おひさまぽかぽか。イリヤのひるね。others' side 


メッセージ一覧

1: ちぇるの (2004/03/15 22:19:34)

 真っ暗。
 目を開けても真っ暗なのはまだ日も上りきってないからだ。
 だから真っ暗。
「……はぁ……」
 目が慣れてくれば見えてくるのは見慣れた天井。
 何の疑問も抱く必要は無いので上体を起こしてみる。
 まだちょっとばかり重いまぶたを両手でごしごしとこすって布団から抜け出した。
 もう少し寝ていたかったかも……。
「む」
 いかんいかん。睡眠は十分のはずだ。
 とりあえずふすまを開けて廊下に出てみる。
「さて、イリヤの様子でも見てきますか」
 それがここ一ヶ月の俺の日課だ。
 背伸びをしてみる。やっぱり春はいいと思う。とりあえず布団からでても、死にそうなほど寒くはないのが素晴らしいのだ。
「さて、目を覚まそう」
 軽くほっぺたをぺちぺちと叩きながら俺は洗面所に向かう。
 こうして、俺――衛宮士郎の一日がはじまるのだ。




『おひさまぽかぽか。イリヤのひるね。others' side』



Case 士郎

 洗面所で顔を洗ってから俺はイリヤの寝顔を見に行く。
 二ヶ月前と全く変わらない姿がそこにあった。

 イリヤの体の異変はいつごろから始まったのだろうか。
 よく考えてみれば会った時からずっとだったのかも知れない。
 睡眠時間が長くなっていったのだ。
 一日の半分を寝て過ごすようになったイリヤは、ついには起きない日も増えていった。
 そうして一月。二日間も寝ていたイリヤが目を覚ますのと同時に、この冬木の町に雪が降り始めた。
“……シロウ。ゆき……”
 長く寝るたびにイリヤの言葉は少なくなっていった。最近では単語をなんとか繋げている程度に過ぎない。
 だけど、その真っ白な心も無邪気な赤い瞳も何も変わっていなかった。
“そうだな”
 と、膝の上の嬉しそうなイリヤに答える。
“ゆき、大好きだなぁ……とけなければ、えと、あぅ……ぅぅ、いい? ……うん、『いいのに』。とけなければいいのに”
 言葉を思い出したイリヤはにこっと笑って、目だけで褒めて褒めてと訴えてくる。
 そのおねだりを断れるほど俺は冷たく出来てはいなかった。
 頭を撫でられるとイリヤは子犬のように俺の体に腕を回した。

――シロウ、シロウ! ぎゅってしてー!――

 ふいについ最近までそう言われていたことを思い出した。
 なんでその言葉を聞いていなかったのだろうか、と後悔する。
 そんなことぐらい本当になんでもないことだったのに。なんでもないことがイリヤの幸せだったのに。
“そうだな。溶けなければいいな”
 雪のようなイリヤ。溶けるなんて、そんなの嘘だ。
 その体をぎゅって抱きしめる。
 でもそんなものは無駄だ。今のイリヤはついさっきのことだって覚えてない。
 全部夢。イリヤにとって全部夢なのだ。
 夢は自分に都合がいいもの。そんなもので今更抱きしめて何になるのだろう。
 
 抱きしめられたイリヤは不思議そうに目を瞬かせた後、はじけるような笑顔で大きく頷いた。



 それが二ヶ月前。

 イリヤが最後に起きていた日。


Case 桜

 私が先輩に家について台所に到着したときには既にコーンポタージュの素敵な匂いが立ち込めていた。
 毎日毎日こんなに美味しいものを食べさせられていては冗談でもなんでもなく太ってしまう。そろそろ胸に栄養は行っているんだー、なんて自分に対する言い訳も通じなくなってきたところ。うん、運動しよう。目標は毎日腹筋50回以上。
「先輩、おはようございます」
「ああ、桜。おはよう」
 先輩はイリヤちゃんが倒れたあの日から一週間は布団の側で待っていた。
 二週間目はずっと泣いていた。
 三週間目から何も食べなくなって、そこで姉さんにこっぴどく叱られた。
 それ以来なんとか先輩は自分を保っている。保っているように見える。
「今日は洋食ですか」
「なんとなくね。イリヤが起きてきた時に、とびっきりのブレックファーストって奴を食べさせないとな」
「でも先輩。確かあのバター藤村先生が食べちゃったんじゃ……?」
「ああ、うん。それは大丈夫。きっちりその分の代金を藤ねぇに請求しておいたから。目を白黒させてたからもう二度とあんな馬鹿な真似はしないと思う」
 まあ、私だって五桁もするバターがあるなんてイリヤちゃんが来るまで知らなかったのだけれども。
「じゃあ、私は半熟卵に挑戦しよっかな。イリヤちゃんに満点もらうまでは負けないから!」
 ちなみに前回作ったときは40点しかもらえなかった。
 自分では完璧と思ったら、なんか黄身が固まりすぎ、とか言われたのだ。食べてみると確かにその通り。以来私は毎日のように特訓を積み重ねてきた。
 ……さすがに二ヶ月という時間は半熟卵の練習期間としては長かったけれど。
「そこのソーセージもボイルしておいてくれないか?」
「お安い御用です」
 腕まくりして私は料理にとりかかることにした。
 先輩はサラダのためにトマトやらなにやらを切っている。先輩の聞きなれた包丁の音はなんとも頼もしい。

