晴れ渡った冬空。学園の昼休み。
いつもより少し騒がしい教室。
喧騒に背を向けて、私は廊下からの会話に耳を澄ませている。
「遠坂」
「なによ、綾子」
「眉間にシワ」
あわてて指でほぐす。
「いやー、遠坂のこんな表情が見られるとは」
綾子は腕を組んでにやにやしている。
「仮面優等生と同じクラスっていうのもまんざらじゃないね」
一瞥する。
「おお、怖い怖い」
そう言いながらも綾子はそのにやにや笑いを消そうともしない。
廊下から声が聞こえてくる。
私は、それに、あわてて意識を戻す。
すぐ後ろでは、綾子と柳桐くんと慎二が話を続けている。
「いやはや、衛宮がこれほどまでにモテるとは知らなかった」
「彼奴の人間的魅力が全く正当に評価されているということだ。友人として溜飲が下がる」
「名の知れたお人好しだからさ。しかし、貰うたびにいちいち赤面するなんてね。小学生のほうがまだマシだ」
「それが衛宮のいいところさ。ところで、そういうアンタはどうなんだい。今年はずいぶん少ないじゃないか」
「ふむ、確かに間桐は去年はずいぶん貰っていた記憶があるが」
「朝、靴箱でずいぶん貰ったし、僕は衛宮と違ってふらふらしていないからね。放課後どこに居るか分かっているのに、わざわざ休み時間を使う必要はないだろう。去年くれたみんなには、放課後にしてくれるようお願いしてある」
「残念なことにアンタ目当ての部員が多いのは事実だからな。しかし、あいつがイイ男だってことに昔っから気が付いていたのは、アタシと桜くらいだったんだがなー」
「ぬかせ、美綴。貴様に衛宮はもったいない。いうまでもなく、そこの女狐にはとても釣り合わん」
「ま、衛宮みたいなお気楽の相手が務まるのは桜くらいなもんだろ。かりかりした女にはまず無理だね」
「うるっさい、三人とも。黙ってなさい」
廊下の会話がよく聞こえないでしょうが!
「おーい、仮面を付け忘れているぞー」
「八つ当たりするくらいしか出来ることがないのさ」
「ふん、本性を隠す余裕もないということか」
連中は続けて失礼なことを言ってくる。
だけど、今はそれどころじゃない。
こっそりと魔力で聴覚を増幅。
廊下で行われている会話の続きを、盗み聞きする。
綾子のセリフじゃないが、士郎がこれほどモテるとは思っていなかった。
油断はしなかったつもりなのだが、よもやこのようなことになるとは。
私の自惚れというか、侮りというか。
おそらくその両方が原因なのだろう。
肝心の、今日という日にこういう状態ということは、つまりそういうことなのだから。
おまけに、私の武器は遠坂家の厨房に置きっぱなし。
戦場に立つこともできずに。
朝からずっと不戦敗を続けている。
聖杯戦争が終わって、士郎は大きな成長をした、らしい。
一緒に登校した二月の朝。
校門で会った柳桐くんは、惚けたように士郎を見ていた。
我に返ると、真面目な顔で「親父の推薦で本山まで修行に行ってみないか」と言ってきた。
朝錬から教室に戻ってきた綾子は、士郎を見るなり、上から下まで視線で検分。
「衛宮、アタシと真面目に付き合ってみる気はない?」とせまってきた。
そのとき私は士郎の隣で、二人の反応を見ていた。
しかし、正直にいって、彼らがなぜそんな反応をするのか分からなかった。
士郎は英霊エミヤを乗り越えた。
結果として、いろいろなものを身に付け、内面も少し変化した。
それ変化に、二人は衝撃を受けたらしい。
でも、ずっとそばにいた私にしてみれば、それほどの変化とは考えられなかった。
確かに芯の通った人間になったが、危うい性格は以前と変わらず。
魔術はまだまだ未熟。
唯一使える固有結界だって、私からの魔力供給がなければ、起動すら出来ない。
だから、彼らの反応を訝しく思っていた。
士郎の学校での立ち振る舞いは、以前同様。
放課後になると、校内の備品を修理に赴き、困っている人が居れば手助けをする。
二人の異様ともいえる反応があったにもかかわらず、終業式まで、とくに評判になることもなかった。
だから、私はそのことを次第に忘れていった。
柳桐くんは生徒会長であり、教員からの信望も厚い。
また実家の関係で様々な人物と接している。
綾子は周囲から推されて弓道部部長になった。
それ以前も下級生や同級生の相談役をやっていたのを、よく見かけていた。
つまり、二人とも、私よりもはるかに多くの人物と、それなりの時間、接してきたのだ。
二人の人物観が私よりも劣るということは、まず、ない。
私はそれをちゃんと考えてみるべきだった。
しかし、私はそれを怠った。その理由は簡単。
まあ有体にいって、私は、油断しきっていたのだ。
士郎との関係に。
衛宮士郎という人物は、ずっと以前から学園内でそれなりに知られていた。
度外れて朴訥な、尋常でなく人の好い人物として。
どんな依頼でも、受諾さえすれば必ず解決してくれる万能トラブルバスターとして。
生徒会、各部活動のみならず、学園全体の備品代を半減させたという物品修理のエキスパートとして。
音に聞こえた料理上手として。
春休みを終える頃。
士郎の外見はずいぶんと変貌を遂げていた。
聖杯戦争を経験して精悍さを増した顔付き。
どんどん伸びていって、私が見上げるほどになった身長。
卒業後のために毎日英語と魔術を叩き込まれていたせいか、知的な光を放つ真っ直ぐな瞳。
欠かさない自身の鍛錬とセイバーと毎日行う訓練の成果で、鋼のように引き締まった筋肉質の身体。
これだけ揃っていれば、人気が出るのは当然だった。
春休み中のアルバイトか、あるいは学校での備品修理のときか。
日々絶えず研鑽を積んでいた士郎を、どこかで見かけた生徒がいたのだろう。
春休み中、静かな噂になっていたらしい。
新学期が始まってすぐの頃。
他のクラスの生徒や下級生が、頻繁に教室を覗き込んでいた。
そのときは気にもしなかった。
なにせ綾子や柳桐くん、慎二、加えて蒔寺に私という面子が揃っているクラスなのだ。
はっきりいって、私はモテる。
よくモテる。
とてもモテる。
男女を問わず、人気がある。
誰もが憧れる優等生足らんとして、時間を丁寧に積み重ねてきた。それは伊達じゃない。
綾子も、その面倒見の良さやさっぱりした性格からか、私ほどじゃないが人気がある。
