「……クラ」
誰かが、呼んでいる。
「……い、サクラ」
これは、誰の声だっただろう。
「……てください、サクラ」
心の深いところに刻まれている、大事な誰かの声だったはず。
「起きてください、サクラ」
そうして瞼を上げると、そこには、
「ふぅ、やっと起きましたね、サクラ。こんなところで寝ていては、風邪をひきますよ」
そんな風に言いながら穏やかに微笑む美女の姿があった。
「…………」
腰まで伸びた艶やかな髪、知性と凛々しさを秘めた綺麗な瞳、女のわたしから見て、なお美しいと思えるその姿。
誰だろうと考えるより早く、
「……らい、だー?」
唇が、彼女の名を紡いでいた。
「ええ、そうです。サクラ、まだ寝ぼけているのですか?」
……ああ、そうだ。彼女はわたしのサーヴァントで、友人。
「……うん。ごめんねライダー。ちょっとぼーっとしているみたい」
「無理もありません。こんなにいい陽気なのですから起き抜けはぼうっとするのも当たり前でしょう。先程起こしたタイガもそうでした」
言って柔らかく微笑む。
……タイガ。それは、誰だったろう。
「もっとも、タイガは一年中あんな調子ですけれど。あれでよく他人に何かを教える、なんて職が務まるものですね」
教える……タイガ……藤村、大河。
「そう、藤村先生、来てるの?」
「ええ。そろそろ食事なので庭先で眠っていたのを起こしてきたところです。今は居間でイリヤスフィールと遊んでいるのでは?」
「イリヤスフィール?」
ほんとに寝ぼけてるみたい。全然頭が動かない。
「はい。幸い食事の支度はリンとセイバーが行っています、むしろタイガとイリヤスフィールが遊んでいるのは邪魔にならなくていいでしょう」
……リン、遠坂凛。わたしの、姉さん。
姉さんはともかく、セイバーって誰だっただろう……?
「さあ、行きましょうサクラ。みんなサクラが来るのを待ってます」
くいとライダーに手を引かれて、わたしは揺り椅子から立ち上がった。
広い、この家の廊下を通って、辿り着いた居間では、ライダーの言った通り藤村先生と白い女の子がとっくみあいをしていた。
「タイガ、イリヤスフィール、埃がたちます。あまり騒がないように」
そう言いながら、台所から大きなお鍋を抱えて女の子が姿を見せる。
金の髪、緑の瞳、ライダーとはタイプが違うけど、やっぱり凄く綺麗な女の子。
「サクラ、目を覚ましたのですね。すいませんが、リンを手伝ってくれませんか? 私はタイガとイリヤスフィールをどかしますから」
鍋をひっくり返されてはたまりませんと、彼女は呆れたように言って、藤村先生と白い女の子の首根っこを引っ掴んだ。
それをぼーっと見送るわたしに、
「こら桜、なにぼーっとしてるのよ。こっち手伝ってって、セイバーが言ったでしょ」
台所から聞こえてくる、姉さんのちょっと怒ったような声。
「あ、はい。ごめんなさい、姉さん」
早足で台所に入ると、姉さんが真剣な顔でコンロの前に立っていた。
「おはよ、桜。悪いけど、今ちょっと手を離せないの。そこのお皿、持ってってもらえる?」
「はい、わかりました」
言われたとおり、積まれた皿を持って居間に戻る。そこにはさっきまでの騒がしさはなく、ライダーが一人布巾でテーブルを拭いていた。
「ああサクラ、少し待ってください。今拭き終わりますから」
わたしの方をちらりと見てそう言うと、ライダーは布巾を動かす手のスピードを速める。彼女の出自を考えれば、そんな家事なんて一度もやったことがないと思うんだけど、その慣れた手つきはすっかり主婦のものだ。
なんの変哲もない、食事前の風景。
けど、それで、わかってしまった。
……違う、わかってたのに、騙されていたかった。何もかもわかっているくせに、ぼんやりとしたフリをしてたんだ。
何十年経っても変わらない、甘えたがりのわたし。
少しでも温かい景色を見たら、そこに留まりたいと思ってしまう。弱虫で、泣き虫のわたし。
「……ああ」
こんな光景を、何度も夢に見た。
お姉さんみたいな藤村先生がいて、本当の姉である姉さんがいて、やっぱりお姉さんみたいなライダーが微笑んで、セイバーはしっかり者のくせに妹みたいで、白い少女は無邪気に笑う。
そんな、一度も実現しなかった景色を、本当に何度も見てきた。
でも、
「やっぱり……先輩は、いないんですね」
そんな都合のいい夢に、この家の本当の主人である先輩が出てきたことは一度としてなかった。
あの日、壊れきった、人間のカタチすらしていなかった背中を最後に、先輩の姿を見たことはない。夢ですら、わたしはあの人に会うことが出来ないのだ。少し残念だと思うのと同時に、その事実に安堵する。夢なんて都合のいい作り事に先輩を登場させたら、きっとわたしは夢から戻ってこれなくなるだろう。
先輩を失ったあの冬の日から、わたしがしてきたことと言えば、ただ自分のために生きてきたことだけ。妬んで、恨んで、殺して、壊して、犯して、侵して、冒して、全部自分のせいなのに、なにもかも人のせいにして、そんなわたしがしてきたことは、自分のために生き続けることだけだった。
だって、穢れたわたしが、人のために出来ることなんてないから。せいぜい誰の迷惑にもならないよう、ひっそりと生きていくしかない。
本当は死んでしまうのが一番なのかもしれないけど、弱虫で泣き虫のわたしは、自分で自分を殺せない。誰かが殺してくれようとしても、土壇場できっと抵抗してしまう。本当に、醜い、生き汚い、浅ましい。
それでも、
『奪ったからには責任を果たせ、桜』
先輩のその言葉を頼りに、わたしは生きてきた。
罪の所在も、罰の重さも、償いの仕方もわからないままに。ただ生きて、春を待ち続けていた。
そうして気付けば、わたしは舞い散る花吹雪の中に立っている。
夢と現実の間、目覚める瞬間に見る景色は、いつも花。
そのわたし一人きりの世界に、人影が一つ、あった。
「せん……ぱい……?」
そんな都合のいいことがあるわけない、そうして目を開けば、
「…………」
いつも通りの衛宮邸の庭が、そこに広がっている。わたしが植えた、贖いの花たち。それは今なお増え続けていて、わたしの罪が赦される日が遠いことを囁いている。
「あ、あの……」
ぼんやり庭を眺めていると、すぐ隣から聞いたことのない声。
そちらを向くと、
「おはようございますっ、先生!」
どこか見覚えのある女の子が、そんなことを言いながら頭を下げていた。
「…………」
……わたしは、先生なんて呼ばれることはしてないと思うんだけど。そもそもこの子は誰だろう。とりあえず、
「はい、おはようございます」
なんて、わたしは律儀に答えてから、
「それで、貴女は誰なのかしら。可愛いドロボウさん?」
姉さんみたく、ちょっと意地悪して聞いてみた。