――とっとっと――

 誰かが廊下を歩いていく音がした。
「!?」
「先輩、もしかして……!」
 先輩は包丁を置いて、鍋に火をかけっぱなしでどたどたと廊下にかけていった。
 私はそれを見送った後にとりあえず鍋の火を落として卵の厳選を始めた。
 最高の半熟卵ってものを見せてあげなければならないようだ。



Case 士郎

 洗面所に飛び込むと、そこにいるのは銀髪の妖精。
 赤い瞳と綺麗な眉を訝しげにしかめているその姿を間違えようが無い。
「い、イリヤ!?」
「……あのねシロウ。あまり身嗜みを整えてる最中のレディを覗きに来るのは感心しないわよ?」
「バカ。こんな堂々と覗くか。それよりイリヤ……」
「何よ?」

――大丈夫なのか?――

 なんてそれこそ馬鹿な台詞を口に出そうとして、そして一旦止まった。
 二ヶ月寝ていた。
 それが唐突に起きてきて、それで至って普通にしているのだ。
 
 どういうことなのか、なんて分かるだろう。

 最後に、自分の全てを殺して、ただ目の前の少女に対する想いを自分の表情に乗せてみた。上手くいったかは分からないけど。
「おはよう、イリヤ」
「うん、おはよシロウ」
 イリヤはそんな真っ直ぐな言葉と一番いい笑顔を返してくれた。


Case 桜

 慌しく戻ってきた先輩が簡単に状況を説明する。
 なんとなくは分かっていたのだ。だったら私は精一杯の優しい日常を演じて見せよう。
 私が手に入れられなかった分の幸せを与えよう。私が与えることのできる全てを使える時間の全てを使って与えよう。
 猫舌である私とイリヤちゃんの分のコーヒーを先に入れる。
 それがこの家の『いつも通り』の風景だ。
 先輩がコーンポタージュの最終調整を終えて、イリヤのお勧めのパンをイリヤ好みに焼き上げようとしている。
 焦げすぎても駄目だけど、焦げ目が無いのは問題外なのだとか。
 コーヒーを食卓の上に並べて台所に戻ろうとするのとイリヤちゃんが居間に入ってくるのは同時だった。 
「あ、イリヤちゃん、ちょっと待っててね」
 イリヤちゃんはなんか嬉しそうに食卓に並ぶ料理を眺めた後に、
「私も手伝うわ」
 と言ってくれた。
 なんだかんだで、藤村先生よりよっぽど手伝ってくれていた気がする。
「ありがと、イリヤちゃん」
 初めのうちこそぎこちない態度を取っていたイリヤも今では私を姉のように慕ってくれている。私の方が年下だ、と姉さんから聞いたのだけど、手遅れだった。私の頭の中では可愛い妹が出来たとしか既に認識していなかったのだ。
 姉さんには悪いと思うのだけれど、私みたいに愛情を真っ直ぐに感じられなかったような女の子としては、自分の代わりに可愛い妹を愛したい、幸せにしたい、と思ってしまうのだ。ましてや魔術師の女の子だ。まるで真っ直ぐに育っていく自分を見ているようで心が温かくなる。
「トースト、すぐに出来るからな」
 少し広めの台所の端っこで三枚の皿と格闘中の先輩にイリヤちゃんに微笑を返す。
 うん、素敵なぐらいにいつもの朝の光景だ。

 イリヤちゃん御用達のバターを塗った焼きたてのトーストと言うのは、もう他に何もいらないくらいに美味しい。正直に言うと、これを食べていると体重のことなんか二の次になってしまうくらいだ。
「イリヤはいつもそうやって美味しそうに食べるよな」
 先輩が、痛々しいくらいに嬉しそうにそんなことを言うので私ははらはらしてしまう。
「美味しいものは美味しそうに食べるのがマナーなんだよ」
 えへん、と胸を張るイリヤ。少しだけ大きくなった胸が軽く強調される。
「なるほど。そりゃそうだ」
 それを見てにこっ、と笑う先輩。そんな真っ直ぐな優しさがいつだって誰かの心に暖かいものを残してくれる。私はイリヤちゃんのの方を見て微笑んだ。
 イリヤちゃんは少し照れくさくなったのか、顔を赤くしてトーストを食べるスピードを速めた。
「なあ、イリヤ」
「?」
 話しかけられたイリヤちゃんは口にトーストをくわえたままで、話すことも出来ないらしく、目線だけでなあに? と答える。
「今日どっかにでかけないか?」

 きっと最後だから。


 先輩の優しすぎる笑顔が暗に示したその言葉に私はがーんって頭に水の入ったバケツをぶつけられたような衝撃を受けた。

「う〜ん、といいや」
「そっか。家でごろごろしてるのか?」
「ええ。年頃の少女がやることじゃないんでしょうけどね」
「いいんじゃないのか? ……俺も、ごろごろしようかなぁ……」
 魔術の勉強で、毎日毎日姉さんに地獄を見せられている先輩は結構本気でその台詞を口に出しているのが分かった。
「へぇ、ごろごろねぇ。いいわね、私もごろごろしたいわぁ」
 語尾をいちいち可愛らしく嫌みったらしく言うその技法は遠坂の家の直伝なのだろうか。もう本当に聞き慣れてしまったその言葉の主はにっこりと微笑みながら居間に侵入してくる。