慎二は聖杯戦争後、性格の優しい部分がよく見えるようになって、以前よりも好かれていた。
柳桐くんと蒔寺も、本人達が自覚していないだけで、それなりに羨望の的だ。
このクラスが人を集める要因は、これでもか、というくらい揃っている。
だからそのときは、まさか士郎が目当てとは思いもしなかった。
今年は女の子がずいぶん多いな、とか、士郎が声をかけられているのをみても、誰を呼んでくれと頼まれているのやら、くらいしか考えなかった。
今にして思えば。
士郎が声をかけられたとき、誰かを呼ぶために教室に戻ってくる回数よりも、戻ってこない回数のほうが多かったというのに。
三年生になっても衛宮士郎のやっていることは、相変わらず。
休み時間や放課後になると、学校の備品を片っ端から直してまわり、困っている人を見付けては手助けする。
以前と違っているのは、衛宮士郎が格段に格好良くなったということ。
ただそれだけ。
士郎の人気に一計を案じた春を過ぎ。
藤村先生たちと大騒ぎした夏が終わり。
セイバーや桜と旅行にいった秋を越えて。
やがて冬が訪れ。
私と士郎にとって、学園生活最後のバレンタインの日が来た。
冬晴れの朝。空には雲ひとつない。
いつものように士郎と一緒に登校する。
校門で柳桐くんを見付けた。
他校の女子生徒と話をしている。
制服から、新都にある高校だとわかった。
柳桐くんは私たちを見つけると、
「衛宮、こっちにきてくれ」
士郎を手招きしてそういった。
「俺?」
士郎が不思議そうな顔で私の隣を離れた。
柳桐くんは私の方をちらりと見る。挑発するような顔をしている。
なぜか、私が朝にやった致命的失敗を見抜かれているような気がした。
カチンとくる。
柳桐くんは「ま、頑張れ」と言ってやってきた士郎の肩を叩く。
嬉しそうに昇降口へ消えていった。
十分後。
真っ赤な顔で私の横に帰ってきた士郎の手にあったもの。
それは、いわゆる、バレンタインのチョコレートだった。
「見ろよ、遠坂の顔。朝からずっとあれだぜ。ふふん、いい気味だ」
「蒔、遠坂嬢も女だ。嫉妬に身を焦がすこともあろう」
「え、遠坂さん、嫉妬してるの?誰に?」
今度はこっちの三人組か。
「蒔、遠坂嬢に聞こえたみたいだが」
「いいんだよ、聞こえるようにいったんだから」
「ねえ、誰に嫉妬してるの?」
「蒔は以前、遠坂嬢を危険人物扱いしていなかったかな?」
「腹を立てるほど笑顔になるってのは、どう考えても危険人物だろ」
「ねえ、誰に嫉妬してるのー?」
「ふむ。だというのにその発言。蒔が既知外に刃物を持たせたがる人間だとは知らなかった」
氷室さん、その表現はちょっと。
「まああいつは、必要だから私のために死んでね、くらいは言うからな。そういうのに嫉妬される方は大変だ」
「ねえ、遠坂さんは、誰に嫉妬してるのー?」
こっちは忙しいのだが、放って置くといつまでも止まりそうにない。
席を立つ。
蒔寺のところまで歩いていく。
「わ、嫉妬に狂った女が来た」
「三の字、ちょっと向こうに行こう」
「えー、私、遠坂さんに聞きたいことがあるのー」
三枝さんが氷室さんに引きずられて教室から出ていく。
それを横目に笑顔を作って口を開く。
「蒔寺さん、さっきから、ずいぶんなお言葉ね。ちょっと相談があるのだけれど、今、よろしいかしら?」
「は、相談ですか。へえへえ、相談ね。ふーん、相談かー」
こいつ、私を昼食の肴にするつもりか。
ますます笑顔を素敵にする。
「ええ、相談です。それで、どう?今、よろしくて?」
にっこり。
「私はよろしいけど、果たしてそっちはどうなのかなー」
「どういうことかしら?」
「誰かさんが席に戻ってきたようだけど。昼休みは始まってまだ十分。あと何回呼ばれるのやら」
視線を士郎の席に移す。
また貰ってきたのか、あいつめ。
照れた顔をしている。
私以外から貰って喜んでいる。
ムカつく。
もらってきたチョコを袋にしまっている。
たくさん貰ったので、購買の袋に入れないとしまう場所がないのだ。
それが、さらにムカつく。
蒔寺を見逃す気は無い。
だけど、今は向こうが優先だ。
「そうね、相談はまた今度にしましょう。そのときには必ずお願いしますね」
「はいはい、とっとと行った行った」
蒔寺は、手をひらひらと追っ払うように振る。
「おーい、二人とも。終わったから早く戻ってこい。でないと見逃すぞー」
蒔寺はにやにや顔。
こっちを見たまま、廊下に向かって声をかける。
見てろ。後で必ずとっちめてやる。
「衛宮くん、よかったわね。文句はないけど、嬉しそうね」
「と、遠坂。え、ええと、これはだな」
士郎の顔が引きつる。
「それ、何個目かしら」
笑顔で話しかける。
「朝、校門で他校の生徒から一個と靴箱に二個の計三個」
柳桐くんが割り込んでくる。
「HR前に桜から一個と、一時間目の休み時間に一個」
続いて綾子。
「二時間目は二個。三時間目は一個。ま、衛宮だからそんなもんだろう」
これは慎二。
「そして昼休み現在、二個を受け取ってさらに記録を更新中というわけだ。校門では告白もされていたはずだし、友人として鼻が高い」
こいつ、余計なことを!
「なんと。やるじゃないか衛宮」
「へえ、衛宮もようやくそういう経験が出来たのか」
と、ちょっと待った。
「柳桐くん、あなたその場にいなかったのに何で知っているのかしら」
「愚かな。他校の生徒が校門にいるなら、生徒会長が相手をするほかあるまい。そのときに大体のことは聞いた」
「お、それじゃ、どこで衛宮を知ったのかも聞いた?」
これは美綴。私もそれは知っておきたい。
「うむ、当然。春休み、帰宅中に自転車のチェーンが外れたそうだ。夜も遅く、家は遠い。不安になっていたときに、通りかかったアルバイト帰りの衛宮が、指を油で黒くしながらも直してくれた。以来一途に心に想っていたが、もうすぐ卒業ということを知り、勇気を振り絞って来たそうだ。誰かと違って健気なことこの上ない」
腕組みをして、うんうん、と頷く。
「うひゃー、まるで少女漫画だね」
「なんだ、お人好しがたまたま通っただけの話か。ま、衛宮だしな」
なんだそれは。そんなことで――――――
「衛宮。おなごが呼んでおるぞ」
――――――またか!
