Smile Again (傾:シリアス) (修正版)


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1: takya (2004/03/14 08:44:21)


 鏡の中に映るのは自分。
 自信たっぷりに微笑む自分。
 求めるものはただそれだけ。
 感じるのは優越。生まれるのは愉悦。
 そうでなければこの身などただの塵芥でしかない。
 それは、恐ろしい。
 けれど。
 なのに。なのになのになのに。
 いつからだろう。
 何度鏡を見直しても見つからない。
 答えなど何処にもない。元より自分の中にしかない。
 それなのに、どうして。
 鏡の奥。映るは虚像。
 
 ――微笑む自分が、何処にもいない。
 
 
 
       Smile Again



 死ね。

 体中に纏わりつく不快な泥が、耳の奥に直接叩き込まれているかのような大音量で鳴っている。

 死ね。死ね。

 止め忘れた時計のように、壊れたオルゴールのように、歌詞を忘れた歌い手のように。

 死ね。死ね。死ね。
 
 どいつもこいつも変わらぬ音程。変わらぬ内容。そもそも区別があるのかどうか。

 死ね。死ね。死ね。死ね。

 脳裏に突きつけられるは罪の記憶。幾千の罪咎。幾万の断罪。裁くのは他人。裁かれるのは自分。罪の在処は誰も知らない。

 死ね。死ね。死ね。死ね。死ね――

 罪を犯したから罰を受けるのか、罰を下すために罪があるのか。問いかけは誰にも届かないまま嘆きに呑まれる。

 ――いいか、げんに、しろ
 
 振り下ろした手は届かず。そも振り上げた記憶さえなく。怒りの矛先は何にも届かないまま、全てが不意に断絶する。切り取られるようなイメージ。


 ――ほら、マトウシンジ。お前はきっとこんな風に、紙切れのように死んでゆく――





「――ふ、ざける、な――!」

 覚醒の一番に口をついて出たのは、そんな言葉だった。
 目を開ける。頭痛がする。くらくらと歪む視界に、かえって自分の思考が目まぐるしく動く。
 どこだ、ここは。
 吐き気を抑えながら、周囲を探る。体は動かない。全身がだるい。かろうじて動かせる手のひらを眼前にもってくるが、それだけで疲労困憊の状態だった。
 けれど意識は、はっきりとしていた。直前まで見ていた悪夢の所為かもしれない。
 自分は間桐慎二。そして、ここは――

「……病院?」

 何でこんなところにいるのだろうか。
 自分は、確か。

 ――あの、森で。
  
 頭痛。肉体的な痛みではない。たぶん。だが頭が痛い。思い出せ。何かあった? どうしてこんな――

 ――金色の男。こちらに目も向けず手を伸ばす。そして穿たれた胸の――

「――っ!」

 思わず胸を押さえた。大丈夫。孔などない。心臓の鼓動は残ってる。
 死んでない。生きている。
 生きてる。生きてる。生きてる――

「――は」

 呼吸を一つ。笑ってしまいそうだ。笑うな、苦しいだけだ。必死に呼吸を落ち着かせる。
 死んでない。オーケイ。了解だ。それは何故? わからない。
 あの時確かに自分は死んだ。何一つ手に入れられず、死に損ないの奴隷<サーヴァント>にさえ蟲以下と捨て置かれ、冷たい森を這いずったあげく腹を抉られて死んだはずだった。
 だが、生きている。
 思い出せ。その先だ。あの時何があった。

 ――溶けるように抉り込まれた腕。そうして、埋め込まれた――

 フラッシュバック。
 膨れる肉。腹。腕。足。顔。滾々と壊れた蛇口のように溢れ出す醜悪な闇。
 たすけてくれ。つぶやいた。つぶやけた? 
 わからない。全身を侵される。血管を泥が巡り、体中のあらゆる回路が軋みをあげる。造り変えられる。
 いやだ。いやだ。いやだ。
 なんでこんな目に合う。僕が何をした。なにかをしたのか。殺した奪った。何故なら戦争それなら当然。

 ――ならば、罪。

「――――ぁああっ――!」

 がしゃん、と破滅的な音を立てて、回想が起床直前の悪夢に繋がった。
 頭を抑える。痛む。やめろ。
 脳裏を巡るのは罪。罪罪罪と罰。そして悪。

 この世全ての悪。 

「は――はは。なんだよ、それ」

 吐き出したのは畏怖と弱音。
 自分はアレと繋がっていた。おぞましさに吐きそうになる。
 気を抜くと笑い出しそうだった。堪えなくてはならなかった。自分自身を嗤ってしまったなら、間桐慎二は完全に終わってしまう。それが最後のボーダーライン。
 出鱈目に息を吸い、思い切り叫ぼうと――


「――兄さんっ!? 目が覚めたんですか!?」
「――――は?」


 ――荒い呼吸は、ぴたりと止んだ。
 目を動かした先。ベッド脇に駆け寄る女。誰だ?
 本気でそう思った。困惑しかなかった。自分を心配そうに覗き込む、妹。
 
「さくら」

 名を呼んだ。無意識だった。
 妹、間桐桜は、不安げな表情を安堵に変える。

「……良かった、兄さん」

 ――ああ、そうか。

 安堵の息を吐き出す桜を前に、すとん、と理解した。動悸は治まり、不自然なほどに心中が凪いだ。
 聖杯に囚われたこの身。こうして、病院なんかにいるのなら。

 それはきっと、あの馬鹿なお人よしあたりの仕業に違いない。

「……聖杯戦争は、終わったんだな」

 掠れた声で聞く。
 喜びもあらわにこちらを覘きこんでいた桜は、その言葉に息を止める。

「――はい。終わりました。……もう、誰も、戦わなくていいんです」
「衛宮なのか?」

 尋ねる。勝ったのは。生き残ったのは。……自分を、引き摺りあげたのは。
 桜は、問いに頷いた。

「それと、遠坂先輩も」

 なるほど。驚くほどに潔く納得がいった。
 かつての自分ならありえないほどに、呆れるほど楽に、認めていた。

「そうか」

 戦争は終わった。勝者はあの二人。生き延びたのは自分。それだけのこと。

「そ、か」
「兄さん?」

 遠くを見る自分に、再び不安げな目を向ける桜に、いや、と返して笑った。
 唇は引き攣ってないか。皮肉に歪んでいないか。そもそも笑みになっているのか。何一つ確信はなかったが。

「……いや、なんでもない。疲れてる、みたいだ。悪いけど桜。ちょっと、一人で眠らせてくれないか?」 

 こくんと頷き出て行く桜を見送って。

 ぱたん。

 扉が閉まるのをぼんやりと見て。
 
 ――そうして、初めて、拳を握り締めた。

 痛覚はない。振り下ろそうにも振り上げられない。想いの行き場は見当たらない。全てわかっていた。わかってしまっていた。

「く――ふ――ぅくっ――」

 叫ぶ事はない。ただ歯を食いしばる。この嘆きが、誰にも届かぬよう。この涙が、誰にも見られぬよう。
 認めたくない。けれど認めなくてはならない。戦争は終わったのだから。

 歪んだ視界をそっとずらす。窓ガラスに薄く映った自分。


 それは、死に損ないの負け犬だった。





 それから幾日か経った。
 日々は、驚くほど穏やかに過ぎた。
 あの日を境に、間桐慎二は穏やかになった。否。何か違和感を持ったまま、どうする事も出来ずに無気力に日々を過ごした。
 会話をした。談笑をした。皮肉を言い、楽しげに笑った。
 けれど、何かが違った。満たされているのか、空っぽなのか。自分でも判断がつかない。ただ、執着が、妄執とも呼ぶべき自分の起源が、何故か見つけられなくなっていた。

 だから、会話をした。談笑をした。皮肉まじりに笑った。……桜を、前に。
 随分と久しぶりな事だった。ありえない事だった。


 間桐桜。十一年前に現れた、妹。


 初めて見たとき、それはとても小さな生き物だった。
 おどおどと俯いて名を述べた。第一印象は、弱そう、だった。或いは人形のよう。
 いつも怯えていた。俯き、己を出さず、ただ流されるままに従う愚鈍な少女。なんて意味のない存在。
 だから無視した。かまっている暇などなかった。自分には成さねばならぬ目標があった。
 魔術師になる。
 馬鹿げた目標。夢みたいな戯言。そして届かない幻想。
 魔術は在り、自らを流れる血はその使い手の血統であり、――けれど既にその素養は喪われていた。
 父は素養無き自分を見限り、祖父も乞われれば知識を与えるけれど、こちらを見る事はない。
 それが、現実。
 けれど認められなかった。認めたくなかった。

