Der Wecker einer weisen Prinzessin−届け奇跡は聖杯へ
/prolog
女がいる。
髪は肩より遥か下、二の腕まで届くであろうか。
更々と風もなく揺れていた。
部屋を照らしているのは、ベットの脇に備え付けられた僅かな明かりのみ。
その明るさからでは、彼女の揺れる髪を、金色、灰色、薄紫とも判別は出来なかった。
ただ、美しいことには変わりなく、
佇むは、影は寝床の上。服は付けていなかった。
二つの双房を布で、隠すのみ、
乏しい明かりからでは、髪色同様その表情は読み取ることは叶わず、
艶かしい肩口では、やはり美しい御髪が揺れている。
「行かれるのですか?」
そう誰に言うでもなく、女は呟いた。
彼がいる。
今は私とは離れ、備え付けのソファで
紫煙を吹かしていた。
先ほどまでの情事を物語るべく、彼も服は纏っていなかった。
もちろん、私と違い、隠しもしていない。
「ああ。君のお陰で大体の事情は飲み込めたからね」
煙を払うかのように、頭を振った後で申し訳なさそうに答えた。
―申し訳なさそうに?いや正確に言うと嬉しさを隠して、申し訳なさそうに
といったほうが良いだろう。
私は、今夜こそは共にいてくれるものと思っていたのだから
情事の後に、余韻もなく立ち去ることを申し訳なく思っているのは
本当だろう。
だが、彼の表情はどうか?口は嬉しそうに歪んではいないか?
そもそも申し訳ないのなら、何故?
何故、もう行くと言うのだろう。
日が昇るまでは、後幾ばくか待てばいい。
それにまだこの時間では、電車は動いてはいないし、
タクシーすら捕まえにくいであろう。
大体、まだ彼から私には何も喋ってくれていない。
私は彼が欲しがっていたことを話し、彼からは質問意外で声を聞いてはいない。
こちらが聞いたこと、彼が疑問に思った事しか話してはいない。
いや、もっと言うならば彼は、私に関しては一切話をしていない。
彼の知りたかったことだけだ。
気にも留めてはいないのだろう、今の彼は。
―――いや、考えるのよそう。
彼は昔から一直線な人ではなかったか?
迷うことはあったが、一旦決めれば躊躇うことは無く、
立ち止まることは無かった。
しかし、目の前の人に最大の思いやりを尽くす人であった。
では何故?
今あなたの前にいるのは、あなたと共に時間を過ごしているのは
他ならぬ、私ではなかったのか?
「君には感謝している。危険な思いをさせ情報を集めてもらったし。
礼を言っても足りない、けど本当にありがとう」
そう言って、彼は私に微笑みながら頭を軽く下げた。
彼が礼を言っても、この心の靄は晴れない。
礼が足りない?違う。そうじゃない。礼なんて必要ない。
彼が必要なくても私は情報を集めたし、それを口実に会うつもりだった。
ただ、彼から先に私に願い出ただけ。
だが、結果は同じであっただろう。彼はもう行く。
むしろ彼から願い出た―、このお陰でいつもより長くいっしょに過ごせたのであろうが。
私を抱いてくれた、その瞬間だけでも愛してくれた。
いつもならば、気をつけて、そう言って送り出せたであろう。
だが、今回は違う。
知りえた情報からは『可能性』
考察した結果は『死と破滅』
彼の行動は、その薄い可能性へ、死と破滅を纏い兆戦することだ。
私は彼を失いたくは無い。
「危険が多いのですよ、いつもとは違います。あなたは今まで守りに徹しただけ。
自分から攻めに回ったことは無いのです。これは致命的だ。
どうか慎重に行動して欲しい。今のあなたは冷静さを欠いているように感じる。
それともバックアップが必要ですか?