そうなのだ。士郎にチョコを渡す連中がずいぶんといる。
一学期の試験休み。
私はセイバーと一緒に策を講じた。
士郎の近くには私とセイバーがいる、ということ。
士郎は二人のお気に入りであること。
これらを周囲に知らしめたのだ。
その結果、士郎にアプローチしてくる連中は大人しくなった。
少なくとも、表面上はいなくなった。
以来、たしかに私は、それらしいことを表立ってしてこなかった。
それでも登下校は一緒だし、衛宮士郎と遠坂凛は仲が良い、ということを私は否定しなかった。
だから卒業までは乗り切れると思っていた。
ところが、もうすぐ卒業するとか、私が卒業後にロンドンに行くとか、士郎の進路はいまだ不定ということになっているとか、いわゆる状況の後押しというやつが予想以上に効果を発揮したらしい。
士郎は朝から、呼び出されてはチョコを手に戻ってくる、という行動を繰り返している。
チョコ袋に今貰ってきたばかりのものを入れている。ムカツク。
そんな士郎を見下ろして、私は特上の笑顔を作る。
「衛宮くん、そうやっていちいち受け取りに行っていたら、ご飯を食べる時間がなくなってしまうでしょう。幸い、衛宮くんはお弁当なんだから、後は柳桐くんや美綴さんに任せて、屋上とか人がこない場所でお弁当を食べたほうがいいと思うわよ?」
にっこり。もちろんこれは「屋上に来い」という意味だ。
……なんか今日はこんなことばかりしているような気がする。
二月の屋上なんて寒いだけ。
だが、私たちは、寒さから逃れられる場所を知っている。今の私はそんなものがなくても全然問題ないだろうけど。
とにかく、士郎をここに置いておくわけにはいけない。
話も出来ないし。
「う、うん、そうだな。わかった。そうする」
士郎は人形のように頷く。
お弁当を鞄から取り出して立ち上がる。
「それじゃ、一成、美綴。すまないけど、後、頼む」
「あんまり衛宮をいじめるなよ、遠坂」
「おのれ女狐、いつまでも衛宮を拘束できると思うなよ」
「やれやれ、なんで衛宮が弁当って知っているかは聞かないでおくよ。僕って優しいねえ」
なんで三人が三人とも士郎に返事しないで私に言うのだ。
私は士郎とちょっとした話をしたいだけ。
それだけだってば。
屋上。給水塔の陰。
聖杯戦争以来なじみになった場所。
空には雲ひとつない。きっと今夜は星が綺麗に見えることだろう。
身体を寄せ合って、昼ごはんを広げる。
士郎はお弁当、私は購買で買ってきたパン。
いつもなら士郎に買ってきてもらう。
今日は、自分で買いに行った。
士郎を買いに行かせたら、きっと余計なものまで持ち帰ってくる。
廊下ではなぜか皆が道を譲ってくれた。
混雑していた購買では、どういうわけか待たずに買えた。
…………ふん。
士郎のお弁当をつまみながら、パンをかじる。
「まったく、呼び出されてはほいほいと出て行っちゃってさ」
「なんだよ。呼ばれたんだから行かないと悪いだろ」
「そうなんだけど。別に渡すのは柳桐くんや綾子でもいいじゃない」
「俺が呼ばれたのに、他人を行かせる方がおかしいだろ。それに、ほとんどは一成や美綴に渡してくれって頼まれたんだぞ。あとは慎二か。相変わらず、あいつモテるんだな」
こいつ、建前とか駆け引きっていうものを知らないのか。
知らないわね。
そういうやつだ。
「ふーん。一緒に貰っていたアンタの分、あれはなんだったのかしら?」
「あ、あれは助けたお礼だっていうから。せっかく持ってきてくれたのに、突っ返すのもなんだし」
「そうね。お礼よね。この間は助けてくれてありがとうございました、とか言ってたしね」
「そうだって。特に深い意味なんてないよ」
「じゃあその後の、私とお付き合いしてください、っていうのもお礼のうちなんだ」
「き、聞いていたのか、遠坂!」
「別に。勝手に聴こえてきただけよ。すぐそこの廊下なんだもの」
本当は魔術で聴覚を増幅して聞いていた。
「良かったじゃない、人助けの成果が目に見えてさ」
「い、いや、俺はそういうつもりでやっていたわけじゃなくて」
「ふーん。そうなんだ」
そんなことは知っている。
士郎が悪いわけではないことも、頭では理解している。
でも、止まらない。
「そういえば、チョコレート貰ったときに、ずいぶん告白されてたわね」
「い、いきなりなに言い出すんだ、おまえ」
「ずっと前から見てましたー、助けてもらって嬉しかったんですー、部の備品を修理してくれたときから憧れていたんですー」
そのときの相手の口調を真似して言ってやる。
「な」
「これ読んでください私の気持ちですー」
「な、な」
「携帯番号です連絡くださいねー、とかもあったわね」
「なんでそこまで知ってるんだ、遠坂!」
「別に。勝手に聴こえてきただけよ。すぐそこの廊下なんだもの」
本当は、必死に聞き取ろうとしていた。
いったい何時から、遠坂凛はこんな狭量で厭味な女になったのだろう。
自己嫌悪する。
「で、モテモテの衛宮くんは、どうするのかな?選り取り見取りよね。うらやましいこと」
「そんな、選り取り見取りもないだろ」
「あら、もう決めたの?選択肢は多ければ多いほどいいのよ?」
「だって俺は、遠坂がいれば、それでいいから」
「――――――。そ、そう」
今の言葉で、全部許す気になった。
他人の好意に気が付かない士郎の朴訥さも。
私の気持ちに気が付かない鈍感さも。
まったく、私は惚れた相手にはこんなに甘い人間だったのか。
隣を盗み見ると、自分の言葉で赤くなっている士郎と目が合った。
あわてて目をそらす。
きっと私も同じくらい赤くなってる。こんなにも頬が熱い。
「…………」
「…………」
二人して、無言で昼食をつつく。
空のお弁当箱をしまいながら、士郎が言った。
「遠坂が嫌なら、断るよ」
「受け取りなさいよ。気持ちなんだから」
「遠坂はそれでいいのか?」
「……別にいいけど。」
よくないけど。
でも、士郎が評価されているのだから、と納得する。
した。
したってば。
……誰に言っているんだろう、私は。
