『死線の一 第七話』
夢を見た。
凄く果敢無い夢だ。
そのお話は雪の積もる荘厳で、尊大で、豪奢な城で始まる。
始まりはどこからだったのだろう、ああ、それはとてもとても昔から始まっていたのかもしれない。
だけど、マキリと遠坂とアインツベルンと言う魔術師達の願いから始まった、その儀式の話を始めるのは少々その夢の内容としては相応しくない。
そう、そのお話は、一本の試験管から始まる。
試験管に付けられたシリアルナンバーは003。ホムンクルス・ホーリーグレイル003。
試験管と言うには嘘っぱちみたいに大きかったが、それは試験管だった。
その一つの小さな閉鎖空間に魔術回路の粋を尽くした核と、それを維持するための意識が造られた。
出来上がった意識が自我を手に入れたのが18年前。
そうして、出来上がった自我と最高傑作である魔術回路を完成させるための最後の一押しとして。
その男は選ばれた。
ただ暗闇と、試験管の中を維持するためのいくつかの器具だけが光を放つ中、唐突に入り口が開き、薄明かりが射し込んだ。
「ここがアインツベルンの工房ですか」
「そうです」
入ってきた男の質問は簡潔な答えで消される。
「ここに件の聖杯がいるのかい?」
「ええ」
そんな問答をもう幾つか続けてきたのか、男ははぁ、と溜息を付いてそしてその試験管の中にあるモノに目を向けた。
それは何かの球体。
ヒトガタでさえない。
それは何かを伝えようと軽く蠢動し、そしてその動きに合わせるかのようにぼこり、と気泡が試験管の中を上がっていった。
「よろしく、イリヤスフィール。イリヤって呼んだ方がいいかな」
ともすれば嫌悪感すら誘うその肉の塊を見て、男――衛宮切嗣はにっこりと微笑んだ。
「戦わないで済めばいいのにな、イリヤ」
それは自信をも含めた全ての世界に対する、正義の味方がぼやいたただ一つの愚痴だ。
男のその行動に特別な感情をみせるでもなく、アインツベルンの魔術師は手続きを手早く済ませていた。
「キリツグ。よろしくお願いします」
「ああ、うん。よろしく」
そう。その点については間違いないのだ。
エミヤキリツグは、間違いなくイリヤスフィール・フォン・アインツベルンの父親である。
そうして6年の調整の後に生まれたイリヤは毎日のような鍛錬を受けさせられていた。
魔術師らしく。
聖杯らしく。
貴族らしく。
およそ、そこに人間らしい感情を持てなくなるはずのその環境で。
イリヤはずっと一つのモノを抱えて生きていた。
生まれて初めて心から祝福してくれたあの笑顔を。
ずっと、馬鹿みたいに抱きかかえて。
それを手に入れるためには。
私の元に帰ってこなかったキリツグのようにしないためには。
その意識だけを人形に移し変えて。手足を切り取ってしまって。どこにも逃げないようにして。
それでずっと私だけにその笑顔を向けてなきゃいけない。
だってそうしないとずるい。
私だけ、そんな愛情を受け取らなかったなんて、ずるい。
と、イリヤは考えた。
ずっと考えていた。
その幻想をいともあっさりと叶えてくれたのは だ。
だから私は にしっかりとお返しをしなくてはならなかった。
サクラを助けるためにただ頑張って、頑張って、頑張った が力尽きようとしてるなら、少しでも先に生まれた私が。キリツグの娘で、 の姉である私が助けなくてはならない。
だから、後悔なんてしない。
私の求めたモノはもう胸の奥で温かく鼓動を繰り返しているし、
私を助けてくれたヒトを助けることは私にしか出来ないし、私になら出来る。
――それはシアワセだ――
だから私は迷わないのだ。
だから私は、泣かないのだ。
なんて、そいつは泣きながらずっとその感情を無いものとしてきた。
ああ、それこそ嘘だ。ずっと頑張ってきたのはイリヤだって一緒だ。だったら、なんでそこで独りで泣いているのだろう。その隣には俺がいてやるべきじゃなかったのか。
