『コラ、シロウ。泣くな、泣くんじゃない』
『だ、だってお姉ちゃん』
『だってもクソもない。男なら泣くな!』
『みんなが僕のこと親なし、親なしだって』
『バカ! アメーバじゃあるまいし、親がいなくて私やお前が産まれるか。お父さんとお母さんは単に……ちょっと別のところへ行っちゃっただけだ』
『別のところって、どこ? いつ帰ってくるの?』
『うるさい!』
『ねえお父さんとお母さん、いつ帰ってくるの?』
『うるさい、うるさい!』
『ねえ、お姉ちゃん!』
『黙れ、黙れ!!』
『お姉ちゃん、痛い、痛いよ』
『……お父さんとお母さんはもう帰ってこない。…死んじゃったから』
『死んじゃった? 死ぬって何? お父さんとお母さん、もう帰ってこないの? もう抱っこしてくれないの? もうおんぶしてくれないの? もう一緒に買い物できないの? もう手つなげないの? もうご飯一緒に食べられないの? ねえ、ねえ、ねえ、お姉ちゃん』
『うるさい、うるさい、泣くな泣くな、泣くなって言っただろっ、シロウ! お前が泣くと私まで泣きたくなっちゃうじゃないか! コラ、男なら泣くな』
『僕が悪い子だったからお父さんとお母さんいなくなっちゃったの? 僕がいうこと聞かない悪い子だったから、二人とも…』
『バカ! そんなわけあるか! シロウは別に悪くもなんともない!』
『ホント?』
『ああ。だから、もう泣くな』
『…………うん。……お姉ちゃんは泣かないの?』
『私まで泣いたら泣き虫シロウがもっと泣き虫になるだろ』
『…僕泣き虫なんかじゃないよ』
『よく言うよ。よし、お姉ちゃんはねえ、シロウが強くなって泣き虫じゃなくなるまで泣かないって決めた!』
『ええー、何それー』
『お姉ちゃんが、お父さんとお母さんの代わりにシロウを守ってやるってこと』
『ええ、僕男だよー。僕がお姉ちゃんを守るんだよー』
『バーカ。お前に守られるほどお姉ちゃんは弱っちくないやい。お姉ちゃん、こう見えても剣道五段なんだからね』
『ええー、本当ー!?』
『ウソ』
『……』
『睨まない! ホラ』
『ん?』
『手だよ、手。もう家に帰ろう。おんぶや抱っこは無理だけど、手つなぐくらいは私でもできるだろ』
『うん!』
『ご飯も一緒に食べれる』
『うん、うん!』
『さあ、帰ろう、私たちの家へ』
『うん。……ねえ、お姉ちゃん』
『ん?』
『…お姉ちゃんはいなくならないでね』
『バカ』
そんな女の子の声が聞こえたかと思ったら、どこかで聴いた記憶のある女性ボーカリストの歌が聞こえてきた。どこか哀しげな雰囲気の漂うバラード。きっとエンディングなんだろう。今テレビ画面にはスタッフロールが流れ始めているんだと思う。
夕食後、いつもなら桜を送って一緒に帰ってしまうのに、桜が家に帰った後も藤ねえは衛宮家に残った。
しばらくグダグダしていたかと思ったら、九時になったら急にテレビに向かってダッシュしてチャンネルを回し始めた。
あ、例のアレか。なんか、最近藤ねえがはまっているっていうドラマ。
昔の士郎そっくりのシロウって子が出てくるのだー。かわいいんだからー。
なんて藤ねえが言ってたのを思い出す。
いくら藤ねえに見ろ見ろって言われても自分と同じ名前の子役が出てるドラマなんて恥ずかしくて見ようとも思わなかったけど。一回見て、何だよ、全然似ていないじゃないか、とテレビ画面に向かって文句を言ったので終わりだ。
俺は皿を洗い終わったあとも、特に急ぐでもない片付けや整理をしていて、なんでか台所にグズグズ残っていた。居間に行って藤ねえと一緒にテレビを見る気はしなかったし、かといって、部屋に戻りたい気分でもなかったのだ、…なぜか。
セイバーや遠坂はとっくに自分の部屋に戻っている。今居間にいるのは藤ねえだけで、居間と隣り合わせでつながっている台所にいる俺の耳には、なんだか藤ねえのグジグジ鼻水をすする音が聞こえてくる。
自己弁護のために言っておけば、俺はドラマのシロウほど泣き虫ではなかったはずだ。
…………でも藤ねえの目には違って見えていたのかもしれない。切嗣に貰われた直後の俺、そして切嗣が死んだ後の俺は確かに呆然自失としていたはずだから。
しかし、どっちかと言うとよく泣いていたのは藤ねえの方だったし、今だって涙腺の緩みがちな藤ねえは、俺の前でもよく泣く。泣くというよりは、むしろ泣きじゃくる、泣き喚く。ヨヨヨなんてありえない泣き声の演技100%の嘘泣きも含めて。
ティッシュをサッサッと二三枚まとめて取った音の後に、盛大に洟をかむ音が居間に響いた。チーン。全く。華も恥らう妙齢の女が立てる音ではない。
たく、いつまでたっても泣き虫なのは藤ねえの方じゃんか。
藤ねえは放っておけないな。
そう感じたことが俺はなぜか妙に嬉しくて、居間の方に行ってみる気になった。
居間に出てみると、テレビ画面は既に消えていて、藤ねえは畳の上にだらしなくうつぶせで寝っ転がっていた。スカートの裾が少し乱れている。