屋上から教室に戻る。教室は暖房が効いていて暖かい。
士郎の机には、荷物があった。
綾子の字で書かれた「記録更新!」というメモと、三個のチョコレート。
屋上では許そうと思ったが、実物を見て気が変わった。
やっぱり許さないことにしよう。
「それじゃ遠坂、セイバーと買い物いってくるから、留守番よろしくな」
「はいはい、いってらっしゃーい」
士郎が出かけたのを確認。
頭を抱えて、他人の目とか士郎とかが理由で出来なかった反省をする。
本来なら私が、今日最初に士郎にチョコレートを渡すはずだったのに。
ところが、肝心のところで失敗する遠坂の伝統が遺憾なく発揮された結果。
私はせっかく作ったチョコレートを、遠坂家の厨房に忘れてきたのだった。
「――――――無い」
朝、衛宮家の玄関を出たところで、私は愕然としていた。
鞄をいくら探っても、無い。
三日前から、セイバーに隠れて作っていたチョコレートが入っていない。
昨日、確かにラッピングしておいたチョコレートが入っていない。
今日という日のために、作ったチョコレートが入っていない。
「遠坂、どうしたんだ?遅刻するぞ」
士郎がいぶかしげに声をかける。
「ちょ、ちょっと待ってて」
思い出せ、ここに来る前、朝の行動を思い出せ。
えーと、寝過ごして、あわてて着替えて。
チョコレートを、しまっていた場所から厨房の机の上に出した。
うん、ここまではオーケー。
それで、どうしたんだっけ。
玄関で靴を履いて、鞄の中身をチェック。
鍵をかけて、家を飛び出してきた。
「――――――あ」
机の上のものを鞄に入れずに。
昨日の夕食時。
桜と士郎の会話。
流し聞いていた内容から、今朝は桜が来ないことを私は知っていた。
おそらく、夜に間桐家でチョコ作り。
朝、校門なり靴箱で士郎に会ったときに渡すつもりなんだろう。
しかし、いくら相手が桜といえども、一番というのは譲れない。
こっちはすでに作成を終えている。
後はラッピングをするばかり。
幸いというかなんというか、最強の相手のスターティンググリッドは後方にある。
セイバーはこういうことには疎いが、念のため秘密にしてある。
作成状況を知るものは私以外にはいない。
この勝負、勝った!
はずであったのだが。
結局、私は、士郎が私以外からチョコを受け取る光景を、ただただ指をくわえて見ている事しか出来なかった。
士郎は、残りの休み時間に一個、放課後にやっているいつもの備品修理中に一個、校門で一個のチョコを受け取った。
下校の途中ではぴりぴりした私がずっと隣にいたせいか、渡そうという人物は現れなかった。
朝、衛宮家を出てから再び帰ってくるまでに士郎が獲得したチョコの数は、合計で十七個にもなった。
「さて、どうしよう」
士郎はセイバーと買い物に出ている。
帰ってくる前に、なんとかしないと。
もうじき桜が部活から帰ってくるはず。
そうしたら桜に留守番を任せて、遠坂家まで走って取りに行ける。
途中の坂道がつらい
だけど、私の足なら、士郎が買い物から帰ってくる前になんとか帰ってこられるだろう。
よし、そうしよう。桜、早く帰ってこーい。
時計のカチカチという音を背景にじっと待つ。
留守番を頼まれたからには、勝手に出かけるのはまずい。
こんな状況だが、士郎との約束はなるべく破りたくない。
だから、桜が帰ってくるまで待つ。
一秒が長い。
一分が長い。
壊れていないのは分かっているんだけど、言わなきゃ収まらない。
「もう!この時計壊れているんじゃないの!」
言ったけど収まらなかった。
秒針を見つめる。
まだか。
桜、早く。お願いだから。
秒針の刻みが遅い。
外出する用意は出来ている。
じりじりとしながらじっと待つ。
玄関を開ける音がした。
「ただいまー」
よし、桜が帰ってきた。
士郎が出かけてから、まだ二十分ほど。
これなら間に合う。取りにいける。
「お邪魔しまーす」
「お邪魔いたします」
桜が友達を連れてきたのかな?
でもあの子、そんなに仲の良い友達いなかったような。
それにどこかで聞いた声だった気がする。
まあ、いい。
玄関に走る。今ならまだ間に合う――――――
「やあ遠坂、また会ったね」
「き、きさま、なぜ私服でここにいる!?」
綾子と柳桐くんがいた。
――――――間に合わないかも。
湯呑みを手にして居間に座る。
表面上は落ち着いて、しかし内面ではこれ以上ないくらいに焦っている。
綾子の目の前で取りに行くわけにはいかない。
綾子はこういうことには鼻が利く。
走って帰ってきて、手に持ったものを見たら、一発で事情を察するだろう。
それに加えて、柳桐くんもいる。
こいつらには絶対に弱みをみせるわけにはいかない。
何気ない会話を続ける。
頭の中はフル回転。
なんとか見付からないように取りに行く方法を必死に考える。
士郎が買い物から帰ってくる前。
それまでに、なんとかして、どうにかして、取ってこなければいけない。
だというのに、時間は無常に過ぎていって。
「ただいまー」
「ただいま帰りました」
士郎とセイバーが帰ってきてしまった。
「やあ衛宮、また会ったね」
「お邪魔している。今日は急に悪かったな」
「……お帰り」
「おう、いらっしゃい。今夜は鍋だぞ。って、どうしたんだ、遠坂?」
士郎を恨むのは理不尽だと分かっている。でも、恨めしい。
セイバーは買ってきた荷物を冷蔵庫にしまっている。
綾子は、荷物をしまい終わるのを見計らって、セイバーを呼ぶ。
鞄からコンビニの袋を取り出して渡す。
「はい、セイバー。これ、預かっていたもの」
「ありがとう、アヤコ。このお礼はいつか必ず」
「ほう、それがそうか。美綴、出来の方はどうなんだ」
「もうばっちり。最後はうちの母さんまで協力しちゃってさー」
「なるほど、それはよかった。おかげで肩の荷が下りた」
綾子と柳桐くんが、声を合わせて笑う。
気になる。
「セイバーさん、なんですか、それ」
桜も気になったのか、袋を覗き込む。
「あ!」
セイバーは、あわてて袋を背中に隠す。
そのまま壁際まで一気に後退。