 幽霊屋敷じみた洋館。一人きりの自分。幼い頃はわからなかった。無視するわけではないが、誰も自分を見ない世界。
 誇りが必要だった。誰にも依らず自分一人で立つ為の、己だけの証。それだけを探し続けた。――そして教えられた、自らの血統。

 魔術。一般には知られざる秘奥。あまりにも魅力的な『証』。狂えるほどにそれを欲するのは、生きるのに水を求めるのと同じぐらい、当然の流れだった。
 だから一人、鏡の前で笑った。姿見の前で、己を目に入れ、高らかに笑った。

 そうして刻んだ。自分は間桐慎二。
 そうして誓った。自分はマキリの後継。
 
 自己愛だのナルシストになったつもりはなかった。ただそれしかなかっただけだ。自分を見ない父。何処かを見つめたままの祖父。誰も彼も自分を見ないのだから、せめてこの目で見なければ間桐慎二が何処にいるのか誰にもわからない。
 そうして繰り返し願った。何度も想った。諦めてたまるか。自分は魔術師になる。誇るべき己をこの手に掴む。

 ――そんなある日の事だった。

 相変わらず人気のない廊下。自室に戻ろうとして、蹲った影を見つけたのは。
 間桐桜。挫いたのか、足を押さえ、どこで引っ掛けたのか手の甲の擦り傷から血が滲んでいた。まだまともに話したことのない妹。
 顔を上げて、こちらを見た。怯え混じりの暗い表情。いつも通りの表情。
 めんどくさいな、と思いつつ、仕方なく彼女に手を貸そうと――

 なのにそいつは、諦めたようにすぐ俯いた。

 何だそれ、と思った。どう見ても自分でどうにか出来るように見えなかった。こちらを見た。なのに、当然のように諦めの顔で俯いた。
 かっとなって駆け寄り、思わず手を掴みあげた。

「あっ!?」

 驚く彼女など気にも留めず、その腕を肩に回すように引っぱって、支えた。子供の力ではそれが限界だった。

「あ、あの!?」

 戸惑ったような声も無視して、引き摺るように運んだ。
 不器用に包帯とテープを巻きつけて、感情任せに大雑把な手当てをした。ずっと互いに無言のまま。
 やがてそれも終わる。
 そのまま立ち上がって、部屋を出ようとした。
 その、後ろから。

「あの……ありがとう、ございます。……兄さん」

 兄さん。初めて呼ばれた。別に感動もなかったが、ふいに、ああ、そうかと思った。兄は妹を守るもの、なんて一般論に賛同する気はさらさらないが、なるほど。こんなに弱い生き物なら、気にかけなければすぐに死んでしまうだろう。
 だから、こんな言葉が口をついた。

「……言いたい事があるなら、ちゃんと言えよ」

 そう言い残し、反応が返る前に部屋を後にした。

 ――それが、兄妹で初めて交わした、会話。

 決して仲のいい兄妹などではなかった。
 妹は結局その後も何一つ口に出せず臆病なままだったし、自分はそれを気にかけつつも基本的には愚かなやつだと見下していた。何よりも己以外に強い興味なんて持てなかった。それは変わらなかった。
 けれど、それでもその頃はまだ、兄妹だった。
 珍しく友人なんてものを自宅に招き、結構愚図だけど、なんて皮肉交じりに妹を紹介していた頃は。
 どれだけ歪でも、まだ『兄妹』であったのだ。


 三年前。『真実』があかされる、その日までは。







「――兄さん?」

 妹の声に、我に返る。

「あ……呼んだかい桜」
「大丈夫ですか? さっきから、ちょっとぼんやりしてますけど」

 心配そうにこちらを見てくる桜。
 ついこの間までならば、こんな時、自分は怒っていた筈だ。
 人形の癖に、馬鹿の癖に、お前に心配される謂れはないと罵っていた筈だ。
 けれど、自分は、

「いや……なんでもないさ。いちいち心配するなよ桜」
「あ、はい」

 穏やかに返す。和んだ雰囲気。虫唾が走るほどの欺瞞。けれどそれを覆そうという気が、何故か起きない。

「そう言えば、桜」
「はい?」
「衛宮は、どうしてる?」
「先輩、ですか? 相変わらずです。兄さんは元気か、こっちはいいから兄さんの看病の方を優先させてくれ、って」
「相変わらず、ね。まあ、というか最初から優先されてるような気がするけどね、僕は? 別に衛宮の所へ通うほうを取ってもいいんだぜ? もういちいち介護が必要な容態でもなし。寧ろいいかげん妹に甲斐甲斐しく通ってもらってるなんて状態が恥ずかしい頃になってきてるんだけど」
「……いえ、今は、こっちに来たいんです」

 少し俯いて、そんな風に返す桜。
 なんとなく原因はわかっていた。桜との会話。衛宮の話。同じくらい語られる、遠坂の話。
 まあ、つまりはそう言う事だろう。二人が現在どのような関係なのか判らないが、少なくとも自分が知る限りではかなり強い信頼で結ばれていた。忌々しいほどに。

 そして戦いが終わった現在。遠坂は、衛宮の家に入り浸っているとか。そりゃあ遠慮したくなるってものだろう。
 遠坂凛。その名を聞いても、もう心に動くものはなかった。かつての強い羨望。嫉妬。執着。欲望。手に入れたい、とまで思った相手。
 それさえ、どうでもいい。ふと思う。自分の心は、あの日死んでしまったのではないかと。

 そして衛宮士郎。友人。殺し合いをした仲。
 初めて逢ったのは四年前。あいつは、今と変わらず、他人の雑用ばかり引き受けて走り回る様な馬鹿だった。
 頼まれれば断らない。頼りにされれば応える。そんな衛宮士郎に、自分はことある毎に馬鹿だと言った。
 けれどあいつは、苦笑して。
「誰かがやらなくちゃいけない事があって、それが俺に出来るってんなら、俺はやりたい。それでいいと思うんだ」
 なんて真顔で言っていた。

 そして衛宮は実際にやり遂げる。例えば修理。例えば弓道。様々な雑事。やればできる、の典型のような奴だった。ただし自分からはやらないのだ。友人であったが、だからこそ嫉妬した。その在り方に、軽い憧憬めいたものさえ覚えながらも、けれど決してその生き方を認められなかった。
 何故ならそこには『自分』がいない。誰かのため。他人のため。言われて、勧められて、その通りになれる男。ふざけている。

 その思いを決定的にしたのは、同じ弓道部で、あいつの抜きん出た実力と妙な人望から、あいつが部長になれば弓道部はもっと強くなるだろう、なんて下らない雑談を耳にした時。
 嫉妬から、軽い嫌味を言った。あいつはそれを真に受けて、弓道部を辞めた。悩む素振りもなかった。
 手に入れられるのに、簡単に手放せる人間。眩暈がした。
 友人だった。憧れてさえいた。けれど憎んでいた。
 あいつが聖杯戦争に参加したと知ったときの感情は、あいつを喪いたくないという恐怖だったか、それとも戦って勝ちたいという悦びだったのか。今はもう、わからない。

 ――けれど。

「なあ、桜」
「え?」

 進めなければならなかった。何かを変えなければいけなかった。
 このままでは腐ってしまう。そんな確信があった。
 だから、

「衛宮に言っといてくれないか。話があるから、そのうち一人で見舞いに来てくれ、って」

 それを告げた。
  




 夢の中にいる。
 間桐慎二は自覚した。何よりも最初に。
 何故なら見ているのは過去の光景。

 狂ったように叫ぶ、自分。

 あれは何時だったか。
 三年前だったか。
 
 全てが壊れた、転落の日。

 少年は嘆いている。間桐慎二は叫んでいる。
 全てを知って慟哭している。 
 
 間桐の血に見切りをつけた父。この土地の魔術師の家である遠坂からの養女。
 自分にない全て。マキリの全てを受け継がされていた妹。間桐桜。
 
 ――は。
 
 笑ってしまいたかった。嗤う事は出来なかった。今までの日々。
 這いずる様に探した。声が枯れるまで叫んだ。命さえ差し出さんばかりに求めた。
 それを、間桐桜は既に手にしていた。
 何も知らない自分。弱者と思っていた妹。彼女にかけた、同情にも似た愛情。
 結局の所道化は自分。何も知らず、ただ一人で無様な踊りを続けていた自分――!

