胸中、穏やかならず  (M:桜 傾:ほのぼの)


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1: うづきじん (2004/03/11 00:53:58)

 戦いに臨むに際して、武器を携える。周りの人間が持っていない、わたしだけの武器を。
 『戦闘経験』の乏しいわたしにも、分かっている事は有る。冷厳な事実にして、数少ないこの世の真実。
 
 ―――曰く。徒手空拳よりも、武装した方が強い。

 手に持つ一振りの剣は、それを貫けるかどうか定かではない。少なくとも今までは、致命に至る傷は与えられなかった。
 刃を露にしていないと言う事を差し引いたとしても、これが決定打を放つほどの武器―――などと、わたしは過信していた訳ではない。
 だけど、それでも。他に武装は数あれど。
 わたしだけが持っている武器は、この一つだけだったのだから。
 縋り付き、振るおうと。
 そう決意した、その矢先。
「おはよう、サクラ」
 最早不本意ながらも見慣れてしまった、その姿を見やる。
 和風の屋敷にはそぐわない筈の、その姿。蒼い瞳、華奢な肢体、真白の服。そして。
 捧げ持つ大鍋に触れるくらい、ふくよかで柔らかそうで形の良い。

「……おはようございます。リーズリットさん」

 『そこ』からは敢えて目を逸らしたまま、間桐桜は呟いた。





  『胸中、穏やかならず』





 そもそもの話。周りの女性が揃いも揃って、難敵過ぎると桜は思う。
 身に帯びる武器は、切れれば良いと言う物ではない。それが帯びた目的は、目を惹き、心を奪う事。
 『他には誰も持っていない』。その唯一性こそが重要なのに。
「あ。士郎、このお味噌汁、美味しい」
「昨日のポタージュの雪辱だからな」
 料理とか。
「んー。シロウ、私、魚嫌い」
「好き嫌いは駄目。大きくなれないぞ」
 妹の様な立場とか。
「うんうん、美味しいよぅ。おかわりー」
「……藤ねえ、食い過ぎ」
 家族の様な立場とか。
「シロウ。煮物の味はどう?イリヤの舌に合わせてみたんだけど」
「―――あ、いや。美味しいです、ほんとに」
 …………。
 先輩が。私の『後輩』に存分に切られている。その姿を見て、心が沈む。
 大体、なんで。リーズリットさんの時だけ態度が違うんだろう。
「―――先輩」
 試しに声を掛けてみる。
「このお魚、良く焼けてて美味しいです」
 先輩が視線を向ける。穏やかな、嬉しそうな顔。
「そっか。ありがとな、桜」
 その表情は愛しく。眼を向けられる事は嬉しかったのだけど。
「……なんで、赤くならないんですか」
「へ?」
 間の抜けた―――ごめんなさい。でも先輩のせいなんですから―――態で呟く彼に。
 答えは返さず。無言のままに、食事を終えた。







 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。リーズリット。セラ。
 遠く異国の独逸から、この三人が衛宮家に頻繁に出入りする様になったのはつい最近の事だ。正確には、三人揃って―――と言う意味でだけれど。藤村先生の妹分、二者の主であるイリヤちゃんですらその期間は三ヶ月に満たない。リーズリットさん達に於いては未だ一月と経ってはいない。
 恐らく先輩への好意から、頑なに衛宮家への逗留―――正確には藤村組への、だが―――を望むイリヤちゃんの下に、二人が訪れたのはつい先日の事だ。自宅への帰還をイリヤちゃんが跳ね付けるのを見届けると、リーズリットさんは早々に自分達の去就を定めた。
 即ち、主と同じ境遇を。
 ……藤村先生のお祖父さんは、良い人だけど懐が広すぎるのが恨めしい。結果として、二人は今や藤村組のお手伝いさんとして人並み以上の働きを見せていると言う。
 それは別にわたしが怒るような事じゃない。何かと愚痴っていたけれど、イリヤちゃんだってあの二人を憎からず思っているのは容易に知れた。あの年齢で、家族と離れて暮らすよりも―――好きあっているのならば、一緒に居た方が良いに決まっている。
 ただ。
 朝御飯の手伝いにまで来なくても良いでしょうと。そう思うのだ。
 特にリーズリットさんは、毎日の様に来る。誰より早く、先輩やわたしより早く、台所に。流石に本職の範疇と言うべきか。わたしはおろか、先輩ですら脅かすほどの手腕によって、常に一品が食事に加わっている。
 只でさえ、朝に弱いと公言していた姉さんまでもが無理を押してまで朝晩と通う様になっていると言うのに。
 その容姿を盾に、無理やり同衾すら強いる『都合の良い時だけ妹分』の少女が接近していると言うのに。
 わたしより料理が上手く―――どころか、家事全般が得意で。
 わたしより大人で、綺麗で。
 ……わたしより、大きいなんて人が。
 表情に乏しいながらも、明らかに先輩に好意を抱いているなんて姿を。
 毎日毎朝毎晩、至近で目にして心穏やかでいられる筈も無かった。
 ―――空を仰いで、息を吐く。
 腕を組み。頭を乗せて、思案に耽る。
 ……間桐桜の現状は、概ね平穏無事で幸せである。自分自身でも、そう思う。
 紆余曲折の末に、帰る家と家族を失い他人の家に間借りしている。傍目に見えるその認識は、その実正しく反対だった。