「え、え、えーと、これはですね」
あからさまにうろたえている。
なんかあやしい。
「セイバー?」
「おっと、遠坂。今はまだ秘密だ。桜も、後で教えるから、今は我慢してくれ」
「そう、後で分かる。だから今は大人しくしておれ、遠坂」
セイバーに近付こうとしたら、綾子と柳桐くんに止められた。
なんなんだ、いったい。
そんなこんなで。
遠坂家に取りに行く機会がないまま時間は過ぎていき。
「ただいま帰ったよー、と。んんー、お客さんがいるのかなー?」
藤村先生まで帰ってきてしまった。
「あら、いらっしゃい」
まるで自分の家に来たかのように、柳桐くんと綾子に声をかける。
「お邪魔しています」
「お邪魔しています」
お茶を片手に座った藤村先生と入れ替わるように、士郎が席を立つ。
「さて、それじゃ晩ご飯作るか」
「先輩、お手伝いします」
桜も立ち上がる。
これでようやく二人が帰る。ちょっと遅くなったが、いいだろう。
私が美綴を送っていく
その帰り道で遠坂家からチョコをとってくる。
遠坂家に寄り道しても、晩ご飯の前には帰ってこられるはずだ。
「うむ、期待しているぞ」
「衛宮と桜が作るんなら大丈夫でしょ。楽しみだね」
……何を言っているのか、この二人は。
「ちょっと来なさい」
「いて、いて。手を離せ」
士郎の耳をつかむ。
廊下に引っ張っていく。
「なんだよ、遠坂。まだ晩ご飯の準備が途中なんだが」
「なんで、柳桐くんと綾子がまだ残っているのか、説明しなさい」
「あれ、言ってなかったっけ」
「聞いてないわよ。説明しなさい!」
肩をつかんでゆする。
「ちょ、とお、さか、やめ」
「いますぐ!説明!しなさい!」
「なんか、きゅ、急に、今日、来、たい、って」
「ちゃんとしゃべりなさいよ!」
「なら、ゆ、ゆす、るんじゃ、ない」
「はやく、言え!」
「手、手を、離、し」
まだ言わない気か、この――――――
「遠坂さん、必死ねー」
「遠坂、必死だな」
「リン、必死ですね」
「うむ、必死だ」
「遠坂先輩、必死なんですね」
――――――居間の面々が首を突き出してこっちを見ている。
あわてて手を離した。士郎ががっくりと廊下にへたり込む。
「んん、ごほん」
とりあえず、咳払い。
「遠坂さん、誤魔化す気ね」
「遠坂、誤魔化す気だな」
「リン、誤魔化す気ですね」
「うむ、誤魔化す気だ」
「遠坂先輩、誤魔化す気なんですね」
あ、あいつら。
「な、なあ、遠坂」
首を押さた士郎が、私を見上げて言う。
「なによ」
いけない。
自分でも驚くくらい不機嫌な声がでた。
「遠坂さん、その言い方はどうかと思うなー」
「遠坂、自分でやっておいてそれはないだろ」
「リン、その態度は理不尽です」
「うむ、化けの皮がはがれたな」
「遠坂先輩、それはちょっと」
居間の方を睨み付ける。
ちっ、すばやい。
すでにみんな首を引っ込めた後だった。
「なあ、遠坂」
「なにかしら、衛宮くん」
ああ、いけないと分かっているのに不機嫌な声が隠せない。
「とりあえず、晩ご飯作りながら説明するんじゃ、駄目かな」
「つまり、急に来るって言い出したってこと?」
晩ご飯を作っている士郎の脇。
私は腕組みをして立っている。
手伝う、といっていたのに、桜は近付いてこない。
「生徒会の用事を片付けて帰ろうとしたら、一成が、美綴の部活が終わったら一緒に顔を出すって言い出してさ。なんでか知らないけど、飯代出すからついでに晩ご飯も一緒させてくれって」
それで買い物に行っていたのか。
だが、それよりも、確認しておかないといけないことがある。
「じゃあ晩ご飯を食べたら、帰るのね?泊まらないのね?」
「そりゃ帰るだろ。それとも、帰ったらまずいのか」
「え、ううん、その逆。帰ってくれないとまずい」
「よくわかんないけど、ま、そういうことで晩ご飯一緒だから」
いいよな、といって士郎は鍋掴みをはめて鍋を食卓に持っていく。
事後承諾をとったつもりらしいけど、よくない。
全然よくない。
けど、おなかが減っているから我慢する。
「できたぞー」
「相変わらず、たいした料理を作るねえ」
「や、ご馳走になる」
「おおー、鍋だー」
「今日もおいしそうですね」
「それじゃ、私はご飯をつけますね」
藤村先生とセイバーは目をきらきらさせている。
鍋から片時も離さない。
なんというか、素直な人たちだ。
私がこんなに苦悩しているというのに。
晩ご飯が終わった。
お茶を飲んで一息つく。
士郎は洗い物をしている。
今日の晩ご飯は、にぎやかだった。
綾子は、さりげなく何杯もご飯をお代わりするセイバーに、目を丸くしていた。
桜は、なにかと鍋を独り占めしようとする藤村先生を、牽制。
私は私で、士郎に何かを頼むたびに出てくる柳桐くんの小言を、丁寧に粉砕してまわっていた。
私は基本的に静かに食事をするのを好む。
だけどたまには、こういうのもいいかもしれない。
一番騒いでいた藤村先生は、今はテレビを見て笑っている。
時刻はもうすぐ九時。
柳桐くんと綾子は動かない。
晩ご飯は終わっている
二人は、何かを待っているかのように、時折お茶を飲むだけ。
いつまで居るつもりなんだ。
こいつらが帰らないと、遠坂の家に取りにいけないのに。
今日があと三時間で終わる。あと三時間しかない。
「あ、忘れてた。士郎、士郎ー」
「なんだよ、藤ねえ。まだ洗い物してるんだぞ」
エプロンで手を拭きながら士郎が台所から出てきた。
「ふっふっふ、いつもおいしいものを食べさせてくれる士郎に、私からプレゼントがありまーす」
そういって藤村先生はポッキーを取り出し、士郎に渡す。
「はい、士郎。ホワイトデー、よろしくねー」
「はあ、藤ねえはまたポッキーか。これでよくホワイトデーの催促をしてくるな」
「それでも毎回ちゃんとお返ししてくれるんだから、士郎ってばカワイイやつよねー」
士郎の頭を、ぐりぐりとなで回す。
「セイバーさん」
「セイバー」
柳桐くんと綾子がなにかを促した。
セイバーは二人に頷きを返す。
心を静めるかのように、胸に手を当てる。
綾子から渡された袋を取ってくる。