 映像は動く。間桐慎二の幻影が駆ける。
 過去を追いかけて流動する。

 次の映像は桜の部屋。駆けつけて、詰め寄った。
 荒げた呼吸。意味もなさず、ただ問うた。何故だ。
 それに対し俯く妹。俯き続ける桜。その首元を掴み、締め上げるように――

「ごめん、なさい」

 それで、全てが崩れ落ちた。
 手を離す。怯えるように後退した。

「ごめんなさい」

 やめろ。

「ごめんなさい」

 謝るなよ。なんで謝るんだよ。
 笑うな。笑うな。嗤うな間桐慎二。叱咤する。
 桜は俯いたまま、

「ごめんなさい、兄さん」

 何故謝る。俯いて、誰に、何を謝ってるんだよお前。誇ればいい。自分がマキリの後継だと。間桐慎二より上なのだと。たとえ望まないものだろうと、それだけは事実なのだと開き直ればいいじゃないか。そうすればこの意志はまだ奮い立てる。そんな座などいつか奪ってみせると宣誓できる。或いは、父や祖父と同じように無視すればいい。ならば僕の在り方は変わらずいられる。

 なのに。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。歌のように、呪詛のように耳を貫くリフレイン。
 俯いた桜。こちらを見ようともしない桜。これ以下はないとばかりに己を卑下している桜。
 
 ――ならば、その妹にさえ哀れまれる自分は、一体なんなのか。

 視界が揺れた。思考が霞んだ。腕が震え、足が覚束ない。止めなければ。桜の言葉を止めなければ。間桐慎二は終わってしまう。
 どうしたらいい。どうすればいい。
 考えた。考えに考えた。まともな思考などできなかった。そのまま結論は出た。
 こちらを見下す桜。自分を卑下する桜。自分が、この女の上に立つには。見下すには。自分を保つ為には。
 取り込んでしまうしかない。

 ――じゃあ、おまえは今から僕のものだ。

 桜を押し倒した。殴り、罵倒し、汚した。
 微かな、けれど初めて妹が見せた抵抗は、謝罪と罵倒に混じって消えた。
 愉悦などなかった。ただ強迫観念に押され、理性を無くした。
 その間も、間桐桜は、一度も顔を上げる事はなく。

 だから、その時少年の頬を伝い落ちたものの熱も、その意味も、互いに知る事はなかった。


 そんな夢を、間桐慎二は見続けた。

 
 過去の幻。取り戻せないもの。
 
「……だから、なんだって言うんだ」 
 
 呟き髪を掻き毟る。夢の中で。未だ悪夢は終わらない。
 そう、終わらない。慎二は理解した。これはイメージだ。間桐慎二の悪夢のイメージ。
 その次へ、繋げる為のステップ。
 次に来るのは悪夢ではない。そんな生易しいものでなく、もっと悪意のある――


 そうして、ソレの夢を見る。


 始まりの記憶は痛み。初めての悲しみは拒絶。
 放つ言葉は誰にも聞かれず、誰にも届かず、封殺された。
 なんで? なんで?
 疑問を浮かべる。ひとつ、ふたつ。
 なんでなんでなんでなんでなんで――
 みっつよっついつつむっつななつ――
 
 ――お前が、悪だからだ。

 吐き気がした。悪とは何だろう。わからないけれど呪いの言葉を刻まれた。憶えもない罪を科せられた。何もしていないのに。
 何もしていないのが、罪なのだろうか。しかし何もすることなどない。
 ただ怯えた。畏れた。悔んで、嘆いて、喚き続けた。何一つ報われないまま。
 周りの人が悪と呼ぶ。だから自分は悪なのだろうか。
 お前が悪いと怒る人。良かったと笑う人。あれが悪だと指差す人。自分は善だと喜ぶ人々。
 何が正しいのか。座して嘆いて捧げられる自分。悪を捧げて己は善だと安堵する民人。
 周りの者は笑んだまま。取り囲むように円を組み。
 悪であれ、悪であれ、と呪詛そのままに繰り返す。
 
     アンリマユ
 即ち、この世全ての悪。


 だから抗えぬ。暴かれ、晒されるのは己が濁。醜い闇。
 突き立てられる剣のように、それは我が身を食い破る。
 何故ならそれが罪。それが罰。悪であるならば罪を背負い、罰を受ける。
 必然。それだけの事。

「――いい、じゃないか」

 慎二は笑った。
 目の前の記憶を、体感する悪夢を、己が事のように受け止め、涙し、呻き、憤り、もう止めてくれと心で何度も繰り返しながら、それでもなお、その嘆きの主に笑いかけた。
 ただの条件反射。臆病な間桐慎二は、何があろうと自分自身を嗤えない。何故ならそれが始まりだから。決して自分を見捨てないという意志。
 最初から道化だった。最初から正しくなどなかった。それでも求めた。
 己の醜さなどどうでもよかった。他人の強さなどどうでもよかった。たった一つ、自分を認めるための理由だけが必要だった。
 それだけの事。
 それだけの、けれど決して譲れはしないたった一つ。
 顔が歪む。皮肉げに、嘲笑うように。

「それで、さ。いいじゃないか」

 それは侮蔑だった。憐れみの一片もなく、それは羨望を乗せた侮蔑だった。

「お前はそれでいいと、世界中に認められて、世界にさえ認められて、崇められて。何が不満なんだよ」

 悪であれ。そう呼ばれたならそれでいいじゃないか。何を畏れる。何を躊躇う。それこそ正に冒涜ではないのか。掴めるのに。手を伸ばし、願いさえすれば、世界中が自分を認めてくれるというのに。


 その夢はかつて見たもの。歪な聖杯と成り果てた間桐慎二が見せつけられた夢の一つ。
 泥は迫る。己を取り込もうと這いずり回る。それで終わりの筈だった。不完全な聖杯である自分は、その醜い肉塊の深く中心に沈み二度と剥離する事無く、心まで取り込まれて還る事など出来ないはずだった。
 だが。
 慎二は笑う。泥に飲まれ、悪に呑まれ、怯え、震え、恐ろしさに歯噛みしながら、笑う。お前なんかと、一緒にされてたまるか、と。

 ――ただそれだけが。決定的なまでに、二つを一つにしなかった理由だった。





 目を醒ました。
 覚醒は早く、淀みもなかった。悪夢の後にやたら素早く意識が戻るのは防衛本能の一種だろうかとつまらない事を考える。
「つっ!」
 頭痛。これも前と同じ。けれど。
(なんだ?)
 違和感があった。妙な頭痛。痛みというより、むしろ頭の中で強引に何かを切り換えたかのようなしこりと熱。

 ――ああ、そうか。

 唐突に、確信する。自分がかつて無意味と知りながら溜め込んだ知識の中に、答えはあった。
「あの悪夢は」
 思い出しながら、手のひらを動かす。あの時はそれ所ではなかった。だがいまなら判る。
 胸に当てる。とくん、と鼓動。そうして、
「魔、術」
 呟き、そうではないと否定する。これはそんな大したものじゃない。言うなれば呪いの残滓。けれど、出来損ないであろうと、それは魔力を持ってこの体に定着している。それを理解できる。
 つまり。
「魔術回路、だって?」
 呟き、そう言う事かと納得した。なるほど。

 聖杯の器とは即ち生きた魔術回路そのもの。
 それを持たない自分では器として注がれた魔力に耐えられるわけがない。
 それで生きているのなら。死んでないのなら。その上で間桐慎二のままであるなら。
 つまり自分は、魔力を通すのに適したカタチになった、という事だろう。
 ならばあの悪夢は、その強引に造られたモノに残った残滓か。

「は」

 つまり。
 この身は既に、魔術を扱うものとなっていたというのか。

「は、はは」

 そうして、気付く。自分の違和感。喪われたもの。

 念願が叶った。魔術。魔術回路。
 聖杯の話を聞いて、まず思ったのがそれだった。魔術師になれる。なってみせる。妹に壊されたものも誇りも何もかもを手に入れる。
 そして、望んだ筋道とも結果とも違ったが、自分の望みは叶った。
 今はただ、ある、としかわからない。その上、無理矢理生み出された在り得ないものだ。
 まともには扱えないだろう。それでも、こちらは知識だけは豊富にある。修練を積み対策を立てれば、この身は漸く魔術師と成る筈だ。
 ずっと求めていたものが手に入った。

 ――それなのに、満足感など何処にもない。 
 
 狂わなかったのは、それをとうに受け容れていたからだ。理解を拒んだのは意識だけ。
 目覚めた瞬間、この体は現実を受け容れていた。魔術師となった自分。望みを叶えた間桐慎二。
 けれど、それが叶ったとて何の感慨もない、だなんて誰が思うだろうか。
 その矛盾。命題の喪失は即ち己の意味の消失。だからこそ自分は、他に何一つ心動かされることなどなかったのだ。