Case 凛

 居間に入った瞬間に状況は大体察した。士郎を脅かそうと思って気配を消して入ってきた甲斐もあり、若干心の準備をすることができた。とりあえず何気なく挨拶しながらは慰労としたのだけど、弟子の不甲斐ない台詞を聞いたのでは黙っているわけにもいくまい。
「と、遠坂!?」
 本気で狼狽する士郎に爽やかな笑みを浮かべる。
「おはよ、士郎。いやあ、まさかサボるつもりだったなんて。師匠としては哀しい限りねー」
「姉さん、嬉しそうな顔して言っても説得力ないですよ?」
 桜が半ば呆れ気味の顔をして二枚目のトーストに噛り付く。それは全くの見当違いというものだ。嬉しいのではなく純粋に楽しい。
「ん? どうしたんだ、イリヤ。不思議そうな顔して」
 士郎が何かに気付いたようにイリヤの方を向いた。
「あのさ、士郎」
「何?」
「リンが今ここにいるってことは、タイガはどうしたの?」
 ……食卓の上には四つの食事。なるほど。馬鹿士郎の計算力じゃ間に合わなかったか。
「へ?」
「だって、朝食四人分しかないじゃない」
 そう。私と桜と士郎と藤村先生の分しかここにはない。
「それは……」
「私、別に朝食ねだりに来たわけじゃないわよ」
 だったら、そこにあるものをイリヤと桜と士郎と藤村先生の分にすればいいだけの話だ。朝食を普段食べない私が食べなくても変じゃないだろう。
「あら、そうだったの?」
「そ。今日は桜を連れ出して服選ぼうかなーって思って顔出したの。ね?」
 話を振られた桜は一瞬ぽかん、とした後にぎこちない笑みを浮かべて
「え、ええ」
 と私の意思を汲んでくれた。
 唐突に入り口ががらがらと開けられる音が聞こえてきた。
 私の行動の真意を士郎も理解したのか慌てて立ち上がる。
「うあ、藤ねぇだ。すまん、イリヤ。いい加減人の家に入るときの作法ってのを躾けてくる」
 士郎がどたどたと入り口にかけていくのと同時に私は口を開いた。
 万に一つでも藤村先生と士郎の会話を聞かせてはいけないからだ。
「あのさ、イリヤ」
「何? リン」
「士郎って、最近疲れてると思うのよね」
 相手の頭の上に疑問符が浮かんだのを自覚した。なにを言っているのかが分からないと言った表情だ。
「だから、今日はお休み。イリヤ。自由に使っちゃっていいわよ」
 にやりとした笑いを浮かべる。
 今日一日桜と遊ぶことにすれば、きっとイリヤは士郎と一日中一緒にいられるだろう。
 私なんて、冷血で、冷徹で、冷酷な赤い悪魔にはきっとそのぐらいしかできない。
「了解しました、サー!」
 びしっと敬礼するイリヤに、よろしくね、と私は微笑んだ。
 きっと不気味なほどに優しい笑顔で。


Case 大河

 朝起きても白い小悪魔が暴れまわる藤村組はもう無い。
 ないのだから居てもしょうがない。
 だから私藤村大河は迷いもなく、イリヤが大好きだった士郎の家に歩いていく。
 そこにイリヤがいるからだ。
 毎日朝ごはんを食べて、その後に体を拭いてあげるのだ。

 何も食べていないはずなのに細くもならないその体。伸びない髪の毛。垢のつかないタオル。

 病院に連れて行くのは認めない、って士郎も、遠坂さんも、桜まで言い張るのだ。
 きっとそれは私ではどうしようもないことで、ついでに言えば他の三人だってどうしようもないことなのだ。
 だから、私はイリヤを士郎の家に寝かせることにしたのだ。目が覚めたとき優しい兄のいる場所に。

 そうして、いつものように士郎の家の玄関に入ると、血相を変えて士郎が入ってきた。
「おはよ……」
「藤ねぇ、黙って聞け」
 そのいつになく真剣な表情に私は思わず無言で頷いてしまった。
「イリヤが目を覚ました。でも、多分……」
 意味することが一瞬で分かってしまった。分かった自分が嫌だ。
「そ、そんな……!」
「藤ねぇ」
 静か過ぎるその言葉に私の行き場を失った激情は一旦心の中で黙ってくれた。
「イリヤは自分がどんな状況か、多分分かってない。だから」
 だから、何だというのだ。
「いつも通りにしてはくれないか」

 なんて、無茶苦茶な。

「む、無理よ」
「藤ねぇ」
「無理よぅ、そんなの、そんなのって……」
 泣け、と心の中のモノが斉唱する。
 だけど、涙が止まっているのは目の前の士郎が一番泣きそうな顔をしているからだろうか。
「藤ねぇならできるよ。藤ねぇは強いから」
「強くなんかないわよ、私は別に……」
 そんな言い訳をしながらも、心のどこかで自分の中で一番強い部分が自分の激情を縛り付ける。きっと、これは士郎が一生で一度か二度しかしないであろう、心の底からの頼みなのだ。
 だったら、聞かなきゃいけない。
 私はその願いを聞かなきゃ人としても、姉としても、イリヤの保護者としても多分失格だ。
「……士郎、恨むわよ」
「ごめん。後でいくらでも恨んでいい」
 もちろんそんな優しい安堵の表情浮かべられたら恨むことなんて出来ないわけだが。

