら、城跡を裏に回る九郎。日本だと火葬のはずだが、話を聞く限りおそらくそのまま埋めてあるだろう。他に反応らしい反応もない、やはり、ここ数ヶ月でこの場所へ足を踏み入れたものは──
「……何」
その瞬間、九郎はらしくもない唖然とした表情で、突如として足を止めていた。
そこが「墓」だったのだろう。
振り子代わりのペンダントは水平になり、あり得ない勢いで回転している。
「これは……」
前マスターの墓があったはずのその場所には、 まるで棺ごと掘り起こしたかのような巨大な縦穴が穿たれていたのだった。
「もう、相変わらずね、シロウは」
そう言ったイリヤの姿は、士郎の知る彼女と何も変わることがなかった。
綺麗な銀色の髪や白い肌、それどころか、季節が変わってしまった今では明らかに場違いな厚手のコートすら半年前のままだ。
「生涯で二度も聖杯戦争に巻き込まれるなんて、普通あり得ないわよ?」
「あ、ああ……」
クスクスと笑って言い放つイリヤに、ただ呆然と頷く士郎。その様子を見て、イリヤはもっと可笑しそうに笑う。
──あり得ないというならば、その少女の姿こそがあり得ないはず。
「にしても、マキリも思い切ったものね。あんなのと手を組んでまで聖杯を手に入れようとするなんて──ホント、馬鹿みたい」
かと思えばクルリと表情を変え、呆れたように肩をすくめてみせる。声が不快げなのは、決して演技ではあるまい。
「マキリもアインツベルンも、みんな勘違いしてるのよ。たとえ聖杯を使って「門」を開いたって、それをくぐれなければ意味がないんだから」
「え──?」
そんなワカラナイことを言ったイリヤに、士郎は呆気にとられたまま声を出した。まだ混乱したままで、思考が全然まとまらない。
「うん、シロウも知ってるでしょ? 聖杯は、本当はサーヴァント六体の魂を吸収して「門」を開くものだって。あれ、言ってなかったのかな? まあどっちでもいいわ。それがね、シロウ、かつてマキリ、アインツベルン、そしてトオサカによって作られた「聖杯戦争」の実体。要はていのいい隠れ蓑よ。
アインツベルンから失われ、そして今なお取り戻そうとしているそれを──第三魔法<ヘブンズフィール>っていうの。
でも、時の流れ以前にみんなが忘れちゃってることがある」
「イリヤ? 何を言って──」
「マキリは問題外よね、目的と手段を完全に取り違えるまでもうろくした老人に辿り着けるわけないわ。でも、トオサカでもきっと無理よ。あれは魔法に至る家系ではあっても、人以上になれる器じゃないもの」
クスクスと笑いながら、イリヤは士郎にワカラナイ言葉を続ける。
「ホント、馬鹿みたい。みんな門を開くことばかり考えて、肝心の、自分達がそこまで歩いていけるのかについてまるで思い至らないんだから。本当に「辿り着ける」人はね、シロウ──聖杯なんかなくったって、力尽くで門をこじ開けて進んでいってしまうものなのよ」
そう言って──イリヤは初めて、イリヤ以外の笑みを浮かべた。
「ねえシロウ──シロウは出会ったんでしょう? あの“神”に」
「!」
刹那、ぞくりと士郎の背筋を走り抜けた悪寒は、死の恐怖とはまるで違う種類のものであった。
「魔法は「 」に辿り着く手段でありながら、その魔法すら「 」に辿り着かないことには手に入れられない。魔術師はみんなそう──滑稽にも届かない場所へ手を伸ばすばかりで、目の前にあるはずの、その場所へ至る術に気がつかない」
「人間にはできないんじゃなく──
人間だから、できるのだもの」
淡々と、まるで詩を朗読するかのように言い放ったその言葉が、士郎には「イリヤでないもの」の声に聞こえた。その瞬間、
「──衛宮ぁぁぁぁぁっ! そいつから離れろ!!」
「!?」
突如として割り込んできた咆吼に、士郎は愕然として振り返る。そこには、見慣れた黒い偃月刀を手にして駆け寄ってくる、大十字九郎の姿があった。
「や──」
九郎の目は、ただ一直線に彼女を見ている。
