「シロウは美味しかった?」
ガツン、と弾かれたように頭が跳ねた。
「──え?」
不意に、掠れた声が喉から漏れる。
思考はクリア。知覚を犯すノイズは遠い。世界も、現実も、なにもかもが遙か彼方。
頭蓋に響くのは短い言葉。ぐわんぐわんと反響する。
たった一言。
白い少女が何気なく囁いた呟きは、この上ない暴風となってわたしの思考(なか)を掻き回した。
シロウは────先輩は、美味しかった?
「あ、あ、あ、あ」
あ。
我知らず頭を抱える。両手で耳を覆う。なにも聴きたくない。なにも、聞きたくない。
それは無駄な行為だと分かっている。
先輩は、美味しかった?
その言葉は、わたしの裡から発せられている声だ。繰り返し、繰り返し、反芻する声は、じわりじわりと逃げ道を塞ぎながら獲物を追い詰める肉食獣の動作でもって、先輩は美味しかったかと問い詰める。
「……っ」
頭を振る。頭が痛い。
ワカラナイ。
灰色のノイズが縦横無尽に走り回る視界の端で、雪で出来たヒトガタのような少女がわたしを見下ろしている。朱い、血溜まりを映す瞳。その瞳の中で、血の穢れに汚れたわたしが溺れていた。
ざくり、と胸を穿つ鋭角な痛み。心臓を刃物で貫かれたみたいな痛みに思わず呻く。それは幻痛。本当に心臓を貫かれたらこの程度の痛みでは済まないだろうから。だけど、それはとてもリアルな錯覚で、質量の重みを感じる幻覚だった。
────まるで、死んだと思うくらいに。
ばちん、とブレーカーが上がる音。
ぎりぎりぎりと全身を捻じ切られているような痛覚に思考が焼き切れていく。千々に解けていこうとする意識を、砕けんばかりに奥歯を食い縛るコトで、手放すまいとする。
苦しい。
大気はまるで砂利のよう。呼吸の度に、わたしの喉を引っ掻いては小さな傷を付けていく。肺は馬鹿みたいな量の砂粒で埋め尽くされて、これ以上は呼吸できないと悲鳴を上げる。
あ。
痛い。痛い。痛い。痛い。
苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。
───ノイズ。ノイズがひどい。どんどん知覚できる世界が狭くなる。わたしが縮んで、潰れてしまいそう。それは錯覚ではなく、実感。サーヴァント、膨大な魔力の塊に思考が圧し壊されているだけのコト。
先輩は美味しかった?
裡鳴る声は、笑うように唱うようにわたしを責める。
────ふぃぉぉん────
耳鳴りに響く甲高い音。顔を上げると巨大な影絵────呪影の巨人がイリヤスフィールの前に立ち上がっていた。
「……っ」
どうして、と思う。わたしは魔術行使をしていないのに、どうして影が召還されているのか。
どくん、と空間が明滅し、同時に理解に至る。その呪影は、アンリマユがわたしを経由して制御しているのだ。その平面で出来た巨人は足下のいと小さきヒトを臨んでいる。つまり、アンリ・マユは雪の少女を敵と見なしたんだろう。
あ。
自嘲する。アンリマユにとって、わたしは単なる外部出力端子でしかないみたいだ。
痛覚と呼吸困難と疫病みの熱に浮かされた頭で、ダメだ、と思う。強く、思う。
イリヤスフィールの肉体強度は常人よりも遙かに劣る。呪影は実体を保たぬ影であり、暴力という呪いである。その拳が振り下ろされたら、彼女のひ弱な身体は弾け飛んでしまうだろう。
ぱん、と小気味よい破裂音を響かせながら、真っ赤に咲く血の華を幻視する。
それはなんて甘美な幻想で。
そう想像するわたしだから、わたしはわたしを殺してしまいたい。
「逃げ、てください……」
血を吐く思いで口にする。
ばちんばちんばちんばちんばちん、ブレーカーが上がる。切り替わる。切り替わる。切り替わる。間桐桜(ワタシ)という存在が、魔術師(マキリ)という機関に変わる音がする。
魔術回路が回転する。現在行使されている魔術を無理矢理に終止させるコマンドを飛ばす。
「っぎ、ぁ!」
脳が焼け付く。神経が千切れる。筋肉が破裂する。内臓が裂ける。骨が砕ける。血管が断線する。思考が潰れる。意識が粉々になる。
構うものか、と思う。
テンノサカズキを通してアンリマユが居る『外』とリンクしているこの身体は、その程度の傷など膨大な魔力によって刹那の間に治療するんだから。
だから、わたしが集中することはたった一つだけでいい。
先輩は、美味しかった?
脳に響く言葉は千の剣になって思考を切り裂く。
先輩は、美味しかった?