 ふすまの前でテンションを無理矢理最高にする。
 そうでもしないと、無理なのだ。このミッションは。私の今までの人生の中で一番辛い作戦なのだ。
 そしてふすまを開け放ってイリヤに飛び掛る。 
「こらー、ちびっこー! 士郎に迷惑かけなかっただろうなー!」
 あはははは、と笑顔で食卓を見回す。桜がトーストを焼きに台所に戻っていくのが見えた。
「わっ、今日洋食なんだ、すごいねーっ!」
 最後に日にそれをしっかりと作る士郎は本当にすごいと思う。だからテンションだって高くできる。
 それを眺めるイリヤの複雑な視線に思わず噛み付こうとしたが、噛み付く言葉のその全てが優しくて痛い言葉になるのが分かった。分かったならそんなものは口に出せない。
「洋食なことの何がすごいのよ、タイガ」
 イリヤがそう問うてくる。
 そんなもの、答えるまでも無いでしょう?
「今日が洋食ってことがすごいのよ、さすが士郎!」
 私の自慢の弟なだけはあるわ! と微笑みを浮かべる。その後、いつもなら何を言ってるんだかよく分からないぞ腹ペコタイガー。飯ぐらい落ち着いて食え、と言うはずの士郎が、
「ありがとう」
 と控えめに苦笑を浮かべた。

 イリヤの最後であろう朝食は、最高の出来だった。
 イリヤが大好きなものを最高に美味しく作ってくれたのだ。
 私の大好きなイリヤのものを。
 ご飯を食べ終えた私はうんうん、とうなずいた後に
「100点! よくやった士郎!」
 と満面の笑顔で言い切る。士郎はもう一度ありがと、と言って食器を持って台所に引っ込んでいった。
「タイガ、今日はどうしたの? いつにもまして変よ?」
「わはははは、子供はそんな心配しなくていいのだ!」
 しなくていいのだ。うん。
 豪快に笑い飛ばして私はイリヤに近づいていく。
「ど、どうしたの?」
 イリヤが少し不気味がって身を引くのを無視して私はにこっと、笑って

――抱きしめた――

 何が起こったのかがよく分からなくなった様子のイリヤは、すぐに大人しくなった。
「イリヤ」
 突然できた妹。
「何?」
「イリヤ……」
 突然できた親友。
「だから、何よ……?」
 イリヤが視線を上にあげようとしたので、それを押さえつけるように私はその小さな頭を胸に押し付けた。
 こんな、泣きそうな表情なんて見せられるわけがない。
「イリヤ」
 突然できた娘。
 その一つ一つが万感の想いだけど、イリヤに気付かれてはならないのだ。
 深く考えないで抱きしめられていて欲しい。
 大好きな大好きな大好きなイリヤ。

 その様子を静かに見守っていた士郎が、流石に泣きそうになった私を、
「こら、藤ねぇ」
 と戒めてくれた。
 それで、抱きしめるのを止めることができた。
「だってー、イリヤちゃんふかふかなんだもん」
 なんでもないようにそう言って、私は無理矢理イリヤから離れた。
「あのな……」
「じゃ、もう行くね。学校、始まっちゃうもん」
 わはははは、ともう一度笑いを飛ばして泣きかけていることに気付かれないうちにその場を走り去った。
 まだだ、まだ駄目だ。
 まだ泣いちゃ駄目だ。
 イリヤがしっかり眠るまで。
 そのときまで藤村大河はいつもの藤村大河のままじゃなきゃ駄目なんだ。


Case 凛

「まったく」
 士郎が苦笑すると、釣られるように私も苦笑した。
「藤村先生らしいわね」
 本当に、不器用なぐらいにまっすぐな人だ。ある意味羨ましいぐらいではある。私もあんなふうに真っ直ぐに生きられたら可愛げも出てくるのだろうか。
「……とじゃあ、私達もそろそろいこっか桜」
 無駄な思考を打ち切って私は桜の方に振り返る。
「はい、これ洗い終わったらすぐ準備します」
「早くしなさい」
 とは言ったものの別に早くなくてもいい。
 正直このまま時間が止まってしまってもいいくらい。
 イリヤがのんびりとくつろいでいるこの時間のまま。
 ……自分が魔術師としては甘ちゃんなんだってことを再認識した。
「リン」
「何? イリヤ?」
 そのあまりにも何気なさに私はつい返答してしまった。
「今度、私とも一緒に服買いにいかない?」

 ぐっ、と私は息が自動的に詰まるのが分かった。

 息が出来ない。落ち着け遠坂凛。私はなんだ。魔術師だ。冷静になれ。鉄のように。剣のように。硬く硬く。心を硬くしろ。動揺なんてしてはいけない。
 そして、閉じていた目を開いて目の前のイリヤを優しく見つめる。
 イリヤはキツネにつままれたみたいな面白い表情をしているので、まあ気付かれはしなかっただろう。
「ええ、その時は是非一緒に。私も上品な服ってのには興味あるから」
「楽しみにしてるね」
 イリヤがそう言って流石に耐え切れなくなりそうになったのと、台所から戻ってきた桜にイリヤが視線を奪われたのは一緒だった。


