目の前には、雲一つない青空が広がっている。
ここは本来人間がいるべき地上より遙か上空。
本来見上げるはずの雲を下に見る飛行機の機内に俺、衛宮士郎はいるのだから。
そんな日本へと向かう飛行機の中、共にロンドンを離れた二人は、アイマスクなどをつけながらすやすやと寝息を立てている。
二人の毛布を掛け直してやり、数十時間前に交わされた会話を俺は思い出していた。
月の浮かびし聖なる杯 第1話 〜帰郷〜
「士郎、セイバー、日本に帰ることになったから、急いで荷物をまとめて。」
我が魔術の師匠にして恋人でもある遠坂凛は、帰ってくるなり俺とセイバーに一方的にそう告げてきた。
時刻は午後七時より少し前。
交代制の食事当番の順番が今日は俺だったので、一年前に時計塔の寮から越してきた家のキッチンで、シチューを煮込んでいた。
そんな時に言われたこの言葉を、俺は一瞬、理解できなかった。
ほら、手伝ってくれていたセイバーも隣で目を丸くしているし。
だってのにそんな俺達にはかまわず、遠坂本人は冷蔵庫を開けてジュースを取り出したりしている。
まあもっとも遠坂が突然なのは今に始まったことではない。
ふと思い出すのはこの家に引っ越した一年前のこと。
ロンドンにきて以来、寮生活を送っていた俺達に遠坂はある日
「近くに家借りたから引っ越すわよ」
なんて、本当に突然言ってきた。
しかし、万年金欠病が職業病ともいえる宝石魔術師である遠坂。
俺とセイバーは、そんな余裕は家にはありません!と反対したのだが──
「弟子と使い魔は黙って着いてくればいいの!」
などという傍若無人極まりない御言葉と共に
「寮よりも家を借りたほうが、身を守るのに好都合よ。こっちに来てから二年、私達も少し有名になってきちゃったしね。」
との言葉に真面目なセイバーが納得してしまい、孤立無援となってしまった俺に対しては
「だってその……寮を出れば、もっと恋人らしい生活ができるじゃない……。」
なんてことを顔を真っ赤にしながら言ってきたのだ。
その一言に撃沈されてしまった俺が、実は遠坂がその少し前に同級生のルヴィアと「寮における魔術工房と私生活の機密性」について会話
……というか激闘を交わしていたことを知ったのは、引越しから一月以上たってからのことだったりする。
まぁこのように、遠坂が突然何かを。
それも生活を変えるほどの大きな何かを言い出すのは、よくあるとまでは言わないが、そんなに驚くことでもないだろう。
「なぜ急に日本へ帰るのですか?リン。」
俺が口を開く前に、セイバーがもっともな疑問を口にした。
ジュースを一息で飲み干した遠坂はコップを置き、
「ちょっと協会……時計塔からやっかいごとを頼まれちゃってね。どうしても断りきれなくて、すぐに日本に……冬木市に帰らなくちゃいけなくなったのよ。」
と言って二杯目をコップに注ぎ始めた。
冬木に?そういえばここのところ忙しくて、最後に帰ったのは確か去年の春だったか。
「それで?遠坂。頼まれた仕事ってなんなのさ。」
そう聞いた俺に、
「んーー、近く冬木市でまた聖杯戦争が起こるから、ちゃちゃっとなんとかしてこいって。
まぁそんなトコ。」
なんてことをあまりにもあっさり言うもんだから、その言葉を理解するのには、引越しを告げられたときより、幾分永い時間を要した────
そんなこんなで聖杯戦争の期日まであと四日しかないと聞いた俺達は(土壇場まで、いまだ生徒である俺達を派遣することに反対していた人物達がいたらしい)、
大急ぎで必要最小限の荷物をまとめ、パスポートを引っ張り出して
───ちなみに、セイバーのパスポートは日本を初めて発つときに、遠坂が準備していた。どうやら知り合いに偽造してもらったらしい───
次の朝、つまり今朝この飛行機に乗り込んだ。
いくら協会がチケットを用意していたとはいえ、よく間に合ったもんだ。
………そもそも、次の日の飛行機のチケットを、前日に渡すことの非常識さはこの際忘れることにする。
おそらく俺がロンドンで学んだことは、魔術そのものよりもそれを使う魔術師という人種が、いかに非常識であるかということなのだから。
そして日本まであと二時間というところで、眠っていたセイバーが目を覚ました。
何度か日本とロンドンを往復した俺達だが、基本的にセイバーは飛行機の中では眠っていることが多い。
その理由は、かつての聖杯戦争の時のように魔力消費を抑えるため───などでは無論なく、どうやらおいしい食事をすることに心血を注いでいるセイバーにとって、エコノミーの機内食は相当お気に召さないようで、不貞寝を決め込んでいるらしい。
「おはようございます、リン、シロウ」
セイバーは俺と、セイバーより幾分早く起きていた遠坂に律儀に挨拶をした後、クゥとお腹をならし、真っ赤になった。
空港に着いたら、すぐにレストランにでも入らないとな。
だが今は、先に遠坂に聞くことがある。
「遠坂、セイバーも起きたことだし、今度の聖杯戦争について詳しく教えてくれないか。
出掛けは慌ただしくて、あんまり話聞けなかったし。」
そう切り出すと、遠坂は真面目な、魔術師としての表情を見せ
「ええ。でもなるべく静かにね。他の乗客に聞かせるわけにはいかないから。」
どこまで話したかしら、という遠坂の言葉に、今度はセイバーが答えた。
「前回とはシステムが異なるという所までです。
リン、それはいったいどういうことなのです?そもそも聖杯戦争のシステムを変えるなど、そう簡単にできるとは思えません。」
そう、そしてもう一つ疑問がある。
「それと遠坂、いくらなんでも前回から四年は早すぎじゃないか?確かサーヴァントを召喚するには、魔力が満ちるのを待つ必要があるって話じゃなかったっけ?
