雨の音を聴いた。
いずれなんて待つ暇はなく。
何故ならそれが多くの人々に仇成すのなら、速やかに排除しなくてはならないからだ。
問い質すと、言峰はあっさりと全てを語った。
タイトル 『殉死』
遠坂が去ってから一時間は経過しただろうか。もう教会に戻ってくる気配は無い。
すれ違った時の表情はお互い見た事のない物だった。
意味を問いただす必要は、なかった。
「さて、頃合かな」
聖堂に立ち並ぶ一席から立ちあがる。教会の主は既に下がっているというのに、やはり神様の前ではやり難いのか。
それとも警戒しているのだろうか。
順当な判断だと思う。相手には時間もない、自由もない。なるべく確実に待ち伏せるのは当然だ。
重い扉を押し開くと、冬の雨が砂を流すような音響を立て続けている。
か細い雫達はベールを編み続けて、先が見通し難い。
でも、見誤る事は無かった。
広場の中央には、長身の人影が立っている。
見捨てられた古代の神像のように、孤高と寂寞を纏って直立していた。
白かった肌は蒼褪めており、血を透かせた紫色をした髪は、水を吸って重く垂れ下がっている。
唇はとうに色を失いつつあり、雨に溶かされるのを待っている如く身動ぎだにしない。
生気は何処にもなく、このまま透けていきそうだというのに、逆に手にした幽玄さが存在を強烈に示している。
「ライダーのクラスは、一日の単独行動を可能にしたんだったな」
白々しくも口にして、ゆっくりと近づいていった。
回路は既に現れている。
傘は無く、自分も雨に打たれながら一歩一歩、死神へ向かう。
雨粒が身体で弾けるたびに熱を失っていく。が、何ら気にもならない。
とうにこの身に人の体温などない。
テレビの雑音にも似た残響だけが空しく響く中、
「……っ!」
打ち捨てられた彫像は、突如肉食獣へと変貌した。或いは黒い暴風に。
さて、ライダーなら壱秒かからず間合いを零にし、手にした大釘で俺を串刺しにするだろう。
「投影、開始」
対して俺は跳び退きもせず構えもせず。
呪だけを唱え、仰向けに身を投げた。
「な――」
急制動をかけるライダー。
意外という空白が用意される。一時間の間、この状況を打破すべく考え出して、回帰した手法を成しとげる。
道に背を打つ。ほぼ同時にライダーの手が胸倉を抑えこんだ。振り下ろされる凶器より先に、ライダーの長髪が視界中へと広げられる。
重い鉄塊の手応えを得た。
眉間を釧差しにせんとするライダーのダガーが止まり。
突き出した左手が握る陰険莫耶が、ライダーの首筋に突き出された。
回路が弾けそうな程火花を散らし、全身の感覚が一挙に喪失しかける。
だが、雨が打ちつける感覚だけは残っていた。
冷雨の中、覆い被さったライダーと剣を突きつけ合う。
「――アーチャーの宝剣。人の身でここまで複製するとは、先程見えた時は隠していたのですか」
「……いや、ついさっき思いついた」
ライダーの髪から、頬から、額からぽつぽつ雫が落ちてくる。
「出鱈目ですね。それ程の力を持ちながら、貴方は」
告げられる内容は、予想するまでもない。
「サクラを見殺しにしたのですか」
馬乗りになったライダーは、顔を拘束具で隠し、声音も常と変わりない。
ただ、ひび割れそうなほど凍りついてはいた。
「……ああ、そうだ」
ただ事実を反唱する。
相手を上にしての膠着状態をどう脱するか。
もう既に考えていた。
「それで俺を殺すか、ライダー」
「勿論。せめて貴方だけでもサクラに伴わなければ、割に合わない。ですが」
ライダーの手に力が入る。呼吸を止めんとばかりに胸を圧迫してくる。
鉄が軋む音がした。
「一つだけ問いましょう、エミヤシロウ。貴方は、何の痛痒も感じ得ないのですか――」
この身はもう、剣で出来ているのだから。
「桜は生きていれば、多くの人を犠牲にした。だから切り捨てた。後悔があるとすれば、」
もう、痛みなど失った。
「この手で終わらせてやれなかった事ぐらいだ」
他人の声を耳にしている様だ。そのうちに慣れるだろう。
「……」
この動かない顔を見て、ライダーは何を思っているのか。俺に乗りかかったまま、二人して彫刻の様に固まり、落ちてくる空の涙に打ちひしがれ続けている。
時間が凍っていたのは、どの位だろう。
「――そうですか」
抑えつける力が抜けていき、ダガーが下げられる。こちらが莫耶を引かないにも関わらずだ。
「貴方はもう、死んでいるのですね。エミヤシロウ」
「――?」
理解不能な事を呟いた。
「見ればわかるだろ。まだ生きているぞ」
「私が意味したところが理解出来ないのですか。それが何よりの証拠」
衛宮士郎は、間桐桜と共に死んだのですね、と。
そんな馬鹿馬鹿しい(許され難い)事を。
彼女は跪いたまま身を起こし、見えない眼で天を仰いだ。