「藤ねえ、行儀悪いぞ」
「んー、別にいいじゃない。家の中なんだし。誰に見られてるわけでもないし」
「俺が見てる」
「士郎でしょ」
「まあな」
「……ねー、士郎ぉー」
「なんだ藤ねえ」
「……なんでもない」
「なんだそれ」
「……ねー、士郎ぉー」
「だから、なんだ、藤ねえ」
「士郎はさ、……私がいなくなっても大丈夫だったりする?」
瞬間、世界が爆ぜた。
「なんだよ、それ。藤ねえいなくなったりするのか?」
「んー、ちょっとご飯食べに来なくなったり、とか」
「食費が助かるな」
「朝ご飯も夕ご飯もだよ」
「ますます歓迎だ」
違う、違う。衛宮士郎は、こんなことを言いたいのではない。
「むー、おねえちゃん、そんなに大喰らいじゃないんだから。セイバーちゃんと一緒にしないでよね」
「何気にセイバーに失礼だぞ、藤ねえ」
「あんまり遊びに来れなくなっちゃったりして」
「家が静かになっていいな」
「士郎と遊んであげられなくなったり……」
「士郎『で』遊ぶの間違いだろ」
早く、早く。言わなくては、言わなくては。衛宮士郎にとって、藤村大河は欠かせない家族だってことを。早く、早く。この口で。
「……」
「……」
静けさを取り戻した居間は余りにも寒々しくて、静寂が耳に痛い。
藤ねえは相変わらずうつぶせなままなので、その表情はわからない。わからないけど、長年一緒にいるから機嫌がいいのか悪いのかくらいは雰囲気でわかる。座布団に顔を埋めて足を畳の上でバタバタばたつかせている藤ねえは、今これ以上はないってくらい不機嫌かつご立腹のご様子だ。
そして、俺も自分で自分の言った台詞やそんなことしか言えない自分の不甲斐なさなんかに腹を立てていた。気分は極めて悪い。胸の奥で気持ちの悪い蟲がジクジク動き回っている感じだ。
そして、そんな質問をしてきた藤ねえにも真に自分勝手なことだがムカツいてムカツいて仕様がなかった。
何だよ、藤ねえは藤ねえじゃないのかよ。朝夕、家に飯たかりに来ては勝手なことパーパー喋ったり、人のことおもちゃにしてみたり、人のうちの一番風呂(しかも桜や俺が風呂おけを洗い湯を沸かし入れたもの)に断りもなく入ったり、夜中に突然やってきたかと思うと、士郎ー、お腹すいたよー、なんか作ってー、なんて脳みそのぶっ飛んだ発言をする藤ねえ。
そういえば藤ねえは夜中に突然衛宮家に訪れて、眠っていた俺をたたき起こして、ね、士郎、ご飯つくって、美味しいご飯、なんてのたまうことがある。おねえちゃん、お腹ペコペコで死にそうなのー、って。
そんなとき俺は大抵残り物で炒飯を作ってやることにしている。といっても、残り物が材料だから、何ともパッとしない出来のボソボソした炒飯。
でも、それをすごい勢いで腹に収めたかと思うと、ふぅー、やっと人心地ついたよ、ホント士郎がいて良かった、士郎がいなかったら、おねえちゃん餓死しちゃってたかも、なんて言いながら藤ねえは微笑む。
俺は照れ隠しにそっぽを向いて、なんだよ、俺は藤ねえの専属コックじゃないぞ、とモゴモゴ口の中で言う。顔はどこかにやけている。
そうなのだー、士郎は私の専属コックなのだー、という高らかな宣言。気持ちのよいまでの断言。
……実はこういうことが起こるのは、大抵俺が何かでひどく落ち込んでいるときだったりする。正義の味方を目指すなんて言いながら、理想と現実の余りのギャップに卒倒したくなったような時。自分の無力さ、何も出来なさ加減に腹が立つというよりは哀しくなって呆れてしまうような時。それこそ絶望の挙句に希望を取り戻せなくなってしまいそうな時。
飯を食うだけ食うと、じゃ、おねえちゃん、もう帰るの面倒くさいから、ここで寝るね、と藤ねえは勝手知ったる他人の家、とっとと布団を敷くと数秒後にはもう寝息を立てていたりする。
その寝息を聞きながら、衛宮士郎はどこか気分が和らいでいるのをいつも感じる。
何が出来なくても、とりあえず俺は藤ねえに飯を作ってやることはできるな、なんて。んで、藤ねえはそれが嬉しい、と。藤ねえの専属コックさんか、それも悪くない。
俺が妙に料理に凝っている理由の一つは、ひょっとしたらそんなところにあるのかもしれない。
「士郎のご飯はわたしが食べるんだから、士郎、おねえちゃんにちゃんとご飯作ってね。わたし、食べるよ、士郎のご飯、ずっとずっと」
そう藤ねえは、いつまでも「藤ねえ」のはずだ。衛宮士郎にとって、それは既に決まったことだ、それが突然変わるなんて受け入れられない。
イヤだ、イヤだ。おねえちゃん、いなくなっちゃイヤだ。
僕の周りからは、みんないなくなる。お父さん、お母さん、新しいお父さん。みんな、みんな。みんな、みんな消えてしまう。いなくなっちゃう。
お父さん、消えた。お母さん、消えた。新しいお父さん、いなくなっちゃった。
おねえちゃんもいなくなるの?