きちんと正座。
士郎を呼ぶ。
「シ、シロウ。ちょっと、いいですか」
顔がどことなく赤くなっている。
……もしかして。いや、でも、まさか。
「なに、セイバー」
セイバーは深呼吸。
「こ、これをシロウに」
「――――――」
驚いた。桜も驚いている。
セイバーが士郎に差し出したもの。
紛れも無い、バレンタイン・チョコレートだった。
白い袋の口を青いリボンで締めてある。
袋には、close to you とエンボス加工。
「おおー、セイバーちゃん、もしかして手作り?」
「はい。初めてなので、苦労しました」
そんな、でも、何時の間に作ったんだろう。
衛宮の家はもちろん、遠坂の家の厨房でも作っていた気配はなかった。
「ええと、セイバー、俺にくれるの?」
士郎がセイバーの正面に座りながら聞いた。
「はい。バレンタインデーには感謝の気持ちをこめてチョコを贈ると聞きました。手作りなら、いっそう喜ばれるとも。シロウにはいつもおいしいご飯を食べさせてもらっていますし、私は誓いを果たすためにも、その、ずっと、シロウのそばに居るのですから。今後とも、どうかよろしくお願いします」
ずっと、の部分でセイバーはますます赤くなる。
両手で、ずい、とチョコレートを士郎に差し出す。
「ありがとう、セイバー。こちらこそよろしくね」
士郎が両手でそれを受け取ると、
「はい」
そういって、セイバーは赤くなった顔で笑った。
「セイバー、どこで作ったの?というか、誰に作り方聞いたの?」
桜はさっきの表情から察するに、知らなかったようだ。
藤村先生も知らなかった。
私も知らなかった。
衛宮家でも遠坂家でも、セイバーがチョコを作っている気配はなかった。
でもセイバーのそれは明らかに手作り。
一体、誰が――――――?
「イッセイに相談したところ、アヤコを紹介してくれました。アヤコには、この一週間もの間、いろいろとお世話になりました」
――――――なんだと。
今までそんなこと、一言も言わなかったじゃないか、こいつら。
「説明、してくれるわよね」
そ知らぬ顔でお茶をすすっている柳桐くんと、やたらとにこやかな綾子をにらむ。
柳桐くんが湯飲みを置く。
「ふむ、ちょっと前の夕方、買い物をしていたセイバーさんに会ってな。そのときにバレンタインとはどういうものか、と聞かれたのだ。説明したところ、衛宮に贈ったほうが良いか、という話になった。貴様からならともかく、セイバーさんからならば、衛宮も嬉しかろう。どうせなら手作りで、ということで学校まで戻って部活帰りの美綴を捕まえ、セイバーさんを紹介した。俺に作り方はわからんからな」
その後を綾子が引き取る。
「アタシとしては、紹介されたからにはきっちりやりたい。んで、うちのキッチンを貸して、指導したわけだ。セイバーは昼間は身体が空いているっていうから、セイバーなら悪いことはしないだろうし、うちの鍵渡してさ。昼間にセイバーが作ったのを、アタシがその日の夜に採点して、その結果とアドバイスを紙に書いてキッチンに置いておく。昼間にセイバーはまたやってきて、それを元に改良するって寸法でね」
なるほど、それで遠坂家でも衛宮家でも気配がしなかったのか。でも。
「なんで秘密にしていたの。教えてくれても害はないでしょう」
「それが、アヤコもアヤコの母上も、秘密にした方が効果があるから、と」
「アヤコの母上?」
「はい。一週間のうちの後三日は、アヤコの母上にも指導していただいきました。アヤコの父上との馴れ初め話などは、その、いろいろと参考になりました」
母上って、母親よね。
って、なんなんだ、その協力体制は。
「だって、昼間にうちに来るんだから、顔を合わせないわけにはいかないでしょう。第一、セイバーに鍵を渡したのって母さんだからね。セイバーが鍵を返すときなんか、返さなくていいからうちの娘にならない?とかいいだしちゃってさ」
「協力した身として、その成果を是非とも確認したかったのでな。そこで今日、こうして訪問したわけなのだが、いや、うまくいってよかったよかった」
そういって綾子と柳桐くんは、声を合わせてかんらかんらと笑いやがった。
そうか。そういうことか。二人の共同作戦だったのか。
心の中の怨み帳に太字で記録しておく。
これで、今日、士郎にチョコを渡していないのは、私だけ。
確かにミスをしたのは私。
だけど、ここまで付け込む事ないじゃないか。
朝からの出来事を思い出す。
気分が沈む。
自分にイラつく。
くそ。
不機嫌な顔の私を気にしたのか、セイバーが申し訳なさそうに言ってきた。
「あの、リン。黙っていたことは謝ります。しかし、私は」
違う。セイバーは悪くない。
手を振ってセイバーの言葉をさえぎる。
「いいのいいの。そうよね、セイバーだって女の子だもん。私は別にそういうことで怒っているんじゃない」
私だってセイバーに秘密にしていたのだ。
責める気は全くない。
ただ、自分の間抜けさに怒っているだけ。
「ですが、リン……」
「んんー?そこまで言うってことは、セイバーは士郎に渡したことを後悔しているのかなー?軽い気持ちであげただけなのに予想外に喜ばれちゃって困惑してるとか」
「な、そんなことはありません!私は軽い気持ちでシロウに贈ったわけではなく、日頃の感謝の気持ちを込めて」
「ならいいじゃない。士郎のために頑張ったんでしょう。堂々としてなさいよ」
「……わかりました。リンがいいというなら、それでいいんでしょう」
セイバーは、原因はともかく、私の鬱屈に気が付いているんだろう。
あとでお礼をいっておかなきゃ。
「で、どうだった。感想は?」
美綴がセイバーに聞いている。
「自分の気持ちで相手が喜んでくれるというのは、嬉しいですね」
とても嬉しいです、とセイバーは大切そうに言った。
「では目的も果たしたことだし、我々は帰るとしよう」
「そうね。柳桐くん、見送りよろしく」
セイバーがチョコを渡すのを見届けるためだけに待っていたらしい。
二人は帰り支度をはじめた。
藤村先生も伸びをして立ち上がる。
