たいせつな。
思い出してはならないものを、失った。
今、俺は桜と二人で笑えている。
隣にはライダーがいる。たまには遠坂が来てくれる。
きっと幸せだと。
桜に問いかければ答えてくれるはずだ。
けれど、俺は。
幸福を感じているのに、何故口に出来ないのだろう。
見上げるのは庭に咲く満開の櫻。
わからない。
櫻の下には、一体何が埋まっているんだっけ――。
タイトル『もう君を殺さない』
今日、遠坂が倫敦から一時帰国してきた。
一年ぶりの再会は、夜が更けるまで会話に華を咲かせた。
時刻はもう零時過ぎになっている。
夜櫻というのは不思議だと思う。
太陽の下では、薄い色彩が集まって豪華にまで映るというのに、月を冠した途端印象を変える。
薄紅がより艶やかに、朱を帯びた気がするのだ。花弁一枚一枚が浮きでるように露わになる。
華に酔う、とはこの事だろうか。
そう、時折酔ったように既視感に襲われる。
常に拭えない翳があった。
あの戦争を振りかえり、自らの行いを反芻する。
ならばこの翳りは当然だった。
しかし、翳というものは陽光に背を向けたものだ。
胸の内には陰ですらない、暗過ぎる空白がある。
欠けてしまって、何も無い個所がある。
記憶が疼くたびに、俺は桜に問いかけるのだ。
「なあ。俺はまだ、全ての記憶を取り戻してないのかな」
決まって桜はまだ瞳を揺らす。
「気のせいですよ、先輩。もし思い出せない事があったとしても、それは忘れるべくして忘れているんです」
笑顔にはふと翳がさしたみたいで、逆に申し訳なくなってっしまう。
俺よりもつらいのは桜のはずだと、頭を殴ってやりたくなるのだ。
桜が席を外した時、同じ問いかけを遠坂にしてみた。
「なによそれ。人間忘れている事なんで山盛りあるわよ。第一、忘れるって事はそうする必要があるから忘れるのよ」
姉妹のせいなのか、同じ理屈を言ってくる。
正論なのはわかっている。
「でもさ、俺の場合は忘れたんじゃなくって、取り戻してないだけって事にならないか?」
「だとしたらお手上げよ。だって魂レベルの記憶障害なんでしょう? 霊子ハッカーとか専門家にでも頼まない限り不可能よ」
「何とか探して、頼めないかな。その専門家に」
「アンタね、自分を他の魔術師に見せるって事が何を意味しているか判らない? 脳髄ホルマリン付けどころか全身余すとこなく解剖されて液体窒素で永久保存よ。――馬鹿なこと考えないで」
本当に正論で、ぐうの音も出なくなる。
春とはいえ、太陽が沈んで久しい深夜の風は、時折肌寒い。
一陣強く吹いて、櫻の花びらが舞い散った。去っていく薄紅を追って振り向く。
「……ライダー? どうしたんだ、こんな夜更けに」
気配もさせず、もう一人の同居人が立っていた。その素顔は、周りの夜闇より黒い何かで隠されている。
「久々だな、その目隠し」
「ええ、日常生活には不適合ですから」
ゆっくりと空気さえ揺らさずに歩み寄ってくる。
「……なんなんだい、、ライダー」
彼女を向き合う形になる。目を合わる代わりに、黒光りする拘束具を注視する。
月が隠れた。瞼を閉じる様に夜闇が深くなり、浮かび上がるのは櫻だけ。
花が囁く様に揺れている。
耳を澄ませて、ライダーが語るのを待った。
「今から行うのは、私のエゴです」
最近のライダーの声音は慇懃ながらも穏やかだ。家族としてのものだ。
でもこの声はサーヴァントとしてのもの。やはり久しく耳にしていなかった。
「シロウ」
「――え?」
胸中が、ざわめいた。
今更何故、彼女の言い方を――“彼女”?