「なんで」

 焦る。喜びがない。幸福もない。満たされた喪失なんて、曖昧で何が何だかわからない。
 
「なんでなんで」

 手を握る。開く。高揚もない。嘘だおかしい。自分は手に入れた。ならば今こそ高らかに笑い、桜よりも上を目指している筈だ。

「なんでなんでなんで――あ」

 呼吸が止まる。思考も停止する。
 ベッド脇。置いてある鏡。映った自分は。まるで帰る家を無くした子供のよう。
 目を覆う。力を抜き、ベッドに沈んだ。脳裏からあらゆる思考を排除したかった。出来はしなかった。

「僕は」

 呟きだけが、小さく響く。

「どうすれば、満たされるんだ?」
 



2: takya (2004/03/14 08:45:52)



 コンコン。

 扉がノックされた時、慎二は軽くため息をついた。
 予感があった。それは確信に変わる。
 ノックされるドア。躊躇するような雰囲気。
 こちらの都合も考えず、相変わらず間の悪い男。こっちは未だ自分の心が見つけられないのに。
 けれど出迎えねば。だからこそ話さねば。今のままでは変われない。
 さて、間桐慎二。無気力無感動なままでは会話にならないぞ。
 感覚を思い出せ。対応を引き出せ。僕らしい僕に。そうしなければ、得られるものなどないだろう?
 よし、と一息。自分は『間桐慎二』になる。
 そして皮肉っぽく唇を尖らせて、

「起きてるよ。――入ってこいよ、衛宮」





 ノックをして、ふう、と呼吸を一つ。
 俺は扉を前に緊張していた。
「兄さんが、先輩に、話があるって――」
 そう先日桜から聞き、こうして見舞いに来た、のだが。
 ……何を、恐がってるのやら。
 苦笑する。間桐慎二。友人。最後に会ったあいつは、随分と酷い姿で昏倒していた。自分もぼろぼろであったが。
 少し前、ここに足を運んだとき。慎二は桜と談笑していた。久しく見なかった光景だった。
 俺は踵を返して立ち去った。
 恐れがあった。前のように笑うようになった慎二。話したい事はある。色々と。だけど、もし自分を前にした慎二が、聖杯戦争の時のように歪んだ笑いに変わってしまったら。
 それは恐ろしかった。
 俺と慎二の関係。慎二と桜の関係。色々とうまくいかない事もあったけれど、今笑っていられるのならそれはとても嬉しい。
 壊したくはない。
 けれど。

「起きてるよ。――入ってこいよ、衛宮」

 その為には、きっと逃げてはいけない。俺はよし、と気合を入れて、扉を開けた。
 

 拍子抜けした。
 それは呆れるほどに、昔のように、気安く笑う間桐慎二だった。

「なんだい衛宮。随分間抜けな顔じゃないか」
「あ、いや」

 ほんとうに。どうしたんだ、と思わず尋ねるのも失礼だしできないが。

「おいおい。本当にどうした。調子悪いのかい? 僕みたいに入院してるわけでもないのに。あ、もしかして戦いの最中に頭を打っておかしくなったとか?」
「む。そんな事してないぞ。大体入院はしなかったけど俺だってあれから暫くは起きるのも辛かったんだから。あ」

 慎二が、あんまりにも自然に話題に出すので普通に乗ってしまった。聖杯戦争の事。

「……慎二」
「ん? なんだい? もしかして衛宮はまだ戦争気分なのか?」
「そうじゃない。ただ……」
「なら気にするな。受け止めろよ。あの戦争ってのはそういうものだろう? 結果が出たならそれが全てだ。禍根ばかり気にしてたら、結果だって見失うだろう?」

 慎二の言う事は、間違いじゃない。気にしないと言ってくれるのは、ありがたい事でもある。あるが、しかし――

「それとも衛宮はさ、恐がってるの? 僕と話すこと。いや……僕の罪を、咎める事を」
「!」

 言葉もなく。お互い、見詰め合う。慎二は俺を見ている。その笑みに前までのような歪みはなく、むしろ不自然に透明ですらある。
 
「僕は、気にしてないよ衛宮。僕がした事も、全部。僕の望みだ。後悔なんか、するわけがない」

 そう断言する慎二。俺は目を瞑る。入院した美綴。やったのは恐らくライダー。死んだイリヤスフィール。殺したのはギルガメッシュ。確かに慎二が手を下したわけじゃない。わけじゃないけれど、それでも、その横で慎二がそれを見ながら笑っていたというのは、それだけは――

「それでも許せない事はある、かい? は、流石は正義の味方だね」
「……なんでだ? 慎二。なんでお前はあんなこと――」
「あんなこと、なんて言うなよ衛宮。必要な犠牲だのなんだのお前と語る気はないけど、それでも、わからないくせにそんな風に言うな」

 鋭く返す慎二。一瞬だけ細まる瞳。けれどすぐに元に戻る。
 違和感。まるで、慎二が、慎二らしい反応をその場で選んでいるかのような。……まさかな。

「それよりも聞きたいのはこっちだよ衛宮。――なんで、僕は生きてる?」
「…………は?」

 質問の意味が、一瞬理解できなかった。理解を拒んだ。慎二は俺を見て、今日初めてその瞳に感情を込めて叩きつけるように、

「どうして僕もろとも殺さなかった。なんで、僕を死なせて――」

 がたん。

「――甘ったれてんじゃ、ないわよっ!」

 一撃。部屋に飛び込んできた少女、遠坂凛の放った平手は、勢いよく慎二の頬を張り飛ばした

「――ってとおさかっ!?」

 あわてて駆け寄り、頬を押さえて蹲った慎二にもう一発叩き込もうとしている遠坂の手を押さえる。
 遠坂も、それ以上は意味がないと理解していたのか、すぐに力を抜いて手を下ろした。
 ていうか。

「お前、病院で病人をぶっ叩くやつがあるかよ。って待て。なんでここにいるんだお前!?」
「桜に聞いたからよ」
「は!?」
「正確には桜と話してたのを聞いてたの。それで今日出掛けるとか言ってたから付けてきた」

 絶句。頭痛い。
 うう。俺の行動はこのあかいあくまにゃあ筒抜けってコトですかそれ。

「……随分といきなりなご挨拶だね、遠坂」

 おどろおどろしい声。あ、慎二。

「あら。バカにつける薬はないって言うでしょう? だから取り合えず黙らせて見たのだけど」
「おい遠坂。いきなり叩いておいてそれはないだ――」
「衛宮くんは黙ってて」
「ハイ」

 逆らえない俺。
 遠坂は、俺など既に眼中になく、慎二を睨みつけていた。
 慎二も見返す。そこに、憤怒も動揺も見られないのが変と言えば変だった。

「で、間桐くん。何か聞き捨てならない事を言っていたようだけど、もう一度言ってもらえるかしら?」
「殴りつけておいてそれは」
「…………」
「はいもう何も言いませんごめんなさい」
「……ふん。そう言えば、衛宮と遠坂って話だったね。まあ確かに、あんな状態の僕をそのまま普通の病院に運び込んだら変に思われる、なんて事は衛宮一人じゃ思いつくわけないか」
「ええそうね」

 何か酷いコト言われてるぞ俺。

「……で? 命の恩人のわたし達に、何を言いたいの?」
「何故、僕を助けた?」

 その問いに。遠坂は、救い難い馬鹿を見つけたように睨み付けた。

「――貴方が死んだら桜が悲しむからよ。それ以外にある?」
「は。ここで桜か。あんな奴をいちいち――」
「うっさい」

 ぴしゃりと遮る。そのぞんざいな物言いに、慎二は驚いたように口を止めた。

「いい、間桐くん? 貴方がどう思おうと、貴方は桜の兄なのよ。貴方だけが、桜の兄貴なのよ」

 遠坂は何処か必死げに、そんな事を言う。

「貴方がサーヴァントを使ってやったことの罪は絶対に消えない。でも、今更その事をどう思おうが貴方の勝手よ。誇るなり悔むなり好きにしたらいいわ。……けどね」

 そこで、胸を張る。呆と見る慎二を見下ろすように。

「このわたしが、貴方を助けたのよ。手間も暇もかけてね。だから、それを無駄にするようなマネは絶対に許さないから。覚悟しておきなさい」

 そう言い切ると、何事もなかったかのように「帰るわ」と呟いて踵を返す。
 ……扉のところで、立ち止まった。
 こちらは見ないまま。

「――貴方も、わかってる筈だけど、言っておく。魔術師の素質。自分以外の為に先を目指すもの。自己よりも他者を顧みるもの。そして、誰よりも自分を嫌いなもの。……誰よりも自分が大事で、自分の為にしか求められないような奴は、魔術が使えたって大したものにはなれないわ。絶対」