Case 桜

“今度、私と一緒に” 
 その声が隣の部屋から聞こえてきた。

 あまりにも楽しそうに。

 何の疑いも無い声で。

 条件反射のように涙がぽろぽろと流れてくる。
 止めろ、止めろ、止めなさい。
 こんなものは辛く無いでしょう。マキリの女はもっともっと過酷なものを経験してるでしょう。
 私は毒。毒蟲。蟲は泣かない。泣くわけが無いでしょう。

 鳴くことはあるけれど。

「――っ!!」
 声が出るのを必死に抑える。
 涙は止まった。
 後はしゃくりあげるような、この無様な嗚咽を止めるだけ。

“楽しみにしてるね”

 再び聞こえてきたその言葉に、今度こそ、蟲は鳴き声を上げずにすんだ。
 台所から出てくるとそこに不器用なくらい優しい微笑を浮かべた姉さんと、声の印象どおりに楽しそうなイリヤがいた。
「じゃ、行きましょうか桜」
「ええ、姉さん。行きましょう」
 私が姉さんの言葉に頷くと、イリヤが不思議そうな顔で私を見上げてくる。
「サクラ、どうしたの?」
 しまった。まだ目が赤かったか。
「ああ、うん。眠くてあくびしちゃった」
 てへ、と控えめに笑うその仕草は無理に覚えたものだ。こうすれば私らしいのではないか、なんてありもしない『私らしさ』を手に入れようとしたときの副産物にすぎない。
「寝不足はレディの大敵よ?」
「うん、そうだね。気をつける」
 そのまま私達は部屋を出ようとして、一つのことを思い出す。
 これが最後なのだとしたら、これだけは聞かなきゃいけない。
「イリヤちゃん」
「何?」
「イリヤちゃん。今朝の半熟卵私が作ったんだけど、どうだったかな?」

 貴女に気に入られるものは作れましたか?

 イリヤは少しだけ考えると、他の誰よりも優しい笑顔で
「うん。サクラ。100点!」
 って言い切った。
 その言葉が、どうしようもないくらいに別れの言葉に聞こえた。
 最後だから満点を付けてくれたみたいに聞こえた。
 幻聴だ。
 そんなものは幻聴だ。
 だってただ褒めてくれただけ。だっていうのに私の頬は濡れていく。
 ぽろぽろ、ぽろぽろ。
 蟲の癖に鳴き声もあげずに泣いている。
 マキリの蟲に人並みの感情が残っていたことに少しだけ驚きながら、それ以上の圧倒的な哀しみが私を包んでいく。
 ぽろぽろと壊れた蛇口みたいに一定量の水を瞳が零す。
 止まれ、止まれ、止まれ。
 イリヤちゃんに変な疑いを持たせてはいけない。
 持たせちゃいけないのにっ……!
「さ、桜!?」
 隣で姉さんがあわてている。それはそうだ。魔術師ともあろうものがこんなことで感情を決壊させるなんて姉さんには思いもよらなかっただろう。
「ご、ごめん。ごめんね、なんでもないから。なんでもないからね、イリヤちゃん」
 心の中はもう、辛いのと、哀しいのと、どうしようもないので一杯一杯だ。
 私はイリヤちゃんに不審がられるまえに外へと歩いていった。
 走ってはいけない。まるで逃げてるようだから。
 立ち止まってはいけない。きっと抱きしめてしまうから。
 そして泣いてしまうのだ。

 きゅるるるる、きゅるるるる。

 体中の蟲が一斉に鳴いてしまうのだ。


Case 凛

 桜のその行動は、魔術師としては計算外だった。でも、姉としては予測ついたかもしれない。
「ま、全く。いくら嬉しいからってあれはないわよね? イリヤ」
 私の口元が引きつっているのは気のせいじゃないだろう。
「まあね。でもこんなに喜んでくれるならもっと早く言ってあげてもよかったかな……ってリン。貴女なんて表情してるのよ」
「え?」
 指摘されたことがよく分からない。。
「泣きそうな顔してるわよ? サクラが心配なら素直に行動したら?」

 呼吸が、思わず止まった。

 横隔膜は痙攣して何も吸えない。

 吸い込もうとした息より吐き出される息が多いから呼吸は出来ない。


 私は魔術師だ。
 魔術師は誰かを殺す。
 誰かに殺される。
 だからその覚悟を持って、心を凍らせなければならない。
 冷静になれ。
 冷徹になれ。
 冷酷になれ。
 血潮はただの鉄に。
 心はただの硝子に。
 それが魔術師の心得だ、って。
 この前士郎に教えたばかりだ。

 深呼吸しろ。

――セット――

 魔術の呪文は魔術を使うための物じゃない。
 自己改変の暗示だ。

 だから、

――泣くな、遠坂凛――!

