父を愛していたかと問われれば、きっと素直に首肯できる。
頭を撫でてくれた事も憶えているし、それが掴んで回すような感触だったことだって思い出せる。
いつか笑わそうと一生懸命考えた冗談だって、一度も使わずに秘めてある。
父親として優れ、魔術師として優れていた人。
私の進む方向を決めた人だ。
魔術師としてあるという事は、私にとって父に殉ずる事であるかもしれない。
でも一つだけ。心の中ですら言葉にした事がない想いがある。
"どうして"と。
当時から大人びていた私が、子供の様に叫びたかった出来事があったのだ。
タイトル『反旗』
茜色が目に痛い。
半分だけ開かれた扉から挿し込む夕日に手をかざして、私は屋上に足を踏み入れた。
ちょうど時間ぴったり、一秒たりとも遅れていない自信がある。
呼び出した主は、もう先に着いていた。
引き伸ばされた影が私の足元にまで届いている。こっちに気付いていないのか、あの子はフェンスに寄りかかったまま動かない。
「随分早かったみたいね、桜」
振り向いた桜の表情は陰に覆われている。私は隣に並んで、同じ様にグランドを見下ろした。
もう殆どが帰宅した放課後、まだ陸上部は走りまわっていた。三年生が抜けて久しい今月、二年生たちは必死に練習を重ねている。
数日も経てば自分達が最上級生として、後進を指導しないといけないのだ。気合が入るのも当然かもしれない。
桜が見つめていたのは何だろう。懸命に砲丸を投げ続ける人影か、トラックを駆け周るランナーか。
それとも、今は誰も使っていない高飛びのポールとマットだろうか。
「珍しいわね、桜が私を呼び出すなんて」
よくよく考えてみれば、両家の間柄ではご法度のはずだ。
今までの一年間だって、私が通りすがりの振りをして話しかけたり、世話を焼いたりしただけに過ぎない。
「はい、遠坂先輩に手紙を出したの、初めてです」
微笑は教室から覗く日没くらいに、寂しげだった。
もう慎二が行方不明と扱われて暫く経つ。
一時は閉じこもり気味だった桜は、イリヤと絡んでいるうちに笑うようになったと聞いている。
現に最近は普段の様子と変わりない。
そう、この数日を覗いては。
「どうしたの桜。まるで受験に落ちた卒業生みたいに黄昏ているわよ。……何かあったの?」
「卒業生ですか。似たようなものかもしれません」
眉を顰める。桜は一年生で、当たり前の様に進級して二年生になるのだ。
学校を離れるような物言いだった。
「まさかクラスメイトと離れるのが淋しいなんていわないでよ。同じ学校なのだから何でもないでしょう」
桜が言いたい事とは違う、と判っておきながら敢えて茶化す様に笑ってみせた。
けれど桜は笑ってくれない。ただリボンを揺らして首を振る。
「いえ、違うんです遠坂先輩。わたし、学校を辞める事になりました」
「――そうなの。理由は何、桜?」
勤めて平静に続きを促す。桜は小さく頷いた。
「留学するんです。けど学校の枠でじゃなくて、私的にです。だから正確には一年間の休学ということになりますが」
「で、本当に帰ってくるの?」
「――ええ。ちゃんと来年には」
まったく、どうしようもない。
「嘘が下手ね、桜は」
これ見よがしにため息をついてやる。腕を組んで真っ直ぐ桜に向き直る。
桜は困った様に微笑んだ。
「やっぱりばれちゃいましたか。流石は遠坂先輩です」
そう言って、桜はまたグラウンドの一点に視線を戻した。
「……本当の理由は教えてくれないの」
暫らくの無言があった。私達の影がより長くなっていく。太陽と反対側の空は、もう夜の気配に染まりつつあった。
「きっとびっくりしちゃいますよ?」
「私は滅多な事じゃ驚かないわ」
「一つだけ約束してくれますか?」