降り注ぐ雨は、ライダーから更に色彩を奪っていく。
「もう貴方を殺す理由は無くなりました。何処となりと消えなさい」
ライダーの魔力は目に見えて底をついている。今左手をスライドさせれば、何の抵抗もなくライダーは血に塗れて終わるだろう。ほおって置いても二十時間弱の砂時計と等しい。底をつきかねても、返してくれる者はいない。
今は、まだ。
「消えていくのはお前だろう、ライダー」
返答は無い。彼女にとって、俺はもう価値無き存在なのだ。
「ただ、このまま消えていくか? ライダー」
「……どういうことですか、エミヤシロウ」
シロウ――何処かで聞いたような発音をする。最早気にもならないが。
「遠坂に桜を殺されて。自分はアーチャーに遮られて何もできず。ただ歯噛みして見殺しにした――守れなかった。英霊たる存在が、それだけで消滅するのか」
「――貴方と契約しろとでも? 愚かな、貴方がトオサカリンと共闘している事は知っている。貴方がトオサカリンを手にかけられるわけがない」
視線を左手の甲へ向ける。
うっすらと。
主を喪なったサーヴァントを前に、令呪がカタチを表わし始める。
言峰から受けた説明が正しければ、セイバーがいなくなったところでマスターとしての権利を失うはずがなかったのだ。
「ああ、アイツとは協力して"いた"」
意味するところに気がついたようだ。ライダーは微かに首を傾げる。
「だけど――どうやら、殺さないといけないみたいだ」
そうして俺は、考えていた通りに。
知り得た全てをライダーに語った。
雨は止まず、身体が重なりかけたままに真実を。
雨は、止まない。
「それは真実ですか、エミヤシロウ」
ライダーは全てを知ってもなお動揺しなかった。再び彼女の長髪が被さって来る。
ただ首肯した。
「聖杯は、今度こそ完全に破壊しなければならない。そのために」
イリヤが邪魔であり、
今だ見ぬランサーのマスターも言うに及ばず、
遠坂と殺し合うのは避け得ない。
「だから俺には力がいる。奴らを仕留めるに効率よく手段を運ぶために」
手に入らないのなら、あらゆる手を尽くすだけだ。それは力を得たとしても変わりない。
毒殺、強迫、爆殺、闇討、轢殺、姦計。所詮はマスターといえども人間であり、戦うのではなく殺すだけなら問題はないはずだ。
だが、手段は確保すればするだけ良い。犠牲は少なければ望ましい。
「だから仮に契約したとして、ライダーにも聖杯は渡せない。代償として、望むならこの命――くれてやる」
ガラスが砕けるのに似て、甲高い残響と共に莫耶が消え去る。
手を差し伸べるのではなくて、差し出す。甲の上に再び印されつつある令呪を掲げる様に。
微かにライダーが腕へと顔を向けた。
「元より聖杯など求めてはいません」
吐息は白くなる事もなく、無音。
「正式な契約なら、ラインは繋がるはずだ」
雨の中、互いに熱などとうに失せた。
「求めたものも消え去りました」
雨音に全てから遮断されている。
「求めるものは見知らぬ多くの命。報酬は復讐の完遂」
紡ぐ言葉は刃鳴りに似ている。
「貴方の血と肉と魂を糧にして」
刃に魅入る感覚に似ている。
「契約を」「貴方の凶器と成りましょう」
ライダーの唇がすうと腕に寄せられて。
肉を食む音がした。
紅い流れが胸へと伝わってくる。どくどくと、五月蝿いほどに脈打って、熱いなにかがライダーに流れていくのがわかる。
まだ温度を保つものが、自分にあったのかと驚いた。
血を嚥下する白過ぎる咽喉。あれほど望んでもセイバーには与えられなかった魔力が、瀕死のライダーへと注ぎ込まれていく。
不意に脱力して、頭を地につけた。
逆さまの教会。
扉の前に、喪服でもある黒を身につけた神父が立っていた。
満足げな笑みを浮かべている。
あれほど気に障った奴の笑顔がどうでもよく。
埋葬される死体になった振りをして、ただ静かに目を閉じた。
瞼の裏に映るのは、草一つ生えない荒野だ。
潤す雨など有り得ず、ひび割れるのが当然の大地。
地平線まで何もない。
ただ四つの剣だけが刺さっていた。血まみれの剣の銘は、きっと『犠牲』という。
共に戦った、最初の犠牲の名前はセイバーである。
共に暮らし、最初に切り捨てた犠牲の名前は桜。
共に切嗣を父とし、恐らく最初に手にかける犠牲の名はイリヤで。
共に歩み、最初に殺す事を決めた犠牲の名は遠坂だろう。
荒野には、これからいくつもの剣が突き立つことになる。地平線の彼方まで、無限に近い墓標が立ち並ぶだろう。
だが、それは無限と同時に最小であり。
目にする事は決してない世界に、より多くの笑みがある筈だ。
――担い手は、独り犠牲という名の剣を鍛える。
――一振りずつ。身体である剣を、奪った命に手向けつつ。