「いやいや、セイバーちゃんもやるもんだ。桜ちゃんも、そろそろ帰ろうか。送っていくから」
「はい、お願いします」
「遠坂さんとセイバーちゃんはどうするの?」
「私は」
まだ士郎に渡していない。私だけ渡していない。
士郎はそのことについて、なにも言わない。
胸につかえた鬱屈が取れない。
だからだろうか。
「もう少ししたら帰ります」
そう返事をしていた。
さっきから、セイバーと士郎が話をしている。
私はテレビを見ている。
だけど、それは外見だけ。
全身を耳にして、二人の話を気にしている。
楽しそうなセイバー。
嬉しそうな士郎。
セイバーに嫉妬している。自分の失敗が原因なのに。
嬉しそうな士郎が腹立たしい。
それでも表情に出さない術を心得ている自分。
そんな自分自身にイラつく。
自己嫌悪しながらそれを隠している私。
隣で楽しそうに話をしている二人。
つい我慢できなくて、二人の話を断ち切ってしまった。
「士郎。帰るから送っていって」
こんなことをしてどうする。
こんなにも感情を制御できないなんて、魔術師失格だな。
醜態をさらしている自分を、覚めた目で眺めている自分がいる。
士郎が驚いた顔をしている。セイバーも。
二人が悪いわけじゃないのに。
後悔する。
「えーと、遠坂?」
「あ、ご、ごめん。話の途中だったよね。ほんと、ごめん」
あわてて謝る。ひどいことをした。
「いや、それはいいんだけど、もう遅いから泊まっていくとばかり思ってたから」
いつも通りの士郎の態度。
セイバーはチョコレートを渡した。
私は渡していない。
それを全然気にしていないような言葉。
「……今日は、帰る。だから送っていって。セイバーも仕度して」
自分が嫌になる。
帰り道。
雲ひとつない空。星がよく見える。
夜風が冷たい。
並んで歩いているセイバーと士郎。
居間の話の続きをしている。
セイバーは、私と居るときより楽しそうに見える。
士郎が笑顔で、セイバーの話に相づちを打っている。
楽しそうな二人。
さっきから嫉妬してばかりの自分。
足が止まる。
うつむく。
気が付くと、二人が私のほうを見ていた。
心配そうな顔をしている。
「大丈夫ですか、リン」
「どうしたんだ、遠坂」
いけない。さっきの楽しそうな二人の姿がぶり返す。
涙がにじんできた。
こんな顔、見せられない。
「ごめん!」
二人を置いて駆け出していた。
どこをどう走ったのか。
気が付くと見たことのある場所にきていた。
いつかセイバーと士郎の三人でデートした。
士郎に教えてもらった抜け道。
あのときを思い出しながら、歩く。
考えてみれば、聖杯戦争の真っ只中に、遊びにいったんだっけ。
士郎行く道を知った。たどり着く場所も。
それを、どうしても放って置けなかった。
セイバーが意外と負けず嫌いなことを知った。
公園で士郎をからかいながらお弁当を食べた。
午後から天気が崩れてきたから、計画を全てこなすことは出来なかった。
でも、楽しかった。
あのとき、士郎の歪な生き方を必ず変えてやる、と思った。
その気持ちは今も同じ。
だというのに。
立ち止まる。
夜空にはたくさんの星。
冬木大橋の歩道。その中央で。
私は、一人、手すりにもたれ、夜空を眺めている。
「リン、風邪を引きますよ」
「セイバー……」
強い風が顔に吹き付け、髪をなびかせる。
「……」
「……」
お互いに、何も言わない。
視界の先、地平線に途切れる川面を見つめている。
静かに私の隣に立っているセイバー。
私を心配して探しに来てくれた。
それなのに。
頭の中に、士郎と楽しそうに話していた姿が浮かぶ。
心配して探しに来てくれたのが分かっているのに。
本当に、今の私はどうかしてしまっている。
自分が情けなくて、セイバーの顔を見ることが出来ない。
手すりに蹲る。
「ごめん、セイバー。今の私はおかしいみたい。今夜は衛宮の方に泊まってくれる」
「……リン」
「明日になれば、大丈夫。だから、今日だけは。お願い」
セイバーは、分かっています、というように頷いてくれた。
「はい。では、また明日会いましょう」
あなたは悪くないのに。
未熟なマスターで、ごめん。
「……心配してくれてありがとう、セイバー。おやすみ」
「おやすみなさい、リン」
セイバーが立ち去ってからしばらくして。
「遠坂」
「なんでここに居るってわかったの」
士郎の方を見もせず、聞く。
「ここに遠坂がいるって、セイバーに教えてもらった」
そして、士郎は頭を下げて言った。
「ごめん、遠坂」
瞬間、士郎に怒りが沸いた。
こいつは、何に対して謝っているつもりなのか。
「あんたねえ、何が間違っているかもわかっていないくせに、簡単に謝るんじゃないわよ!」
士郎は悪くないのに。
自己嫌悪を誤魔化すために怒鳴る。
そんなことをすればますます士郎の顔を見られなくなると分かっているのに。
感情的な自分が情けない。
「他人から好意を受け取ることの意味も知らないで!」
自分というものが希薄なこいつは、そんなことは気にしない。
それを私が変えるんじゃなかったのか。
衛宮士郎の生き方。他人が喜んでくれればそれでいい。
自分はいらない、そんな資格がない。
それは間違っている。
手元に何も無い者に、量の大小はわからない。
自分の価値がわからない者には、他人の価値だってわからない。
自分の今までやってきたことの意味を知るのは、自分しかいない。
だから、自分の価値を決めるのも、それを守るのも、自分にしかできない。
それを私が教えるんじゃなったのか。
でも。
こうして士郎を怒鳴っている自分はなにをしているのだろうか。
怒鳴るほど自己嫌悪が増えるとわかってて、なお怒鳴っている私は。
「何が悪いのか分かっているなら、言ってみなさいよ!」
「遠坂はいつも正しいから。悪いのは俺の方だろう。ごめん」
そういって、士郎はさらに頭を下げた。
「――――――」
言葉が出せなかった。
「でも、俺には何が悪かったのか分からないから。だから、ごめん。これしか言えなくて、ごめん」
この瞬間。