「わかってる。衛宮君には秘密にするんでしょ」
こくりと頷いたまま、桜は顔を上げなかった。桜の咽喉がひゅうと鳴った。
「わたし、妊娠しているんです」
私の半身は瞬間唖然として。
学校になんていられないわけだと、半身は冷静に受け止めていた。
「……誰の子」
桜は答えない。俯いたまま、けど何かに耐える素振りはない。
「言いなさい、一体誰なの父親は。本当に産むつもりなのアンタは――!」
「兄さんです」
諦めているのか、淀みなく口にした。
私が臨終を迎えて、走馬灯として人生を回顧する際。
自分が最も嫌いになった時として、今この瞬間を上げるだろう。
何故なら桜の一言で、事情が全て飲みこめたのだから。
つまりはこうだ。
桜は、魔術回路が絶えた没落名門に養子にとられた。
一族再興のためである。しかし魔術師とは係累と一体の存在でもあるのだ。外来の魔術師を跡取りと納める事なんて、滅多にあり得ない。
が、"種子"或いは"胎盤"としてなら話は別である。
そして外来の血が、自分達のカタチにできるだけ類似している方が好ましいだろう。
幼少の頃に引き取られた理由である。今では髪も、瞳でさえも違う色。
最も母体が出産に際して好条件である年齢域はさて何時か。
「……そうか。聖杯戦争の、あの頃」
桜が士郎の家に通わなくなった時期がある。
慎二――"間桐"という自己を刻むためだけの遺伝子が、マスターとして戦いを望んだ。
アイツの力量じゃ勝ちぬくことは到底不可能だと判りながら、どうして間桐家は一切干渉もせず、慎二を死地に送り出したのか。
あの時点で既に子を宿していたのか。もしくは種子を確実に植え付ける処置を施されたのか――おそらく後者だ。
そうだ。
凄惨な戦いに巻き込まれない様にと、私は良かれと思って、桜をただの地獄でしかない間桐邸に追い返していたのだ。
どうして私は、取り返しのつかない時に、こう――
「いつもの事でしたから。いつかこうなるってわかっていましたし」
どうして桜は、取り返しのつかない事を、笑って言えるのか。
知らずに手を握り締めていた。整えた爪が凶器になって、掌に食い込んでいる。
弱い握力が恨めしい。血が吹き出るくらい突き刺さってくれた方がまだましだ。
「それでも、産むの?」
「ええ。お爺様も子供が生まれたら、もうわたしに酷い事しないって」
「桜、アンタ」
一瞬よぎった考えを、桜は手を振って否定してくれた。
「遠坂先輩、わたしそんなに悪い子じゃないつもりですよ。生まれた子供を生贄みたいに差し出したりなんて、しません」
「当たり前よね。ごめんなさい桜。わたしの事、軽蔑していいわ」
安堵と同時に自己嫌悪に陥る。
最初に浮かぶのが、悉く魔術師として身につけた合理的で非情に似た思考なのだから。
しかし結果は変わらないだろう。桜の子は、必ず間桐の後継者として奪われる。
桜に逆らい得る術はない。
「でも、産むのね」
「はい、この子に罪なんてありませんから」
歯軋りしてしまう。なんでこんなに、ごく当然の様に救われない現実を見とおせてしまうんだろう。
父さんだって同じだったはずだ。
「慎二のこと、少しでも愛していた?」
合理の半身が疑問の手を上げる。必要のない問いだと。
五月蝿い黙ってろと、もう一方が怒鳴りつけた。
どうしてアイツの子供なんか宿して平気なのか。
好きな奴がいるのに、どうして泣き叫ばないのか。
堕胎を望んだって無理はない。けれど桜はもう迷いはない風に振舞っている。
どうしようもない、と自らを投げてしまったのか。或いは感情が涸れてしまったのか。
「まさか。わたしだってそこまでお人好しじゃありません。でもね、遠坂先輩。あの人だって可哀想だったんです。子供をなす為だけに存在を認められていた人なんです。わたしを汚してきたのだって――」