土塊がえぐれるほどに強く地を蹴って、両手で握りしめた偃月刀は大きく振り上げられる。迷うことなく、止まることなく、九郎はイリヤに向けてその刃を振り下ろし──
「やめろぉぉぉぉっ!!」
瞬間、咄嗟に投影した干将莫耶で、士郎は九郎の偃月刀を受け止めていた。
「ッ──!」
いきなり割り込んだ士郎の姿に、九郎は思わず目を見開きながら足を止める。勢い余って士郎と激突し、二人は密着して鍔迫り合いの状態になった。
「衛宮!」
「やめろ大十字! 何のつもりだ!」
間近で睨み合い、同時に口を開く九郎と士郎。その後ろで、イリヤが小さく笑みを浮かべた。
「あーあ、見つかっちゃった。
シロウもやめた方がいいわよ、さすがに、相手が神様じゃ分が悪いもの」
「な……イリヤ、何を言ってるんだ」
混乱したまま視線を向けてくる士郎に、イリヤは不意にその笑みを消した。そして、まるで遠い過去でも思い返すように、手を胸の前で組んで瞳を閉じる。
「──御伽噺よ、シロウ。
運命に翻弄されながら神のシナリオを裏切り、理念でも理想でもないただの怒り──正しき怒りを胸にして憎悪の空に至り、無垢なる刃と偽りなき想いを手に邪悪を打ち払って、いと小さき人の身でありながら神様となった彼の物語。
彼は魔術師であって魔術師でなく、英雄であって英雄でなく、厳密には正義の味方ですらなかった。
つまるところ──彼はただの人間(だいじゅうじくろう)だった」
穏やかに、愛しげに、正しく狂った一つの愛を抱いて、彼女は物語を紡ぐ。
「──つまり、彼は一度神の座に辿り着いた人間なのさ。彼の運命は誰にも予測できない、なぜなら彼は「世界を紡ぐもの」だから、自分の歩む道も運命も、全て己の手で切り開き紡ぎ出してしまうものだから。だけど、心優しき彼の“戦友”は、自らを犠牲にして彼を彼に相応しい世界へと送り返したんだ。人として神となった人間(だいじゅうじくろう)に、人間(だいじゅうじくろう)としての生を歩ませるために──ああ、本当に久しぶりだね、大十字九郎君。忘れてはいないだろう──この“僕”のことをさ」
その声は、イリヤスフィール=フォン=アインツベルンのものではなかった。
「ああ、誰が忘れるか。忘れるもんかよ──“ナイア”ッ!」
──それは、あまりに純粋すぎるが故に、愛に似る──
「イリヤ──じゃない、のか?」
呆然と、両手に握った干将莫耶もおろして、士郎は少女を振り返った。
「どういうことなんだイリヤ、君はイリヤじゃないのか」
「いいえ、シロウ。確かに私はイリヤスフィール=フォン=アインツベルンよ」
士郎の問いに、首を横に振るイリヤ。その姿は、どこか哀しげですらあった。
「ずっと、私はバーサーカーと一緒に眠ってた。シロウなら分かってくれるよね? 私のバーサーカー──ヘラクレスよ」
「ああ」
そう言ったイリヤに、士郎は頷いてみせた。灰になった彼女のサーヴァントを彼女の死体とともに埋葬したのは、他ならぬ衛宮士郎と遠坂凛のふたりなのだ。
「衛宮、城の裏で掘り返された墓を見つけた。そいつがおまえの知ってる女の子の姿なら──それは死者の姿と肉体を使ってるってことだ」
「そう、それもYES。クロウの言ってることは正しいわ、シロウ。本来ならあり得ないことだけど、曲がりなりにも実体化した英霊の亡骸と一緒に埋葬されたからなのか、私(イリヤ)の死体には私の魂の残滓みたいなものが残っていたのよ。その中に“彼女”が入ってきて、支配した。
元々、私は生に未練なんてなかったもの。死体をどう使われようとかまわなかった。けど、私の魂の残滓は肉体に残っていたものだから、こうして“彼女”の中に在ることが許されてるの」
そして言葉を切り、イリヤは微かに笑う。もうどうしようもない、それは死者の笑みだった。
「だからね、シロウ
──私はイリヤスフィール=フォン=アインツベルンという名の、ただの亡霊に過ぎないの」
そう言ったイリヤの言葉は、まるで刃となって士郎を貫く幻視。