 帰る家など元々在って。
 暮らす家族も、実の姉。
 
 わたしを苦しめていた呪縛も、日々の平和と続く幸せに追い遣られる様にその濃度を減じている。
 ニか月前に比べれば、比較する事すら愚かしいほどに穏やかな毎日。
 ……唯、一つ。
 『彼』の周囲に、現れた。諸々の『敵』を除いては。
「―――桜さん?どうしたの、溜息なんて」
 思案の内に。
 唐突に投げられた声に、視線を巡らす。屋上でうずくまるわたしの横。柔かな栗色の髪と、焦げ茶の瞳。
 先輩達以外では珍しい、私と親しい学校の友達。
「……こんにちは。三枝先輩」
「うん。こんにちは」
 これも柔かな、笑みを浮かべて。
 すとんと、彼女は腰を落とした。鉄のフェンスに背中を預け、
「珍しいね。桜さんが元気が無いなんて」
「……珍しいですか?」
 投げた答えに応えを返す。自分で言うのも何だけど。わたしは衛宮の家以外では、能動的な生徒じゃない。行動も会話もこなすけど、決定的に覇気が無い。
 以前と比べれば、少しはましになったとは思うけど。
「私はいつも、こんなですよ」
「そうかな―?今の桜さん、本当に元気無いよ」
 身も蓋も無い返答に、返る声。
「本当に、って。別に普段、無気力を装ってる訳じゃないんですけど」
 流石にそれは心外だった。ただ、単純に。学校生活まで回せるほどの余力が無かっただけなのに。
「あ、誤解しないでね。そんなつもりで言ったんじゃ無くて」
 わたわたと手を振って、全身で訂正する。悪気の欠片も無い様な態に、知らずの内に苦笑が漏れた。
「そうですか。じゃあ、信じてあげます」
「……うう。桜さん、なんか意地悪だよ」
 眉を寄せる三枝先輩。―――珍しいなと、自分でも思う。
 あの家の人達の他にも、こんな風に甘えられる人が、自分に居るなんて。
 彼女の、素直で誠実な人柄に拠る所も大きいのだろうけど。一つとはいえ年上の女性というのは、包容力と言うか。つい寄り掛かりたくなる様な、魅力が有るという事なのだろうか。
 ―――リーズリットさん、みたいに。
「……でも、本当にそう見えます?」
 鬱々と沈む思考を断ち切り。「傍目にも、落ち込んでる様に」
 視線を上げて、問い掛ける。もしそうなら、今の内に気を取り直さないと。
「そうだねー。何て言うのかな」
 思案気に口元を結んで三枝先輩が呻く。
 長くも無い付き合いだけど。彼女は実際、観察力が高い。自分でも気付かない様な悩みや感情を、その姿や言動、行動の節々から読み取る事に長けている。
 何でも、年下の兄弟が多いそうで。だからこそ私みたいな、『頼りない年下』の事も把握できるのかもしれない。
「―――桜さんはさ、」
 再び沈みかけた思考が掬われる。
「それが何だか分からないけど。何か大事な事が、学校の外に有って……その為に元気を取って置いてる様な。そんな感じがしたんだけど」
 ……驚いた。良い所、突いてる。
 かつての私にとっては、先輩の家の中だけが全てだったから。間桐の家も学校生活も『それ以外』の一言で括っていた。
 今は、そこまで極端では無いにしろ。やはり比重は、大きく偏ったままで。 
 そんな事に、熱心になど取り組める筈も無く。
「今はただ、元気そのものが足りないって感じがする。……大丈夫?具合悪くない?」
「……はい。ちょっと、落ち込んでただけです。具合は悪くないですから」
 ―――馬鹿が付くくらい正直に答えたのは。彼女はこの事態を打破する方法を、知っていると。そう考えたからだった。
 思い出す。先日赤く火照った表情で、だけど輝き濡れた瞳で。抱きつかんばかりに報告してきた、彼女の言葉。
「三枝先輩」
 真っ直ぐ、見据えて。
「好きな人に、取り柄の無い自分を振り向かせたい時。どうすれば良いんでしょうか」
 答えは、記憶の内に在る。
 けれど、もう一度聞きたかった。あの時の私に感銘と勇気を与えてくれた、その言葉。
 こちらを見る眼を、見開いて。
「―――ひたすらに、アタックする事。それと逃げ道を塞ぐ事、だよ」
 無言の内に、得心してくれたのか。
 つい先日。感慨深げに言った言葉そのままに、彼女は答えてくれた。