声はどこか穏やかさえ帯びている。私は桜が、何処まで追い詰められた末にここに居るのか、やっとわかった気がした。
「仕組まれた、仕向けられた事だった。発情期に雌とお見合いさせられる家畜みたいに、です。そもそも兄さんに酷い事される前から、わたしに汚れていない場所なんてありませんでしたし」
桜はまだ笑う。神々しいくらいだ。諦観だって結晶になれば宝石みたいになるのか。
「だけど、この子は」
フェンスにかけられていた右手が、そっとお腹を撫でた。
細めた瞳を自分の中に向けている。
これ以上ないって程暖かいものが、目の前にあった。
――ああ、勘違いしていた。桜の微笑みは、諦めきったものなんかじゃない。
こんなにも奇麗な理由は一つだけだ。
「何処も汚れてなんていない。わかりますか、遠坂先輩。親が誰だろうと、産まれる事情がどんなものでも、この子はきっとキレイなんです。穢れきったわたしでも、こんなにキレイなものが産めるんです」
いとおしそうに下腹を抱いている。
眩しくって目を細めた。
まるで後光だな、なんて夕焼けを思った。
だから、もう腹を決めた。
「確かにわたしなんかから生まれても、幸せになれない。きっと同じ様に酷いめに遭うかもしれません。でもわたしは――」
「ねえ桜?」
お間抜けな程明るい顔をしてみせる。
「お腹の子って男の子かな、女の子かな」
桜はきょとんと私を見つめてから、この上なく優しげに目尻を下げた。
「病院には行かせてもらえませんから、わかりません。大体まだ早過ぎます。普通なら妊娠しているかどうかもわからない頃ですよ?」
「そっか。まあ姪にしても甥でも一緒か。この歳で"叔母サン"だなんて呼ばれるなんてね」
オーバーにため息をついて肩を落とす。
今度こそ桜は、目をまんまるにして固まった。
「遠坂、先輩……? あの?」
魔術師としての私が異論を叫ぶ。間桐の方針など無関係であり、桜は既に遠坂の家人ではないと。
むしろ、間桐家は魔術師として正道なのだろう。一般社会においての外道左道こそ異端の筋だ。
私にとっては優れた、人格者だった父。
当然桜がどんな境遇に置かれるか、理解していたはずだ。
それでも優れた魔術師として振舞ったのだろう。10年前。最後に別れた時と同じ様に。
同様に、遠坂凛は魔術師なのだから。
父と同じ様に、割り切って桜を切り捨てなければならない。
だからなんだ、と言ってのける。
「いくわよ桜」
強引に手を取って歩き出した。
「だ、駄目です遠坂先輩! 間桐と遠坂には不可侵の約が――」
意図するところがわかったのか、慌てる桜。
「ねえ桜、貴方は助けて欲しいんでしょう?」
「――え」
桜は息を詰まらせた。
「じゃなかったらこんなに喋らないわよ、普通。だったら助けてあげる。姉がさ、身重の妹を助けない訳ないじゃないの」
一人ではなくなった桜の叫びを、私は聴いた。
握った桜の手は震えている。母親になるというのに、迷子みたいに震えている。
桜は怯えながらも弱々しくても、「助けて」と告げてきたのだ。魂を縛る間桐という虐待と苦痛、恐怖の記憶から逃れようと声を上げた。
新しい生き方を得る為に、かつての在り方に抗おうとしているのだ。
「大体ね、桜」
私がここで、どうして桜を助けないでいられるのか。
「他人が勝手に決めた約束なんて、私が知った事じゃないわ」
天上の父さんには、娘の反抗期だと諦めてもらおう。
「あともう一つ。貴方は自分のことを穢れている、なんて言ってたけど」
魔術師としての在り方が桜を捨てるというのなら、私は自らの半身に――
「さっきの笑顔、この世で一番キレイだったわよ――」
――今、反旗を翻す。