頭蓋でリピートされている言葉はもはや物理的な重みを感じさせるほど。思考は圧殺されてしまう寸前。
それでも。
痛みに歪む顔を上げて、そこにいるはずの少女を見る。
果たして、彼女は微笑んでいた。
頭には黄金の冠、身を覆うは奇妙な構造の輝く白装束、此方を見つめる瞳は血潮の如く、風に翻り広がる髪は白に近い純銀を纏う。
その在り方は、この世で唯一無垢なる者にも似て────その様は、まるで絵画から抜き出てきた御使いのよう。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
わたしと同じ、聖杯の少女。
彼女はなんの感情も浮かべなず、能面でわたしを見下ろしている。
彼女には、わたしはどんな風に見えるんだろう。
「先輩は、」
痛みで気絶しそうになりながら、大気に溺れそうになりながら、でも、彼女の赤い瞳を真っ直ぐ見つめながら、
「先輩は、美味しくなんて、なかったです」
問われた質問に、応えを返した。
ぎちぎちぎちと絞られていく思考が悲鳴を上げる。無茶な魔術行使に堪えかねた脳神経がぶちぶちぶちと途切れては、元通りに直されていく。
だけど、呪影の巨人は緩慢な動作でその腕を振り上げ続ける。
「うん、全然美味しくなかった。姉さんは、甘かった、んですけど。先輩は、美味しくな、かったです」
すらすらと口から言葉が漏れることが不思議でならなかった。
脳は毎秒ごとに壊死し、腐敗し、蘇生される。それが、気が狂いそうな苦痛で、でもそれに関係なく言葉は紡がれていく。
実感する。ああ、わたしは壊れちゃったんだ。だから、上手に狂えない。
「先輩は痛かった。なんの味もなくって、ただ痛かった、とても痛かっただけなんです」
思わず笑って、「ごふっ」と口から大きな血塊が漏れた。
回転する魔力回路はオーバーヒート。レッドゾーンなんて疾うに振り切って、いつ暴発するか分からない。身体の中と外の損傷は、わたしを百度殺しても足りないくらいの致命傷。オーバーキルにも程がある。
でもわたしは死なないだろう。我が罪は『自愛』。故に、わたしはわたしを殺せない。だから、理性が叫ぶ限界なんて素通りしてやるんだ。
「痛くて痛くて堪らなくって、分からなかったんです」
半ば自動的に紡がれる言葉を夢心地に聞きながら、自嘲する。先輩を味わえなかったコトが、半ば本気で残念だと思ってしまったから。
笑おうとして、吐血して、内蔵が弾ける痛みにお腹を抱えた。
わたしの愛は狂ってる。歪んで曲がって捻れてる。
こんなわたしが人並みに恋しようなんていうのが抑もの間違い。そんな分不相応な夢が叶ったツケが今の状況だと云うなら、わたしはその責を贖おう。
ばちんばちんばちんばちんばちん、ブレーカーが上がる。魔力が制御されきれていない。わたしのちっぽけな魔術回路はその魔力を通しきれない。結果、音を立てて破裂する。
「ぎ」
破裂した魔術回路は瞬間的に再生され、また膨大な魔力の流れに弾け飛ぶ。
「が」
痛い。気が狂う。こんなコトを繰り返していたら、絶対に気が違ってしまう。
それがどうした、と思う。痛みも、苦しみも、マキリで育てられたわたしは慣れっこだ。狂う、気が違うなんて今更のコト。わたしは疾うに狂ってる。
でも構わない。そんなこと、どうでも良い。それよりも、今は。
あ。
わたしは、わたしは、もう、これ以上は、誰も、殺したくなんて、ないんだから────!