「断られても毎日誘い続けて。それでも駄目なら、一つ一つ『言い訳』を潰していくの。
 朝が弱くてお弁当が作れないと言うんだったら、その分も自分で作って持っていく。
 他の人と食べる約束が有るって言うなら、お弁当だけでも渡す。
 次は、その人達の分もおかずを作ってから誘う」

 ―――大きく。首を項垂れて。
 心に、明るい熱を灯した。
「……そうですよね。攻勢有るのみ、ですよね」
 強い視線を絡ませる。遠くも無い記憶の中で、強く輝くその言葉。
 二つと在る武器でも。他者に劣る武器でも。そんな些事には関わらず。
 懸命に振るうその一撃は、必ず『心』を貫けると。
 そう、示してくれた人がわたしの目の前に居るのだから。
「ありがとうございます。―――やって見ます、わたし」
 料理が上手い位がなんだ。わたしはあの家で一番に、先輩の好みを知っている。
 妹が居ようと家族が居ようと。未だ、伴侶の座は空いている。
 ―――多少、大きくたって。
 たかが、七センチ位。……夜。暗ければ、分かるまい。
「うん。それが良いと思うよ」
 ほにゃっとした、暖かな笑顔を浮かべる三枝先輩に、
「はい。頑張ります」
 今日初めての、笑顔を返した。