――――――唐突に理解してしまった。
きっと衛宮士郎は、信じている。
遠坂凛は正しい。
いや、そうじゃない。
遠坂凛だから、正しい。
きっと、それを、強く、信じてくれている。
さっきまで心の中で荒れ狂っていたものが消えていく。
自分嫌悪も、士郎への怒りも、静かに消えていく。
なぜ士郎に怒りを感じたか、悟った。
私は、甘えていたのだ。士郎の信頼に甘えて、省みることをしていなかった。
望めばいつだってそこにあると勘違いしていた。
胸がつまる。
それでも士郎は信頼してくれている。
私を、信じている。
鼻の奥がつんとする。
こらえようと、夜空を見上げた。
いいだろう。衛宮士郎が遠坂凛を信じるならば、それに応えよう。
そして、遠坂凛も衛宮士郎を信じよう。
そうすれば、いつかこいつも、きっと気付く。
士郎という存在を大事に思っている人がいるということに。
シロウのありようをかけがえのないものと思っている人がいるということに。
なにより、自分の価値を決められるのは自分しかいないということに。
「士郎」
頭を下げている士郎の肩をつかんで、身体を起こさせる。
「ねえ、これからうちに来てよ。渡すものがあるから」
素直に優しい声が出せた。そんなことがなぜか嬉しい。
「え?」
「ほら、早く!」
士郎の手を引いて、駆け出す。
冬の夜風は冷たいけど、気にならない。
とてもいい気分。
だって、ほら。
私の手の先には、士郎がいる。
玄関を開けて、居間まで行く。
居間のドアを開けると、居間の時計が十一時の鐘を鳴らした。
よかった、間に合った。安心のため息が漏れた。
家の中だというのに、吐く息が白い。
まず、暖房のスイッチを入れる。
「座って待ってて。紅茶淹れてくるから」
厨房に向かう。
「なあ、遠坂」
「なに」
「あの、そろそろ、手」
私の手は、しっかりと士郎をつないでいた。
「ご、ごめん!つい」
あわてて手を離す。
「いや、いい」
士郎がぼそぼそと、嬉しかったし、とつぶやく。
顔に血が上る。
いかんいかん、こんなことで赤くなってるんじゃない。
なんとか抑えようとして――――――やめた。
士郎と居るときくらいは素直になってもいいじゃないか。
「そうね。私も嬉しかった」
え、と士郎が赤い顔をこちらに向ける。
「じゃ、ちょっと待っててね」
士郎に手を振って厨房に行く。
厨房のドアを閉じる。
やかんに水をいれ、火にかける。
ドアに背中を預ける。
顔が熱い。きっと赤い顔をしている。
士郎がいるだけで嬉しいなんて、まるで、恋する少女みたいだ。
「まあ、いいか」
素直な自分も、悪くない。
厨房の机の上には、私の作ったチョコレートがぽつんと置いてあった。
赤い包装紙と白いリボンに包まれた箱。
二人分の紅茶と一緒にトレイに載せる。
思えば、今日はこれのおかげで、ずいぶんと心を乱された。
余計な醜態までさらしてしまった。
でも、得たものもあった。
何を、とはっきりいうことは出来ないが、確かに得たものがあった。
たぶん、今日はいい日だった。そんな気がする。
「あなたのおかげかもね」
箱の表面を、軽く叩いた。
紅茶を士郎の前に置く。そして
「はい、バレンタインのチョコレート。今日のうちに渡せてよかった」
士郎が真っ赤な顔で聞いてくる。
「開けてもいいかな」
「うん」
緊張しているのか、士郎の指は震えている。
丁寧にリボンをほどく。
破らないように包装を解く。
箱を机に置き、ふたを開ける。
中を見た瞬間、私の目が点になった。
「ああーーーーーー!」
なんてことだ。
割れている。
真ん中から。まっぷたつに。
いったい何時割れたんだろう。
まったく気が付かなかった。
遠坂の伝統が発動していたのは、朝ではなくて、ここにだったか。
でも、まさか、一番肝心な、このときに、こんな。
「ご、ごめん、すぐ作り直し……て、今日はあと一時間もないんだった」
せっかく間に合ったと思ったのに。
今日という日はもうすぐ終わる。
最後の最後でこんな。
悔しい。
セイバーに隠れて、こっそり、頑張って作った。
情けない。
渡したときにどんな顔をするかな、と考えて一人で喜んでいた。
馬鹿みたいだ。
頭の中がぐるぐるして、考えがまとまらない。
涙がにじんできた。
ああ、くそ、泣くんじゃない、こんなことで。
もっとつらいことはたくさんあったじゃないか。
泣くんじゃない。
こんなことで。
泣くんじゃない。
泣くな。
泣くなってば。
ああ、もう、泣くなっていっているのに……!
「ありがとう、遠坂。とっても嬉しい」
「――――――え」
なにを言っているのだろう、こいつは。
「今日あったことの中で、なによりも嬉しい」
そんな笑顔で。
「食べてみて、いいかな」
嬉しそうに。
「うん、やっぱりおいしい。さすが遠坂」
頭の中が真っ白で、何も考えられない。
なんで、こんな、こいつは、心から、嬉しそうに。
「で、でも」
割れている、のに。
「遠坂がくれたから」
「――――――」
「その気持ちが嬉しい」
「――――――!」
士郎を抱きしめる。
大切な、私の士郎。
なくさないように。どこにも行かないように。強く胸に抱く。
「と、と、遠坂?」
「ばか」
「えーと」
「ばか」
「……うん」
「ばか」
「うん」
「ばーか」
「そうだな」
「……ばーか」
すぐ横から、士郎の寝息が聞こえる。
なんか雰囲気に流されたような気がしないでもないけど、でもいい。
士郎が相手ならば、いい。
「俺は遠坂っていう星の周りを回っている衛星みたいなものだからな。遠坂が行くところについていくし、遠坂がいなかったらどこにもいけない」
なんて士郎は言っていた。
私に言わせれば、士郎は道標。
私が居場所に迷っても、士郎がいれば大丈夫。
私がどこにいっても、士郎は信じてついてきてくれる。
私が迷っても、士郎がいるならば、きっと道を見つけられる。
すぐ横で寝ている士郎の腕を抱く。
士郎の温かさを感じる。
目を閉じる。
そろそろ寝よう。
明日が待っている。
私と士郎が一緒に歩いていく明日が。