膨大な魔力を持って呪いで出来た影絵の巨人はその動作を止める。
ばちばちばちと眼の中で虹色の火花が散った。
ぱん。
思わず笑ってしまうほど滑稽な音を立てて、右の眼球が破裂する。破裂した端からどろりと液化して眼窩を嘗め回し、奇妙な音を立てて、復元されていく。
それが、言葉に出来ないほど気持ち悪くて、吐こうとして、胃の中には吐くモノがなくて、血反吐を吐くことになった。
意識が朦朧とする。
でも、死なない。どんなひどい損傷でも、わたしは死ねない。
自嘲する。声に出して笑おうとして、横隔膜が破裂していることに気が付いた。
でも死なない。
なんて化け物。こんなのは、イキモノでは有り得ない。怪物。そう、人知を越えた怪物。
本当、気持ちが悪い。マトウサクラが気持ち悪い。
先輩が怖がるのも無理はないな、と思う。
ノイズ。
憶えている。千々に解けていく意識、記憶、思考。その中心に、その言葉がある。どんな宝石よりも鮮やかに光る、あの冷たい雨の中で囁かれた、たった一言。
「約束する。俺は、桜だけの正義の味方になる」
ああ、その言葉は嬉しかった。嘘みたいに、幻想みたいに、夢みたいに、嬉しかった。嬉しすぎて、哀しすぎて、申し訳なくて、でも、この上なく幸せで、だから、思わず縋ってしまったんだ。冬の夜は寒く、身を打つ雨は凍えるほどに冷たくて、だから、先輩の温もりを、突き放すことが出来なかった。
背中に回された腕はわたしを抱き締めることをせず、ただ触れているだけだった。
先輩が一言囁くたびに、先輩の心がひび割れていく音を幻聴した。
触れ合いは浅く、拙く、淡く。
寒さに凍えた指は、先輩を感じることも出来なくて。
でも、それでも。
わたしは、先輩を振り解けなくて。
そうすることが、先輩を殺すコトになると解った上で。
愛する人の幸せにトドメを刺して。
わたしは、手に入れたモノを手放すことが出来ずに。
それは、普遍的な恋のカタチなのかも知れなかった。好きな人に、傍にいて欲しいと願うことは普通なのかも知れなかった。でも、ソンナコトさえ、わたしみたいなキモチワルイ女魔には相応しくなかったんだろう。
結果は悲劇か喜劇か惨劇か。
どうでも良い。わたしは、もう、先輩に、話しかけて、貰えない。それが、事実。
そんな資格は無い。
懺悔も後悔も罪悪も断罪もわたしには遠すぎる。
先輩。先輩。先輩。先輩。
痛い。痛いです先輩。痛くて痛くて堪らない。でも、それがわたしに与えられた罰なんですよね? なら、わたしは、甘んじてこの痛苦を受け入れよう。狂った正気で、地獄の中で、のたうち回りながら、後悔の炎に焼かれよう。
「サクラ」
イリヤスフィールの声が聞こえる。でもそれは遠い。フィルター越しに話しかけられているよう。
視線を上げると、イリヤスフィールは────泣きそうな顔をしていた。
左目が破裂する。イリヤスフィールの姿は見えなくなった。
錯覚だ、と思う。そんな幻覚を見るなんて、わたしはなんて惰弱で脆弱なんだろう。許されたいだなんて、傲慢に過ぎる。聖杯の少女。彼女はわたしを許さないだろうから。
「サクラ」
繰り返される言葉。その声は、震えているように聞こえた。
「────可哀想ね。本当に、可哀想」
可哀想? わたしが? それは、違う。可哀想なのは、無関係に殺された人々で、お爺さまで、兄さんで、姉さんで、先輩なんだ。
「サクラは、壊れないのね。痛くて、苦しくて、辛くても、壊れられないんだ」
違う。わたしは、そんな上等なものじゃない。そんな、聖人君子な筈がない。
「■えて、■えて、■え■けても、あなたは幸福になれないと■っていた■。なのに、あなたは堪え続けた」
ノイズ。耳鳴りがひどい。言葉が上手く聞き取れない。
「それが、サクラなんだね」
イリヤは呟く。わたしの名前を呼ぶ。春になったら、燃えるように咲き誇る────
左目が治って、血が滲む視界のど真ん中で、雪で出来た人形のような彼女は、その場でくるりと一回転。そして、笑った。その笑顔は向日葵のよう。その頬笑みは春風のような爽やかさ。
「哀れね。本当に、哀れ」
あ。
ばりん、と空気が砕ける音がする。
「狂ってしまえば楽だったのに。それを責める者は誰も居ないのに。そんな権利なんて、誰も持っていないのに」
意味が、解らない。言葉を解析する能力は既に失われた。今はただ、アンリマユの魔術操作を食い止めることだけに専心する。
固まっていた呪影が、その腕を緩慢に振り下ろす。
コマンド:制止、停止、中止、終止────止まらない。
「な、にをしてるんですかっ……早く、逃げなさ、っ!」
神経が焼き切れる。
ぶつ切れの視界の中で、その中心で、彼女は
「うん。矢っ張りわたしはサクラのこと、大嫌い」
颯爽と、頬笑んだ。
世界が銀色に破裂する。
硝子細工のように、地面を覆っていた影が弾け散る。
白銀に染まっていく大空洞。
言葉が響いた。
────────I am the bone of my sword.
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掲示板が新しくなってる!
しかし過去掲載文はどこに行くんだろうな、なんて思ってみたり。
もしや、二百件を境に消えていくんだろうか?
どうもintoです。御拝読、ありがとう御座います。
あ、石を投げないで下さい……うう、更新が遅くなったのはお詫びします。一週間以上……
言い訳をしておくと、実は五回目の書き直し。しかも書き直すたびに長くなるおまけ付き。
……事実ですが、言い訳ですね。済みません……(がくり
でも時間が経って見返すと発狂したくなるんだろうな……
本当は、この次まで予定だったのですが、interludeを入れたくなったので、ここで切ります。
続きは早いかもよー?(戯れ言です、聞き流して下さい)
ではでは。至らぬ点が御座いましたら、ご指摘下さい。
BGM:「君繋ファイブエム」/ASIAN KANG-FU GENERATION