 眉間にしわを寄せて必死に耐えていると、 きゅるるるる、とお腹がなった。
「……リン」
「う、うるさいわね! いいでしょ、朝ごはん抜くぐらい!」
 思わずごまかせてほっとした。
 泣きかけて顔が真っ赤になっているだろう。
 美味しそうな料理見てお腹空いちゃったのは私のせいじゃないわ、とそっぽを向く演技をついでにしておく。
 くすくす、と笑うイリヤの声が幸せそうだったから、また泣きそうになって眉根にしわを寄せた。
「ほら、早く行かないとサクラも待ってるよ」
「そうね、じゃ、イリヤ。ばいばい」
 と玄関に戻っていく。

 もう一瞬だって耐えられなかった。
 ぼろ、と大粒の涙が頬を伝った。
 玄関を出てすぐのところで声を押し殺して桜が泣いていた。それを見て私も、もう魔術師としての外聞も、優等生としての外聞も捨てて道端にしゃがみ込んで泣くことにした。
 一度流れ始めた涙は止まらない。

 ぼろぼろと。
 ぼろぼろと。

 不思議な蟲達の声がきゅるるるる、きゅるるるる、と響いている。

 みんなして哭いていた。


Case 士郎

 いつの間にか居間には俺とイリヤの二人きり。
 よくよく考えてみるとなんだろうか、この状況は。
 ここ三年でも滅多になかった構図だ。
 そのことが不思議なくらい。
「なあ、イリヤ。どこか行こうか」
「それ朝も答えたけど。今日はなんとなく家から出たくないの」
「そっか。そりゃしかたない」
 俺は一瞬だけ考え込んでお手上げになり溜息を付いた。
 イリヤが喜ぶこと、三年も一緒にいたのに一つも思い出せなかった。
「じゃあ何するんだ?」
 イリヤは特に考えていなかったようで、うーんと唇に手を当てて考えた。三年前。出会った時から変わって無いその仕草。

 そして一時間程ぼーっとしていたイリヤが唐突に瞳に光を取り戻して声を上げた。

「おひるね、しようよ、シロウ」
「お昼寝?」
 言葉が怪しくなっている。イリヤ本人は気付いてないようだから俺も気付かない。気付いちゃ駄目なんだ。
「そ、今日……すごく……天気いい、んだし」
「天気がいいんならもっと……」
 いろんな思い出を、と言おうとした自分の馬鹿さ加減に心底腹が立った。イリヤが望んでいること以上のモノが必要なわけがない。押し付けてもそれは幸せじゃないのだ。
「シロウ?」
「ああ、ごめん。そうだな。お昼寝しようか。すごくすごく気持ちいいぞ」
 泣きそうな表情筋を無理矢理笑顔の形にする。
「じゃあ、……じゅ、じゅんび。しなきゃ」
「そうだな、準備しよう!」
 ふたりして布団を押入れから引っ張り出してくる。
 敷布団とタオルケットと枕。この三つがあればいい。
 暖かい日差しの差し込む縁側に、俺達は布団をひいた。
 たったそれだけのことにまた一時間かかった。
「うっわぁ、気持ちよさそうだなぁ」
 俺はそう言いながら布団に座った。
 寝たらきっと終わりだ。
 だから俺は少しでも寝るという行為を後回しにしたかったのだ。
「うん、きっとぉ……ぃきもち、いいよ」
 イリヤはそう言って俺の胸にその背中を預けてきた。
 胸の中の小さな少女の生きてるって言う証拠みたいな暖かさが嘘みたいに穏やかだ。
「イリヤ……」
 寝てしまうのだろうか。
 それが嫌で焦って何かを口に出そうとする。
「あはは、これってすごい ……安……心するんだ。 さ! シロウ、ぎゅぅって私、抱きしめてーっ」

 学校の屋上から飛び降りたってここまでの衝撃はうけまい。

 何気なく、本当に何気なくイリヤはその言葉を言った。
 いつも似たようなことを言っていたけど、俺は抱きしめてあげたことはない。本当にそうしてほしかったのは分かっていたのに。
 なんてことを考えている間に体は勝手にイリヤを抱きしめていた。
「シロウ!?」
「……イリヤ」
 名前を呼ぶと、ちょっとだけ緊張していた体がすぐにリラックスする。
 ふわふわの髪の毛はイリヤと太陽の匂いがした。
「イリヤ。今度さ、お花見行こうか。綺麗だぞ」
「おはなみ かぁ。う。 ……たのし……さ、そう? ……たのし、そう」
 一面の櫻。去年のことを思いだす。
 花を静かに眺めてその後にゆっくりと昼寝していた少女。

 イリヤが同じことを思い出しているのか微笑んでいる。
「夏は海だ。あんまり綺麗な所には行けないけど」
 市民の温水プールには連れて行ったけど、まだ海には行かせたことが無い。
 プールから帰った後ぐっすりと次の朝まで眠っていたイリヤ。

「秋はイリヤの住んでるお城のまわりがキレイになるからな。紅葉狩りだ」
 赤や黄色に染まった山は本当に綺麗だ。
 今までだっていろいろ見れたはずなのに。
 秋は寝たり起きたりが不定期で、仕方が無いから家で過ごしていた。

 イリヤが幸せそうにうんうん、とうなずく。
「冬はまた雪が積もるかも。そうしたらいっぱい遊ぼうな」
 イリヤと初めて会った三年前。
 あの時は雪が積もらなかったけど。
 去年の冬は遊べなかったけど。