 そう言い捨てて、病室を後にした。
 取り残されたのは、呆然としたままの男二人。

「……なんだったんだ、いったい」
「あれが、遠坂だよ」

 思わず言葉が口をついた。

「生き残ったんだから、絶対に、精一杯生きて見せろ、って言ってるんだよ。たぶん」

 うん。つまりはそういうコトだろう。
 慎二は複雑そうにしてるけど。

「あと、慎二。俺がお前を助けたのは、お前が友達だからだ。許せないこともあるし、言いたいことなんて山のようにあるけど、今は止めとく。元気になったら思う存分言うからな。覚悟しとけ」
「――衛宮。僕はお前をバカだバカだと思ってきたけど」

 実際言われてたぞ、俺。 

「今日ほどそう思った事はなかったよ、この救いようのないお人よし。人助けにかまけて死んじまう前に、少しは矯正したほうがいいと思うぜ、それは」
「う……」

 脳裏に浮かぶのは、赤い男。『誰か』を助けて、助けて助けて助け続けて、自分を救えなかった男。
 少し苦笑した。

「――はは。それは、結構痛感してるよ、最近」

 慎二はため息を一つ吐き出して――それから、俺を真っ直ぐに見た。

「衛宮」

 その問いかけは、本当に何気ない、けれど、慟哭のような呟きだった。

「もし……自分がずっと信じてたものに、裏切られたらどうする」
「え?」
「自分にとって唯一だと思い込んでいたものが偽りだと、その思いさえ無意味なものだと、突きつけられたらどうする? 己が道化でしかないと思い知ってしまったなら」
「――」

 衛宮士郎が思い浮かべるのは、遠い剣戟。剣の丘。
 自分の路。自分の理想。その果て。
 けれど信じた。自分の在り方を。
 そして信じた。遠坂凛という少女の進む路を。彼女を愛する自分を。
 負けるつもりはない。けれど迷いは生まれる。
 もし、その想いにさえ裏切られる日が来たら、自分は――

「……探す、かな。ほんとうにそれが裏切りだったのか。いままで、そこに、その中に、かけがえのない、絶対に偽りじゃないと信じられる何か、が一つでもなかったかどうか。――それが見つかれば、多分、俺は変わらずに信じると思う」

 ああ、そんな風にしかできないだろう。それが自分。それが衛宮士郎。

「なんか諦めが悪いだけだな、これ。すまん」
「――バカだね」

 切って捨てられた。そして。
 慎二は、思いっきりバカにしたような顔で、にこりと笑った。
 
「バカだけど、お前らしいじゃん」

 まあ、その笑顔が、何故かとても優しく見えたから、それでいいとするか。

「――ん。それじゃ、そろそろ帰るとするよ。なんかお見舞いって雰囲気じゃ無くなったし」
「僕の頬には痣が出来たしね。桜が来たら大変だよ、まったく」
「う……」

 それについてはコメントできないので、そそくさと病室を後に――

「衛宮」

 振り返る。真剣な慎二。ふっと、一度目を閉じて、開く。

「――遠坂に伝えとけよ。そのうち、手を貸してやる、って」
「手?」
「ああ。『遠坂』の仕事――害虫駆除、だよ。十一年前の清算。そう言えばきっとわかるだろうさ」
「よくわからないけど……ありがとな、慎二」
「……何でわからないのにお前が礼を言うんだ?」
「え、だって遠坂の手伝い、って事は、何かあいつの助けになる事なんだろ? それならありがたいし、礼も言うぞ。普通だろ?」 
「…………」

 あ、なんか凄い複雑そうな顔。

「――まさか、衛宮からノロケを聞かされる日が来ようとはね。さすがの僕も思ってもみなかったよ」
「! って違っ! そ、そういうんじゃなくてだな!」
「あーはいはい。弁解はいらないよ。見舞い終わったなら早く出て行ってくれないか? 部屋が熱くってしょうがないじゃないか」
「――!」

 真っ赤な顔で、口早に別れを告げ、俺は慌てて病室を後にした。



 病院を出て、ひといき。あー。失敗した。
 まさかこれから慎二と会う度にからかわれはしまいかと恐ろしい考えが過ぎった所で――

「士郎」

 声。進行方向。並木路の木に寄り掛かって、遠坂凛がこちらを見ていた。

「お、どうした遠坂」

 遠坂は何も言わず、とことことこちらに歩いてきた。
 そっと手を握って、背中に回り、額をくっつける。なんだなんだ。

「ごめん、ちょっとだけこうしてて」
「ん」

 なんだろう。落ち込んでる? 

「どうしたんだ?」
「……ちょっと、ね。自己嫌悪、みたいな」
「慎二、別に怒ってなかったぞ」
「そうじゃないの。……そうじゃ、ないの」
「?」
「わたしさ、無意識に押し付けてたんだって、ちょっと思っちゃって」
「なにを?」
「桜の――」
「桜?」
「――なんでもない」

 ?
 遠坂は、しばらくそうしていたけれど、やがてよし、と呟いて顔を上げた。

「さ、行きましょ」

 俺は釈然としないながらも頷いた。握ったままの手の事は、ちょっと黙っておこう。遠坂、気付いてないっぽいし。
 俺達は二人、歩きだす。途中で、慎二の伝言を思い出した。

「そういえば遠坂」
「何よ?」
「あのさ――」





「――本当に。やれやれ、だね。まったく」

 衛宮士郎が赤面したまま部屋を出て行った後、慎二は疲れたように呟いた。
 あれじゃあ桜は勝ち目薄いな、なんてことを思う。本当に考えなければならない事は、それではなかったけれど。
 衛宮士郎と遠坂凛。正反対なようで、なかなかお似合いじゃないか。

「精一杯生きろ、か。難しいことを言ってくれるよ」

 精一杯、とはなんだろう。そっと、胸に手をやる。鼓動。生きている証。
 けれど感慨がない。最も望んでいたものが手に入った。なのに喜びの一つも沸かない。
 世界の全てが輝いて見える筈だった。世界に許されて、全てを許せる筈だった。なのに何もわからない。
 
「それでも、か」

 許さない、と彼女は言った。お前が唯一の兄と彼女は言った。
 間桐桜の肉親はそちらだと言いながら、悲しませたくないと言う彼女。本当は誰より、自分の手で守りたいのだと、そんな見え見えの本心を押し隠した態度。
 なんて、不器用なやり方。自分の知る彼女とは思えぬ思考。以前は気付きも、気付こうともしなかった事。

 ――あれが、遠坂だよ。

 そして、衛宮士郎。わざわざ祝福してやる義理はないが、どうかと聞かれればお似合いだ、と答えるだろう。
 勝者たる彼らは、もう前へ歩き出している。
 ならばここで燻る自分は、敗者ゆえか。そうではない。そうではないはずだ。

 そしてあの、最後の質問。するつもりはなかった。けれど口をついた、問いかけ。

 ――それが見つかれば、多分、俺は変わらずに信じると思う

 真面目な顔で。自らの選択を悔むことのない眼差しで。衛宮は言った。探すと。
 それが、あいつの生き方。変わりようのない在り方。
 相変わらず、ふざけてると思った。いつまでもお人よしな衛宮士郎。
 けれど、それでも。それが、あいつだと、笑ってしまった。

 自分はなんなのだろうか。
 聖杯戦争で、道化の己を覆そうとした自分。
 誇る事など無理だ。発動する結界。突然動いた影。一撃でやられたライダー。
 残ったのは、無様な自分と、それを一瞥して何事もなかったかのように立ち去った男。何を誇れる?
 だが、悔むこともしない。できるわけがない。魔術師になりたい。魔術師になりたかった間桐慎二。
 願うのは止められなかった。自分は魔術師だと。マキリの後継者だと。笑いたくば笑えばいい。だが諦めない。自分の価値だ。拠所だ。諦められるなら、あの日に全てを捨てているのだと。それを胸に戦った。
 だから後悔などない。

 なのに自分は、そうまでして手に入れたものに価値を見出せず。

 ――害虫駆除、だよ。

 あまつさえ、全てを棄てようとまでしている。後悔もなく。
 マキリを終わらす。マキリの術を、滅する。そうしてしまえば、自分に残るのはごく僅か。刻印もない自分では、大した魔術師にはなれるはずもない。

 ――誰よりも自分が大事で、自分の為にしか求められないような奴は――

 自分は何をどうすればいいのか。どうしたいのか。
 問いだけが増え、自分の答えを得られないまま。
 慎二は手を額に押し当てた。疲れた気分でベッドに身を沈めた。
 頭が痛い。無駄に考えすぎか、それとも。

 あの悪夢を、見るのだろうか?