「……ところで、三枝先輩」
「なに?」
「前から思ってたんですけど。良いんですか?わたしなんかと御飯食べてて」
 給水塔の陰で、お弁当の包みを解きながら問い掛ける。三枝先輩が誰を好きなのかは知らないけれど。
「そこまでして、一緒にお昼食べられる様になったのに」
 相談に乗ってくれる事や、気遣ってくれる事は素直に嬉しいけれど。そのせいで三枝先輩の『攻勢』に歯止めを掛けてしまうとなれば、気が咎めずにはいられなかった。
 何故か。三枝先輩は、わたしから目を逸らして。
「……あー、うん。あんまりしつこく付きまとうのも、どうかなと思ったの」
 要領を得ない答えを返す。言ってる事が逆々だ。怪訝な視線に気付いた様に、
「―――ほら。桜さんのお弁当、美味しいから。次作る時の、参考にしようと思って」
「ああ」
 なるほど。確かにわたしの―――衛宮家のお弁当は、下手な料亭の物なんかよりもずっと美味しい。以前は先輩が主でわたしが補佐、といった感じだったが、最近では姉さんやリーズリットさんも口と手を出したがる。結果として、和洋中―――何れのおかずもレベルは高く、正直学生の食事としては勿体無い程の域に到達していた。
 こんな代物を食べ続ければ、確実に舌は肥える。同じ携帯食だし、参考にするにはもってこいだろう。
「ああ。だから三枝先輩、わたしのお弁当食べたがるんですか」
 普段は礼儀正しく、控え目な彼女が。食事時になると途端に積極的になるのは、以前から不思議に思えたのだ。
「そ、そーなの。参考になるから。それだけだよ。うん」
「?」
 何故か赤くなって、ぶんぶんと首を振る。不審なものを感じつつも、お弁当の包みを解いた。
 重箱とは言わないまでも、女の子一人分の昼食としては十分過ぎる程に深く大きい、長方形のお弁当。左半分には白く輝く御飯。傍らには良く漬かった沢庵が三切れ。もう半分の側には、色取り取りのおかずが配色と栄養のバランスを吟味され、綺麗に詰め込まれていた。
 ……一応四人分の『合作』ではあるけれど。割合としては、七割程が二人の手に拠る作品だ。最も朝の早い彼女と、昨晩から下準備をしていた彼。
 わたしも姉さんも、今朝は出遅れた。一品二品、そこに捻じ込むのが精一杯で。
 ……実は、『押し出された』おかずが今晩の食卓に上がる事が確定してたりする。本場仕込みのソーセージ、キャベツの酢漬けに、ジャガイモのパンケーキ。味見してみて、二人一緒に落ち込むくらい美味なそれ。その事も、さっきまで落ち込んでいた原因だった。
「……相変わらず、綺麗なお弁当だね」
 自分のお弁当を開きながら、三枝先輩。―――おかずの交換などと、如何にも『友達同士』らしい行為には抵抗感も有ったけど。慣れてしまえば、これも悪くないと思う。
 彼女の作るおかずは、驚く程上手なものでも、珍しいものでも無いけれど。食べると何処か暖かく、心が何故かこそばゆい。先輩達のとは違った意味で、わたしのお気に入りだった。
「和食は先輩で、洋食はリーズリットさん。中華が姉さん、デザートがわたしです」
 細かく区分けされたおかずを指差しながら、説明する。第三者の声と言うのも、これはこれで参考になる。特にわたしの作る物について、忌憚の無い意見が聞けると言うのは有り難かった。
 衛宮の住人達は、みんな良く食べるので作り甲斐は有るのだけど。感想を聞いても、「美味しかった」としか返って来ないのが困りものではあった。
「―――でも、さ」
 と。
 箸を止めないままに、不意に三枝先輩が口を開く。こちらを微笑って見つめながら。
「桜さんなら大丈夫だと思うよ。料理も上手いし、綺麗だし。……大きいし」
「……はい」
 最後の言葉に、思い出してしまう。誉めてくれるのは嬉しいのだけど。
 ―――三枝先輩。
 上には上が、いるんです。
「―――負けません」
 口に出す事で、決意を強く固める。
 差し当たっては、今日の夜。何とか姉さんを誤魔化して、晩御飯の後に……!
 ―――強く固める。
 優柔不断な、その心。
「固めて、見せます」
「あ……うん。頑張って」
 何故だかちょっと後退りながら、三枝先輩が呟いて来る。
 彼女を見やり、頷いて。
「?……先輩、そんなにエビチリ好きだったんですか?」
「あ、いや、―――うん、大好きだよ!?中華料理大好き!本当にそれだけだから」
「はあ」 
 何故か慌てる彼女を横目に。
 ぽっかりと穴の空いた、お弁当の一角を切り崩した。