そんな辛いなら、願ったっていいんだ。
願ったって、いいだろう。
ぼろぼろと泣きながら、その少女が最後に口にしたのは、
離別でもなく。
惜別でもなく。
懺悔でもなく。
呪詛でもなく。
ただの小さな願い。
“せめてヒトのようにこのシアワセをもっと感じていたかった”
イリヤが俺の為だけの味方になってくれるのと同じように。
衛宮士郎と言う切嗣の息子の俺だって、たった一人の本当の家族の味方にならないなんてわけがない。
「だから、ほら。気にするな、バカ。イリヤは家族だ。家に戻ってくるのが当たり前だろ」
俺は夢の中の幻影に手を差し伸べる。
残酷なまでに鮮やかで、それ以上に透明な赤い瞳。
雪の結晶を一つ一つ解いて編み上げたみたいな綺麗な銀髪。
同じくらい綺麗で、そのくせやんちゃそうな肌の色。
そして子犬のように無邪気な笑顔で。
「うん。気にしない。ただいま、お兄ちゃん」
と、イリヤが俺の胸の中に飛び込んできた。
衛宮士郎の朝は早い。
早いはずなのだが、今日は遅い。
理由は昨日遠坂にこってりとしぼられたからだ。
お叱り半分、訓練半分。後半は特に楽しんでいたのが目に見えて分かったけど、それはどうかと思う。
もうしっかりと太陽が昇っていて、空は明るい。
ああ、朝ごはんの準備できてないや、と起き上がろうとして、自分の体にかかる心地よいぐらいの重圧を感じた。
「?」
さらり、と言う効果音が似合いそうな銀糸が胸の上をすべる。
なんとなくそれを撫でると、「うぅん……」なんて言う声がして重みの原因が体に擦り寄ってくる。
「なんだ、これ」
と混乱を表現する。
「すぅーすぅー」
うん、いや。可愛いと思う。
まるで夢の続きみたいに幸せな笑顔のままイリヤが俺の布団の中にいる。
ここまではいい。
ここまでは、十分に問題はあるが、それでも最大の問題点に比べればきっと小さい。
上半身を起こすと、はらり、と布団が剥がれ、大体予想していた光景が目の前に広がる。
本当にもう表現するとしたら誰も歩かない雪原。
銀の糸が朝の光を反射してきらきらと光り、抜けるような白い肌はそれでも健康的に見える。
折れてしまいそうなくらい細くて、それでいて柔らかそうな手足。
まあ簡潔に言えば。
――裸なのはいかがなものか――
魔術師としてはイリヤがここにいることこそが最大の問題であり、裸であることなど瑣末なことなのだろう。
だが、魔術使いでしかない衛宮士郎という人間にとっては、それ以上に命の危険をはらんだ展開が今後待ち受ける。
「む〜、桜が遠坂さんの家に用事があっていないから今日は士郎の朝ご飯じゃないのかー?」
遠くから俺のもっとも危惧しているモノの気配がする。
桜はいい。
桜はワンテンポ置いて怒るから弁明の余地がある。
ライダーはいい。
ライダーはいろいろともの分かりがいい。
あかいあくまはいい。
あかいあくまはそこそこ冷静である確率が高い。
でも虎はダメだ。
虎は何の迷いも無く暴発する。
しかもこっちの話聞きやしない。
「おっはよー! 士郎飯作れー!」
しかも本日徹夜明け。
なんだろう、このいきなりなバッドエンドな展開は。
ごめん切嗣。俺こんなところで死ぬかもしれない。
ふすまを勢いよく明けた藤ねぇの視線が裸で俺に抱きつくイリヤに止まる。
きっと俺自身はしっかりと服を着てるんだぞー、なんてことはきっと飢えたタイガーには見えてない。
「……」
と、停止した虎。
「う〜ん……むにゃ?」
と、起動し始めた小悪魔。
「……あ、あ、ああ」
「……あれ? タイガ? どうしたの?」
「こっちの台詞だこの悪魔っ子ーーーーーっ!! そこに直れーーーーーーっ!! 士郎も直れーーーーーーーーーーっっっ!!!!」
ご近所迷惑を考えないのは教師失格だぞー、藤ねぇー。
と結構やけっぱちになっているのはなんだろう、いろいろと同時すぎて脳みそがパンクしてるからなんだろうなー。