……実際、前回も十年かかったんだろ?」
そう質問した俺達に対し遠坂は
「ええ。その問題を解決するために、システムの設計者であるアインツベルンがサーヴァントシステムの変更を行ったって話よ。
それにね、セイバー。システムの変更といってもそんなに大きな事じゃないの。
協会から回された資料によると、変更点は一つだけ。」
そう言って、遠坂は機内サービスの紅茶を口にした。
「リン、お茶など後にしてください。それでその変更点とは?」
そんな遠坂に業を煮やしたのか、セイバーの言葉は幾分強いものだった。
「落ち着いて、セイバー。まだ到着までは時間あるんだから。
……つまりね、サーヴァントを召喚するにはまだ冬木の土地には十分な魔力は満ちていない。
だから、今ある魔力で召還できるものを召還して戦えってことらしいわ。
前回のように、無制限にあらゆる英霊を召喚するのではなく、召喚する英霊を『日本の英霊』のみに限定することによって、ね。
システムの変更っていうのも、ただ日本出身の英霊以外を召喚できなくしただけ。」
なるほど、つまりは聖杯戦争の戦場を日本全部に見立てて、その場に縁のある英霊のみに限定することによって、召喚に必要な魔力を節約しようってわけか。
「でもね。だからこそ、今回は相手の真名がわかりにくくなったともいえるわ。」
「?なんでさ?召喚される英霊の幅が狭くなったんだから、わかりやすくなったんじゃないのか?」
そんな俺の疑問に、遠坂はため息をついた。
「ええ、これがヨーロッパの国のどこかだったらね。
でもね。日本にはあっちと違って『死して後も信仰の対象となった』英霊は数少ないわ。
そうなれば自然と召喚されるサーヴァントは、生前何らかの奇跡を起こしたか、世界に奇跡を願った代償に守護者になることを契約した英霊が増えてくる。………前回のアーチャーみたいにね。」
「アーチャー」と言うときにわずかに表情を変え、遠坂は答えた。
────アーチャー。前回の聖杯戦争で遠坂のサーヴァントであった英霊────。
そして同時に、その正体は正義の味方になることを貫き通した未来の「衛宮士郎」でもあった。
確かにアイツの正体が俺の未来の姿だったなんてのは、本人に言われない限り気付くことはなかっただろう。
もう質問はないと思ったらしく、遠坂は「ごめん、もうちょっとだけ寝かせて」と言って、また目を閉じてしまった。
「今日は早くに起きましたからね。朝の弱いリンには辛かったのでしょう。」
「まあ日本に着くまであと一時間くらいだけどな。なんだったらセイバーも着くまで寝てていいぞ。起きてると、お腹すくだろ?」
俺はあくまで善意で言ったのだが、セイバーはガーーと怒り
「シロウ!!私が眠っていたのは戦場に着く前に英気を養っていたのであって、決してお腹が空くからではありません!!」
と怒鳴ってきた。
ごめんセイバー、わかったからもう少し声を落としてくれ。
スチュワーデスのお姉さんが、何事かと思ってこっちに向かって来てるし。
スチュワーデスさんに「ノープロブレム」と言ってお引取り願ったセイバーは、じろりとこちらを睨みながら言った。
「そういうシロウは大丈夫なのですか?昨夜もあまり寝てないようですし、ロンドンから今までずっと寝てないのでしょう?」
怒っていても、こちらへの気遣いは忘れていないらしい。
「ああ。でも心配はいらないよ。どうもいろいろ考えちゃってね。
────セイバー、遠坂の話だと、アインツベルン家の参加はまちがいないらしい。
前回、俺はイリヤを助けてやれなかった。今回の聖杯もアインツベルンの参加者の心臓である可能性が高いって話しだし、
俺は今度こそそんな馬鹿なことは止めさせたい。」
イリヤ。前回の聖杯戦争で心臓を取り出され、死んでしまった白い少女。
あの少女が衛宮切嗣の、オヤジの娘だと知ったのは、戦争が終わってからすぐのことだ。
アインツベルンの今回の参加者について詳しいことは知らないが、二度とあんなことにはさせたくない。
「それだけじゃない。
町の人達はもちろん、できれば他のマスターにも死者は出したくない。
だからセイバーには、また大変な思いをさせてしまうと思うけど────」
最後まで告げられず、
「わかっています、シロウ。よもや忘れたわけではないでしょう?
私はあなたの剣となることを約束した。あなたの信じる戦いが、私の戦いです。
────この四年であなたは強くなった。
それにリンも私もいます。気を抜かないことは大切ですが、張り詰めすぎるのもいけません。」
微笑みと共に言い聞かせるようなセイバーの言葉で止められた。
その言葉を聞いて、思う。
セイバーは強くなったといってくれたが、俺はまだまだ魔術使いとしても正義の味方としても半人前で、目標としているあの赤い背中はまだ遠い。
────けれど俺は一人じゃない。遠坂とセイバー、そして俺の三人でならきっと正義の味方になり、そう在り続けることができると────。
「ありがとな、セイバー。よろしく頼む。」
飛行機はもうすぐ、日本に着こうとしていた。