『いただきます』
 声が綺麗に唱和する。万事に付けて奔放なイリヤちゃんも、気難しいセラさんも、藤村先生でさえ食事時には大人しく衛宮家の流儀に従う。それを見る度、美味しい食事が持つ力と言うのは凄いものだと思うのだ。
 もっとも、
「シロウシロウ、これ食べてー。卵焼き、作ってみたの」
「―――げ。イリヤ、これ塩の味がしないじゃない」
「イリヤ。これデザート?」
「リーズリット!……とても美味しいです、イリヤスフィール様」
「このソーセージ、美味しいねー。これリズさん?」
「うん、でも悪くないぞ。良い焼き加減だ」
「でしょー。リンは見る目が無いわね」
「味わう舌はあるから良いのよ。塩と砂糖くらい確かめて使いなさい」
「遠坂凛。イリヤスフィール様に、無礼な事を―――」
「はい、セラ。貴方の分」
「あ、狡いー。セラさんばっかりー」
「子供か、藤ねえ」
 一度食事が始まれば、すぐ賑やかになるのだけれど。
「…………」
 無言のままに、それを見守る。先輩の料理も、姉さんの料理も。……リーズリットさんの料理も。お腹一杯食べたくなる程、美味しいけれど。
 ……我慢する。
 万が一にも、今夜の決戦。そんな大事な瞬間に、お腹が膨らんでると思われでもしたら。
(絶対駄目だ)
 それでもやっぱり。一口二口摘む料理は、そのどれもが後を引く程美味しくて。
「―――桜?」
 先輩が、不意に怪訝な声を投げて来る。思わず慌てて、視線を上げた。
「どうしたんだ?……もしかして、口に合わなかったか?」
「あ、いえ―――とっても、美味しいです」
「具合は?」
「悪くないです」
「なんだ。それなら、もっと食べろよ」
 言葉の終わらぬ内に、手早く取り皿が奪われる。適当な口実も思いつかないままに、
「ほら」
 山と積まれる、悪魔の誘惑。
 ……仕方なく、それを口へと運ぶ。朝にも食べた、白味がかったソーセージ。抵抗も無く噛み切ると、瞬く間に溢れる肉汁。
 ……美味しくて、悔しい。思わず顔がほころんでしまうのが、自分でも分かる。
「気に入った?」
「え……」
 いつもと変わらず。無表情に見つめてくる、リーズリットさん。
 正直、今まで彼女の事は苦手だったけれど。
「―――はい。とっても美味しいです」
 満面の笑みで、言ってやる。もう、逃げないし萎縮しない。相手の事は認めた上で、それでも勝負に勝ちに行く。
「そう。良かった」
 言って。眼と口の端で、微笑を浮かべた。
 ……一瞬で挫けそうになる心を、何とか支える。
 滅多に笑わないからと言って。その笑顔は、卑怯だ。
 神経を味雷に集中させる。芳香を放つ油と肉と、香辛料の複雑な風味。舌で覚えて、記憶に刻む。
 もう、これからは二度と。
「リズさん、今度料理教えてくれませんか?これ、凄く美味しいです」
 こんな事を、先輩に言わせない為にも。
「うん。何時でも言って。何でも教える」
 わたしも色々教えたい。
「……リーズリットさん?その時は私も良いかしら?」
「勿論わたしも一緒なんだよね?リズ」
 笑みと怒気とを、器用に同居させて。
「うん。分かった」
 放たれた、迫力に満ちた言葉に、平然と答えて。
「ところでイリヤ」
「なに?」
「料理に一番重要なもの。何か分かる?」
 ?何だろう。良い材料と、手間を掛ける事、とか。
「……時間とお金?」
「塩と砂糖を間違えない事かしら」
「しつこいわよ、リン」
 争う二人を、真顔で見つめ。
「違う」
 先刻の様に、微かに笑い。


「食べさせる人への、愛情」


 ―――続けた言葉に、思わず噴き出す。愕とし、視線を巡らして。
 ……真っ赤になって、咽る彼。取り巻く三対の半眼に、勢い込んで加勢する。
 
 ――――――へえ。自覚は有ったんですか。先輩――――――

 ぽっと出の二人や、半分母親の様な藤村先生はおろか。
 三年間に渡って寄せてきた女の子の想いに、全く気付きもしなかった癖に。
 リーズリットさんの事は、一月足らずで意識したと。
 そういう訳ですか。先輩。
「―――うふふふふふふふふ」
「さ……くら?どうした……んですか」
 真っ赤だった顔が、蒼白になる。―――私の顔に、何か付いてますか先輩?
 あ、綺麗に蒼い顔ですね先輩。信号機みたいで面白いですよ。そろそろ黄色になるのかな?
「べつに、どうもしてないですよ?」
 平坦な声を、エガオで返す。うん。ただ、単に。
「ちょっとふこうへいというか。しつれいなんじゃないかな、と」
 そう思っただけです。
「不公平……?失礼、って」
 何が、と。
 続ける前に、がっちりと。
「うん。ちょっと失礼よね。不肖の弟子に、教育してやらなきゃ」
「わたしも。何でこんな弟に育っちゃったんだろうね」
 両腕を。捕まれ締められ、引き摺られ。
「―――さ、桜、たす」
「頑張って下さいね。二人とも」
 一刀の内に、助力を拒む。先輩は首を項垂れて。
「待って」
 ―――と。
 襖の向こうに三人が消えようとするその間際。凛とした、声と瞳で言い放つ。
「……御飯、食べてから」
 彼女に、視線が収束する。諸悪の根源にして、大本の原因。
「良いのよ、リズ」
 底冷えのする声で、傍らのイリヤちゃん。「貴方も来なさい。主として、メイドに教育してあげる」
 先輩の横、こちらを見据えながら。
 命ずる声に、杯を差し出す。硝子越しに白く揺れる、見慣れた液体。
 無言のままに。出されたそれを、凝視して。
「……何よそれ」
「牛乳」
 呻きの誰何に、あっさり返す。「栄養、ある」
「……リズ。ふざけてるの?」
「別に」
 腕を引っ込め、こくこくと。白い喉を上下させ、その液体を嚥下する。僅かに覗く、その赤い舌が艶かしい。
 空のコップを、卓に置き。
「しっかり食べて。栄養取らないと、大きくなれない」
 周りをまるで意に介さずに。器用に箸を使い、食事を口に運び。
 にやりと、細めた視線を巡らせ。皿を静かに置いてから。
 『胸』に手をやり。艶の有る眼で、彼を見て。