 そうして、最後の夢を見る。


 それは、男の最期だった。
 縛られた四肢は既に感覚がなく、全身に刻まれた呪いだけが痛みを伝える。
 呼吸はまともに出来ず、吸い込むたびに毒でも飲んでいるかのように痛む。

 これで、終わる。

 そう思った。長くはない。もはや死は秒読みに入っている。これで死ぬ。――やっと、死ねる。
 終わるのだ。悪として。それでいい、と思った。悪のまま、悪として、疑問もなく。
 自らを苛む呪い。罪科。そして、それを恐れ、侮蔑しながら、満足そうにしている人々。
 狂気だけが続く世界。狂えた自分は、それだけでも幸せだった。

 なのに。

 四肢は動かない。呼吸は出来ない。死は秒読み。皆が見ている。この死を。悪の死に行く様を。自らが善と信じるための虚構だらけのイヴェントを、満足そうに眺めている。
 その中で。終わりまで後少しだった。五感などついえた筈だった。それなのに。

 ――かわいそうに。

 そんな。
 道理も判らぬ子供か。倫理も忘れた老人か。自らが只人であった頃を知る、狂気に乗り切れなかった村人か。
 誰のものとも知れぬ呟きが、微かに耳を震わせた。

 愕然とした。取り消せ、と唇は震えども言葉を紡げず、狂った呼吸だけが慟哭の証になる。
 今更。指の先まで悪であれと染め上げておいて、いまさら!
 もはや己の誇りですらあるこの『悪』さえも哀れまれてしまったなら、自分はいったい何だったのか。
 認められない。赦せない。今更。いまさら。この身は果てるというのに。やっと、死ねるというのに、その死すら穢すというのか!
 歯を食いしばる。手に力を入れる。殺してやる。そう思った。嘆いてばかりの自分が、初めて誰かを恨んだ。
 けれど何も変わらない。込めるだけの力などない。言葉一つ紡げない。
 だから思った。だから願った。
 死ね。死ねばいい。死んでしまえ。
 この身を悪と言うならそれでいい。悪でいい。悪とは苛むものだ。だから、お前ら全てを殺し尽くしたとて文句はあるまい――

 そこで意識は落ちた。
 表情一つ動せず、ただ心だけは何もかもを妬みながら、全ては消えた。
  
 それが。

 悪であれと囁かれ続けた平凡な男の、あっけない最期だった。
 
 

「――なん、だ」


 頭を抑え、慎二は呟いた。
 夢の中、男が死んだ瞬間、慎二もまた死んでいた。それ程に強い遺志だった。
 残滓でさえこれ程なのだ。もし取り込まれた状態で叩きつけられたなら、たとえ一瞬とて耐えられはしなかったろう。
 眩暈のように脳裏に残るのは、無様に死んだ道化の反英雄。

「同じじゃないか」

 最期の最期に全てに裏切られた男。或いはそれは、自分であったかも知れないものであった。
 都合のいい悪。憎悪を向けられ、人の感情を導き、断罪をその身に受けて人々を助けうるもの。つまりは道化。

「どうして、そうしなかった?」

 慎二は、闇に向かって漠然と問いかけた。結果は出ていた。自分は救われ、この悪はカタチをつくることもないまま退けられた。
 だが疑問は残る。アレならば、自分は取り込まれてもおかしくはなかった。けれどそうはならなかった。何故だろうか。
 答えは出ない。自分の生き延びた意味など見出せない。
 ――やがて、その夢は終わる。
 ぼろぼろと崩れ落ちる世界。間桐慎二の魔術回路に残っていた最後の悪意が剥がれ落ち、悪夢はそのカタチを失っていく。
 完全に崩れ去る、その直前。


 ――見覚えのない光景を、幻視した。


 辺りを埋める肉塊。その影に、浮き出るように張り付いた間桐慎二。
 その眼前に、疲れた様子で歩み寄る遠坂凛。

「……生きてる、みたいね。やれやれ。どうしてこのわたしが、貴方なんかを命がけで助けてるのかしら」 

 悪態をつきながら、傍に立つ。その溶けたような肌に触れる。

「でも、ま。貴方みたいなヤツでも、死んじゃったら士郎が悲しむし、わたしも寝覚め悪いし。……桜を、泣かせちゃうしね」

 力任せに、引き剥がして、担ぎ上げ、

「アンタ。これだけバカやって、懲りてなかったら承知しないわよ」

 
 ――そんな呟きを最後に届け、間桐慎二の夢は終わった。




3: takya (2004/03/14 08:49:18)



 そして目覚める。相変わらず意識はすっきりしていた。爽快などではなかったが。
 手のひらを、額へ。鈍い痛み。スイッチの切り換わり。
 胸に手を当てる。もうそこに、感じる残滓は何処にもない。
 体は快調。この調子なら、もうすぐ退院も叶うだろう。
 けれど空虚。満たすはずのものは意味を成さず、次に求めるものなどそうそう見つからない。自らの一生の祈願に勝る望みなどあるわけがない。
 衛宮は、どうなのだろう。あいつはいつも誰かの為に、そればかりで。飽きないのか。厭きないのか。衛宮みたいにしていられれば、自分らしく笑っていられるのだろうか。
 けれど。

 ――探す、かな。ほんとうにそれが裏切りだったのか。いままで、そこに、その中に、かけがえのない、絶対に偽りじゃないと信じられる何か、が一つでもなかったかどうか

 馬鹿で素直な衛宮士郎。僕はお前のようにはなれない。なる気も無い。だから見つからない。
 どれだけ探しても、かけがえのないものなんて、一つも―――

 ――桜を、泣かせちゃうしね

 は?
 
 ――貴方だけが、桜の兄貴なのよ

 ちょっと待て、今さらそれは。

 ――よかった、兄さん。

 確かに桜は泣くだろう弱くて愚かなあいつは自分を虐げていた兄が亡くなった事さえ悲しんで涙するだろうだからどうした泣いているからなんなんだいつもの事泣かせるのは自分泣かせるのは間桐の家衛宮の傍で笑うというなら別に好きにさせればいい僕には関係ないそれでも兄は自分だけいつかお前は思ったのではないのか――

 否定した。否定し否定し否定する度に浮いてくる兄さんという言葉ごと否定した。
 ありえない。自分の起源だ。確かな望みだ。それが、たかだか十一年前に現れた、馬鹿な妹に、自分を哀れんだ憎き妹に対し、それを補いうる望みなど持てるわけがない。
 なのに浮かぶ言葉。

 ――言いたい事があるなら、ちゃんと言えよ。
 
 そんな、どうという事のない一言でさえ、目標になりうるというのなら、何故今まで間桐慎二は魔術師を目指していたのか。

「あ――?」

 ・・・・・・・
 魔術師を目指す? 違うだろう? 欲しかったのは、望んだのは、血を吐くほどに求めたものは。

 ――誇り、じゃなかったのか?

 いつから、掏り替わっていたのか。いつから、標そのものになってしまったのか。
 ああ。そうか。全ては当然の事。未だ自分を誇れない自分が、魔術師になったとて、満たされる筈がない!

「はは」

 ああそうか。結局、自分はどこまでも間桐慎二だったのだ。道化だったのだ。
 魔術師だろうとなんだろうと。
 愛するのなら尊大に。
 交わす言葉は皮肉げに。
 挑むのならば侮るように。
 迷走する道化。
 ただひたすらに、己の誇りを求め続ける。
 どこまでも、それこそが自分。生まれてから今までの時間で創り上げた、変えようのない自分自身。

「あははははははははっ!」

 そうして、間桐慎二は躊躇なく自分を嗤いとばした。

 ――けれど、それで壊れるものなどあろう筈もなく。

 全ては錯覚。ほら、嗤った所でちょっとムカつくくらいのもの。この程度では揺らがない。
 なんて情けない。こんなつまらない話に気付くのに、一体何年かけたのか。


 鏡に映る道化は笑う、嗤う。一頻り体を震わせると、小さな涙を少しだけ零した。





 わらいすぎて咳をした。それで我に返った。
 病室。時計を見る。悪夢から醒めてから、それ程には経ってない。そろそろ桜が来る時間。
 それまでに、決めなければ。
 己を見失った間桐慎二は終わった。感情の動きも戻った。いや、見失っていたものを、取り戻した。
 ならば自分は、これからどうするのか。
 目標は一つ。誇りを手に入れる。その為に。
 出来る事は山ほどある。取り合えず、『今』を脅かすマキリは終わらせる。未練はなかった。この身は既に魔術師。大した事は出来ずとも、それだけでいい。魔術を身に付けるにしても、それがマキリである必要はない。マキリに縛られていては、きっと、何も変われない。
 そして、間桐桜。決めなければいけない。
 何が、最善か。

 ノックの音。

「起きてるよ」

 扉を開け、入ってくる桜。

「兄さん、今日は――ってどうしたんですか兄さん!」
「え?」
「頬! 腫れてるじゃないですか!」
「あー」

 すっかり忘れていた。

「気にするなよ、桜」
「気にするな、って……先輩、ですか?」
「ん? まあ、男の勲章、みたいなものさ。ま、桜にはわからないかな」
「また、そんな風に……」

 心配げにしている桜を前に、考える。
 自分はどうしたいのか。彼女に。彼女を。

「それよりちょっとさ、手、出してくれないか」
「? 手、ですか」
「ああ」

 首をかしげながら、手を差し出す桜。
 呼吸を一つ。覚悟を決める。
 
 さあ、間桐慎二。選択の時間だ。
 目の前には桜。こちらを見る。手を差し出す。最早これほどに彼女が顔を上げる機会などこの先あるかも疑わしい。
 ならば選べ。今こそ選べ。その手を前に決断を為せ。
 かつて狂気に壊した選択を、もう一度。
 道化でいるのか。変わるのか。その手を取るのか。払うのか。
 拒絶するのか迎合するのかその手を引くのか――縋るのか。

 さあ、間桐慎二。何を望む?