それならば私も共に…」
「その必要はない、よ。」
私はどんな顔をしているだろう。
さぞかし悔しそうで、悲しそうで、恨めしそうな顔をしているに違いない。
彼は自分の返答を聞いた私の方を向いて、それこそ本当に申し訳難さそうに
していたのだから。
「気持ちは嬉しいけど、これは俺の個人的な事だから。
その、君まで巻き込むわけには行かない。
危険なんだろ?今回は特に。なら、尚更だよ。」
ああ!やはり彼は一人で、自分の手のみで叶えたいのだ。
たとえ死に至る自己満足だったとしても。
それは彼の我侭であろう。
誰の手を借りることなく、彼の人の為に、一途な思いを持って―
胸の奥がざわつく。限りない嫉妬、妬み、苛立ち。
今ここで彼の肢体を刻み、私だけのものにする。
私だけのあなたを―――
「―――。」
彼が私の名前を呼んだ気がする。
だが止まらない、関係ない。思考は次々と私の嫉妬から
彼を独り占めできるための案を次々考えさせる。
どうすれば?いかなる方法で?彼の反応は―――――――
「―――。」
「ッ…!」
四肢は戦慄が突き抜け―――
目の前から鋭い声、いや声だけであれば私は無視できた、
殺気、殺気殺気殺気殺気――――――――――――――――
私の思考を読んだ?いや眼が、彼を見る眼が変わっていた?
彼は今その殺気を私の方に放っている。
鋭く、重い針を幾重も眼から頭蓋の置奥へ差し込んでいく感覚。
っ!!!嫌!嫌だ!
こんなに愛しているのに、こんなに彼のことを愛しく、
彼の為ならば何でもできる、如何なる場所でも駆けつけて行くのに!
何故?どうして!
気持ち悪い!奥歯が、体の震えが止まらな、い。
どうして、どうしよう、どうすれば?
彼を怒らせるつもりは無かった。ただ気づいて欲しかっただけなのに!
寂しい、愛しい、この気持ちに――――
「あ…」
気づけば、体の強張りは消え、胸にまた暖かな温もりが宿る。
眠気にも似た安堵。
彼が私に口づけをしてくれていた。
背中は、先ほどかいた汗で少し冷やりとする。
「ごめん…。でももう行くから。」
「は、い。」
「本当にごめん。でも…、俺の願いは今度こそ叶うかもしれない。
その為だけに、その思いだけで生きてこれたんだ。
もちろん、沢山の人、それこそ君にもいっぱい支えてきてもらった。
今回だけじゃない。本当にありがとう。
でも、もう行く。
また、会おう。」
もう一度、唇を重ねる。
今度は私から。
それは祈りであった。
今一度の再開を願って。
そして覚悟。
私はあなたの思い人にはなれないが、
私は常にあなたと共に、その魂が朽ち逝くその時まで。
そう言い聞かせる為に、私はあなたの感触を刻む。
「ええ、どうかご無事で。そしてまた会いましょう。」
男はもういない。
今は女が一人声を殺して泣いていた。
「私では、私ではダメなのですか?
彼女で無ければダメなのですか?
私では、ダメなのですね?
彼女でなければ―――」
この頬を伝うものは途切れない。
が、彼はもう行ってしまった。
では私も、いつもの私に戻らなければ。
私とて暇を持て余す身ではない。
いつもの日常へ帰るのだ。
また彼と出会う為に。
彼は上手くやれるだろうか?
こんな希薄な希望しかないのに?
それこそ杞憂というものかもしれない。
私は、ただ行って欲しくなかっただけだ。
いや、きっと上手くやるに違いない。
彼は今まで越えれない壁を全て超えてきた―――
いや、全て殺してきたのだから。
「いつまでもこの身、心はあなたと共にありましょう。
いつ如何なるときも助力は惜しみません。
私、シオン・エルトナム・アトラシアは、常にあなたと共に」
そして女も消えた。
もう誰もいない部屋。
1つしかない窓から、日が差し込んできた。
空はまだ薄紫。
まるで彼女の髪の色のようだった。