霊脈の光がうねる中に、その身に神の四魂を収めた土蜘蛛は入った。
そして、中心に座する最後の断片に手を伸ばす。
震える金属にも似た強い高鳴りの後ろで、この期に及んでもまだ見苦しく、二人の男が走ってくるのは分かっている。だが、そんな瑣末事などは無視して、老人は最後の断片を手にした。
彼の手がその魂をかすめる。
枯れた指先が魂の端に接触した瞬間、彼は自らが望んでいた領域を見た。
地上から見上げるだけであったはずの重なり合って立ち上る雲、八雲の上に立っている。
そこからは全てを見下ろすことができた。あるゆる可能性が孕まれている世界は細分化されている。創生、分散、収束、加速、崩壊、終末。あらゆる場所と時で起こるそれらの現象、光と闇が織り成す世界の舞は究極的には彼の足元で行なわれているといえた。そして、それは手に触れることさえできる。垣間見た世界には絶望と希望が危うい均衡で敷かれていて、そのいずれの秤を傾けることさえできるだろう。彼は手を伸ばした。糸を垂れて人を操ろうとした。
だが、それは叶わなかった。上下左右から日の光が彼の身に注がれる、その荘厳な光は彼を戦慄させる。生物学的恐怖なのではない。もっと根幹的な痛みを伴う追憶にも似た。自己の変成への恐怖とでも言おうか。
彼は絶叫した。目を見開き、おののき叫びながら光から逃げた。そして、天から転がり落ちるように現世に還ってきてしまった。彼が崇めた神の最後の断片から手を引っ込めて……
自律的な敵の排除を行なっていた糸の動きに翳りが見えたのはその瞬間だった。老人が震える声を漏らしているのが微かに耳に入る。
遠野志貴は糸を断絶する。長時間にわたる魔眼の使用で、頭痛は極限にまで達していたが、それでももはや本能じみた彼の動作にはなんら影を落とさなかった。
九鬼篤志、主に歯向かった人形は老人だけを見て、彼に駆けていく。その行為はまるで消える前の炎のように、己がここにあるのだ、と主張しているように思えた。
篤志は駆けながら、腕を老人へと向けた。
雷光が奔り、だがそれは霊脈に弾かれてしまう。強い魔力の指向性を持った光の柱には生半可な攻撃は意味がない。その中に入るには霊脈が漏らす魔力を方向付けるのと同じものが必要である。だから彼は撃った。もはや枯渇していくだけの魂にわずかな残滓が残っている限りは。
そして、三度目の雷によってわずかな亀裂が光の柱に生まれた、だが瞬時にそれを修復していく霊脈。塞がっていくそのわずかな隙間を見逃さずに、彼は飛び込んだ。
老人は全身が震えるのを止めようとしていた。必死に、命がけで、先ほど見た日の光の主、高天原の女王を下すためにもう一度あそこに赴こうと思った。だが、ためらいは積み重なり恐怖へと還元されてしまい、体は最後の断片に触れることを全力で拒否している。なんとしてももう一度、彼は自らを鼓舞して、歩みを一歩進めた。それで終わりだった。彼は最終的な目的を前にしながらも、それを目の前で自らに造反した人形に奪われてしまった。
手にした魂は、荒れ狂う大きな子供のようだった。なんの遠慮もなく霊脈の力を九鬼篤志に吹き込み、そして体を破壊していく。だが、痛みはなかった。それよりも、唖然とした土蜘蛛の表情を見る。九鬼篤志はニヤリと笑った。心底愉快だと言うように。
瞬時に激昂した土蜘蛛は自らの人形に告げる。
「返せ、それはわしのモノじゃ!」
手を伸ばす。糸が伸びてくる。事も無げに焼き払った。力の余波は霊脈の閉鎖空間で所狭しと吹き荒れた。九鬼篤志は笑った。そして、宣告するように言った。
「いいや違うね、返すのはあんただよ、それはオレのだ!!」
