聞いた話では、人間にとって最大の苦痛とは『退屈』であると云う。
何でも、痛みや悲しみに慣れる事はあっても退屈に慣れる様には人間は出来ていないとか。
人ならざる身の自分までもが、その公式の内に在るとは今まで思ってみなかったけど。
「…………うん」
わたしの出自がなんであれ。限られた時を無為に過ごす事は、避けるべきだと思えるのだ。
あれから一月。主の居ないこの場所で、主と離れ過ごした時間こそがわたしを人へと近づけたのか。
―――廊下を進む。広く長い、通る者など殆ど居ない、その廊下。
塵芥の一つも無く、丹念に手入れされたそれは、確かにわたしよりは有意義な時間が使われた証なのだろうけど。
それでも。結局は、無為であるには違いない。
扉を拳で三回叩く。
きっともう、ここの主は帰って来ないのだから。
それならば。
「わたし達が向こうに行こう」
「……いきなり何を言い出すの、リーズリット」
部屋の中、ソファーにもたれて呆れた様に。
わたしの友人。セラは、眉を顰めて呟いた。
『りずせら』
「そんな事は出来ません。主の帰りを待つのが私たちの務めです」
「帰って来ない事が分かっているのに待つのは、怠慢と変わらないと思う」
この万事につけて頑なで生真面目な友人が、二つ返事で応と言うなどとは初めから思っていない。
「何故帰ってこないと決め付けるのです」
「帰って来ると決め付けるのもおかしい」
それに、わたし独りで出て行こうなどとも初めから思っていない。
「それに私たちは人間じゃない。軽々しく人の街に降りて行って、もし何かあったら」
「……イリヤにせがまれて、ケーキ買わせに行かせた癖に」
それでは、この城にセラ一人を残す事になる。
「人は怖い生き物です。そうでない私たちは、きっと阻害される」
「尚更。そんな所に、イリヤを独りにしておけない」
イリヤと同じ。たった三人の家族を、これ以上散りぢりにしたくは無いから。
―――長くも無い問答が途切れる。吐息する顔に力が無いのは、きっとセラも自信が無いからだろう。
イリヤが。この館の主が、ここへと帰って来るのかどうか。
わたしもセラも、『生ける聖杯』として作られたイリヤの失敗作。彼女の姉、世話役と言えば聞こえは良いが、実の所はそれが態の良い廃品活用に過ぎないという事は、わたしたち自身思い知っている。
アインツベルンの本家も、バーサーカー・ヘラクレスが敗れたと報告してからは一度たりとも連絡を寄越さない。『完成品』であるイリヤにしてからそうなのだ。ましてやわたしたちなど、遠い異国で朽ち果てよと言う事なのだろう。
本音を言えば、わたしは嬉しかったのだけど。聖杯戦争に敗れはしたものの、イリヤは生き残った。彼女に苦痛と勝利を強いる、本家の声も最早無い。
この深い森、誰も訪れない静かな城の中で。ゆっくり仲良く朽ち果てていくのも、それはそれで悪くは無いと。
―――そう。思っていたのだけど。
「……イリヤスフィール様は」
俯いたまま、暗い声で。
「帰る家を、見つけられたのでしょうか」
―――ここでは無い、私達では無い、帰る場所と、家族を。
「そういうとこ、セラの悪いとこだと思う」
陰々と呟くセラを、両断する。
「自分から穴に落ちないで。引っ張り出すのが面倒」
わたしよりも稼働時間、接する時間が長かった所為か、セラはイリヤに依存する割合が大きい。
多分殊更に動こうとしないのも、イリヤに会って拒絶される事を人一倍恐れているから、なのだろう。
だからと言って、この場所に固執するのもどうかと思う。
ただでさえ最近、城中が綺麗過ぎて落ち着かない。時間を持て余すのは分かるけれど、最近は偏執狂染みている。