 でも、今度は遊ぼうな。


 頬を涙が伝っていく。
 耐えられなかった。
 もう耐えられなかった。
 腕の中の少女ががらがらと音を立てて崩れていくのが耐えられなかった。
 ぽろぽろと。
 ぽろぽろと。
 イリヤの頭に雫が落ちていく。
 ぽろぽろと。
 ぽろぽろと。
 それは止められなくて。。
 不思議そうにイリヤは上を向いた。視線が絡みつく。
「雪が、溶けなければいいのにな」
 イリヤが前に言っていた台詞がこんなのも重い。
 その言葉を噛み砕くように数分ほどしてから、イリヤは口を開いた。
 その瞳はもう何も見ていなかった。

「溶けるよ。あったかいとゆきは溶けるの」

 そんな、当たり前の回答をイリヤは返してきた。
「でも……」
 自分の声がふるえているのが分かる。
「でも……!」
 その俺の叫びを遮るように曇った赤い硝子の視線を空に向けながらイリヤは微笑む。
「春になると雪は溶けるの。あたりまえだもん」
 その視線の行く先はいつかの遠い日と同じ。
 大切な家族を、同じ場所で。

 ぼろぼろと流れる涙は鼻を伝って雫を作る。
 イリヤの頬に落ちて零れ堕ちていくソレは、まるでイリヤも泣いているようで。

 何が間違ったというのか。
「そんなの……嘘だ……そんなの嘘だろうっ! なんで溶けなきゃいけないんだよっ!」
 もう、こっちの言葉にも反応しなくなってきた。
 人形みたいに静かに瞼が落ちていく。
 その表情は酷く安らかで。
「嘘じゃないよ。うん、 ほんとうに  どうしようも   ない    こと」

 ぜんまい仕掛けのオルゴールのように瞼が落ちきる。
 
「嘘だ……」

 だって、イリヤは。

「嘘だ……嘘……」

 イリヤは、俺なんかと違う。
 イリヤは真っ直ぐだ。
 イリヤは真っ白だ。
 イリヤは可愛い。
 イリヤは愛らしい。
 イリヤは優しい。
 イリヤは賢い。
 イリヤは特別だ。
 イリヤはいい子だ。
 イリヤは綺麗だ。

 イリヤは生きていた。

 イリヤはこの腕の中にいる。


 イリヤは、死にたいなんて言ってない。




“生きようとするもの、生まれようとする意志を私は何よりも尊重する”


 そう言ったのは誰だったか。

 理解してしまった。
 その言葉を理解してしまった。
 きっともう俺は正義の味方の道なんて歩けやしない。
「こんなの、嘘だっ!!!」

 ぼろぼろぼろぼろと、心が砕けていくのと一緒に涙がこぼれていく。
 腕の中の少女は静かな寝息を立てている。


Case 大河

「ただいまー士郎」
 と、家の中に声をかける。
 学校は早退してきた。
 初めて嘘をついてしまった。私はもう悪いお姉ちゃんだ。だから士郎に説教なんて出来なくなる。できなくなるけど、それでもいいから、イリヤと一緒にいたかったのだ。
「イリヤー。士郎ー?」
 呼んでも返事が無いので、私は仕方なく家の中に入った。

 二人はすぐに見つかった。
 縁側で仲良く引っ付いて座っているのだ。
 どっちにも軽い嫉妬。
「こらー、士郎……?」
 声をかけようとして士郎が泣いたまま、人差し指を口に当てていることに気がついた。
「士郎?」
「イリヤ、寝てるんだ」
「そ、そっかー」
 私は近づいていく。

――気のせいだろうか。イリヤの胸が上下していないのは――

「寝てるなら布団に入れてあげなきゃ」
「いや、いいんだ」
 なんで?
「……いいんだ」
 士郎はそれを最後にぼーっと空を見つめた。
「……ね、ねえ。士郎。イリヤちゃん寝たんだよね」
「うん」
「じゃ、じゃあさぁ。我慢しなくて、ひっぃ、いいよね?」
 視界が一気にぼやけていく。
「……うん」
 それがきっかけ。
「う、うあ……」
 何か、言葉を話そうとしたのだ。
「あぅ、あぁぁ、わ、ああ……」
 どんなに呼吸をしようとしてもまっとうな呼吸が出来ない。
 目をあけて真っ直ぐに見つめようにも視界は何も分からないぐらい歪んでいる。

――何か言葉を話そうとしたのだ。イリヤに対する別れとか、きっとそんなもの――

「う、うわあああああああああああああああああああああああああんんっっ!!」
 恥ずかしいとか、
 近所迷惑だとか、
 外聞だとか、
 羞恥心だとか、
 そんな下らないものは全部無くなっていた。

 イリヤ、イリヤ、イリヤ。
「わ、わああああっっ! なんでよぅ、なんでイリヤちゃんなのよぅ」
 涙が止まらない。
 一瞬で顔がびしょぬれになっていく。
「なんで近所の万引きおばちゃんじゃないのよぅ、組の人をパクっていく嫌味警官じゃないのよおおお」