爆風が霊脈の中で起きた。次の瞬間、両者の距離は無になる。土蜘蛛は初め我が身に起こったことが分からなかった。目の前には自分を裏切った人形が立っている。その直前、強い衝撃が前から身を叩いて、後ろに逃げるような妙な感覚。なぜだろうか、体のあらゆる部分が燃えているのに、肝心の芯、心臓はまるで氷のように……彼は自らの胸を見下ろした。
「え?」
それはまさしく疑問だったのだろう。彼の胸からまるで誰かの腕が生えたかのような、そんなものを見てしまっては……
「ばか……な」
だが、それは違う。胸から腕が生えたのではなく、胸が腕に貫かれたのだ。それを理解するまで後、十秒。
九鬼篤志は土蜘蛛の胸を貫いた腕の先に持った神の魂を、それを触媒にして生まれた自身では壊すことができないと理解していた。だから、腕の先は霊脈の外へと向いている。己が貫いた老人は小刻みに痙攣しながら、「わけが分からない」だの「どうしてこんな」だの呟いていたが、それはどうでもよかった。無視して、腕に力を込める。老人の肉が焼けていく臭いがした。
「雷之迦具槌(カヅチノカグヅチ)!!」
だが、かまわずにその神の業を叫ぶ。そうして、霊脈は穿たれて、光の壁は外に大きな穴を作る。
その穴の向こうには遠野志貴がいた。彼の姿を認めると九鬼篤志はさらに叫ぶ。
「遠野志貴、これを刺せ、そして殺せ、早く!!」
そして、手の平にある玉を掲げるように見せた。
遠野志貴は雷光が光の柱を貫いた瞬間、咄嗟に飛び下がっていた。そして、光の柱には大きな穴が開かれていて、そこには土蜘蛛と彼を貫いている九鬼篤志がいた。
男のただならぬ言葉に思わず体が動かない。しかし、開かれた穴が修復されて徐々に塞がっていくのが目に止まる、遠野志貴は地を蹴る。
そして、蒼白い輝きの世界、光が洩れるその中で、震える赫光を放つ真珠色の虚の崩壊を促す点を突いた。老人の絶叫が聞こえたが突如、吹き荒れた風にまぎれて消失した。薄紅色の世界が白と青に塗りつぶされる。土蜘蛛はその中に飲み込まれて黒い塵のようになって果てたのがなんとなく分かった。同時に霊脈を位置づけていた神の断片もまた力の渦を豪雨のように降らして音を消して、自らを消してしまった。
気を失っていたのはほんの数秒だろう。遠野志貴は自分の背中に地面があることを知覚して、上半身をむくりと起こした。
生ぬるい空気、薄紅の魔の凪はどこかへそれにかき消されたのだろうか。静かな冷たい夜の空気が辺りを包んでいる。目の前にあった光の柱も消えていた。ただ、男だけが遠野志貴の目の前に立っている。
男は蒼い闇の中で呆然と天を仰いでいる。そして、振り返りため息をついた。それは何に対するため息なのかは遠野志貴にはよく分からなかった。
「すまないが、一つ頼まれてくれないか? 遠野志貴」
そして、どこか諦め交じりの言葉を漏らす。志貴は少し間を置いて答えた。
「何?」
「この……紙に書かれた電話番号に電話を掛けてもらいたい、もし、万が一、相手、名前は若宮瑞樹という女性だ。彼女が出たなら私が『これからは連絡が取れなくなる、約束を破ってすまない』と言っていたと伝えてくれ」
その頼みの意味は初め、意味が分からなかった。だが、志貴が少し考えて「どういう意味なのか?」と疑問を口にしようとする前にはそれがどういうことか分かってしまった。
男はポケットから一枚の紙切れを取り出す。それを遠野志貴に渡そうと、手を伸ばした途端に腕が修復した時に淡い光とともに紙に戻り、ほつれていったのだ。
それを目を細めて諦めがついた受け入れるような視線を志貴に送ると、
「時間切れだ。主は死に、私を固定していた魂の残滓も零になった、どうやらお別れのようだな、ではすまないが頼む……」
男は一方的に言葉を放って、満足げに憑き物が落ちたかのように微笑んだ。
肉と紙で織り成されたその男、九鬼篤志はまるで糸のほつれたように崩れて、灰燼へと帰し、大気に霧散して、初めからなかった存在は無に還る。