床中を埋め尽くす埃一つ落ちていない毛長の絨毯、というのはそうなる過程を想像するに寒気がすると思うのだ。特に夜とか。
「……リーズリット。では貴女は、ここを出て行くというのですか」
わたしの言葉に突っ伏していたセラが、顔を上げる。
「わたし達が。セラも行くの」
訂正する。こんな所に、イリヤもわたしも居ない所に一人で残してなど行けない。
わたしがそう思っているのを承知の上でこういう事を言うのが、セラの甘えだと知っている。
結局の所、セラもイリヤの姉妹なのだ。素直じゃない癖、流され易い。
「―――でも。いきなり、人間の街へなんか」
渋る本音は、単なる不安の発露。
だから、わたしのやるべき事は。
「大丈夫。まずはこれで様子を見てみるから」
その方向に向けて、少しだけ水を流す事。
失敗作とは言え、わたし達は聖杯を模して作られたホムンクルス。この身体に流れる魔力回路は並みの魔術師を遥かに凌ぎ、生まれながらに幾つかの魔術を操る事すら出来る。
その内の一つが、遠見の魔術と云われる物。自分の意識を他の物質に擬似的に移し、それが見る映像を視覚へと運ぶ。
イリヤなら、触媒も無しに他人の意識を『飛ばす』事すら出来るけど。
「はい、セラ」
それを懐から出し、セラへと手渡す。わたしたちでは無から行使する事は出来ない。何かの役に立てばと、アインツベルンの本家から持ってきた、それ。
「……金?」
一握り程度の、節々が欠けた棒状の純金。これを触媒として、冬木の街を見届ける。
「元の破片を烏とか猫に括り付けておいた。多分、イリヤの居る街の中なら、殆ど見れると思う」
イリヤの役に立てばと思って拵えた仕掛けを、当のイリヤの監視の為に使う羽目になるとは思っても見なかったけど。
セラは、訝しげにそれを見やっている。光に透かす様にそれを摘み見て、
「何処から持って来たんです。こんな物」
「本家。倉庫に転がってたから、少し削って持って来た」
「転がってた?純金が、ですか」
「うん。沢山」
もう一度。顔を近付け、凝視する。ゆっくりと触れ、擦り、撫で。
「……本物ですね」
だからそう言ってるのに。
「なんでこんな物が、倉庫なんかに有ったんでしょう」
「邪魔だったんじゃない。あの人、大きかったから」
ぴたり、とセラの指が停まる。「……人?」
「うん。わたしがイリヤのお付になってからすぐの頃、本家に泥棒が入ったでしょう」
勿論成功する事は無かったのだけど。それでももの知らずな盗賊如きに侵入を許したのは、本家にとっては恥だったらしい。
その御蔭で倉庫に打ち捨てられた、その黄金の人形を利用する事が出来たのだけれど。
「この間まであのドレスは手元にあったけど。流石に現地調達する訳にもいかないし」
聖杯戦争の半ば、本家へと送り返したアインツベルン秘奥の魔術兵装、『天のドレス』。それは触れた人間を金へと変える、一種呪い染みた代物でもある。
迂闊な盗賊に対しては、それ自体が罠となる。
「……なんて物を持って来るんですか貴女は!」
額が痛い。無言で屈み、投げつけられたそれを拾う。
棒状の純金。かつての盗賊の成れの果て、その十指の内の一本。
「……これは魔術で練成された純金。触媒としては最高」
「だからって―――」
「セラ。イリヤの為」
まほうの呪文を唱える。
「……分かりました」
渋々、恐々と。その一端を摘み持つ。わたしも同じ様に、反対側の端を握り締めた。
「多分、イリヤはアーチャーかセイバーのマスターの所に居ると思う」
一月の以前、聖杯戦争の最中。この森の中、このマスター達は協力してバーサーカーを破り、イリヤを保護した。その後にランサーのマスターや、前回からの残留サーヴァント等が絡んできたせいで正確な位置は見失ってしまったけれど。