 イリヤ、
 イリヤ。
 イリヤイリヤイリヤイリヤ。

「イリヤがっ、イリヤがなんで!? どうして!? 何か悪いことしたの!? 私より早く死んじゃうくらい悪いことしたの!?」

 イリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤ。

 イリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤイリヤ、

「う、うああ、ああ、ぅぅあ、ぅああぅ……ひっぅ、ああぁぁぁぁぁあああああわああああああぁっっ!」

 声だけは出てくる。
 自分とは思えないくらい汚い言葉と、そんなものより遥かにいっぱいのイリヤとの思い出が出てくる。
 零れても零れても泣くならない涙。

 イリヤ。
 イリヤ。
 私の大好きなイリヤ。













































Case イリヤ

 見渡せば、辺りは一面の櫻だった。
「うっわぁ、すっごーい!」
「だろ、イリヤ。これが日本一、って奴だぞ」
 なるほど。日本一なんてのは大したことのないものじゃないか、なんて思っていた自分が恥ずかしい。
 これほど素晴らしい櫻なら、日本一はすなわち世界一だ。
「すごいねぇ」
 春風が私の頬を撫でていく。
 優しそうに微笑むシロウ。

 春は温かい。雪が溶けて無くなってしまうぐらい。

 そんな暖かい春はみんなが優しくなるのだ。
「すごいだろ。でもぼけっとしてる暇は無いぞ」
「え?」
「次は海へ行くんだから」
 シロウの言っている言葉の意味を考えるよりも前に海鳴りの音が背後から飛び込んできた。
「ほら、イリヤ。いつまでぼーっとしてるのよ」
 さっきまでは優しささえ覚えた太陽が、イラつくぐらいの熱量を私達に送ってくる。
 べとつく潮風は、匂いだけでもそこにあるものが塩っからい液体なんだって教えてきた。
 目の前には蒼い蒼い海をバックにした赤いセパレートの水着のリン。
「海、行かないの?」
 にこ、と微笑んだリンは私の尊敬する優しい魔術師の顔だった。
「行く!」
 ほら、早く早く、と急かされて裸足で飛び込んだ波打ち際。
 寄せて返す波が砂を足元から削っていく様が面白くって。意味もなく笑ってしまう。
「楽しい?」
「うん!!」
「じゃあ、そろそろご飯食べなきゃ」
 リンは時々こんな感じで唐突に話し始める。
「どこで?」
「どこ、って。山に決まってるでしょ?」
 何当たり前のことを、と言った表情でリンが私の後ろ指差すのでそちらを振り向くと、そこには色とりどりの紅葉があった。
「イリヤちゃん。栗ご飯できてるわよ」
 にっこりと微笑むサクラの前には一杯の栗ご飯。
 私が日本に来て好きになったものの一つだ。
「山盛りいっぱーい!」
 はいはい、とくすくす笑うサクラ。欲しかった理想の姉の姿。
「どうぞ」
 と差し出された山盛りの栗ご飯を食べる。うん、やっぱりサクラの作るものはシロウの作るものの次に美味しい。

 そうやって、私がご飯を食べていると空から雪が降ってきた。

「寒いなぁ……」
 雪が降るのだから、そりゃあ、寒い。
 寒いときはどうすればいいのだっけ?
 暖炉にあたる?
 布団に入る?
 ■■■■■に抱きしめてもらう?
「イリヤ」
 唐突に呼ばれてそっちを見ると雪の中でタイガがこっちにこい、と私を呼んでいる。
「なあにタイガ……って、わわっ!?」
 急にぎゅぅって抱きしめてきた。
「た、タイガ!?」
「どう、イリヤ。温かい?」

 ああ、なるほど。

 温かい。

「……うん」
 知らなかったから分からなかったけど、多分これは。
「うん、タイガ。まるで『おかあさん』に抱きしめてもらってるみたい」
 私が微笑むと、タイガは一瞬言葉を詰まらせ、無言で答えるように私を抱く力を強くした。
「でもどうしたのタイガ?」
「うん、なんでもないよ。イリヤ。それより……」
「それより?」
 タイガは私を少し開放して、最高の笑顔を浮かべる。
「お花見しよっか?」


 見渡せば、辺りは一面の櫻だった。


 シロウがいる春。
 リンのいる夏。
 サクラのいる秋。
 タイガのいる冬。


――まあ、いい加減私だってこれが夢だって気付いているわけなのだが――




 一回目を閉じて開けてみると自分雪原に寝っ転がって空を眺めていた。
 灰色の空から降ってくる雪。
 しんしんと振り続ける雪が私の体を周りと同じ白に埋めていく。

 これはアインツベルンの森だ。
 私が生まれた森だ。

 雪はきっと自分を象徴している。

 いつか溶けてしまうあやふやさなんか正にその通りだ。


 いつ溶けるか、なんてのは決まっている。

 あたたかくなった時だ。

 イリヤスフィール・フォン・アインツベルンなんて名前のただのヒトガタがそこに居ても誰も文句を言わないで、優しく見守ってくれる、そんなあったかい世界に辿り着いた時だ。

 だから雪は溶けてしまう。

 簡単なお話だ。


 しんしんと降り積もる雪は優しく私を包んでいく。


 最後に私は夢を思い出すことにした。
 素敵すぎる夢だった。
 あんまりにも素敵すぎて、
 あんまりにも賑やかで、
 何より、あんまりにも幸せすぎて。
 どこからどこまでが夢だったのかが思い出せないくらい。



 
――だったら思い出さなくてもいいのだと思った――





 おやすみなさい。
 良い夢を。


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