「そんな──イリヤ!」
「シロウ、私はただの魂の残滓よ。彼女に逆らうことなんてできないし、逆らおうという気もない」
「衛宮、どいてくれ」
士郎を押し退け、代わりに前に出たのは九郎だった。その手には変わらずバルザイの偃月刀が握られている。
「ああ、ひどいな九郎君。そんなに邪険にすることないじゃないか。せっかく、今回は君の好みに合わせてロリっ娘ボディにしたのにさ」
「外がどうなろうと中身がアンタじゃ変わんねえよ。
……その娘(こ)を使って何をするつもりか知らねえが、俺がいる限りアンタの好きにはさせねえ!」
「ふふ、君らしいね。でもいいのかい? 君の本来の“書”は封印されてしまっている。そっちの布陣はまがい物の魔導書七冊と、半人前の魔術使い──それで僕に戦いを挑むんだ?」
「ッ……!」
イリヤの口から放たれたイリヤでない声と嘲笑に、九郎と士郎が同時に息を呑んだ。
しかも──それだけでなく、白い少女は本来の声に戻って言葉を続ける。
「それに──生き返ったのは私だけじゃないんだよ、二人とも」
「何!?」
刹那、イリヤの言葉に応えるように、彼女の背後に突如として巨大な影が現れた。音もなく、気配もなく──一瞬で実体化してみせたその巨体を、士郎は確かに知っていた。
「まさか──バーサーカー!?」
「ッ、冗談だろオイ……」
愕然と声をもらす士郎に、さすがの九郎も口元を引きつらせていた。確かに、士郎達はイリヤの死体とともにバーサーカーの灰も埋葬していたらしい……だからといって、サーヴァントまで蘇生するなどと言うことがあり得るのか!?
「そうか、召喚──バーサーカーの灰を媒体に使って、もう一度召喚したんだな!」
「ご名答……だけど、やっぱり私のバーサーカーをもう一度呼び出すなんて無理だったみたい。まあ、私も“あの”バーサーカー以外のサーヴァントなんて御免だけど」
苦笑混じりにそう言い、現れた巨人の背後に隠れるイリヤ。それを護るかのように、闇色の巨人は前に出た。
確かに、それは士郎が知るバーサーカー<ヘラクレス>ではない。巨大であること、質実剛健たるその威容は同じものだが、全身を覆う岩石のような筋肉は見る影もなく痩せ細り、だが代わりに禍々しいまでの鬼気を纏っていた。顔(かんばせ)は驚くほど長い髪に隠れて見えず、体にはボロ布を巻いている。ただ一つ──その手に握られたごつい岩石の斧剣だけが、士郎の知るバーサーカーとの共通点だ。
サーヴァントはマスターに近しいものが呼ばれる──ならば、死者が召喚するサーヴァントは、当然「死」の属性を色濃く有したものでなければならない。
「ふざけやがって……何が英霊だ! こいつは100%掛け値なしの、生粋の亡者じゃねえか!」
そう叫んだのは九郎だ。しかし、士郎も内心では同じ叫びをあげていた。
バーサーカーは、理性を失う代わりに英霊の力を限界以上に引き出す狂戦士のクラスだ。本調子でないセイバーや、九郎が撃退したというアサシンなどとはわけが違う。士郎が知るバーサーカーはヘラクレスだけだが、この戦士も彼と同じ絶望的なまでの“死”の気配を纏っていた。魔術師とはいえ生身の人間が立ち向かえば、たちまち粉砕されて肉塊と変わるのみ。
「「せめてセイバー/アイツがいれば……」」
二人だけでこの森を訪れた愚行に、士郎と九郎が同時に違う名を呟いた。凛には「危なくなったら逃げる」などと言っておいたが、そもそもバーサーカーから逃げられるわけがない。
「……死者の気配がしたから駆けつけてみれば」
しかし、張りつめた沈黙の中に割り込んだ声は、その場にいた誰もが予想し得なかった人物のものであった。
「安らかに眠っていた死者の安息を妨げ、あまつさえ淑女(レディ)の身を冒涜するとは──人として、紳士として、見過ごせることではないな」
そう言って、彼──アーノルド=ラスキンの名を持つ魔術師は憮然とした表情のまま、なぜか廃墟の屋根の上に現れたのだった。