「―――わたしみたいに」

 ……言った言葉に。
 見慣れた和室が、紅く凍った。
 










 布で丹念に磨かれたかの様に、綺麗な皿の群。それをお湯で軽く流すだけの簡単な水仕事を終えて、一つ大きな息を吐く。
 この家の料理はいつでも上等だ。残り物など滅多に無いが、それにしたって今日は異例と言って良い。
「……いた」
 沁みる手の甲を見やり、もう一つ息を吐く。―――イリヤは一見大人びている様に見えて、その実結構子供っぽい報復をする。先刻、食後のお茶の時間。延々と抓られていた跡が痛痒い。
「リーズリット」
 背後から投げられる無愛想な声に、振り向きを返す。非難する様な、呆れる様な。渋面を浮かべた彼女、見慣れた華奢なその体躯。
 左手には小さな木箱を抱え、右手をこちらへ伸ばしてくる。
 腕を掴まれ、引き摺られ。よろめく様に、椅子へと落ちる。
「大人しくしていなさい」
 小箱を開けて、何やら色々と取り出していく。プラスチックの容器、白いガーゼ、鋏にピンセット。
 言われた通り、無言のままにそれを見て。
「……セラ。痛い」
「自業自得です」
 呟く非難が、両断される。濡れた綿が傷口に触れるその度に、冷たい筈のその感触は鋭い熱と変して神経を灼いた。
 ―――まあ。指先の方は、柔かで暖かい感触に握られているのだから。それで相殺と言った所なのだけど。
 無言のままに、治療が進む。綿が離され、薄い布でわたしの手が包装されていく。
「―――さっきは」
 ぼそり、と。
 手は休ませず、セラが呟く。「何であの様な事を、言ったのですか」
「……折角作った御飯。残したら、勿体無いから」
 空惚け、答える。実際、あれからの四人の食欲は目覚ましく。洗い物の手間も要らない程に、残さず料理を平らげてくれた。
 途中で一人。脱落した事を考えれば、食べ過ぎと言っても良いくらい。
「嘘を吐きなさい」
 険の有る声で、セラ。「他の人間はともかく、イリヤスフィール様に無礼な事を」
「……うん。確かにちょっと、言い過ぎた」
 反省する。元々の狙いは達成したとは言え。
 真っ赤な顔と、涙目で。料理を貪る少女の姿は、思い出すだに痛々しい。
 それが祟って、イリヤは寝室で延々とうなされている。他の面子も大差無い。タイガは居間で倒れているし、リンはトイレから出て来ない。サクラは何故か口惜しげに、それでも何とか歩いて帰った。
 症状の差が、何に由来していたのかはセラには秘密。
「イリヤスフィール様は私達とは違うのですから。成長速度も違って当然です」
 気付いてないし。
「別に、怒らせるつもりで言ったんじゃない」
 それでも、誤解されたままと言うのは嫌だった。わたしだって、イリヤの事を一番大事に思っている。セラと一緒に。
「わたしなりに、考えてみた結果」
「考えたって、何をです」
 今は土蔵に打ち捨てられた少年が、わたし達の家族に。新たな『弟』になる事を。
「……事態の、進展とか」
 願って企んだ、発言だったのだけど。
「何の事ですか?」
 理解してくれない。
 ……まあ、それはそれで好都合かもしれない。セラはシロウを嫌っているから。と言うよりも、イリヤにわたし達以外が関わる事を、避けようとしている。
 邪魔をされたら、面倒だし。セラには黙って見ていてもらおう。
「リーズリット?」
 向かう声色が、厳しさを増す。―――困った。何とか誤魔化さないと。
 考える。セラの思考法。彼女は聡明で、理屈家だけど。理解し難い事やものに、向かう根気が続かない。
 生真面目な性格は、裏を返せば単純という事。納得させるのは難しいけど、はぐらかすのは案外簡単。
 だから。持って回った言い回しで、
「―――突っついてみたの」
 自分の真意を悟られない様、思考を乱すことにした。
「突っつくって。何をですか」
 それは多分、好意とか愛情とか。或いはもっと大きい意味では、本心とか本音とか言うものなのだろうけど。
 確とは告げず。曖昧な、どうとでも取れる表現で、答えを返した。


「胸」



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