 手を差し出して、兄さんの目を見た。ひどく透明な目。そこに、何かが浮かぶのを確認する前に。
 ぐい、と体が引っぱられた。

「きゃっ!」

 ベッドに寝ていた兄さんと、引っぱられるまま位置が入れ代わった。
 そのまま押し付けられる。慣れた感覚。もう随分前から繰り返された行為。だからこそ、戸惑う。

「にい、さん? なにを……」 

 声にならない。確かめてしまったら、それが決定してしまったら、もしかしたら自分は泣くかも知れない。
 兄さん。声が出ない。最近は、とても優しかったのに。もしかしたらこんなことはもうないかもと、淡い期待さえしてたのに。

「なにを? 決まってるだろう桜。わかっているだろう桜。どうするのか。どうすればいいのか」

 ――ああ。

 私は目を閉じる。また壊れてしまったのか。どうして壊れてしまったのか。
 悪いのは私。何が悪かったのか、わからないけど。でも罰はすぐそこにある。耐えなくては。
 目をきつく閉じ、意志を殺す。そうしてしまえば、後は体が従うのみ。
 そして、伸し掛かったままの兄が、そのまま動く気配がして。

 ――――――――ぎゅうううぅぅ 

「!? い、いふぁいふぇふ!?」

 思い切り、頬を引っ張られた。
 まともに発音できない私を、可笑しそうに見る兄さん。やがて、その手が外れ、

「ひ、ひどいです兄さん! なにするんですか?」
「それくらい察しろよ馬鹿。こんなトコで変なマネ出来るワケないだろ? それとも何。お前、この病院中から変態兄妹呼ばわりされたいのか?」
「ちが、そんな事ないです! そうじゃなくて、どうしてこんな――」
「飽きたんだよ」
「――え?」

 呟きが。からかいから、真面目なものに変わったのを感じて、息をのむ。

「飽きたんだ、お前に。いい加減うんざりだ」
「に、にいさ――」
「呼ぶな」

 ぴたりと。言葉を止められる。頭が混乱している。兄さんは、何を言っているのか。

「ずっとさ、ムカついてたんだけど。お前さ、自分で気付いてないよな。それが何よりタチ悪い。ふざけるな、って感じだよ」
「なに、を」
「なに、も何も。解らないか? お前が、周りの全部を見下してる、って事だよ」
「え」

 息が止まる。呼吸を忘れる。忌々しそうにこちらを見る兄さん。いやだ。怖い。

「もっと簡単に言ってやろうか? 間桐桜は、間桐桜を馬鹿にしている。間桐桜は、兄である間桐慎二を馬鹿にしている。間桐桜は、姉である遠坂凛を馬鹿にしている。間桐桜は、想い人である衛宮士郎を馬鹿にしている。そう言う事だよ」
「ち、ちがっ! そんな事は――」
「ない、か? ほんとうに?」
 
 覗き込んでくる兄さん。それは、ほんの少し前までの狂気じみた眼差しではなく。全てを見透かされるようで、恐ろしくて俯いた。

「じゃあ桜。なんでお前は僕に謝る?」
 それは、自分が兄の夢を奪ったから。望んだわけじゃないけど、騙してしまったから。
「なんでお前は遠坂を姉と呼ばない。助けを求めない」
 だってそういう決まりだから。ほんとうは助けて欲しいけど、でも誰も迎えになんて来てくれない。
「いつまで、衛宮を騙してるんだ?」
 ちがう。騙してなんかない。ただ、知られたら、嫌われてしまうから。折角の幸せなのに。笑える場所なのに。見ているだけでいいのだ。せめてそのぐらいは壊さずにいてもいいじゃないか――

「だから、ふざけるな、って言ってるんだよ桜」

 ぐい、と眼前に。引っ張られる。目と目の合う位置。互いにキスするかのような距離で、向かい合う。兄さんの瞳。怒っている。いつかのように。いつだったのか、思い出せない。

「いいか。助けを訴えもしないのに、助けてくれないなんて論外だ。周囲に対する侮辱だろう、それは。それに衛宮を見ているだけでいい? 馬鹿。そんなだから遠坂にとられるのさ。何も言えないくせに、騙すことしか出来ないくせに。それで傍に置いてくれ? は、馬鹿だよな衛宮も。騙されてるとも知らず、そうやって――」
「やめて!」

 私は叫んで、兄を止めた。滅多にない抵抗。でも我慢できない。あの人の事に口を出されるのは、我慢が出来ない。

「だってしょうがないじゃないですか! 私、こんなに汚れて、でもあの人の傍にいるには、全部、全部隠して、もし知られたら嫌われるから、あの人を見ている資格さえなくなるから、知られたくなくて――!」
「そんな事を考える時点で、とっくに資格なんかないだろう桜?」
「――」

 あ、と声は出なかった。続く否定も、出ない。兄の言葉を止められない。

「衛宮は許すさ。いや、許す許さないもないか。僕は殴られるだろうがね。それでも、許すだろう。そんな事は、お前だって知っている。その否定は衛宮に対する侮辱だぞ桜。それでもお前が隠すのは、お前自身が嫌だからさ。それ以上惨めになりたくないからさ。――だがな、桜」

 見つめる視線は、射殺すかのように。

「それ以上に、お前は、いつも自分を見下してる。自分なんか、仕方ない、どうしようもない。そんな言葉で誤魔化して諦めていやがる」

 放つ言葉は、叩き潰すかのように。

「それじゃ救われないだろ。お前を、妹と呼べないお前をそれでも気にかける遠坂も、お前の本当なんて何一つ知らないで、お前を信頼して、聖杯戦争の中でもなんにも気付かずお前を『守るべき平和』に含めてた衛宮も、そんなお前にさえ見下される僕も!」
「わたし、見下してなんか――」
「顔を上げろよ桜! お前、誰を見てるのさ。何を見てるのさ。誰に、何に対して謝ってるんだ。いつまで謝ってやがるんだよ。ふざけるなと言っただろう間桐桜。お前が謝ってる間桐慎二ってのは、お前の視界の何処にいるっていうんだよ。答えられないだろう? こっちなんか見てやしないんだから!」

 ――それ、は

「もう一度言うぞ。いつまで謝ってるんだお前は。何でいつまでも言いなりになってやがる。お前にとって、間桐慎二って奴は、それほどに、一片の反論さえ赦されぬ程に、無様なのかよ? いつまでもいつまでも哀れだって言うのかよっ!」

 ――皮肉にも、間桐桜が初めて見る、兄の涙する姿だった。

「黙ってれば丸く収まると考えたまま俯いて回りを見ようともしない。世界はそこにあるのに、お前を認めているのに、手を伸ばせば届くのに! ふざけるなよ桜! お前は我慢してるんじゃない。偽善でさえない。周りを見下して、何事もなかったかのように振舞ってるだけだ!」

 私は、俯くこともできず。
 ただ呆然と兄を見ていた。涙を流して訴えられる言葉を受け止めていた。
 その姿は、泣いている兄の姿は、けれどそれでも無様でも哀れでもなく。
 ああそうか。ただ、納得する。
 彼を兄と呼ぶ自分。しかし、自分が兄さんと呼ぶ人は、一体どこにいるのか。
 目の前か、あの汚される日以前のどこかか、或いは初めて出会った日か。
 自分はほんとうに、間桐慎二というひとを見て兄さん、と呼んでいたのだろうか。
 弱い自分。臆病な自分。
 いつまでも俯いたままで間桐慎二を兄と呼び。
 まともに目も合わせられない衛宮士郎に憧れた。
 
 何度も何度も謝って、謝りながら、いつか兄さんが許してくれないかと。昔みたいになってくれないかと。
 自分は報われなくてもいいと、不幸でも仕方ないから、せめて少しだけでも笑っていたいと。
 なんて、自惚れだろう。
 相手を見ようともせず、押し付けた。相手を知ろうともせず、諦めた。