「イリヤの思念は乱れていないし、冬木の街から強い魔力を感じる」
魔術師としてはともかく、内外共に幼い―――わたし達も、中身に関しては人の事を言えないが―――イリヤが、館にも帰らず単独で生活しているとは考え難い。
敵対していたマスターを、殺さず連れ帰る様なマスター達だ。恐らく聖杯を壊した後も、何れかがイリヤを保護していると見て間違いは無いだろう。
「その辺りから調べてみる」
良い?と視線で問い掛ける。
「……ええ。貴女に任せます」
どこか不安げな答えが返る。
―――そう言えば。
セラって、この国に来たとき以来。外に出た事が無かったのでは。
金の欠片を、握る指先。上から強く握り締める。
「っ―――リーゼッ」
「離れないで」
同調させる意識。それが乱れると、視覚の方がこちらに戻ってきてしまう。
そもそもセラを納得させる為の偵察なのだから。わたしだけがイリヤを見つけても、意味が無い。
そう思ったのだけど。
「セラ。顔が赤い」
「……余計なお世話です。リーゼリット」
―――瞳を閉じて。
館の外、森の外。
空へ大地へ、意識を放つ―――
「……見えませんよ」
「見えないね」
遠見に距離は関係無い。馴染みの深い場所や触媒、魔術道具が有れば殆ど瞬時にその場を観れる。
聖杯戦争に際して、それぞれのマスターの住処くらいは調べてある。問題はその近辺に鳥や猫達が居ない事だったが、これも簡単な魔術操作で操れた。
「何か手は無いのですか?これでは遊覧飛行と変わらない」
苛立だし気に呟くセラ―――その、意識――――に、
「……烏だから、鳥目。仕方無い」
適当な答えを返し、あしらっておく。
あの森の奥、あの城の内に居ると時間の感覚がぼやけてくる。外に出てから始めて気付いたのだけど。
眼下を流れていく黒い海。灯る光は、空の恒星を思わせる。
夜の帳が降りた街。
「くだらない事を言わないで下さい。何か手は無いのですか?」
「……セラって結構、我儘」
宿主のみならず、わたし達にも闇を見通す力は無い。―――上空から大体の当たりを付けて、何とか観察対象の近くに移動して。
「イリヤが部屋の中に居れば、電気が点いてるかも知れない。そうで無くても、声だけなら聞こえる」
偶然に頼るというのは、無様な事ではあったけど。
仕方無い。わたし達はただの召使で、斥候では無いのだから。
「それでは単なる覗きでは無いですか。イリヤスフィール様と話せない」
「自覚して」
速度を落とし、烏を降ろす。薄く広がる町並みは、なだらかに起伏する石くれの様にも見えた。
「―――あ」
見覚えの有る建物が、視界に映る。この国古来の木造物よりは馴染みの深い、薄紅色の大きな洋館。
トオサカの末裔の住む館。かつてアーチャーのマスターであった、あの少女が暮らす場所。
「……行き過ぎた」
わたし達の住む城からは、この館よりもセイバーのマスターの住居の方が近い筈だった。
それが然程目を惹く住居では無い事、加えて夜の闇のせいで見逃してしまったのだろう。
「……まあ良い。順番が変わるだけ」
どの道、セイバーのマスターの所でイリヤが見つからなければここに来る予定だった。帰りを考えれば、先にこちらを調べておくのも悪くない。
「リーズリット、あそこの部屋です」
セラの言葉に、『眼』を向ける。黒く闇に染まる窓々の中、ぽつんと輝く明かりが漏れる白い窓。
ここからでは中の様子は窺えないが、どうあれ調べる価値は有る。
「セラ。近付く」
「分かっています」
『声』を殺して。滑る様に、その光へと近付く。
―――程無くして。
「……居ませんね」
「居ないね」
見渡した部屋。その内には、人の姿は見当たらなかった。