「どうして日課を土蔵で行わなくなったのですか」
心音が高鳴った。銅鑼を打ち鳴らすに似ている。
何故だ。
何を恐れている。
「別段、あそこで行う必要は、ない、し」
顔を背けたかった。
でもどうしても目が離せない。
「何故この発音で動揺するのですか」
紫の長髪が波打つ。
暗闇がうねる様に濃密を変える。
真実酒に酔ったように、ぐらぐらと眠気に揺さぶられている。
「貴方は取り戻していないわけでもない」
光景が、るつぼになってぐるぐる溶かされる。
「人間は、重度の情緒から自己を守るために、記憶を封じる事があるそうですね」
忘れるのは、必要があってこそ忘れるのだと。
「貴方を鞭打つつもりはない。しかし――」
取り戻すべきものではない。
「私達この世の部外者は、マスターにまで忘れ去られてしまっては」
資格はないと。
そんな事まで忘却の彼方に置き去りに。
「存在まで、殺される事になる」
絵の具は混ぜると黒くなる。同じ様に意識は塗りつぶされて、沈んでいく。
地面が無くなる。咲き誇る櫻の下へと沈んでいく。
「貴方が忘れる限り、内なる彼女は」
そのまま最後の洞穴まで墜落し、
『あ――――シロ、ウ――――?』
金色の瞳まで落ちていき、
「永遠に、殺され続けるのと同義ではないのですか」
――絶叫を上げた。
随分と錆びついた音を立てて、土蔵の扉が開いた。
そうだ。俺は身体を回復してから一度足りとも、ここに足を踏み入れてはいない。
雲がたゆたい、月明りを地上に許す。
土蔵に蟠っていた闇が四角く切り取られる。
俺の記憶と同じ様に、封じられた個所に光が挿し込まれる。
蒼いとも思える月光。
――彼女はこんな夜に現れたのだ。
ライダーは夢の中で言った。
『自我の崩壊を防ぐための忘却。それほど彼女が大事だったのですか』
家の隅々にまで、彼女を思い出す引き金は転がっている。
しかし見過ごす事ができた。けれどここだけは不可能だと、本能が悟っていた。
――地獄に落ちても忘れないと。心に刻み込まれたのだから。
『貴方自身、最後まで自覚していなかった様ですが』
君を忘れると。
思い出す資格は無いと、自分を裁いた。
しかし結果は自己防衛のための記憶障害。
なんて無様で浅ましいのか。
俺はただ、
『見せた私には感じ取れました――貴方は』
奇麗なものを汚した事実が耐え難く、
『セイバーという少女に、淡い恋慕を抱いていたのかもしれませんね』
奇麗なままに、手にとどかない場所に保とうとしただけではないのか――。
地面に拳を叩きつけた。骨を潰した。血が滲んだ。
『貴方が忘れる限り、内なる彼女は』『永遠に、殺され続けるのと同義ではないのですか』
自分を殺したくなった。迸ったのは一端に過ぎない。
君を忘れる。思い出す事など許されないと、その意味は。
「違う――誰が逃避の為に、無かった事にする為に忘れるなどと誓った!!」
血を吐く如く、咽喉を張り上げる。
「ふざけるな、こんなの畜生にも劣る……!」
たった一人のために全てを棄てて、エゴの全てで奪い尽くした。
選ばなかったものを殺した。
有り得ない夢の様だった過去は、もう眩し過ぎて。
この手で思い出にする事さえ、罪悪だった。
そう。彼女を思いかえす資格は無い。だから忘れる。
その代わり、犯した罪を、魂にまで刻み込む。
罪は背負うものでも、忘れるものでもない。
刻まれるものだ。何故なら自分とは積み重ねてきたものであり、罪もその一部。
罪悪とは自らと一体なのだ。
俺は常に鮮血を流しながら、笑い続けなければならない。
涙するなど許されない。許しはしない。
あらゆるものから搾取した義務として、目的を叶えなければならない。
犠牲は数え切れないほどに、巨大なのだから。
櫻の下には一体何が――。
もう一度、君を忘れよう。
代わりに君を殺した罪を、君がいてくれた事を魂のカタチと刻む。
手にした剣を、深く自らに突き立てるように。
だから、もう思い出さない前に、一つだけ許して欲しい事がある。
自らを痛めつめる様に、勢いよく跪いた。けれど頭を垂れる事は許さない。
「誓う。もう二度と、君を殺さない」
血を滲ませて、それでも笑う。
明日は皆で櫻を見に行く。
きっと、見事なまでに奇麗なはずだ――奇麗でなければならないのだから。