 ……ああ、私はずっと。何処を見つめていたというのか。

「だからね、桜。もう飽きたんだ。自分一人好きになれないヤツに、兄呼ばわりなんかされたくない」

 その言葉と共に。私は、兄から解放された。
 よろよろと、歩く。出口へ。
 振り向けない。兄はどんな眼で自分を見ているのか。怖い。
 けれど。

「桜」

 声。小さく、鋭く。私は、怖くて、怖くて怖くて――兄に、完全に見捨てられるのが怖くて、振り向く。
 顔は上げられない。俯くことも出来ず、視線は中途半端なまま。
 ちらりと兄を見る。間桐慎二。自分の兄。たぶん、初めてまともに、その目を見る。
 
「今のお前に兄と呼ばれる気はない。……でも、まあ、いきなり呼称を変えろってのも難しいだろう? チャンスをくれてやるよ桜。そうだな、衛宮あたりに告白なんてどうだ?」

 びくりと震える。告白。告白? 無理だ、そんなの。

「別に全部ぶちまけろなんて言う気はないさ。そうだな。あいつの監視の事とか。騙してたと教えて、で許しを貰って、後は想いを伝えればいい。――それでも嫌なら、そうだな。遠坂を姉と呼ぶってのでもいいぞ。あいつの呆然とした顔なんて、面白そうじゃないか」

 ひどい。どうしてそんなに、出来ない事ばかり言うのか。叶えられないものばかり望むのか。 

「出来るだろ桜? 出来るはずだろう桜? 全てに耐えられるのなら。そんなのは痛みでさえないんだよ。普通は。出来るはずなんだ。自分に誇りを持てるなら。自分を、微かにでも好きになれるなら。自分を好きだと言ってくれるお人よしに囲まれて、逃げたくないと思うなら。応えたいと思うなら、そんなのは、呼吸をするより楽に出来るはずなんだよ」 
「あ――」
「なら答えは簡単だ。衛宮も、遠坂も。お前が好きかと聞かれれば、問答無用で頷くだろうさ。――お前、それさえ裏切るのか? それでほんとうにいいって言うのか?」

 呆然と見る。兄。兄の瞳。そうしてやっと、思い出す。怒ったようなそれを見たのは、もうずっと昔の――

 ――言いたい事があるなら、ちゃんと言えよ。

 ああ。理解する。その言葉。懐かしい言葉。けれど一度も守れなかった、小さな小さな兄さんの言葉。

 ほんとうにずっと、自分は間違えていたのか。

 歯を食いしばる。手を握りしめる。俯くなと叱咤する。けれど顔は上げられず。
 兄さんとも、ごめんとも言えない。それはきっと自分の甘え。
 そして、彼は自分に完全に失望するだろう。それは怖ろしかった。
 いつかの昔。弱かった自分。転んで、泣きそうだった自分。手を掴み、立たせ、助けてくれた兄。
 それは、虚構に気付かれるまでの事でしかなかったけれど、それは、待ち望んでいた姉の手ではなかったけれど。

 ――それでも、壊れかけていたこの心が微かに楽になったのは、いったい誰のおかげだったのか。

 だから、その事に。だけど、今までの事に、私は謝れず、謝る強さを持てず、それでもただ、静かに、手を握りしめ、

「――ありがとう、ござい、ます。……また、――来ます、から」

 それだけを、小さく。そして、

「ふん。まあ、期待しないで待っててやるさ」

 一瞬目が合う。力強い眼差し。ああ、信じられない。兄が、皮肉げに、まあがんばれよと言いたげに笑っている。
 私は、唇を引き、それを少しだけ見返した。
 そうして、私は踵を返し。
 病室を出て、歩き出す。
 一歩。二歩。三歩。――視界が、歪む。

 だめだ。泣くな私。泣くんじゃない私。
 嬉しいからって、泣かないで。
 今までの日々を悔むなら。それでもそれを認めた上で、先へ進みたいのなら。
 
 笑ってみせろ、間桐桜。

 まずは、いつも暖かなあの人の前で。
 私が唯一笑える、あの人の傍で。
 きちんと向かい合って、笑って、話をして、好きです、と告げて。
 そして姉さんとも、ちゃんと話して。
 そうしていつか、いつかきっと。
 兄に会いに行こう。意地悪で素直じゃない兄に。
 そうして文句を言おう。兄さん、と呼びかけて、ずっと思ってきたことも、今思ってることも、しっかりと伝えてやって。

 それから私は兄と笑って、ごめんなさいとありがとうを告げるのだから。

 視線を前へ。胸は晴れず、けれど視界は以前より上へ。
 桜並木が見えた。春には桜が咲くだろう。いいな。みんなで花見、したいな。
 それまでに、笑えるだろうか。無理かもしれない。わからない。
 でも、

「……負けたく、ない、なあ」

 春にはきっと綺麗な花を咲かせる桜に、負けたくない、と生まれて初めてそう思った。


/ 


「――ふん」

 桜が出て行くのを見送った後、軽く息を吐いて髪をかきあげた。
 結局の所、自分は何を求めていたのか。望みはなんだったのか。こうして一つの結果を出してなお、それは判然としなかった。
 
 ――けれど、それでいい、と思ってしまった。

 元より道化の自分。求めたものに意味は無く、手に入れたものの価値は解らず。それでも欲し、望むのが自分。
 こんな事を繰り返し、何度間違えて躓こうと、それでも自分は間桐慎二。
 己を信じ、全てを肯定し、前に進む以外に出来る事など何もない。

「――なら、いいさ」

 今は迷おう。そして進もう。誇りを手に入れる為に。
 それが、間桐慎二が今選べるただ一つの選択。

 そして、出て行った桜を想う。最後に交わした一瞬の視線。
 放った言葉は限りなく本心だった。恥も外聞もなく。それに対するあいつも、最後の視線は本物だった。
 彼女は、変わるだろうか? 
 ……難しい、と思う。
 未だ取り払われぬ蟲の闇を全て滅ぼしたとて、勇気を胸に動いたとて、そうそう変わるものではない。
 なにせあの家での仕打ちに十一年耐え続けても愚痴一つ外へは洩らさなかった少女だ。その心根の堅牢さは証明されている。
 たとえその門の鍵を開けたとて、簡単に外に出れはしないだろう。

 なのに、自分は期待している。
 
 得られるかもしれないと。この胸を満たすには足りなくとも、それでも微笑めるだけの暖かさは得られるかもしれないと。期待している。
 兄は妹を守るもの。そんな一般論を、いまさら唱えるつもりは全くなかったが、けれど、それでも――

(もしあいつが、僕をまた兄と呼ぶようになるのなら)

 そんな未来を半ば本気で考え、バカバカしくなって顔を抑えて嘆息した。

 夜明けは遠い。彼はどうしようもなく道化のまま、彼女はまだ弱く臆病なまま。誰も彼もが不器用なままで、明けない夜は未だ続く。
 それでもいつか。
 いつか彼女が、何でもない事のように微笑んで彼を兄と呼べる日が来るのなら。

「……何、考えてんだか」

 笑い飛ばして、ベッドに身を沈めた。
 目を閉じて、意識も沈める。
 その脳裏に何を思い描くのか、自分自身にさえ隠すように。
 


 鏡に映った大馬鹿者は、何があったのか顔を顰めたまま微笑んでいる。



END





あとがき

 明らかに需要のなさげかつ稚拙な話を読んで頂き、ありがとうございました。
 前作夢見る彼の人へがなんだか予想外に褒められて恐縮しまくりなんですが、そちらを読んでくれた人、褒めてくれた人もありがとうございました。

 勢い任せの二作目。所謂都合のいい悪役であるアンリマユと、それと一緒になりながら助けられた慎二。あと間桐兄妹への疑問とかを書いていこう、としたのですが。何か話が迷走してますね。慎二救済、とか言うつもりもなく、むしろ悩めとばかりに勢いで書いたからでしょうか。
 学のない自分には設定の理解は難しく、アンリマユとか聖杯とか自己解釈に脳内妄想を加えた設定になってるので、この設定おかしいですよ! とか慎二キャラ違うとか思ってしまった人、すみません。
 技巧も経験もなく、思うままに書き連ねる事しかできないので、話の構成とか長さの調整が上手くいかないです。精進必要、です。

 なんて振り返ると気になる点ばかりですけど、最後まで読んで下さってありがとうございました。


 誤り修正。恥ずかしすぎなのでどこかは聞かないでやって下さい。ヒントは子供慎二の台詞の三乗。
 穴があったら入りたい。



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