おねえちゃんもいなくなっちゃうの?
……これは罰? あの灼熱の地獄を独り生き残った僕の罪?
怨嗟の声を聞きながら、嘆きの叫びを耳に焼き付けながら、ただただ生き残りたくて、どれだけの人が死んでいても、どれだけの苦しみがそこに横たわっていても、全部全部見ないようにして、見ないふりをして、目をつぶって、耳をふさいで、見捨てて見捨てて見捨てて、足は止めずに歩き続けて、そして生き残ってしまった僕への罰?
この僕が、こんな穏やかで幸せでいていいはずがない?
奪われる、きっと奪われる。みんないなくなる、きっとみんないなくなる。
それが僕の罪。それが僕への罰。
みんな、みんな。
衛宮士郎からいなくなる。衛宮士郎からいなくなる……。
「士郎!!!」
藤ねえの大声で我に帰った。
「ん、何だ、藤ねえか」
我ながら間抜けな声で間抜けなことを言うと思った。
心臓はバクバクと音を立ててその存在を主張している。いつのまにか額には汗が随分と流れていた。
「何よ、鳩が豆鉄砲食らったような顔して」
「それ、どんな顔だよ」
いつのまにか藤ねえは起き上がっていて、俺のすぐまん前に座っていた。
足を組みなおして体育座りになった藤ねえは、俺の顔から視線をそらせると庭を見ながら、
「じゃ、士郎は、私がいなくなっても平気なんだ」
と聞いてきた。
言わなくちゃ、言わなくちゃ。今言わなかったら、おねえちゃんもいなくなってしまう。また独りだ。また一人ぼっちだ。みんな、みんな消える。みんな、みんな僕をおいて行ってしまう。
おねえちゃん、おねえちゃん。
「ああ、ぜーんぜーん、平気。虎が一匹消えたって何も変わらん」
衛宮士郎は大バカだ。肝心なときに大事なことも大切な人に伝えられない。救いようの無い阿呆だ。
「そう」
虎と呼ばれたにも関わらず特にそれに憤ることもなく、藤ねえは、じゃ、私帰るね、と立ち上がった。衛宮士郎のことを見ることもなく。
あ、行ってしまう。もう帰ってこない。
なんでそんなことを思ってしまったのだろう。遠ざかっていく藤ねえの背中は、どこか泣いているみたいでとても切なかった。
でも、俺にできたのはその背中が遠ざかるのをただ呆然と眺めることだけで。
声は出ない。身体は動かない。心が凍る。時がその動きを止める。
チクタクチクタク。
それからどれくらい時間が経ったんだろうか。ボーンボーンと虚ろに時を刻む時計の音で俺はふと我に帰った。
いつのまにか深夜になっていた。周囲は漆黒の闇に包まれている。
暗く静かな居間にたたずんだままの俺の胸にはポッカリと穴の開いたような空虚感。それはいつまで経っても消えてくれる様子はなかった。
ふと人の気配を感じて顔を上げると、そこには遠坂が立っていた。
呆れたような顔をして、いや遠坂は心底呆れていたんだろうけど、全くしょうがないわね、士郎は、と言いながら俺の目の前に腰を下ろしてきた。
すると、ほら、泣いていいわよ、と言ったかと思うと、遠坂は俺の顔を腕に抱き止めると、そのまま胸に抱きよせた。
照れるもクソもない。ようやく出口を見つけた感情は、決壊したダムの奔流のように流れ出てきて爆発した。
暖かい遠坂の胸の感触を頬に感じながら、ただただ泣きつづけた。哀しくて哀しくて切なかった。胸を刺してくる寂しさは涙に形を変えて流れ続けた。
最後には遠坂のシャツを涙と鼻水でベトベトにしてしまったが、遠坂は、たく男なんていつまで経っても子供なんだから、と妙に嬉しそうに言うのだった。
やっぱり遠坂って、いい奴だ。