それなりに広い部屋である。やや乱雑に片付けられた、机と寝台が置かれた個室。その部屋からはこの場所が、今も確かに使われていると主張するかの様に電灯が瞬いている。
寝台の上には布団と、枕と。何やら大きな人形の様な物が見える。丁度人間の子供位の大きさの、ディフォルメされた人型の綿塊。僅かに汚れ、輪郭が歪んだ様から見るに抱き枕の類だろうか。
「もう行きましょう、リーズリット。イリヤスフィール様は見当たりませんし」
「セラ、せっかち。もう一寸待って」
ゆっくり、小さく旋回しながら窓の向こうの風景を見る。あの人形がイリヤの遊び道具という可能性も有る。
既に明かりが灯されているのだ。セイバーのマスターを当たるのは、この部屋に戻ってくる人間を確認してからでも遅くは無いだろう。
赤い頭の人形と、見つめ合いながらそれを待つ。
―――予想通り。大して待たぬ間に、扉が開いて。
「遠坂凛。ここの主ですね」
見覚えのある姿。二つに分けられた長い髪と、蒼い双眸の魔術師の姿がそこに在った。
少女は何が楽しいのか、口元を綻ばせて部屋へと入る。
纏っていた赤い外套を脱ぎ捨て、大きく息を吐き。
「―――ただいま。士郎」
おもむろに寝台の上。鎮座ました縫いぐるみを強く抱き締め、呟いた。
―――どうやら、あれはアーチャーのマスターの私物だったらしい。
「ここじゃ無いみたい。行こう、セラ」
「だから、そう言ったじゃないですか」
愚痴りながらも。翼をはためかせその場を後に、
「!、誰っ!?」
背後で、硝子の割れる音。慌てて振り向くその前に。
―――チャンネルを切った様に。
背中を掠める衝撃の後。『ワタシ』は、意識を闇へと落とした。
「……油断した」
痛む頭を、擦りつつ。
「大丈夫?セラ」
床に伸び、悶絶の唸りを上げるセラに問う。
わたしよりも感覚が鋭い事が災いしたのか、セラにとっては先刻の衝撃は頭痛程度では済まなかったらしい。
魔術師の使う呪い、ガンドの事は知ってはいたけど。
即興の『弾』が掠った程度で、ここまでダメージを受けるとは思ってなかった。伊達にサーヴァントを従えてはいなかった、という事なのだろう。
「……し、心配要りません……」
それでも何とか立ち上がる。崩れかかる細い身体を、抱き留め支え。
「セラ。無理はしないで。明日また試してみよう」
どう考えても、調査をするなら夜よりも昼の方が向いている。別に、一刻を要する事態という訳でも無いのだし。
「今日は休んで。今、何か飲む物持って来る」
ソファーへとその身を横たわらせて、扉に向かう。
「……リーズリット」
途端、強く握り締められた裾に足を取られ、歩みを止めた。
「セラ?」
「大丈夫です。……それよりも、イリヤスフィール様を」
眉を顰めて。
反論しかけて、諦める。―――駄目だ。
一度思い込むと、セラは始末に負えない。きっと今、頭の中は『酷い目に遭っているイリヤ』の姿で一杯なのだろう。
……それは。本家に居る間。幾度と無く、わたしよりも多く。長い時間、そんな彼女を見続けてきた、そのせいなのだろうけど。
―――全く。
「……具合が悪いと思ったら、すぐに止める」
大きく吐息。
我ながららしくない。こんな人間らしい動作。
「だからセラも。無理そうだと思ったら、すぐに言って」
それでも仕方無い。こんな、度し難い行為。
そんな不器用な愛情表現しか選べない彼女の事が、わたしは好きなのだから。
暫しの間。
その後に。わたしの言葉に、小さく一つ頷いて。
「……はい。有難う、リーズリット」
本当に珍しい表情。
口の端を小さく吊り上げるだけの、微かな笑みで彼女は応えた。
「ところで、セラ。早く手を離して欲しい」
スカートがずり落ちる。
(続きます)