静かな夜気を帯びた風が吹く。灰と塵は風にさらわれてどこかへ散ってしまう。もはや何も志貴の前には見えず、ただ残ったのは、一枚の紙切れ。それだけは散らずに残って志貴の足元へと寄ってきた。それが少し感慨深く、紙切れを手に取ると、握り締めて黙祷するように目を閉じた。
そして、それは結界を解除したシエルの声が背中にかかるまで続いた。
「終幕」
よく晴れた朝だった。風もなく、緩やかな日差しが朝の空気をほどよく乾かしていて、過ごしやすい一日の幕開けを生み出している。
「じゃ、行ってきます」
日常の中で、遠野志貴はいつもどおり屋敷を出て、学校へ向かう。
そこに虚構が混じる余地も無く、日常こそが真実である。
学校では、シエルといつものように会話して、学校が終われば、アルクェイドのマンションに行って、いつものように食事を作った。
少し遅くなった帰り道。青白い影絵の道を通って屋敷に帰れば、翡翠が何事も無かったかのように出迎えてくれて、琥珀がにこやかな笑みを浮かべて食事の用意をしてくれているだろう。秋葉がいつものように、帰りが遅いことに小言を挟むかもしれない。
少し、笑った。これが自分の安らかな真実なのだと安堵するように。
そこで、ふと足を止める。
何を思ったわけでもない。ただ心にこごったものがある。
しばらく立ち尽くした後で、ふうっと息を吐いて、ポケットの中から虚構によって作られた今は無き男からの頼まれごとを取り出す。
ある女性への電話番号が書かれた一枚の紙だった。繋がるかどうかもよく分からないらしい電話。しかしそれが馬鹿馬鹿しいとは思わなかった。
「ええっと……」
ぐるりと辺りを見渡して、都合よく公衆電話を見つけた。駆け寄って、悲しくなるぐらいに軽い財布の中から十円玉二枚を取り出して入れる。
もし、相手が出たら……
虚構の男は言った。その彼の諦め交じりの言葉は果たして虚構だったのだろうか。
糸の切れた人形は切れた糸を引きずりながらも自分で歩いていた。それは真実を持っているのと同義ではないだろうか。
だからそれは決してまがい物ではなく、無駄ではなく。
そして、彼から頼まれた事もまた真実なのだ。
そう思い、志貴は、紙に書かれた電話番号を押して、デジタルのコール音が虚構の男の信じた唯一の真実に届くようにと、柄にも無く神に祈った。
・・・後書き・・・
まずはここまで付き合ってくださった方々に感謝、
初投稿にして連載、しかもオリキャラメインSSという、
まあ、ぶっちゃけ殴られても怒られても仕方がない物語に最後までお付き合いくださって非常に嬉しいです。
3〜10まで全然後書きがなかったので、ちょっと長めに語りたいんで、まあ、反省会ということでご理解ください。
さてさて、まあ、基本的な話、筋書きは基本的にメルティブラッドへのオマージュです
導入部→月姫既存キャラそれぞれと会う→志貴とキャラの話へ移行→キャラ謎判明→終局という形の長くも無く短くも無く、100〜130枚ぐらいの中篇でした。
まあ、練りこみが足らなかったなあと思う点もあったのですが、オリキャラの周辺と心象についてグダグダやってもしゃあないしつまんないだろうから、それだったら小出しに使っていこうと試したんですが
見事に失敗しました(苦笑
「虚構と真実の間の存在」とか「そういうものの認識」とか長編向きのテーマを選んだのが失敗だったなあとか、やっぱオリキャラSSはやるもんじゃねーわとか
色々思うところはあるのですが、まあ、好き勝手やらせていただいたのでそのへんのリスク(批判とかお叱りとか)は甘んじて受けたいと思います。
そういうことで、もし何か思うところがある方がいらっしゃるのでしたら、掲示板かメールでお話できればと思います(いるのかな?)
それでは失礼します。最後にここまで読んでくれた方、本当にありがとうございました。